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(2017年皐月賞出走時のアルアイン&松山騎手)

復帰戦の京都記念へ、
川田騎手で臨むことが発表されたアルアイン

松山騎手騎乗で、毎日杯、皐月賞を勝ちながら、
セントライト記念、菊花賞でルメール騎手へと乗り替わり。

京都記念でレイデオロにルメール騎手が騎乗するため、
空位となった鞍上に、松山騎手が戻らない事態に、
違和感を覚えるファンは、決して少なくないと思う。

鞍上選択に至った経緯、
この「違和感」の正体について考え、
今回は記事を書いてみたいと思います。


【主戦騎手、上位騎手を起用する正当性】

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まず最初に気に留めておかなければならないのは、
騎手起用の正当性について。

「競走馬は全ての決定権が馬主にある」
という大前提の以上、
たとえ前走で誰が乗り、どんな結果が出ていたとしても、
乗り替わりは、制度上、批判を受けることではない。


なぜ、今回の乗り替わりは生まれたのか。

参考までに、上記・左の表は、
昨年1年間の池江厩舎が重賞で起用した騎手のリスト。
58回の重賞出走数の内、
川田騎手の起用がトップの19回で、
他騎手を大きく引き離している。
松山騎手が池江厩舎の馬に重賞で騎乗したのは、
アルアインでの3回にすぎない。

上記右の表は、平場のレースも含む、
池江厩舎・サンデーRのコンビによる、
出走馬の起用騎手。
こちらでも川田騎手は、
秋山騎手と並び、起用機会トップ。
松山騎手は、アルアインの3回以外、
ベルーフの都大路Sと、条件戦で一度、
このコンビの馬に騎乗するまでに留まっている。

また川田騎手は昨年リーディング6位・91勝、
通算中央GI10勝に対し、
松山騎手はリーディング15位61勝、
中央GIは通算1勝。


「起用機会の多い主戦騎手を優先する、
実績の高い騎手を優先する」
という観点からは、
今回の乗り替わりは、十分に正当性があるという見方も出来る。


【説明の欠如と、賛否の別れる「ドライな割り切り」】
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(セントライト記念に臨む、ルメール騎手とアルアイン

それでは、今回の一連の乗り替わりに、
多くのファンが受けた「違和感」の正体は何か。


まず、乗り替わりに至る経緯の十分な説明の欠如が一因と感じる。

昨年、セントライト記念に臨む際、
池江調教師は乗り替わりについて
「経験の必要な長距離戦が目標ということもあり、
ルメール騎手にお願いしました」
と、
乗り替わりの経緯を、短く説明するに留めている。
京都記念での川田騎手の起用については、
今のところ、一切の説明がなされていない。

またデイリースポーツ紙上で
「アルアイン、ダービーの鞍上は調整中」と報じられ、
この時は松山騎手が騎乗するに至ったものの、
7番人気で皐月賞を制した殊勲の鞍上に対し、
あまりにも冷ややかな対応が、反感を買った。


次に、今回の乗り替わりに限らず、
GIで有力馬に、乗り替わりでリーディング上位騎手を乗せる、
という、安易な風潮について。

オークス2着のモズカッチャンに乗り、
毎年リーディング上位に位置しながら、
GI制覇から遠ざかっている和田騎手。
スワーヴリチャードにデビュー以来騎乗し、
ダービー2着に導いた四位騎手でさえも、
秋のGIで、容赦なく乗り替わりの憂き目にあった。

GIで結果を出した騎手を、
若手、ベテラン問わず、あっさり乗り替わらせる。

この風潮が招いた事態が、
昨年、中央GIを勝った騎手で、
GI初勝利、日本人で20代の騎手は、
ともに松山騎手のみという結果である。

その松山騎手でさえも、皐月賞の2走後からは乗り替わり。

これほど若手、GI初勝利の騎手が生まれないという状況は、
諸外国の競馬を見ても、
少々、異常な状況と言わざるを得ない。


この「結果を出している騎手をすぐに変える」という風潮こそ、
「競走馬は馬主のもの」という大前提がありながら、
多くのファンが違和感を覚える、最大の要因と感じる。


【求められる公共性、競馬は誰のものか】

ドライな割り切りの乗り替わりは、
今に始まったことではなく、
競馬というスポーツが行われる以上、
避けることが出来ない問題でもある。

ここでは、過去に競馬界を騒がせた、
乗り替わりの一端について上げ、
問題点を考えてみたい。


まず、古い例では1970年クラシックに挑んだ
アローエクスプレスについて。
前哨戦を勝った当時4年目の柴田政人騎手から、
加賀武見騎手に乗り替わって走ったクラシック。
当時の高松三太調教師は、
乗り替わりの理由を問う柴田騎手に
「誰よりも乗せてやりたいが、誰よりも世間が許さない。
悔しかったら、加賀武見を超える騎手になれ」

諭したと伝えられている。

この一件は「経験のある騎手に任せる」という
やむを得ない事情があったとはいえ、
柴田と同郷の作家・寺山修司が仕立てた
悲劇的ストーリーと共に、後世に長く伝えられている。


1996年、春の天皇賞を南井騎手で2着に終わった
ナリタブライアンは、
次走、高松宮杯の鞍上に、
南井騎手の負傷期間中手綱をとった武豊騎手を、
再び起用することを、大久保正陽調教師が決断した。
この一件に対し、競馬評論家・大川慶次郎氏は
「ナリタブライアンに乗ろうと懸命にリハビリに挑み、
あれほどの実績を持つ南井を、
一度の敗戦で降ろす判断が許せなかった。
一旦レースに馬を登録する際、
その馬は、馬券を買うファンのものである」
として、
乗り替わりを痛烈に批判した。


ここまで読んで、お気づきだろうか。
高松調教師、大川氏とも立場は違えど、
「世間が許さない」「馬はファンのもの」と、
乗り替わりについて、ファンの視点を最も大切に考えている。

野平祐二調教師も、晩年の著書の中で
「競馬とはみんなで楽しむものである、という思いが私にはある。
競馬がマネーゲームになると、みんなで楽しむものではなくなってしまう。
一部の人だけのマネーに左右されて競馬が動かされる。
これが健全な競馬と呼べるだろうか。
失敗しながらも、血の通った温かい手で強い馬を育てていく、
という人間性のある競馬を、
みんなで作っていくのが理想だと私は信じている。」
と、
競馬発展のため、何より、
「みんなで楽しむ」公共性の高い競馬
「人間性のある競馬」が重要であると説いている。


ファンの買う馬券、テレビの視聴率、
新聞の売り上げは、
競馬の発展に不可欠なものである。

この視点を忘れ、
「自分の馬さえ勝てばいい」という利益に走ることは、
たとえ「世界を目指す馬づくり、騎手起用」に通じることであっても、
ベクトルが違うと考えざるを得ない。


もちろんローテーション、騎手起用全てにおいて、
「すべてにおいてファンを考えろ」というわけではないが…
競馬発展のため、
「結果を求める」「ファンの視点を忘れない」
双方のバランスをとることは、不可欠であると感じる。

それは同時に、
競馬が「馬主のもの」であると同時に「ファンのもの」
であることを意味する。


【無用な非難について】

最後に、忘れてはいけない視点をもう一点。

昨年のセントライト記念後、
賛否両論ある乗り替わりの中、
アルアイン&ルメール騎手が2着に敗れ、
引き上げてくる際、一部の心無いファンから、
乗り替わりについて、
罵声が浴びせられる一件があったという。

しかし、騎手はプロである以上、
与えられた依頼を受けるのが仕事。
また、馬に至っては、何の罪もない。

複雑な思いは多々あろうが、
誰が騎乗しようと、
競走馬の今後の成功を祈るのが
ファンに求められる姿勢ではないかと思う。


うつりゆく時代、競馬界。
今年もどんな悲喜こもごもが繰り広げられるか。
一ファンとして、見守りたい思い。