鎌倉ガイド協会の散策コース「梅の香を訪ね、源平ゆかりの地を巡る」参加レポです。
写真をクリックすると大きな画像を見ることができます。
2012年2月24日(金)
暖かい
鎌倉ガイド協会の散策コース「梅の香を訪ね、源平ゆかりの地を巡る」に参加しました。
本日のコースは…画像地図太線のコースです。
「JR鎌倉駅東口(バス利用)→九品寺バス停→補陀洛寺(特別拝観)→由比若宮(元八幡)→教恩寺(特別拝観)→大町会館(お弁当)→宝戒寺→文覚上人屋敷跡→荏柄天神社→源頼朝の墓→鶴岡八幡宮(解散)高低差なし・約6km

最初の訪問スポット、真言宗大覚寺派・南向山帰命院補陀洛寺(ふだらくじ)は、
源頼朝が開基、頼朝と深い関わりのあった文覚上人が開基と伝わる「源平ゆかり」のお寺です。



本堂内を特別拝観させていただきました。
本尊の十一面観音をはじめ、平安時代の高僧智証大師の作と伝わり、
平家打倒の祈りが捧げられたといわれる不動明王像など多くの仏像群、
頼朝の自作と伝わる頼朝像や文覚上人が書いたといわれる頼朝の位牌。文覚上人裸形像がありました。
また、平家滅亡時、総大将だった平宗盛が最後まで持っていたといわれる赤旗も。
続いて由比若宮(元八幡)へ。


源氏の守護神である京都・石清水八幡宮に戦勝を祈願した源頼義が、
前九年の役で陸奥国の豪族・安部氏に勝利し、
帰洛の途中鎌倉に立ち寄り、由比郷鶴岡のこの地に秘かに石清水八幡宮の祭神を勧請して、
ここに社を造営したと伝わります。
境内には頼義の嫡男・八幡太郎義家の旗立の松も。
1180(治承4)年に鎌倉入りした頼朝が、現在の鶴岡八幡宮の場所に社殿を移してから「元八幡」と呼ばれるようになりました。
社地は「鶴岡八幡宮境内」として、本宮の社地と共に国の史跡に指定されています。
また、この付近には新婚時代の芥川龍之介が住んでいました。
ほど近くのアパートの外壁にそのことが記されたプレートがあります。
当時の暮らしぶりが小説「或る阿呆の一生」に描かれています。

午前中、最後の訪問スポットは時宗・中座山大聖院教恩寺(きょうおんじ)です。
山門を潜ると、横一文字に延びた梅の木があります。



かつてこの地には光明寺の末寺善昌寺がありましたが廃寺になり、
1678年貴誉上人によって、材木座の光明寺境内にあった教恩寺が移築されたといいます。
開基は北条氏康。開山は知阿上人です。
通常非公開の本堂内を特別に拝観させていただきました。
本尊の阿弥陀如来像は鎌倉時代前期の運慶作(?)と伝えられます。
1184(寿永3)年、「一の谷の合戦」で敗北して捕らえられ、鎌倉に送られた平清盛の五男・重衡は、
頼朝から与えられたこの阿弥陀如来像を深く信仰しました。
また、「平家物語」によると頼朝は女房の千手前(せんじゅのまえ)を遣わして酒宴を催し、
重衡の無聊を慰めたそうです。…これは教恩寺の創立年(1678年)以前の話であり、
頼朝は重衡のために大蔵幕府の一隅の小さな建物およびこの阿弥陀如来像を与えましたが、
後年こちらの教恩寺がこの阿弥陀如来像を安置するに相応しいお寺とされ、本尊になったのだそうです。
この阿弥陀如来像の拝観させていただくことが、最大の参加理由だったので、
貴重な機会をいただいて大変感謝しております。
お昼は八雲神社のお隣、「大町會館」でお弁当
クラシックな建物ですが、内部もとても綺麗で、大切に使われているんだなぁと思いました。
今日の参加メンバーの皆さんもガイドさんを中心にとても和気藹々とした雰囲気で、
いろんなお話しをしながら短くも楽しいひとときを過ごしました
今日はおみかんやチョコをいただきました
。いつももらってばっかり

午後イチは天台宗・金龍山釈満院宝戒寺から。
1335(建武2)年、北条氏滅亡後、一族を弔うため、後醍醐天皇が開基となって、
足利尊氏に命じて建立。開山には天皇と親交が深かった円観慧鎮が招かれました。
そして、天台宗の戒壇院を設けて関東における教壇の中核に。
本堂の本尊・子育経読地蔵大菩薩像は、1365(貞治4)年仏師三條法院憲円の作(国重文)。
七福神の一つ・毘沙門天像なども安置されています。



境内には聖徳太子を祀る太子堂(▲写真右)や、最後の得宗・北条高時を祀る徳宗大権現、
秘仏(非公開)歓喜天立像を祀る大聖歓喜天堂があります。
宝戒寺は梅の名所でもあるそうですが、今年は全国的に花期が遅れているので、
白梅がちらほら…という感じでした(▲写真中)。
続いて文覚上人屋敷跡へ。
午前中訪問した補陀洛寺の開基と伝わる文覚の邸宅があった場所です。
もとは摂津渡辺党に属する遠藤盛遠という俗名の北面の武士。
従兄弟の源渡の妻・袈裟御前を誤殺して出家しました。
後白河法皇に京・神護寺再興への寄付を強訴して不興を買い、伊豆に流罪。
流人時代の頼朝と親交を深め、平家追討を促したといわれます。
文覚は無念の死を遂げた頼朝の父・義朝の頭蓋骨を京で探し出し、鎌倉の頼朝に届けました。
近くには頼朝が造営した三大寺院のひとつで、義朝の菩提を弔った勝長寿院の旧跡があります。
(小さな史跡です)

次は荏柄天神社(えがらてんじんじゃ)の参道入口からお参り。
この参道でも昔、流鏑馬
が行われていたそうです。
荏柄天神社の祭神は学問の神様・菅原道真。
大宰府・北野天満宮に次ぐ日本三大天神のひとつといわれますが、
三番目を名乗る天神は日本各地にあるようです


社伝によれば1104(長治元)年の勧請とも、また源頼朝が鎌倉幕府創建に際して、鬼門鎮護に祀ったとも。
以後、鎌倉将軍や鶴岡八幡宮と深いつながりを持ち、江戸幕府の寄進も受けました。
本殿は14世紀の建立と推測され、年代がはっきりしている木造建造物として市内最古(2001.12.市教委)。
荏柄天神社も梅の名所として知られていますが、やはり少し淋しい感じでした。


さて、次の訪問スポットは源頼朝の墓。
去る2月11日(土)男に一部破壊されたので、どのようになっているのか見て来ようと思っていました。
まず白旗神社の狛犬さん(同男が破壊)が撤去されていることに気づきました。
頼朝の墓は門扉が閉ざされ、立入禁止になっていました。


囲いの中を覗くと破壊されたままの生々しい姿をとどめています。


大蔵幕府の後山に位置し、頼朝が大切にしていた聖観音像を祀った持仏堂があったと伝わるこの地。
1199(正治元)年に53歳で没した頼朝はここに葬られました。
翌年の一周忌には、持仏堂は「法華堂」という名で『吾妻鏡』に登場します。
江戸時代の安永年間鶴岡荘厳院の住持が勝長寿院より層塔・石塔を運び、
さらに1779(安永8)年に薩摩藩主島津重豪(しげひで)が、頼朝の庶子と称される祖・
島津忠久の墓を造営する際に頼朝の墓を整備したと伝えられています。
石塔の右横には頼朝の同母弟で源氏挙兵の際、
土佐で殺害された源希義(まれよし)の説明掲示板があります。


そして、本日のコース、最終スポット鶴岡八幡宮です。
祭神は応神天皇・比売神・神功皇后
午前中訪ねた若宮八幡(元八幡)を源頼朝がここ小林郷北山に遷座して、当初は鶴岡若宮と称しました。
1191(建久2)年の大火によって焼失し、社殿を大臣山の中腹に造営して新たに石清水八幡宮を勧請。
これが本宮(上宮)で、この時若宮(下宮)も再建されました。
源氏の守護神として鎌倉幕府から崇敬された鶴岡八幡宮は、この後広く武門の神として全国に広がり、
豊臣秀吉・徳川氏からも篤く信仰されました。
1868(明治元)年、神仏分離令発布以前は神仏習合により「鶴岡八幡宮寺」と呼ばれていました。
その名残が境内各所に見られます(例:若宮横のビャクシンはかつて寺院に植樹)。
2010(平成22)年3月10日に倒壊した御神木の大銀杏…移植などの処置が取られましたが、
当初の元気がこの頃は見られないようです。



本日のコース、訪問スポットはおろか小さな史跡に至るまで終始淀みないガイドさんのトークは、
とてもブログに書ききれるものではありません…。
ひとつひとつ大事に頭の収蔵庫に納めたいと思います。
よって参加者に配布されるレジュメを参考に記事を書くに留めましたが、
同じグループの皆さん共々、素晴らしく充実した1日を過ごさせていただきました。
★鎌倉情報

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暖かい
鎌倉ガイド協会の散策コース「梅の香を訪ね、源平ゆかりの地を巡る」に参加しました。
本日のコースは…画像地図太線のコースです。
「JR鎌倉駅東口(バス利用)→九品寺バス停→補陀洛寺(特別拝観)→由比若宮(元八幡)→教恩寺(特別拝観)→大町会館(お弁当)→宝戒寺→文覚上人屋敷跡→荏柄天神社→源頼朝の墓→鶴岡八幡宮(解散)高低差なし・約6km

最初の訪問スポット、真言宗大覚寺派・南向山帰命院補陀洛寺(ふだらくじ)は、
源頼朝が開基、頼朝と深い関わりのあった文覚上人が開基と伝わる「源平ゆかり」のお寺です。



本堂内を特別拝観させていただきました。
本尊の十一面観音をはじめ、平安時代の高僧智証大師の作と伝わり、
平家打倒の祈りが捧げられたといわれる不動明王像など多くの仏像群、
頼朝の自作と伝わる頼朝像や文覚上人が書いたといわれる頼朝の位牌。文覚上人裸形像がありました。
また、平家滅亡時、総大将だった平宗盛が最後まで持っていたといわれる赤旗も。
続いて由比若宮(元八幡)へ。


源氏の守護神である京都・石清水八幡宮に戦勝を祈願した源頼義が、
前九年の役で陸奥国の豪族・安部氏に勝利し、
帰洛の途中鎌倉に立ち寄り、由比郷鶴岡のこの地に秘かに石清水八幡宮の祭神を勧請して、
ここに社を造営したと伝わります。
境内には頼義の嫡男・八幡太郎義家の旗立の松も。
1180(治承4)年に鎌倉入りした頼朝が、現在の鶴岡八幡宮の場所に社殿を移してから「元八幡」と呼ばれるようになりました。
社地は「鶴岡八幡宮境内」として、本宮の社地と共に国の史跡に指定されています。
また、この付近には新婚時代の芥川龍之介が住んでいました。
ほど近くのアパートの外壁にそのことが記されたプレートがあります。
当時の暮らしぶりが小説「或る阿呆の一生」に描かれています。

午前中、最後の訪問スポットは時宗・中座山大聖院教恩寺(きょうおんじ)です。
山門を潜ると、横一文字に延びた梅の木があります。



かつてこの地には光明寺の末寺善昌寺がありましたが廃寺になり、
1678年貴誉上人によって、材木座の光明寺境内にあった教恩寺が移築されたといいます。
開基は北条氏康。開山は知阿上人です。
通常非公開の本堂内を特別に拝観させていただきました。
本尊の阿弥陀如来像は鎌倉時代前期の運慶作(?)と伝えられます。
1184(寿永3)年、「一の谷の合戦」で敗北して捕らえられ、鎌倉に送られた平清盛の五男・重衡は、
頼朝から与えられたこの阿弥陀如来像を深く信仰しました。
また、「平家物語」によると頼朝は女房の千手前(せんじゅのまえ)を遣わして酒宴を催し、
重衡の無聊を慰めたそうです。…これは教恩寺の創立年(1678年)以前の話であり、
頼朝は重衡のために大蔵幕府の一隅の小さな建物およびこの阿弥陀如来像を与えましたが、
後年こちらの教恩寺がこの阿弥陀如来像を安置するに相応しいお寺とされ、本尊になったのだそうです。
この阿弥陀如来像の拝観させていただくことが、最大の参加理由だったので、
貴重な機会をいただいて大変感謝しております。
お昼は八雲神社のお隣、「大町會館」でお弁当

クラシックな建物ですが、内部もとても綺麗で、大切に使われているんだなぁと思いました。
今日の参加メンバーの皆さんもガイドさんを中心にとても和気藹々とした雰囲気で、
いろんなお話しをしながら短くも楽しいひとときを過ごしました

今日はおみかんやチョコをいただきました
。いつももらってばっかり

午後イチは天台宗・金龍山釈満院宝戒寺から。
1335(建武2)年、北条氏滅亡後、一族を弔うため、後醍醐天皇が開基となって、
足利尊氏に命じて建立。開山には天皇と親交が深かった円観慧鎮が招かれました。
そして、天台宗の戒壇院を設けて関東における教壇の中核に。
本堂の本尊・子育経読地蔵大菩薩像は、1365(貞治4)年仏師三條法院憲円の作(国重文)。
七福神の一つ・毘沙門天像なども安置されています。



境内には聖徳太子を祀る太子堂(▲写真右)や、最後の得宗・北条高時を祀る徳宗大権現、
秘仏(非公開)歓喜天立像を祀る大聖歓喜天堂があります。
宝戒寺は梅の名所でもあるそうですが、今年は全国的に花期が遅れているので、
白梅がちらほら…という感じでした(▲写真中)。
続いて文覚上人屋敷跡へ。
午前中訪問した補陀洛寺の開基と伝わる文覚の邸宅があった場所です。
もとは摂津渡辺党に属する遠藤盛遠という俗名の北面の武士。
従兄弟の源渡の妻・袈裟御前を誤殺して出家しました。
後白河法皇に京・神護寺再興への寄付を強訴して不興を買い、伊豆に流罪。
流人時代の頼朝と親交を深め、平家追討を促したといわれます。
文覚は無念の死を遂げた頼朝の父・義朝の頭蓋骨を京で探し出し、鎌倉の頼朝に届けました。
近くには頼朝が造営した三大寺院のひとつで、義朝の菩提を弔った勝長寿院の旧跡があります。
(小さな史跡です)

次は荏柄天神社(えがらてんじんじゃ)の参道入口からお参り。
この参道でも昔、流鏑馬
が行われていたそうです。荏柄天神社の祭神は学問の神様・菅原道真。
大宰府・北野天満宮に次ぐ日本三大天神のひとつといわれますが、
三番目を名乗る天神は日本各地にあるようです



社伝によれば1104(長治元)年の勧請とも、また源頼朝が鎌倉幕府創建に際して、鬼門鎮護に祀ったとも。
以後、鎌倉将軍や鶴岡八幡宮と深いつながりを持ち、江戸幕府の寄進も受けました。
本殿は14世紀の建立と推測され、年代がはっきりしている木造建造物として市内最古(2001.12.市教委)。
荏柄天神社も梅の名所として知られていますが、やはり少し淋しい感じでした。


さて、次の訪問スポットは源頼朝の墓。
去る2月11日(土)男に一部破壊されたので、どのようになっているのか見て来ようと思っていました。
まず白旗神社の狛犬さん(同男が破壊)が撤去されていることに気づきました。
頼朝の墓は門扉が閉ざされ、立入禁止になっていました。


囲いの中を覗くと破壊されたままの生々しい姿をとどめています。


大蔵幕府の後山に位置し、頼朝が大切にしていた聖観音像を祀った持仏堂があったと伝わるこの地。
1199(正治元)年に53歳で没した頼朝はここに葬られました。
翌年の一周忌には、持仏堂は「法華堂」という名で『吾妻鏡』に登場します。
江戸時代の安永年間鶴岡荘厳院の住持が勝長寿院より層塔・石塔を運び、
さらに1779(安永8)年に薩摩藩主島津重豪(しげひで)が、頼朝の庶子と称される祖・
島津忠久の墓を造営する際に頼朝の墓を整備したと伝えられています。
石塔の右横には頼朝の同母弟で源氏挙兵の際、
土佐で殺害された源希義(まれよし)の説明掲示板があります。


そして、本日のコース、最終スポット鶴岡八幡宮です。
祭神は応神天皇・比売神・神功皇后
午前中訪ねた若宮八幡(元八幡)を源頼朝がここ小林郷北山に遷座して、当初は鶴岡若宮と称しました。
1191(建久2)年の大火によって焼失し、社殿を大臣山の中腹に造営して新たに石清水八幡宮を勧請。
これが本宮(上宮)で、この時若宮(下宮)も再建されました。
源氏の守護神として鎌倉幕府から崇敬された鶴岡八幡宮は、この後広く武門の神として全国に広がり、
豊臣秀吉・徳川氏からも篤く信仰されました。
1868(明治元)年、神仏分離令発布以前は神仏習合により「鶴岡八幡宮寺」と呼ばれていました。
その名残が境内各所に見られます(例:若宮横のビャクシンはかつて寺院に植樹)。
2010(平成22)年3月10日に倒壊した御神木の大銀杏…移植などの処置が取られましたが、
当初の元気がこの頃は見られないようです。



本日のコース、訪問スポットはおろか小さな史跡に至るまで終始淀みないガイドさんのトークは、
とてもブログに書ききれるものではありません…。
ひとつひとつ大事に頭の収蔵庫に納めたいと思います。
よって参加者に配布されるレジュメを参考に記事を書くに留めましたが、
同じグループの皆さん共々、素晴らしく充実した1日を過ごさせていただきました。
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