mamataroおでかけ日記

在住の浅草から近い都内、主人(旦)の実家がある京都周辺、あるいは鎌倉など。イベントや寺社・史跡巡りが記事の中心です.

鎌倉ガイド協会のツアー

実朝800年忌を迎えゆかりの地を巡る 181026

鎌倉ガイド協会10月の古都鎌倉史跡めぐり「実朝800年忌を迎えゆかりの地を巡る」へ。

写真をクリックすると大きな画像を見ることができます。

2018年10月26日(金)

鎌倉ガイド協会10月の古都鎌倉史跡めぐり
「実朝800年忌を迎えゆかりの地を巡る ー鎌倉文学館学芸員による実朝関連の書物の紹介ー」
に参加させていただきました。
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本日の行程。
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最初は鶴岡八幡宮。
大銀杏跡。
公暁が実朝を暗殺する際、大銀杏に隠れていたという伝承に基づいて。
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公暁が実朝を殺害したのは…承久元年(1219)正月27日(旧暦)18時頃のこと。
実朝右大臣拝賀の儀式での史実。
『吾妻鏡』はこの日の朝、惨事の予兆と思われる事象を4つ記しています。
さらに『吾妻鏡』には、実朝の辞世の句も。

「出でて去りなばぬしなき宿となりぬとも 軒端の梅よ春を忘るな」(吾妻鏡)

菅原道真の有名な「東風吹かば…」をもじったこの歌は、『吾妻鏡』にのみ掲載されています。
自身の毛髪1本を形見として従者に渡しながら、この歌を詠んだとされ、
それが事実であれば、実朝自身が殺害されることを知っていたことになります。


「歌あはれ その人あはれ 実朝忌」と刻まれた菅裸馬碑。
菅裸馬の本名は菅礼之助で実朝の研究者です。
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頼朝・実朝を祭神とする白幡神社。
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鎌倉国宝館そばの文学案内板「鶴岡八幡宮」。
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関東大震災で倒壊した二の鳥居を再利用した実朝歌碑。
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「山はさけうみはあせなむ世なりとも 君にふた心わがあらめやも」(金槐和歌集663)
と刻まれています。

実朝桜が植えられています。
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「風さわぐをちの外山に天晴れて 桜にくもる春の夜の月」(金槐和歌集50)
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2番目のスポット、寿福寺に向かう途中、発掘現場がありました。
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建物の木枠が出土。
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どんな史跡なのでしょう!?
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寿福寺に到着しました。
門前の石碑は故・平山郁夫氏によるもの。「源實朝をしのぶ」と刻まれています。
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やぐらの中に安置されている五輪塔、母・政子の墓と並んで実朝の墓。
とはいえ、どちらも遺体は埋葬されていない。
実朝の頭部は秦野に持ち去られたと伝わり、胴体部は勝長寿院(廃寺)に埋葬されたというが…。
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3番目のスポット、鎌倉市役所駐車場前に来ました。
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ここにも実朝歌碑。
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「ちはやぶる伊豆のお山の玉椿 八百万代も色はかはらじ」(金塊和歌集366)
この玉椿とは二所詣で訪れた伊豆山権現(現・伊豆山神社)のもの。

そして実朝桜とまた出会った。
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4番目のスポットは鎌倉商工会議所横の実朝歌碑。
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「箱根路をわが越えくれば伊豆の海や 
  沖の小島に波のよる見ゆ」  (金塊和歌集639)
こちらの歌も二所詣の際に
十国峠のあたりで詠まれたのではないかといわれます。


本日の目玉、鎌倉文学館に着きました。
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ここにも実朝の歌。
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「大海のいそもとどろに寄する波 破れて砕けて裂けて散るかも」(金槐和歌集641)


このバラ園では今日が秋バラの見頃のピークになりそうだといいます。
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今年は台風による塩害もあって、
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開花状況があまり芳しくないとのことでした。
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そんななか、めくるめくバラの花の中で見つけました。
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それは白いバラでした。
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誰かが「源氏だからやっぱり白だね!」と言いました。なるほど

確かに「実朝」だ。
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館内で学芸員の榎本さんの講義を聴講しました。
340人以上もの鎌倉ゆかりの文学者の中で、鎌倉生まれの鎌倉育ちは実朝ひとり。
という事実がとても意外でした。
和歌や蹴鞠を好んだ実朝は「文弱(ぶんじゃく)」と表現されますが、
京のたしなみ、和歌や蹴鞠の愉しさを識らない者のやっかみも多分にあるのではないでしょうか。
本来政治に向かうはずだった情熱を削がれ、その空虚を埋めるに足りてあまりある世界が、
実朝にとって、とりわけ和歌だったというのに…

なかなか借りられないという貴重な展示、太宰治の『右大臣実朝』。
澁澤龍彦の『ダイダロス』。しっかり瞳に焼き付けました。


次のスポット、鎌倉で最も古い創建の甘縄神明社に実朝は1度だけ足を運んだようです。

万葉調といわれた実朝の歌。
こちらには万葉集に載っている鎌倉の歌のひとつ。
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美奈能瀬橋(みなのせばし)に出ました。
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かつては鎌倉の西の境を示す大きな川だったという稲瀬川。
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そして国道143号線を渡って海側の歩道脇に立つ稲瀬川の石碑。
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ここからあの突端(鎌倉海浜公園坂ノ下地区)を目指します。
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鎌倉海浜公園坂ノ下地区に着いた!!
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国道143号線を挟んで反対側の霊鷲山(霊山)山頂には極楽寺の末寺の仏法寺がありましたが、
新田義貞の鎌倉攻めの際に焼かれて廃寺になりました。
(稲村路、極楽寺坂関係の防衛施設跡と推定される)五合桝遺跡も所在。
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そして実朝の歌碑。
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「世の中はつねにもがもな渚こぐ 海人の小舟の綱手かなしも」(金槐和歌集604)


ここで事実上の解散。ガイドさん、本当にお世話になりました。

参加者さんの大多数はガイドさんと一緒に最寄の江ノ電・長谷駅に向かいましたが、
歩き疲れた私は、ここに居残って少し休憩することにしました。
それに。鎌倉文学館でツアーの参加者に本日限定の再入館券が配布されていたこともあり、
展示物をさらにじっくり観るために、どうしても鎌倉文学館を再訪問したかったのです。



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「よみがえる中世鎌倉 発掘跡をあるく」ツアー 171107

鎌倉ガイド協会主催の11月Cコース「よみがえる中世鎌倉 発掘跡をあるく」ツアーに参加させていただきました。

写真をクリックすると大きな画像を見ることができます。

2017年11月7日(火)

上着が必要ないくらい暖かな秋晴れ、絶好の散策日和。
今年初めての、そしてかなりひさしぶりの鎌倉、
鎌倉ガイド協会主催の11月Cコース「よみがえる中世鎌倉 発掘跡をあるく」祝・開設 鎌倉歴史文化交流館  ツアーに参加させていただきました。
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コースは…
鎌倉駅西口集合〜今小路西遺跡〜鎌倉歴史文化交流館〜北条時房・顕時邸跡〜北条氏小町邸跡〜
北条義時法華堂跡〜永福寺跡〜大塔宮バス停 13時頃解散の半日コースです。
(徒歩距離4.5辧高低差なし)

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最初の訪問スポットは今小路西遺跡。御成小学校の校門前でガイドさんのお話を伺います。
今小路の西側に存在することから今小路「西」遺跡と命名された通りに沿った縦長の遺跡。
北側と南側、それぞれに武家屋敷があったと考えられています。
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今年5月15日に開設されて早半年。
鎌倉歴史文化交流館は銭洗弁財天に行く途中、茶房雲母(きらら)の向かいにありました。
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とても鎌倉らしい場所にある鎌倉らしい施設…

この鎌倉歴史文化交流館が建つこの谷戸は「無量寺谷(むりょうじがやつ)」と呼ばれ、
江戸時代には相州伝の刀工正宗の後裔・綱廣の屋敷があったと伝わります。
大正時代には三菱財閥の4代目当主岩崎小弥太が母親のための別荘を構えていました。
岩崎氏はかつてここに祀られていた稲荷社を「合鎚稲荷(あいづちいなり)」として復興。
参道や鳥居、石造神狐像や社祠を整備しました。
さらに時代は下って2000(平成12)年、センチュリー財団がこの土地を取得。
著しく老朽化した社祠を新たに再建。
このたび鎌倉市へ土地と建物を寄附し、社祠・神狐像・参道鳥居を近隣の葛原岡神社に移設しました。


到着後はグループごとに順次、交流室で学芸員さんのお話を伺いました。
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空き時間に館内の展示や敷地内の合槌稲荷跡(現在は見晴台になっている)などを見学。
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合鎚稲荷跡前から見える景色とかつて使われていたであろう細い参道。
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右テの3つの穴はやぐらではなく、左テの穴がやぐら。
さらに左テ奥には防空壕のような穴が。
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展示室4で開催中の企画展「甦る永福寺 史跡永福寺跡整備記念」。
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永福寺は源頼朝が1189年の奥州合戦後、源義経や藤原泰衡をはじめとする数万の将兵の怨霊を鎮め、
冥福を祈るために建てた寺院で、頼朝が平泉で毛越寺や中尊寺を見て建立を思いたちました。

工事にあたって自ら熱心に支持し、立ち会っていた頼朝がある日、
人夫に紛れていた平家の残党、上総五郎兵尉忠光(悪七兵衛景清の兄)に命を狙われたことも。

永福寺は鎌倉幕府の迎賓館的な施設ともいえ、頼朝をはじめ歴代将軍や北条政子らがたびたび訪れ、
境内で蹴鞠、花見、歌会などが催されていました。

交流室では実際に瓦に触れることができました。予想よりずしっと重かったです…
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最後に受付で学芸員さんオススメの図録(700円)を購入して退館しました。
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横須賀線を跨いで、小町通りを越えて若宮大路へ。
北条時房・顕時邸跡と北条氏小町邸跡(またの機会に訪ねます)。
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頼朝の墓に近い北条義時法華堂跡。
入口の灯籠には「覚阿」大江広元 /「西阿」毛利季光の法名が刻まれています。
法華堂跡の背後の山に両者(父子)の墓所があるから。
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そして、いよいよ永福寺跡です。
この石碑や案内板の前まではいままで何度も来たことがありました。
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ここから先が…未踏の地なのね。
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あー、池の水がない。ちょっと残念…
緑の藻(水草?)のお掃除をしていました。
なんか海の、磯のような匂いがする…
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埋め戻された中島。
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平等院鳳凰堂の2倍以上の規模があった永福寺。
北方から流れ込む川を水源に南北約200m、東西40〜70mの苑池を中心にした浄土庭園の西側に、
二階大堂を中心に両隣に阿弥陀堂、薬師堂が置かれ、
南北端の翼廊、池に突き出した釣殿までを回廊でつないだ独特の意匠で知られています。
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これが二階大堂の跡かぁ…
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鎌倉時代後期以降、度重なる火災に見舞われた後は再建ならず、
長らくススキが群生する湿地になっていましたが、
国指定史跡に認定された翌年の1967(昭和42)年度から土地の公有化を進め、
2007(平成19)年以降復元工事に着手し、
今年2017(平成29)年6月、基壇と苑池の復元が完了して公開されました。



青い空が高い。
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経塚。埋まっていた経筒は鎌倉歴史文化交流館で見学してきました。
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州浜。
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釣り殿。
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また来よ♥


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いったん現地解散。
今日みたいな日はお弁当を持ってきてベンチで食べても楽しそう(^^♪

ガイドさんに大塔宮バス停までご案内していただいてバスで鎌倉駅に出て帰りました。
高低差がなくて楽なコースだったけれど、それでも日頃の運動不足を痛感してしまった…
もう少し体力があれば、解散後、最寄りの瑞泉寺に立ち寄ったり、
山上から永福寺跡を展望することもできたはず。ダメだなぁ〜💦
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途中の空き地にススキがたくさん♥
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【おまけ】永福寺跡で出会った可愛い鳥さん。
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帰宅後『かまくら鳥とりどり』で調べたら…「ハクセキレイ」でした!
たしかにチチン!チチン!と鳴いていたわ。
かつては秋から冬にかけて観られる渡り鳥だったが、
繁殖して留鳥化したため、1年中観られるようになっているらしいです。  



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「鎌倉下ノ道に尼将軍の足跡を探る」ツアー 170928

鎌倉ガイド協会の散策ツアー「鎌倉下ノ道に尼将軍の足跡を探る」に参加。

写真をクリックすると大きな画像を見ることができます。

2017年9月28日(木)のち

近年すっかり鎌倉にご無沙汰していた罰(ばち)が当たったか…{/face_ase1/}
かなりひさしぶりに申し込んだ鎌倉ガイド協会主催 
毎月恒例の「古都鎌倉史跡めぐり」平成29年9月のCコース 
横濱歴史さんぽ「鎌倉下ノ道に尼将軍の足跡を探る」〜弘明寺観音参詣 乗蓮寺で政子自刻像拝観〜
ツアーの今朝は、よりによって大雨に見舞われました{/ee_3/}
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昨日天気予報を見て鎌倉ガイド協会にお電話して「台風でもない限り雨天決行」と聞いていたので、
十分に雨対策をして早めに無事、集合場所の市営地下鉄・弘明寺(ぐみょうじ)駅前に到着。

初めての弘明寺(ぐみょうじ)。キョロキョロ。
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鎌倉街道の碑(写真左)、それと…
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雨天のため、本来の1日コースが半日コースに短縮変更になりました。
コースは地下鉄弘明寺駅をスタートして若宮八幡宮〜弘明寺参詣〜乗蓮寺(昇堂)です。

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最初の訪問スポットは若宮八幡宮です。

鳥居に刻まれた文字を埋めてなお残る戦争の軌跡。
「一君萬民」、昭和13年「戦捷祈願」などの文字が読み取れます。
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住宅と住宅の間の参道。
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御由緒。誉田別命(ほんだわけのみこと)とは、応神天皇(仁徳天皇の父)のこと。
合祀した近隣の神社の祭神も刻まれています。
鎌倉の鬼門にあたるので、鎮護のために源頼朝が鶴岡八幡宮の若宮八幡宮を勧請。
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源頼朝の寵愛を受けた大進局は、政子の嫉妬を恐れた頼朝によって
当時、鎌倉の辺境だったこの辺り、久良岐郡(現・横浜市南区)に匿われていました。
市営地下鉄・弘明寺の隣駅・蒔田(まいた)に大進局の子・貞暁(じょうぎょう)が開いた
高野山真言宗 無量寺(むりょうじ)があります。

若宮招魂社は出征してガダルカナルで亡くなった方々の御霊を祀っています。
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若宮八幡宮を後にして、最寄りのスポーツセンターでトイレ休憩後、
再び地下鉄弘明寺駅に戻って駅前を通過します。

そして、次の訪問スポット、弘明寺(ぐみょうじ)です。
かんのん通り商店街はとってもリーズナブルなお店が並んでいます。
大岡川にかかる観音橋から名所の桜並木を望む。花見シーズンにはとても美しい眺め。
「柳川」は「ユ〇〇〇」もメじゃないくらい衣料が爆安とか。ちょっと覗いてみたかったな。
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こちらは弘明寺道。
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こちらは保土谷道。







商店街の外れに弘明寺。
山門の「ほどがや道」の道標はここに移動されたもの。向きもちょっと違う…
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山門の仁王像は慶派の作。
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1本の竹で彫られたマリア像は見逃しがちですが、しっかり教えていただきました。
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石段を上りながら、ふいに鎌倉の杉本寺を思い出した。same smell
後で聞けば銅葺きの屋根はかつては杉本寺のように茅葺きだったそう。
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寺紋と宗紋の違い。
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昇堂せずにお参り。
ご本尊は丸のみの彫痕を表面に残した鉈彫(なたぼり)の十一面観音菩薩。
離れた位置からなので明瞭に拝観できませんでしたが、なんとなく雰囲気は伝わってきました。

政子は承久の乱の際、かの有名な演説の後、いつ朝廷方に寝返るかわからない三浦氏を警戒、
鎌倉から離れた弘明寺に参籠して幕府軍の戦勝を祈願しました。


七ツ石。
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鐘楼。
元禄時代以降に造られた鐘楼は戦争で供出することになっていましたが、
こちらの鐘楼は音が良いため供出を免れることができたそうです。
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秘仏の歓喜天。抱き合うガネーシャ。
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比較的新しい弘法大師像。昔は「閻魔堂」。
閻魔と夫婦だったという(えー、そうなの💦)奪衣婆も間近に観れます。
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影向柱とは何かも教えてもらいました。


鐘楼近くの道から裏参道に抜けます。
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次は乗蓮寺へ。
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政子の化粧井戸。かつて周辺に7つあった井戸、現存する2つのうちのひとつ。
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政子お手植えの榧(かや)。
碁盤や将棋盤に使われる。音がいい。食べられる榧の実の油は盤磨きにも。
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一説によると、この井戸と榧(かや)が「井土ヶ谷(いどがや)」という地名の由来とか。

本堂1Fの和室に安置されている政子坐像(政子自刻像)を前に
室内に正座してご住職のお話を伺いました。

像は写真撮影が禁じられています。☟こちらはネット上で拾わせていただいた画像です。
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あまりじっくりと拝観する時間はなかったのですが、写実的で存在感がある坐像でした。
政子の坐像といえば、菩提寺でもある鎌倉・安養院の坐像がよく知られていますが、
私はこちら、乗蓮寺の坐像の面差しに「尼将軍」と呼ばれた政子の実像が浮かびました。
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浅草から弘明寺までは近いとはいいがたく、このたびのツアーの乗蓮寺参詣は貴重な機会でした。
いつか個人的に再訪してお参りさせていただきたいです。
政子坐像(政子自刻像)拝観後、最後に本堂2Fでご本尊の不動明王にお参りしました。

ここで解散。

雨天でなければ、本来行くはずだったスポットは…
井土ヶ谷事件跡碑、北向地蔵・政子の井戸(御台所の井戸)・福聚寺(ふくじゅじ)。
14時ごろにJR保土ヶ谷駅で解散の予定でした。

希望者はガイドさんに京急「井土ヶ谷」駅まで送っていただきました。
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ここから京急線で横浜へ。
都営浅草線に乗り入れている京急線「高砂行」に乗り換えて浅草に帰りました。
レインシューズを履いて行ったせいか、ちょっと疲れてしまった…
ひさしぶりの参加だったので、半日でちょうど良かったかもしれません。


「午年に坂東札所一番二番を古道で巡る」 1410044

鎌倉ガイド協会主催の毎月恒例の「古都鎌倉史跡めぐり」。「午年に坂東札所一番二番を古道で巡る」に参加してきました。

写真をクリックすると大きな画像を見ることができます。

2014年10月4日(土)蒸し暑い

台風18号の影響で終日曇天。蒸し暑い1日。
かねてより岩殿寺に向かう「巡礼古道」に興味をもっていたので、
鎌倉ガイド協会主催の毎月恒例の「古都鎌倉史跡めぐり」の
10月C(特別)コース「午年に坂東札所一番二番を古道で巡る」に参加してきました。

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9時30分鎌倉駅東口=[バス]=杉本観音バス停〜杉本寺〜旧華頂宮邸(館内見学)〜
巡礼古道(金剛窟地蔵尊経由)〜浄明寺緑地(昼食)〜巡礼古道〜岩殿寺〜
JR逗子駅西口(解散15時頃)[徒歩距離 約7km 高低差あり]とういうコースです。
4日(土)と5日(日)秋の施設公開中の旧華頂宮邸(館内見学)に合わせて、
初めて土曜日と日曜日の両日に行われることになりました。

坂東三十三観音札所巡礼は、源頼朝の篤い観音信仰から始まったとも伝えられており、
今年は観音の眷属(従者)が馬であることから古来巡礼が盛んに行われている十二年に一度の午年にあたります。


コース最初の訪問スポット。
坂東三十三観音霊場 第一番札所 杉本寺は、鎌倉で最も古い寺で、
鎌倉幕府が開かれる約460年前の創建と伝わります。
行基菩薩が、こちらに観音像を置こうと決意し、彫刻した像(ご本尊)を安置したのがはじまりです。
この観音像は、文治五(1189)年の火災で大杉の下に自ら避難して立っていたという伝承から
杉本観音」と呼ばれるようになりました。
また、寺の前を馬に乗ったまま通ると落馬するということから「下馬観音」といわれ、
建長寺の大覚禅師(蘭渓道隆)が五代執権北条時頼の要請で祈願し、
袈裟で観音を覆うと落馬がなくなったので「覆面観音」ともいわれました。

(写真左)茅葺替えが終了した本堂(観音堂)堂内撮影禁止で、
 行基菩薩作の十一面観音(下馬・覆面観音)を含む三体のご本尊(すべて十一面観音)と、
 五色の「お手綱(てづな)」で結縁。杉本寺公式HPの仏像配置図を参照。
(写真中)映っているのは六地蔵のうち4体と、
 杉本城主・杉本義宗を戦いの矢から守ったと伝わる「身代(みがわり)地蔵」。
(写真右)杉本寺の石段から、これから向かう宅間ヶ谷を望む。

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『吾妻鏡』によると、建久二(1191)年には源頼朝も自ら参詣して本堂の再建に布200反を寄進し、
前立本尊(十一面観音)を納めたと伝えられます。
杉本寺は頼朝の手厚い庇護を受けていました。


(写真左)杉本寺を後にして、ここから徒歩でコース二番目の「旧華頂宮邸」を目指します。
(写真中・右)華頂宮様の一字を取って名づけられた「華(はな)の橋」を渡って、
 道標に従って進みます。画像はアップしませんが、橋の右の袂に庚申塔が並びます。

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(写真左)報国寺を右手に見てほどなく左手に、あとで歩く「巡礼古道」の入口(写真中)があります。
(写真右)旧華頂宮邸に到着です。

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一般のお客様とともに館内を見学します(建物の構造上、人数制限〔50人〕あり)。
旧華頂宮邸は旧皇族の伏見宮家(ふしみのみやけ)の分家にあたります。
この建物は昭和4(1929)年華頂博信(かちょうひろのぶ)侯爵邸として建てられ、
侯爵夫婦が数年住まわれた後、持ち主が変わり、平成8(1996)年に鎌倉市が取得。

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(写真左)外観はハーフティンバースタイルの整然かつ古典的な意匠(趣向、デザインの意味)。
戦前の洋風住宅を代表する建物として、国の有形文化財に指定されました。
多くの部屋にはスチーム暖房用の大理石のマントルピースが設置されています。
(写真中)フランス式庭園ではバラや紅葉が楽しめ、(写真右)数寄屋風の「旧松崎邸茶室」と庭もあり。

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旧華頂宮邸から来た道を戻り、「巡礼古道」に入るのですが…

この「巡礼古道」は江戸時代につくられたもので、
鎌倉時代に源頼朝が毎月通ったと伝わる逗子の岩殿寺までは、
おそらく馬で山の尾根道(写真左・遠景)を往来していたと考えられています。
(写真中・右)入口には「浄明寺二丁目6」の電柱があり、「巡礼古道」の小さな掛札も。

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◆「巡礼古道」とは…
観音信仰が盛んだった頃、坂東三十三観音霊場第一番札所の杉本寺から、
第二番札所の岩殿寺に通じていた巡礼道。
昭和13(1938)年に国宝史蹟研究会(八幡義生・杉本寺住職尾崎迷堂氏ら)によって再発見された経緯あり。
昔の信仰の旅を偲ぶものとして、華の橋の袂にある庚申塔に「杉本へ」「岩殿(いわどの)へ」の道標、
道中、岩屋の中に鎮座する「金剛窟地蔵尊」や、道に沿って庚申塔が点々と奉納されており、
安永七(1178)年「奉納百八十八番」の石柱などがあります。


私が日々運動不足ということもあるのでしょうが、なかなかキツい山道でした。
江戸時代の巡礼古道だそうで、生活道路としてもつかわれていたようです。
巡礼古道の入口から7分ほどで(写真左)分岐があり、左へ行くと金剛窟地蔵尊がありました。
ここで行き止まりです。本道は分岐の右方向です。

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(写真左)この金剛窟地蔵尊は鎌倉時代の作ではないか、と考えられているそうです。
…ということは、この周辺に鎌倉時代の古道もあっただろう、と。
(写真右)屋根がある(跡が見えるので)立派な窟だったようです。
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(写真右)正面に「奉納百八十八番 く已ん音(読み:かんのん)」
     右側面に「安永七年戌六月吉祥日」
     左側面に「木村傅吉」        と彫られています。
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(写真左)分岐付近にある四角い水たまりの跡は、この辺りにある鎌倉逗子ハイランドの開発のため用地を買収した西武鉄道グループが、
周辺住民と交渉し、自然を守るための一環として作った「鳥の水飲み場」だそうです。
(写真右)すぐ近くまで水道のパイプが通っていました。
この先巡礼古道の沿道にいくつもこの「鳥の水飲み場」を見ました。

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(写真左)は、石切場の跡です。
(写真右)は、奉納された庚申塔。沿道でよく見かけました。
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こちらは崩落した巨石。
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右手にまた石切場がありました。
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また「奉納百八十八番」が。
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浄明寺緑地に出ました。巡礼古道入口からここまで約30分かかりました。
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清々しい浄明寺緑地を少し歩いて…
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道標を見ながら。
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気候条件が揃えば、美しい富士山が望める…今日は残念ながら見ることができませんでした。
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三々五々、お弁当を食べて決められた集合場所へ。

また巡礼古道を歩いて、逗子にある二番札所「岩殿寺」を目指します。

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途中、とても眺めの良い場所があり、遠く鎌倉市内や江の島が見えました。

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久木高区貯水池。「名越里山・東名越」方面へ。「奉納百八十八番」。

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逗子ハイランドが見え、山道のすぐ下に住宅街が。車道に出ました。

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(写真左・中)車道を渡って左手「なかよし公園」内を通り抜けます。
(写真右)これから岩殿寺境内にあるあの鉄塔の高さまで上がります。
     …山門までは住宅街を通ってぐるりと迂回せねばなりませんが。

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住宅街の途中に三つ目の「奉納百八十八番」。
もっと上に安置されていたものが(巡礼古道)はもっと高い位置を通っていた)崩落し、
屋根状の石を後付けしたものでした。

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さらに住宅街を行き、車道(県道205号線)に出ました。
右にJR横須賀線の線路が走っていますが、敷石は名越トンネルを掘った時に出たもの。
この先、左手の路地に入り、道標を見ながら住宅街を進むと「岩殿寺」です。

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到着しました。坂東三十三観音霊場 第二番札所 「岩殿寺」です。

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「お手綱(てづな)」で本堂のご本尊と結縁。新調の「お前立観音」にお参りしました。
ご本尊は、かつてこの辺りが鎌倉・英勝寺の寺領だったこともあり、
開基である英勝院尼の葬礼に際して作られた六観音のひとつと伝わる秘仏。
ほか5体の観音像については周辺寺院に存在したようですが…定かなことは不明です。
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開山は大和・長谷寺の開山でもある徳道上人。創建は養老年間(717〜724)。
さらに数年後、行基菩薩が訪れて、」十一面観音の石像を彫って安置しました。
当初は真言宗でしたが、徳川家康の代官・長谷川長綱が曹洞宗として再興。

観音堂に続く長い石段(172段だったかな)の途中に「爪彫(つめほり)地蔵尊」。
弘法大師が爪で掘った像と伝わりますが…。
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棟札によると、享保13(1728)年に再建された観音堂。
その傍らには一時期逗子に住んだ明治の文豪泉鏡花が寄進した瓢箪池があります。
歌碑が山門近くにあり、当ブログの最後に登場します。
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観音堂の背後には石像の十一面観音を納める「岩殿(奥の院)」があります。

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続いて「正教(せいきょう)観音吉祥塔」に向かいます。
(写真右)小道の前方に「なかよし公園」の近所で見上げた、あの鉄塔が見えました。
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鉄塔の場所から、元大和証券社長が別荘として所有していた建物や「切岸」の一部が望めます。
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秩父三十四観音霊場札所御詠歌碑の先には「正教観音吉祥塔」が建っています。
正教(まさのり)は、この塔を建立した先々代住職のお名前です。
その左下(ピンクの矢印)がかつての巡礼古道に続いていた小道。
ほどなく断崖になっているので進むことはできません。
この先に続いていた巡礼古道は、逗子ハイランドの開発時に断絶されたそうです。
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伝承では石橋山の合戦で敗れた源頼朝が観世音を念じたところ、
直後に岩殿寺の観音様が船頭になって現れ、房総に無事送りとどけたといわれます。
頼朝は岩殿寺の本尊を篤く信仰し、毎月一度の参詣や寺領の寄進をしました。
『吾妻鏡』には北条政子や源実朝、大姫ら頼朝の家族や幕府の有力御家人が多数参詣したことが記されています。

巡礼古道は断絶されましたが、この高台から当時の人々も眺めたかもしれない景色を一瞬想像してみました。


山門左脇の泉鏡花(1873〜1939)の歌碑。
「普門品 ひねもす雨の 桜かな」と読むそうです。
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帰宅後調べたところ、
本歌は「普門品」が2句目に入っていたのを、建立責任者の里見らが1句目にもってきたのだとか。
だから2句目が1句目より上の位置に刻まれた微妙な配置になっているのかなぁ、と思いました。

今回は1ページにまとめたので、とても長い記事になってしまいました。
ですが、まだまだ書ききれない部分もあり、余裕がありましたらまた後日加筆します。
毎回素晴らしいガイドさんにご案内いただいていますこと、心から感謝しています。
またの機会、参加を楽しみにしています。
観音信仰についても勉強が足りないので、理解を深める歳月を経て、
個人的にじっくり歩いてみたいコースです。

茅ヶ崎に「源頼朝」と「懐島景能」ゆかりの地を巡る【前編】 1306055

鎌倉ガイド協会の史跡ツアー【茅ヶ崎に「源頼朝」と「懐島景能」ゆかりの地を巡る】に参加の前編です。

写真をクリックすると大きな画像を見ることができます。
人物が登場しない画像および加工をしています。

2013年6月5日(水)

梅雨の晴れ間、神奈川県茅ヶ崎市へ。
鎌倉ガイド協会の史跡ツアー【茅ヶ崎に「源頼朝」と「懐島景能」ゆかりの地を巡る】に参加しました。

コースは…
茅ヶ崎前(バス)茅ヶ崎駅北口バス路線図→バス停「今宿」→旧相模川橋脚公園→弁慶塚→鶴嶺八幡宮→龍前院→宝生寺(昼食)→えな塚→神明大神宮→本社宮→バス停「肥地力(ひじりき)」→(バス)茅ヶ崎駅前  
高低差なし、6kmほどの距離です。

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こちらは前編の記事です。
茅ヶ崎前(バス)茅ヶ崎駅北口バス路線図→バス停「今宿」→旧相模川橋脚公園→弁慶塚→鶴嶺八幡宮→龍前院→宝生寺(昼食)→えな塚までの行程をアップします。
続きは後編にアップしています。


本日訪ねる茅ヶ崎市の「懐島(ふところじま)」は、
鎌倉権五郎景政が開発、伊勢神宮に寄進した「大庭御厨(おおばみくりや)」の最西部にあります。
この地を相続した大庭氏一族の懐島景能(ふところじまかげよし)は、一族の中でも終始源氏方に味方し、
源義朝・頼朝に従って活躍しました。
頼朝の信頼厚く、頼朝の館や鶴岡八幡宮の造営奉行を務めたり、
奥州合戦前には頼朝に適切な助言を与えるなどの功績を残しています。

最初に訪ねる旧相模川橋脚は頼朝落命の原因になった相模川の橋供養に関わる史跡です。
えな塚やコースには記載されていない頼朝の愛妾とも伝わる丹後内侍にまつわる史跡も見学しました。


さて、茅ヶ崎駅北口バスのりば3番から「茅06平塚駅行き」に乗車。
茅ヶ崎駅北口バス路線図
→バス停「今宿」下車…茅ヶ崎駅から5つ目です。160円。
バス停の手前で左手に旧相模川橋脚公園が見えますので、
下車後、バス通り(国道1号線〔旧東海道〕)の来た道を戻るような格好になります。
新湘南バイパスの高架下を抜けて小出川に架かる橋を渡るとすぐ。
現在の小出川は相模川の支流ですが、過去の文献によっては相模川とも表記されているようです。

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ここが旧相模川橋脚公園ですね。
浅い池に旧相模川橋脚をレプリカ再現しています。
周辺には案内板や解説模型が設置してあります。

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(写真左)鎌倉時代の旧相模川の推定流路。
     当時の小出川(相模川とも)は西北から東南に流れていました。
     赤い●の三角ゾーンが橋(遺された橋脚の場所)を表しています。
(写真中)出現時の状態。
(写真右)保存方法の概念図。実物は水面の下にこのように保存されています。

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武蔵国稲毛(川崎市)を領していた稲毛重成が亡妻の供養に相模川に架橋。
この稲毛重成は北条政子の義弟にあたる人物です。
建久9(1198)年12月27日、その落成式の渡り初めをするため参列した源頼朝は、
その帰路落馬して翌年1月13日に死亡したことが後年『吾妻鏡』に記されているものの、
頼朝の最期は記載していないため、死因については未だに謎とされ諸説あり。

関東大震災による液状化現象(2013年3月27日天然記念物指定)で突然水田から出現し、
歴史学者の沼田頼輔博士が『吾妻鏡』等の記録や橋脚の年輪年代測定等により、
重成の架橋による橋脚と考証されました。国指定史跡。
確認された橋脚は10本。橋幅約9m、長さ40mを超す橋だったと推測されています。




続くコース、弁慶塚を目指します。
途中、相模川の支流、千ノ川(ちのかわ)一面に生息している葦が風に靡く様に思わず目を惹かれました。
気温は高いのに散策が快適なのはこの風のおかげです。

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鳥居戸橋(とりいどはし)まで歩くと、「南湖の左富士」の石碑があります。
気候や天候の条件がうまく整うと、ここから富士山が見えるそうです。

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橋の上を走るのは国道1号線(旧東海道)です。
これから訪ねる鶴嶺神社の大きな鳥居が見えます。
信号を渡って鳥居脇の細い路地を入り、現在民家のお庭の一角にある弁慶塚へ。
頼朝は弟の義経や叔父の行家の亡霊に出遭って落馬したとも伝わっており、
後年里人が義経一族の慰霊のために造ったとされています。

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8丁(87.23727273m)もの距離がある、松並木の参詣道をひたすら歩きます。
途中、沿道の紫陽花がとても美しく咲いていました。

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朝恵上人の偉業を讃える碑と、女人塚、授かり石。

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鶴嶺八幡宮(つるみねはちまんぐう)」に到着。鎌倉の鶴岡八幡宮同様、太鼓橋があります。
創建は1028年と鶴嶺神社の方が古いです。材木座の鶴岡若宮(元八幡)は1062年。
鶴嶺神社のご祭神は應神天皇、仁徳天皇、佐塚大神(さづかのおおかみ)。

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鶴嶺八幡宮の創建については、二つの伝承があり…
_島景能の三代前の良正が1133年に創建した(八幡宮別当聖福寺縁起)
源頼義が1030年、「平忠常の乱」を鎮定に向かう途中、懐島本社丘に石清水八幡宮を勧請して戦勝祈願した(皇国地誌草稿)=懐島八幡宮
頼義の子・義家は後三年の役で戦勝後、父が創建した懐島八幡宮を1089年に現在の鶴嶺神社の地に遷宮。
懐島景能は頼朝の援助を受けて鶴嶺神社の大規模な造営整備を行いましたが、
神域の設計は自ら手がけた鶴岡八幡宮の構想と同一に。
よって両社の配置が酷似しています。



続いて、茅ヶ崎市浜之郷356(0467-86-8511)。
曹洞宗の「懐島山龍前院(かいとうさん・りゅうぜんいん)」です。
寺伝によると開山は約800年前。
懐島景能の祖・良正を開基に僧・道印が行基菩薩の作による薬師如来・十二神将を祀ったのが始まりで、
古くは法相宗の寺、そして古義真言宗、鶴嶺八幡宮の僧坊を経て1508年頃に曹洞宗寺院として楞山周厳(りょうざんしゅうげん)が再興。
ご本尊は阿弥陀如来。かつて三井寺からいらしたご本尊は1894(明治27)年の火災で焼失。現存していれば国宝だったとか。
ご住職さんのご厚意で本堂に上がり当寺の変遷や頼朝落馬後の伝承など、興味深いお話を伺うことができました。
かつては国道1号線(東海道)まで7万坪弱の寺領をもっていた龍前院。
堂内には黄檗宗二代目・木庵禅師の筆による門額が。

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境内の墓所の一角には、鎌倉末期〜南北朝時代に造られた10基の五輪塔があります。
今回のツアーで配布されたリーフ、およびご住職さんのお話によると、ここに祀られているのは…
〕蠶が落馬した責任をとって自害した警護の者10名(…にしては造られた時期が遅すぎる)
二階堂一族(藤原氏出身、鎌倉の二階堂に住んだ文官。二階堂元行は和田合戦で功績を立て懐島郷などが与えられ居館を構えたことから)
8四蠶(落馬後、最寄の桜屋敷〔後述〕で死亡したことから)
ね蠶の落胤という伝承がある島津氏(忠久の臍の緒を埋めたと伝わる「えな塚」も近い)
ヂ膵捷元 という説があるそうです。

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『吾妻鏡』には頼朝の最期の記述がありませんが、それは落馬後、愛妾と伝わる丹後内侍が住まう最寄の桜屋敷に担ぎ込まれ(鎌倉まで運ぶのはムリだったから)、介護の甲斐なく死去し当寺に葬られた
(嫉妬深い政子がその記述を削除させた
1960年に高名な先生が立てた説だそうですが、今さら世間を騒がすのもどうか、ということになり、巷間に広がることはなかったそうです。
10基の五輪塔は皆同じくらいの大きさなので、仮にも頼朝の墓を特定するのはムリがありそう…とか。
また、龍前院には131もの五輪塔があり、うち57〜58基が整備されているそうです。


続いて「懐島山宝生寺(かいとうさん・ほうしょうじ)」を目指します。
その途中に撮影した、のどかな懐島(ふところじま)の風景です。
とても日当たりが良い平地…住宅街の中に畑やビニールハウスが見られました。

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参詣道沿いに道祖神やお地蔵さん(北向地蔵)が祀られています。

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茅ヶ崎市西久保546(調査中)。高野山真言宗の「懐島山宝生寺(かいとうさん・ほうしょうじ)」に到着。
創建は不明。開基は懐島景能と伝わります。ご本尊は金剛界大日如来です。
最初は島津忠久の「えな塚」付近、頼朝などの菩提を弔うために創建されたと伝わります。
後世に武家の館(石見屋敷)跡のこの地に移されました。

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本堂に向かって左手の小堂に祀られた寺宝を特別に拝観させていただきます。
ふだんは門扉が閉まっており、1年に1度、4月29日のみ開扉されます)
国の重要文化財にも指定されている善光寺式阿弥陀三尊像。
仏法最初の像と伝える信濃・善光寺の本尊を模した像といわれています。
一説に懐島景義の持仏だったともいわれていますが、来歴については不明。作者の銘もありません。
13世紀半ば(鎌倉時代中期)に造られた金銅像で、台座と光背は近世のものです。

「手のかたち(印相)」や、一つの光背に三尊がはいっている(一光三尊)ところなどが一般的な阿弥陀三尊像との相違点。
中央の阿弥陀如来像は右手が「施無畏印(せむいいん)」。
左手は「刀剣印(とうけんいん)」と呼ばれるとても珍しい印相です。
手を下げ、第二指、第三指を伸ばし、他の指を曲げた形で、当寺では「瀧印(たきいん)」と呼んでいます。
両脇侍は、胸前で両手の掌を水平にして重ね、慈悲の心を溜めている、あるいは持っているとされる「梵篋印(ぼんきょういん)」。

また、六角形をした独特の宝冠を被っています。
特に右脇侍の勢至菩薩像に顕著な“反り”が見られるのは、
江戸時代の天明年間(1781〜89)に起きた火災の熱によるものです。

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拝観後、涼風が吹く爽やかな境内で、昼食かたがた30分間ほど休憩をさせていただきました。
「瀧不動尊」…先ほど拝観させていただいた阿弥陀如来像の左手を当寺が「瀧印(たきいん)」と呼ぶ由縁

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記事が長くなりすぎるのでアップはしませんが、
境内には他に宗祖の弘法大師を祀る祠、鶴嶺小学校から移設された二宮金次郎像なども。



さて、懐島山宝生寺の門前を右に進み、「えな塚(旧跡「懐嶋山の碑)」を目指します。

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この周辺の地図はコチラをクリックしてご覧ください。
湘南東部総合病院の先を左折して、新湘南バイパスに出たら、前方の原っぱを目指し、
茅ヶ崎中央料金所の手前の辺りを横断しますが、渡る時には通行車に十分注意が必要です。

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えな塚(旧跡「懐嶋山の碑)」に到着です。
碑の前まで行くことができますが、この日は“ぬかるみ”があったので行きませんでした。

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妻・北条政子の嫉妬を恐れ…
源頼朝の愛妾・丹後内侍の桜屋敷がこの近くにありました(後ほど訪ねます)。
ひそかに男子(落胤の島津忠久と伝わる)を出産し、“えな”(胎盤)を埋めたと伝わりますが、
史実上、島津忠久の出自は諸説あるものの、頼朝の落胤という可能性は低いようです。
(母親が丹後内侍!?、父親が惟宗忠康(これむねただやす) !?)
また、この「えな塚(旧跡「懐嶋山の碑)」は懐島景能の墓ともいわれています。


その丹後内侍の桜屋敷があったとひそかに伝わる場所が近くにあります。
茅ヶ崎市西久保1564(0467-83-0658)の「妙運寺」というお寺です。
場所はコチラをクリックして地図をご覧ください。
見学コースにはないので外観のみ速やかに拝見させていただいて、門内に入るのは控えました。

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さて、今回のツアーもいよいよ大詰め…これから円蔵神明大神宮(えんぞう しんめいだいじんぐう)へ。
続きは【後編】にアップしています。

茅ヶ崎に「源頼朝」と「懐島景能」ゆかりの地を巡る【後編】 1306055

鎌倉ガイド協会の史跡ツアー【茅ヶ崎に「源頼朝」と「懐島景能」ゆかりの地を巡る】に参加。後編です。

写真をクリックすると大きな画像を見ることができます。
人物が登場しない画像および加工をしています。

2013年6月5日(水)

梅雨の晴れ間、神奈川県茅ヶ崎市へ。
鎌倉ガイド協会の史跡ツアー【茅ヶ崎に「源頼朝」と「懐島景能」ゆかりの地を巡る】に参加しました。

コースは…
茅ヶ崎前(バス)茅ヶ崎駅北口バス路線図→バス停「今宿」→旧相模川橋脚公園→弁慶塚→鶴嶺八幡宮→龍前院→宝生寺(昼食)→えな塚→神明大神宮→本社宮→バス停「肥地力(ひじりき)→(バス)茅ヶ崎駅前  
高低差なし、6kmほどの距離です。

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前編】に続いて、こちらは後編の記事です。
神明大神宮→本社宮の行程をアップします。


さて。今回のツアーもいよいよ大詰め、円蔵神明大神宮(えんぞう しんめいだいじんぐう)を目指します。
行程では社殿の後方から正面の鳥居に向かって歩いて行きます。
前方に樹木が生えている場所が円蔵神明大神宮です。
背後が懐島景能(ふところじまかげよし)の館があった場所とされ、“水”を避けるために「微高地」になっています。

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茅ヶ崎市円蔵字御屋敷2282(調査中)。
ほどなく「円蔵神明大神宮(えんぞう しんめいだいじんぐう)」に到着しました。

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御祭神は天照大神。創建は承安年間(1171〜1174)と伝わります。
前述のように、この周辺一帯は大庭御厨の領主・景能の懐島館があった場所。
この神明大神宮は景能が館の鬼門に伊勢神宮を勧請したものです。

大庭御厨は、現在の寒川町、茅ヶ崎市、藤沢市にまたがる相模最大の御厨でした。
鎌倉権五郎景政によって開発され、のちに伊勢神宮に寄進された荘園です。
後年、景政の曾孫にあたる景能、景親、景久ら兄弟に分割相続され、
景能は大庭御厨の懐島郷に館を構えたことから「懐島太郎」と称しました。


(写真左)鳥居のそばに立つ境内図の案内板で見どころをチェック。
(写真右)拝殿の左手から背後に回り右手に向かって境内史跡を見学しながら進みます。

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景能は源義朝に仕えて保元の乱に従軍し、源為朝の矢を膝に受けて負傷。
以後は家督を弟の景親に託してここ懐島郷で暮らすことに。

後年、義朝の嫡男・頼朝が挙兵すると、同族の中でも景能は従い景親は敵対。
景親は石橋山合戦の首魁となり頼朝軍を撃破しますが、
敗退後形勢を立て直した頼朝が鎌倉入りを果たすと、捕らえられ処刑されました。

一方、頼朝の御家人となった景能は、北条政子の鎌倉入りの出迎えや、
鶴岡八幡宮、頼朝の館の造営などの奉行を務めるほか、
1189(文治5)年の奥州合戦では朝廷の勅許が得られない頼朝に
「部下(藤原泰衡)を討つのに天皇の許可は必要ない」と進言するなどの功績を立てました。

景能の功績を物語る『吾妻鏡』文面の石碑や解説板、「懐嶋平権守景能公」像があります。

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写真はアップしませんが、他に「懐嶋ゆかりの五輪塔」群や「大庭小次郎景兼公」の供養塔なども。
大庭小次郎景兼(かげかね)は懐島景能の嫡男で、和田合戦で和田義盛に加勢し、
消息を絶ったか失脚したと考えられている人物です。







円蔵神明大神宮を後にして、本日最後のスポット本社宮(ほんじゃぐう)を目指します。
バス通りに出る途中の「神明大神宮道」の石碑。
初めから円蔵神明大神宮を目指す時には、こちらが表参道の入口になるのですね。

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JR茅ヶ崎駅方面に向かって、県道45号線「円蔵」信号交差点を右のバス通り(県道45号線ではない方向)へ進みます。
途中「矢畑」信号交差点の路地を入ると、茅ヶ崎市矢畑142(調査中)の「本社宮(ほんじゃぐう)」です。
さらに詳しい地図はコチラをクリックしてご覧ください。

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御祭神は應神天皇。創建は1030(長元6)年です。
1030(長元6)年に源頼信・頼義父子が平忠常の乱の鎮定に向かう途中、
石清水八幡宮を勧請して懐島八幡宮とし、戦勝祈願をしたのが始まり。
これを鎌倉へ勧請して鶴岡八幡宮になったといわれています。
なお、この地にあった懐島八幡宮は、現在の鶴嶺八幡宮に遷宮された後、
現在の名称の「本社宮(ほんじゃぐう)」に改称されて、この辺り矢畑村の鎮守になりました。

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拝殿の右手には、茅ヶ崎市指定の重要文化財で、
1656(明暦2)年の年号銘が入った庚申塔があります。
三猿が刻まれる型の初期のもので、庚申塔としては例の少ない石祠の形です。

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お参りと見学後、再びバス通りに出てJR茅ヶ崎駅方面に向かって進み、
最寄の「肥地力(ひじりき)」バス停から朝スタートしたJR茅ヶ崎駅まで。そして解散。

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陽光が燦々と降り注ぐ先祖伝来の大地を守って生きた懐島景能と、
景能を心から頼りに幕府を草創し、時に愛妾との愛を育んだかもしれない源頼朝。

当時の面影を残すスポットはほとんどありませんでしたが、
かねてより訪ねてみたかった懐島の史跡を巡る旅、とても良かったです。
毎回ガイドさんの博識には感銘を受けていますが、今回も本当にいろいろな知識を授けていただきました。
あえて記事にはしないで頭の中に永久保存したいと思います。

「称名寺の緑陰を散策し、鎌倉密教を学ぶ」 1208074

鎌倉ガイド協会の史跡めぐり「称名寺の緑陰を散策し、鎌倉密教を学ぶ」レポです。

写真をクリックすると大きな画像を見ることができます。

2012年8月7日(火)暑い

鎌倉ガイド協会の史跡めぐり「称名寺の緑陰を散策し、鎌倉密教を学ぶ」に参加させていただきました。

本日のコースは…
9:00〜9:30京急「金沢文庫」駅出発→薬王寺→称名寺→
稲荷山(北条実時墓)→金沢山(八角堂)→金沢文庫(鎌倉密教講座・特別展)解散12:00頃

※時間の都合で稲荷山(北条実時墓)→金沢山(八角堂)は行かなかったので、
ツアー終了後、個人的に稲荷山(北条実時墓)のみ行ってきました。

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(写真左)金沢文庫の駅前交差点で能見台が見えました。
有名なのにまだ行ったことがないので、いつか行ってみたいです。
(写真右)この路地を左折してあとは住宅街の緩い坂の1本道を目的地(薬王寺・称名寺)へ。

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称名寺の門前にある薬王寺は真言宗御室派。
源範頼の別邸跡に範頼の菩提を弔うために建立されたお寺。

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金沢北条氏の氏寺だった称名寺は、創建当初の念仏寺から後に真言律宗西大寺派に改宗。
かつては阿弥陀堂(阿弥陀如来-過去仏)、講堂(釈迦如来-現在仏)、金堂(弥勒菩薩-未来仏)の
三世仏を中心に護摩堂、方丈、雲堂、三重塔、庫院など七堂伽藍が整った大寺院でした。

釈迦堂と金堂をお参りをして、金沢顕時・貞顕の墓を見学。
阿字ヶ池畔の青葉の楓は先日の台風で一部枯れて葉が茶色になっていました。

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11時〜。隣接する金沢文庫で企画展「鎌倉密教〜将軍護持の寺と僧〜」見学前に学芸員さんの講義を40分ほど聴講。
全て理解するのはむずかしかったですが、
「そうだったのね」という発見がたくさんありました。
事前に配布されたお子様向けの企画展「鎌倉密教」補助解説冊子※…
カエルさんのイラストが可愛くて内容もわかりやすかったです
※補助解説冊子は受付のカウンターにセッティングしてあります。

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解散後、釈迦堂脇から遊歩道〜山道を歩いて約5分。
まだ行ったことがなかった稲荷山の北条実時墓に行ってきました。
事前にガイドさんからもご説明いただいていましたが、
途中の案内板にもあるように、崖崩れのため通行止めになっていて…

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稲荷山から金沢山へ通り抜けることができなくなっていました。
知人から是非にと勧められ、この尾根を歩きたくて今コースに参加したのですがやむを得ません。
八角堂や金沢百観音には別ルート(金堂の左手)から行けるのでしょうが、
併せてまたの機会にゆっくり訪ねることにしました。

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こちらが称名寺の開基「北条実時公御廟」。蝉時雨が盛んに降り注いでいました。

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(写真左・中)中央の相輪部分が欠けている宝篋印塔が実時の墓で、
両脇にある五輪塔は一族のお墓です。
(写真右)ご参考:称名寺境内の実時の胸像。

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実時の墓は思ったより近かったのですが、途中の山道は写真のように夏草が生い茂っていて、
小さなヘビが飛び出してきたり
夏以外のシーズンに訪ねる方が良い」かもしれません。
と知人に言われていたことを現地で身をもって納得しました

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炎天下の暑さでしたが、称名寺の緑陰と涼しげな阿字ヶ池の水鏡に癒され、
閑静な金沢文庫でたいへん貴重な資料に触れることができました。
浅草から都営浅草線(京急線接続)で1本(70分程度)と、鎌倉よりも交通の便が良い金沢文庫。
もっと気軽に訪ねても良い場所です。

緑陰を求め、東逗子に鎌倉ゆかりの名刹を訪ねる 1207195

鎌倉ガイド協会の史跡めぐりツアー「緑陰を求め、東逗子に鎌倉ゆかりの名刹を訪ねる」参加レポです。

写真をクリックすると大きな画像を見ることができます。

2012年7月19日(木)猛暑日

鎌倉ガイド協会の史跡めぐりツアー「緑陰を求め、東逗子に鎌倉ゆかりの名刹を訪ねる」
に参加させていただきました。

コース(地図太線):JR東逗子駅〜海宝院〜光照寺(本堂拝観)〜神武寺(客殿特別拝観)
〜池子参道〜東昌寺〜京急神武寺駅(解散)。高低差ありの5km。

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平安時代から開発領主として勢力をもった三浦氏の支配地・逗子。
東逗子の沼間(ぬまま)には三浦氏と密接な関係をもった源義朝の旧宅があったことが
『吾妻鏡』1202(建仁2)年の条にも記されています。
義朝の長男義平(頼朝の異母兄)も三浦氏保護のもとこの館に居住していたとも。
なお、古刹・神武寺は本コース最大の見どころです。


(写真左)最初の訪問スポット、曹洞宗「長谷山海宝院(かいほういん)」です。
(写真中・右)立派な四脚門。

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【創建】1590(天正18)年 【本尊】十一面観音
【開基】長谷川長綱 【開山】之源臨乎(しげんりんこ)
【史跡】長谷川長綱とその一族の墓・向井忠勝婦人(長綱の娘)の宝塔

「鎌倉(時代)」との関わりはないのですが、逗子市内で唯一寺歴が明確で歴史ある寺院。
1590(天正18)年に江戸入府した徳川家康は、
長谷川長綱を代官頭として幕府直轄地の三浦郡を支配させ検地を実施。
長綱は家康から与えられた十一面観音を当初横須賀村の良長寺に安置するも、
開山の之源が郷里(駿河国)を偲び、富士山が見える(かつては見えた!?)ここ沼間に移転。

(写真左)曹洞宗の開祖・道元の守り神を祀る「白山妙理大権現」。
(写真右)本堂内(入口から左上方向)には
北条早雲が三浦氏を攻めた時に使ったコンパクトな陣鐘〔銅鐘(県重文)〕が。

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(写真左)長谷川長綱とその一族の墓。 
(写真右)向井忠勝婦人(長綱の娘)の宝塔。

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次の訪問スポット、光照寺に向かう途中「門前橋」。
今は無き、どんな史跡の「門前」に架かっていた橋なのか気になるところ。

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真言宗(逗子延命寺末)「開宮山光照寺」にて本堂拝観。

【創建】不明。 【本尊】伝もとは釈迦如来。現在は阿弥陀如来立像。
【開基】不明。 【開山】不明。

1159(平治元)年「平治の乱」で敗れ処刑された源義平(頼朝の異母兄)の菩提寺と伝わる。
1869(明治2)年の神仏分離令まで御霊社(鎌倉権五郎景正を祀る)の別当寺。

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本日のコースのメインスポット、神武寺まで比較的緩やかな上り坂の裏参道(かつての表参道)を歩きます。
途中、ヤマユリがとても美しくほのかに甘い香りが漂っていました。
炎天下の暑さでこれまでの道のりも少々キツかったのですが、最後に難所(坂)が待っていました

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天台宗「医王山神武寺(じんむじ)」着
山岳寺院の景観をもつ古刹です。
こんなに遠い※とは思いもよらず…、その分俗世と隔離されたようで心落ち着く寺院でした。
※東逗子駅発で道のりが短いコースもあります(上の地図破線)。

【本尊】薬師如来 【開基・開山】行基 【中興】慈覚大師(円仁)

奈良時代の724(神亀元)年、聖武天皇の霊夢により命を受けた行基がこの地に下向。
十一面観音、釈迦如来、薬師如来の三尊を祀ったのが起こり。
平安時代、文武天皇が慈覚大師(円仁)に七堂伽藍を整えさせ、天台宗に改宗。
鎌倉時代、源頼朝が平家追討祈願に文覚を住持にしたと伝わる。
『吾妻鏡』では1209(承元3)年、(疱瘡が快復した翌年)実朝が参詣。
戦国時代の1507(永正4)全山消失、小田原入りした北条氏の保護で復興。
豊臣秀吉の小田原討伐で甚大な被害を被る。
1590(天正18)年に江戸入府した徳川家康により翌年5石の朱印状で復興。
江戸時代、数回の火災と復興を繰り返し現在に至る。


大きな宝珠の屋根、客殿(来迎院)内を特別拝観させていただいた後、境内史跡へ。

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「弥勒やぐら」は鶴岡八幡宮の木造弁才天坐像(国重文)を奉納したことでも知られる
舞楽師・中原光氏(なかはらみつうじ)の供養のために造られたもの。

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逗子八景の一。神武寺の晩鐘(実は暁鐘)。1623(元和9)年の銘あり。
第二次世界大戦で供出し、現在のものは1950(昭和25)年再鋳造。

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室町時代の建築様式の本堂(薬師堂)は国重文。本尊の薬師如来像は行基作と伝わる秘仏。

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ホルト※の木」別名「なんじゃもんじゃの木」。※ポルトガルの意という説による。

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まさに“緑陰”の「池子参道」ハイクで森林浴。素敵な山道でした

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途中、ガイドさんから鎌倉幕府八代将軍(誰って感じ)久明(ひさあき/ひさあきら)親王の墓と伝わる
「親王やぐら群」のお話がありました(実物は見学しません)。
みだりに近づくと祟りがある、という言い伝えがあるらしいです。
ちなみに久明親王は征夷大将軍になるもやがて解任、京に送還され出家後没。
当時幕府の実権は執権…北条得宗家の貞時、続いて師時が握っていました。

山道を抜けて世俗の世界に出たら、住宅街の中を進んで東昌寺に向かいます。

真言宗「青龍山東昌寺(とうしょうじ)」着。

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【本尊】大日如来 【創建・開基・開山】諸説あり。

寺歴によると鎌倉幕府滅亡時に鎌倉・東勝寺(現在廃寺)で北条一族が自害した際、
住職の信海が本尊を火中から運び出し、池子に逃げて東勝寺を建立。
1637(寛永14)年池子村が英勝寺の寺領になった際、「勝」を「昌」に改めた。

阿弥陀堂には北条政子が実朝の供養に運慶に彫らせた阿弥陀如来坐像が安置されていたが、
(なぜ鎌倉ではなく逗子に阿弥陀堂を造ったのかはナゾ…)
1727(享保12)年の東昌寺の火災で阿弥陀堂ごと焼失。
現在のきびしい表情をした阿弥陀像(市重文)は、
1756(宝暦6)年鎌倉扇ヶ谷の三橋宮内忠之親子によって再建されたもの。

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境内の五輪塔は逗子市内唯一の国重文。
葉山の慶増院にあったものを〔慶増院廃寺後、高養寺(浪子不動)として再建された後、
東昌寺の管理になる〕1976(昭和51)年に移設。
慶増院は鎌倉幕府の御家人・二階堂氏ゆかりの寺で、
二階堂行盛(行然)の墓もしくは二階堂行藤の墓という説もあり。

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全行程が終了し、時計はちょうど12時になったところ。
半日しか活動していないのですが、炎天下の暑さで疲れも倍増という感じです。
ガイドさんが道々水分補給の配慮をしてくださり熱中症も大丈夫でした。

最寄のバス停付近で解散になり、mamataroはその斜向かいの駅入口へ。
京急「神武寺駅」から帰宅の途につきます。

行ってみたいという気持をもちつつ、個人的にはなかなか来られずにいた神武寺をはじめ東逗子のお寺。
今回も博識なガイドさんの貴重なお話(当ブログでは省略)、
皆様とご一緒ならではの特別拝観等希少な機会を得られましたこと、大変感謝しています。
たいへん有意義な時間(ひととき)でした



【ぷらす】
意志薄弱でなかなか訪ねる機会がないかも…と思い、
散策コース開始前にコースに含まれていなかった東逗子の史跡を散策。
源義朝の館(沼浜城)があった場所と伝わる法勝寺周辺と、その鎮守と伝わる五霊神社を訪問しました。

(写真左)周辺地図。(写真右)五霊神社。

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(写真左)源義朝の館(沼浜城)があった場所と伝わる法勝寺。
(写真右)法勝寺西側、館があったのはこの辺(木立の奥)か

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もう少し詳しく姉妹ブログ「お家で鎌倉」にアップしました。
・「伝源義朝の居館(沼浜城)跡+」

源範頼ゆかりの寺の特別拝観と2万株の紫陽花をたずねる 1206295

先日の鎌倉ガイド協会のツアー参加レポです。

写真をクリックすると大きな画像を見ることができます。

2012年6月29日(金)のち暑い

鎌倉ガイド協会の毎月恒例の史跡めぐりツアーに参加させていただきました。
6月のCコース後編となります「源範頼(蒲冠者)ゆかりの寺の特別拝観と2万株の紫陽花をたずねる」です。
ガイドさんに引率していただいて、主に源頼朝の異母弟・範頼の史跡をめぐります。

先週6月22日(金)に参加を予定していた前編コースを
残念ながら断念せざるを得なかったぶん(←クリックで理由)、今回のツアーをとても楽しみにしていました。

本日のコースは次の通りです。
京急金沢文庫駅→太寧寺→薬王寺→海の公園(昼食)→八景島(紫陽花)→シーサイドライン八景島(解散)参加費:500円 特別拝観料:300円

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こちらは、太寧寺の近所(門前の坂下付近)にある「三界萬霊石碑」です。
周辺の無人踏切の人身事故で落命した人々を供養するため、
1961(昭和36)年に当時の太寧寺住職・亀岡一正氏の発願に地元住民が賛同して建立されました。
戦時中、瀬ヶ崎(関東学院大学内の小高い山の中腹)にあった旧太寧寺から
海軍の施設拡張のため移転を余儀なくされ、男手がないためにかりだされた小学生が、
リヤカーで石造物を運搬中、電車にはねられて亡くなったことがあったそうです。
その時亡くなった小学生らの御霊もここに祀られています。

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臨済宗建長寺派 海蔵山(かいぞうさん)太寧寺(たいねいじ)に到着。
【創建】1191(建久2)年 【開基】源範頼 【開山】大興禅師 【本尊】薬師如来(伝運慶作)
瀬ヶ崎(関東学院大学内の小高い山の中腹)にあった範頼を祀る薬師寺が前身で、
その後範頼の法号「太寧寺殿道悟大禅定門」から太寧寺と名づけられました。

今日は特別に堂内を拝観させていただくばかりか、ご住職(尼僧)さんのお話も伺えることになりました。

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堂内に入る前に境内史跡を見学します。

伝・源範頼の墓(五輪塔)。

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ご子孫が建立した江戸の町医者・小川笙船(しょうせん)=「赤ひげ先生」の墓。
1963(昭和38)年に「赤ひげ」のタイトルで映画化された赤ひげ先生のモデルで、
困窮者の医療救済に尽力した人です。
晩年は風光明媚な金沢で過ごし、死後遺骨を分骨されましたが、
現在は豊島区の雑司ヶ谷霊園に眠っているそうです。

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本堂内は撮影OKでしたが、特別拝観なので画像のアップはウィキペディア「源範頼」にも掲載されている
(写真右)「範頼公画像」のみとします。ノリく〜ん。ホントはどんな顔だったんでしょう

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寺宝のご本尊は薬師如来立像で、伝運慶作、俗称「へそ薬師」、像高約151cm。
清凉寺式と善光寺式をミックスしたような仏像とのことです。
本来は33年に一度ご開帳されるのですが、ご住職さんのご厚意により拝観させていただきました。
他にも範頼の位牌や上記の画像、範頼が登場する歌舞伎の錦絵の掛け軸や、
額縁に入れて展示されている瀬ヶ崎に存在していた頃の白黒写真も。
ご住職さんのお話から、荒廃が続いた困難な時代を乗り越えて今なお、
大切に守り続けられているとても貴重な史跡であることがよくわかりました。


次の訪問スポットは薬王寺ですが…

(写真左・中)最寄の称名寺でしばし休憩させていただきました
(写真右)称名寺の山門前から薬王寺の境内が見えています。

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真言宗御室派 三療山(さんりょうざん) 薬王寺です。
【創建】鎌倉時代前期 【開山】尊誉法印(中興) 【本尊】薬師如来(伝行基作)
範頼の別邸だったこの地に範頼の御霊を弔うために建立され、一時衰退後、
中興の尊誉法印が復興しました。

現在耐震工事中で本堂内の拝観ができないため、
本堂前でご住職さんのお話を伺いながら、範頼の位牌を特別に拝観させていただきましたが、
一介の武将のものにしては“お粗末”という表現もありましたように、とても質素な感じでした。
(写真右)1992(平成4)年8月4日、範頼の800年忌の施餓鬼法要で供養を行い、
翌年境内の築山に建立された五輪供養塔です。

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生前中の範頼は、この地にあったと伝わる見晴らしの良い別邸から猿島や観音崎を望み
鎌倉への物流を支える旧東海道の船の往来、
とりわけ海賊の監視に目を光らせていたのではないか、とのことでした。
範頼ゆかりのお寺の本尊はどちらも薬師如来像なのですね。

薬王寺を後にしたあたりから、「曇り時々雨」の天気予報はみごとにはずれ、
カンカン照りの暑さの中を昼食休憩の「海の公園」に向かいました。

松原から午後に訪問する八景島が見えました
その左手に続く景観は…土地勘ゼロでちょっとよくわかりません。ゴメンナサイ

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ただ、この島が「野島」であることだけは覚えました

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レストハウスのお庭で、夏らしい「デイゴ」の朱い花が美しく咲いていました。

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昼食後は八景島シーパラダイスの園内でアジサイ鑑賞です。スタンプラリーをやりました。

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見頃のアジサイがとても綺麗でした。
県下最大級の22品目2万株…本当にいろんな種類があるのですね

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シーパラシー太くんに会うのは…4年ぶりになるでしょうか
牡牛座・O型だったんですね…mamataro(乙女座・B型)とはなかなか相性がよろしいようです

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「ふれあいラグーン」にて。
昨日(6月28日・木)、赤ちゃんが生まれたシロイルカ
画像のシロイルカはトロロ(父親)かパララ(母親)かはわかりません。
赤ちゃんは見れませんでしたが、シロイルカの出産はとても珍しいことのようです。

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おかげさまで本日もたいへん充実した幸せな1日でした

鎌倉市内にはおよそ見当たらなかった範頼の足跡…
伝説であったとしても意外に多くの史跡が残されていて驚きました。
今ツアー途中、前編ツアーに参加した方から詳しいお話を伺うことができたので、
いつか機会がありましたら、追浜の蒲地蔵尊や正禅寺などを訪ねてみたいと思います。

「梅の香を訪ね、源平ゆかりの地を巡る」 1202245

鎌倉ガイド協会の散策コース「梅の香を訪ね、源平ゆかりの地を巡る」参加レポです。

写真をクリックすると大きな画像を見ることができます。

2012年2月24日(金)暖かい

鎌倉ガイド協会の散策コース「梅の香を訪ね、源平ゆかりの地を巡る」に参加しました。
本日のコースは…画像地図太線のコースです。
「JR鎌倉駅東口(バス利用)→九品寺バス停→補陀洛寺(特別拝観)→由比若宮(元八幡)→教恩寺(特別拝観)→大町会館(お弁当)→宝戒寺→文覚上人屋敷跡→荏柄天神社→源頼朝の墓→鶴岡八幡宮(解散)高低差なし・約6km

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最初の訪問スポット、真言宗大覚寺派・南向山帰命院補陀洛寺(ふだらくじ)は、
源頼朝が開基、頼朝と深い関わりのあった文覚上人が開基と伝わる「源平ゆかり」のお寺です。

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本堂内を特別拝観させていただきました。
本尊の十一面観音をはじめ、平安時代の高僧智証大師の作と伝わり、
平家打倒の祈りが捧げられたといわれる不動明王像など多くの仏像群、
頼朝の自作と伝わる頼朝像や文覚上人が書いたといわれる頼朝の位牌。文覚上人裸形像がありました。
また、平家滅亡時、総大将だった平宗盛が最後まで持っていたといわれる赤旗も。

続いて由比若宮(元八幡)へ。

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源氏の守護神である京都・石清水八幡宮に戦勝を祈願した源頼義が、
前九年の役で陸奥国の豪族・安部氏に勝利し、
帰洛の途中鎌倉に立ち寄り、由比郷鶴岡のこの地に秘かに石清水八幡宮の祭神を勧請して、
ここに社を造営したと伝わります。
境内には頼義の嫡男・八幡太郎義家の旗立の松も。
1180(治承4)年に鎌倉入りした頼朝が、現在の鶴岡八幡宮の場所に社殿を移してから「元八幡」と呼ばれるようになりました。
社地は「鶴岡八幡宮境内」として、本宮の社地と共に国の史跡に指定されています。

また、この付近には新婚時代の芥川龍之介が住んでいました。
ほど近くのアパートの外壁にそのことが記されたプレートがあります。
当時の暮らしぶりが小説「或る阿呆の一生」に描かれています。

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午前中、最後の訪問スポットは時宗・中座山大聖院教恩寺(きょうおんじ)です。
山門を潜ると、横一文字に延びた梅の木があります。

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かつてこの地には光明寺の末寺善昌寺がありましたが廃寺になり、
1678年貴誉上人によって、材木座の光明寺境内にあった教恩寺が移築されたといいます。
開基は北条氏康。開山は知阿上人です。
通常非公開の本堂内を特別に拝観させていただきました。
本尊の阿弥陀如来像は鎌倉時代前期の運慶作(?)と伝えられます。
1184(寿永3)年、「一の谷の合戦」で敗北して捕らえられ、鎌倉に送られた平清盛の五男・重衡は、
頼朝から与えられたこの阿弥陀如来像を深く信仰しました。
また、「平家物語」によると頼朝は女房の千手前(せんじゅのまえ)を遣わして酒宴を催し、
重衡の無聊を慰めたそうです。…これは教恩寺の創立年(1678年)以前の話であり、
頼朝は重衡のために大蔵幕府の一隅の小さな建物およびこの阿弥陀如来像を与えましたが、
後年こちらの教恩寺がこの阿弥陀如来像を安置するに相応しいお寺とされ、本尊になったのだそうです。

この阿弥陀如来像の拝観させていただくことが、最大の参加理由だったので、
貴重な機会をいただいて大変感謝しております。

お昼は八雲神社のお隣、「大町會館」でお弁当
クラシックな建物ですが、内部もとても綺麗で、大切に使われているんだなぁと思いました。
今日の参加メンバーの皆さんもガイドさんを中心にとても和気藹々とした雰囲気で、
いろんなお話しをしながら短くも楽しいひとときを過ごしました
今日はおみかんやチョコをいただきました。いつももらってばっかり

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午後イチは天台宗・金龍山釈満院宝戒寺から。
1335(建武2)年、北条氏滅亡後、一族を弔うため、後醍醐天皇が開基となって、
足利尊氏に命じて建立。開山には天皇と親交が深かった円観慧鎮が招かれました。
そして、天台宗の戒壇院を設けて関東における教壇の中核に。
本堂の本尊・子育経読地蔵大菩薩像は、1365(貞治4)年仏師三條法院憲円の作(国重文)。
七福神の一つ・毘沙門天像なども安置されています。

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境内には聖徳太子を祀る太子堂(▲写真右)や、最後の得宗・北条高時を祀る徳宗大権現、
秘仏(非公開)歓喜天立像を祀る大聖歓喜天堂があります。
宝戒寺は梅の名所でもあるそうですが、今年は全国的に花期が遅れているので、
白梅がちらほら…という感じでした(▲写真中)。

続いて文覚上人屋敷跡へ。
午前中訪問した補陀洛寺の開基と伝わる文覚の邸宅があった場所です。
もとは摂津渡辺党に属する遠藤盛遠という俗名の北面の武士。
従兄弟の源渡の妻・袈裟御前を誤殺して出家しました。
後白河法皇に京・神護寺再興への寄付を強訴して不興を買い、伊豆に流罪。
流人時代の頼朝と親交を深め、平家追討を促したといわれます。
文覚は無念の死を遂げた頼朝の父・義朝の頭蓋骨を京で探し出し、鎌倉の頼朝に届けました。
近くには頼朝が造営した三大寺院のひとつで、義朝の菩提を弔った勝長寿院の旧跡があります。
(小さな史跡です)

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次は荏柄天神社(えがらてんじんじゃ)の参道入口からお参り。
この参道でも昔、流鏑馬が行われていたそうです。
荏柄天神社の祭神は学問の神様・菅原道真。
大宰府・北野天満宮に次ぐ日本三大天神のひとつといわれますが、
三番目を名乗る天神は日本各地にあるようです

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社伝によれば1104(長治元)年の勧請とも、また源頼朝が鎌倉幕府創建に際して、鬼門鎮護に祀ったとも。
以後、鎌倉将軍や鶴岡八幡宮と深いつながりを持ち、江戸幕府の寄進も受けました。
本殿は14世紀の建立と推測され、年代がはっきりしている木造建造物として市内最古(2001.12.市教委)。
荏柄天神社も梅の名所として知られていますが、やはり少し淋しい感じでした。

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さて、次の訪問スポットは源頼朝の墓
去る2月11日(土)男に一部破壊されたので、どのようになっているのか見て来ようと思っていました。
まず白旗神社の狛犬さん(同男が破壊)が撤去されていることに気づきました。
頼朝の墓は門扉が閉ざされ、立入禁止になっていました。

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囲いの中を覗くと破壊されたままの生々しい姿をとどめています。

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大蔵幕府の後山に位置し、頼朝が大切にしていた聖観音像を祀った持仏堂があったと伝わるこの地。
1199(正治元)年に53歳で没した頼朝はここに葬られました。
翌年の一周忌には、持仏堂は「法華堂」という名で『吾妻鏡』に登場します。
江戸時代の安永年間鶴岡荘厳院の住持が勝長寿院より層塔・石塔を運び、
さらに1779(安永8)年に薩摩藩主島津重豪(しげひで)が、頼朝の庶子と称される祖・
島津忠久の墓を造営する際に頼朝の墓を整備したと伝えられています。
石塔の右横には頼朝の同母弟で源氏挙兵の際、
土佐で殺害された源希義(まれよし)の説明掲示板があります。

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そして、本日のコース、最終スポット鶴岡八幡宮です。
祭神は応神天皇・比売神・神功皇后
午前中訪ねた若宮八幡(元八幡)を源頼朝がここ小林郷北山に遷座して、当初は鶴岡若宮と称しました。
1191(建久2)年の大火によって焼失し、社殿を大臣山の中腹に造営して新たに石清水八幡宮を勧請。
これが本宮(上宮)で、この時若宮(下宮)も再建されました。
源氏の守護神として鎌倉幕府から崇敬された鶴岡八幡宮は、この後広く武門の神として全国に広がり、
豊臣秀吉・徳川氏からも篤く信仰されました。
1868(明治元)年、神仏分離令発布以前は神仏習合により「鶴岡八幡宮寺」と呼ばれていました。
その名残が境内各所に見られます(例:若宮横のビャクシンはかつて寺院に植樹)。

2010(平成22)年3月10日に倒壊した御神木の大銀杏…移植などの処置が取られましたが、
当初の元気がこの頃は見られないようです。

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本日のコース、訪問スポットはおろか小さな史跡に至るまで終始淀みないガイドさんのトークは、
とてもブログに書ききれるものではありません…。
ひとつひとつ大事に頭の収蔵庫に納めたいと思います。
よって参加者に配布されるレジュメを参考に記事を書くに留めましたが、
同じグループの皆さん共々、素晴らしく充実した1日を過ごさせていただきました。


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「山田海人先生と鎌倉の海岸でビーチコーミングを楽しむ」 1202215

鎌倉ガイド協会の散策ツアー「山田海人先生と鎌倉の海岸でビーチコーミングを楽しむ」参加レポです。

写真をクリックすると大きな画像を見ることができます。

2012年2月21日(火)3月並みの暖かさ

鎌倉ガイド協会の散策ツアー「山田海人先生と鎌倉の海岸でビーチコーミングを楽しむ」に参加しました。

本日の散策コースは…(画像地図太線のルート)
鎌倉駅から江ノ電で稲村ヶ崎駅〜鎌倉海浜公園〜坂ノ下・海岸(山田海人先生のお話)〜由比ヶ浜〜材木座海岸(山田海人先生のお話)〜小坪・飯島公園(お弁当)〜海前寺〜神明神社〜天照大神社〜大崎公園〜小坪・バス停留所(解散) 高低差あり6km

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まずは稲村ヶ崎駅から鎌倉海浜公園を目指します。
昔は七里ヶ浜のこの辺りの砂浜に多く含まれる砂鉄を使って、
鍼治療に使う鍼も造られていたそうです。

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(写真左)鎌倉海浜公園から江の島と富士山が見えました。
(写真中)右斜め下にはちょこっと雪をかぶった「小富士」も
(写真右)歌川広重の浮世絵『富士三十六景』と見比べてみます。

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日没前の富士山のシルエットも冬はひときわ美しく見えるそうです。

「ボート遭難碑」は1910(明治43年)七里ヶ浜沖で遭難し、12名が亡くなった逗子開成中学生の像。

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鎌倉海浜公園からひたすら歩くこと約15分。
坂ノ下・海岸でビーチコーミングのご指導をいただく山田海人先生のお話を伺いました。
ビーチコーミングに興味を持つ契機を作ってくださった憧れの方で、
いつもHPやブログを拝見させていただいています。

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ビーチコーミング(beachcombing)は「海辺で気に入ったものを拾うこと」を意味しています。
「コーム」とは髪の毛をとくのに使う櫛のことで、英語のcombが語源。
浜辺を手の櫛でとくように漂着物を拾うことから、「ビーチコーミング」と名づけられました。

海辺で新鮮な空気をいっぱい吸いながら、砂浜を歩くだけでもとても身体に良いのです。
(乾いた砂より濡れた砂のところを歩く方がより足腰に良いそうです)
水深5m以内の浅い海域が続く鎌倉の海岸では、
時間や空間を超えて出会える思いがけない宝物に出会えます。
古い陶器、殊に鎌倉時代の青磁の欠片が拾える世界で唯一の場所です。
他にも美しいサクラガイ、ガラスビン、ひょうちゃん、岩笛など「海辺のお宝拾い」が楽しめます。

山田海人先生のお宝(収集物)標本です

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坂ノ下・海岸から材木座海岸まで1時間程度、各々ビーチコーミングに勤しみました。
由比ヶ浜から滑川の向こう側の材木座海岸へは滑川橋を渡って。

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(写真左)ゴミの山、いえいえお宝の山
(写真右)山田先生「波打ち際のこういう石があるところにもいいのが落ちていますよ」

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前の日に誰かがお宝を見つけてしまっても…
1日2回の大潮がまた別の素敵なお宝を運んできてくれるそうです。

青磁の欠片を拾った方。いいなぁ

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mamataroは山田先生がどこにいらっしゃるのか気になって仕方がなく、
肝心のビーチコーミングにはイマイチ集中できませんでした

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個人的には…鎌倉時代に盃や小皿、燈明皿に使われた「かわらけ」の欠片。
後世の「植木鉢」の欠片ではないかと不安でしたが、山田先生に見方を教えていただけて良かったです
そして、二枚貝状態の「サクラガイ」が本日の収穫。

(写真左)ビーチコーミングの最後に材木座海岸・豆腐川河口の近くで、品評会とお話を伺いました。
全体で青磁の欠片が3つ、ガラスびん1つ、びんの口、土器片、かわらけ…
(写真右)サメの骨だって。いいなぁ

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山田海人先生にご挨拶をしてお別れ、逗子マリーナの近くにある小坪公民館でお弁当タイムです。
一緒にお弁当を食べた方からビーチコーミング中に拾ったワカメを分けていただきました

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午後は小坪の寺社巡りで終点は大崎公園です。画像地図太線のコースを歩きます。

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記事が長くなるので、以下はかなり省略した内容になっています。
ガイドさんにご案内いただいたスポットやお話は他にもいろいろありました。

(写真左)海前寺の画像はうまく撮影できなかったので看板のみ。逗子市唯一の時宗のお寺。
     その名のように埋め立て以前は寺の前まで海でした。
(写真右)神明神社。

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逗子には双対道祖神がたいへん多いのだそうです。
(写真左)伊勢八幡宮にて。(写真右)子之〔ノ〕(ねの)神社にて。

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小坪の浜には、全国から鰹を追ってその餌となる鰯を求めて住み着いた漁師がたくさんいました。
狭い範囲に南町、伊勢町、中里、西町と4つも町があるのは、それぞれに移住者が集落を作ったから。
各町に一寺一社がありましたが、明治時代の一村一社令によって村の総鎮守を
天照大神を祀るここ天照大神社(てんしょうだいじんじゃ)にしました。

(写真左)長い石段170段は登らず、遠回りしてより安全な道を。
(写真中)天照大神社に到着。
(写真右)住吉城(画像のマンション方面に城跡)の見張り場(向かえ城)といわれ、
     今でも土塁の跡があります。

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(写真左)続いて前方右の小山上、大崎公園を目指します。
(写真右)高級住宅街を抜けて大崎公園に着。

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朝、散策をスタートした稲村ヶ崎から歩いて来た道のりが一望できますよ
とガイドさん。
なるほど〜。今日はよく歩いたなぁ

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展望台から(写真左)逗子海岸(写真中)葉山マリーナ(写真右)裕次郎灯台 を望む

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このところの寒さで全国的に花期が遅れていますが、桜の花が数輪ほころんでいました。
解散は「小坪」のバス停ですが、山を下る前にガイドさんの中締め(最後のお話)がありました。
山田海人先生のビーチコーミングは鎌倉ガイド協会初の企画でしたが、
参加者の皆さん方はとても満喫されたようで、もっと時間があったら良かったね、
など率直な意見が出ていました。
…というのも、ガイドさんが参加者の皆さん一人一人に気を配られる気さくな方だったので、
和気藹々とした明るい雰囲気の中、安心して活動することができたからではないかと思います。
「山田先生のように収集物が自分で何かわかったらいいのにね」というガイドさんの弁にも激同でした。
またこのような機会があったら嬉しい限りです。

「小坪」バス停で解散。鎌倉駅と逗子駅行きに別れて帰りました。mamataroは鎌倉駅へ。

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2月に入って幾日か、冷たい雨に鬱々とした気分の日がウソのように清々しく幸せな1日でした


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「久木大池と名越切通の紅葉をめでる」 1112124

鎌倉ガイド協会の12月のツアーで、Bコース「久木大池と名越切通の紅葉をめでる」に行って来ました。

写真をクリックすると大きな画像を見ることができます。

2011年12月12日(月)

たいへん良いお天気に恵まれ、暖かく(暑いくらい)て散策日和。
鎌倉ガイド協会の12月のツアーで、Bコース「久木大池と名越切通の紅葉をめでる」に行って来ました。

逗子駅東口(9時30分〜10時)→〃野神社・横穴古墳→¬光寺→5很畋臙啗園→
ぞ明寺緑地(昼食)→ヂ臉擺漾Δ猿畠→μ庄枩敖蔓長勝寺バス停解散(14時30分頃)
[徒歩約7辧,笋箙眥禳垢△]というコースです。

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スポット順に数枚ずつ画像をアップします。

〃野神社・横穴古墳
熊野神社は逗子市山の根地区の鎮守。祭神はイザナギノミコト・イザナミノミコトです。
神明鳥居。熊野神社とは熊野三山の祭神が勧請された神社。
記録はないものの源頼朝の勧請と伝えられています。
手水鉢は明治2年まで熊野神社の左手にあった松本寺(しょうほんじ)のもの。

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本殿の右手、急な山道を登って、横穴古墳を見学します。
出土品から推定して7世紀初め〜8世紀末の200年間につくられたもの。
7基からなりますが、公開されているのは3基。そのうちの2基を見ました。

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横穴墓は山の崖面に穴を開けて墓室としたもので、
古墳の横穴式石室にあたる部分を崖面に掘り込んだ形状のもの。
通常単独でつくられることはほとんどなく、数基〜数十基が集まって群をなしています。
神奈川県は全国的に見ても横穴墓の密集度がきわめて高く、中でも大磯丘陵は一大密集地であり、
次いで藤沢、鎌倉、逗子の一帯が多いです。
逗子域では山の根のほか新宿、久木、沼間など各地に70余りの横穴墓が確認されています。


∨ゝ彁 妙久寺
京都・本圀寺の末寺。本尊は釈迦如来。
開基・松岡雅楽助(うたのすけ)の父・冨永三郎左衛門は、鎌倉公方・足利持氏の家臣でした。
しかし、1438(永享10)年の「永享の乱」で主家が敗北した後逗子に隠退し、
名を松岡三郎左衛門冨永と改めます。
1466(文正元)年、三郎左衛門宅に旅僧・賢信が逗留したとき、
近くの地中から読経の声が聞こえるので掘ってみると日蓮の像が現れました。
後に〔1471(文明3)年〕子息の雅楽助がこの像を祀り、開山に日円上人を迎え、
両親の菩提を弔うためにこの寺を創建しました。
山号、寺号は両親の戒名(父・法久、母・妙光)から取ったものです。

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▲(写真右)山号の扁額を掲げた四脚門を入って右側に数百基の石仏が並んでおり、
中央に1213年(建保元)年に和田合戦で戦死した和田一族を葬った塚にあったと伝わる石碑があります。

5很攷声
久木(ひさき)地区の鎮守。祭神はウカノミタマノミコト。
久木は明治7年旧久野谷村と柏原村が合併してできた村。
合併後、明治10年に両村にあった神社が久木の鎮守である稲荷社に合祀されました。
久木神社という呼称は1970(昭和45)年〜。それまでは稲荷社と呼ばれていました。

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さ很畋臙啗園
総面積1.7ha。逗子景勝10選に選定されています。
元はこの周辺の田畑に水を供給する灌漑池でしたが、1974(昭和49)年に公園として整備されました。

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園内は豊かな樹林に囲まれ、日中でも静かな佇まいを見せています。
深閑とした大池周辺にはスイセン、トクサ、アシなどの植物が生え、サギ、カワセミなどの野鳥も飛来。
出発時に今年の鎌倉の紅葉は台風による塩害の影響で色づきが芳しくないとガイドさんから伺っていました。
水鏡が綺麗でしたが、この時期は本来、もっと美しい眺めを楽しむことができるようです。

ゾ明寺緑地で昼食
ハイランドの路地からとても大きく富士山が見えて感激でした。
ガイドさんもこのように美しい富士山が見れるのは珍しいので、これだけでも良かったと仰っていました。
この展望台は関東の富士見百景「鎌倉市からの富士」に選ばれています。

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陽光の明るいベンチでお弁当を食べました。
鎌倉生まれの鎌倉育ち、現住所も鎌倉という方とお話しするのは初めてかもしれません。
とても上品な方でした。いろいろお話を伺うことができて楽しかったです
奇遇にも着てきたカットソーが同じメーカーのもので色までお揃い
この方とお会いするのが決まっていたことのように思えました。

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 貴重な美しい紅葉
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次のスポットに向かう途中、逗子の町が望める高所から。

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これは
ガイドを聞き逃してしまいました…
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 本日のコースで最も楽しみにしていた
 大切岸・お猿畠・名越切通はもうすぐです
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β臉擺漾Δ猿畠
切岸は幕府が三浦氏の襲撃に備え防御施設として築いたと考えられていましたが、
2002(平成14)年の調査で防御施設かつ板状の建築材を切り出した跡であることが確認されました。
「新編相模風土記稿」によると日蓮は、松葉ヶ谷の法難を逃れてこの岩窟に避難したといわれ、
このとき3匹の白猿が現れて日蓮に食物を供したという伝承から、
この切岸の下あたりを「お猿畠」と呼んでいます。

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名越切通に向かう途中、上から「まんだら堂」付近が見えました。
逗子市では現在、史跡全域を歴史公園化する整備を進めているそうです。
(「まんだら堂やぐら群」「切岸群」「大切岸」)
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名越切通
鎌倉七切通のひとつで鎌倉から三浦半島に通ずる重要路で、
難所であったためナゴエ(難越)の名がついたといわれます。
狭い切通の部分には左右から岩が突き出て、昼間でも木々に囲まれて薄暗く昔の面影を残しています。

(写真右)文字通り、人が一人やっと通れるほど…
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これは…まさに難所です…が、古の面影を残す、とても魅力的な切通でした

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名越切通を下っていくと、目の前に大町・材木座の何度か見たことがある風景が見えました。
ここまで来ればもう大丈夫
(写真右)出てきた所は薄緑の手すりがついた右の細道です(大町から名越切通への入口)

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日蓮も名越切通を通って鎌倉に来て布教活動をしていました。
(写真左)大町の住宅街の中に「日蓮乞水」。
長勝寺バス停で解散しましたが、余力があったので鎌倉駅まで歩きました
(写真右)「日蓮上人辻説法跡」。

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運動不足のmamataroにもほどよい高低のある、見どころいっぱいのハイキングコース。
残念ながらあまり紅葉をめでることはできませんでしたが、全て初めて訪れたスポットだったので新鮮でした。


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「古都鎌倉のキリスト教会を巡る」 1109224

写真をクリックすると大きな画像を見ることができます。

2011年9月22日(木)台風一過

列島各地に大きな被害をもたらした台風15号の翌朝。
眩しいほどの青空の下、鎌倉ガイド協会主宰の散策ツアーに参加しました。
古都鎌倉のキリスト教会を巡る〜司祭様のお話とパイプオルガン演奏を聴く〜」という半日コースです。

お寺が多いイメージの鎌倉ですが、実は鎌倉市の教会密度は1.4k屬1教会と全国1位。
人口当たりでは6.0千人に1教会がある計算になり、あの長崎市の5.4千人に次いで第2位とのこと。
これまで散策中にいくつかの教会を目にしてきましたが、このようなデータがあったとは驚きました。

明治以降の鎌倉は、富裕層や著名人、外国人が居を構えたり、別荘地として発展してきましたが、
こうした時代背景から多くの教会が建てられ、現在鎌倉には29の施設があるのだそうです。

9:15。本日はJR横須賀線・江ノ電「鎌倉駅」周辺にある5つの教会…
\ミカエル教会から鎌倉栄光教会→M拡ガ浜教会→ハリス記念鎌倉教会→ダノ下教会 を
 銑イ僚舅でご案内頂きました。
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ダノ下教会では司祭様のお話とパイプオルガンの演奏を拝聴します。


信徒さんのための施設である教会内部の撮影は禁止されていますので、
外観の写真などを数枚ずつアップします。

鎌倉聖ミカエル教会 日本聖公会 鎌倉ミカエル教会
扇ガ谷への往来にこの教会の前の道を何度となく通っていましたが、
建物の中に入らせていただくのは初めてです。

1928(昭和3)年、逗子の教会に通っていた鎌倉在住の信徒の願いによって、
信者宅に「講義所」が開設されたことにより鎌倉聖公会が誕生。
1933(昭和8)年には現在使用されている聖堂が完成し、その後増改築され、
現在は聖堂部が創建当時の姿をとどめています。
1995(平成7)年に鎌倉市景観重要建物(指定第11号)に指定されました。
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宮大工さんの手による和の空間
六角形の珍しい祭壇の屋根、三連アーチ窓、ブラケットなど手の込んだ細工が美しく、
礼拝堂内部の折上げ格天井のみごとな技巧や奈良・春日大社の吊り燈籠を参考にしたランタン、
欄間の透かし彫りのササリンドウ(特に意味はないそうです)、家具が今も変わらず残されていました。

鎌倉聖ミカエル教会は英国国教会の流れを汲む「聖公会」という教派に所属です。
戦時中は英国や米国の聖公会との特別な関係があると誤解され、苦難の時代を過ごしましたが、
戦後、日本聖公会の組織が再建され、元の「鎌倉聖公会」の名称に戻した後、
1948(昭和23)年に「鎌倉聖ミカエル教会」と改名して現在に至ります。


鎌倉栄光教会 日本キリスト教会 鎌倉栄光教会
ガイドさんの後について、駐車場の奥、赤い屋根の上に小さな十字架が見えた時、
この場所に教会があったことを初めて気づきました。こちらは外観のみ見学させていただきます。
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鎌倉栄光教会は、「日本キリスト教会」という教派の所属です。
日本キリスト教会は1872(明治5)年、横浜に我が国最古のプロテスタント教会である
「横浜海岸教会」を作ったことでも知られています。
1958(昭和33)年に雪ノ下に誕生し、小町、御成町と移転を重ねた後、
扇ガ谷のこの地に移ったのは1981(昭和56)年のことでした。
現在信徒さんの数は100人前後と小規模で、真に“信徒さんのための”教会です。

建物はおよそ80年前に建てられた民家で、何度か家主が変わりましたが、
1948(昭和23)年にはドイツ文学者で東大教授だった竹山道雄が東京から移り住み、
『ビルマの竪琴』を執筆した場所だそうです。
竹山道雄はその後移り住んだ材木座で生涯を閉じました。

玄関脇の紫陽花をモチーフにしたステンドグラスにも注目
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カトリック由比ガ浜教会 カトリック由比ガ浜教会
「六地蔵の教会」と親しまれるように、六地蔵にほど近い路地を入った閑静な住宅街にあり、
ヨーロッパの田舎の教会を思わせるのどかなたたずまい
カトリックの教会なので聖水で十字をきってから礼拝堂へ。

1873(明治6)年、切支丹禁令の高札が約300年ぶりに撤廃され、キリスト教布教が黙認され、
1889(明治22)年には明治憲法の発布とともに条件付きで信教の自由が認められるようになりました。
それから24年後の1913(大正2)年、
パリ外国宣教会の宣教師たちによって設立されたのが由比ガ浜教会です。
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当時はまだ日本国内にキリスト教会が少なく、
鎌倉にはプロテスタントのメソジスト教会(現・日本基督教団鎌倉教会ぁ砲あるのみでした。
由比ガ浜教会(旧・大町教会)が鎌倉初のカトリック教会として現在地に建てられました。
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1928(昭和3)年、関東大震災で損壊した聖堂に代わる本格的な聖堂と司祭館が建設されました。
1939(昭和14)年以降、戦中戦後の厳しい時代にも教会を守り通したドシエ神父の尽力により、
1948(昭和23)年まではパリ外国宣教会の宣教師による司牧でしたが、
現在は横浜教区直轄の教会として、邦人司祭が司牧しています。

礼拝堂では左右の壁面にキリストの「十字架の道行」が16枚のステンドグラスにも注目

ハリス記念 鎌倉教会 日本基督教団 鎌倉教会
若宮大路からも目を引く鐘塔は由比ガ浜界隈のランドマーク。
隣接する1909(明治42)年設立の「ハリス記念鎌倉幼稚園」は、鎌倉で一番古い歴史をもつ幼稚園。
アメリカ・メソジスト派の宣教師M.ハリス夫妻の尽力により設立されたことから命名されました。
良家の子女が通った幼稚園として有名。
中央に遊戯室、それを囲むように舞台、教室が配置された、珍しい八角形の梅鉢型園舎は、
1992(平成4)年に鎌倉市景観重要建築物(指定第6号)に指定されました。

1897(明治30)年に長谷で伝道を始めた100年以上の歴史を誇る鎌倉最古の教会です。
1904(明治37)年に建造の木造聖堂が関東大震災で倒壊後、
1926(大正15)年に現在のゴシック調の聖堂が再建されました。
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1992(平成4)年に鎌倉市景観重要建築物(指定第5号)に指定された建物。
最大の特徴は、正面のトレーサリーを伴った尖塔アーチ窓など初期のゴシック的なスタイル。
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礼拝堂の椅子は、大工さんの工夫で高さが前低→後高になっています。
実際に座ってみると、後ろに行くに従って、わずかずつ高くなっているのがわかりました
輸入品が多いパイプオルガンもこちらの教会では珍しく国産のものを使用しています。


若宮大路を北へ。いよいよ本日最後の教会に向かいます

「下馬」の標識が曲がっているのは、昨日通過した台風のせいでしょうか。
濃い青天に大きな大きな入道雲が見えました。パチ
s-P1400826s-P1400840







カトリック雪ノ下教会 カトリック 雪ノ下教会
若宮大路〔段葛〕の沿道、「八幡宮の教会」と親しまれる教会。
1958(昭和33)年に建造された大聖堂の正面には、
壁画「絶えざる御助けの聖母」のモザイク画があります。
s-P1400844s-P1400845s-P1400847









1948(昭和23)年、カナダから来日したデンプトール会の神父がこの地に教会を開いたのが始まり。
鎌倉最大の聖堂、内部の両壁にはキリストの「十字架の道行」14枚の絵が飾られています
左手奥の洗礼盤が置かれている壁には、鎌倉キリシタン殉教の絵が3〜4枚。
描いたのはローマ法王とも会ったことがあるという、敬虔なクリスチャンの画家・村田佳代子さん。

聖堂には200名近くの本日のツアー参加者が揃って着席し、
主任司祭・田代和生さんの法話を聴かせていただきました。
その後は同教会ほかのオルガニスト・平井靖子さんのパイプオルガン演奏です。
まず、L.C.ダカンのノエル第11番「聖処女」・J.S.バッハの「主よ、人の望みの喜びよ」BWV147と
小フーガト短調」BWV578の3曲をご披露いただきました。
さらに今年3月11日の東日本大震災を踏まえて、文部省唱歌「故郷(ふるさと)」を。
演奏終了後、4月11日に鶴岡八幡宮で神道、仏教、キリスト教による宗旨・宗派を超えた合同祈願
「東日本大震災追善供養 復興祈願祭」が行われた鎌倉の宗教人と鎌倉の風土を誇りに思います。
との鎌倉ガイド協会のガイドさんからのお言葉を最後に解散となりました。

詳しいお話までアップすることができませんでしたが、
ご案内の要所要所でキリスト教教会の系譜まで易しく教えてくださったガイドさんの穏やかな口跡と
お人柄そのものに安らぎを覚えた3時間余…とても有意義なツアーでした。
貴重な機会をいただいて、お世話になった皆様方にとても感謝しています。

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「紅葉に染まる、逗子桜山に鎌倉ゆかりの史跡を歩く」 1012154

写真をクリックすると大きな画像を見ることができます。

2010年12月15日(水)

晴天。天気予報では寒くなるはずが、コートが必要ないくらいの暖かさ。
鎌倉ガイド協会企画の12月Bコース
「紅葉に染まる、逗子桜山に鎌倉ゆかりの史跡を歩く」に参加しました。

風光明媚の地として、鎌倉時代からつながり、人々に親しまれた逗子。
多くの作家と政治家が住み、それらの一部地名が残っています。
紅葉も素晴らしい蘆花記念公園と海を眺めながら歩きます。

(写真左)大変見えづらいですが、コースです。
(写真右)10:12。JR逗子駅スタート
s-地図s-10:12逗子駅スタート







JR逗子駅からは…
亀岡八幡宮→延命寺(特別拝観)→三浦胤義遺孤の碑→
宗泰寺→六代御前墓→長柄桜山二号古墳→
逗子市郷土資料館(昼食)→徳川家達邸跡→
蘆花記念公園→鐙摺不整合→鐙摺城跡→日影茶屋バス停
(歩行距離:約5.5km、解散:日影茶屋バス停 14時30分頃)

歩いて5分ほど…
10:17。亀岡八幡宮着。
s-10:23亀岡八幡宮s-銀杏s-カメ




亀岡八幡宮 祭神 応神天皇と神宮皇后
社殿は1919(大正8)年2月の改築、古色蒼然(いかにも古めかしい様子)として、
福徳を授ける神に相応しい堂宇です。
関東大震災でもこの建物は倒壊せず、一部修繕した程度。
江戸時代は延命寺持で「八幡宮」と号しましたが、
明治初年の神仏分離により延命寺から離れ、
この地が「高畠」と言う小字の通り、盛り上がった亀の背中に似ていることから、
鎌倉の八幡宮に対して「亀岡八幡宮」と改号されました。
s-ご神体写真
ご神体は、鎌倉後期作と考えられる銅像阿弥陀三尊の懸け仏(市指定)。
現在は延命寺に祀られています。
延命寺は神仏分離前まで亀岡八幡宮を管理していました。

ガイドさんのお話によると、この辺りは逗子海岸につながる砂丘、
今では想像もできないくらい淋しい場所で、
現在の亀岡八幡宮左の通りから海辺に向かう辺りに、
「大墓(おおはか)」と呼ばれる村の共同墓地があったそうです。
1929(昭和4)年に昭和天皇即位の御大典記念行事として整備され、
男女別に分別後の人骨は、女性の骨は逗子延命寺に男性の骨は久木妙光寺に納骨されました。

次の訪問スポットは、亀岡八幡宮の解説でも名前の上がり、
ご当地「逗子」の地名の由来が伝わるお寺です。
10:29。延命寺着。
s-10:29延命寺s-延命寺




ご本堂を特別拝観(拝観料100円:事前にガイドさんに納金)。
ガイドさんから阿弥陀の九品印のお話などを伺いました。
s-弘法大師像s-銅像阿弥陀三尊像解説




延命寺 古義真言宗黄雲山延命寺 本尊:大日如来 開基:行基
平安時代、弘法大師が地蔵尊の厨子を設けられました。
以来この地は「厨子」と呼ばれ、現在の「逗子」の起源になりました。
鎌倉時代には三浦氏の祈願寺でもありました。
室町時代、北条氏の三浦攻めに敗れ、
三浦道香(どうこう)〔義教〕主従がこの地で自害、墓が残っています。
三浦一族家系図

s-10:59三浦道香主従の墓s-三浦道香主従の墓




三浦道香主従の墓のお隣には厨子弁財天。「財福成就」「学業成就」「良縁成就」。
元は「弁才天」と書いたのに、時代を経て「財」に。何でもお金・お金…

s-11:00逗子弁財天s-逗子弁財天




次は田越川を渡って…
11:05。三浦胤義遺孤(みうらたねよしいこ)碑着。
遺孤(いこ)とは遺(のこ)された孤児(こじ)の意味。
逆光がキツくて写真がうまく撮れませんでした。

s-11:05三浦胤義遺孤碑s-遺孤碑s-P1260898




三浦胤義遺孤碑
承久の乱(1221年)後、相模守三浦義村が三浦郡矢部郷(横須賀市大矢部)の母・
矢部尼のもとに小河十郎を遣わし、実弟の判官胤義の遺子5人のうち、
(すでに出家していた)長子の豊王丸11歳を残して捕らえさせ、
この田越川の畔(逗子市)で尽(ことごと)く斬首したことが書かれています。
この記述を元に1923(大正12)年に建立された碑です。

ガイドさんによる承久の乱のお話。とてもわかりやすかったです。
この碑が立っている場所で処刑されたというより、この辺りで。

田越川に掛かる中町橋(なかちょうばし)を渡った時…
(写真中・右)何の目的の穴かガイドさんからご説明が。
答えは増水時にコイが退避するための穴。コイのマンションみたい
s-11:18田越川s-中町橋(なかちょうばし)コイの穴s-コイの穴




天気予報では寒くなるとのことだったけれど、とても暖かくて上着が要らないほど。
11:21。宗泰寺着。
ご本堂を特別拝観(拝観料100円:事前にガイドさんに納金)。

s-11:21宗泰寺s-宗泰寺s-十王及び奪衣婆坐像




宗泰寺(そうたいじ)
海向山真言宗宗泰寺 本尊:阿弥陀如来立像 開山開基は不明。
真言宗のお寺なのに何故かご本尊は阿弥陀如来。
鎌倉時代の創建ですが、江戸・明治と二度の火災に遭い、寺暦は消滅してしまいました。
室町後期の阿弥陀如来と不動明王、十王像が残っています。
木造十王像、奪衣婆は約300年前、鎌倉扇ヶ谷の仏師加賀によって造られたもので、
願主は石渡孫右衛門(逗子市指定文化財)。

11:40。六代御前墓着。
六代御前に因んで田越川はこの辺りでは別名「御最期川」と呼ばれています。
鎌倉の都市化で市域が拡大し、
当時は「鎌倉」の端とされていたここ田越川畔辺りが刑場となっていました。
先ほどの亀岡八幡宮の辺りでは石清水八幡宮に因んで別名「清水川」と呼びます。

s-六代御前バス停s-11:40六代御前の墓




あくまでも「伝説地」です
樹高8m以上、幹周5m以上のケヤキの大木に守られるかのように。
墓石の写真はちょっと飛ばし過ぎました。もっと暗いです。

s-P1260926s-六代御前の墓







六代御前墓
平家の公達六代(平正盛-忠盛-清盛-重盛-維盛-御前)の墓(市指定)があります。
六代御前の墓碑は水戸藩士斉田三佐衛門平典盛によって建てられたものです。
六代の遺臣たちが建て、主従の墓守をして一生を終えた場所。


次の訪問スポットは長柄桜山二号古墳です。
六代御前墓左手、木根道の先に続く山道へと入っていきます。
胸突き八丁。本日のコース「低差あり」の意味を噛み締めます
ウェイトオーバーが身に染み…

最初は舗装された道でしたが、古墳が近づくにつれて土の道に。
途中、別荘が立ち並んでいました。中には廃屋も。
(写真中)今日は一号古墳には行きません。
(写真右)古墳の山の端が見えてきました。
s-11:53道標s-12:01分岐道標s-古墳の端





昔の東海道はこの辺りを抜けて浦賀へ。弟橘姫のお話。

(写真左)二号古墳。標高100m。全長88m、前方部の長さ34m、
 後円部の直径54m。畿内で典型的な葺き石で覆われていました。
 古墳だとは気づかず、展望台を建ててしまいました。本格調査はこれから。
(写真中)展望台からは湘南の海と富士山が見えます。今日は冠雪だけ薄く見えました
(写真右)展望台から一号古墳方面を望む(古墳は見えません)。
ここ二号古墳からは歩いて10分ほどだそうです。
s-12:02二号古墳s-12:08二号古墳からの眺めs-1号墳方面を望む




(写真左・中)一号古墳と二号古墳の位置関係。
(写真右)一号古墳の発見者・東家洋之助さん。長柄・桜山古墳をまもる会会長。
 現在も定期的に古墳のパトロールをしておられます。
s-一号古墳と二号古墳の位置関係古墳位置関係s-東家洋之助







長柄桜山二号古墳
長柄桜山古墳群は、逗子市と葉山町の境界線上の丘陵に立地する
二基の大型前方後円墳からなり、二基とも全長90mで、県内では現存最大級の規模、墳丘形状の残りも良いことから、2002(平成14)年12月19日に国の史跡指定。
展望台から逗子海岸が、晴れれば、江ノ島から大山、富士山など一望できます。

古墳からの下り道は少し歩きづらいので注意が必要です。
この辺りでは紅葉が見頃でとても美しい光景を目にすることができました。

12:33。逗子市郷土資料館奥の古民家の縁側で、お庭を眺めながらお弁当を食べました。
一緒にお弁当を食べた方から温州みかんをいただきました。
三ヶ日みかん…なんと同県人でした。甘くておいしかったです。

s-紅葉s-12:33お庭s-温州みかん




13:03。逗子市郷土資料館前に集合。お庭から江ノ島が見えました。
s-13:08郷土資料館s-13:04江ノ島と稲村ヶ崎s-13:04富士山と江ノ島




逗子市郷土資料館
逗子市の名を広く伝えた文豪・徳富蘆花ゆかりの地に「蘆花記念公園」を設けました。
郷土資料館は、この公園の一角にあり、
逗子市ゆかりの文学・民俗・歴史(考古)などに関する展示がしてあります。
この建物は、大正元年に横浜の実業家の別邸として建築されたと伝えられ、
大正6年からは、徳川宗家第16代当主家達(いえさと)が別邸として愛用しました。
木造平屋建ての瓦葺で八畳間が一直線に連なる間取りは、海側の眺めを重視したためで、
どの部屋からも逗子湾を眺めることができ、
天気次第では江ノ島、富士山を遠望することができます。
建物面積は199.77㎡あります。

「自然と人生」蘆花散歩道。
s-「自然と人生」蘆花散歩道s-初午




13:22。鐙摺(あぶずり)不整合着。
昔は馬の鐙(あぶみ)を摺ってしまうほど道幅が狭かったことに由来する地名。

s-鐙摺の不整合図s-鐙摺の不整合




(写真左)防空壕跡。
(写真右)よく見ると断層の中に貝殻らしきものが見えます。
 ガイドさんに教えてもらわなければ気づかなかったでしょう。
s-防空壕s-貝殻




鐙摺不整合
大正14年、渡辺久吉理学博士によって発見された部分は、
砂や泥岩などの礫と貝化石を含む礫岩層で貝化石の中には、
現在生息しない貝も多く含まれているといいます。
三浦半島ではもっとも古い2500万年前の葉山層群の上に、
1500万年前の逗子層が不整合の状態で形成されています。
この2つの層には1000年もの時代があるとされます。
海底から地殻変動によって地表に押し上げられた葉山層が、
1000万年もの間風雨にさらされ浸食され、その後再び地殻変動が起こって海中に沈み、
その上に逗子層が堆積し始め、そして、次の地殻変動で再び地表に押し上げられ、
その結果見られる不整合です。

この鐙摺不整合の向かい側、フェンスの向こうの空き地。
現東京都知事・石原慎太郎さんが「太陽の季節」を執筆した家があったんだそうです。
s-太陽の季節執筆


今は更地になっていました。
ここもガイドさんに教えてもらわなければ、知りえない場所です。
参加者の皆さんも感心しきりでした。

13:35。日影茶屋の斜向かいにある階段を上ると旗立山(鐙摺城址)。
伊東祐親入道供養塔があります。

政子と結ばれる前に頼朝の男子を産んだ祐親の三女。
禄を受ける平家の目を恐れた祐親は、頼朝と娘の仲を引き裂いて幼い男子も殺害。
敵対関係だった石橋山合戦後、鎌倉に幕府を開いて形勢逆転した頼朝は、
祐親を捕らえて三浦義澄に預けた後処分。
s-供養塚遠景s-13:35伊東祐親供養塚s-伊東祐親入道供養塚




鐙摺城址
源頼朝が伊豆で兵を挙げた時、三浦氏一族はこれに味方し、三浦義澄がここに立て籠もり、
そのためにこの山のことを「軍見山(いくさみやま)」「旗立山(はたたてやま)」ともいい、
古くからの三浦氏の砦のひとつかもしれません。
頼朝は遠乗りと称してしばしば小坪や飯島に小笠懸に訪れています。
飯島の伏見(藤原)冠者広綱の屋敷に求め、伊豆以来の妾・亀の前を囲っていました。
それはいずれ政子の継母牧の方によって政子の耳に囁かれ、
政子は憚ることなく牧の方の兄・牧宗親に命じ伏見広綱の館を叩き壊させました。
広綱は命からがら亀の前を小舟に乗せ、ここ鐙摺の三浦一族・大多和義久館に逃れました。
旅館「柳屋」の辺り(谷戸に入った所)に亀の前を匿っていたと伝わっています。
宗親はその日のうちに領国へ逃亡。
この後も頼朝は亀の前を広綱館に戻しましたが、再び政子の逆鱗に触れ、
亀の前は追放され、広綱は遠江国へ配流になりました。

ここからも江ノ島が見えました
s-13:34江ノ島を望む

鐙摺城址と呼ばれてはいますが、
この敷地の広さでは城があったとは
考えにくい、とガイドさん。
「砦」のひとつと考えるのが自然かもしれません。

本日最後のスポット。
13:50。日影茶屋。定休日で閑散としていました。
s-13:50日影茶屋s-日影茶屋




日影茶屋
1661年創業。
三崎道に面し、江戸時代から休息茶屋として100年の歴史があります。
明治の小説家・川上眉山「ふところ日記」や久米正雄の「破船」にも登場。
また、松岡譲「憂うつな愛人」の舞台にもなった日本料理店であり、日本庭園も素晴らしいです。
夏目漱石も宿泊したことがあるそうです。

ランチでも4000円…高級料亭です。

予定通り14:00頃の解散。素晴らしい
たくさんの見所をとても効率良くご案内いただいてよかったです。
今日のガイドさんの流暢な解説、滑らかな弁舌は、
いつまでも飽きずに聞いていられそうな感じでした。
ブログ内には書ききれなかったのですが「目から鱗」のお話も要所要所に織り込まれ、
プロ中のプロ、ベテラン中のベテランのガイド…とても美しいガイドでした。

鐙摺バス停からバスでJR逗子駅へ。
写真は鐙摺港。よ~い所です
s-13:54鐙摺バス停前・鐙摺る港

鎌倉ガイド協会2010年最終コース。
今年初めて参加させていただき、計6回お世話になりました。

今回はすごく長くなってしまいました
最後までおつき合いいただいて、どうもありがとうございました。


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「三浦氏の本拠地『衣笠』を歩く」 1012014

写真をクリックすると大きな画像を見ることができます。

2010年12月1日(水)小春日和

鎌倉ガイド協会主催の今月の散策コース
鎌倉幕府草創の立役者「三浦氏の本拠地『衣笠』を歩く」に参加しました。

s-P1260136
衣笠駅 ~ 曹源寺 ~ 衣笠十字路 -(バス)-
大善寺 ~ 衣笠城址 ~ 衣笠町内会館(昼食) ~
満昌寺・御霊神社 ~ 近殿神社 ~ 薬王寺跡 ~
腹切の松公園 ~ 清雲寺 ~ 衣笠城趾バス停
[徒歩約6㎞、高低差あり]
という見どころ満載のコース。

いつか行きたいと思いつつ、
なかなかひとりでは訪ねることができなかった衣笠。
浅草から京急と横須賀両線を乗り継いで
片道1時間40分ほどの旅でした。
午前10時前にツアースタート

(写真左)JR衣笠駅ホーム。(写真右)衣笠駅前ロータリー。

s-★P1250800s-★P1250803








三浦氏は桓武平氏の子孫「村岡為通」が「前九年の役」に参戦し、
恩賞として三浦の地を拝領して「三浦」を名乗ったのが始まりと伝えられます。
衣笠に本城を築き代々源家に仕え鎌倉幕府草創の立役者になりました。

衣笠城は、鎌倉同様三方が山で囲まれ一方が古久里浜湾に面する地形であり、
古東海道の東端(走水湊)を支配する要衝の地でした。
さらにこれを囲むように大矢部、怒田、佐原、和田、芦名、平作などに
一族の支城が配置されました。

三浦氏は頼朝の後ろ盾となって鎌倉幕府を全面的に支えましたが、
宝治合戦(1247年)で北条氏との権力争いに敗れ衣笠を本拠とする本宗家は亡びました。
しかし、北条氏に加勢した佐原盛連の系統が三浦の介を継いで、
北条得宗家の被官としてではあるが鎌倉時代を通じて存続し、
さらに室町時代まで存続することになりました。

〔三浦氏系図〕
三浦為通-為継-義明-三浦義澄-義村-泰村-(1247年滅亡)
         |
         -佐原義連-盛連-三浦盛時-三浦頼盛…


JR衣笠駅から歩いて15分ほどでしょうか。東光山曹源寺(曹洞宗)に到着です。
創建は奈良時代後期とされ、開山は毎度おなじみ行基、中興開山は霊屋傳英禅師です。
本尊は薬師如来。他に木造十二神将像(県重文、鎌倉後期)

古くは宗元(源)寺と称しました。行基菩薩草創と伝えます。
鎌倉時代に入ってからも三浦氏の外護により相模国の代表的な古刹として尊崇されました。
1191(建久3)年、鎌倉幕府は相模国内の寺社に対し北条政子の安産祈願を命じ、
ここ曹源寺もその一つ(祈願所)に選ばれていました。
かつて曹源寺の敷地は30000坪あったそうです。
元弘の変(1331年)により薬師堂を除いて伽藍は焼失しましたが、
天正年間(1573~1592年)代官長谷川長綱によって再興。
長綱は徳川家康のお気に入りで東逗子にゆかりの寺があるそうです。
曹洞宗に、名も曹源寺と改称されました。


こちらを訪ねた目的のひとつは…
男坂の石段上から眺める衣笠城址の遠景が望めることです

s-★P1250809s-★P1250823s-★P1250819







衣笠城址を訪ねるのも、もちろん初めてのことです。
だいたいどんな場所かは聞いていますが、楽しみなスポットのひとつです。

2級河川平作川(ひらさくがわ)は衣笠城の外堀の役目を果たしていました。
衣笠十字路バス停から「衣笠城址」バス停までバスを利用します
歩けない距離ではないですが、時間に限りがありますので。

s-★P1250827s-★P1250830








土地勘0(ゼロ)のため、こうして連れて行ってもらえるのはとても助かります
初めてだと地図があってもわかりづらくて大変なことがありますから。

衣笠城の大手門付近です。左手の道へ。(写真右)は城址から戻って来た参加者さん。

s-★P1250841s-★P1250974








(写真左)大手門付近では緩やかだった坂道は、どんどん傾斜がキツくなり
衣笠城が難攻不落な山城だったことがひしひしと感じられます。
(写真右)当時の面影を残す斜面も。

s-★P1250859s-★P1250972








衣笠城の二の丸にあったとされる金峯山大善寺(だいぜんじ)(曹洞宗)着。
729(天平元)年創建。開山はまたまた行基菩薩。
本尊は不動明王(箭執不動:やとりふどう) 他に阿弥陀三尊像。

729(天平元)年、諸国行脚中の僧行基がこの山に金峯蔵王権現と
自作の不動明王を祀った不動堂がありました。
大善寺は明治まではこの不動堂の別当寺で奈良時代の古刹であり、
三浦氏の学問、仏教信仰の中心的な存在であったといわれます。

三浦氏の二代為継は、後三年の役に出陣し、
戦いの最中この不動明王が敵の矢を払い落とし為継を護ったという言い伝えがあり、
この不動尊は別名「箭執不動」といいます。現在の本堂は昭和10年再建。

(写真左)石段の下には衣笠城の水瓶だった井戸が。
(写真中)大善寺。黄葉したイチョウが綺麗
(写真右)庚申塔群。

s-★P1250878s-★P1250886s-★P1250969








靴を脱いで本堂に上がり本尊:箭執不動などを拝観させていただきました。
ここは横須賀…政治家・小泉ファミリーのお膝元ということで、
堂内に掲げられた3つの額には右から又次郎・純也・純一郎、三代の書が。
見どころのひとつですね。いずれ進次郎さんの書も仲間入りか
ちなみに元首相の純一郎さんの書は「無信不立(信無くば立たず)」という論語。

大善寺の本堂左手から裏山の衣笠城址へ続く道。
御霊神社という小さな祠や石碑、休憩用の椅子などがありました。
ほぼ想像していた通りの雰囲気で、往時を偲べるようなものはないのですが、
史実を多少なりとも知っていると、「なんか」感じる場所ではあります。

(写真右から二番目)ピンクの矢印は物見岩。
衣笠城があった頃にはあの岩の上からの眺めが良かったんだそうです。

s-★P1250943s-★P1250954加工s-P1250959s-★P1250945














衣笠城は三浦為通が1063(康平6)年に築城。この地を選んだ理由は3つ。

・金峯蔵王権現や不動堂の別当大善寺が祀られ古代信仰を受け継ぐ修験道場であったこと。
・古久里浜湾が深く入り込み出船が容易であったこと。
・三方が山に囲まれ、山城として理想的な馬蹄形であったこと。

衣笠城は周辺の支城とあわせ三浦一族の本拠地を形成してきましたが、
1247(宝治元)年の宝治合戦で数刻にわたる壮絶な戦いの末、
一族500余名が頼朝の墓所法華堂で全滅することになり、
為通以来185年の歴史は終末を迎えることになりました。

◆衣笠合戦
衣笠合戦は、1180(治承4)年8月源頼朝の石橋山合戦に支援のため出陣した三浦氏の軍勢が
「酒匂川」からの帰途、偶然の遭遇で畠山重忠と由比ガ浜で戦った後、
敗北した畠山軍の雪辱戦として戦われました。
衣笠城で敗色を悟った義明は脱出を勧める義澄の誘いを断り一人城に残って
義澄らの脱出を援護したと「吾妻鏡」は伝えます。


衣笠町内会館で昼食(手弁当)と休憩。合計30分。
休憩終わりには、これから満昌寺を訪ねるにあたって、
ガイドさんから「義明最後の下知(げちまたはげじ:指図)」のお話。
当ページには書ききれないので控えますが、
ご自身の解釈を織り交ぜたガイドがとても楽しく、かつ勉強になりました。
わたしは今日のガイドさん、好きです

その、義明山満昌寺(臨済宗建長寺派)着。
創建は1194(建久5)年。中興開山は天岸慧広(仏乗禅師)。開基は三浦大介義明。
本尊は華厳釈迦如来像(市重文)。 他に天岸慧広像、毘沙門天像など。

頼朝が幕府開闢(かいびゃく:ものごとの始まり)の礎になった
無二の忠臣三浦義明の霊を弔うため義明を開基として開設したと伝えられています。
三浦氏滅亡後一時衰退しましたが、140年後天岸慧広の入寺を機に復興が行われ、
宗派も臨済宗に改められました。義明の法名は満昌寺殿義明禅鑑禅定門。

s-★P1250991s-★P1250990














(写真左)満昌寺本堂。
(写真右)源頼朝公お手植えのツツジ。
 日本史上、秀吉と並んで稀にみる強運男・頼朝。
 ツツジの下を潜り抜けると幸運にあやかれるのだとか。

s-★P1260049s-P1260010













本堂左手、御霊神社に続く石段があります。内部は撮影禁止。

御霊神社は三浦大介義明の霊社で当山の鎮守。
創建は1212(建暦2)年。和田義盛によってつくられたと伝わっています。
国重要文化財「三浦義明坐像」が安置されています。
現存する像は室町時代の再興像と思われますが、
気迫のこもった古武士の表情を巧みに表現しています。
建物の背後へと続く石段を上がった場所に義明首塚と称する廟所があります。

s-★P1260018s-★P1260027s-★P1260042









三浦義明坐像は過去に鎌倉国宝館で拝見したことがあります。
国宝館で展示されていた時の方が、玉眼を覗くことができるくらいに良く拝めました。
なので、宝物類を中心にジロジロ拝観。
大介公(義明)在城之瓦や所持の三聖人像に見入りました。
和田義盛酒盃の杯は絵柄に兎が彫ってあって可愛かったです

廟所は以前訪れた材木座の来迎寺の方が感動だった。


こちらは近殿(ちかた)神社です。
住宅に囲まれたこじんまりとしたお宮。
義明の孫・義村の木造(坐高35cm)を御神体として祀っています。←見たかったです。
義村を祀る神社は、横須賀市鴨居に「近戸神社」、大津町に「千片神社」があり、
文字こそ違うけれどいずれも義村を指すようです。

s-★P1260059








続いて薬王寺〔旧〕跡です。
義明の嫡男・義澄の墓と伝えられる五輪塔があります。
凝灰岩を3個重ねた変形で地輪に梵字を刻み、穴を開けそこに納骨をしたようです。
この墓域の前面を薬王寺跡といい、
和田義盛が父・義宗、叔父・義澄の菩提を弔うために創建したと伝わります。
禅寺として護持されるも明治9年廃絶。

s-★P1260068s-★P1260062s-★P1260063








薬王寺跡の近くにある駒繋石。碑の左の岩に馬を繋いでおいたそうです。
こういうのも教えてもらわばければ、気づかずに素通りしてしまうかも。

s-★P1260070s-★P1260077








こちらは腹切の松公園
衣笠城落城の際、三浦義明は、城を下り円通寺(廃寺)や居城を静かに拝し、
薬王寺の山門あたりの老松の下で自害したとされます。
その老松を御霊木(みたまぎ)と称します。
公園の松は新たに植えられた何代目かのもの。

(写真右)三浦大介の歌。節がつくとどんな感じなんでしょうか。

s-★P1260095s-★P1260081s-★P1260082








最後に大冨山清雲寺(臨済宗)へ。

開基は三浦為継。本尊は観音菩薩像(国重文) 他に毘沙門天像。

古く平安時代は天台宗の寺。三浦義継が父為継の冥福を祈るため建立したと伝わります。
室町時代に臨済宗に改宗。

本堂の後ろに「伝三浦為継とその一党の廟所」があります。
本日はこちらのみ見学。

本尊の観音菩薩像はもと大矢部の円通寺の本尊でしたが、
江戸期に廃寺になったため当寺に移されたものです。
中国宋代の作品で宋代彫刻の特色を示すものであり、
この地への中国文化の流入ぶりを考える貴重な遺例です。

毘沙門天像は和田合戦の際、義盛のために敵の矢を請けたと伝え、
矢請の毘沙門と呼ばれる鎌倉時代後期の作。

s-★P1260116s-★P1260104







訪問スポット間はどこもだいたい15分以内だったかな。

帰りは「衣笠城址」バス停から「衣笠十字路」まで。JR衣笠駅から横須賀線で東京へ。
鎌倉に近い三浦という存在の大きさを実感しながらも、
まだまだ届かない奥の深さに触れた1日でした。

このページはスポットを追うだけの内容になっていますが、
後日、別の場所で三浦一族の各人にも言及する記事が書けたらと思っています。

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「晩秋の朝夷奈切通から金沢・六浦への古道を歩く」101111【後編】4

写真をクリックすると大きな画像を見ることができます。

2010年11月11日(木)

前ページに続く【後編】として、
六浦の上行寺・瀬戸神社・憲法草創之処碑・龍華寺・称名寺などの
スポットをアップします。

s-★地図P1240801








上行寺(じょうぎょうじ)
山号:六浦山 開基:荒井妙法・日荷(六浦平次郎光吉)←豪商 
開山:日祐(千葉胤貞の子・中山法華経寺三世) 本尊:三宝祖師
六浦光吉は自力で瀬戸橋を架橋。杉田妙法寺も開創。

1254(建長6)年、日蓮が船中問答富木常忍(ときじょうにん)を説伏。
常忍は日蓮に帰依し、この地にあった常忍の祈願寺である
真言宗・金勝寺を日蓮の布教の拠点にしました。
後に中山法華経寺三世日祐に帰依した北条家臣六浦光吉(日荷)が上行寺とし日蓮宗に改宗。
境内の丘上は「兼好法師旧居」跡だといわれています。
これは一説であって、現在はそれらしき跡は何も残っていないそうです。


(写真左)上行寺山門。
(写真右)日蓮の船係留跡
この辺りに六浦湊があったと考えられています。

s-★上行寺P1240898s-★船繋ぎの松P1240899








(写真左)本堂。本尊「三宝祖師」拝観。大きな綿帽子を被った日蓮聖人。
(写真右)ガイドさんに教えてもらわなければ絶対気づかなかった仁王様ヨイショ。

s-★本堂P1240926s-★仁王さんP1240921








大榧(おおかや)の下に日荷上人墓

s-★P1240907








牛馬六畜※宝篋印塔
※十二支のうち家畜にしている牛・馬・羊・犬・鶏・豚。
宝篋印陀羅尼経が納められた塔。

s-★P1240914s-★P1240911













本日は見学しませんでしたが…
上行寺東遺跡(模型)源頼朝・文覚創建の浄願寺(本尊・弥勒菩薩)遺跡も見どころ。
1984(昭和59)年マンション建設に伴う発掘調査でやぐら(三段43基)・五輪塔(400基)・
火葬骨(400体)・建物跡(7基)・墓礦(22基)・井戸(2基)・池(1基)・陶磁器(多量)。
石塔・古銭・銅製品が出土。



瀬戸神社
祭神:オオヤマツミノミコト 
古墳時代からの霊場(竜神社)。航海安全の神。
現在瀬戸橋が架かっている狭い海峡が急流で、海神を鎮めるために祀ったのが始まり。
1180(治承4)年、源頼朝が信仰する三嶋大社の注連縄で編んだ供え物を海に流して
それが流れ着いたところにご縁を求めて三嶋大社を勧請し、
瀬戸三嶋神社と呼ばれるようになりました。俗称:瀬戸神社と呼ばれています。
琵琶島に北条政子が竹生島弁才天を勧請。
将軍・公方・権力者の祈願所。江戸幕府は社領100石を寄進し金沢荘の総鎮守。

(写真左)瀬戸神社本殿。
(写真右)ご神宝のひとつ、源実朝が使用し政子が奉納した
頼朝遺品「陵王面(国重文)・抜頭面(県有形民族文化財)」。舞楽の面。

s-★P1240934s-★P1240945









(写真左)見どころのひとつ、江戸初期に倒れたご神木の「蛇柏槙」。
(写真右)この辺りの古い地図。
現在の地形とあまり変わらないが、埋立部分は非記載になっています。

s-★P1240949s-★P1240951








1305年十五代執権金沢貞顕が架橋した瀬戸橋。当時画期的なベイブリッジ。

s-P1240959s-P1240960







憲法草創之処碑
1887年伊藤博文らがこの碑から瀬戸橋寄りにあった東屋旅館で明治憲法を起草。

s-P1240962

 洲崎神社通過。
s-P1240969










(写真左)龍華寺(りゅうげじ)山門。
(写真右)見どころのひとつ梵鐘
1541(天文10)年5月5日。後北条家臣・古尾谷重長が寄進した鎌倉期の作。

s-★P1240971s-★P1240976







知足山・弥勒院・龍華寺(真言宗)御室派準別格本山
皇室ゆかりの京都市右京区御室(おむろ)にある仁和寺(にんなじ)の末寺。
【創建】1499年(明応8)年。 【開基】菅原資方(扇ガ谷・上杉家臣)
【中興開山】融辯
【寺歴】
1189年(文治5)頼朝と文覚が瀬戸三島明神別当・
        浄願寺(上行寺東遺跡)を六浦山中に建立。
1257〜59年住職・忍性が律に改宗。
1262年(弘長2)東寺・能禅が住職・弁誉に灌頂を行う。
1478年(文明10)兵火で焼失。
1499年(明応8)融辯が光徳寺(本尊・善光寺式阿弥陀三尊)と併合し洲崎に移転。
       後土御門天皇勅命で「龍華寺」と改称。
1591年(天正19)参詣した家康が「立源氏とは縁起が良い」と褒め
        寺号を「龍源寺」とし5石の朱印を与える。
1620年(元和6)六世快辯は本尊・弥勒菩薩が伽藍に比べて小さいため
       大日如来像を本尊とし、武蔵国密教教学センターとして繁栄。

【寺宝】塔頭・福寿院本尊の聖観音半跏像(脱活乾漆造、天平仏90cm)を
    1998年(平成10)に蔵整理で発見し復元(市指定文化財)
【墓地】永島泥亀一族の墓


【本尊】大日如来像
特別拝観後、横浜市指定文化財記念のボールペンを頂戴しました。

s-★P1240980s-★P1250145















金沢八幡宮通過。
s-P1240991
 赤門。もうすぐ称名寺
s-★P1240995







s-★P1240999

見どころのひとつ仁王門
江戸時代に再建。
関東最大の(院派)院興作・木造・金剛力士像(県重文)





金沢山・弥勒院・称名寺(真言律宗)
【創建】1260年(文応5) 【開基】北条実時(金沢北条氏二代目:好学・人柄重厚)
【本尊】弥勒菩薩 【開山】妙性房審海が1267年(文永4)律に改宗。
【寺歴】
1258年(正嘉2)北条実時が金沢別邸に亡母供養の阿弥陀堂を創建。
1267年(文永4)下野薬師寺の審海を迎え律宗に改宗。
1323年(元享3)十五代執権金沢貞顕の「称名寺結界図」には阿弥陀(過去仏)堂・
        講堂(釈迦・現在仏)・金堂(弥勒・未来仏)の三世仏を中心に
        護摩堂・方丈雲堂・三重塔・庫院など壮麗な七堂伽藍が立ち並ぶ。

称名寺は金沢北条氏※の保護で高僧を輩出し繁栄、六浦津を管理し関銭を徴収。
忍性の和賀江管理と同様、北条氏と結んで鎌倉の貿易を掌握。
好学の歴代住持によって和漢の膨大な蔵書が「金沢文庫」になります。
※金沢北条氏は武蔵国六浦庄金沢を本拠とする鎌倉幕府・執権職「北条氏」の分家。
鎌倉の海・陸路の要衝を掌握。学問を重視して幕府の学問所の役割を果たしました。

反橋を渡って見どころの梵字ア形をした阿字池浄土庭園を見学。
正面が本尊・弥勒菩薩立像(県重文)を祀る金堂。
茅葺屋根の釈迦堂にあった清凉寺式釈迦如来像(県重文)は金沢文庫が保管。

s-★P1250006s-★P1250010s-★P1250015








時計はすでに15:15を回り、ここで散策コースは終了。
夏の半日コースでも大変だったので、1日コースに耐えられるかどうかと思いましたが、
気候も良くたくさん歩いたわりには疲れも出ませんでした。
ガイドさんの軽妙なお話ぶりがとても楽しかったです

珍しい孔子木(こうしぼく)。葉の形が美しい。

s-★P1250028s-★P1250031







顕時・貞顕の墓を見学した後、特別展「仏像のみかた」を見に金沢文庫へ。
次ページにアップしています。


【おまけ】
ランチはダイエー金沢八景店のフードコートへ。
小花村(しょうかそん)の味わい中華そばが安いのに美味
木曜日なのでドムドムのソフトクリームも食べちゃいました

s-P1240958s-P1250147








以上で「晩秋の朝夷奈切通から金沢・六浦への古道を歩く」101111【後編】は終わりです。

「晩秋の朝夷奈切通から金沢・六浦への古道を歩く」【前編】1011114

写真をクリックすると大きな画像を見ることができます。

2010年11月11日(木)

絵に描いたような秋日和。
所用も兼ねて鎌倉ガイド協会主催 古都鎌倉史跡めぐり
11月のAコース「晩秋の朝夷奈切通から金沢・六浦への古道を歩く」に参加しました。

JR鎌倉駅東口5番のりばから京急バス「鎌23」太刀洗行き・「鎌24」金沢八景行き・「鎌36」ハイランド行き「十二所神社」バス停下車徒歩約5分。
鎌倉七切通のひとつで朝夷奈切通(あさいなきりどおし)からスタート。
途中熊野神社に立ち寄り、六浦(むつうら)の上行寺(じょうぎょうじ)
瀬戸神社(せとじんじゃ)龍華寺(りゅうげじ)
横浜市指定文化財の本尊大日如来を特別拝観し、
ゴールの称名寺(しょうみょうじ)まで見どころ満載&歩け歩けのコースです。

s-★地図P1240801


わたしが参加させて頂いたグループは、
若い女性が多くて悪目立ちせずよかったです




長くなりますので、このページでは【前編】として、
朝夷奈切通・熊野神社・鼻欠地蔵・小泉又次郎生誕地の碑
4スポットをアップします。


まずは「十二所神社」バス停から「朝夷奈切通」へ

朝夷奈切通(あさいなきりどおし)

鎌倉都市化で物流が逼迫した幕府は、1241(仁治2)年、三代執権北条泰時によって
鎌倉と金沢の六浦湊を結ぶ軍事・経済の要路朝夷奈切通を開削。

当時金沢北条氏の所領だった六浦湊は、波穏やかで着船しやすく
最大の利点は、房総方面をはじめ、東京湾の内海航路とつながっていたことでした。

さらに東京湾に注ぐ河川の航路ともつながっているので、
東国(房総半島や武蔵国など)の物資を陸揚げし、鎌倉へ搬入することができたのです
(水路なら陸路で迂回するよりも速く安全にたくさんの物資を運べる)

そして朝夷奈切通は、塩の産地だった六浦から鎌倉へ塩を運ぶ道でもありました。

また、幕府の実権を握っていた北条氏にとって最大のライバルは、
鎌倉の隣の三浦半島を領する三浦一族でした。
朝夷奈切通には外敵はもちろん、有事に三浦軍の侵攻を防ぐ軍事目的もありました。

こうした背景から、朝夷奈切通は鎌倉七切通の中でもとりわけ重要な切通だったのです。

周囲には墓としての性質を持たない「やぐら」や大規模な「納骨堂跡※」などが存在し、
切通周辺は宗教的な性格を持つ場であったこともうかがえます。
悪霊の侵入を防ぐためや武蔵国と相模国の「境界祭祀」の場ではなかったのではないかという、ある考古学者の見解もあります。

※H16年発掘調査によると、約6m四方の建物があったと予想され、
その中央から直径85cmの瀬戸の大甕に入った大量の火葬骨が出土。誰の骨かは不明。

江戸後期は大山・江ノ島・鎌倉観光ルートとして賑わいました。


朝夷奈切通の鎌倉側出入口へ

(写真左)梶原太刀洗水
 梶原景時が夜単身で上総介広常を訪ねて刺殺した後、太刀を洗った伝説から。
(写真右)三郎の滝
 怪力で知られた和田義盛(母は巴御前?)の三男・朝比奈三郎義秀の伝説から。

s-★梶原太刀洗水P1240819s-★三郎の滝P1240825







(写真左)朝夷奈切通の道。いつもぬかるんでいるのに今日はわりと乾いていた
(写真右)左側の壁面には仏像が刻まれた茶屋跡

s-★P1240837s-★茶屋跡P1240842








峠(鎌倉・横浜の市境付近)で切通から外れて右の小道に入り、
10分ほど歩いた所にある「熊野神社」に立ち寄ります。

美しい杉林の中の小道ですが、夕方になると薄暗くちょっと怖い道になるでしょう。
杉林の中にまだ新しい外観の社殿が見えてきます。

s-★P1240864s-★P1240852s-★P1240853














熊野神社
祭神はハヤタマノミコト・イザナギノミコト・イザナミノミコト。祭礼は9月17日。
源頼朝が幕府の艮(うしとら:丑寅:北東:鬼門)※に守護神として勧請しました。
仁治年間に北条泰時が朝夷奈切通し開墾の守護神として社殿を建立したと伝わっています。
※なぜ鬼門が丑寅の方角なのかというと、
鬼は角(牛)があり虎皮のパンツを履いているからだそうです

鳥居と本殿(9月22日に撮影したもの)
現在の建物は1978(昭和53)年の再建で、拝殿は平成元年御大典を記念して建立。

s-★P1230086s-★P1230089








熊野神社を後にして再び切通の道に戻ります。

鎌倉防衛のため、切通周辺は断崖・平場と土塁・掘割を組み合わせ城塞化。
1337(延元2)年12月20日には北畠顕家軍数万が朝夷奈切通から鎌倉に侵入し、
杉本城の斯波家長ら足利軍400名を殱滅(せんめつ:残らず滅ぼす。皆殺しにすること)

ふと見上げれば…

s-★切岸P1240872








鎌倉霊園に続く道なのかぁ…。

s-★P1240873s-★P1240874








庚申塔群が見えたら、朝夷奈切通金沢側の出入口。お疲れ様でした。

s-★庚申塔P1240876s-★出口P1240878








ここまでは何回か来たことがありました。
この後は最寄の「朝比奈」のバス停から鎌倉駅に戻っていたのですが、
本日はまだ訪れたことがない六浦まで連れて行っていただきます。

s-P1240884

六浦まで2kmの道のり。
ひたすら神奈川県道23号(原宿六ツ浦線)を往きます





鼻欠地蔵は凝灰岩の磨崖仏。道の反対側からそれらしく見えるようです。
武蔵・相模の国境にある「境地蔵」。朝夷奈切通にも国境があったはずだけど
国境は統治者によって変わることがありました。
香華が絶えない「花立地蔵」が鼻欠地蔵になったといいます。
江戸時代から鼻は欠けていたそうです。

s-P1240887s-P1240889








菩提寺の宝樹院近くにある小泉又次郎生誕地の碑
小泉又次郎は明治41年から衆議院に当選10回。衆議院副議長、通信相。
息子は純也・孫は純一郎・曾孫は進次郎と四代にわたる政治家ファミリー。

s-P1240892s-P1240894














以上「晩秋の朝夷奈切通から金沢・六浦への古道を歩く」【前編】101111でした。
次のページ【後編】に続きます。いよいよ六浦の上行寺・瀬戸神社・称名寺



「夏木立に蝉の声を聞き、鎖大師の御心を聴く」ツアーへ(2)後編【鎌倉山から夫婦池公園へ】 1008274

写真をクリックすると大きな画像を見ることができます。

2010年8月27日(金)

8月の鎌倉ガイド協会主催ツアー「夏木立に蝉の声を聞き、鎖大師の御心を聴く」
に参加させていただきました。その後編【鎌倉山から夫婦池公園へ】です。

11:00。手広の青蓮寺を出発して鎌倉山へ。地図はコチラです。
青蓮寺も初めての訪問でしたが、鎌倉山も初めて訪れます。

s-●地図
 青蓮寺の前の県道を反対側に渡って
 お好み焼き屋さんの角を左折します
 右奥は飯盛山(めしもりやま)です。

s-●P1210299








s-●P1210301

 「女坂」を上る前に右手の路地に入って、
 「内海家長屋門」を見学しました。




旧内海家住宅は、1978年に県指定建造物に指定されました。
現在は鎌倉二階堂の覚園寺境内に移築保存されています。
長屋門だけがこの地に残されました。
江戸時代の名主の住宅で、墨書から1706(宝永3)年の建築とされています。
長屋門とは、門の扉口の両側み部屋が連なる形の門です。
江戸時代に武家屋敷の門として始まったもので、
長屋の中ほどに門が見えることからこの名が付けられました。

この辺りではこちらの「内海さん」ほか「和田さん」「石井さん」という苗字のお宅が、
たいへん多いのだそうです。

 11:09。「女坂」の入口。12〜13分かけて山道を上がります。
 ここはかつて腰越方面へと抜ける道でした。
 途中、新田義貞軍と幕府軍が戦った洲崎合戦場の遠景が望めました

s-●11:09女坂入口s-●P1210310s-●11:14女坂








 「笛田道庚申塔」見学。
 左「青面金剛像」1782(天明2)年 壬寅正月吉日 三猿道標「右・江のしま道」
 中央「庚申供養塔」1864(元治元)年 甲子歳四月中旬日
 右「庚申供養塔」1931(昭和6)年二月吉日 三猿 

s-●P1210327

庚申塔は信仰の供養のしるしとして建てられました。
信仰が庶民に普及した江戸時代に多数。
鎌倉市内には341基。県内には約4000基あり。
聞かざる(着飾る)はメスのサル


 11:29。まもなく見晴台へ。
 途中、長閑な山道の沿道に栗が

s-●11:29見晴台へs-●P1210330








 見晴台では江ノ島が手に取るようによく見えました 

s-●P1210347s-●P1210349







鎌倉山は「鎌倉にある山々」という意味で使われることもありますが、
ここでは昭和初期に別荘地として開発された鎌倉市の西方にある高級住宅地、
笛田の南から腰越・津の北にかけての丘陵地帯を指しています。
日本で初めての丘陵式住宅地として造成され、1928(昭和3)年に分譲開始されました。
1930(昭和5)年には大船と江ノ島とを結ぶ、日本最初の自動車専用道路が開通。
周辺一帯は、南に相模湾、西に富士山が眺められる景色のよいところ。
鎌倉山という地名の名付親は、明治大正の時代から政界の長老であった望月圭介でした。

「かまくらやま」という呼び名は古くから使われ万葉集にも出てきます。
平安時代末期の和歌(永久百首)の中に
「我ひとり 鎌倉山を 越えゆけば 星月夜こそ うれしかりけれ」
と詠まれています。この場合の鎌倉山は、当然鎌倉にある一般の山々を指しています。

 「鎌倉山ロータリーの記念碑」

s-●P1210336s-●11:37鎌倉山ロータリーs-●P1210338







鎌倉山3丁目にあるロータリー式交差点。
菅原通済はここを鎌倉山開拓の起点と位置づけ、笛田方面に別荘地を切り開きました。
ロータリー部に建つ石柱は、関東大震災で倒壊した、
鎌倉鶴岡八幡宮の二ノ鳥居の柱を譲り受けたもの。
1969(昭和44)年に菅原通済が堤義明を介し入手しました
「鎌倉山」と彫られた文字は望月圭介墨書。
「建国記念の日二月十一日」は佐藤大寛墨書。
「昭和四十四年二月十一日建国記念の日」は菅原通済記。

このロータリーの前を走る道が日本最初の自動車専用道路。
通行料は昭和30年代当時50円(映画鑑賞券と同等)で、
自転車が通行するのにも料金がかかったそうです。

 11:55。本ツアー最終スポット「夫婦池(めおといけ)公園」へ。
 「鎌倉山記」の碑。後付けの「菅原通済題」

s-●11:55夫婦池へs-●鎌倉山記s-P1210361













題字は菅原通済、竹越與三郎の文。1935(昭和10)年建立。高さ4m。
中ほどに「戦道ガ峯ノ地名ガ 今猶ホ存スル事ヲ見テ 之ヲ知ルヲ得ベシ。
治承四年源頼朝ガ、兵ヲ相模ニ起コシ一勝一敗ノ後、漸ク房総ノ地ニ勢ヲ張ルヤ…」とあります。
この地は地方豪族同士の闘争の古戦場でもあり、「戦道ガ峰」や「親不知ノ剣」などの地名が今日まで残っています。
1180(治承4)年源頼朝が兵を、相模国に起し、平家一門との戦いで一勝一敗の後、
房総の地で体制挽回の旗揚げを行い、新田義貞がその鎌倉を破壊しました。
それから600年を経て険しい山は自動車道となり、
新しい家が立ち並びやがて美しい女性の姿も見えるようになりました。
遠くには富士山、箱根連峰、天城山などを望むことができます。

 「夫婦池(めおといけ)公園」入口。

s-●P1210370s-●P1210372







鎌倉山の山間にあり、「夫婦池」と呼ばれる2つの池(上池・下池)と桜が有名です。
森の貴重な野鳥、昆虫、草花の環境保全を第一に考え、
木材、自然石など自然素材を使用して整備し、
2009(平成21)年4月に「夫婦池公園」としてオープンしました。
夫婦池の由来は、江戸時代の頃、大寒の成瀬五佐衛門重治が笛田村に灌漑用水として現在の池を掘らせ、
その後笛田、手広の住民によって中央の堤が建設され、上下一対の池を「夫婦池」と称しました。
大きい池を「上池(うえいけ)」、小さい池を「下池(したいけ)」と呼んでいます。

 上池。遊歩道から2つの池の中を渡って公園内へ。
 園内の遊歩道を歩いてまたここへ戻ってきました。

●s-P1210378s-●P1210385







 下池と案内板。

s-●P1210388s-●P1210387







ここで本日のツアーは解散になるのですが、
一同、バスやモノレールの最寄駅がある深沢までご案内いただくことに。

 (写真左)前方に仏行寺の源太塚がある小山が見えます。
 (写真中)その仏行寺入口は右手へ。
 (写真右)深沢着。これが「ハンバーグ大魔王」
  お店の前は県道32号線で右へ行けば長谷方面です。

s-●源太塚s-●P1210400s-●P1210403







殆どの参加者が、相次いでバス停に停まったバスにタイミング良く乗り込むのを見送るわたし。
ガイドさん:「(あなたはどうするの)」
ままたろう:「わたしはこれから寄るところがありますので
本日のお礼を言って、湘南モノレールの「湘南深沢」駅方面へ向かったのでした

この続きは次ページへ…。

この7月から8月、鎌倉ガイド協会主催の半日ツアーに4回(コース)参加させていただきました。
なかなか一人では行かれないスポットに連れて行っていただけて楽しかったです。

初めての経験でしたが、皆さんとても足腰が丈夫で歩くのが速くてびっくりでした。
本日のツアーも杖をついて歩いている方よりも歩くのが遅いわたし
(自己弁護させてもらうと、伊豆出身者は歩くのがかなり遅いのです…)

9月からの1日ツアーへの参加はちょっとキツいかも(断念
なので、当ブログ内での鎌倉ガイド協会主催のツアーへの参加レポは、
ここで一旦終了になるかと思います。


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「夏木立に蝉の声を聞き、鎖大師の御心を聴く」ツアーへ(1)前編【青蓮寺】 100827 4

写真をクリックすると大きな画像を見ることができます。

2010年8月27日(金)

8月の鎌倉ガイド協会主催ツアー「夏木立に蝉の声を聞き、鎖大師の御心を聴く」
に参加させていただきました。その前編【青蓮寺】です。

大船駅からバスで青蓮寺(副住職の法話)〜鎌倉山〜夫婦池公園までの半日コース。
徒歩約6km、高低差あり。参加費500円。拝観料など200円。交通費(バス代)220円。

集合場所はJR大船駅南改札ルミネウィング前。
8:30頃到着。参加者は全60名ほどだそうです。
先着順に15名ずつのグループに分かれ、わたしは二番手のグループで出発。
皆さんと2番バスのりばから乗車。
15分ほど乗車して、「鎖大師」バス停のひとつ先「西ヶ谷(にしがや)」バス停で下車。

 (写真左)県道…今バスで来た坂道(男坂)を戻るように下って、青蓮寺(しょうれんじ)へ。
 (写真右)この小さなトンネルの中、かつての参道なんだそうです。
 県道が1957(昭和32)年に出来るまでのお話。
 
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参加者60名一同に青蓮寺で副住職さんの法話を聞くので、
先発隊は後発隊が到着するまで、周辺や境内を散策しながら待ちます。

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最寄の熊野神社へお参りに行きました
青蓮寺の子院の宝積院が管理しているそうです。
鰐口を鳴らすとドンドンと音がして神様が出てくる言い伝えは、
社殿に住みついたテンのしわざ。




 (写真左)こちら青蓮寺(しょうれんじ)山門です。
  この辺りは関東大震災で水浸しになり、山門はその後建てられました。
 (写真右)鬼が咥えている部分を「ゆい」と言うのだそうです。なんか可愛い
                              ガブッ
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公式P86 青蓮寺(しょうれんじ)
高野山真言宗。山号は飯盛山(はんじょうさん)※1。開山は空海(弘法大師)。
東国をまわっていた空海※2が、
819(弘仁10)年、青蓮寺裏山で護摩の悲報を修行していたとき、
美しい天女※3が現れて力を貸してくれました※4
大師が無事修法を終えたとき、天女は一粒の仏舎利(釈迦のお骨)を大師に託して姿を消しました※5
その仏舎利を密教の法具※6に納めて翌朝目覚めると、
池に青色の蓮華の花が咲きそろっていたといいます。
また別名「鎖大師」※7と呼ばれる由来は、本尊の木造弘法大師坐像の両足の関節が、
鎖のような細工のため自在に動かせるようになっていることにあります。
この本尊は鎌倉時代の作で鎌倉に四体ある写実的な裸形彫刻※8の一つ(国重文)。
厄除け大師としても知られます。

以下【※印の注釈】は、鎌倉ガイド協会制作のレジュメと副住職さんのお話からいただきました。

※1:門前から見える、山号になった飯盛山(めしもりやま)。

s-●飯盛山

あの山の頂上で、弘法大師が7日間護摩焚きを行った。
「弘法大師護摩修行之霊場」の碑があり、
弘法大師が護摩焚きをした1坪ほどの場所には、
手入れもしないのに未だに草があまり生えないのだとか。


※2:称名寺(今泉)・成就院・青蓮寺。鎌倉には3回立ち寄っている。

※3:美しい天女とは江の島弁財天のこと。

※4:修行に入ると身の回りのことが疎かになるので、給仕などを手伝ってもらった。
  弁財天が「給仕」に関わった山だから「飯盛山」。
  宮中ではお祝い事でご飯をこんもり盛ることからおめでたい名前でもある。

※5:弁才天は「池」に姿を消した。池は10畳ぐらいの広さ。今後整備をする予定。
  この池は弁財天が江ノ島と青蓮寺を行き来するのに使っていた。
  今でも境内にある池の底は江ノ島の方に抉(えぐ)れ、
  江ノ島方に向かって流れるように水路の穴がある。

※6:五鈷杵(ごこしょ)という先端が5つに分かれているダンベル型の密教の法具。
  そのグリップ部分に仏舎利を納めた。鎖大師さまが持っているのも五鈷杵。
  現在使われている五鈷杵は現住職がオーダーメイドし、
  仏舎利の代用としてメノウ系の特殊な白い石を加持後、七宝とともに入れてある。

※7:お寺の通称にもなっている本尊の弘法大師坐像【鎖大師】は、
   1月21日(初大師)・4月21日(大祭)・8月16日(施餓鬼会)・12月21日(収大師)  
                      の年4回のみご開帳の秘仏
  ふだんは内々陣にお姿の写真がかかっている。
  
  史実では鎌倉時代後期の作であるが、お寺に伝わる伝記(伝説)では、
  816(弘仁7)年、嵯峨天皇の命により弘法大師が諸国行脚の旅に出る時、
  天皇との別れを惜しんで、等身大の像を鏡に向かって作り、
  着ていた衣服・法衣・念珠・五鈷などをつけ、天皇に献上したといわれている。
  天皇が亡くなった後、大和(奈良県)の岡寺に移され、
  やがて鶴岡八幡宮寺等覚院蓮華定院に安置されていたものだった。
  1868(慶応4・明治元)年の神仏分離令の際、
  鶴岡に所属する松源寺(現・川喜多映画記念館の辺りにあった)に移され、
  その後壽福寺を経て青蓮寺に安置された。
  
  神仏分離令の廃仏毀釈運動で鶴岡八幡宮寺の仁王門が焼かれ、
  仁王像は下駄屋に売られるところを壽福寺に引き取られた。
  仏像は由比ヶ浜で焼かれることになっていたが、いよいよ焼かれる前日、
  この弘法大師像がいなくなり、草履を履いて壽福寺に行って座っていたのを
  青蓮寺が引き取ったという伝説がある。

  鎖大師の特徴は、鎌倉時代を代表する写実的な裸形彫刻のひとつ、
  法衣を纏って手指の爪は水晶。目は水晶を使った玉眼。
  右手に五鈷杵、左手に念珠を持つ。
   
  「鎖大師」の名で呼ばれる由来は2点あり…、
  (1)仏像の技法的な意味  
  (2)信仰上の意味 ◎青蓮寺ではこちらを重視

  (1)は法衣の着替えのために、両脚の付根が動くようになっている。
  その関節に「鎖のようなもの」が使われていることから。
  実際には鎖が使われていないというナーバスな問題もあるが…。
  歴史上の書物で最初に鎖大師の表記があるのは、
  水戸光圀が編纂した『新編鎌倉誌』で、
  「足を屈伸するように作ってある珍しい仏像で、名づけて鎖弘法大師という」とある。
  日本にはあまりない、恐らく唯一の技法を用いた仏像。

  (2)は62世くさなぎぜんり(京都の大覚寺を大覚寺派という独立したひとつの  
  宗派に仕立て上げた人物)が信仰上の意味を明確に示し、
  「大師様を信仰する人と大師様が鎖のように強いご縁で結ばれるように」
  との願いが込められているとのこと。

  座高88cmとほぼ等身大。裸体の像に絹の法衣を纏った
  ほぼ人間と同じスタイルは、仏ではなく人間であり、皆の言葉も気持もよくわかる。
  気持が通じるから強い絆で結ばれることができるということを意味している。
  
※8:鶴岡八幡宮の弁財天、延命寺の身代わり地蔵、江の島弁財天、青蓮寺の鎖大師。


法話のお時間まであと少し。ガイドさんについて境内を散策

 手広と笛田の激しい水争いで裁判沙汰に…何故か釈宗演の名が。

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 頭の上に「青い蓮」を咲かせ、その上金色の五輪等を載せた五輪塔童子
 萬霊供養と諸祈願成就のために建立されました。
 勝負運・健康運・恋愛運などをもたらすとされ、
 全5体、五輪塔を表す5つの梵字をそれぞれの童子が持っています。
 童子に優しく触れてお願いを…。「あ」は金運
 この五輪塔と五輪塔童子は、東京藝術大学教授 薮内佐斗司さん作。
 薮内さんはあの「せんとくん」の制作をした方。似てる

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植木がツルやイルカの形に刈られています。
…明るく親しみやすい雰囲気の境内でした。





 (写真左)飯盛山仁王院(にんのういん)青蓮寺  
 (写真右)その向かい側にある、手広山寶積院(ほうしゃくいん)薬王寺

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(写真左)手広山寶積院薬王寺は、2006(平成18)年1月31日に、
高野山金剛峰寺本山に本山に正式登録されました。
青蓮寺には江戸時代二つの塔頭寺院、寶積院と東福院がありました。
その一つを再建したのが、この手広山寶積院薬王寺です。
1591(天正19)年徳川家康から二十五石の朱印を受けた格式。
寺領は現在の手広交差点付近(山門から500m)まであり、
青蓮寺に力があったため江戸幕府の政策として青蓮寺から力を削ぎ、
その力を分割するために創られたのが寶積院といわれています。
本尊の薬師如来は江戸時代に安置されていた仏像で、病を癒し恐怖を取り除いてくださる仏像。


青蓮寺の本堂内に入り、ここから写真撮影はしていないので、
文章のみのレポになります。

10:00 手広山寶積院薬王寺住職 兼 飯盛山仁王院青蓮寺副住職(次期住職)の
服部全志さんの法話を40分ほど伺いました。
お話を伺う中で1960年代後半生まれと推察でき、同世代の方なので親近感を覚えました。

「皆さんのお身体を心配するというよりは、熱中症で倒れられた後の青蓮寺の評判が…」
と冗談を交えつつ、椅子に着席して仰ぐのもOK、飲み物携帯可能という、
たいへん寛容なご配慮がありがたかったです
気さくで軽妙な語り口の服部さんのお話に、あっという間に過ぎ去った40分間。
ざっくりと青蓮寺のご紹介・仏像などのお話をいただきました。
その中で特に印象に残ったお話は…

・お寺さんで信仰の対象である仏像を見学させていただく際に、
「見せていただけませんか」とお願いするのではなく「拝ませていただけませんか」という表現をした方が、
お寺さんの心証がずっと良いということ。
お断りを受けるにしても、その断られ方にも違いが出るだろう、というお話。
文化財としてより信仰の対象であるとの認識で。

・近い将来、何かお祝い事とともに、たぶんそれは新住職の誕生、
 服部さんが青蓮寺第65世住職に就任する時と同じくして、
 20〜30年に一度行われる鎖大師像のお衣(法衣)替えの法要を行う。
 前回は服部さんが高校生の頃だったので、そろそろ23〜24年経過している。
 国の重要文化財であるため、お衣替えは大掛かりなもので、
 文部科学省と鎌倉国宝館から立会人が複数列席する。
 お坊さんも修行の度合いによっては立ち会えない場合がある。
 お衣は高野山に取りに行く(当時高校生だった服部さんは、
 その行事には参加できたが、お着替えには立ち会えなかったのだが)
 鎖大師さまを内々陣の収蔵庫から外陣(げじん)に運び出し、
 白い布を張ってお着替えする。

・9月1日に五輪塔童子のケータイの待ち受け画面(525円)が発売される。
 カレンダー、時計、鎖大師のロゴ入り、左方で童子がクルクル回る
 ケータイの中に取り込めるお守り。
 せひダウンロードされたし

法話の後は各自内陣を拝観するお時間と、
体験学習を目指している青蓮寺では仏具に触れる準備をされているとのことで、
五鈷杵や独鈷などに触らせていただきました。

11:00 皆元気に青蓮寺を後にします。
外は相変わらずの暑さでしたが、とても清々しい気持に

レポは後編【鎌倉山から夫婦池】へ続きます。


青蓮寺HP⇒http://kusaridaishi.jp/

青蓮寺(しょうれんじ)の拝観は…
:鎌倉市手広5-1-8
:JR藤沢駅南口(1〜3番)から江ノ電バス「鎖大師」下車。
       JR大船駅東口(2番)(湘南モノレール下のバスのりば)から江ノ電バス「鎖大師」下車。
       JR鎌倉駅東口(1番)藤沢駅行き江ノ電バス「手広」下車、
           「手広」の交差点を江ノ島方面へ徒歩約500メートル。
        湘南モノレール「西鎌倉」駅下車徒歩15分。

:0467-31-1352
:自由拝観
:無料


公式P は、「鎌倉観光文化検定公式ガイドブック」掲載ページ。


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「田谷の密教地底伽藍に涼を求めて」 1007214

写真をクリックすると大きな画像を見ることができます。

2010年7月21日(水)

鎌倉ガイド協会の「古都鎌倉史跡めぐり」7月のコース
田谷の密教地底伽藍に涼を求めて」に参加しました。

9:00〜JR大船駅西口に集合。
わたしは第3グループで、20名の皆さんとガイドさんに続いて散策へ

本日のコースは…
大船駅西口→黙仙寺→長尾砦跡→御霊社(ごりょうしゃ・ごれいしゃ)
→定泉寺・田谷の洞窟→田谷御霊神社 です。高低差なし、約4kmほどのコース。

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 まず最初に立ち寄ったのは「黙仙寺」。
 朝から石段263段…ゼ〜ハァ身体が重い。皆さん健脚
 石段嫌いのわたくし…一番最後にやっとの思いで到着

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なのにまたしても閉まっているご本堂
1ヶ月に1回も開かないらしいです
臨済宗、日蓮宗のお寺が多い鎌倉においては数少ない曹洞宗のお寺ですが、
全国に曹洞宗のお寺は17,000〜18,000もあって、一番多いんだそうです。
ちなみに伊豆の実家も曹洞宗です

日置黙仙(ひおきもくせん)から命名した寺号。
明治末、浜地八郎が自分の信仰する金剛経を広めるため、
曹洞宗総本山永平寺管長の日置黙仙禅師を開山に開いたお寺です。
明治42年に静岡県の祐昌寺をこの地に移して本尊に金剛尊天を安置。本堂は道場。
二世住職で永平寺管長の高階瓏仙(たかしなろうぜん)は、大船観音完成の中心人物。

山号の無我相山(むがそうざん)は、大船観音の北側の山で、
「観音山(かんのんやま)」とも呼ばれています。
無我相とは仏陀の最初の説法…人間の心身は「色・受・想・行・識」という5つの集まり
=「五蘊(ごうん)」をいいます。

黙仙寺の墓地の脇を通って山道に入ります。

 途中の高台から天神山を望む
 周辺に何もなく見通しが良いので、玉縄城の出城があったことがよくわかります。

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 山道。横浜市栄区長尾台町の裏山です。
 (写真右)「長尾砦跡」着。空堀(からぼり)の跡ともいわれますが、
 史実のみで真実を示す史跡はありません。崖には家庭ゴミが…。

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 長尾台。アスファルトで舗装された道の脇には、豊かに農作物が実る畑。
 (写真右)先発グループの皆さんと遭遇。順番待ち休憩。
 「長尾砦跡」の解説板の前でガイドさんの説明を聞きます。

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横浜市栄区長尾台町の裏山は長尾砦跡といわれています。
この地が長尾氏発祥の地ともいわれ、桓武天皇を祖とする関東八平氏
「上総・千葉・三浦・梶原・土肥・秩父・大場・長尾」のうち、
長尾景弘(平景弘)が平安末期にこの長尾台という丘陵に空堀、土塁をもって築いたといいます。
元々「長尾」という地名があったと考えられ、この地に館を構えた平景弘が、
「長尾」景弘と名乗り始めたと考えられています。

長尾景弘には長男の新五為景と次男の新六定景がいました。
1180(治承4)年8月の源頼朝の旗揚げ時、石橋山の合戦で長尾景弘息子たちは
平家方の総大将・大庭景親に従軍して頼朝軍と戦いました。

石橋山で敗れた頼朝は安房に逃れて形勢を立て直し、
同年10月に関東諸豪族を従えて鎌倉に入ると、為景は石橋山で討った佐奈田与一の父・岡崎義実に預けられ、一心に経を読む姿に心を打たれた義実に許されます。
一旦出家しますが、後に還俗して三浦氏の家臣になりました。

定景は三浦義澄に預けられ、定景は翌治承5年7月には許されました。

1219(承久元)年正月、公暁が鶴岡八幡宮で実朝を殺害後、定景は公暁を討ち取り、植木七騎谷に潜んだといわれています。

1247(宝治元)年6月、北条時頼と三浦泰村・光村が不和になり宝治合戦が起きた際、
定景・景茂※親子は三浦泰村について北条時頼と戦って敗れ、泰村とともに頼朝の法華堂で自刃。
※景茂の生死ははっきりしていません。
長尾砦も時頼に攻められて落城し、長尾一族は散りました。
しかし、室町時代に至って長尾一族の活躍が見られるので、
その後も一族の子孫はこの地に定着していたと思われます。
また、越後の長尾氏から景虎(上杉謙信)が出て、関東管領となり威を振るいます。
1438(永享10)年長尾砦が築かれ、1512(永正9)年玉縄城の出城として造成整備されました。

長尾氏の家紋の左に渦を巻いた「九ッ巴」は長尾台に湧いた「九つ井戸」と呼ばれる泉を表し、
上杉謙信も一時期この家紋を使用していました。
現在も「九つ井」という地名は存在しています。

 次のスポット「御霊社」です。

長尾景弘・為景親子が、祖先を祀る村岡村宮前御霊神社の分霊をこの地に勧請し手創建しました。
藤沢市にある村岡村宮前御霊神社は、御霊神社の大元で、当初は16の分社を持ち、
現在でも分社は14を数えます。
鎌倉・坂ノ下に住んだ鎌倉権五郎景政は、北条時頼の命により、
村岡御霊社に合祀され祭神になりました。

 神仏分離で人間を祭神として祀ることが禁じられ、祭神は大國主命になっていますが、
 本来の祭神は鎌倉権五郎景正(政)です。

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 その証拠に境内にある江戸時代(文政9年)の手水鉢に景正の家紋「丸に並び矢」が…。

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さて、いよいよ次は定泉寺(じょうせんじ)と田谷(たや)の洞窟です。
 バス通りに出ました。

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 今でも長閑な雰囲気ですが、昭和37年に出来たあの三菱電工のビルの場所に
 前年まではお山があったんですね。
 田谷とは田んぼの中の小屋という意味で、
 ここには鶴岡八幡宮の二十五坊の田、刈小屋がありました。
 
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 ここもいずれこんなふうになっちゃうなんて…。

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 大船ラドン温泉のお隣、定泉寺へ。

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 真言宗大覚寺派のお寺「定泉寺(じょうせんじ)」です。
 弘法大師の命日の法要のためご住職の法話は伺えず、
 門前でガイドさんの解説を伺いました。

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 境内の史跡。子安地蔵は安政7年の作。後で撫でようか。

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 入場料300円で小さなろうそくをもらい、燭台にセットして洞窟に入ります。
 洞窟内は撮影禁止です。洞窟概念図参照ください。

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田谷の洞窟(田谷山喩伽(ゆが)洞)は、定泉寺の境内にあります。
「ユガ」とは「ヨガ」と同意で精神統一という意味です。

古くは古墳時代の横穴住居でしたが、
鎌倉時代に鶴岡八幡宮二十五坊の僧らによって真言密教の道場として洞窟を掘り広げたのです。
また、鎌倉時代の初めにこのあたりに和田義盛の三男朝比奈三郎義秀の館があり、
三郎は洞窟内に弁才天を勧請し、日夜礼拝したといいます。
1213(建保元)年、和田一族が滅ぼされた時、
三郎はこの洞窟の奥から落ち延びたという説もあります。
その後、房総へ逃れたとか(和田港という地名あり)、
紀伊の太地へ逃れて鯨漁師になったという説も。
実際太地には和田姓が多いのだとか。

その後、洞窟は崩れ落ちていましたが、江戸時代には横浜の三会寺から学識のある寂照が移住し、
地震などで崩れた洞窟を整備して伽藍工事を進め、僧、農民、町民、江戸の町民らによって
掘り進められ、総延長1kmを越す洞窟が曲がりくねりながら続き、
数々の彫刻を施して現在の地底伽藍が完成しました。

彫刻が今日まで残っているのは、地下水が豊かで内部の湿度が高い(80〜90%)から。
温度も常に16〜17℃に保たれています。
現在公開されているのは、この洞窟のうち250mほど。
それぞれ仏教のいわれがあり、
主なものは工事奉仕者の家紋、守り動物、物語伝説の絵、仏像、十二支、霊場札所など。

洞窟の中はひんやり涼しく、これまでかいた汗が引いてとても気持が良かったです。
初めて訪れたのでろうそくを消さないよう、暗闇の中を進む足元に気を取られ、
なかなか彫刻に集中できませんでした。
機会があれば再訪して、ひとつひとつゆ〜っくり見たいと思いました。
そんなことを思いつつ、なかなか1人では来られない場所なので、貴重な機会に感謝します。


 最後に訪ねたスポット「田谷御霊神社」です。

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前出、藤沢の村岡御霊神社を分霊していますが、
誰が勧請したかなど明らかではありません。

ここで本日の散策は解散になりました。
大船ラドンセンターにもいつか行ってみたいと思いつつ、神奈中バス待ち。
20分遅れて到着したバスに乗って再び大船駅西口へ。
以上、だらだらレポでした

「東勝寺跡から伝説の唐糸・日月やぐらを特別拝観」 100712 4

写真をクリックすると大きな画像を見ることができます。

2010年7月12日(月)ときどきのち

「鎌倉ガイド協会」の「古都鎌倉史跡めぐり」毎月変わる協会主催コース
「東勝寺跡から伝説の唐糸・日月やぐらを特別拝観(半日コース)」に参加しました。

 ままたろう♀は、ガイドさん以下18名の参加者の皆さんとともに
 鎌倉駅東口を9時20分に出発しました。

s-9:20鎌倉駅出発s-コースの地図







コースは以下の通り。
鎌倉駅〜宇津宮辻子幕府跡〜若宮大路幕府跡〜宝戒寺〜東勝寺跡・腹切やぐら
〜(宝戒寺トンネル) 〜 大町釈迦堂口遺跡[唐糸・日月やぐらなど] 〜 六方井
〜 名越バス停(解散)
[徒歩約4km、やや高低差あり]

新しく国指定の史跡となる大町釈迦堂口遺跡(旧称、伝北条時政邸跡)を訪ね、
伝説に彩られた唐糸やぐら・日月やぐらなどを特別拝観します。

 若宮大路を渡り鶴岡八幡宮方向へ。
 「若宮大路」バス停留所の脇の路地を右折して進みますと「宇都宮辻子幕府跡」碑、
 道なりに進むと「大佛茶廊」、「若宮大路幕府跡」碑が現れます。
 
s-9:32宇都宮辻子幕府跡碑s-9:45大佛茶廊s-9:46若宮大路幕府跡碑














◆宇都宮辻子幕府跡碑
この場所は、下野守宇都宮泰綱の邸があった場所です。
「辻子(ずし)」とは「辻」のことではなく、
大路と大路を繋ぐ道のことで、京都から伝わった言葉。
宇都宮辻子は、当時若宮大路と小町大路を繋いでいた道だったと思われます。
1180(治承4)年、源頼朝が清泉小学校周辺に最初の幕府(大蔵幕府)を築きますが、
1225(嘉禄元)年、北条政子の死を契機に時の執権北条泰時は、この地に幕府を移転して、
人心一新を図ることにしたのです。
宇都宮辻子に面して幕府の南門が築かれました。稲荷がいつできたかは不明です。
この2番目の幕府は、11年しか続きませんでした。

◆大佛茶廊
野尻さんという、故大佛次郎の親族の方が住んでおられます。

◆若宮大路幕府跡碑 
建立当時の碑文には年月を経て誤りが出ていることもあるので注意。
若宮大路幕府は親王屋敷とも呼ばれ、四代将軍藤原頼経就任中の1236(嘉禎2)年から、
九代将軍守邦親王の1333(元弘3)年の北条氏および幕府が滅びるまでの97年間、
将軍6代にわたって国政が行われた場所です。
歴史学者によると、宇都宮辻子幕府と若宮大路幕府は、ほぼ同じ場所に存在し、
少し奥まった位置にあった宇都宮辻子幕府を若宮大路に面するように面積を拡張したのが
若宮大路幕府だといいます。


 小町大路に出て北上しますと、「土佐坊昌俊邸跡碑」と…。

s-9:48土佐坊邸跡碑◆土佐坊昌俊邸跡碑
どの御家人も在京中の頼朝の弟義経討伐を敬遠しますが、
妻子や子孫が後々大切にされるであろうことを期待して名乗りを上げた土佐坊。
物の本によると、土佐坊の急襲に気付いたのは一緒に寝ていた静だったとか。
難を逃れた義経を土佐坊は討ち損じてしまいます。


 こちら「宝戒寺」です。
s-宝戒寺s-筋替橋碑方面を望むs-北條九代屋敷













受付で拝観料:100円〔内陣(本堂内)※拝観券〕を各自納めて本堂へお参りに…。
※内陣とは神社や寺院の内部で、神体または本尊を安置する最も奥の部分。内殿。

◆宝戒寺
二代執権北条義時以降、最後の当主の高時までが住んだ北条氏本家の屋敷跡。
(写真上中)北は筋替橋碑の辺りまで北条氏の敷地で、屋敷がたくさんありました。
(写真上右)「北條『九代』※屋敷」と石柱に刻まれてはいますが、
初代の時政はここには住んでいなかったのです…。※時政から高時までが北条九代。

1333(元弘3)年、新田義貞の鎌倉攻めで滅びた北条氏の霊を慰めるために、
開基後醍醐天皇が足利尊氏に命じて、北条氏邸跡に建立させ宝戒寺と名づけました。
鎌倉では珍しい天台宗のお寺です。開山は円観慧鎮。
(写真上左)天台宗の基本教義である円頓(えんどん)とは、仏教用語辞典によると、
「心を和やかにもって人と争わなければ成仏できる」という意味。
このため天台宗のことを円頓宗(えんどんしゅう)ともいいます。

本堂内に安置されているご本尊は子育経読地蔵(国重文)。
「宝戒寺門前で子供が生まれそうになった時、
子供を取り上げる世話をしてくれたお坊さんが地蔵の化身だった」
という伝説があり、子供の無事成長を願って参拝に訪れる人も多いです。

鎌倉・江ノ島七福神のひとつ、戦の神・毘沙門天も祀られていますが、
毘沙門天は、別名・多聞天ともいいます。
楠正成の幼名・多聞丸には強い武将になるように願いを込められているのでしょう。

 歓喜天のご本尊は非公開ですが、(写真右)こーんな感じ
 歓喜天は水商売の方に人気があるそうです。熱海城にもあります。

s-10:08歓喜天歓喜天イメージ












 徳崇大権現。
 義時は出家して「得宗(とくそう)」と名乗ったことから、
 以後北条家本家を「得宗家」と名乗るようになりました。
 でも「とくそう」の漢字が違いますよね…。それはまた別の機会に

s-徳崇大権現s-10:09徳崇大権現








 こちらは聖徳太子を祀った太子堂。
 なぜここに祀られているのかはわからないとのこと。
s-10:10太子堂








境内には四季折々の花が咲きますが、特に9月頃に咲く白い萩の花で有名で、
別名「萩寺」とも呼ばれています。


宝戒寺から小町大路を20mほど南下した「小町三丁目3」の路地※を左折します。
※「美鈴」さんの通りです。
ここでガイドさんの「小町大路」の解説。

◆小町大路
頼朝による都市計画の中心として造られた「若宮大路」ですが、
当時は今の2倍の45mほどの道幅がありました。
「若宮大路」は鶴岡八幡宮の参道として造られた道=「聖なる道」。
恐れ多いということで、沿道の邸宅やお寺は入口を若宮大路の反対側に造りました。
その名残、本覚寺、大巧寺など、お寺の入口はみな小町大路を向いています。
そして、この「小町大路」が生活道路としてのメインストリートになったのです。
当時の道幅は16mほどありました。云々。

路地の突き当りを右折して、再び突き当たりを今度は左折すると、東勝寺橋です。
経済学者マルクスと人気を二分したケインズの経済学の根幹「有効需要」
藤綱は700年以上も前に「有効需要」を実践していた
…「青砥藤綱の銭拾い伝説」の考え方そのものなんです。

s-10:22東勝橋で




東勝寺橋にて。



続いて東勝寺橋の奥、葛西ヶ谷(かさいがやつ)にある東勝寺跡と腹切りやぐら。

 (写真左)自転車保管所の周辺も東勝寺の敷地。
s-10:28東勝寺跡s-東勝寺跡








◆東勝寺跡
1225(嘉禄元)年、三代執権北条泰時が退耕行勇を開山に北条一族の菩提寺として建立。
この寺は、菩提寺であると同時に有事に備えた城塞の意味を持った寺院と推測されます。
1976(昭和51)年、1996.7(平成8.9)年の発掘調査で、
石垣が築かれていたことが判明しています。

1333(元弘3)年5月22日、
後醍醐天皇に呼応して鎌倉に攻め寄せた新田義貞の軍勢を迎え撃つべく、
この東勝寺に一族を集め、北条高時以下800名が立て籠もりましたが、なすすべもなく、
東勝寺に火をかけて、壮絶な最期を遂げた場所です。
再建され室町時代に関東十刹に名を連ねましたが、鎌倉府とともに衰退し、
戦国時代に廃寺になりました。

北条高時といえば、田楽や闘犬に現を抜かす馬鹿者という悪いイメージが定着していますが、
「太平記」の冒頭しかり、そもそも歴史書は戦いに勝った側から負けた側を悪く表現します。
一方、当時の生情報を知ることができる「称明寺文書(しょうみょうじぶんしょ)」には、
高時の実態を「身体は弱かったが、家臣に守られながら良い政治を行った」と、
「太平記」とはだいぶ異なる人物として記録が残っています。
本当に馬鹿な当主とともに、800人もの一族郎党が殉死するとは思えません。

◆腹切りやぐら
東勝寺跡の腹切りやぐらの中には、
石を積んだ高時の墓と伝えられる塔が寄せ集めで建っています。
1998(平成10)年に腹切りやぐらを含む谷戸が国指定史跡になっています。

s-10:35腹切りやぐら

やぐらまでの細道、足元がフワフワするでしょ
この下にたくさんの遺骸が埋まっているからかも…。
高倉健さんの卒塔婆、ご存知の方やはりいらっしゃいますね。
東勝寺で自害した名越流・北条篤時の末裔とのこと。



さて、東勝寺跡を後にして、住宅街の路地を左折し、「宝戒寺トンネル」を目指します。
途中の坂の上からくるっと振り返ってみましょう、とガイドさん。
鶴岡八幡宮の上宮がよーく見えました
なんだかとても新鮮な眺めでした。一人だったら絶対に気づかなかったでしょうね。

s-10:43鶴岡八幡宮を望む








 10:44。「宝戒寺トンネル」は風の通り道というだけあって、天然クーラー。
 このトンネル、別名「妾(めかけ)トンネル」と呼ばれ、この辺りに住むお金持ちが、
 山向こうの愛人にショートカットで逢いに行けるように造ったのだとか。
 
s-10:44めかけトンネル
 10:45。トンネルを抜けたところで見えたあの山は衣張山

s-10:45衣張山?







しばらく緩い下り坂と平地…
 10:52。大町3丁目16の角左折、先発グループと遭遇。

s-10:52先発グループと遭遇








10:59。大町6丁目7の角右折。

 11:03。大町6丁目9。大町釈迦堂口遺跡(伝北条時政邸跡)入口着。
 本日のメイン見学スポット。入口では人数を確認

s-11:03遺跡入口

 入口から一列に並んで細い石段や山道を上って行きます。
 11:05。大町釈迦堂口遺跡(伝北条時政邸跡)着。

s-11:05時政邸跡
ここが…
かつて「伝北条時政邸跡」
と呼ばれていた場所ね…。
想像していたより
ずっと広かったです



一時、ここにも土地開発の手が伸びたこともありましたが、
鎌倉時代の風景が手つかずのまま残っているのだそうです


◆大町釈迦堂口遺跡(伝北条時政邸跡)
名越ヶ谷といわれる谷戸にあり、鎌倉幕府初代執権・北条時政邸跡との説もありましたが、
鎌倉市教育委員会の発掘調査で年代の違いが発覚。
13世紀前半に亡くなった時政に対して、やぐらの存在や出土品(国重文に指定されている
高価な「青磁の鉢」など)から13世紀後半以降に存在したであろう、
それなりの格式を持った未知の廃寺跡の可能性があると考えられています。
現状を見ると、やぐらと平場※の遺構が一体で残る数少ない貴重な場所です。
※墓参りに来た人が集うための墓前の平らな場所。

鎌倉に存在する「谷戸」は200。お寺も「200」。
ほぼ数が一致していますから、ほとんどのお寺は谷戸に存在するといえます。
奥の山際に60ほどのやぐらがあるこの遺跡は、
祖師(開祖)が亡くなるとお寺の裏にやぐらやお墓を造り、
子孫、弟子ども、坊主に帰依する武士などが段になったやぐらを造るという、
鎌倉時代の「お寺」があった場所に合致します。

そもそもここを「浜の御所」と呼ばれていた「伝北条時政邸跡」とすることに、
懐疑的な学者はいたのだそうです。

 11:10。いよいよこれから「唐糸やぐら」と「日月やぐら」の見学です。

s-11:10いよいよやぐらへ







 11:13。石段と山道を上って「唐糸やぐら」着。
 唐糸やぐらの中には何もありません。それもそのはず…

s-11:15唐糸やぐらs-唐糸やぐら








 このやぐらは、頼朝の命を狙った唐糸(からいと)が、
 暗殺未遂の罪で幽閉された土牢
 やぐら左右の上部には柵の穴跡が

s-柵の跡左s-柵の跡右








 「唐糸やぐら」の左隣には「地蔵やぐら」。

s-11:13地蔵やぐら








 すぐ近くの「北條時政邸裏門跡」。ここも「旧」がつきますね。
 橋はギシギシ不気味な音を立てて危険なので、今回は渡らないことになったそうです。
 危ないから安心でもあり、でもちょっと残念

s-11:22裏門跡s-11:21北条時政邸裏門跡s-橋














 この石段が橋へと続く道ですが、道標に従って「日月やぐら」へ進みます。

s-11:34橋へ行く方








「日月やぐら」に向かう途中、左側に巨石が滑落している崖があり、
「危険」テープが張られていました

◆唐糸・日月やぐら
釈迦堂口の周辺には多くのやぐら群(60ほど)が存在しており、
それらは釈迦堂口やぐら群と呼ばれ、
代表的なものに御伽草子の「唐糸草子」ゆかりのやぐらがあります。↑前出。
頼朝の従兄弟の木曽義仲が暗殺を命じて手塚光盛の娘・唐糸を鎌倉に送りますが、
企てが発覚してこのやぐらに幽閉されたという伝説。
舞上手な娘・万寿姫に免じて唐糸は頼朝から恩赦を受けて娘ともども木曽へ帰ります。
手塚光盛は老武士ながら髪を黒く染めて合戦に参加したという逸話が平家物語の中でも有名。

釈迦堂口トンネル上尾根やぐら群の中に、「日月やぐら」があります。
「にちげつ」やぐらとも呼ばれますが、元来は「じつげつ」やぐらです。
やぐら内部の壁面、納骨堂の丸い穴を日輪、
二重に掘られた穴を月輪の形になぞらえて呼ばれています。

 これが…日月やぐら。(写真中)全体を右側から。(写真右)内部を左側から。

s-日月やぐらs-11:32日月やぐらs-P1160037






    (写真左)日。                   (写真右)月。
s-11:28日s-11:28月








 日月やぐらに連なるやぐらのうち可愛い2つをピックアップ。
 (写真左)寄り添っているみたい

s-P1160033s-P1160030








見学が終わり山を下りて、大町釈迦堂口遺跡(伝北条時政邸跡)へ。
さらに来た道を戻って、先ほどの遺跡の入口でガイドさん人員確認。
何故か2人増えてました(背後霊連れて来た)。
こういうことよくあるんですよね、と。
減ってないんだからまぁいいや、という感じで、最後の見学スポット、「六方井」へ。

 11:55。大町3丁目8の角右折。
 ほどなく六方井、到着。後発のグループも追いついて賑やか。

s-12:03六方井周辺s-11:56六方井s-六方井







◆六方井
六方の井、六坊の井ともいわれ、池に似たこの井戸は、
佐竹邸跡で有名な大宝寺の北側に位置し、弘法大師が掘ったと伝わります。
縦3.6m、横4.5mの四角な井戸ですが、どんな日照りにも涸れることがなく、
名越周辺の人たちはもちろん浄明寺周辺の人たちも水を汲みに来たといわれます。
井戸の側面に出っ張ったところがあり、龍頭といって、
水がこの龍頭まで減ると必ず雨が降るといいます。

この井戸は山の反対側にある比企ヶ谷・妙本寺の蛇苦止明神内の「蛇形の井」と通じており、
井戸の主である蛇は、六方井と蛇形井を行ったり来たりしているという伝説があります。
すなわち、蛇形の井の水面が漣立っている時には水底に蛇がおり、そうでない時には、
こちらの六方井に来ているのだということです。

この蛇は頼朝の長男・頼家の側室「若狭局(わかさのつぼね)」の化身といわれています。
若狭局は比企の乱の際に焼け死んだ、あるいは池に身投げしたとの説があります。
その50年後、北条義時の庶子で七代執権の政村の娘が物の怪に取り憑かれて暴れ、
ペロペロと舌を出し、身体をくねらせ、その姿はまるでヘビの様相、
いまだ恨みを忘れていない若狭局の霊が乗り移ったといわれました。


 六方井から大町大路に出て、12:10。ローソン駐車場にて解散。

s-12:10解散


楽しい散策コースでした
北條時政邸裏門の橋が渡れなかったのは残念でしたが…。
この特別拝観コースは、再び企画されるとのことです。



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「鶴ヶ峰に『畠山重忠』滅亡の跡を歩く」 1007063

写真をクリックすると大きな画像を見ることができます。

2010年7月6日(火)ときどきのち

「鎌倉ガイド協会」の「古都鎌倉史跡めぐり」 毎月変わる協会主催コース、
鶴ヶ峰に『畠山重忠』滅亡の跡を歩く 《半日コース》」に参加しました。

横浜から総鉄線で「鶴ヶ峰」で下車。
思っていたよりずっとたくさんの参加者が集まっていてびっくり。

 私は、第5グループ(先着順にグループ形成・5番手出発)に入り、
 ガイドさん以下13名の参加者の皆さんとともに鶴ヶ峰駅北口を9時15分に出発しました。
 約3kmの道のり、3時間ほどの散策コースです。
 鶴ヶ峰商店街を進んでいるとポツポツ雨が降ってきました。

 コースは以下の通り(右の写真、オレンジのマーキングがルートです)。
 相鉄・鶴ヶ峰駅〜首塚〜畠山重忠公碑(さかさ矢竹)〜薬王寺(六ッ塚)〜駕籠塚
 〜白根神社・白根公園〜帷子川親水緑道〜鶴ヶ峰駅


s-9:17相鉄鶴ヶ峰駅s-北口から鶴ヶ峰商店街s-散策地図














源頼朝の信頼厚い重臣だった畠山重忠が、北条時政と牧の方の謀略で義時の大軍の騙まし討ちに遭い、
無念の最期を遂げた「二俣川合戦」の史跡をめぐります。

この戦いは、1199(正治元)年に頼朝が死去したことを契機に、
北条氏が権力を握るための有力御家人粛清の一端で、
1200(正治2)年の梶原景時、1203(建仁3)年の比企能員、将軍・頼家の排除に続き、
1205(元久2)年6月、畠山重忠謀反をでっち上げ重忠の嫡男・重保を由比ヶ浜で殺害。
さらに重忠の従兄弟・稲毛重成を使って重忠を本領・秩父から鎌倉へと誘き出し、
無勢の畠山軍を大勢の北条義時軍がここ二俣川で滅亡させた後、
畠山氏の広大な領地を没収してしまいます。

その後の顛末は後ほど。

 9:25「鎧橋(よろいばし」から。
 先発グループの人たちがいました。
s-9:25鎧橋鶴ヶ峰公園のこの辺りは、」古くは帷子川(かたびらがわ)として流水を湛えたところですが、
河川改修により埋め立てられていまの姿になりました。
明治時代に横浜水道敷設のために造られた水道道と帷子川が交差するこの場所に架けられた「鎧橋」。
もう少し上流の旭区役所付近にあった「鎧の渡し」という渡し場にその名の由来があるといいます。


 旭区総合庁舎そばの「首洗い井戸」と「鎧の渡し※」の標示杭。※前述
 この辺りに重忠の首を洗った井戸があったといいます。
s-首洗い井戸・鎧の渡しs-首洗い井戸解説







 9:44。右手の路地を少し入ったところにある「首塚」は、重忠の首を祀った場所といわれます。
 標示杭と七重多層塔。重忠地蔵。
s-9:44首塚s-首塚解説







 そのまま路地を進むと、県道40号線(厚木街道)に出ます。
 信号を渡って「畠山重忠公碑」と現在の「さかさ矢竹」へ。
s-畠山重忠公碑へs-畠山重忠公碑s-吾妻鏡畠山重忠公終焉の地







 「畠山重忠碑」は、鶴ヶ峰住民と重忠の出身地・埼玉県川本村有志による慰霊を込めた記念碑。
 「さかさ矢竹」は重忠が戦死直前に
 「我が心正しかればこの矢にて枝葉を生じ繁茂せよ」と矢箆を地に突き刺し、
 やがてこの矢は自然に根付き、年々2本ずつ生えて茂り続けて、
 「さかさ矢竹」と呼ばれるようになったというもの。
 昭和40年代中頃まで旭区役所の近くにありましたが、その後すべて消滅。
 伝承を守るために改めてここに植えて繁茂が期待されています。

s-★畠山重忠碑s-★さかさ矢竹s-さかさ矢竹の由来













 碑の背後から帷子川を望む。この辺りは「水」が豊富な場所。
 畠山重忠を称える、美しく整備されたスポットでした

s-畠山重忠公碑から帷子川s-畠山重忠公碑上から








 「鶴ヶ峰」の交差点を渡り、住宅街の路地へ入って行きます。
 これから「薬王寺(六ッ塚)」を目指します。先発グループとすれ違いました。
 遠くに低い山が見えますが、とにかく住宅が密集地で往時を偲ぶ雰囲気は望めません。

s-9:58鶴ヶ峰交差点s-10:02住宅街s-10:03住宅街






 この角を右折すると、「薬王寺(六ッ塚)」です。
 最初に「六ッ塚」の解説文が出てきます。
s-P1150508s-六ッ塚解説







 この辺りで重忠は一族郎党134名とともに最期の時を迎えます。享年42。
 (写真左)愛甲季隆(あいこうすえたか)の矢に倒れた重忠の胴体を埋めたであろう塚。
 (写真中・右)境内に一族郎党の亡骸を埋葬したといわれる小さな塚があります。

s-六ッ塚重忠s-六ッ塚1s-六ッ塚2








 これらの塚を守り、重忠主従を供養するために後年「薬王寺」が建立されました。
 曹洞宗のお寺で、江戸中期の壮健ですが、1906(明治39)年に全焼。
 現在の地に移転したのは1930(昭和5)年のことです。
 重忠主従の命日である6月22日に供養祭が行われます。

s-10:07薬王寺
s-★六ッ塚の地蔵













 来た道を戻って、次は「駕籠塚(かごづか)」へ。緩い坂を上がっていきます。
 戦場に駆けつけた重忠の妻・菊ノ前は、夫の戦死を知って駕籠の中で自害。
 駕籠のまま土葬されたといいます

s-10:25駕籠塚
この駕籠塚も近くの浄水場の建設でこの地に移設されました。
かつては浄水場の中に周りを竹で囲まれた
大きな塚があったとのことです。
1955(昭和30)年に場外に移され、
その後、1974(昭和49)年に現在の姿になりました。


重忠の嫡男・重保は、北条時政と前妻との間の娘(政子や義時と同腹の妹)の子。
鎌倉幕府の草創期、時政は武蔵の豪族畠山氏との関係を深めるため、
自分の娘を重忠と政略結婚させました。
重忠が時政の娘と結婚する前に、この菊ノ前との間に生まれたのが、
重保の兄達ということになるようです。
夫・重忠が頼朝に仕えるようになったことが、
菊ノ前の境遇を一変させてしまったのかもしれません…

鎌倉ガイド協会主催の「鶴ヶ峰に『畠山重忠』滅亡の跡を歩く」コース内で
畠山重忠関連の史跡は以上です(後で個別に2〜3つ重忠所縁の史跡へ行きます)。

…散策コースはまだまだ続きます

 見晴らしの良い白根4丁目2の高台。
s-10:33白根4丁目12
 旭区図書館でトイレ休憩後は、
 10:35。白根公園経由で…
s-10:35白根公園









 ガイドさん曰く「今年5月に建立されたばかりの新しい鳥居にご案内できるのが嬉しい」
 という白根神社。そして、白根不動尊、白糸の滝。

s-白根神社5月鳥居s-白根不動・白糸の滝







 後三年の役で、鎌倉権五郎景政が従った主の八幡太郎義家(源義家)を祀った白根神社。
 鳥居近くの解説文とは異なりますが、景政の年齢を考えると後三年の役になるようです。
 写真右は境内の水垢離の井戸。梵字が見えます。
s-11:07白根神社s-水垢離の井戸







 白根不動尊と行者の滝。かつては水量が豊富でした。
s-不動明王s-11:00行者の滝








 (写真左)白瀧龍神。(写真右)白糸の滝。
s-白瀧龍神s-10:52白糸の滝








 不動尊入口とR16(八王子街道)。
s-不動道入口s-不動道入口柱s-八王子街道








 11:26。帷子川(かたびらがわ)。これから「親水緑道」へ。
s-11:26帷子川s-カモ








 帷子川親水緑道にて。水泳するヘビを初めて見ました
s-11:34帷子川親水緑道s-泳ぐ蛇








 鶴ヶ峰まちかど広場で解散。12:15着の予定でしたが、11:45には着。
 休憩10分を含めて2時間半。3kmの道のり。

s-鶴ヶ峰まちかど広場・解散

なんか歩くペース速かった…
ウチ歩くの遅いし








さて、解散後。
再び旭区役所へ向かい、2階の地域振興課で小冊子を頂いてソファで熟読。
 
 先ほどたずねた「畠山重忠公碑(さかさ笹竹)」からそう遠くないところに、
 「矢畑・越し巻き」という史跡があることを知り、行ってみることに。
s-2階地域振興課窓口小冊子
 「畠山重忠公碑(さかさ笹竹)」のすぐ近くから
 清来寺(せいらいじ)への脇道が出ていましたが、
 少し遠いので断念しました。
s-清来寺へ







清来寺は江戸時代末期に畠山重忠の武勇を称えるために編集された『夏野の露』という
絵巻が伝えられています。
境内には鎌倉時代に伝令として使っていた鐘があったという鐘楼塚があります。
この塚には重忠が所持していた観音像が埋められているので、観音塚とも呼ぶそうです。


 鶴ヶ峰駅前入口交差点で県道40号(厚木街道)と交わる道を、
 「矢畑(やばたけ)・越し巻き(こしまき)」を目指して徒歩7〜8分。
 標示杭が。その周辺、鶴ヶ峰本町1丁目28あたりも住宅が立ち並び、
 とても古戦場だったとは思えない雰囲気…。
 二俣川合戦で、重忠の陣に向かって一斉に放った北条勢の矢が、
 このあたり一面に突き刺さり、まるで矢の畑のようになったことから「矢畑」。
 そして、重忠が取り囲まれたというので「越し巻き」という説、あるいは、
 その矢が腰巻きのようにぐるりと取り巻いたという説も。

s-13:18矢畑・越し巻き碑s-鶴ヶ峰本町1丁目28







重忠は源平の一ノ谷の合戦に参戦しましたが、『平家物語』によると義経の搦手に属し、
これを基に話を膨らませた『源平盛衰記』では鵯越の逆落としで大力の重忠は、
馬を損ねてはならずと馬を背負って坂を駆け下ったと伝わっています。
重忠は存命中から武勇の誉れ高く、その清廉潔白な人柄で「坂東武士の鑑」と称されました。
本領に戻って形勢を立て直すことを進言する家臣に、
重忠は「それでは本当の謀反人になってしまうではないか」と、
ここで北条勢の大軍を迎え討つ覚悟を決め、
先ほど訪ねた薬王寺(六ッ塚)」のあたりで一族郎党134名諸共討たれました。

人望のあった重忠を謀殺したことで、時政と牧の方は御家人たちから憎しみを受けることになり、
同年閏7月に牧氏事件に発展、時政と牧の方は失脚して伊豆国へ追放されました。
そして、この一件に加担した稲毛重成や平賀朝雅は殺害されてしまいます。

事件の背景には、武蔵武士団の首領で総検校職を務める畠山氏と、
武蔵守である朝雅の後見北条氏による有力国武蔵支配を巡る確執がありました。
時政の失脚後は、義時が二代執権に就任しますが、時政の先妻の子である義時と、
後妻の娘婿である朝雅という、北条家内の対立があったとも考えられます。

重忠の旧領と畠山の名跡は、足利義兼の庶長子・足利義純が、
重忠の未亡人(北条時政の娘)と婚姻して継承。
これによって平姓畠山氏は断絶、代わって室町時代に登場する源姓畠山氏の系譜となります。

この後、鶴ヶ峰駅に戻り相鉄線でひとつ先の二俣川駅で下車して、
「畠山重忠公遺烈(いれつ)碑」を訪ねました。

 改札左手駅ビル「GREEN GREEN」の中を通過して地上へ出ます。
 自然公園通りの緩い坂を上り、「万騎ヶ原第1」バス停留所の交差点を右折。
 
s-二俣川駅GREENGREENs-自然公園通りs-万騎ヶ原第1







 左手に県営万騎が原団地を見ながら進んで行くと外れにふいに現れます。
 駅から徒歩15分ほどでしょうか。
 この辺りの地名を万騎が原(まきがはら)といい、
 ここに北条勢が数万騎あまり陣を構えたことがその名の由来と伝えられています。

s-まもなく畠山重忠遺烈碑着s-畠山重忠公遺烈碑到着








 1892(明治25)年、重忠を偲び、地元の有志57人により建立された「畠山重忠公遺烈碑」
 遺烈とは先人の為した立派な功績という意味です。碑文までは把握できませんでしたが。

s-畠山重忠公遺烈碑s-畠山地蔵尊













二俣川駅を目指して自然公園通りの緩い坂を下りながら、
いつの日か出身地の埼玉県川本村の畠山重忠史跡を訪ねてみたいと思うのでした。
どこも住宅だらけで史跡も移設が多く、
「二俣川合戦」当時をイメージするのはなかなか困難な旅ではありましたが、
梅雨の最中でコロコロ変わるお天気に振り回されつつ、
困るほどの雨に見舞われることがなかったのはよかったです。
帰る頃にはカンカン照りの晴天に晴雨兼用傘が大活躍の1日でした。
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