mamataroおでかけ日記

在住の浅草から近い都内、主人(旦)の実家がある京都周辺、あるいは鎌倉など。イベントや寺社・史跡巡りが記事の中心です.

【京都府内の日本庭園】

松尾大社で御朱印をいただく 170703

「松尾さん」として親しまれる洛西総氏神、醸造祖神「松尾大社」を拝観し、御朱印をいただいてきました。

写真をクリックすると大きな画像を見ることができます。

2017年7月4日(月)のちのち

朝8時24分阪急嵐山線の「松尾大社駅」に降り立ちました。
「松尾さん」として親しまれる「松尾大社」は、その名の駅の改札を出て目の前です。
京都市西部、四条通西端にあり、東端の八坂神社(祇園社)と対峙するように鎮座しています。
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もとは背後の松尾山〔別雷山(わけいかづちのやま)〕(標高223メートル)に残る磐座での祭祀に始まるとされ、
701(大宝元)年に文武天皇の勅命を賜わった秦忌寸都理(はたのいみきとり)が勧請して社殿を設けたといわれます。
その後も秦氏(はたうじ)の氏神として奉斎され、
平安京遷都後は東の賀茂神社(賀茂別雷神社・賀茂御祖神社)とともに
「東の厳神、西の猛霊」と並び称され、西の王城鎮護社に位置づけられました。

この大鳥居の威容が示す通り…

洛西総氏神として約十万戸の氏子の崇敬を集めるほか、
古来より開拓、治水、土木、建築、商業、文化、寿命、交通、安産の守護神とされます。
醸造祖神として知られ、全国の酒造家、味噌、醤油、酢などの
製造及び販売業者からは格別な崇敬を受けています。
古くから酒の神として信仰を集め、境内の霊泉の「亀の井」の水を醸造の時に混ぜると
酒が腐らないと伝えられています。

「まつおたいしゃ」とも言われますが、正確には「まつおたいしゃ」。
旧官幣大社で全国の松尾神社の総本宮。
御祭神は、大山咋神(おおやまくいのかみ)、中津嶋姫命(なかつしまひめのみこと)です。
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参道に大きな石碑がありました。
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社殿背後の松尾山を含む広い境内は約12万坪。
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鳥居に何か…脇勧請という榊の小枝が下げられていました。
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楼門は残念ながら工事中で拝観できませんでした。
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松風苑はのちほど訪ねます♡
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お酒の資料館は朝早くて開館していませんでした。またの機会に。





本殿の前に「拝殿」が見えました。社殿は重要文化財に指定されています。
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手水舎…神使いである亀が鎮座。境内あちこちで亀の姿が見られます。
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今日は7月4日(火)。7日(金)の七夕飾りが松尾造りの本殿の釣殿に。ここで参詣。
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授与所で御朱印をいただきました。
右上に二葉葵の社紋の印。左下に松尾神社の神様の使い亀の印。
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境内キョロ👀キョロ👀
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神輿庫の酒樽には全国の酒造家から奉献された樽の数々が。
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広いなぁ〜
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社務所で拝観料を納めて「松風苑」を見学に。
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ちょっと迷路みたい。
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「松風苑」の3つの庭は、昭和の庭園学の第一人者・重森三玲が心血を注いで造ったもの。
1974(昭和49)年4月着工。1975(昭和50)年5月完成。
明治以後、現代最高の芸術作品として知られています。
三つの庭に使われている200個あまりの石は、すべて徳島県吉野川の青石(緑泥片岩)です。

まず現れるのが「曲水の庭」(平安時代風)。
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松尾大社が最も栄えた平安朝を表現するもの。
御手洗川の清水は七曲りして丘麓を洗い、丘上には青石が点在してこれを見下ろす優雅にして華麗な姿。
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神像館に向かう途中、右手に見えるのが…
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上古の庭。後でまた。
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曲水の庭を上から眺めたところ。
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即興の庭。
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神像館内は撮影禁止です。


上古の庭に行ってみます。
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上古の庭(磐座風)は松尾山中の神蹟に因んで作られたもので、二神を表徴する二巨石を囲む岩石群の配置は森厳味溢れ、地上一面に植えられた丹波笹は高山の趣を表しています。
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さらに奥へ。
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紫陽花苑のアジサイは終わりかかっていましたが、まだ楽しめました。
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う〜ん。
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ここから磐座に行けるんですね。
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ここは神像館の裏手。即興の庭が見えます。
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これが神泉「亀の井」ね♡
古くから酒の神として信仰を集め、境内の霊泉の「亀の井」の水を醸造の時に混ぜると、
酒が腐らないと伝えられています。
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歌碑かな。
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ふむ。
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ここが「霊亀の滝」。
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清々しい…
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天狗の顔はこのあたりでしょうに、私にはよくわかりませんでした。
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続いて少し離れた所にある「蓬莱の庭」へ。
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「蓬莱の庭」(鎌倉風)です。
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昔、中国の人が、東海中に不老不死の島ありと考えたのが「蓬莱の島」です。
岩の間から噴出する水が鶴形の池に注ぐところ、大くの島が点在し、
周囲を回遊しながら眺めると、仙境に遊ぶ感がするといわれます。


向かって左テ。
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向かって右テ。
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う〜ん。見どころいっぱいだなぁ。まだ見落としている所があるし。
再訪問できたら嬉しいです。


金閣寺で御朱印をいただく 170701

中学の修学旅行以来35年ぶりの金閣寺を訪ねて御朱印をいただきました。

写真をクリックすると大きな画像を見ることができます。
当ページの白抜き番号は拝観時にいただくパンフレット「金閣 鹿苑寺」の「鹿苑寺境内図」によります。

2017年7月1日(土)

通称「金閣寺」こと鹿苑寺金閣
中学3年時の修学旅行で訪ねてから、実に35年ぶりとなる再訪。
とはいえ、当時の記憶は皆無に等しいのです…
ほぼ初めての訪問、かの有名な金閣寺へ。

入口の黒門前から⓲左大文字山が見えます。
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こちらが「黒門」。拍子抜けするくらい簡素な門でした。
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続いて総門が参道の先に見えてきます。
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おっと。修学旅行のメッカらしいもの発見。
引率の先生たちはここで待機していたのでしょうかね!?
「馬繋」とはなんとも古風な♡
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五用心(五戒)が身に染みる年齢になりました。
1994(平成6)年登録 世界遺産 金閣 鹿苑寺
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❶鐘楼。
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❷唐門の横に受付、イチイガシ。
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❸庫裏に隣接する写経場では写経をさせてもらえます。
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入場チケットはこのお札。
お札が不要な人のために、境内にポストまで設置されている配慮。
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雲が垂れ込めていてお天気はあまりよくありませんが、
間違いなく❼金閣であります。
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通称「金閣寺」の正式名称は鹿苑寺(ろくおんじ)。相国寺の塔頭寺院(山外塔頭寺院)のひとつ。
舎利殿である「金閣」が特に有名なため、一般的に「金閣寺」と呼ばれています。
元は鎌倉時代の公卿、西園寺公経の別荘を室町幕府三代将軍の足利義満が譲り受け、
山荘北山殿を造ったのが始まりとされています。
金閣を中心とした庭園・建築は極楽浄土をこの世にあらわしたといわれ、
有名な一休禅師の父である後小松天皇を招いたり、
中国との貿易を盛んにして文化の発展に貢献した舞台で、この時代の文化を特に北山文化といいます。
義満の死後、遺言により臨済宗相国寺派の禅寺となり、夢窓国師を開山とし、
義満の法号鹿苑院殿から二字をとって鹿苑寺と名づけられました。

❼舎利殿「金閣」は室町時代前期の北山文化を代表する建築でしたが、
1950(昭和25)年に放火により焼失し、1955(昭和30)年に再建されました。


初層内部の宝冠釈迦如来像。向かって左隣の足利義満像は見落としてしまいました。
これまでアップした金閣の引きの画像に少しそれらしい姿が見えます。
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屋上の鳳凰像。
三層は「究竟頂」(くっきょうちょう)と称し、方3間の1室で、仏舎利を安置。
初層が蔀戸を用いた寝殿造風、二層が舞良戸、格子窓、長押を用いた和様仏堂風であるのに対し、
三層は桟唐戸、花頭窓を用いた禅宗様仏堂風とする。
高欄も二層のそれが和様であるのに対し、三層のそれは逆蓮柱を用いた禅宗様。
三層の柱間装置は東西南北とも同じで、中央間を桟唐戸、両脇間を花頭窓。
三層は天井や壁を含め内外ともに金箔張りで、縁と内部の床面のみ黒漆塗。
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西の⓱衣笠山を借景とした室町時代の代表的な池泉回遊式庭園。
国の特別史跡および特別名勝に指定されています。
❼金閣のある❺鏡湖池(きょうこち)を中心とし、❻☟葦原島(あしわらじま)など大小の島々や、
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当時の諸大名がきそって石を奉納してその名が付けられた
畠山石(はたけやませき)や赤松石(あかまつせき)、細川石(ほそかわせき)などの名石が配置されています。

とのことですが、どの石が何という名前かわからなくて💦
他には…

「鶴島」「亀島」「入亀島」「出亀島」
「淡路島」「西国浄土の出島」「九山八海石」
船着用の「夜泊石」

など?がある模様です。どれがどれか知りたーーーい!

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どの石も特徴的で存在感があり、私にはもの言いたげに見えました。

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❹方丈の北側には京都三松のひとつで舟形をした「陸舟(りくしゅう)の松」があり、
義満が自分で植えたと伝えられています。
近くでガイドさんが「極楽浄土がある西に向かって進む舟」と話している声が聞こえました。
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順路に従って❼金閣の背面に回ってみます。
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まだまだ気になる❺鏡湖池の石♡
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❽漱清(そうせい)は釣殿。ここ、金閣の北側の位置からしか見えません。
金閣の初層である法水院の西側とつながっており、池の上に突き出すようにして建てられています。
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義満の時代には、鏡湖池で舟遊びを楽しんでいたといわれており、
「漱清」は、金閣の船着き場の役目を果たしていたと考えられます。
「漱清」の床下は舟が停泊する場所になっており、「夜泊石」と呼称される石が4つ置かれています。


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生け花みたいな素敵な石♡
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こんなふうに石を眺められるのも「ひとり旅」ならではだなぁ…としみじみ。
団体旅行ではちょっと難しいだろうなぁ…

❼金閣を後にしてまもなく、御守売場と❾榊雲(しんうん)です。
見逃すところでした💦榊雲は「春日大神」を勧請して、金閣寺の鎮守として祭祀されています。
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❿銀河泉
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⓫巌下水
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金閣寺垣。
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⓬龍門滝
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振り返れば❼金閣。背後の山は⓱衣笠山です。
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⓭安民沢
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白蛇の塚。
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⓮夕佳亭に到着です。
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陽光を受ける苔にふと、3日後の7月4日(火)に訪ねる西芳寺のことを想う。
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⓯茶所
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こちらにも写経場があります。
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⓰石不動堂
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御朱印所で御朱印をいただきました。
勢いのある美しい文字にしばし心を奪われます。
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出口から続々と降りてくる参詣者。やはり外国人が目立ちます。
まさに京都観光の屈指の超有名スポット、定番中の定番…云々
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緩やかな坂の途中を左折して第1駐車場の方へ行ってみます。
(写真左)仮設のトイレや、バラエティに富んだお土産が揃う売店の前に広がる第1駐車場(写真中)。
記憶にはないけれど、おそらく修学旅行の時はここでバスを乗降していたのでしょうね。
この観光バスがたくさん停まれる広い駐車場の右テ奥のあたり(写真右)に、
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かつて義満が建立した巨大な大塔がありました。
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駐車場から東山方面を眺めると大文字山(如意岳)が見えます。
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金閣寺を後にして…
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「きぬかけの路」のほうへ進みます。
次のページでは義満が構想した「北山新都心」に想いを馳せてみます。

大徳寺・龍源院 161011

大徳寺の塔頭・龍源院へ。

写真をクリックすると大きな画像を見ることができます。

2016年10月11日(月)

今回の京都旅、3回目の大徳寺です。
最初に塔頭の龍源院を訪ねました。
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南派の法源地本院で、1502(文亀2)年に建立された大徳寺の中で最も古いお寺です。
開山に東渓宗牧禅師を迎え、
能登の領主・畠山義元や九州の都総督だった大友義長(大友宗麟の祖父)らが創建しました。
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大徳寺の山号「龍寶山」の「龍」と、現在臨済禅で唯一存続している松源一脈の「源」の両字が、
お寺の名前の由来になっています。
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拝観料を納めて、まずは庫裡の書院、南軒先のお庭「滹沱底(こだてい)」(阿吽の石庭)へ。
臨在禅師が住んだ中国河北の鎮州城の南に流れる滹沱河が名前の由来。
右と左の基礎石はかつて聚楽第にあったと伝えられています。
(写真右)は右の「阿」の基礎。
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書院には、1583(天正13)年の銘がある日本最古の種子島銃や
豊臣秀吉と徳川家康が対局したと伝わる碁盤と碁筒が展示されていました。
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そして、大徳寺・龍源院といえば、方丈の東側にある有名な壺庭「東滴壺(とうてきこ)」。
1960(昭和35)年、造園家の鍋島岳生(なべしまがくしょう)によって作庭された国内最小級の壺庭。
あいにくの曇天で晴天時に現れる一本の陽射しは見ることができませんでした。
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禅宗の第六祖・慧能(えのう)によって確立された禅の教え。
「東滴壺(とうてきこ)」は、慧能が住んでいた曹渓という谷を源として禅の教えが広まったことを物語る
「曹源の一滴水(そうげんのいってきすい)」という禅語を表現した庭と考えられます。
平らな石は滴(しずく)を表しています。
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北側から。
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続いて方丈の北庭「竜吟庭」へ。
室町時代特有の三尊石組からなる須弥山形式の枯山水庭園で、相阿弥の作と伝わり
青々とした杉苔は、洋々と果てしない大海原。石組が陸地を表現しています。
(写真中)須弥山の前の円い板石が「遥拝石」。
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方丈西側の開祖堂。
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そして鶏足山。
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ぐるりと回って方丈南側の前庭「一枝坦(いっしだん)」。
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千人の住む不老長寿の吉祥の島「蓬莱山」と右隅の石組「鶴島」。
左の方の円い形の苔山が亀島で、白い砂が大海原を表しています。
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重要文化財の方丈を拝観していきます。
まずは鎌倉時代の傑作で重要文化財の釈迦如来坐像を祀る室中から。
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室中の全面16枚の豪胆な襖絵「竜と波の図(作者年代不明)」のうち「竜の図」。
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書院の間「銘 狐窟」。
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着いたのは正午前。
拝観者は少なく5〜6人しかいませんでしたが、私以外はすべて外国人でした。

この後、13時20分〜予約している同じく塔頭「聚光院」の特別拝観に行きます。
続きは次のページです。

大徳寺 大仙院 161007

大徳寺の塔頭・大仙院を拝観し、三福茶と御朱印をいただいてきました。

写真をクリックすると大きな画像を見ることができます。

2016年10月7日(金)

大徳寺本坊を出てすぐ近く、庫裡の裏手にある塔頭・大仙院へ。
大徳寺で通常公開されている4つの塔頭のうちの1つで、
塔頭の中では最も古い歴史があり、塔頭の中で特に地位が高い特例別格地とされています。
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突き当りは前田利家の妻・まつ、ゆかりの芳春院。
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大仙院の参道に右折すると、突き当りは一休ゆかりの真珠庵。
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大仙院では、国宝の本堂(方丈)、特別名勝の庭園、重要文化財の書院、名勝の庭園を拝見します。
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門前の五葉松。
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国宝の大仙院本堂(方丈)は、日本最古の「床の間」と「玄関」を持つ室町時代の方丈建築。
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掲げられた「今ここで頑張らずにいつ頑張る」の一文が目に飛び込んできました。
パンチのある文字が力強い言葉にさらなる力を与えているかのよう…。
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拝観料を納めて…
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誘われるままに「三福茶」300円をいただくことにしました。
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「喫茶去」。供されたお菓子は売店で購入できます。
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「三福茶」の意味にあやかれることを願って。
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ここから先は写真撮影が不可なので、「大仙院」のリーフ(500円)の一部をアップします。
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お寺の方がガイドをしてくださり、庭園を眺めながら方丈内をぐるっと一巡りしました。
最も感じ入ったのは、千利休が太閤秀吉にお茶を差し上げた書院の間(茶室)「すい苕室(すいしょうしつ)」と、
秀吉や利休が目にしたであろう「沈香石(ちんこうせき)」。

拝観後、秋が薫る中、大海(方丈南庭)前の縁先でひとり佇んでいたら、どうにも泣きたくなってきた。
いままでどの禅寺の枯山水を見てもそんな気持になったことはなかったのに。
利休…!? 利休が降りてきたのか…!?
尾関宗園さんが拝観者にサインをしながら話しかける快活な声を聞きながら。

御朱印をいただきました。300円也。
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最終日に訪れる聚光院の柘榴(ざくろ)。
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不思議なことに大仙院を出てから、ふつふつと「やる気」が湧いてきたような!?
尾関さんの「気」が移ったのかもしれない…凄い人だ。この塔頭には元気の泉が湧いているのかも。

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二度目の船岡温泉を目指すべく北大路通りを渡って、その前に建勲神社にお参りすることにします。

京都・東福寺の御朱印 方丈「八相の庭」 130313

京都・東福寺で御朱印をいただき、方丈「八相の庭」を拝観してきました。

写真をクリックすると大きな画像を見ることができます。

2016年3月13日(日)

私の「冬の京旅2016」いよいよ最後の訪問スポットになりました…

JR奈良線・京阪本線「東福寺駅」で下車、南東に徒歩で10分程度のんびり東福寺に向かいます。
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摂政・九條道家が奈良における最大の寺院である東大寺に比べ、
また奈良で最も盛大を極めた興福寺になぞらえようとの念願で「東」と「福」の字を取り、
京都最大の大伽藍を造営したのが、臨済宗東福寺派大本山「慧日(えにち)山東福寺」です。
嘉禎2 (1236)年から建長7(1255)年まで実に19年を費やして完成しました。

東福寺境内と周辺地図」参照 北門から入って参道を進みます。
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月下門を通り、臥雲橋から通天橋を望みます。
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紅葉でたいへん有名なスポットですが、いまの時期はこの通りです。
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庫裡で方丈拝観受付。および御朱印をお願いします。
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これから方丈の「八相の庭」を拝観します。
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東福寺本坊庭園は、明治十四年の火災により仏殿、法堂、庫裏とともに焼失しましたが、
明治23(1890)年に再建され、災禍を免れた三門、東司、禅堂、浴室などの中世禅宗建築とともに、
現代木造建築の精粋を遺憾なく発揮しています。
内部は三室二列の六室とし、南面に広縁を設け、中央の間を室中と呼び、正面は双折桟唐戸としています。
広大な方丈には東西南北に四庭が配され、
「蓬莱(ほうらい)」「方丈」「瀛洲(えいじゅう)」「壺梁(こりょう)」「八海」「五山」
「井田市松(せいでんいちまつ)」「北斗七星」の8つを
「八相成道(釈迦の生涯の8つの重要な出来事)」にちなんで「八相の庭」と命名されました。
禅宗の方丈には、古くから多くの名園が残されてきましたが、方丈の四周に庭園を巡らせたものは、東福寺本坊庭園のみです。
作庭家・重森三玲(1896-1975)によって昭和14(1939)年に完成されたもので、
当時の創建年代にふさわしい鎌倉時代庭園の質実剛健な風格を基調に、
現代芸術の抽象的構成を取り入れた近代禅宗庭園の白眉として、広く世界各国に紹介されています。
おととし2014(平成26)年に“国指定名勝”に登録され、改めて「国指定名勝 東福寺本坊庭園」という名称になりました。

まずは【南庭】広縁で南庭を鑑賞する参詣者たち。
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(写真左) 「瀛洲(えいじゅう)」とその奥に 「蓬莱(ほうらい)」。
(写真中)「壺梁(こりょう)」。  (写真左))「壺梁(こりょう)」の右一部、恩賜門と「方丈」
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(写真左)恩賜門から(写真中)「方丈」(写真右)「五山」まで。渦巻く砂紋の「八海」。
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恩賜門は向唐破風の表門で昭憲皇太后の寄進。小型ながら明治期唐門の代表作。
方丈の外(表側)から見た恩賜門です。
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つづいて【西庭】(井田の庭)…井の字に等分した古代中国の田制「井田(せいでん)」にちなみ「井田市松(せいでんいちまつ)」と呼ばれます。
日本古来から伝えられてきた伝統的な市松模様を、サツキの刈込と葛石の使用によって表現。
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北庭に続く途中の通天台。
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通天台からの眺め。
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北庭】「小市松」…想像していたより苔の緑が美しくて嬉しかった。閉門時刻が近く参詣者が少なくしばらくひとりで堪能。
勅使門から方丈に向けて敷きつめられていた切石を再利用してできあがったのが北庭の小市松模様の庭園。まさに西庭の大市松を受けてさらに小さな姿となり、そして東北方向の谷に消えていくという表現方法。
サツキの丸刈りとの調和の妙も誠に印象深く、彫刻家・イサム・ノグチはこの庭を「モンドリアン風の新しい角度の庭」と評しました。
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ウマスギゴケの緑との対比も緑との対比も色鮮やかな市松模様の敷石は、もと恩賜門に使われていたもの。
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東庭】「北斗の庭」…北庭に気を取られて見落としてしまいそうでした。
東庭の表しているものは星座の「北斗七星」。雲文様地割に円柱、白川砂、苔、背後の二重生垣のみによって表現。
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北斗七星に見立てた石は、もと東司(重要文化財、旧便所)の柱石の余石を利用したもの。
後方には天の川を表した生垣が配され(☝写真右)、夜空が足元に広がるかのような小宇宙。


方丈の拝観を終えていただいた御朱印を受け取ります。
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通天橋は拝観時間が過ぎていて渡ることができませんでした。また今度♡
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ガードマンさんから「明日からが良かったのに!」と言われました。
そう。明日14日(月)〜16日(水)は涅槃会。
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仏殿を兼ねる法堂にすでに掛けられているそうなので見学へ。イブキ(赤い矢印)の解説。
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わぁ…これが画聖明兆筆の大涅槃像(おねはんぞう)かぁ!?
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あとは三門を見て帰りましょう。
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(写真左)六波羅門(向かって左)と勅使門(向かって右)。
帰りはこの六波羅門から。「大涅槃(おねはん)像開帳」…いつかこの3日間にお参りに来たいです。
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帰途は最寄りの京阪線「鳥羽街道駅」まで7〜8分、歩いて行きました。
駅のホームにて。最後に「祇園四条」駅に行って四条通でお土産を買って帰るつもり。
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所用かたがたながら、時間いっぱい精いっぱい史跡めぐりに明け暮れた3泊4日でした。
次ページにてこの旅のブログを締めくくりたいと思います。

京都・東福寺 冬の京の旅「即宗院」特別拝観 160313

京都・東福寺、50回記念「冬の京の旅」の特別拝観で藤原兼実、薩摩藩ゆかりの塔頭寺院「即宗院」を見学。

写真をクリックすると大きな画像を見ることができます。

2016年3月13日(日)

50回記念「冬の京の旅」で特別拝観中の東福寺塔頭寺院「即宗院(そくしゅういん)」へ。
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門外渓流「洗玉澗」に架かる「偃月橋(えんげつきょう)」は重要文化財。
下流の臥雲橋・通天橋に関連し天の月「弦月」の意味。
また、骨相学上「貴人の相」の意味でもあります。
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西郷隆盛ゆかりの寺・「月輪殿」跡の美しい庭園・島津家拝領の寺宝 特別公開です。
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現山門は後述…慶長18(1613)年に再興時のもの。約400年前の遺構です。
山門の左右に薩摩から伝来した伽藍守護の神「仁王像」を安置した貴重建造物で、
本山塔頭寺院の山門仁王としては稀有な存在。詳しくは(写真右)の解説を。
こちらは阿形(あぎょう)。
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こちらは口を閉じています。
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臥雲山即宗院(がうんさんそくしゅういん)は、薩摩藩(現・鹿児島県)東福寺城の守護大名だった六代目島津氏久(1328〜1387)の菩提のため、南北朝元中4年(北朝嘉慶元年=1387)、剛中玄柔(ごうちゅうげんじゅう)和尚(東福寺第54世住持)を開基として創建。
院号は氏久の法名「齢岳玄久即宗院」に由来します。永禄12(1569)年に焼失するも、慶長18(1613)年島津家久によって再興。以来、薩摩藩の畿内菩提所とされ、藩から70石が施入されるほど深い関係で結ばれました。
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ここ即宗院は昨秋庭園のみが公開され、このたび60年ぶりに建物の中が特別公開され、
最初のお部屋では島津家から拝領した薩摩藩ゆかりの寺宝を拝観させていただきます。
西郷隆盛直筆の書や島津家の家紋が入った火鉢や調度品が印象的でした。
続いて廊下を進み、奥の座敷へ。
(写真左)今回の特別拝観は「建物の部屋の中からあえて人のいない庭園を見てほしい」という主旨。
(写真中)京都市名勝庭園「月輪殿」
 寛政11(1799)年に刊行された「都林泉図絵(みやこりんせんずえ)」という江戸時代の観光名所案内の中に慧日即宗院として庭園が案内されています。
手水鉢を中心に、白砂の庭が広がりその中に菊の鉢植えが展示された案内図になっています。
また、山の奥には「自然居士墳」として自然居士※(写真中・解説「参考」参照)のお墓が記載されています。
 800年前の「月輪殿」の池泉が大きく描かれ、池をまたぐ橋が大きく描かれています。この橋は、国宝「法然上人絵伝」にも描かれており、この橋を渡る法然上人がいます。この時、法然上人の光背が現れ、頭光を背に橋上にたたずんで説法をしています。
※このことから上人が兼実に法話を行った真正な聖地であることが窺われます。


(写真右)亜鉛を含み波打つガラス。そのガラス越しに見える歪んだ景色も味(あじ)。
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大切に大切に育てられている即宗院の苔。
外部から種が飛来してきた苔はピンセットでつまんで取り除いています。
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「月輪殿」
 平安時代後期、関白藤原忠道(近衛家)はこの地に御所の東御堂を建立しました。
忠道の子、公家九條家の始祖である兼実は、建久7(1196)年に関白を辞して後、
自身の別称「月輪殿(つきのわどの)」と呼ばれたことにちなみ、山荘「月輪殿」としました。
この即宗院の庭園は、その跡地です。
太平洋戦争後に荒廃しましたが、玄之和尚が復興に心血を注ぎ、昭和52(1977)年に庭園文化研究所の森薀(もり・おさむ)博士(元東大教授)等の指導で往時の面影が復元され、京都市史跡に指定されました。
 室町時代後期の庭園としては類い稀な公家寝殿造系で、鈎(かぎ)の手(「心」)になった池の地割り・
(☟写真左右)滝の位置などから往時が偲ばれます。
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池の周りの巨石も800年前の山荘時代のもの。
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(写真右) これが「都林泉図絵(みやこりんせんずえ)」に描かれた手水鉢。
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靴を履いて、順路に従い裏山の「東征戦亡の碑」を見学に行きます。
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要所要所に立看板が設置され、矢印に従って進んでいくのですが…
ひと気がなくてちょっと怖くなって来ました。
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むかしの人々の生活が偲ばれる石造の遺物…
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途中に「西郷隆盛密議の地」の立札が。
幕末、ここで西郷さんと勤王僧・月照上人が討幕計画を練ったのですね。
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この注意書きもちょっと怖い。
ようやくそれらしいものが前方上に見えて来ました。
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「建碑のいわれ」
鳥羽伏見の戦いに始まり会津若松の(白虎隊)東征が終わって維新の鴻業成就したことは周知のとおりであります。
この難に倒れた島津藩士五百二十四柱の功を永くたたえるためその総帥であった西郷隆盛が当宗院に滞留すること半年、密戒沐浴して自ら建碑の工事を監督し、筆をとりて銘文を作りその事績を顕彰したものであります。
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静かだったので誰もいないかと思いましたが、ガイドの女性と先客の女性たちがいて安堵しました。
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これが西郷さん自筆の薩摩藩士「東征戦亡(とうせいせんぼう)之(の)碑」!
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(写真左)石工 ○三郎 (写真右)西郷隆盛謹書 と刻まれています。
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向かって左から3基目。上段左から見ていくと西郷さんのすぐ下の弟・西郷吉次郎隆廣の名前が刻まれています。
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動乱の幕末、激戦の末に命を落としたつわもの達524名。
ひとりひとりの想いが伝わってくるような、なんともいえない重みを感じました。


即宗院の拝観を終え、来た道を戻って「方丈八相庭園」を拝観に行きます。
続きは次ページにて。

京都・等持院で御朱印をいただく 160311

足利将軍家の菩提所、京都・等持院を拝観して御朱印をいただいてきました。

写真をクリックすると大きな画像を見ることができます。

2016年3月11日(金)

妙心寺の北総門を出て、地図を頼りに足利将軍家の菩提所、等持院(とうじいん)を目指しています。

前方に見える美しい稜線を描く山こそ…たまたま通りかかった地元の人に確かめてみよう。
「あの山は何という山ですか
「衣笠山(きぬがさやま)。私も先輩から聞いたんやけど…
雪が降り積もって衣(きぬ)を被った笠のように見えたのが名前の由来なんやて」
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なんて風流な…そしていま実際に衣笠山を眺めながら雪が降り積もった姿を想像すれば、
まさに「衣(きぬ)を被った笠」みたいだと真に実感するのでした。

そういえば…京都発祥のご当地丼🍚「衣笠丼」はこの衣笠山に由来しています。京都固有の呼び名。
注)写真は京阪線・樟葉駅構内の食堂のサンプルです。
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衣笠丼の発祥については、主に以下のような説があるものの、
どの説が正しいのかは判然としていません。
西陣などの職人が仕事の合間にさっと食べる丼として始まったとする説。
太秦の俳優が、撮影の合間などに腹を満たすための丼として広まったとする説。

衣笠山は、真夏に雪景色を所望し、山に白絹を掛けて雪に見立てたという宇多天皇の伝承に因んで
"きぬかけ山"とも呼ばれています。
この"きぬかけ山"にちなんで、丼に盛った姿をそれに見立てて「衣笠丼」の名が付いたのですね。



京福電鉄北野線「等持院駅」からだと徒歩約10分。
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閑静な住宅街の中に等持院はありました。
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吉川英治作『私本太平記』あしかゞ帖の主人公足利尊氏の菩提寺です
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(写真左)いよいよ…
(写真中)さっき望んだ衣笠山が近くに見えます。
(写真右)室町幕府を開いた足利氏の家紋で、
     将軍家の権威の象徴でもある「丸に二つ引(足利二つ引)」紋。
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牧野省三の墓所と日本映画の父「マキノ省三先生像」と彫られた銅像。
等持院でロケをして「チャンバラ」で本堂の中の襖を破ってしまったこともあったとか…
なんともおおらかな時代でしたね…
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【等持院の由来】
暦応四年(1341年)、足利尊氏が天龍寺の夢窓国師を開山に迎え、衣笠山の南麓に創建。
後に尊氏・義詮将軍時代に幕府があった等持寺もこちらに移されて、
足利将軍家歴代の菩提所になりました。
応仁の乱などの戦乱や火災に見舞われましたが、豊臣秀吉も秀頼に建て直させたほど重んじました。
その後も変遷はあるものの、足利15代、230余年の歴史を語るだけの貴重な文化財が
今なお充分に保存されています。 参考資料:臨済宗天龍寺派 等持院 リーフ


拝観料500円と御朱印の300円を納めて。拝観後いただいた御朱印帳を開いてみますと…♪
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順路に従って方丈(本堂)へ向かいます。

(写真右)等持院の前の前の住職・関牧翁(せきぼくおう)老師筆「達磨絵図」。
「看脚下(かんきゃっか)」「脚下照顧(きゃっかしょうこ)」という言葉が書かれているお寺が多いが、
当寺ではその代わりに、自分自身の心の写し※、という意味でこの「達磨絵図」を安置しています。
※自分自身の心次第で達磨が怒っているようにも微笑んでいるようにも見える
(写真左)足利義満直筆の「扁額」。足利家の菩提寺ならではの貴重なものです。
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(写真左)南庭。(写真右)方丈(本堂)の外観。
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現在の方丈(本堂)は、元和二(1616)年、福島正則が妙心寺塔頭海福院に建立し、
文政元(1818)年に等持院に移築されたもの。
南庭を控えた広縁を静かに歩くと鴬張りの音が心地よく響きます。
方丈の襖絵は狩野興以の作で、明治維新当時一部損壊し、さらに映画の撮影所が等持院内にできて、
方丈がロケに使われたためにかなり破損しましたが、今日修復、年一回の寺宝展で公開されています。


最も拝観したかったこの「霊光殿」。内部は撮影禁止
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霊光殿の外観。
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足利尊氏が日頃念持仏として信仰した「利運(りうん)地蔵菩薩立像(伝弘法大師作)」を本尊として中心に祀り
達磨大師と夢窓国師を左右に、足利歴代の将軍像〔5代義量(よしかず)と14代義栄(よしひで)の像を除く〕が、
徳川家康の像と共に両側に配置されています。
家康の像は42才の厄除けの霊験を受けたもので、はじめ石清水八幡宮・豊蔵坊※にありましたが、
廃仏毀釈後に等持院に移され、本尊と共に利運を願う人たちに進行されています。
※家康が三河国にいるときからの祈祷所で、戦場にあっても自身の加護を祈った。

ここ来たかったぁ♡
中央奥のご本尊にお参りした後、尊氏から義詮・義満…と順を追って将軍像を拝観していきます。
歴史の教科書やテレビの映像で見たことがある像の「実物」と対面する愉しいひととき♪

3代将軍・義満の像の目にはガラス玉が嵌められており、よりリアルに義満の顔を表現。
以前等持院にあった巻物や頂相画を元にしているので、その当時の顔がよく再現していると思われます。
いずれの木像も首が抜けるように造られており、そのため江戸時代の終わりには、
初代・尊氏、2代・義詮、3代・義満の首と位牌が持ち去られ、賀茂川の河原に晒されたこともありました。
俗にいう「足利三代木像梟首(きょうしゅ)事件」です。

参考資料:BS11「京都国宝浪漫」足利家の菩提寺 等持院

霊光殿を出て順路に従って進むと、足利尊氏の墓が見えました。
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「芙容池」を望む。
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そう。書院から開山・夢窓疎石作の庭園散策へ。尊氏の墓はその一角。順路の最後です。
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書院から望む西の芙容池は、古い木立で区切られ、蓮の花を形どった庭園に花木をあしらい草木を配し、
石組も変化に富んでいます。
書院に座ってお茶の香りを愛でながらお庭を眺めることができます。

尊氏の百年忌の長禄元(1457)年に当寺を復興した際、
庭園の中に「清漣亭(せいれんてい)」が新築され、「義政好み」と呼ばれました。
また、水上勉原作の「雁(がん)の寺」という映画の舞台になった場所でもあります。
水上勉は等持院の2階に書生として住み込んでいたのだそうです。

遠目で見た「清漣亭(せいれんてい)」。
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下足のままで内部を拝観することができます。
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ジロジロ…
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ジロジロ…
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このお庭でも有楽斎(侘助)に出会いました。寒の頃から春先にかけて咲き始めます。
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方丈の北庭の東の苑池である心字池(草書体の心の字をかたどって作られた池庭)のあたりの景色は幽邃で、
かつて中ノ島には妙音閣がありましたが、現在は礎石でその面影を偲ぶことができます。半夏生(三白草)が咲く夏至の頃のこの庭の風景も良い。と等持院のリーフにあります。
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大小ふたつの島で「亀島」。
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足利尊氏之墓所。方丈北の中央に尊氏の墓である宝篋印塔があります。
塔の台座は四面に立派な格狭間(こうざま)があり、宝瓶に蓮華を挿した紋様があって、
室町時代の形を示しています。台座の正面に延文三年四月※の文字が見られます。
※尊氏の死没年月日は延文三年四月三十日(1358年6月7日)
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鎌倉の長寿寺にも尊氏の遺髪が納められているという墓があり、いつか等持院の尊氏の墓に…と思っていました。
雨の長寿寺。平家琵琶を聴く 091211

どちらも日本史上に名を残す有名人にしてはこじんまりとした墓所ですが、
たとえば源頼朝ほどの有名人であっても、埋葬されたとされる墓自体が残っていないことを考えると、
大切に守り続けられて今年で658年(台座に刻まれた年月から換算)…凄いことだなぁと思います。

門前の食料品店・等持院とりはらで「等持院まんじゅう」を買って帰りました。 
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またひとつ念願を果たして穏やかな気持になりました。
続いて北野天満宮で見頃の梅を愛でてきます。

【世界遺産】二条城〈前編〉二の丸御殿と二の丸庭園 160310

二条城(このページでは二の丸御殿と二の丸庭園)と最寄りの京都所司代跡を訪ねました。

写真をクリックすると大きな画像を見ることができます。

2016年3月10日(木)

JR新幹線京都駅ホームに降り立って開口一番「寒っ」。
とにかく風が冷たくて、やはりまだ厚手のコートにマフラーや手袋も必要なくらい気温が低いです…

最初の訪問は二条城
寺社仏閣以外では京都で唯一の世界文化遺産です。

今回の旅のテーマは50回記念「冬の京の旅 非公開文化財特別公開」にのっかって、そのものズバリ「禅 -ZEN- 〜禅寺の美 日本文化の美〜」なので、禅寺を中心に巡る予定ですが…別件として
現在本格改修工事が進む二条城で、徳川慶喜が「大政奉還」の発表をし、
徳川幕府終焉の舞台になった二の丸御殿の大広間にて、
江戸時代そのままの姿をとどめている格天井」を今のうちに見ておきたいと思ったからです。


さて。八条口の京都市営地下鉄・烏丸線乗り場へ。
自販機で市営地下鉄1dayフリーチケット(地下鉄1日乗車券)を600円で購入しました。
烏丸線と東西線を終日何度利用しても600円であるうえ、
二条城の有人チケット売場で提示すると「優待」で入場料が100円引きになります。

烏丸線の京都駅から3つ目の烏丸御池駅で東西線に乗り換え、次の二条城前駅で下車。
地上に上がると二条城は横断歩道を渡ってすぐ目の前です。

ここは京都の真ん中。北東方向には京都御所あり。
堀川通を正面にして東西約500m、南北約400mの周囲に堀を巡らしています。
城郭らしい威風を示す東南隅櫓。西南隅にもあり。
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二条城では本格修理事業の一環として、平成26年11月から平成29年3月末まで
東大手門【重要文化財】の修理工事を実施しています。
堀川通を渡って修理中でシートを被った東大手門全体を撮影してみました。
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1603(慶長8)年、関ヶ原で勝利を収めた徳川家康が京都御所の守護と上洛の際の宿所として建築した二条城。
戦うための城ではなく、将軍の威容を示すための城でした。
北東に京都御所があるのもポイントです。
この1603(慶長8)年というのは、家康が江戸に幕府を開いた年でもあります。
二条城は、のちに三代将軍家光によって大改造されました。
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【重要文化財】唐門は江戸時代初期の造営です。将軍が上洛した時通るための門。
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切妻造、檜皮葺の四脚門。
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(写真左)上段の牡丹と「蝶」=長(秀でる)を表す縁起が良いモチーフ。江戸時代に流行った駄洒落。
(写真中)下段の「鶴」 (写真右)「蓬莱山(不老不死の象徴)」を背負った「亀」。
      「鶴」「亀」ともに徳川幕府の永遠性を表す。
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金色の金具には皇室の菊紋が入っているが、かつては徳川の葵紋が入っていましたが、
明治17年に宮内省管轄の二条離宮になった時に取り換えられました。

奥の「龍」。その横には「虎」。
日光東照宮のように虎は家康の干支「寅」、龍は家光の干支「辰」を意味しているのでしょうか
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二の丸御殿側から見た中央のモチーフ。これも
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【国宝】二の丸御殿です。遠侍と車寄。
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33の部屋、総畳数800以上という規模の室内に、有名な鴬張りの廊下、狩野派が手がけた障壁画などを有する二の丸御殿は、城内で最も豪華なつくりです。

二の丸御殿の内部は撮影が禁じられていますので、説明や感想のみアップします。
今回特に注目したのは、将軍と諸大名の謁見に使われた大広間の天井「格天井(ごうてんじょう)」でした。
漆塗りの格子に嵌め込まれた飾り金具には徳川の葵の紋が光ります。
徳川幕府の栄枯盛衰を見つめて来たこの城にあって、
大政奉還の発表という歴史の転換点を見下ろしていた格天井の重厚感。
身分の序列を如実に表す「折上格天井」。
一之間の将軍に威厳を与える、最も格式の高い「二重折上格天井」もしっかりチェックしてきました。
白書院の格天井は一部外され改修が行われていたので、
今のうちに大広間の格天井をこの目で見ることができて良かったです


二の丸御殿を出て、二の丸庭園に続く順路の途…二の丸庭園の入口横にあるこの釣鐘は、
幕末の政変の時期、二条城と北側の京都所司代との連絡に使われたものです。
幕府の政務の場であった二条城と京都所司代。
幕末の混乱の中で、薩摩や長州など朝廷側の動向に備えて、
鳥羽・伏見の開戦など非常時の連絡に使われました。
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二条城最寄りの京都所司代も訪ねたので、このページ末に【おまけ】としてアップします。


さて。つづいて二の丸庭園です。
二の丸御殿の西南に広がる書院造りの庭園で、家康の頃の作庭ですが、
後水尾天皇の行幸の際に幕府のさくじ奉行・小堀遠州が改造したと考えられています。(写真右)大広間の建物です。
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池の中に蓬莱島・鶴島・亀島があり、北西部に滝組、池畔に多数の石組を配置しています。
池の南、芝生のあたりに、もと行幸御殿があって、大広間と二方からの眺めを配慮してあるところから
八陣の庭」とも呼ばれています。大広間からも行幸御殿からも庭の正面を眺められるところから、
中国古代の軍師諸葛孔明の考案した八陣にたとえたといいます。
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実はこの二の丸庭園には朝廷(天皇家)の力を奪う仕掛けがなされています。
風水学上、結界都市・京都において「神泉苑」は最も重要なパワー・スポットでした。
神泉苑は二条城のすぐそばにあります(というか元は神泉苑の敷地内に二条城があります)
「龍が棲む」という神泉苑の池の存在が平安京をこの地に定めた最大の理由であり、
かつての神泉苑の池は広大で、天皇家の聖なる池として天皇の力を示すシンボルでしたが、
現在の広さは往時の10分の1以下に…敷地の多くは二条城に取り込まれました。
神泉苑の湧き水をこの池や堀に引き込むことによって、神泉苑の池を縮小し、
朝廷の勢いやエネルギーを低くさせようという狙いがあります。
そのエネルギーを徳川方に活用できる、ということです。
参考資料:木曜スペシャル「探訪!京都巡礼団3 〜徳川家康の野望!京都を超える江戸の結界〜 2015.7.9.放送



【おまけ】京都所司代跡に行ってみる。

二条城から堀川通を北上して行きますと、二条城の敷地の終わり(北東角)
竹屋町通を挟んで(横断歩道を渡ります)向かい側に「ひまわり幼稚園」があり、
「板倉勝重 重宗屋敷跡」の石柱が!
2人は徳川時代の二代目・三代目京都所司代を務めた父子です。
特に重宗は名所司代の誉れ高く、京都市政の根本法規を制定しました。
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さらに堀川通を直進し、ほどなく「堀川丸太通り」を左折。左の角には「イズミヤ堀川丸田町店」があります。
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堀川丸太通りを直進。最初の角(「待賢小学校幼稚園」の角)を左折。猪熊通という路地に入ります。
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猪熊通を直進…右テにありました!
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「京都所司代上屋敷跡」の立て札がありました。
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この通りの先には二条城が見えます。
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この近さであれば、二の丸御殿で見たあの鐘をお互いに打ち鳴らして「緊急連絡」が可能ですよね


まだまだ書きたいことがあるのですが、先が長いのでこの辺でいったん編集を終了します。
後日時間を見て加筆するかもしれません。

次のページでは、 【世界遺産】二条城〈中編〉本丸御殿と天守閣跡 160310 をアップします。
進捗のペースが遅くてすみませんが、ぼちぼち丁寧にアップしていきますので、
よろしければおつきあいくださいませ

世界遺産・天龍寺で夢窓疎石の禅の心に触れる 1501314

足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うため、夢窓疎石を開山に創建した嵐山・天龍寺を拝観してきました。

写真をクリックすると大きな画像を見ることができます。

2015年1月31日(土)ときどきときどき

京福電鉄・四条大宮駅から西へ。京都・洛西を走る小さな電車、嵐電に乗って…
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終点の「嵐山」に着きました。近年TVの旅番組などでよく見る嵐山駅のシンボル。
インテリアデザイナー・森田恭通さんが手掛けた「キモノ・フォレスト(友禅の光林)」です。
京友禅の生地をアクリルで包み、高さ約2mのポールにしたものを駅構内や線路脇のいたる所に設置し、
京友禅の林に見立てたもの。嵐山駅の敷地全体を覆い尽くす京友禅の柱は全32種類、全600本。
使用されている京友禅は、大正時代から続く老舗「亀田富染工場」のもの。
「亀田富染工場」はPagong(パゴン)というブランド名で京友禅とアロハシャツをミックスし、
伝統に新たな価値を見出した老舗です。
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かなりひさしぶりの嵐山駅。
2013年7月にリニューアルして「キモノ・フォレスト(友禅の光林)」をはじめ一気に大変身を遂げていました。
「電停のある小さなまち」のコンセプトのもと、利用者の多い駅であるにも関わらず改札口を廃止。
それによって駅の敷地全体が自由に出入りできる広場として開放されました。
ホーム内にも新たな店舗が進出し、電車に乗らなくてもそれらの店舗が利用できるようになったのです。
今までホーム内にあった足湯の利用も促進されることになりました。
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古くから京の観光名所として知られる嵯峨嵐山。
かつて多くの歌人が歌に詠んだ美しい風景は、いまも人々を魅了し続けています。

ここ、京都屈指の景勝地、嵯峨嵐山に抱かれた天龍寺。
塔頭・妙智院が書院で直営する西山艸堂で湯豆腐を頂いた後、さっそく拝観に向かいました。
臨済宗天龍寺派の大本山…まちの中心に広大な境内が広がります。
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まず、御朱印所で御朱印「覺王寶殿(かくおうほうでん)」をいただいて。
「覺王」とは法堂の本尊、釈迦如来を意味します。
持参したのは天龍寺の御朱印帳ではないので、スタンプを押してもらいます。200円。
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切妻屋根と白壁が装飾的にデザインされた美しい庫裏(くり)の入口、本堂参拝受付で拝観料を納めます。
僧侶の厨房である庫裏は、天龍寺を象徴する建物のひとつで明治32(1899)年の建立。
玄関を入ると、前管長・平田精耕の筆による禅宗の開祖・達磨大師の衝立があります。
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寺を訪れた者を最初に待ち構えるのが厳しい表情を向ける達磨です。
ここから向こうは厳しい修行の世界なのです。

天龍寺は、格式を誇る禅寺、京都五山第一位に列せられた厳しい修行の道場です。
ここに祀られるのは南北朝の争いで火花を散らした後醍醐天皇と足利尊氏。
敵対する二人を共に祀るのは非常に珍しいことです。
そして、この争う者同士を禅の心で導いたのが、開山の夢窓疎石(1275-1351)。
波乱の南北朝時代を生き抜いた3人のドラマを伝える歴史の舞台。
天龍寺に息づく禅のこころ。それを紡いできたのは厳しい修行の世界だったのです。

まずは小方丈(書院)を見学。ここにも達磨大師。床の間に掛け軸が。
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天龍寺は乱世の南北朝時代に創建されました。
皇位継承をめぐり、天皇家が南朝と北朝に分かれて戦った南北朝の争い。
京都を逃れ、奈良の吉野に南朝を開いた後醍醐天皇(1288-1339)。
かたや京都の朝廷、北朝に加勢した足利尊氏(1305-1358)。
繰り広げられる両者の激しい争い。
やがて、後醍醐天皇は病に倒れ、奈良・吉野で無念の最期を遂げました。
後醍醐天皇が深く帰依した、禅の高僧・夢窓疎石は尊氏に進言します。
「たとえ、かつては敵であっても いまは、後醍醐天皇の菩提を弔うべきでありましょう」
夢窓疎石の切なる想いに尊氏は深く賛同しました。
尊氏もまた後醍醐天皇同様、夢窓疎石に深く帰依していたのです。

方丈から北へ。境内の中を縫うように伸びる長い廊下。
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その先に建つのが多宝殿。後醍醐天皇の像を祀る場所です。
「後醍醐天皇聖廟多寶殿」と書いてあります。
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この地は檀林皇后(嵯峨天皇の后)が開創した檀林寺だったところで、
のちに後嵯峨上皇(後醍醐天皇の曽祖父)の仙洞御所・亀山殿が営まれ、
その後は後醍醐天皇の祖父・亀山上皇(1249-1305)の離宮でした。
亀山上皇は、孫の後醍醐天皇をたいそう可愛がり、たびたびこの離宮に迎え入れました。
この多宝殿は亀山上皇の離宮だった頃、後醍醐天皇の学問所であったと伝わる建物です。
静寂の中に佇む「後醍醐天皇尊像」の凛々しい面持に幼い頃、ここで学問に勤しんだ姿が偲ばれます。
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ここは後醍醐天皇にとっても幸せな思い出が詰まった大切な場所でした。

夢窓疎石は思います、「この離宮こそ 後醍醐天皇の菩提を弔う 禅寺に相応しい」と。
そして1339(暦応2)年、足利尊氏は亀山上皇の離宮を改め、
後醍醐天皇の菩提を弔うために夢窓国師を開山に天龍寺を創建したのです。

当初は創建の年号「暦応」を用いて「暦応資聖禅寺(りゃくおうしせいぜんじ)」と名付けられました。
しかし、年号を寺名に使うのは「延暦寺」以外罷りならぬ、という延暦寺の訴えにより、
天龍資聖禅」と改名。これが「天龍寺」の正式名称です。

「天龍」とは足利尊氏の弟・直義が嵐山の大堰川(おおいがわ)から天に昇る龍の姿を夢に見たことに由来すると伝えられています。
また、仏教では「龍が天に昇る姿」を「悟りを求めて修行に励む姿」に重ね合わせます。

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室町時代、天龍寺は京都五山第一位に列せられました。
「京都五山」とは、中国の五山にならい、鎌倉幕府が制定したことに始まり、
室町幕府が制度として確立した格式ある京都の五つの禅寺です。
天龍寺は天皇家と足利家ゆかりの禅寺であることから、第一位になったのです。

第一位 天龍寺
第二位 相国寺
第三位 建仁寺
第四位 東福寺
第五位 万寿寺

やがて天龍寺は嵐山一帯を有する広大な禅寺へと発展し、塔頭子院は150を超えました。
明治時代…1876(明治9)年、臨済宗天龍寺派の大本山となりました。
現在、天龍寺派の寺は京都の等持院や臨川寺(天龍寺の開山堂・夢窓疎石の墓所)をはじめ、
全国におよそ100ヶ寺を数えます。

そして、創建時から変わることなくこの寺に脈々と受け継がれるもの。
それが「禅のこころ」です。

参照:「蘆葉達磨図」等持院・蔵
禅の開祖・達磨大師(伝・5世紀半ば〜6世紀初頭に実在)は、インドに生まれ、中国で僧侶となり、
釈迦の教えを根本として禅の思想を生み出した高僧です。
そもそも禅宗において、「禅」とは「心」の別名と解釈します。
「心」とは「仏の心」…釈迦の悟りと真理を意味します。
それは言葉や文字では言い表せないもの。
だからこそ禅は師から弟子へ、心から心へ伝えるものとされているのです。

そして、達磨大師は禅にとってもっとも大切な3つの教えを説きました。

「廓然無聖(かくねんむしょう)」
:この世のものは、すべてのものは、因縁によって支えあって存在している
 つまり、自己はすべて「無」であるということ

「無功徳(むくどく)」
:欲を張るな 功徳があると思うな
 執着を捨て、無の心であれ という教え

「不識(ふしき)」
:知性や理性を超えた無の心境

達磨大師の3つの教えは、開山の夢窓疎石によっていまも息づいています。
疎石の生涯は修行の生涯で、伊勢に生まれ9歳で仏門に入りました。
10年の修業を重ねた後、奈良の東大寺で正式な僧侶になります。
その後、二十歳で禅宗に身を投じ、禅寺で修行に打ち込みました。
やがて禅の高僧となった夢窓疎石は、皇室や武家に請われ、多くの禅寺で開山に迎えられました。
弟子は1万3千人にも及んだといいます。
いまも夢窓疎石を開山とする禅寺は、その多くが天龍寺を大本山としています。

夢窓疎石は鎌倉幕府の執権・北条高時(1303-1333)参照:北条高塒像・宝戒寺蔵、
そして南北朝の争いで対立した後醍醐天皇や足利尊氏からも深く帰依されました。
混沌とした時代にこれほど時の権力者たちに慕われた禅僧はいないといわれています。
後醍醐天皇から賜った国師号は「夢窓国師」。
国師とは朝廷から徳の高い僧侶に与えられる称号です。
夢窓疎石は歴代天皇から7つの国師号を賜ったことから、
「七朝帝師(しちちょうていし)」とも呼ばれています。

しかし、夢窓疎石は権力者を一喝する人間でもありました。
仏を前に公家も武家もない。皆に等しく仏の心を説いた夢窓疎石のこころ。
それが「怨親平等(おんしんびょうどう)」、敵味方なく 本来人間はみな平等である という意味です。
敵味方に分かれて戦った後醍醐天皇と足利尊氏も夢窓疎石に深く帰依する者同士。
どこか近いものがあったのかもしれません。

夢窓疎石のこころは、天龍寺の隅々にまで息づいています。
「曹源池(そうげんちていえん)庭園」は、広大な池泉回遊式庭園で、
夢窓疎石晩年(60歳を過ぎてから)の代表的作庭として知られています。
「曹源池」の名は禅の教えで真髄でもある「曹源(そうげん)の一滴水(いってきすい)」を意味します。

一滴の水は、いのちの水
一滴の水は、森羅万象 あらゆるものの根源

自然と向き合えば、人間の真の姿が見える、と夢窓疎石は説いたのです。

屋内・小方丈(書院)から眺める曹源池庭園。
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また、夢窓疎石が遺した言葉の中に
「山水に得失なし 得失は、人の心にあり」という言葉があります。
山水(自然)には、良いとか悪いとか、得たとか失ったとか、儲けたとか損をしたとか、
成功したとか失敗したというような思慮分別はなく、問題は得失を思う人間の心である。という意味です。
自然の中で自己を極めていく、というのが夢窓疎石の境涯でした。

曹源池庭園の周囲には勇壮な伽藍が立ち並びます。
天龍寺最古の建築、中門〔四脚門〕は室町時代の造営。
禅宗様の四脚門は、ここが禅宗道場の入口であることを示しています。
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天龍寺最大の建築「大方丈」。禅僧が修行で庭と向き合う場です。
大方丈には平安時代に造られたとされる釈迦如来坐像(重要文化財)が本尊として安置されています。
多くの災害を乗り越え守られて来た天龍寺最古の仏像です。
悟りを開き、人々を救う釈迦の教えこそ、禅の根本なのです。
禅寺の本尊は、瞑想と悟りを意味する禅定印(ぜんじょういん)※を結びますが、
※膝の前で掌を上に向け、左手の上に右手を重ね、親指の先を合わせた印
この釈迦如来は祈る者に掌を見せおそれることはないと励ます「施無畏印(せむいいん)」と、
人々の願いを受け止めるという意味の「与願印(よがんいん)」を結びます。
その優しい姿に人の世の平和を願った夢窓疎石のこころの内を併せ見るようです。
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画像はありませんが、大方丈に安置される秘仏・聖観世音菩薩像(平安時代作)は、
平安時代に造られた檜(ひのき)の一木造です。
丸顔の優しい表情、深い慈悲をたたえた御仏です。
当初は蓮華を手に華やかに彩られた像であったと伝えられています。
秘仏として通常その姿を見ることは許されません。

大方丈正面(東側)から曹源池庭園。
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夢窓国師は堂塔建立の資金調達のため、「天龍寺船」による中国・元との貿易を進言し、
1343(康永2)年にほぼ七堂伽藍が整います。
夢窓国師の門流は隆盛し、天龍寺は京都五山第一位の寺格を誇りました。
創建以来、天龍寺は1356(延文1)年をはじめ、8回の大火に見舞われ、現代の堂宇の多くが明治期の再建です。


夢窓国師による曹源池庭園は、国の史跡・特別名勝第1号に指定。
1994(平成6)年世界文化遺産に登録。

屋内・大方丈(西側)から眺めるお庭。
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庭景の中心をなすのは、(写真左)池の対岸正面の龍門瀑(りゅうもんばく)と(写真中)その前の石橋、
(写真右)池中立石(ちりゅうりっせき)一帯の石組。
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↑(写真左)龍門瀑(りゅうもんばく)は遠山渓谷を表しており、
渓流が池に流れ落ちる場所に大きな石を置くことで、滝の水の落ちるさまを見事に表現しています。
龍門瀑(りゅうもんばく)の中程には鯉を表現した「鯉魚石(りぎょせき)」がひとつ配されています。
鯉が滝を登り、ついには龍となり天上界へと登っていく姿を石で表現しています。=登竜門。
↑(写真中)下に架かる石橋は日本最古のもの。
↑(写真右)滝の手前に位置する一群の石組・岩島は、力強い縦線で構成されており、
庭園全体の景観を引き締める役割を果たしています。
別名・釈迦三尊石ともいい、最も高い石が釈迦如来、続いて文殊菩薩、平たい石を普賢菩薩に見立てています。

そのデザインと技術は、日本庭園の石組のひとつの頂点をなすものと評価されています。
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大方丈の雲龍図は若狭物外画伯筆。
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いったん玄関に戻り、靴を履いて、大方丈(東側)前からぐるっと西側へ。曹源池庭園に向かいます。
この頃からお天気が不安定になり、雪が降ったり止んだりし始めました。
大方丈(東側)の前も雪・雪・雪…。
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屋外から見る曹源池庭園。嵐山や亀山を借景にした雄大な池泉回遊式庭園。
夢窓疎石が作庭した約700年前の面影をいまに留めています。
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屋外で眺めた石組。
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先ほど拝観した多宝殿を外から。
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多宝殿北側の書道が上達する「硯石」。
明治時代に雲龍図を描いた鈴木松年を偲ぶ記念碑。
天井画が破損してしまった今も、書道上達の願いを込めて全国の書家が訪れます。
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こちらは北門。ここからも出入りできます。
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曹源池庭園の裏側。(写真左)大方丈を見下ろす。
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(写真左)龍門瀑(りゅうもんばく)はこの辺りかな。(写真右)一面に苔。
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出口は近い。
こちらは天龍寺直営の精進料理店「篩月(しげつ)」。
「篩月」という名は、開山夢窓国師が建てた庵「篩月軒」から取りました。
竹薮を通して見た月影が篩(ふるい)にかけたようだという意味です。
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庭を拝観した後、今日は土曜日なので、法堂の雲龍図を特別拝観させていただきます。
拝観には別途500円を堂内の入口で納めて。

天龍寺が最後に焼失したのは、明治維新の蛤御門の戦いの時。
薩摩藩の砲火によって堂塔伽藍のほとんどが灰燼に帰しました。
その時に唯一残った禅堂を当時の管長・峨山禅師によって移築し、法堂兼仏殿として今日に伝えられています。
正面に「選佛場」と書かれた額が上がっているのは、雲水が坐禅修行するための禅堂だった名残りです。
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法堂とは禅宗の七堂伽藍のひとつで、最も重んじられる住職が仏法を説く空間です。
須弥壇には釈迦如来像が祀られ、厳しくも優しい面持でこちらを見つめています。
前出、御朱印「覺王寶殿(かくおうほうでん)」の「覺王」とはこの釈迦如来のこと。
脇侍には文殊菩薩像と普賢菩薩像の二尊。
また、開基の足利尊氏像(室町時代)は修行僧の礼拝の対象となっています。
その人柄を夢窓疎石はこう評しています。
 
 第一に、合戦でもおそれることがない
 第二に、人に情け深くて、憎むことがない
 第三に、心が広く、ものを惜しまない


法堂の天井の「雲龍図」は、1997(平成9)年、加山又造画伯の渾身の作。
直径9mの円形枠いっぱいに、墨色もみずみずしい龍が躍動しています。
仏法の守護神であり、水の神の象徴でもあり、火災から守るという意味も持ちます。
どこから見ても目が合う八方睨みの龍。人間の心を見透かすような厳しい目を向けています。
法堂は特別拝観で、土日祝日と春夏の特別参拝のみ公開。
       ただし、10月28日〜30日は「開山毎歳忌」のため拝観できません。


晴れたり曇ったり雪が降ったり…猫の目のように変わるお天気に戸惑いながら天龍寺を後にし、
清凉寺と門前の森嘉を目指して歩いて行きます。
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参考資料
天龍寺公式HP
天龍寺拝観資料類
5都大知典 天龍寺
さ都古寺を巡る 天龍寺
グ豸朕2011年8月号 No.135「日本の庭園入門」
Ω纏名刹こころ百景 天龍寺

南禅寺〔後編〕塔頭・南禅院の方丈庭園と水路閣 150129

京都・南禅寺の〔後編〕は、塔頭・南禅院の方丈庭園と水路閣です。

写真をクリックすると大きな画像を見ることができます。

2015年1月29日(木)

南禅寺の本坊を後にして、南禅院・方丈庭園の拝観に行きました。
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「水路閣」の下をくぐって…
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※水路閣とは…南禅寺法堂の南側に位置するレンガ造りの水道橋。
全長約93m幅約4m、古代ローマの水道橋を模して造られたといいます。
琵琶湖から京都市内に向けて引かれた水路で、
1881(明治14)年に着工され、1890(明治23)年に竣工しました。
第2疎水の工事終了は1912(大正元)年。


石段を登った一段と高いところに塔頭の南禅院
数年前に一度訪ねた記憶を辿って。
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この南禅院は南禅寺発祥の地。
当時湧水が豊富な地として知られ、山荘を建て庭園を造ることに適した土地柄で、
亀山上皇がたいそう気に入り、この地に離宮を造営したことに始まります。
出家後、法皇となって2年目の1289(正応2)年に離宮を寄進して禅林禅寺に。
開山となった大明(だいみん)国師が南禅寺として開創しました。
南禅院もこの時に創建されましたが、応仁の乱で荒廃。
1703(元禄16)年、徳川綱吉の母・桂昌院の寄進によって再建されて現在に至ります。

拝観料を納めて方丈庭園へ。
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鎌倉時代の池泉回遊式庭園で作者(亀山法皇の作庭とも伝わる)や作庭年代は不明ながら、
離宮完成直後にできあがったと考えられており、ほぼ鎌倉中期には完成したようです。

(写真左)大小2つある池のうち、大きい池「曹源池」。
(写真中)中島の「蓬莱島」。島の上部に蓬莱山的な石が据えてあります。
      と同時に、この石が「鶴島」の役目も持たされ、羽石(はねいし)を兼ねています。
      第二次大戦前の実測された図面を見ると、
      島の後方が土砂に埋まり背後の山から出島のような形になっていました。
      戦後の発掘調査などに基づいて現在のような島に改修。
(写真右)鶴島の右隣の「亀島」。
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紅葉の残骸。
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実際に水が流れる滝石組。
昭和40年代頃に改修したとされる現在の平凡な滝は、
疎水(そすい)を引き込んで水を落としていますが、
作庭当初は、背後の山の上部に大量の湧水をたたえた溜池があり、
そこから大きな落差を伴って滝が造られていたようです。
天龍寺や鹿苑寺に代表される同時代の滝のような龍門形式の滝として造られたと推測できます。
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茶室 龍淵窟(りゅうえんくつ)。
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亀山天皇分骨所。ご遺言により御分骨を埋葬した御廟です。
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一山國師塔。
「元」から渡来してきた一山一寧(いっさんいちねい)という僧の供養塔です。
元から「朝貢しませんか?」という国書を持って日本へやって来たのですが、
数年前に日本は元から2度にわたって襲撃(元寇)を受けており元からの使者を警戒。
一山一寧は伊豆修禅寺で幽閉されましたが、そこでの修行が認められ名僧としてお寺を渡り歩き、
後に上洛し南禅寺の住職となりました。
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南禅院方丈は、1703(元禄16)年徳川綱吉の母・桂昌院の寄進によって再建された、
総桧の入母屋造こけら葺きです。
内陣中央には亀山法皇御木造(重要文化財)が安置され、
襖絵は狩野養朴とその子如川隋川の筆になる水墨画です。
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亀山天皇分骨所を望む。
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方丈西側の小さい方の池。
出島から中島にかけて感じの「心」の文字の形をした心字式(しんじしき)。
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大小2つの池は配置構成が矩形に造られており、このような形式は知恩院庭園や、
南禅寺山内にある天授庵庭園と同様です。

◎南禅院の方丈庭園は…
 鎌倉時代の特色をよく残し、多くの島をもち、豊かな水をたたえ、
 禅寺としての精神性を感じられる一級の美をもった庭園


南禅院を後にします。
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またの機会に訪れたい塔頭。
(写真左)天授庵。 (写真中)山名宗全の墓所がある真乗院。 (写真右)金地院。
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(写真左)「インクライン」を望む。
(写真右)地下鉄東西線「蹴上駅」周辺。気温は6℃。寒いわけです…。
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これからどんな出会いが待っているのか…始まったばかりの冬の京旅。


参考資料
南禅寺公式HP
京都大知典「南禅寺 南禅院」
「一個人」2011年8月号(No.135) 日本の庭園入門 南禅寺 南禅院〔方丈庭園〕

南禅寺〔前編〕大方丈「虎の子渡しの庭」と御朱印はじめ 1501294

冬の京旅、最初に訪ねたのは南禅寺。前編は大方丈の「虎の子渡しの庭」などを拝観して人生初めての御朱印帳を。

写真をクリックすると大きな画像を見ることができます。

2015年1月29日(木)

京都駅から南禅寺へ。
今回の冬の京旅、最初の訪問スポットです。
地下鉄東西線「蹴上(けあげ)駅」から地上に出て徒歩で向かいます。
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途中「インクライン」を見ました。
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前回南禅寺に参詣した時は車だったので、参道を歩くのは初めてです。
湯豆腐の「順正」はこちら。
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中門が見えてきました。
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臨済宗南禅寺派の総本山、瑞龍山太平興国南禅禅寺南禅寺の正式名称です。
1264(文永元)年に亀山天皇が母親の御所として造った離宮、禅林寺殿が前身で、
のちに天皇が法皇になってから大明国師の開山によって寺になりました。
1334(建武元)年、後醍醐天皇が官寺の格制度を定めた際、京都五山の第一位に。
のちに足利義満の相国寺建立後には、京都と鎌倉の五山のさらに上となる
「五山の上位」を与えられて最高位の禅寺となりました。
以後、大いに栄えましたが、三度にわたる大火で衰退し、
江戸初期に徳川家康に仕えて社寺や外交関係の事務を担当した
「黒衣(こくえ)の宰相(さいしょう)」こと以心崇伝(いしんすうでん)が立役者となり再興。
現存する堂宇のほとんどはこの時期に再建されたもの。
南禅寺の名が庶民の間にも知られるようになったのは、
江戸時代に創作された歌舞伎「楼門五三の桐(さんもんごさんのきり)」で、
希代の大泥棒石川五右衛門が「絶景かな〜」と大見得を切るのが南禅寺の三門の上だったことから。

その「三門」(重要文化財)ですね。高さ22mで急な階段をつたって登楼できます。
建立は五右衛門の死後数十年経った頃なので、「絶景かな〜」は史実ではありません。
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前回登ったので今回は控えます。
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(写真左)現在の三門は藤堂高虎が大阪夏の陣に倒れた家臣の菩提を弔うべく1628(寛永5)年に再建。
      禅宗様式独特の圧倒的な量感と列柱群が力強さを示しています。
(写真右)これは「豚返し」という名前でしたね。
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法堂に参詣しました。
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こちらは本坊の庫裏。廊下でつながった先に方丈(国宝)があります。
現在の方丈は1611(慶長16)年に御所の一部を移築して再建されました。
そのために、建物の外観や内部などは、禅寺の質素な佇まいとは大きく異なる作り。
それは大方丈や小方丈の狩野派による華麗な障壁画(重要文化財)などからも理解できます。
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拝観料を納めて、今回の京の冬旅で人生初の体験となる「御朱印帳」を買いました。
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人気の「水呑みの虎」です。
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ひと気ない廊下を伝って方丈に向かいます。
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寺伝では大方丈は天正年間(1573〜1592年)の内裏清涼殿を移建したものとされていますが、
清涼殿ではなく女院御所の対面御殿を移築したものとの説も。

その南側に「虎の子渡し」と呼ばれる枯山水の庭園があります。
作者は小堀遠州とされていますが、正確な資料が遺されているわけではありません。
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※「虎の子渡し」とは…
虎が子を3匹生むと、その中には必ず獰猛な子が1匹いて、他の2匹を食べようとするため、
川を渡る際に親が獰猛な子と他の子を2匹だけにしないよう運び方に苦慮するという中国の故事。
計6つの石が3つずつ平行に並ぶ石組からこのように呼ばれています。



この庭は、苔の地表と白砂によってゆるやかな曲線が描かれています。
10t(トン)あまりの巨石から500堋度の小石までが、大中小とリズミカルに並列。
並ぶ大きさの規則性がリズムと遠近感を生み出しています。
すなわち石は奥の左から大→中→小と並び、手前の石は少しずつずらして並列に置かれ、
この配置の妙が景観美をつくりだしているのです。
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この庭園は江戸初期に作られた禅宗寺院の南庭としての作り方の特徴がよく出ている構成になっています。

特徴\个篆∈呂鯏敲渋Δ膨匹い笋辰董建物側を大きく空けていること。
    これは敷地全体に植栽や石組をしてしまうと、建物の内部が暗くなってしまうため、
    前部を白砂の空間として空けておくことで採光を考慮しているのです。
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   同じような構成をもった同時代の庭園例:南禅寺金地院庭園、正伝寺庭園

特徴∪个稜枌峭柔。
    方丈に対して石が斜線上に2筋の線で配置され、
    正面から見た時に左から大中小となるような石の大きさで構成。
    さらに、いずれの石もすべてが三尊石組構成として見ることができるようになっています。
    日本庭園の石組構成として、この時代における先端的な構成方法を見せており、
    作者の非凡さを窺(うかが)い知ることができます


◎南禅寺の方丈庭園「虎の子渡しの庭」は…
 採光を考慮に入れた白砂の空間と、奥にまとまった石組・植栽のバランス美
 が特徴です。
 


広縁の欄間彫刻、天井、板扉の形式とともに近世宮室建築の姿を伝える遺構です。
大方丈前広縁上部欄間彫刻は左甚五郎作。
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内部の障壁画(重要文化財)は124 面を数え、桃山前期の狩野派の手になるとされていますが、
描画により400年が経過して、彩色の剥落などの傷みがみられるため、
2011(平成23)年12月に124 面中の84面を収蔵庫に保管しました。
現在は、デジタル撮影した画像を元に、江戸初期から中期の色合いで描画復元した
84面のあらたな障壁画を補完して公開しています。
撮影が禁じられているので画像はありません。


小方丈は寛永年間(1624−1644年)の建築で、伏見城の遺構とされています。
内部には狩野探幽筆と伝えられる《群虎図》があります。
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曇天で内部は暗く、《群虎図》は想像していたほどはっきり見えませんでしたが、
「水呑みの虎」を拝観できてよかったです。


つづく小方丈にはいろいろなお庭がありました。
1966〜67(昭和41〜42)年に造られたものだそうです。
ほかに拝観者はなく、ひとりで心静かに観て回ることができました。

涅槃の境地をあらわした「如心庭」は、「心」字形に庭石を配置しています。
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「蓬莱神仙庭」。蓬莱は中国の東海中にある神通力を得た仙人が棲む不老不死の霊山。
隅にあるタラヨウ(多羅葉)の木は、葉の裏に文字を書くことができ、お経や手紙を書いたりしたようです。
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煩悩が渦巻く「六道庭」は、六道輪廻の戒めの庭。
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六道庭の鬼瓦です。
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「鳴滝庭」には大硯石がありました。
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疏水の水が小滝を描く「龍吟庭(りょうぎんてい)」。涵龍池があります。
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「不識庵」と「窮心亭」の説明。
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その「窮心亭」と「南禅寺垣」。
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「南禅寺垣」をバックに。瓦に「南禅」と。
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冬の庭に初めて彩りを見つけました。万両の朱い実。
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こちらは「環源庭(かんげんてい)」。
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南禅寺本坊はここまで。
それなりに防寒対策をしてきたつもりでしたが、
途中から冷え込みが堪えて集中力が希薄になってしましました…。
いつかまた紅葉が美しい季節に訪ねたいです。
その時季に今回のような貸し切り状態で拝観できるのは夢のまた夢でしょうけれど。

この後は南禅寺〔後編〕南禅院の方丈庭園を拝観します。


参考資料
南禅寺公式HP
▲泪奪廛襯泪ジン京都2007 南禅寺
「一個人」2011年8月号(No.135) 日本の庭園入門 南禅寺〔方丈庭園〕

昼下がりの松花堂庭園で風雅を愉しむ 1211044

京都府八幡市の松花堂庭園を散策してきました。

写真をクリックすると大きな画像を見ることができます。

2012年11月4日(日)

昼下がりに45分くらい一人になれる時間ができたので(作った、という話も
かねてより行ってみたかった京都府八幡市(やわたし)の松花堂庭園(しょうかどうていえん)を訪ねました。

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最寄の石清水八幡宮の社僧で、吉兆が始めた「松花堂弁当」の由来にもなった
江戸時代初期・寛永年間(1624〜1644)の超一流文化人、松花堂昭乗(しょうかどう・しょうじょう)。
昭乗が1637(寛永14)年に男山(八幡さんの境内)に建てた10尺(3.03メートル)角の方丈の
草庵茶室「松花堂」(京都府有形文化財)などの史跡を、明治時代に移築した優美な庭園です。

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計算され尽した美しい風雅な設えに感じ入るひととき。

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池の鯉はよく人に慣れていて、人影が水面に映るや否や、
餌(入口にて100円で販売)を求める鯉たちの祭り。メガマウス

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今日は日曜日だったので、「日曜茶席」があって本当にお邪魔したかったのですが、
何しろ時間があまり取れないので泣く泣く諦めました。次回の楽しみにします。

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謡曲「女郎花(おみなえし)」と女塚の話は初めて知りました。
またの機会、八幡今田の男塚へも。

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庭園内には八幡さんのある男山(おとこやま)の名産「竹」を意識してか、
いろいろな種類の美しい竹や…

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寺名や人名を冠した竹垣や柴垣も素敵でした。
(写真右)は、その名も「昭乗垣(しょうじょうがき)」といい、草庵茶室「松花堂」付近にありました。

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(写真中)草庵茶室「松花堂」への入口より先は写真撮影が禁止になっています。
(写真右)入場券の写真が、草庵茶室「松花堂」です。

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内園は広くはないですが、静寂な迷路のようで、時々鳥の囀りが聞こえて
ほぅっと心が安らぎます。
たまたま空いていて一人で拝観できたので、贅沢なひとときを過ごすことができました。
うん…デジカメは相応(ふさわ)しくないですね。
ここにいると、寛永時代はそう遠くない過去のようにも思われ、
「松花堂」もその先の「書院」も、主人(あるじ)の息遣いが感じられるような佇まいでありました。

さらにその先に「東車塚古墳」の石碑があったので、帰京後ネットで少し調べたところ、
この松花堂庭園は、東車塚古墳の跡地一帯に造園されていることがわかってビックリ。
長くなるので文章量は控えますが、古墳があることを知らずに造園してしまったようです。
明治時代の発掘調査によって、埋葬品から古墳が築造されたのは4世紀末から5世紀初頭と推定され、
被葬者は男山東麓を支配していた豪族で、
石清水八幡宮遷座前の中心地に造られたと考えられています。


松花堂庭園を後にし、併設の美術館にも行きたかったのですが、
夏の集中豪雨による浸水の影響で、展示が中止になっていました。

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返す返すも時間が足りないので、これは不幸中の幸い(使い方合ってる)でしたでしょうか。

美術館お隣の京都吉兆 松花堂店。
いまだ記憶に新しい(「囁き女将」だっけ)船場吉兆の不祥事で、
ブランドイメージが失墜した吉兆も信頼を回復しつつあるそうです。
やはり。ここは「松花堂弁当」発祥の地…一度は食べに行ってみたいものです。

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ミュージアムショップには八幡ゆかりのお土産がいろいろありました。


さまざまな場所に未練を残しながらの、あっという間の2泊3日の京都帰省旅行でした。
次は半年後ぐらいかな、久しぶりに春の京都を訪ねることができたら嬉しいです。
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