京都の東山にある阿弥陀ヶ峰の山頂、豊臣秀吉の廟所である豊國廟にお参りして来ました。
写真をクリックすると大きな画像を見ることができます。
2015年9月20日(日)
夏日
京都・東山七条。
この地に点在する豊臣秀吉ゆかりの史跡めぐりはさらに続きます。
昨日は豊國神社と方広寺を訪ねました。
→当ブログ
「豊國神社と宝物館、耳塚・馬塚ほか周辺史跡 150919」
「方広寺の梵鐘と宝物、大仏殿跡 150919」
その豊國神社や方広寺から徒歩で20分程度のところ。
智積院と妙法院の間の豊國廟参道(女坂)を上がった東山区今熊野北日吉町。
今日は阿弥陀ヶ峰の山頂、豊臣秀吉の廟所である豊國廟(ほうこくびょう)を訪ねます。


東山三十六峰のひとつ、阿弥陀ヶ峰の麓、太閤坦(たいこうだいら)にやって来ました。
廟務所と拝殿があり、右テ奥は駐車場になっています。


ここは豊臣秀吉を祭神として祀る現在の豊國神社の前身、
豊國社(とよくにのやしろ)本殿の跡地です(現・豊國神社の飛び地境内になっています)。
その境内域は30万坪(東京ドーム21個分)もの広さで、豊臣家の宗教大施設の体をなしていました。
豊國神社の宝物館に展示されている「豊国祭礼図屏風(ほうこくさいれいずびょうぶ)」(重要文化財)は、
1604年秀吉の七回忌に行われた臨時祭礼の様子、
日光東照宮のモデルになったという往時の壮麗かつ絢爛豪華な豊國社が描かれています。
秀吉は豊國大明神となり、没してなおこの地で、
出世開運の神様として貴族から庶民にまで篤く崇拝されていたのです。


いまは跡形もない、幻の豊國社(とよくにのやしろ)唯一の名残の手水石が遺っています。


こちらは拝殿。明治時代に再び整備された参道の先、
阿弥陀ヶ峰の山頂には秀吉の廟所「豊國廟(ほうこくびょう)」があります。


閉門時刻の17時が迫っているので、さっそく登拝料100円を納めて
標高196mの阿弥陀ヶ峰(あみだがみね)山頂の豊國廟(ほうこくびょう)を目指します。


あらかじめ聞いて覚悟はしていましたが、山頂まで続く長い石段を前に身が引き締まる想い。
豊國神社の権禰宜さんによると、ここから頂上までの石段は489段あるそうです。いざ。

登った石段を振り返るとこんな感じです。

去年の2月には日光の徳川家康の廟所を訪ねました。
→当ブログ「日光東照宮と二荒山神社 140228」
やはり廟所は長い石段の上に…。
神になった天下の英傑を詣でるには、少々の忍耐を要するのですね。
慶長3年(1598)8月18日、秀吉は伏見城で病没(享年63歳)。
秀吉の享年にちなんでか、石段は途中まで63段ずつで区切られていました。
63段・63段・63段・63段…63段登るとまるで❝踊り場❞のように幅の広い石段が現れます。
そこで一息つきながら、ひたすら登り続けます。
63段・63段・63段・63段と上って、次は61段になっていました。ちょっとがっかり。
頂上までの石段周辺は、春は桜、秋は萩の名所として知られているそうです。
遺命により秀吉の遺体は、没後、この阿弥陀ヶ峰の中腹に葬られ、
墳上には祠廟、山麓には社殿・豊國社(とよくにのやしろ)が建立されました。
方広寺の梵鐘の銘文「国家安康 君臣豊楽」に曲解に端を発し、
大坂の陣で豊臣家を滅ぼすことに成功した徳川氏(江戸幕府)は、
没してなお京の人々から篤く崇拝される豊國社を恐れ、1615年に廃社にしてしまいます。
時代は下り明治天皇の命によって明治13年、方広寺大仏殿跡に「豊國神社」が再建され、
現在に至っています。
→当ブログ
「豊國神社と宝物館、耳塚・馬塚ほか周辺史跡 150919」
「方広寺の梵鐘と宝物、大仏殿跡 150919」
やがて参道と中門が現れます。63段・63段・63段・63段・61段、ここまでの合計313段。
この方のサイトによると、中門で4段(私は数えるのを忘れました…)。
ちょっと休憩後、さらに急な石段をゼェ
ハァ
しながら172段登ると…



ついに標高196mの阿弥陀ヶ峰の山頂。秀吉のお墓、豊國廟(ほうこくびょう)に辿り着きました
参道の門扉から石段を数えると、権禰宜さんの仰る通り、確かに合計489段上ったことになります。
そこには想像していたよりもずっと大きな五輪塔が…。
明治時代に建てられたもので、高さ約10mと日本で最も大きな五輪塔です。
眺望は木々の隙間から京都市街がやっと見える程度…ちょっと残念。



大坂の陣後、家康によって豊國大明神の神号を剥奪され、神の座を追われた秀吉は、
明治になるまで方広寺の一角でひっそりと庶民と同じように仏式で祀られていたといいます…
このとき徳川氏が「秀吉の遺体」をどうしたのかが気になるところ。
日没に向け、西日が輝きを増してきました。
五輪塔の背後の入口から中に入ってお参りします。


明治30年4月13日、豊國会によって豊國神社修築工事が開始され、
4月28日、神廟付近から経文の記された瓦が出土。
秀吉の遺体が入った瓶が発掘されたといわれています。
瓶は高さ三尺ほどの粗悪品で、 「ひねりつち」の五文字が刻まれていました。
秀吉の遺体は手を組み、胡座をかくようにして西を向いて納められていましたが、
遺体を瓶から出す際、遺体が崩れ落ちてしまったので、遺体を拾い集め、厳重に保存したといいます。
この五輪塔の下には本当に秀吉本人の遺体が納められているのでしょうか。
日本人ならその名を知らぬ者はない超有名な戦国の英雄・豊臣秀吉。
「サル」だの「ハゲネズミ」などと揶揄された風采の上がらぬ小男が、
その身ひとつで群雄割拠の戦国乱世を制し、ついには神として崇められ…
真実ここに、あの秀吉の小さな骸(むくろ)が埋まっているのだとしたら…


五輪塔の上に1羽の烏がとまって、辺りを見回した後、鳴き声とともに飛び立ちました。


燈籠がふたつ。


しばし、豊公と私たちだけの静寂な時間は過ぎゆく…
豊國廟からの急な石段の下り…うっかり転がり落ちればタダでは済まないでしょう。
慎重に歩を進めますが、既に日頃の運動不足を思い知らされるかのように膝が笑っています。
西日がとても眩しい。


さすがに上りの半分ほどの時間で下山することができました。
閉門の17時間近。すでに門扉の掛札は外されています。


誰もいない太閤坦(たいこうだいら)を少し散策してみました。
(写真左)石碑〔解読できず〕 (写真中)誓願寺から移された秀吉の側室・松丸殿の五輪塔。
(写真右)同じく誓願寺から移された秀頼の子・国松丸の五輪塔。



これは破壊しようとした跡なのか…痛々しい。


こちらにも石碑。


これは?

竹藪の陰にまるで存在を覆い隠すかのような石碑。
何なのかとても気になる…。

ところで、秀吉はなぜ阿弥陀ヶ峰に埋葬されることを希望したのでしょうか


秀吉は阿弥陀如来の力を借りて、神として復活する巨大なシステムを京都に作っていたのではないか、
と作家の宮元健次さんは推理します。
それが「阿弥陀ライン」というもので、
秀吉が葬られた阿弥陀ヶ峰の山頂から参道を通って、
西方浄土があるという西の方向にまっすぐ進むと、
その先には、このライン上に土地を与えて建てさせた西本願寺があります。
そして、この西本願寺が本尊に祀っているのが阿弥陀如来です。
この西本願寺の阿弥陀如来の力を借りて、西方浄土に神として復活する、
ということを考えたのではないでしょうか、とさらに宮元さんはいいます。


家康はこの「阿弥陀ライン」のことを知っていて、それを断ち切るために、
まず阿弥陀ラインの出発点である、阿弥陀ヶ峰の秀吉の墓と麓の豊國社を廃絶。
さらにラインを断ち切るため、あるものを利用します。

こちらは、平安時代に創建された由緒ある社、新日吉神宮(いまひえ・じんぐう)です。
後白河法皇が「法住寺殿」を造営し、厄除けのため、比叡山東坂本の「日吉山王七社」を勧請したのが始まり。



現在は女坂…豊國廟の参道のすぐ脇にありますが、創建当時〜智積院の南側にあり、
江戸時代に豊國廟の参道の真上に移転させられ、「阿弥陀ライン」を分断し、
参拝者を阻止する役割を負わされていたのです。



ところが京都の秀吉の信奉者たちも一筋縄ではいかない強(したた)かさ。
「隠れキリシタン」ならぬ「隠れ太閤さん」として、
秀吉の旧名「木下藤吉郎」の音(おん)に通じ、読み方によっては「きのした」とも読める、
新日吉神宮の境内末社「樹下の社(このもとのやしろ)」を密かに崇拝していたのでした。
(写真左)鳥居に「豊國神社」と掲げられた「樹下の社(このもとのやしろ)」。
徳川全盛期に神官が密かに秀吉を祀ったものといわれています。
(写真右)向かって右隣には、火除けの愛宕社・秋葉社。


日吉大神の使い、新日吉神宮の狛猿(こまさる)。
「魔が去る」「何よりも勝る」という語呂合わせがあるそう。
金網に入れられた理由はふたつ。「神の使いが盗まれてしまわないように」と
「猿たちが夜な夜な動き出すのを防ぐため」だそうです。


新日吉神宮には見どころが多かったけれど、あまり時間が取れず中途半端な参詣になり残念でした。
豊國廟ともどもまたゆっくり訪ねてみたいです。
5社ある境内末社のうちの2社。(写真左)天満宮 (写真右)山口稲荷神社


元京都市午砲台座。


本殿の裏手の樹齢500年以上というスダジイは京都市指定保存樹。
戦国の世からこの地で生き続けているのですね。

参考資料:京都大知典
参考番組:木曜スペシャル「探訪!京都巡礼団3〜家康の野望!京都を超える江戸の結界〜」
京都・東山七条。次は三十三間堂です。そこにも秀吉ゆかりの史跡が…。
写真をクリックすると大きな画像を見ることができます。2015年9月20日(日)
夏日京都・東山七条。
この地に点在する豊臣秀吉ゆかりの史跡めぐりはさらに続きます。
昨日は豊國神社と方広寺を訪ねました。
→当ブログ
「豊國神社と宝物館、耳塚・馬塚ほか周辺史跡 150919」
「方広寺の梵鐘と宝物、大仏殿跡 150919」
その豊國神社や方広寺から徒歩で20分程度のところ。
智積院と妙法院の間の豊國廟参道(女坂)を上がった東山区今熊野北日吉町。
今日は阿弥陀ヶ峰の山頂、豊臣秀吉の廟所である豊國廟(ほうこくびょう)を訪ねます。


東山三十六峰のひとつ、阿弥陀ヶ峰の麓、太閤坦(たいこうだいら)にやって来ました。
廟務所と拝殿があり、右テ奥は駐車場になっています。


ここは豊臣秀吉を祭神として祀る現在の豊國神社の前身、
豊國社(とよくにのやしろ)本殿の跡地です(現・豊國神社の飛び地境内になっています)。
その境内域は30万坪(東京ドーム21個分)もの広さで、豊臣家の宗教大施設の体をなしていました。
豊國神社の宝物館に展示されている「豊国祭礼図屏風(ほうこくさいれいずびょうぶ)」(重要文化財)は、
1604年秀吉の七回忌に行われた臨時祭礼の様子、
日光東照宮のモデルになったという往時の壮麗かつ絢爛豪華な豊國社が描かれています。
秀吉は豊國大明神となり、没してなおこの地で、
出世開運の神様として貴族から庶民にまで篤く崇拝されていたのです。


いまは跡形もない、幻の豊國社(とよくにのやしろ)唯一の名残の手水石が遺っています。


こちらは拝殿。明治時代に再び整備された参道の先、
阿弥陀ヶ峰の山頂には秀吉の廟所「豊國廟(ほうこくびょう)」があります。


閉門時刻の17時が迫っているので、さっそく登拝料100円を納めて
標高196mの阿弥陀ヶ峰(あみだがみね)山頂の豊國廟(ほうこくびょう)を目指します。


あらかじめ聞いて覚悟はしていましたが、山頂まで続く長い石段を前に身が引き締まる想い。
豊國神社の権禰宜さんによると、ここから頂上までの石段は489段あるそうです。いざ。

登った石段を振り返るとこんな感じです。

去年の2月には日光の徳川家康の廟所を訪ねました。
→当ブログ「日光東照宮と二荒山神社 140228」
やはり廟所は長い石段の上に…。
神になった天下の英傑を詣でるには、少々の忍耐を要するのですね。
慶長3年(1598)8月18日、秀吉は伏見城で病没(享年63歳)。
秀吉の享年にちなんでか、石段は途中まで63段ずつで区切られていました。
63段・63段・63段・63段…63段登るとまるで❝踊り場❞のように幅の広い石段が現れます。
そこで一息つきながら、ひたすら登り続けます。
63段・63段・63段・63段と上って、次は61段になっていました。ちょっとがっかり。
頂上までの石段周辺は、春は桜、秋は萩の名所として知られているそうです。
遺命により秀吉の遺体は、没後、この阿弥陀ヶ峰の中腹に葬られ、
墳上には祠廟、山麓には社殿・豊國社(とよくにのやしろ)が建立されました。
方広寺の梵鐘の銘文「国家安康 君臣豊楽」に曲解に端を発し、
大坂の陣で豊臣家を滅ぼすことに成功した徳川氏(江戸幕府)は、
没してなお京の人々から篤く崇拝される豊國社を恐れ、1615年に廃社にしてしまいます。
時代は下り明治天皇の命によって明治13年、方広寺大仏殿跡に「豊國神社」が再建され、
現在に至っています。
→当ブログ
「豊國神社と宝物館、耳塚・馬塚ほか周辺史跡 150919」
「方広寺の梵鐘と宝物、大仏殿跡 150919」
やがて参道と中門が現れます。63段・63段・63段・63段・61段、ここまでの合計313段。
この方のサイトによると、中門で4段(私は数えるのを忘れました…)。
ちょっと休憩後、さらに急な石段をゼェ
ハァ
しながら172段登ると…


ついに標高196mの阿弥陀ヶ峰の山頂。秀吉のお墓、豊國廟(ほうこくびょう)に辿り着きました

参道の門扉から石段を数えると、権禰宜さんの仰る通り、確かに合計489段上ったことになります。
そこには想像していたよりもずっと大きな五輪塔が…。
明治時代に建てられたもので、高さ約10mと日本で最も大きな五輪塔です。
眺望は木々の隙間から京都市街がやっと見える程度…ちょっと残念。



大坂の陣後、家康によって豊國大明神の神号を剥奪され、神の座を追われた秀吉は、
明治になるまで方広寺の一角でひっそりと庶民と同じように仏式で祀られていたといいます…
このとき徳川氏が「秀吉の遺体」をどうしたのかが気になるところ。
日没に向け、西日が輝きを増してきました。
五輪塔の背後の入口から中に入ってお参りします。


明治30年4月13日、豊國会によって豊國神社修築工事が開始され、
4月28日、神廟付近から経文の記された瓦が出土。
秀吉の遺体が入った瓶が発掘されたといわれています。
瓶は高さ三尺ほどの粗悪品で、 「ひねりつち」の五文字が刻まれていました。
秀吉の遺体は手を組み、胡座をかくようにして西を向いて納められていましたが、
遺体を瓶から出す際、遺体が崩れ落ちてしまったので、遺体を拾い集め、厳重に保存したといいます。
この五輪塔の下には本当に秀吉本人の遺体が納められているのでしょうか。
日本人ならその名を知らぬ者はない超有名な戦国の英雄・豊臣秀吉。
「サル」だの「ハゲネズミ」などと揶揄された風采の上がらぬ小男が、
その身ひとつで群雄割拠の戦国乱世を制し、ついには神として崇められ…
真実ここに、あの秀吉の小さな骸(むくろ)が埋まっているのだとしたら…



五輪塔の上に1羽の烏がとまって、辺りを見回した後、鳴き声とともに飛び立ちました。


燈籠がふたつ。


しばし、豊公と私たちだけの静寂な時間は過ぎゆく…
豊國廟からの急な石段の下り…うっかり転がり落ちればタダでは済まないでしょう。
慎重に歩を進めますが、既に日頃の運動不足を思い知らされるかのように膝が笑っています。
西日がとても眩しい。


さすがに上りの半分ほどの時間で下山することができました。
閉門の17時間近。すでに門扉の掛札は外されています。


誰もいない太閤坦(たいこうだいら)を少し散策してみました。
(写真左)石碑〔解読できず〕 (写真中)誓願寺から移された秀吉の側室・松丸殿の五輪塔。
(写真右)同じく誓願寺から移された秀頼の子・国松丸の五輪塔。



これは破壊しようとした跡なのか…痛々しい。


こちらにも石碑。


これは?

竹藪の陰にまるで存在を覆い隠すかのような石碑。
何なのかとても気になる…。

ところで、秀吉はなぜ阿弥陀ヶ峰に埋葬されることを希望したのでしょうか



秀吉は阿弥陀如来の力を借りて、神として復活する巨大なシステムを京都に作っていたのではないか、
と作家の宮元健次さんは推理します。
それが「阿弥陀ライン」というもので、
秀吉が葬られた阿弥陀ヶ峰の山頂から参道を通って、
西方浄土があるという西の方向にまっすぐ進むと、
その先には、このライン上に土地を与えて建てさせた西本願寺があります。
そして、この西本願寺が本尊に祀っているのが阿弥陀如来です。
この西本願寺の阿弥陀如来の力を借りて、西方浄土に神として復活する、
ということを考えたのではないでしょうか、とさらに宮元さんはいいます。


家康はこの「阿弥陀ライン」のことを知っていて、それを断ち切るために、
まず阿弥陀ラインの出発点である、阿弥陀ヶ峰の秀吉の墓と麓の豊國社を廃絶。
さらにラインを断ち切るため、あるものを利用します。

こちらは、平安時代に創建された由緒ある社、新日吉神宮(いまひえ・じんぐう)です。
後白河法皇が「法住寺殿」を造営し、厄除けのため、比叡山東坂本の「日吉山王七社」を勧請したのが始まり。



現在は女坂…豊國廟の参道のすぐ脇にありますが、創建当時〜智積院の南側にあり、
江戸時代に豊國廟の参道の真上に移転させられ、「阿弥陀ライン」を分断し、
参拝者を阻止する役割を負わされていたのです。



ところが京都の秀吉の信奉者たちも一筋縄ではいかない強(したた)かさ。
「隠れキリシタン」ならぬ「隠れ太閤さん」として、
秀吉の旧名「木下藤吉郎」の音(おん)に通じ、読み方によっては「きのした」とも読める、
新日吉神宮の境内末社「樹下の社(このもとのやしろ)」を密かに崇拝していたのでした。
(写真左)鳥居に「豊國神社」と掲げられた「樹下の社(このもとのやしろ)」。
徳川全盛期に神官が密かに秀吉を祀ったものといわれています。
(写真右)向かって右隣には、火除けの愛宕社・秋葉社。


日吉大神の使い、新日吉神宮の狛猿(こまさる)。
「魔が去る」「何よりも勝る」という語呂合わせがあるそう。
金網に入れられた理由はふたつ。「神の使いが盗まれてしまわないように」と
「猿たちが夜な夜な動き出すのを防ぐため」だそうです。


新日吉神宮には見どころが多かったけれど、あまり時間が取れず中途半端な参詣になり残念でした。
豊國廟ともどもまたゆっくり訪ねてみたいです。
5社ある境内末社のうちの2社。(写真左)天満宮 (写真右)山口稲荷神社


元京都市午砲台座。


本殿の裏手の樹齢500年以上というスダジイは京都市指定保存樹。
戦国の世からこの地で生き続けているのですね。

参考資料:京都大知典
参考番組:木曜スペシャル「探訪!京都巡礼団3〜家康の野望!京都を超える江戸の結界〜」京都・東山七条。次は三十三間堂です。そこにも秀吉ゆかりの史跡が…。









