先日の講演原稿、こちらでも公開します!

当日はアドリブが多かったので、正確な内容ではないけど、感想など聞かせてもらえるとうれしいです。20分ほどのお話でした。

また、礼拝で読まれた聖書箇所も記載しておきました。
牧師先生が偶然選んだ聖書箇所だったのですが、お話の内容にぴったりだったので、かなりうれしかったです。神様のナイスなご計画ってやつに違いない。笑

(聖書に関して言及する場面がありますが、もともとの原稿にはなかったアドリブです。w)

以下、当日の内容です。

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体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。
足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。

(中略)

目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」ともいえません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。

(コリントの信徒への手紙1 12章)

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松蔭講演の原稿
2009年11月27日
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ご紹介いただきました、遠藤まめたと申します。今日はこうして呼んでいただき、みなさんにお会いできてうれしいです。どうもありがとうございます。

宗教講演会ということで、何を話したらいいんだろうと考えていたのですが、自分は肩書きもない、ただの22歳の若造なので、格好つけて話すようなことも、特にないのですね。なので今日は、皆さんには、自分の話で役に立ちそうなことがあれば、「そうか」と思っていただいて、よくわからないこととか、納得できないことがあれば、率直に「よくわからんわ」って思っていただけたらよいんじゃないかと思います。

あと、このお話が終わったあと、自分は図書館にいるので、この話のここがもっと知りたいとか、直接話してみたいとか、そういうことがあれば、是非みなさんの話もきかせてください。
興味あるひとは、のちほど是非きてください。

それで、今日の本題に入ります。
今日のテーマは「変」です。
変人の変、ヘンタイの変、ヘンチクリンの変です。

●変人だらけの学校で・・・

突然ですが、みなさんは変人ですか??
どうでしょうか??
「自分は変人だ」と思う方は、是非ちょっと手を上げてみてください。

・・
(ざわざわと話し合い。何名かが手をあげる)

ありがとうございます。

自分がみなさんくらいの年齢だったとき、うちの学校は、変な人であふれ帰っていました。
この学校と同じ、キリスト教の学校で、毎日礼拝があって、中高一貫の女子校。横浜に有るフェリス女学院という学校でした。世間では「お嬢様学校」といわれていますが、その内実は「肉食女子の楽園」。変人の巣窟みたいな学校でした。

うちの学校にいた変な人。
たとえば、あだ名が「教祖」という子がいました。
教祖は今でいうところの、いわゆる「腐女子」。教祖は毎日、学校に来ては布教活動をしていました。ボーイズラブの布教活動です。教祖のロッカーには、いつも漫画本がたくさん入っていて、毎朝、学校に来るクラスメイトの机に勝手に漫画本をつみあげていました。教祖の布教活動はみごと成功して、うちのクラスではボーイズラブの旋風が吹き荒れました。その後も教祖は写真集が出たり、先日はコスプレをしてインターネット上で踊っている映像をみつけました。

また、修学旅行には、阪神タイガースや広島カープ、巨人のユニフォームやメガホンをカバンに詰め込んでくる子達がたくさんいました。本当はあんまりつけちゃいけない旅館のテレビで野球観戦、野球の応援歌を歌いながら大騒ぎ。もちろんいろんなチームのファンがいるから、おたがい言い争いをしながら、どこか楽しい。これが、世間で「お嬢様学校」といわれている私たちの正体でした。自分は、阪神タイガースの大ファンで月刊誌に似顔絵を描いては、よく投稿していました。一回も掲載されることはなかったんですけど。

よく言えば、個性豊かな子。くだけていえば、変な子。
そういう人たちだらけの学校には、なんでも自由に話せるムードがありました。
変な子は、いわば面白い子。クラスの人気者になれる子だったのです。

だけど、変な子、個性豊かな子を面白いよね、と思える雰囲気の中にあっても、「変」には、友達にいえるような「変」と、これは友達にはいいづらいよな、というような「変」があったように思います。友達にいったときに受け入れてもらえる、うけとめてもらえるような「変」と、これは言わないほうがいいんじゃないかな、と、少しためらってしまうような「変」。 この二つがあったのですね。

みなさんはどうでしょうか??

熱心な漫画オタクや、野球ファンであること、そういうことは友達に話せるかもしれない。だけど、自分にはどうしても、これは話しづらいなぁということがありました。

これを言ったら、友達がひいてしまうかもしれない。
ひかれないにしても、友達を困らせてしまうかもしれない。
傷つけてしまったら、どうしよう。
重たいやつ、暗いやつだと思われてしまうんじゃないか。
そもそも、信じてもらえないんじゃないか。


そんなことを思いながら、自分は毎日、皆さんのように学校にきて、授業を受けたり、お弁当を食べたり、部活をやったりして、10代の頃をすごしていました。

どうしても、これだけはいいづらかったということ。
それは、「自分は、本当は女の子じゃない」ということでした。

●本当のことは、口に出せなかった

自分は本当は女の子じゃない。
オレは、身体は女の子だけど、本当は男の子なのかもしれない。どうしよう。
どうやって生きていけばいいんだろう??誰に話したらいいんだろう??


いつも、そのことを、あたまのどこかで考えていたんです。

中学・高校と、ずっと自分はクラスの人気者でした。
授業中に先生の似顔絵をかいてまわしたり、いたずらをしたり。
部活では部長もやったし、図書委員会が出している広報誌に記事をのせたりもしていました。バンドもやっていたし、一見、悩みなんてなさそうなやつだと、思われていたかもしれません。

でも、自分は、そんな自分が本当の自分ではない、嘘の自分なんだというふうに思えてなりませんでした。友達と会話しているとき、お弁当を食べているとき、冗談をいっているとき。授業を受けているとき、クラブで楽しいときにも、ふっと心のとこかで、「本当の自分はここにいないんじゃないか」と思ってしまう。そういう毎日だったのです。

女の子として生まれてきて、女の子として育てられてきた。
それは、自分が決めたことではなくて、気がついたら、そうなっていました。周りの友達や、家族、先生、誰もがみんな、自分のことを女の子だと思っている――そうして、毎日毎日をすごして、ご飯を食べたり、学校にいったり、冗談を言い合ったりする。

「自分は女の子じゃない」と感じているのに、決まりごとのように、自分が当たり前のように「女の子」として今日や明日を過さなくてはいけないことは、自分にとっては、すごく苦しいことでした。こんなの、自分の人生じゃないと、どこかではっきり思っていました。

当時の自分といえば・・・

毎日、朝おきて、制服のスカートを履いて登校するのが、すごく嫌でした。自分は女の子ではないと思っているのに、女装をさせられているだから、ものすごくブラックな気持ちになります。鏡を見るのも嫌。電車で通学するときに、窓をみると自分の姿がうつっていますから、それも観ないようにします。

こんどは学校につくと、女子校なので、クラスメイトは女の子ばっかりです。大切な友達であることに変わりはないけれど、自分は女の子ではないのに、こんな場所にいていいんだろうか。ここは、本当は自分がいてはいけない場所なんじゃないか。友達と冗談を言っているときも、どこかで、俺はここにいてはいけないんじゃないかと思っていました。

これは、結構つらい毎日でした。それに、自分の女の子の身体が嫌いだったので、早く大人になったらお金をためて、胸をとる手術をうけようと考えていました。このことも、誰にも話さないで、密かに決意していました。

大切なともだち。大切な毎日。なのに、どこか自分を偽っている気がする。本当の自分じゃない気がする。楽しいはずなのに、どこか苦しい。自分は、本当に笑えているんだろうか??
そんななかで、だんだん「本当の自分なんていらないんじゃないか」と思いはじめました。

「本当の自分」なんてものがあるから、周りのひとを困らせちゃうんだ。
「本当の自分」なんてものがあるから、こんなに苦しいんだ。


自分が女の子の気持ちで生きていけたらよかったのに。
あるいは、自分は男の子の体に生まれたらよかった。

こんな、ややこしい自分に生まれてくるんじゃなかったって思ったんですね。

今日の聖書箇所で、目が手に向かって「お前は要らない」とはいえない、というお話がありました。自分は、女の子みたいな胸が嫌だったので、いつも胸にむかって「お前は要らない」と思っていましたし、自分がややこしい性別を持っていることについても、「お前は要らない」と思っていました。こんなもの、なかったほうがよかった。こころのどこかで、そうおもっていたのです。

●誰にでも秘密がある

つまり、私は、自分が熱心な野球ファンである「変」については、みんなにオープンにすることは出来た。野球ファンである自分は好きでした。
でも、ややこしい性別をもったという「変」については、どう向き合っていいかわからなかったし、そんな自分は認められなかったんですね。

だけど。
今日のお話は、ここが大切なお話です。


「そんな自分は認められない」っていうような、「変」。
これは、すごく大事なもの、その人に与えられた、素晴らしい贈り物なんじゃないかと、今の自分は思うんです。


「こんな自分は認められない」って思うくらい、ややこしい、できればなかったものにしたい、自分の一部分。自分ではどうしようもできないこと。そのことが、ほんとうは、とっても大事な部分なんだ、ということ。

最初に自分がカミングアウトしたのは、修学旅行の夜でした。
その後も、高校を卒業するまでに、大体20人くらいに話したでしょうか。
どうしても、自分のことを誰かに話したくて、そうじゃないと、生きていけないような気がして、自分としては、本当に命がけでした。

そのころには、自分のことを話すだなんて、格好悪いと思いました。
わかってもらう側、というのは、なんとも居心地が悪いものです。
だけど、そのうち、思いがけない変化が訪れました。
自分のことを話した友人たちから、「逆にカミングアウト」されるようになったのです。

「実は私、本当は先生が好きなんだ」という子もいれば、
「あたしは女の子が好きかもしれない」という子も、
家庭の事情を打ち明けてくれる子もいました。

「このひとなら、自分のことを話せるかもしれない」って、そう思ってもらえたんですね。

あるとき、卒業してから友人に言われました。

「えんちゃんのことを、大学の友達に話したら、その子から“今まで誰にもいえなかった秘密”を教えてくれた。えんちゃんの話は、すごい力があるんだよ」

そのときに、はじめて気がついたんです。
自分がややこしい性別で生まれたことや、そのことを誰かに話すことは、決して困ったことだけではなかったんだ。どうしたいいかわからない「この自分」。でも「この自分」じゃなかったら、知ることができなかったことが、本当にたくさんあったんだということ。

外から見たらわからなくても、実は友達も「ひとにいえない悩み」を抱えていたのだということに、気がついたのです。

むしろ、ひとと違うこと、変であること、自分でもどう付き合っていいかわからないくらいの「本当の自分」――そういうものでこそ、本当に誰かの役に立てることなのかもしれないって。

自分のすべて、何もかもを、友達に伝えることは、たぶんできないんだと思います。
いいたくてもいえないこと、いいたくないこともあるかもしれない。
だけど、いえなかったとしても、それも含めて、無駄なこと、いらないことっていうのは、ないんじゃないのかな、と自分は思います。

だから、最初に手をあげていただいた皆さんも、そうでない皆さんも、

「これはひとにはいえない」

と思うようなことがあるのかもしれない。
だけど、そういうものも、決して無駄ではないんじゃないか、と自分は思います。ぜひ、みんな、それぞれの人生を、エンジョイしていただけたらと思います。

今日はどうもありがとうございました!