京都・東山七条、豊臣秀吉ゆかりの史跡めぐり。三十三間堂の太閤塀と南大門もアップしました。

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2015年9月21日(火)夏日

京都・東山七条の豊臣秀吉ゆかりの史跡めぐり。
今回の京都帰省旅の最終日、最後の訪問スポット三十三間堂に行きました。

三十三間堂は、これでおそらく人生4度目の訪問になるかと思います。
中学や高校の修学旅行を含め、これまでの3度があまりに無頓着な〔見学〕だったため、
三十三間堂が何たるか、この年齢になってようやく史跡の意味を踏まえての〔拝観〕です。

最後の訪問から15年以上は経過しているので、記憶もすっかり希薄になっていました。
三十三間堂の南・北、西側は、板壁と連子窓になっています。(写真右)こちらは北側です。
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夏のような暑さですが、本来は初秋の候。秋の七草の植え込みがありました。
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日本一長い木造建築物、三十三間堂ですね。こちらは東側です。
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国宝 三十三間堂は、正式には蓮華王院といい、妙法院の境外仏堂です。
長寛(ちょうかん)2年(1164)、鳥辺山麓(とりべさんろく:現在の阿弥陀ヶ峰)、
後白河上皇・院政庁「法住寺殿(ほうじゅうじどの)」の一角に平清盛が造進しました。
「造進」とは造って進上すること。さらに「進上」とは人に物を差し上げること。
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創建当初は五重塔などの堂宇が並び隆盛を極めましたが、
約80年後、建長元年(1249)年の大火で焼失。
わずかの観音像と二十八部衆だけが遺されました。
のち文永3年(1266)に後嵯峨上皇が再建したのがいまの本堂です。
その後、室町・桃山・江戸、そして昭和と4度の大修理により700余年間保存されています。


堂内への入口。えっと…こんなんだったっけ
ここで下足を脱いで上がります。スリッパはありません。
昭和59年当時は「三十三間堂」と名入りのスリッパがあったと記憶しています。
高校2年の修学旅行の班別研修で来た時ですね。
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堂内は撮影禁止です。

日本唯一の千体観音堂…
【無限の慈悲・千体の観音立像】
本堂(三十三間堂)内には1001体の観音像がご本尊として祀られているのですが、
堂内中央の須弥壇に丈六の十一面千手千眼観世音菩薩坐像(国宝)を祀り、
その両側に10列500体ずつの十一面千手千眼観世音菩薩立像(重要文化財)が安置されています。
当院の観音像は檜材(ひのきざい)の「寄木造り」で、頭上の11の顔と40種の手に表現されます。
坐像の中尊(国宝)は建長6年(1254)、運慶の長男・湛慶(当時82歳)の名作。高さは3.35mです。
等身立像(重要文化財)は124体が創建当時の平安期のもので、他の876体は鎌倉期の再建時、
約16年の歳月をかけて復興されたものです。いずれも高さは166cm前後。
その約500体には作者名が残され、運慶、快慶で有名な慶派をはじめ、
院派、円派と呼ばれる当時の造仏に携わる多くの集団が国家的規模で参加したことが伺えます。
また、観音像には必ず会いたい人に似た像があるとも伝えられています。

【国宝雷神と風神像】
堂内両端のひときわ高い雲座(くもざ)に乗った風神と雷神像は力強く躍動的。
古代人の自然や天候に対する畏れや感謝の心が、空想的な二神を創造し、風雨をつかさどり、
「五穀豊穣」をもたらす神々として信仰されました。
太鼓を打つ雷さまと風の袋を抱えた風の神というイメージを決定づけた鎌倉彫刻の名品(国宝)です。

【国宝観音二十八部衆像】
観音像の前列と中尊の四方に位置する変化にとんだ28体の仏像(国宝)は、
千手観音とその信者をまもるという神々でインド起源のものが多く、
その神秘的な姿が迫真的に表現されています。
技法的には檜材の「寄木造り」で、仏像の手や顔を別々に彫(きざ)んで接着し、
漆を塗って彩色仕上げをしたものです。
目にはより写実性を高めるため、水晶をはめ込む「玉眼」という技法が用いられています。

参考資料:「国宝 三十三間堂」リーフ(入場時にいただけます)
         京都大知典

やはり、何度拝観しても堂内の観音像の❝森❞はまさに圧巻でした。
立像の40種の手がとても可愛くて、このどれかで私のことも救ってくださらないかしら?
などと思っていました。
二十八部衆は間近で見ることができるので迫力がありますね。
鎌倉時代の仏像は、最も多く拝観しているので親しみが湧きます。

この日は連休中ということもあり、拝観者がとても多くて少々落ち着かなかったので、
閑散とした日時に時間を取って、ゆっくり再拝観させていただきたいと思いました。


堂内撮影禁止なので、休憩中に拝見したお庭など屋外の写真をアップします。

こちらは三十三間堂(本堂)の東側です。
正面は板扉で、それを開けると明障子になっています。
東大門と三十三間堂(本堂)の間は池泉庭園で、散策できる池の周囲には低木樹や草花が。
4〜5月にはツツジが美しいそうです。
お庭を眺めながら気持良さそうにまったりしている拝観者多数。
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東大門の中央に造形のごとくアオサギがとまっていたのには笑いました
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三十三間堂の南・北、西側は、板壁と連子窓になっています。
こちらは西側です。江戸時代にはここでさかんに「通し矢」が行われていたそうです。
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桃山時代に始まった「通し矢」。
本堂の南側(むこう)から北側(こちら)の的に向かって矢を射通し、弓の矢数を競う競技で、
現在は古儀にちなんだ弓道大会が毎年1月↓に行われているそうです。

最後に売店で「三角ようじ」100円を買いました。
ご本尊の千手観音さまがその手に諸病を除くという楊枝(やなぎ)を持っていること。
毎年1月の15日に一番近い日曜日に行われる、
三十三間堂最大のご縁日「楊枝のお加持」にちなむものです。
実際に使ってみると、歯の隙間にフィットしてとても快適でした。
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板壁と連子窓の三十三間堂西側から。誰かが結わいたおみくじ
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俗に「三十三間堂」と呼ばれていますが、これは内陣の柱の間数(まかず)が33あるところからで、
実際には南北(向こうが南)65間(約125m)もあります。

さて、ここ三十三間堂にも豊臣秀吉ゆかりの史跡があります。
それは、太閤塀と南大門です。
車両出口から出て、大和大路通り(縄手通り)から南の方へ進みます。

大和大路通り(縄手通り)沿道に「京町屋 体験工房 和楽」さんがあり、
店先を少し見物させていただきました。またゆっくり寄らせてください。
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そして塩小路通りとの角。境内南側に位置する、これが築地塀。
通称太閤塀(重要文化財)です。
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長さ92m、高さ5.3mの土塀。
慶長5年(1600)…関ヶ原の戦いの年に築造…ということは秀吉の死後に完成したことになりますね。

豊臣家の家紋が入っています。
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この太閤塀を辿っていくと、南大門(重要文化財)です。
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本堂と離れた南東にある南大門は、豊臣秀吉の再建による3間1戸の八脚門。
切妻造りで桃山時代の建築です。

太閤塀と南大門、どちらも方広寺の大仏殿の創建時に整備されたものです。
当時交通の要所だったこの地に目を向け、後白河院や平清盛の栄華にあやかろうと思い立った秀吉は、
その権勢を天下に誇示するため、奈良大仏を模した大仏殿、方広寺を三十三間堂の北隣に造営し、
お堂や後白河法皇の御陵をもその境内に取り込んで土塀を築いたのです。
(だから南大門があの位置にあるのですね…)
今もその遺構として南大門・太閤塀(ともに重文)が遺ります。
お堂の修理も千体仏をはじめとして念入りに遂行され、その意志を継いだ秀頼の代まで続きました。
大仏殿は文禄4年(1595)9月に完成し、千人の僧侶によって落慶供養されたといいます。


南大門を抜けると三十三間堂の東側にある色鮮やかな回廊塀。
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向かい側に後白河法皇の御陵がある「法住寺」。「あそびをせんとやうまれけん」と刻まれた石碑が。
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いつかお邪魔しないといけませんね…。
できればゴールデン・ウィークに後白河法皇さまにお目見えしたい。
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さらに法住寺のお隣は「養源院」です。こちらも見どころが多そう。
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遠からず、ゆっくり拝観させていただきたいと思っています。

それにしても、秀吉、後白河法皇の御陵まで方広寺(大仏殿)の境内に取り込んでいたとは驚きです。
やりすぎの感が否めませんが…
没後400年以上経った今も太閤塀や南大門が遺っているからこそ、
秀吉が何を考えていたのかがわかるのですよね。