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2014年04月

鎮魂の鐘「1万8524回」

東日本大震災発生から3年。

津波で多くの民家が流された

宮城県石巻市中浦の住宅街にある

普誓寺(ふせいじ)では

11日午前6時過ぎから、

「カーン、カーン」

と鎮魂の祈りを込めた

鐘の音が響いた。

夕暮れまでに、

今年1月現在で把握された

地震や津波による

死者・行方不明者数と同じ

1万8524回

打ち鳴らす。

寺は津波で全壊し、

法要の際に使っていたお堂の半鐘も流され、

約1カ月半後に

300メートル陸側のがれきの中から見つかった。

この日、

パイプ組みの仮の台につるされ、

朝焼けに照らされた半鐘に、

僧侶と近所の建設会社員らが

交代で木づちを振るった。

寺の檀家(だんか)で

同社会長だった

山内瀧子さん(当時71歳)も津波の犠牲に。

山内さんの高校時代からの親友でもある

社員の斉藤春子さん(73)は

「ねえ、聞こえているかな。

ずっと一緒だった

あなたが居なくなってさみしいけど、

頑張って生きているよ」

と心で語りかけ、

鐘の音を響かせた。



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夫の面影探し入り江に

「どこで泳いでんだかね。海の底かな」。

東日本大震災発生から3年を迎えた11日朝、

岩手県釜石市両石町の入り江を訪れた

冨沢静子さん(70)は言った。

3年前、夫寅喜(とらき)さん(当時75歳)を奪った

海は穏やかだった。

冨沢さんは折に触れ、

行方不明の寅喜さんの面影を探し、

入り江に足を運んできた。

内陸にある同県遠野市の仮設住宅で

一昨年秋から1人で暮らす。

仏壇の写真のほほ笑む

寅喜さんに日々語りかけてきた。

最近始めた川柳にも思いがあふれる。

生きること/喜びくれた/亡き夫

入り江のそばで酒店を営んでいた。

1933(昭和8)年の津波の後、

高台に移転した木造2階建て。

自宅を兼ねていた。

授かった1男3女は一人前になった。

「人生に悔いはないけど、

明日は何が起きるかわかんねえからね。

楽しもうよ」。

寅喜さんに前立腺がんが見つかった後、

夫婦でそんな言葉を交わしたのは

東日本大震災の数日前だった。

入り江には20メートルを超す大津波が押し寄せた。

「上さ、上がっとけ」。

強い揺れの後、

寅喜さんから声をかけられ、

1人で裏山に登った。

夫の言葉を聞いたのは、

それが最後になった。

結婚して45年。

夫婦で営んできた店もなくなった。

後で集落約260世帯の大半が

津波に消えてしまったことを知った。

教訓を整理しようと作った句もある。

我思う/波を軽くみ/逃げ遅れ

今でも夢にうなされ、

寅喜さんの名前を叫んで

目を覚ます夜がある。

だが、客商売で培った明るさは失わない。

「頑張れているのも頑固者だった夫のおかげ」

三陸の春は、

ワカメが教えてくれる。

震災前、

酒店の仕事の合間にワカメ漁をするのが

楽しみだった。

小さな船を操り、

夫婦で協力して収穫した。

「二人で一人前だな」

と声をかけあって。

震災から3年の朝、

自宅の跡地や海に花を手向けて

手を合わせた

冨沢さんは光る海を指さした。

「あの辺りでワカメをとったんですよ」。

しばらく、まぶしそうに見つめた。



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また会いに来るよ

枯れた雑草の地平線に

打ち上げられた

船やがれきの山が見える。

津波で甚大な被害を受けた

福島県浪江町請戸地区。

復興の足音を冷たい海風が、

かき消していく。

地区から東西に流れる請戸川は

東北最大規模のサケのヤナ場があり、

福島に秋の訪れを知らせてきた。

福島第1原発事故により、

立ち入り禁止の警戒区域(20キロ圏内)に入り、

区域再編後は、

「避難指示解除準備区域」とされた。

今も自由な通行はできない。

地区の一角には、

慰霊碑が設けられ、

花や飲み物が手向けられている。

一時帰宅した町民らが手を合わせ、

津波の犠牲者の冥福を祈る。

「また会いに来るよ」



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自宅跡にヒマワリ 家族失った自衛官

東日本大震災は11日、発生から3年を迎えた。

家族4人と暮らしていた

宮城県名取市閖上(ゆりあげ)の自宅跡で

手を合わせ、職場に向かう。

東日本大震災の津波で

4人全員を失った宮城県柴田町の自衛官、

佐々木清和さん(47)の朝の日課だ。

きっかけは

「家族がここで生きていたことを知ってもらいたい」

と昨年植えたヒマワリの世話。

独りぼっちの生活に、楽しみが一つできた。

震災当時は、陸上自衛隊船岡駐屯地(柴田町)に所属。

人命救助やがれき処理を行う自衛隊員の後方支援のため、

車両整備を指示する任務に追われた。

名取市が津波に襲われたことは報道で知った。

市の遺体安置所で

長女の和海(かずみ)さん(当時14歳)の遺体と

対面したのは震災から10日ほど後だった。

翌日、同じ安置所で妻りつ子さん(同42歳)、

その3日後に

義父の石垣利一さん(同76歳)、

義母かつよさん(同68歳)の遺体を見つけた。

「何で逃げなかったのか……」。

悔しさが募った。

だが、時間がたつにつれ

「戻ってきてくれて、ありがとう」

と思うようになった。

勤務中は

「部下に落ち込んでいる姿を見せられない」

と、家族のことは考えないようにした。

それでもクリスマスの時期が近づくとつらい。

毎年買っていた大きなホールケーキを見て、

「独りだな」

と実感する。

2012年春、

阪神大震災(1995年)の復興のシンボルとして

各地で植えられている

「はるかのひまわり」

を知った。

阪神大震災で犠牲になった

加藤はるかさん(当時11歳)

和海さん

の姿が

重なった。

ヒマワリの種を譲り受け

翌13年春、

自宅跡に植えた。

水や肥料をまき、

草をむしらなければならない。

自然と一家が暮らした場所に通うようになった。

昨年夏、50本が見事に咲いた。

冬になっても、

勤務がある平日は自宅跡へ足が向く。

かつて神棚があった場所に

向かって手を合わせ

「おはよう。寒いね」

などと声を掛ける。

和海さんが通っていた

閖上中学校の保護者らと建てた慰霊碑も訪れ、

職場に向かう。

11日も、福島への出張帰りに立ち寄った。

自宅跡は運河に面している。

堤防のかさ上げ工事があるため

実現できるかどうか分からないが、

今年の夏に100本のヒマワリを咲かせることが新しい目標だ。

「たくさん咲いたら、天国の家族が見つけやすいからね」



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ここで起きていないかもしれない でも起きていないわけではない

国際NGO「セーブ・ザ・チルドレン」

いまだ内戦の続くシリアで生きる子どもたちへの支援を呼びかける

ビデオ映像「Most Shocking Second a Day」

http://www.youtube.com/watch?v=RBQ-IoHfimQ



「JUST BECAUSE IT ISN'T HAPPENING HERE

 DOESN'T MEAN IT ISN'T HAPPENING」


〜「ここで起きていないかもしれない

  でも起きていないわけではない」〜




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3年経てやっと 3姉妹両親捜索 浪江遺族会

東京電力福島第1原発事故で

全町避難が続く福島県浪江町の沿岸で11日、

遺族会が初めて参加し行方不明者を捜索した。

同町は最大で高さ15・5メートルの津波が襲い、

149人が死亡し、

33人が行方不明となった。

3姉妹の長女で東京から来た

浮渡(うきと)幸江さん(31)は

「早くお墓に入れてあげたい」と、

妹2人と手分けして両親を捜した。

父の鈴木文雄さん(当時64歳)と

母十四代(としよ)さん(同61歳)は、

もう一人の兄弟・清孝さん(同24歳)と

共に家ごと津波にのまれた。

清孝さんは1カ月後に遺体が見つかったが、

両親は行方が分かっていない。

いつも静かに見守ってくれた父と厳しい母だった。

仙台市の介護施設で准看護師として勤める

次女の本居(もとい)春江さん(29)は、

仕事を辞めようと思ったとき、

十四代さんに

「自分で選んだ道だから、つらくても頑張れ」

と言われた言葉を今も励みにしている。

福島県伊達市に避難している

三女の美保さん(25)は

勤務先の同県南相馬市で震災に遭い、

自宅の近くまで戻ったところで警察官に

「(津波で家が)もうない」

と制止されたときの悔しさを忘れない。

自宅は原発から約5キロ。

警戒区域に指定され、

昨年4月の避難区域再編まで立ち入りが制限され

3人は捜索を辛抱していたという。

この日、約1時間の捜索で手がかりは見つからなかった。

幸江さんは

「3年たってから捜すのはやっぱり難しい。

でも、両親が見つからない限り節目はない。

また来ます」

と誓い、海を見つめていた。



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あなた思い、ともに歩む

笛の音、聞こえるか 娘が好きだった調べ

あの日と同じ冷たい風が吹いていた。

東日本大震災から3年がたった11日、

岩手県釜石市鵜住居(うのすまい)町の会社員、

岩鼻金男(かねお)さん(49)は、

津波で流された自宅近くの寺にある娘と母の墓前で、

静かに目を閉じた。

「生涯吹き続ける」。

そう誓う娘との思い出の笛を、

粉雪が舞う空に響かせた。

震災直後、同県内は幹線道路が寸断され、

岩鼻さんが単身赴任先の盛岡市から自宅へ戻ったのは

2日後の2011年3月13日だった。

父と妻は無事だったが、

一人娘で高校1年の美沙紀さん(当時16歳)と

母八重子さん(同71歳)の姿がなかった。

約1週間後、安置所で再会した娘は、

左手首に自分が贈った白のブレスレットをはめていた。

まもなく母の遺体も見つかった。

娘はお父さん子だった。

中学まで服は父が選んだものを着ていた。

岩鼻さんの携帯電話には、

娘から送られたメールが大事に保存されている。

「家族のために一生懸命に働いてくれるお父さンが大好き」

父と娘を結ぶものがあった。

釜石に江戸時代から伝わるとされる

「虎舞(とらまい)」の笛。

虎の扮装(ふんそう)をした

勇壮な舞に合わせて吹く軽快な笛だ。

岩鼻さんは20代で地元青年会に入ってから約20年間、

この郷土芸能を守ってきた。

美沙紀さんは、父の笛の音を聴いて育った。

「今日お父さん気持ち乗ってないね」

「あ、今間違えたでしょ」。

耳が良く、時々びっくりする指摘をされた。

秋祭りでは、二手に分かれてまちを練り歩く。

学校から戻ると、美沙紀さんは真っすぐ父のいる行列へ向かった。

「お父さんの笛は遠くからでもすぐ分かるよ」。

笑顔で父について歩いた。

津波で鵜住居の自宅に置いていた

虎舞の道具も全て流された。

だが4月、盛岡のアパートで1本だけ残っていた笛を見つけた。

「また吹いて」

と娘にせがまれた気がした。

遺品を捜し歩いて

避難所に寝泊まりしていた頃、

お骨は親戚の家に預けていた。

ある夜、お骨を拝んで親戚の家をあとにした時、ふと思った。

「みっこ(美沙紀さん)に笛を聴かせてやりたい」。

いつもかばんに持ち歩いていた

笛を車の中で取り出した。

周囲は暗闇に包まれていた。

娘に届いてほしいと願いながら吹いた。

涙があふれ出た。

虎舞の演目全てを30分ほどで奏でた。

その時ほど、つらい思いで吹いた笛はなかった。

しかしその後、避難所でこっそり吹いていると、

不思議な感覚を覚えるようになった。

「みっこがそばにいる」

被災者らが

「聴かせてほしい」

と寄ってきた。

愛する人を失った人たちの心を笛の音が慰めた。

月命日には墓前で、

1カ月の出来事を胸の中で

報告しながら吹くようになった。

「一番心が落ち着く時間」

を見つけられた。

11年の秋以降は、各地の仮設住宅を回った。

家族の遺影を抱え、泣きながら聴いてくれる人もいた。

県外の被災者支援団体から公演も依頼された。

軽快な祭りばやしの笛は、鎮魂の笛となった。

今年1月17日、

初めて阪神大震災の被災地・神戸市を訪れた。

追悼行事が開かれた同市中央区の東遊園地で、

一人で目立たないよう吹いた。

被災後真っ先に救援してくれた

神戸の人への恩返しと、

同じように震災で亡くなった

犠牲者の供養をしたかった。

震災3年のこの日、

墓前で吹いた笛は、

物悲しい低音から入り、

やがて優しい高音を響かせた。

吹き終わると目頭を拭い、

墓に手を合わせた。

傷痕は今も心に深く残る。

3年を節目だとは考えていない。

「みっこのため、犠牲になった多くの人のため、笛を吹き続ける」



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津波で妻と長男失った宮城・石巻の漁師 「頑張り足りぬのか」

妻と長男の夢を見て

泣きながら目覚めることが多くなった。

昨年末からだ。

宮城県石巻市・牡鹿(おしか)半島の小渕浜の漁師、

木村美輝(よしてる)さん(44)は、

東日本大震災の津波で亡くした

2人の大きさをかみしめている。漁

業の再開にこぎつけたのに、

漁獲物が震災前のようには売れない。

働き者で明るい妻と長男がいれば、

どんなに心強いだろう。

「今になって、震災が自分の身に起きていると実感させられた」

養殖ワカメの収穫期、

小渕浜の小さな漁港は活気づく。

とれたての生ワカメ1・6トンを塩ゆですると、

次々と茶色から鮮やかな緑色に変わる。

今月4日朝、湯気に包まれた木村さんは、

カメラ片手の私を見つけると笑顔で手を振った。

今季初めての収穫だという。

「やっぱ気持ちが高ぶるね」。

高校卒業を間近に控えた

次男の友哉さん(18)も

懸命に手伝っていた。

しかし、そこに2人の姿はない。

3年前の3月11日、

妻弘美さん(当時40歳)と

長男将也さん(同16歳)は

車で帰宅中、

自宅の北西17キロの国道で大渋滞にはまり、

津波に襲われた。

木村さんは約500メートル沖の船上で

カキ養殖の作業をしていた。

引き返そうとしたが、漁港は水没した。

接岸できたのは2日後だった。

漁具を置く倉庫に身を寄せていた木村さんに

私が会ったのは震災2週間後だった。

水道・電気・ガスは通じていなかったものの、

無事だった長女美穂さん(12)と

次女汐里(しおり)さん(10)を元気付けようと、

笑顔を絶やさない姿が印象的だった。

昼は漁師仲間と浜辺のがれきの撤去に励み、

夜は幼い娘2人のために

ドラム缶にためた雨水で風呂を沸かす。

無我夢中だった当時を

「自分の身に起きたこととは思えなくて、

どこか夢の中にいるようだった」

と木村さんは振り返る。

半年後、仮設住宅に移り、

漁再開のため奔走した。

国や石巻市の補助を受け、

津波で失った船や漁具を再び買いそろえ、

作業場をととのえた。

これで生活が再建できると一息ついた途端に、

震災前とは異なる現実に気づかされた。

来年以降は年約500万円のローンがのしかかる。

東京電力福島第1原発事故の風評被害などで

魚価は下がり続け、

10キロ当たり1万2000円だった

カキは震災後3割ほど値を下げた。

ワカメ相場も低迷している。

そして、何より、子育てや作業を分担してくれた

弘美さんと将也さんがいない。

「まだ頑張り足りないのかな」。

苦笑いして軽トラックに乗り込む木村さんに

「そんなことはないですよ」

と声をかけようとしたが、

うまく言葉が出なかった。



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お父さん、私は大丈夫だよ

東京電力福島第1原発事故で避難を強いられ、

津波で行方不明となった父を捜せなかった。

すぐそばにいて、生きているかもしれないのに。

政府主催追悼式で、

福島県の遺族代表として登壇した

双葉町出身の田中友香理さん(27)は

こう振り返った。

<あの悔しさは今でも忘れられません>

父利克さん(当時54歳)は

自宅から3・5キロの第1原発で警備をしていた。

一人娘の自分を可愛がり

学生時代も仙台市内のアパートに

毎月顔を見に来た。

あの日は朝、

父と

「来週は車の点検に行こう」

と約束し、出勤した。

非番で自宅にいた父は逃げる途中、

津波にのまれた。

翌朝、勤務先で難を逃れた母(54)と自宅を目指したが、

避難指示で町を離れざるを得なかった。

隣町へ。

さらに県外へ。

「この手で父を捜したい。会いたい」。

そんな思いとは逆に、

父からどんどん遠ざかっていく。

夜、声を押し殺して泣いた。

父との対面は震災から約40日後。

流された自宅の屋根の下で見つかった。

母と最後に捜した所から100メートルしか離れていなかった。

<見つけてあげられなかった……ただただ胸が締め付けられる思いです>

昨年からいわき市内に落ち着き、葬祭場で働く。

震災前と同じ仕事だ。

「きれいな姿でお父さんを送ってあげられなかった」。

そんな後悔から、

遺族が再び歩き出す

「区切り」

を手伝う今の仕事に、

前にもまして気持ちがこもる。

双葉町には、もう戻らない。

11日、壇上で涙をこらえた。

今も悔しい。

「自分たちで見つけ、

お葬式をあげられていたら、

もう少し気持ちも違ったかもしれない」。

でも、くよくよするのはやめよう。

そう心に決めた。

式でこう結んだ。

<3年たった今でも、

あの震災は残された者にとって悲しく、

つらいものですが、

一生忘れてはならず、

向き合っていかなければなりません>

私は大丈夫だよ、安心してねという、

天国の父へのメッセージだ。



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心の支え「空、頼む」 バッテリー組んだ友亡くした13歳

自立誓う、見ていてくれ

野球のバッテリーは特別な存在だ。

中学生になったんだから、

もう頼らないと決めたけれど、

ここぞという時、

その名を心で叫ぶ。

「空(そら)、俺は頑張ってるぞ」。

宮城県石巻市の石巻中1年、

沢田佑(たすけ)君(13)は、

小学4年の時に白球を受けてくれた

同級生の捕手、松川空君(当時10歳)を

東日本大震災の津波で失った。

遺影は野球バッグの中にいつもある。

「イチ、ニ、イチ、ニ」。

今月8日、強風が吹き付ける石巻商業高校グラウンド。

中学生硬式野球チーム「石巻中央リトルシニア」の練習に、

沢田君の姿があった。

グラウンドが震災がれきの置き場になったため、

空いているグラウンドを転々としながら、

内野手としてボールを追う。

震災前は投手だった。

同市の少年野球団「釜小ヤンキース」(釜ヤン)に所属し、

松川君と誓い合った。

「6年生の時にレギュラーになって県大会で優勝しよう」。

その夢を津波に奪われた。

松川君を含む部員3人が犠牲に。

全員が被災しグラウンドも浸水した。

釜ヤンが練習を再開して間もない2011年6月、

私は初めて練習を見た。

練習場所の学校は、

グラウンドの隅にヘドロが残り、

多目的室には避難者もいる。

「お前らもっと声出せ」。

監督が一喝しても、

小さな声しか返ってこなかった。

沢田君にも、どの子にも笑顔はなかった。

指導者と保護者、

子どもたちが一体となって野球に打ち込もうとする姿にひかれ、

私は度々、釜ヤンの練習や試合をのぞくようになった。

試合中のベンチには松川君のユニホーム姿の遺影が立てかけられ、

チームを見守っていた。

3カ月後には、キャッチボールなどで出る声が大きく響くようになった。

練習の合間に冗談を言い合う姿に、ホッとした。

    ◇

中学に進んだ沢田君は

「空の力を借りるんじゃなくて、自分の力でやりたい」

と思うようになった。

釜ヤンの卒団を機に、

両親から

「空と野球をするのは終わりね。自分でしたい野球をしなさい」

と言われたのがきっかけだ。

もっとうまくなりたいと、

全国大会出場経験がある強豪のリトルシニアに入った。

「みんな個性的で楽しい」。

でも今も、松川君は特別だ。

「空、頼む」。

1点差のゲームやピンチの時に、

沢田君は松川君に祈る。

すると、好機にヒットを打てる時がある。

あの日から丸3年となった11日、

松川君の自宅で遺影に向かった沢田君は

心の中でこう語りかけた。

「これからも野球をやっていく。見ていてくれよ」



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