(キーレン・ファロン騎手と、14年2000ギニーを勝ったナイトオブサンダー)
Racing Post Annual 2015 より
現地時間4日、英国リーディングに6回輝いた名手、
キーレン・ファロン騎手が、
51歳で、現役生活にピリオドを打つことが発表された。
90年代後半から00年代初頭にかけ、
欧州競馬で眩いほどの輝きを放ったファロン。
しかし、その栄光の影には、
常に、信じられないような醜聞がつきまとった…。
自分の知りうる範囲であるが、
ファロンがジョッキーとして歩んだ道のりに、焦点を当ててみたい。
【中堅騎手から、瞬く間にスターダムに】
1965年生のキーレン・ファロンは、19歳の1984年、
母国アイルランドで騎手生活をスタートさせた。
1988年、23歳で拠点を英国に移したものの、
大レース勝ちはなく、20~60勝台と中堅騎手の域を出ない成績で、
20代の終わりまでを過ごした。
ファロン騎手に転機が訪れたのは、31歳を迎えた1996年。
英国クラシック25勝、「英国近代競馬で最も成功した調教師」と称された、
ヘンリー・セシル(2013年没)厩舎の専属騎手となったファロンは、
この年、これまでで最多の136勝を上げると、
さらに勝ち星を上積みし、翌1997年、202勝で初の英国リーディングに輝く。
ファロンは、セシル師の管理馬・オースで、1999年ダービーを優勝。
騎手リーディングとダービージョッキー。
騎手として最高の栄誉を、30代半ばにして、
一気に手にしたファロン。
しかし、直後にセシルはファロンに対し、
一方的な契約解除を言い渡す…。
契約解除の要因は、英国紙ニューズオブザワールドが、
「セシルの妻ナタリーと、ある有名騎手が不適切な関係にあった」
と伝えたこととされる。
しかし、ファロンは、このことは事実無根と訴え、
後に訴訟で、セシルから和解金を得ることになる。
事実かどうかはわからずも、
不幸な出来事で、有力厩舎からの契約を解除されたファロン。
しかし、20代後半から30代前半頃のファロンは、
同僚騎手に暴行を働き、6か月の騎乗停止処分を受け、
イタリアブランドで身を固め、稀代のプレイボーイと謳われた
ヘンリー・セシルの妻と、不適切な関係を噂された。
ファロンは、94年の時点で既に妻子がいたが、
血気盛んな青年時代を送っていたようである…。
【スタウト厩舎と契約、黄金期の到来】
セシル厩舎との契約が解除された翌2000年、
ファロンはアスコットの落馬で重傷を負い、
後半シーズンを棒に振ることとなる。
しかし、負傷から明けた2001年、
新たに契約を結んだマイケル・スタウト厩舎ゴーランで
英2000ギニーを優勝し、再びリーディングを獲得。
翌2002年にはゴーランでキングジョージを優勝。
さらに2003年クリスキン、2004年ノースライトと、
ファロンはスタウトの管理馬で立て続けにダービーを優勝。
この間、英国リーディングの座を堅守し、
1997年~2003年の7年間で、6度のリーディングを獲得。
90年代末~00年代初頭は、
ファロンにとって、まさに黄金時代の到来となった。
【相次ぐトラブル、クールモアの主戦から、長期の騎乗停止】
2004年、オークス&ダービーを連日制覇したファロンは、
2005年より、新たに母国アイルランドの、
若き名伯楽エイダン・オブライエン師と契約。
同年、早速、同厩舎の管理馬で2000ギニー、1000ギニーを連日制覇。
さらに秋には、仏国ファーブル厩舎のハリケーンランで、初の凱旋門賞優勝。
名声を欲しいままにしていたように見えた。
しかし、これまで暴行やアルコール依存といった、
トラブルを抱えていたファロンに、
新たな疑惑が持ち上がる…。
06年7月、仏国のジャンプラ賞後の薬物検査で陽性反応が出たファロンは、
この件で12月より仏国で6か月間、騎乗停止の処分を受ける。
また、同時期、英国で賭博行為に加担したとして、
ファロンは、英国当局に、逮捕・起訴された。
騎手生活の絶頂時、再びトラブルを起こしたファロンであったが、
07年6月、愛国で騎乗を再開すると、
秋の凱旋門賞を、オブライエンの管理馬ディラントーマスで優勝、
自身2度目の凱旋門賞優勝の栄誉を手にする。
しかし、この年8月の薬物検査で、再度、陽性反応が出たことが発覚。
ファロンは08年1月から、09年9月まで、
長期にわたり、ターフを離れることとなった…。
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