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2015年07月

「負けんな」励ます黒板、戻らぬ児童

請戸小001









「3月11日(金)」と書かれた

日付の下に日直の児童の名前、

年度末だったから

「1年間のまとめをしよう」

という学級の目標……。

教室の黒板に板書していた

子どもたちの姿が、

まぶたに浮かぶ。

息づかいまで聞こえてきそうだ。

しかし、ここには、誰もいない。

海からの風の音以外、

何も聞こえない。

福島県浪江町立請戸小学校。

東日本大震災から4年を前に、再び、来てみた。

午後3時35分すぎ。

津波が襲った時刻で止まったままの時計。

静寂と荒涼……。

ここは、あの日、

あの時のまま、の場所なのだ。

理科室の実験道具も、

音楽室のグランドピアノも、

壁に張られたモーツァルトやベートーベンやショパンの肖像画も、

あの日のまま。

「津波が来る。大平山に向かって逃げるぞ。

頑張って歩くんだぞ」。

あのとき、校内に残っていた児童81人は、

機敏な判断をした教職員13人に引率され、

近くの高台に逃れ、

全員無事だった。

1人の犠牲者も出さずに。

2階の教室の破れた窓からは、

爆発事故を起こした

東京電力福島第一原発の排気筒が見える。

廃炉作業のクレーンも見える。

空間放射線量は、

記者が暮らす南相馬市内と変わらないが、

子どもたちが再び、

この学舎(まなびや)に戻って勉強することは

もはや、ないだろう。

「請戸小だいすき」

「絶対に帰るよ」

「全て流されても、私たちの請戸は生きている」

「負けんな請戸」

「頑張れ!請戸魂!」。

こんなメッセージを書き残した

在校生や卒業生は、

今は避難先の福島市やいわき市など

県内各地、全国各地に

散り散りになっている。

でも、彼ら彼女らの魂は、

やっぱりここに帰って来るのだろう。

後ろで風の音がした。



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津波のこと、ちゃんと伝えていく

東日本大震災から1年11カ月を迎えた11日、

岩手県陸前高田市では、

解体作業が進む旧市庁舎前にあった

自宅跡地で花を手向ける

米沢祐一さんと娘の多恵ちゃんら一家の姿があった。

祐一さんは

「小さい子はまだわからないでしょうから、

一緒に連れてきて自分たちが

ちゃんと津波のことを伝えていきたい」

と話す。

100メートルほど離れた場所で

経営していた包装資材業の「米沢商店」屋上には、

高さ約14メートルの屋上まで

津波にのみ込まれたことを示す看板を設置した。

屋上の煙突に上るたびに、

当時の恐怖がよみがえるという米沢さん
 
被災した建物が撤去され、

一面に空き地が広がる岩手県陸前高田市の中心部に、

今も3階建てのビルが残っている。

菓子材料・梱包(こんぽう)材卸「米沢商会」。

所有者の米沢祐一さん(47)は

あの日、

屋上の煙突にしがみつき、

押し寄せる津波に耐えた。

その体験を伝えたくて、

訪れた人たちを案内している。

周辺は市の復興計画でかさ上げされる予定だが

「遺構として残したい」。
 
「ここへ来るのは、本当は怖いんです」。

米沢さんは高さ約14メートルの煙突の上から

街を見渡し、声を震わせる。

それでも津波の恐ろしさを肌で感じてもらうため、

はしごを上るよう促す。

「こんなところまで……」。

穏やかな海を見つめ、

誰もが言葉を失う。
 
3月11日。

激しい揺れの後、

店にいた米沢さんの父節祐(ときすけ)さん(当時74歳)と

母静枝さん(同70歳)、

弟忍さん(同38歳)は

すぐ裏の市民会館に避難。

米沢さんだけは店の様子を見ようとビルに戻り、

2階へ向かう階段の踊り場で津波に気づいた。
 
3階へ走ると、

水面は2階まで達していた。

屋上へ駆け上がった米沢さんは必死ではしごをつたい、

小さな煙突の突端まで上り切った。

間一髪。見渡せば、

周囲は真っ黒な海だった。

見えたのはスーパーの屋上看板と、

市役所の4階だけ。

1次避難所に指定されていた

市民会館や市民体育館も見えなかった。
 
「あの時、3人はもうだめだと覚悟しました」。

足元まで水につかりながら、

ひたすら波が引くのを待った。

やはり3人は遺体で見つかった。
 
仮設店舗で商売を再開したのは5月。

2カ月後、

市にビルの撤去について意向を問われた。

「撤去費用は数百万円。今なら国の補助で壊せる」。

ビルは13年前、

家業を継いだ際に

「事業を拡大しよう」と

節祐さんと購入した。

今もしっかりと形をとどめる。

悩んだ米沢さんを決断させたのは妻の一言だった。

「一度壊してしまったら、いくらお金があっても取り戻せないよ」
 
被災した建物について市は、

海沿いに整備するメモリアル公園内に一部を残すが、

中心部はかさ上げして住宅街を整備する方針。

だが、米沢さんは言う。

「街の真ん中に残して、

みんなに見てもらうべきじゃないか。

そうじゃなきゃ、

犠牲になった人たちに申し訳ない」



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津波で娘亡くした教諭、被災地支援NPOへ転身

東日本大震災で被災した宮城県女川(おながわ)町などの

中学で教諭をしてきた佐藤敏郎さん(51)が、

今月いっぱいで退職する。

生徒と共に津波の教訓を伝える活動を続けるとともに、

小学生だった娘を亡くした遺族として

学校のあり方を問い続けてきた。

4月からは被災地支援のNPO(非営利組織)に所属し、

「専門家と学校をつなぐ役割を果たしたい」

と防災教育を支えていく。

震災の日、女川町立女川一中(現女川中)教諭として、

生徒を高台に避難させた。

隣接する石巻市の市立大川小6年だった

次女みずほさんは2日後、

校舎近くで遺体で見つかった。

津波被害を受けた大川小では、児童74人が犠牲になった。

教壇に立ち続けた佐藤さんに力をくれたのは教え子だった。

<みあげればがれきの上にこいのぼり>

<夢だけは壊せなかった大震災>

授業で取り入れた俳句に、

生徒たちは悲しみや希望を詠んだ。

生徒たちは佐藤さんらの指導を受けながら、

津波の最高到達点に石碑を建てる「いのちの石碑」づくりを始めた。

「震災と向き合うことは未来に向かう力になる」。

佐藤さんが昨年4月から勤める東松島市立矢本二中でも、

生徒が被災体験を語れるよう寄り添った。

大川小の遺族としては

「学校管理下で多くの児童の命が失われた

事実から目をそらしてはいけない」と、

組織の問題点を問うてきた。

全国の学校に出向いて

「子どもの命を真ん中に考えて」

と訴えてきた。

今月、仙台市であった国連防災世界会議でも、

悲劇を繰り返さないよう呼びかけた。

震災から4年で出会った研究者との人脈を生かして

講演や教育現場の支援をしたいと退職を決意、

NPO「キッズナウジャパン」(仙台市)での活動を選んだ。

今月3日の最後の授業。

3年生に向け

「君たちはこれから、迷いながらも自分で道を選ばないといけない」

と背中を押した。

佐藤さんは

「失われた命の意味を問い続けていくことで、

未来へ届く言葉を伝え続けたい」

と語る



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パパを奪った津波 「ママ似だね」にのみ込んだ言葉

震災は子どもから多くのお父さん、お母さんを奪った。

幼い心は、悲しみとどう向き合い、成長するのだろう。

仙台市の奈緒さん(40)は

2011年5月8日、初めての子を産んだ。

2960グラムの安産だった。

父親になるはずだった政光さん(当時34)は、

女の子なら「かのん」がいいと言った。

奈緒さんは「ん」で終わるような、はやりの名前は嫌だった。

どうしてもと言うなら「かの」に、と話し合っていた。

結局、夫が残した名前にした。

漢字は「椛音」。

大きくなるにつれ、「お母さん似だね」とよく言われる。

「本当は旦那さんに似ているんだけどな」と、奈緒さんは思う。

2歳の時。

夜、寝床で天井を見ていた椛音ちゃんが

突然、「パパがいる」と言った。

奈緒さんに実感はないけれど、見ていてくれるんだ、

とうれしかった。

椛音ちゃんは時々そう言うようになった。

朝、仏壇にご飯を持ってゆくのは、椛音ちゃんの仕事。

鈴(りん)をチンチンと強くたたくのが気にいっている。

写真の人がパパという存在だということは、知っている。

絵本を広げ「パパはトラック運転手だったんだよ」と言い聞かせた。

「つなみで死んじゃったんだ」と教えたこともある。

でも、どれくらいわかっているんだろう。

3歳の夏。親戚のおばあちゃんの葬式で、椛音ちゃんが涙ぐんだ。

「悲しい」って思うんだろうか。

その頃だ。いつものように寝かしつけていて、

椛音ちゃんが「パパは死んだの?」と言ったかと思うと、

わーっと泣き出した。

不意打ちだった。

あわてて「ちゃんと見ててくれてるよ」となだめた。

4年が過ぎた3月。

テレビがまた津波の映像を繰り返した。

「パパは津波で……」と言うのを、ためらうようになった。

     ◇

今年4月。椛音ちゃんは幼稚園の年少組になった。

プリキュア好きの、丈夫な子。

夜、「パパがいるよ」という回数は減った。

奈緒さんは春から週3日、花屋でパート勤務を始めた。

仏壇の花を買いに通っていた店から、声をかけられた。

「旦那さんがそろそろ働け、と言ってるのかな」

最近、政光さんがいないのを実感することが増えたという。

たとえば自転車に乗っているときに、ふと。

それまでは椛音ちゃんのことで、精いっぱいだった。

「悲しむことを、ずっと避けてきたのかもしれない」

5月半ば。

幼稚園でほかのママたちと話をしていて、たまたま震災の日の話になった。

あの時はこうだったねと、会話が続く。

奈緒さんはそっと廊下に出て、思い切り泣いた。

     ◇

4年前の3月11日。

アパートは崩れるかと思うほど揺れた。

近くの公園に、大きなおなかを抱えて逃げた。

30分ほどすると、政光さんがトラックで乗りつけ、

冷えちゃいけないからと毛布を渡してくれた。

海から1キロほどの職場に自家用車があった。

「トラックを置いてくる」と言って政光さんは走り去った。

「じゃあ、後で」。

それきりになった。

娘は4歳になった。

いつか、尋ねられたら――。

パパの最後のことを、ちゃんと話して聞かせよう、

と思っている。



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2年遅れの結婚式 会場に父の遺影

宮城県石巻市の看護師、伊藤真弓さん(39)が25日、

約2年前に結婚した夫隆文さん(37)と結婚式を挙げた。

東日本大震災で父親と祖母を亡くし、

「お父さんとバージンロードを歩けないなら」と一度は諦めた挙式。

東松島市のビジネスホテル「バリュー・ザ・ホテル矢本」などの企画で実現し、

家族やスタッフから大きな拍手を受けた。

【二度目のプロポーズ】

津波で死んだ妻子胸に純白のドレスに白いブーケ。

真弓さんは母の細谷富美子さん(67)と並び、

10メートルほどのバージンロードをゆっくりと歩いた。

隣の披露宴会場のテーブルには、父忠一さん(当時63歳)の遺影。

「お父さんも一緒に歩いてくれている」。

夫隆文さんに近づきながら、はっきりそう感じた。

2011年3月11日、勤め先の多賀城市の大学保健室で大地震に遭った。

石巻の沿岸部で働く忠一さんには電話が通じ

「近くの立体駐車場に逃げてるよ」と聞いて安心した。

次々に避難してくる人たちの対応に追われ、

泥をかき分けて石巻に戻れたのは3日後。

だが父だけが見つからず、

再会はさらに約1週間後、遺体安置所だった。

「うそでしょ、お父さん。寝ているだけだよね」。

思わずそんな言葉が出た。

祖母も入院中の病院が被災し、亡くなった。

隆文さんと交際を始めたのは翌年だった。

電気工事業を営む隆文さんの父親が、

工事で真弓さん宅を訪れたことがあり、

忠一さんも信頼していた人だと分かった。

「会ったことがある人の家族なら安心してくれるかな」と

13年5月に婚姻届を出したが、挙式への思いは胸にしまった。

妹の結婚式でほほ笑む忠一さんの写真を見て

「お父さんと撮れないなら、式はやらないでいいや」と思った。

震災から時間がたち、前向きな気持ちも出てきた時、

主に復興工事の作業員たちが使うホテルが

「震災で挙式を諦めた夫婦と家族に、

思い出に残る式をプレゼントしたい」と

無料の結婚式を企画していることを知った。

「やっぱり父母にドレス姿を見てもらいたい」と応募した。

この日の結婚式は、企画に賛同した

京都のブライダル会社や大阪のヘアメーク専門学校生らも支援。

食堂をついたてで区切って式場を作り、

白いウレタンのシートを敷いてバージンロードにした。

「お互いかけがえのない存在になりました。

ずっと一緒にいることを誓います」。

隆文さんは両家の家族11人の前で宣誓した。

式を終えた真弓さんは

「こういう機会をいただいて本当にうれしい。

父も喜んでいると思います」と語った。



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