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2009年5月26日(火)

このページでは本覚寺(ほんがくじ)から小町大路を北上。
筋違〔替〕橋(すじかえばし)碑までの沿道にある史跡を見学します
現在15:15。16:00までに鎌倉国宝館に入りたいので、少し急いで回らなければならなくなりました

まずは、本覚寺(ほんがくじ)の門前、夷堂橋(えびすどうばし)の袂です。
いわずと知れた「鎌倉十橋(じっきょう)」のひとつ。
本日訪れた全コースはここも含めて、そのうち4つ※も見ることができました。
※逆川橋(さかさがわばし)・乱橋(みだればし)・夷堂橋・筋違橋(すじかえばし)。

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夷堂橋(えびすどうばし)
昭和七年(1932)三月建 鎌倉町青年団
〔碑文〕
鎌倉十橋の一にして 此辺は 往昔夷堂ありしといふ 
此川 は上流にて胡桃(くるみ)川といひ 浄明寺門前に至り滑 (なめり)川の名あり 文覚(もんがく)屋敷と伝へらるる辺 は坐禅(ざぜん)川と唱へ 
此辺は夷堂川と呼び 延命寺の 傍よりすみうり川と名つけ 
閻魔(えんま)堂址の辺にては 閻魔堂川といふ
〔説明〕
この橋は鎌倉十橋のひとつです。ここには昔夷堂があった といいます。
この川は現在は 滑(なめり)流といいますが、 昔は場所によって多くの呼び名がありました。
上流では胡桃(くるみ)川といい、浄明寺門前では滑川といい、文覚(もんがく)屋敷跡の辺りでは 坐禅(ざぜん)川といい、この辺りでは夷堂川と呼び、
延命寺の辺りはすみうり川とい い、閻魔(えんま)堂跡の辺は 閻魔堂川といいました。
〔位置〕
小町1-12-12の本覚寺山門前と夷堂橋(えびすどうばし)の間 に建つ

鎌倉シチズンネット「鎌倉史跡碑辞典」より引用
http://www.kcn-net.org/sisekihi/ebisu.htm

この辺りから地番が「小町(こまち)」になるのですね

 ▼「東身延(みのぶ)」の文字。
 山梨県南巨摩(こま)郡にある、日蓮宗総本山・身延山久遠寺(みのぶさんくおんじ)から、
 二代目住持だった日朝(にっちょう)が、日蓮の遺骨を本覚寺に分骨したことによります。

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 ▼(写真左)本堂と八角形の夷〔尊〕堂(えびす〔そん〕どう)(写真中・右)。

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公式P106 本覚寺(ほんがくじ)
日蓮宗。山号は妙厳山(みょうごうざん)。
鎌倉江ノ島七福神のひとつで、縁結びや商売繁盛の神様「夷様(えびすさま)」を祀ります。
1436(永享8)年、日出(にっしゅつ)によって創建。
もともとは天台宗系の夷堂がありましたが、日出は日蓮宗に改め、本覚寺としました。
二代目住持・日朝(にっちょう)は、のちに身延山久遠寺(みのぶさんくおんじ)の住持になった折に、
本山に参拝できない人びとのために、日蓮の遺骨を本覚寺に分骨、同寺が「東身延」と呼ばれるゆえんになりました。
寺には将軍・徳川吉宗の孫「寛政の改革」を実施した松平定信筆の「東身延」の額も伝わっています。
目の病気を治してくれる「日朝さま」の愛称で親しまれています。

本覚寺のおもな祭りと行事

公式P170とP178 1月1日〜3日 初えびす
えびす神の年初の祭り。えびす神は源頼朝により幕府の守り神として祀られたといわれます。
現在では商売の神様といわれ、年初の初えびすはとくに参拝者が多いです。
福娘から福銭福笹御神酒の振舞いがあります。

公式P170とP178 1月10日 本えびす
烏帽子をつけた福娘が福餅をついて、福銭、御神酒なども振舞い。

公式P185 10月第1日曜 人形供養
古くなった人形や玩具などを集めて供養し、焚き上げます。 

第1-3(84)
鎌倉でえびす神の年初の祭を催し、商売繁盛を祈願する福笹の授与が行われる(夷堂のある)寺はどこか。
答え. 1.本覚寺

公式P75 サクラ(4月上旬)
関東でシダレザクラといえば身延山(みのぶさん)のシダレザクラを思い浮かべる人も多いですが、
東身延山と呼ばれる本覚寺にも見事なシダレザクラがあり、本堂脇には大きなサトザクラもあり、
4月下旬まで楽しめます。

最後に…見学はしなかったのですが
「正宗工芸」で知られる鎌倉時代末期の刀工、五郎入道正宗供養塔があります。

本覚寺(ほんがくじ)の拝観は…
:鎌倉市小町1-12-12 :JR鎌倉駅東口から徒歩約6分。
:0467-22-0490
:拝観自由
:無料



                     

本覚寺から小町大路を北上して行きます
次は大巧寺(だいぎょうじ)です。寺号よりも「おんめさま」という愛称で有名。

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 ▼裏参堂が若宮大路に通じていて、わたしは何度となく前を通っているこちらの門の方が馴染み深いな。
 右の石柱に見えるように、特に安産祈願で有名なお寺だそうです。
 (写真右)同じ石柱の側面に「源頼朝軍…」の文字が見えます。

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というわけで、裏参道から本堂に歩いてみます

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 ▼裏参道と境内には四季折々のお花が咲いていて心和みます

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 ▼(写真左)ピンボケしてますが、こちらが本堂
 (写真右)「おんめさま」の文字が。

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公式P105 大巧寺(だいぎょうじ)
日蓮宗系単立。山号は長慶山(ちょうけいざん)。開山は日澄(にっちょう)>
「おんめさま」の名で親しまれ、安産祈願で有名な寺。
1532(天文元)第五世の日棟(にっとう)が、難産で死んだ秋山勘解由(かげゆ)の妻の霊魂を鎮めるため、
産女(うぶめ)霊神として奉ったことによります。
もともとは十二所(じゅうにそ)※にあって、大行寺という真言系の寺院でしたが、
源頼朝がこの寺で軍議のあと、[平家に]大勝※※を収めたことにちなみ、大巧寺と改名したと伝えられます。
若宮大路沿いに「頼朝戦評定所(いくさひょうじょうしょ)」の石碑があるのはこのためです。
また時の住持が妙本寺にいた日蓮に帰依したため、日蓮宗に改宗したともいいます。
檀家を持たず、安産祈願の寺として存在する、全国でも珍しい寺です。
※十二所の梶原景時屋敷内にあった。
※※富士川の合戦前の軍議ともいわれますが、定かではないです。

第1-3(46)
檀家を持たず、安産祈願で有名な「おんめさま」の名で親しまれている寺はどこか。
答え. 3.大巧寺

大巧寺(だいぎょうじ)〔おんめさま〕の拝観は…
:鎌倉市小町1-9-28 :JR鎌倉駅東口から徒歩約3分。駅から一番近いお寺
:0467-22-0639
:9:00〜17:00
:無料


                     

大巧寺からさらに小町大路を北上し、右手にあるのが蛭子神社(ひるこじんじゃ)です。

s-15:36蛭子神社s-P5260256






公式P115 蛭子神社(ひるこじんじゃ)
小町の鎮守。祭神は大己貴命(おおなむのちのみこと)。
かつては現在の夷堂橋付近に夷三郎社という神社がありましたが、
永享年間(1429〜1441年)の本覚寺創建の際に境内に移され夷堂になりました。
明治の神仏分離令で現在地に移り、同地の七面大明神、宝戒寺境内の山王大権現とともに合祀され、
蛭子神社と改称されました。
1873(明治6)年、小町の鎮守として村社に列格されました。


                       


小町大路は交通量けっこう多いけど(写真はたまたま車は通ってない)、閑静な住宅街です。
この道のずっと先、大蔵には源頼朝が創立した最初の鎌倉幕府がありました。

s-15:39小町大路






次は小町大路右手、「日蓮上人辻説法(にちれんしょうにんつじせっぽう)跡」です。
ここに来るとNHK大河ドラマ『北条時宗』で
奥田瑛二さん演じる日蓮が民衆に石を投げつけられるシーンが浮かびます。

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公式P46 日蓮上人辻説法(にちれんしょうにんつじせっぽう)跡
日蓮が辻説法を行ったとされる場所。小町大路にあり、日蓮はここで法華経の教えを熱心に説いたといいます。
震災、干ばつ、疫病などの原因は他宗にあるとして、激しく批判しました。
跡地には石碑と腰掛石が立ち並びます。
明治時代の日蓮宗学者の田中智学(たなかちがく)が、腰掛石を道の反対側から移し周囲を整備しました。
辻説法跡は本興寺などにもあります。

■日蓮聖人辻説法之址 (にちれんしょうにん・つじせっぽう・のあと)
昭和十一年(1936)三月建 鎌倉町青年団
〔碑文〕
此辺は往昔に於ける屋敷町と商家町との境をなす地点に位し 
幕府に近きこととて※ 殷賑(隆盛)を極めし所なり 
建長五年(1253)五月 日蓮聖人房州より鎌倉に来り松葉が谷(やつ)に草庵を結び 
日に日に此辺りの路傍に立ち 
弘通(ぐつう:布教)の為め民衆に対し獅子吼(ししく:強声)を続けし址なりとて 
世に辻説法の旧蹟と伝へらる
〔説明〕
この辺りは、屋敷町と商家町との間にあって、
幕府に近いことから※大変にぎわっていた場所です。
1253年5月、日蓮聖人(にちれんしょうにん)が房州(千葉県南部)から鎌倉に来て松葉が谷(まつばがやつ)に住み、
民衆への布教のため、毎日のようにこの辺りの道端に立って、大声を張り上げていた場所であるといわれています。
一般に辻説法の跡といわれています。
〔位置〕
小町2-22-11付近で、鎌倉警察署から100メートル東方の小町大路に建つ。

鎌倉シチズンネット「鎌倉史跡碑辞典」より引用
http://www.kcn-net.org/sisekihi/nichiren3.htm

※日蓮がここで辻説法を行っていた頃の鎌倉幕府は、大蔵・宇都宮辻子を経て3ヶ所目の、
若宮大路幕府(雪ノ下1-11-22付近)でした。


                        


さて、さらに小町大路を進んで左側、妙隆寺(みょうりゅうじ)です。

s-妙隆寺看板s-山門s-妙隆寺解説








 ▼本堂。

s-★本堂s-叡昌山













公式P109 妙隆寺(みょうりゅうじ)
日蓮宗。山号は叡昌山(えいしょうざん)。開山は日英(にちえい)。本尊は日蓮。
小町大路沿いの「日蓮上人辻説法跡」の近くにあります。
有力御家人の千葉常胤(つねたね)の子孫・胤貞(たねさだ)の別邸跡に創建されたため、
千葉屋敷とも呼ばれます。
1385(至徳2・元中2)、胤貞が、中山法華経寺の日英を迎え、七堂伽藍(がらん)を建立したと伝えられます。
寺は鎌倉における中山門流の中心になりました。
第二代日親(にっしん)は、室町幕府の拷問に耐えたことで「鍋かむり日親」とも呼ばれました。
広島で被曝死した「新劇の團十郎」こと丸山定夫の石碑があります。

 ▼こちらがその、鍋かむり日親(にっしん)

s-★鍋かむり日親なべかむり日親解説












宗祖の日蓮上人のように「立正安国論」で室町幕府六代将軍・足利義教(よしのり)の悪政を戒めるも投獄され、
数々の拷問を受けても屈しない日親の頭に灼熱の鍋を被せ、舌を切り取ったといわれています。


そして妙隆寺は鎌倉江ノ島七福神のひとつ寿老人を祀っています。
この小さなお社の中に欅(けやき)一木造りの寿老人像を安置。
日々の安全と健康、長寿にご利益が…。
(写真右)七福神、今度の1級検定に出るらしい
これで全て訪れたことになります。

s-寿老人s-壽老人解説s-七福神








丸山定夫の石碑はどこにあるのかわかりませんでした…

妙隆寺(みょうりゅうじ)の拝観は…
:鎌倉市小町2-17-20 :JR鎌倉駅東口から徒歩約5分。
:0467-23-3195
:9:00〜17:00
:無料



                     


 ▼さらに小町大路沿線を進んで、宝戒寺のそば、土佐坊昌俊(とさのぼうしょうしゅん)邸址碑

s-★土佐坊昌俊邸址碑












土佐坊昌俊邸址 (とさぼうまさとし※・ていあと)
大正十四年(1925)三月建 鎌倉町青年団
〔碑文〕
堀川館に義経を夜襲し利あらずして死せし者 是土佐坊昌俊なり 
東(吾妻)鑑文治元年(1185)十月の条に 此の追討の事人々に多く以て辞退の気あるの処 
昌俊進んで領状(承諾)申すの間 殊に御感(感歎)を蒙る 
巳(すで)に進発の期に及んで御前に参り 
老母並に嬰児等下野(しもつけ)の国に有り憐憫(れんびん:憐情)を加えしめ給ふべきの由之を申す云々 とあり 
其の一度去って又還らざる悲壮の覚悟を以て門出なしけん此の壮士が邸は 
即ち此の地に在りたるなり
〔説明〕
土佐坊昌俊は、[京都]堀川の館にいる源義経を夜襲しましたが、逆に殺されてしまいました。
吾妻鑑(あづまかがみ)によると、このことが次のように書かれています。
義経を討つ者を募っているとき、みんな辞退したい気持であったところに、
この土佐昌俊が進んで引き受ける旨申し上げると、頼朝はたいへん喜びました。
そして、出発の間際に頼朝の前に参り、自分には年老いた母や幼い子供たちがおり、下野(しもつけ:群馬)の国に残して行きますので、
もしものことがあれば情けをかけてやってほしい旨申しあげた、などと書かれています。
一度行けば、帰ってこれないと言う、悲壮な覚悟で門出した武士の屋敷があったのは、この場所であります。
〔位置〕
雪ノ下1-14-24付近の邸宅入り口の右側で、宝戒寺の南西30メートルに建つ。
※ここでは「しょうしゅん」ではなく、「まさとし」となっています。

鎌倉シチズンネット「鎌倉史跡碑辞典」より引用
http://www.kcn-net.org/sisekihi/tosabou.htm

で、ほどなく宝戒寺(ほうかいじ)
先日訪れたので今日は行きません。

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鶴岡八幡宮三の鳥居前に続く横大路を左に見て、
そのまま直進すると、このページのゴール、筋替橋(すじかえばし) 碑。

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筋替橋(すじかえばし)  公式では「筋違橋」と表記。
昭和十四年(1939)三月建 鎌倉町青年団
〔碑文〕
鎌倉十橋の一なり 宝治元年(1247)六月 三浦康村(やすむら)一族の叛乱に際し 北条時頼(ときより)の外祖(母方の祖父)たる安達景盛(かげもり)は 其の一族と共に 兵を率(ひき)い此の橋の北辺より康村の第(屋敷)を攻めしこと 東(吾妻)鑑に見えたり 
又文平二年(1265)三月 鎌倉に於ける商家の営業地域を数か所に限定せる触書(ふれがき:告知書)中に 
「一所須地賀江橋」とあるは 即ち此附近の事なり
〔説明〕
鎌倉十橋のひとつです。1247年6月に三浦康村(やすむら)一族が反乱した時しました。その時、安達景盛(あだちかげもり)は、その一族と共に兵を率(ひき)いて、この橋の北の辺りに集まり、康村の屋敷を攻めたことが吾妻鑑(あずまかがみ)に書いてあります。
また鎌倉において、商店の営業できる地域を数か所に限定するという告知書が1265年3月に出され、
その中に「須地賀江(すじかえ)橋」と書いてあり、これはこの付近のことであります。
〔位置〕
雪ノ下2-4-2付近で、コンビニampmとのT字路交差点の西北部に建つ

鎌倉シチズンネット「鎌倉史跡碑辞典」より引用
http://www.kcn-net.org/sisekihi/suzikae.htm

公式P50 筋違橋(すじかえばし)
宝戒寺(ほうかいじ)近くにあり、金沢街道(六浦道)に対して「く」の字に架かっていたため、
筋違橋といわれるようになったといわれます。
鎌倉十橋のひとつですが、現在では暗渠(あんきょ)となり、石碑のみが往時を物語っています。

さて、この碑の脇の路地を入って、今日の旅の最後、鶴岡八幡宮境内にある鎌倉国宝館へ。
入館は16:00まで、あと5分しかない、急げ


公式P は、「鎌倉観光文化検定公式ガイドブック」掲載ページ。
は、参考にさせていただいた本からの出典。

第1-3は、「第1回鎌倉観光文化検定3級」出題。
       第2-2は、「第2回鎌倉観光文化検定2級」出題。

は、鎌倉の文学に関することがらを表しています。


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