トップページ » 2016年03月
2016年03月

石巻・震災遺構を考える <記憶をたどる場>

鈴木典行さん(51)が大川小6年だった

次女真衣さん=当時(12)=を失い、5年がたった。

津波の脅威を今も生々しく伝える校舎の2階に足を運ぶ。

教室のロッカーと廊下の上着掛けを必ず見る。

真衣さんら児童一人一人の名前のシールが残る。

「真衣に会える気がする。

思いは変わらない。

遺族に節目はないんです」

平穏な朝だった。

2011年3月11日。

鈴木さんはいつも通りハイタッチをして学校へ送り出した。

「行ってきます」

真衣さんの「ただいま」の声は永遠に聞くことができない。

「なぜ、亡くなったわが子を抱きしめなければいけないのか」。

現実を受け入れられなかった。

校舎と体育館を結ぶ渡り廊下が津波で横倒しになっている。

体育館は原形をとどめていない。

真衣さんは4年からミニバスケットボールのチームに所属。

体育館で練習に励み、

「中学でもバスケをやりたい」

と胸を躍らせていた。

鈴木さんは指導者としてチームに関わった。

大川小は真衣さんの存在を確かめる場でもある。

子どもたちとの記憶をたどるよすがとなる校舎、

体育館を残してほしい。

学校の近くに仮設事務所を構え、管理人として常駐したい。

現地を訪れた人に津波の痕跡を見てもらい、

ここで起きた出来事、教訓を語り伝えたい。

鈴木さんの思いだ。



mametorakoomametorakoo  at 23:59コメント(0)トラックバック(0) この記事をクリップ! 

被災地で感じた「写真の力」

東日本大震災から3月11日で5年になる。

三重県出身で家族写真を中心に撮影す

る写真家の浅田政志さん(36)は、

写真洗浄ボランティアをきっかけに

東北と深く関わり始めた。

写真洗浄や街の再建に奮闘する人々の撮影を

通して初めて知った、

写真の新たな魅力があったという。

  ◇

震災の1カ月後、

青森県八戸市へボランティアに行きました。

三重県で育ってずっと東京で活動していたので、

東北の沿岸にはほとんど行ったことがなかった。

唯一の知り合いがいたのが八戸だったんです。

1カ月が経ち、だいぶ落ち着いていたので

「もっと被害が大きいところへ行った方がいい」

と言われて、

南下してたどり着いたのが岩手県野田村でした。

役場の隣にある体育館には、

衣類から暖房器具まで

全国からたくさんの支援物資が届いていました。

その中から、被災地の方の要望が

書いてあるメモに沿って、

物資を選ぶ作業を1日しました。

「次の日も来ようね」と仲間と話しながら帰るとき、

体育館横の駐車場で写真を洗う

3人の若者に出会ったんです。

午後4時を過ぎて、寒空の下、黙々と作業をしていた。

僕もお手伝いできたらと、翌日から作業に加わりました。

写真って水につかるとダメになるって思っている人が

多いようなんですが、意外と水には強い。

暗室で現像する時には何度も水をくぐらせる。

「ちょっと指紋がついちゃった」という時には

写真を洗ったりもします。

ただ、せっかく写真をきれいにしても、

持ち主に返すには工夫が必要でした。

最初は何枚か束にしてポケットアルバムに入れていたのですが、

かがんで取り出して一枚一枚見て、

というのは腰に負担だし、大変な作業。

返却率は低迷しました。

そこで、ホームセンターで安いボードを買って、

ポケットアルバムを解体したものを貼り付けて写真を一覧できるようにしたら、

ぽんぽんっと持ち主が2、3人見つかった。

「家族アルバム」「結婚式」「学校」などとジャンル分けをしたりと、

ボランティア仲間で

「どうやって持ち主のもとに返そうか」

と常に工夫しました。

■写真を通して感じた「リアリティー」

実をいうと、

ボランティアで写真を一枚一枚洗って初めて、

震災の被害にリアリティーがわいたんです。

もちろんニュースで津波の衝撃的な映像を見て、

「大変なことが起きた」とは思っていました。

でも、どうやったらきれいに写真を残せるかを考えて、

知らない家族一人一人の顔を見つめることを繰り返していたら、

「見ず知らずの人の家族写真を泥まみれになって洗うって、

普通ならあり得ないことだよな」って。

震災で奪われた一人一人の生活が

あったという事実を突きつけられました。

写真のあるべき姿についても考えました。

野田村では「お茶会」と称して、

お茶を飲みながらわいわい写真を見て、

持ち主を探すんです。

その中で偶然、

若い頃の写真が見つかったおじいちゃんがいた。

「この一枚だけだ」

と小さなL番プリントを

大事に持って帰る姿を見たら、

その一枚を大切に家に飾って、

時折見返して、

今までの人生を思ったりして…

と思いをはせていました。

美術館やギャラリーに飾られる何百万円もするような

「崇高な写真の価値」

とは違っても、

かけがえのない、

その人にとって一対一の関係にあるものが

写真の本来の姿なのだと感じました。

洗浄に関わったことで見つけた

「写真の隠れた力」

です。

不思議なことに、

いろんなボランティアの中で

特に写真洗浄をやりたいという人も多いんです。

家の中には大切なものが他にもある

たとえば本でもいい。

でも、誰に言われるわけでもなく、

各地で写真洗浄ボランティアが活動を始めた。

どこかで家族写真の大切さを感じていたのでしょう。

■写真にあふれる「力強さ」

宮城県の気仙沼市や南三陸町で、

地元の人たちを撮影する機会にも恵まれました。

特に南三陸町には、観光協会の依頼で

2013年から今年1月まで6回通いました。

復興のために努力する人から感じるのは、

圧倒的な「人間力」。

何億円もかけて建てたばかりの工場を流されて、

でも前向きに再建して何十人もいる従業員と

一緒に頑張っている社長さんもいる。

「自分だったら」って考えると、

どんなにすごいことかが分かります。

撮影した中で特に印象的だったのが、

軽トラで仮設住宅を回って

揚げ物の屋台を出している後藤一美さんです。

震災前に営んでいた海鮮料理店が津波で流されてしまって、

揚げ物というまったく違うジャンルの料理で

今は勝負している。

行列ができる人気店だったのに

、店を再建しなかったのは、

「仮設住宅では揚げ物をしにくい」

という地元の人の役に立ちたかったからだとか。

これまでの料理に自信もあっただろうに、

以前よりもうけも少ないだろうに、

夏の暑い中、

狭い軽トラの中で揚げ物をする姿に

心が動かされました。

僕にとっては家族写真が得意なように、

「自分が一番表現できるもの」

を変えることって難しい。

でも、後藤さんにとって、

それは仕事をする動機ではないんだな

と思った。

それはきっと、

誰かに喜んでもらうことだったり、

「おいしい」

って声を聞くことだったり。

そのしなやかさに、

人間としてなんて力強いのだろう

と教えられました。

震災からもう5年が経ちますが、

まだ更地が目立ち、

これから建物を建てるというところも多い。

復興は道半ばです。

一方、被災地に関する報道は年々減って、

「月日とともに震災が終わったかのように思われるのが一番つらい」

と、被災地で耳にします。

写真を撮ることって、

ある意味コミュニケーションで、

撮影の中でその人の人となりが伝わるんです。

震災で苦労されて、

でも力強く生活している人たちの魅力を、

僕の中だけにとどめておくのはもったいない。

これからも縁がある限り被災地へ撮影に行き、

様々な形でみなさんに届けていきたいです。



mametorakoomametorakoo  at 23:59コメント(0)トラックバック(0) この記事をクリップ! 

被災に火災、奇跡のカローラ復活

東日本大震災で津波にのまれた

深紅のクラシックカーが全国からの支援で復活し、

持ち主である宮城県南三陸町歌津の

工房経営・渡部わたべ正行さん(67)のもとに戻ってきた。

修理中、火災にも見舞われたが、

愛好家らが約5年かけて無償で修復した。

ナンバーは震災にちなんで「・311」。

渡部さんは

「まさかまた乗れる日が来るとは」

と感激している。

復活した往年の名車は、

トヨタ自動車の「カローラ・クーペ1400SR」。

カローラは1966年に初代が発売され、

大衆車の代名詞として一時代を築いたが、

このモデルは71年製で1年間しか販売されなかった

希少な車という。

渡部さんは23歳のとき、

コツコツためたお金で新車を購入した。

タクシー運転手の月収約8万円に対し、

約75万円という高額の買い物だったが、

「当時、赤色は斬新で誰も乗っていなかったので、

手に入れたかった」。

愛車はメンテナンスを怠らず大切に乗り続け、

北海道一周旅行にも行った。

しかし、震災の津波で自宅は全壊し、

車も約30メートル流された。

木に引っかかって大破は免れたものの、

エンジンはかからなかった。

「諦めるしかないか」。

廃車も考えたが、震災から2か月後、

がれき撤去のボランティアで訪れた

全国の愛好家たちが修理を申し出てくれた。

2014年11月には、保管中だった千葉県内の車庫が全焼。

奇跡的に車体の損傷は一部で済んだが、

用意してあった部品などが使えなくなった。

そこで、茨城県八千代町の自動車整備会社

「吉田自動車」社長の吉田久雄さん(59)が

修理を引き受け、

クラシックカー専門誌「オールド・タイマー」(八重洲出版)も

希少な部品の提供を全国に呼びかけてくれた。

12日、渡部さんが暮らす仮設住宅に

関東や東北から愛好家約30人が集まり、

引き渡し式が行われた。

吉田さんは

「みんなの思いが詰まった

『奇跡のカローラ』。

被災地の人たちが明るい気持ちになってほしかった」

と話し、

渡部さんは

「かつて走った場所を訪れてみたい」

と喜んだ。

同誌編集部によると、

「運転可能なのは現在、国内に10台もないのではないか」

という。



mametorakoomametorakoo  at 23:59コメント(0)トラックバック(0) この記事をクリップ! 

5年前のホワイトデー、いわき駅前で営業続けた洋菓子店

5年前の3月14日、

原発事故の影響で静まりかえった

福島県いわき市の駅前で1軒の洋菓子店に明かりがついていた――。

そうつづった投稿が今月11日の

朝日新聞生活面「ひととき」に掲載された(東京、名古屋本社版)。

その店は今も同じ駅前でケーキを並べ、人々の心を和ませている。

「このお菓子、売ってくれるんですか」

「もちろんです、今日はホワイトデーですから」

その日、投稿者の井坂美誉(みよ)さん(51)に笑顔で答えたのは、

JRいわき駅前にある「アンジェリーク」の伊藤志保さん(41)だ。

伊藤さんは9年間の修業を経て念願の店を地元に開いた。

それから6年後の3月11日、震災に襲われた。

店は水道管が破裂し、皿や酒瓶が割れて散乱。

3月12日には東京電力福島第一原発の1号機が爆発。

南方40キロの所にあるいわき市も一時は人通りが途絶えた。

「お店どうしようか」。

夫の亨(とおる)さんと相談した。

ホワイトデーの予約が十数件入っていたが、

電話はつながらず、家を探して訪ねても無人だった。

「もし来てくれた時に、店を閉めていたら迷惑がかかる」と考えた。

3月は卒業や門出の季節。

お祝いする気になれなくても、

少しでもお客さんの気持ちが明るくなればと思った。

夫婦2人で店を開けた。

市内は断水し、仕入れもできなかったが、電気とガスは使えた。

給水所に通いながら店にある材料で作れるケーキを焼いた。

やって来る客は1時間に1、2組ほど。

「パンはありませんか」と尋ねる人も多かった。

ケーキなんて売っていていいのかな――。

無力感が募った。

井坂さんが店を訪ねたのはそんな時だった。

ほかにも「どうしても家族のお祝いをしたくて」と言う女性客がいた。

ホールのデコレーションケーキを作ると、涙を流して受け取った。

14日、2度目の原発の爆発があった。

翌日から1週間は店を閉めた。

結局、ホワイトデーの予約客は一人も来なかったが、

数日たつと電話が入りだした。

「今は避難所でいつ帰れるか分からないけど、必ず取りに行く」

と言う人がいた。

予約客全員と連絡が取れ、焼き直した菓子を渡した。

店舗は被災の影響で使えなくなり、

県外への移転も考えたが、

震災を機に店じまいした隣の花屋の建物を借り、

その年の夏に移転した。

いわき市は原発の廃炉作業の人も集まり、少しずつ活気が戻った。

一方で福島産の食材には厳しい視線が注がれ、

「材料は福島産じゃない?」と尋ねる人もいた。

そうした声があまり聞かれなくなったのはここ1年ほどだ。

伊藤さんは毎年、

3月11日の追悼のサイレンを聞きながら

ホワイトデーの焼き菓子を作る。

今年は約30件の予約が入った。

「みんなで無事にホワイトデーを迎えたい、と祈りながら焼きました」

と話す。

井坂さんは5年前、急きょ県外に避難することになり、

買ったケーキは人にあげてしまった。

12日に店を訪れ、

「怖かったあの時、とてもお菓子が食べたくなった。

ケーキに励まされました」

と涙ぐんだ。



mametorakoomametorakoo  at 23:59コメント(0)トラックバック(0) この記事をクリップ! 

見てて ばあちゃん 地震・津波研究へ

東日本大震災から11日で5年。

大切な人を失った「あの日」。

同じ思いを繰り返したくないと、

津波や地震の研究を目指す大学生。

子どもたちに励まされ起業した父。

仮設住宅で1人暮らしの祖父は今も後悔が消えない。

大切な人への思いを胸に、それぞれの5年を迎えた。

キャンパスを冷たく澄んだ空気が包んでいた。

宮城県多賀城市出身の岩手大工学部1年、

福田栞さん(19)は

ここで津波や地震の研究をしようと決めている。

「もう誰にも同じ思いをさせないために」。

進路を選ばせたのは、

東日本大震災での祖母とのつらい別れだった。

2011年3月11日、

中学2年だった福田さんは帰宅後、

居間でテレビを見ていた。

隣の和室には祖母マシノさん(当時73歳)がいる。

普段と変わらない午後を揺れが襲った。

母がパート先から戻り小学5年の妹も帰ってきた。

家の片付けをしていると

「逃げろ」

と外で声がした。

母の車で高台を目指したが、

渋滞する道路で津波にのまれた。

家族はばらばらになり、周囲の車の上へ逃れた。

深夜になって自衛隊のボートが救助に来た。

そこにうずくまる祖母の姿もあった。

姉妹と祖母は近くのマンションの2階へ引き上げられた。

「また波が来るぞ」。

誰かの声で大勢の人が上の階へ逃げ、

福田さんも妹の手を引いて階段を上った。

このために祖母とはぐれてしまう。

水が引くまでの二晩ほどをマンションの一室で耐えた。

マンションを出て避難所で両親と再会できた。

だが、母の言葉にはっとした。

「おばあちゃんはどうしたの」。

祖母は救助されて無事だとばかり思っていた。

「私、置いて逃げてきちゃった」

祖母の遺体はあのマンションの奥の通路で見つかった。

大量の水を飲んで体温が下がった

祖母を助けようとした人がいたのだろう。

毛布にくるまれていた。

自分は気づかずに避難所へ逃れた。

葬儀の日、大好きな父の涙を見た。

「私のせいだ」

「祖母を置き去りにしたことを他人に知られたら」

と不安になった。

中学3年の時、被災をテーマに作文を書かされた。

姉妹でボートから救助された後は

<迷子になった>ことにした。

市の弁論大会に出た時も

<祖母を亡くしたけどいろんな人の支援に支えられた>

とごまかした。

ほめてくれる人もいた。

だが、自己嫌悪だけが募った。

母も避難が遅れたと自分を責めていた。

祖母の最期を家族で話すことはなかった。

福田さんに転機が訪れたのは高校1年の夏だ。

内陸に住む同級生と震災について話していた時、

何気ないひと言が胸に刺さった。

「震災どうってことなかったよね」。

県全体を見渡せば家族や家を失った人は一部だ。

「大事なことが伝わっていないんだ」

と感じた。

街に津波の高さを記す表示板を張って回る校内の防災活動に加わる。

「こういう活動をしていれば、おばあちゃんが許してくれるかな」

と思った。

被災した学生らを支援する

民間団体「ビヨンドトゥモロー」の活動にも

参加してみた。

同世代の若者に祖母との別れを打ち明けると、

一緒に泣いてくれた。

「話しても大丈夫なんだ」

3年生になり、

進路に迷っていた時、

両親から

「何が一番学びたいの」

と聞かれた。

「津波や地震のことをもっと知りたい」。

それしか浮かばなかった。

「引きずって生きることにならないか」

とためらう気持ちもあったが、

考えた末に選んだ先は、

津波や地震が専門の研究室がある岩手大(盛岡市)だった。

3年生から研究室に入り、

卒業後は公務員として災害に強いまちづくりなどに携わりたい。

「自分みたいに後悔したり、つらい思いをしたりする人を減らしたい」。

今は素直にそう思える。

乗り越えたわけではない。

優しい祖母が好きだったのに、

ふと顔を思い出せない自分に気づいて泣く日もあった。

「『5年もたって何やってるの』

と思われるかもしれない。

でも私はやっとスタートラインに立ったぐらい」

11日は多賀城で追悼式に参列する。

祖母に伝えたい。

「ごめんなさい」。

そして「元気でやってるよ」と。



mametorakoomametorakoo  at 23:59コメント(0)トラックバック(0) この記事をクリップ! 

崩れた家で見つけたカップルの写真、奇跡の出会い生む

東日本大震災で崩れた家の中に、

津波をかぶった1枚の写真があった。

肩を寄せ合う笑顔の若いカップル。

偶然見つけたボランティアの男性は、

2人の無事を願い、写真を回収した。

その翌年、写真の女性が目の前に現れた。

川谷清一さん(59)

大阪府立長野北高校の事務長だった。

震災から1カ月後、

休暇を取って東北に向かい、宮城県南三陸町に着いた。

カメラが趣味だった川谷さんは、

写真などを拾い集めて洗浄するボランティアに登録した。

町内には、津波で流された

家屋や車、船、無数のがれきが積み上がっていた。

乗ってきた自家用車の中で寝泊まりをしながら、

3日間にわたり、

持ち主が特定できそうな

写真や腕時計、表彰状などを集めた。

JR気仙沼線の清水(しず)浜(はま)駅の近くに来たときだった。

線路は崩れ落ちていた。

倒壊した家のあたりで

1枚の写真に目がとまった。

ピースサインを重ね合わせ、

ほほえむ若い2人。

津波をかぶって表面が汚れ、

少し丸まっていた。

そばに落ちていた携帯電話と並べて、

何げなく一眼レフカメラのシャッターを切った。

「生きててくれへんかな」と願いながら、

写真と携帯を回収した。

川谷さんは、その後も休日や休暇を使い、

1年間で計10回、宮城県を訪ねた。

「また来なあかんな」。

新たな出会いがもう一回、

もう一回と足を運ばせた。

もっと被災者に寄り添いたい。

そう思い、2012年4月に35年間勤めた大阪府庁を退職し、

南三陸町から西に二十キロ余りの宮城県登米市に移住した。

その年の秋、震災から1年半の間に出会った

被災者や被災地の写真約50枚を選び、

借りていた古民家の土間に掲げて展示会を開いた。

あのとき撮ったカップルの写真も壁に飾った。

初日のことだ。

古民家を訪れた女性から、

思いがけない言葉をかけられた。

「この写真に写っているの、私です」

小坂翔子さん(29)だった。

当時、南三陸町の自宅が津波で壊され、

その後、古民家から1キロも離れていない

登米市内の職場で働いていた。

同僚から、自分の写真が

展示されていると聞いて見に訪れた。

川谷さんは、一緒に写っていた男性のことが気になった。

亡くなっていたらどうしよう。

軽々しくは聞けない。

恐る恐る「隣のこの男性は」と口にした。

「彼です。いまも付き合っています」

鳥肌の立つ思いだった。

よかった。

生きていた。

それは奇跡の生還だった。

芳賀健爾さん(29)は、地元で働くため、

震災前日の3月10日に

関東地方から南三陸町に戻ってきたばかりだった。

しかし、翌日、自宅が津波で流され、

自身ものみ込まれた。

水中で必死に泳ぎ、

水面上に顔を出したところで運よく山肌にぶつかり、

助かった。

川谷さんが写真を見つけたのは、

健爾さんの自宅の近くだった。

引っ越し用の段ボール30個はすべて流され、

川谷さんが拾った写真だけが残った。

携帯も健爾さんのものだった。

2人は震災前に結婚の約束をしていた。

しかし、2人とも津波で自宅を壊された。

小坂さんの家族は無事だったが、

健爾さんの祖父はいまも行方不明だ。

結婚どころではなかった。

2013年7月、海に臨む

南三陸町のホテルで2人は結婚式を挙げた。

川谷さんも招かれた。

披露宴のスクリーンには

2人を紹介する写真が映し出され、

あの1枚もあった。

唯一残った震災前の2人の写真だ。

約1万7千人が暮らしていた

南三陸町では620人が亡くなり、

212人が行方不明のままだ(今年1月末現在)。

南三陸町ボランティアセンターでは

約15万枚の写真をデータ化して保管し、

これまでに約4万枚が持ち主に戻ったという。

健爾さんは

「まさか写真を拾ってくれた

ご本人にお会いできるとは思いもしなかった。

何かの縁。

奇跡ですよね」

と話す。

初めて会った時の川谷さんの言葉を、いまも覚えているという。

「2人とも生きててくれて、ほんまによかった」

受け取った写真は自宅の書棚に大切に飾っている。



mametorakoomametorakoo  at 23:59コメント(0)トラックバック(0) この記事をクリップ! 

善意だけでは解決しない

ボランティアなんていまでも必要なの?

まもなく東日本大震災から5年を迎える。

あのとき、ボランティアに行った、行こうとと思った人は少なくないはず。

ボランティアの数は減っているが、ニーズはまだまだ残っている。

どんな支援がよくて、どんな支援がダメなのか。

大災害とボランティア活動の教訓をまとめた

『災害支援手帖』(木楽舎)を出版した評論家の荻上チキさんに聞いた。

「神奈川から福島県南相馬小高地区に行きます。

継続して、毎月一回を家屋の片づ け、家財の搬出、草刈などの

お手伝いをさせて頂いています。

まだまだ、多くの方の力を必要としています」

(NPO法人ボランティアインフォより)

2016年3月、東日本大震災から5年を前に、

実際に募集されているボランティア情報だ。

全国社会福祉協議会の統計(社協受付以外のNPOなどは含まれていない)によると、

ボランティア数は震災直後の2011年5月を18万2400人をピークに激減し、

今年2月は2800人となっている。

一方で、ボランティアのニーズはなくなっていないことがわかる。

荻上チキさんはこう語る。

「東日本大震災からまもなく5年ですが、

まだ様々なボランティアのニーズがあります。

震災直後は多くの方が駆けつけました。

でも、時間が経つにつれ、現地に行く人は減りました。

『もう東北は復興したし、ボランティアなんて必要なの?』

と思っている人も多いのではないでしょうか」

現実には復興はまだ途上だ。

地域ごとにバラバラのニーズが存在している状態が続いている。

震災5年は通過点でしかない。

「ニーズが減った面もありますが、

ボランティア募集サイトでは、今でも多数の書き込みがあります。

がれき処理など、震災直後のようなニーズが

依然として残っている自治体もありますし、

除草ボランティアや漁業支援などもあります。

関心を持って『普通の支援』を続けるだけで、

誰かの助けになれる状況が残っているのです」

この本の中で、荻上さんは具体的な事例をもとに、

支援ノウハウの共有を目指した。なぜか。

「どのような支援が効果的だったのか。

あるいは困ったのか。

もう一度、可視化する必要があると思ったのです。

キーワードは『善意は善行にならず』。

よかれと思ってしたことでも、

やり方を誤れば迷惑になることがあります」

「まずは、支援をしたいと思った対象のニーズを確認する。

現地で活動している団体の情報発信を調べ、

それを支援するのが妥当ですが、

それすらできていないケースがあったのです」

荻上さんは被災地の自治体職員や、支援団体の証言を集めた。

その中には、こんな話もあった。

震災直後の混乱が続いている最中に、

「視察をさせてほしい」

「支援をしたいから被災者を集めてほしい」

などと被災地の自治体職員や支援団体に頼み込む。

装備や泊まり先、交通手段の確保なども含めて、

現地で迷惑をかけないことがボランティアの大原則だ。

大きな災害が定期的に発生しながら、

こんな基本すら共有されていない現状が浮かび上がってくる。 

「中途半端なまま現地に行っても、かえって邪魔になってしまう。

ゴミ出しや、食料の確保なども含めて自己完結できないなら、

行かなくてもできる支援を考えたらいいのです」

「僕が一番、最初に入ったのは東日本大震災の翌日、

3月12日に起きた地震被害が甚大だった長野県栄村でした。

津波災害、原発事故が注目された時期でしたが、栄村の地震被害も大きい。

この様子をまとめて、ブログで発信すると

『やっと栄村の被害が取り上げてられた』という声をもらいました」

「僕は災害支援の専門家ではないので、

震災直接は何ができるかわからなかったし、迷いました。

栄村にいってわかったのは、大きな災害になればなるほど、

<発信される地区>と<発信されない地区>に差が出てくるということ。

どんな小さな声でも情報発信をすることで、

次の支援につなげることができます。

ブログやツイッターで適切な情報発信をするというのもまた、支援なのです」

「現場の常識」は知られていない

支援物資を送ることも有効な支援策だが、

方法を間違えると、ここでもかえって被災者を困らせる。

具体的な事例で考えてみよう。

衣類が足りないという情報を目にして、服を送りたいと思ったとする。

家の中でいらないものを整理する「ついでに」送るものを選び、

婦人服、子供服、男性ものをまとめて、家庭にあるだけ送る。

これでは迷惑になる確率が高い、と荻上さんは指摘する

「理由は単純です。

まず、なにもかも一緒に詰めて送ったら、

現地で仕分けをするコストが発生します。

最低限、子供は子供、

大人ならサイズ別にまとめて送ることが大事です。

また、忘れてほしくないのは

『整理ついで』に送られてくるような着古されたもの、

個性的なデザインのものは、被災者も着るのを避け、

余ってしまうことが非常に多いことです。

古いレースクイーンの衣装を送られて、

何を考えているんだろう、という声もありました。

これでは、『支援ゴミ』を増やして、

余計な負担をかけてしまいます」

「ツイッターで流れたデマで、

『【拡散希望】この自治体が支援物資を求めてます 住所は××』

というものがありました。

住所として書かれていたのは、被災した自治体です。

被災自治体に直接、個人が物資を送ることは、

仕分けのコストを増やすため推奨されません。

実際、その自治体は、個人からの物資を受け入れていませんでした」

「ある音楽係者が人気バンドのTシャツを大量に送った結果、

その避難所ではバンドTをみんなで着ることになったという話もありました。

送られた人は笑いながら話してくれましたが、

あまりに個性的な服が『かぶる』のは、恥ずかしいかもしれません」

ある自治体には「りんご3トン受け取って」という要望もきたという。

大量に送ること=善意という気持ちはありがたいが、

生鮮食品は腐りやすく、りんごを詰めるダンボールは金具で留められているため、

カッターではあけにくい。

仕分けの手間も増えるし、送られたところで、

現地で無駄なコストを発生させる原因になってしまう。

「ニーズにあわないものを送るのではなく、

食品なら、腐りやすいものは避ける。

古着ならまとめて支援地でバザーをして、

その売上を寄付するといった形での支援を考えるのもいいでしょう。

優先すべきは送る側の都合ではない。

まずは現地のニーズを把握することが大事だという教訓を導けます」

ボランティアとともに減っているのが、募金だ。

募金本来の目的はお金で支援すること。

もっとも身近で、手軽にできる支援のはずなのだが…。

「募金の集まりにもピークはあるのは仕方ないことではありますが、

ボランティアと同じように、お金のニーズも5年が経ったからといって減るわけではないのです」

どのように募金先を選べばいいのだろうか。

「被災した人に届けたいのか、特定のプロジェクトを支援したいのかで、

募金のやり方は変わります」

「前者なら、日本赤十字社への義援金は、時間こそかかりますが

被災した人に直接、配られるのでおすすめできます」

「後者なら、本当は自分もやりたいと思っている活動を

展開しているNPOなどに支援金を送るのがいいでしょう。

自分の関心にあわせて、ひいきの団体を作るのがポイントです」

「一つの判断基準になるのは、活動実績とともに、

受け取ったお金の使い道を公開しているかどうか。

もらったお金の使い方を適切な方法で開示するということは、

実務能力が高く、情報公開度にも積極的な団体だと判断できます」

「こうした団体に支援金を送ると、活動報告なども送られてきます。

自分が寄付したお金がどう使われるかという楽しみができる。

寄付も立派な支援なのです」

「災害支援手帖」を作る過程で、

災害支援に関わるNPOや研究者から何度も聞いた言葉がある。

「有効な物資の送り方や困った支援、

ボランティアニーズの把握なんてことは、

どこでも書いてあることだし、目新しくない」。

荻上さんは、この言葉に疑問を持っている。

「確かに専門家の間では『常識』かもしれないけど、

素人の僕には目からウロコ、この震災で初めて知ったことも多かった」

「なぜ、東日本大震災で支援したい側と受け入れ側で、

これだけミスマッチが発生したのか。

現場の常識が社会の常識にまでなっていないことがあるからではないでしょうか。

具体的な事例から、もっと教訓を共有する必要があります」

この本は、次の大災害が起こった時点で、ウェブ上に全文公開することが決まっている。

「とかく現場の声として語られがちなのは、専門家も驚く『すごい支援』。

でも、それは誰もができることではない。

この本に集められているのは、みんなができる『普通の支援』です。

変わったことは書いていません」

「だからこそ、まだまだニーズが残っている東日本大震災の被災地でも実践できるし、

確実にいつかは起こる次の大災害でもヒントになる。

小さな実践の『まとめ』が、どこかで必ず役に立つと思います」



mametorakoomametorakoo  at 23:59コメント(0)トラックバック(0) この記事をクリップ! 

姉さん、娘たち卒業だ 家族に迎え5児の父に

大規模なかさ上げ工事が進む岩手県陸前高田市の市街地跡で、

松田雅範さん(46)は静かに海を見つめた。

今月18日に12歳の娘3人が小学校を卒業する。

うち2人は津波で逝った姉(当時45歳)の子だ。

自宅も職も失った東日本大震災から5年。

「姉さん。俺、少しは頑張ったかな」

2011年3月11日、自宅にいた松田さんは強い揺れが収まるとすぐ、

車で母(74)と高台を目指した。

途中の保育園で次女を乗せた時には、

黒い水が背後に迫り電柱が倒れ始めていた。

避難所で妻(46)と長女の無事も確認できたが、

姉夫婦と嫁ぎ先の両親が見つからない。

小2だったおいと、当時、長女と同じ小1だった双子のめいは、

日がたっても「早くお母さんたちと電話で話せればいいね」

と無邪気に笑っていた。

胸を締め付けられた。

姉と嫁ぎ先の両親が遺体で見つかり、

夫は行方不明のままだったが、

3月下旬に葬儀が営まれた。

前夜、涙をこらえ、声を振り絞って子どもたちに伝えた。

「きみたちの家の人はみんな死んじゃいました」。

この日、松田さんは5人の父親になることを決めた。

自宅も勤め先も流され、無職だった。

その年の6月、仮設住宅に入居。

仕事面では、復興需要を見越し、

元建設会社の同僚2人と小さな住宅建築会社を設立した。

押し入れもない6畳2間と4畳半の仮設住宅で

8人が雑魚寝する生活だったが、新しい生活へ一歩を踏み出した。

松田さんの2人の子どもは両親を「パパ」「お母さん」と呼んでいた。

一方、姉の子3人は「おっとう」と「ママ」。

みんな自然に「パパ」と呼んでくれるようになった。

しかし、3人が溶け込むにつれ、新たな問題も出てきた。

姉の子らが「パパ!」と松田さんの両腕にしがみつくと、

実の子らは嫉妬した。

「ずっと8人で暮らすの?」と聞かれ、胸が痛んだ。

津波で実母を亡くしながら、

5人の母親になった妻の精神的疲労も高まり、

松田さんも酒量が増えた。

見かねた母に

「3人は引き取るから、自分たちだけで住みなさい」

とも言われた。

「このままじゃ家族が崩壊する」。

14年秋に大きな借金をして2階建ての家を建てた。

子どもたちが走り回れるようリビングを広くしただけでなく、

各自の部屋も作った。

「家ができて家族が安定した。

めいやおいは親を失った悲しみはあるのだろうけど、表に出さない。

妻の努力。母の努力。子の努力。感謝だよね」

と振り返る。

卒業式の日、

松田さんは

「子どもはちゃんと育っているから」

と姉たちの墓前に報告するつもりだ。

「長女やめいが思春期を迎えて

『変な虫』がつくと思うと、

いてもたってもいられない。

おいの恋愛相談にだって乗りたい。

大事な家族だからね」。

雪解けを前に笑みがこぼれた。



mametorakoomametorakoo  at 23:59コメント(0)トラックバック(0) この記事をクリップ! 

津波で亡くなった母、伏せた父 思い受け止めた17歳は

母はかすみ草が好きだった。どうしてだろう。

「花言葉か何かかな」。

今月6日の食卓。

戸羽太河(たいが)さん(17)が口にすると、

父の太(ふとし)さん(51)は

「ちっちゃい花の雰囲気じゃないかな」

とほおを緩めた。

震災からしばらくは、

母・久美さん(当時38)のことを

家族で話すこともできなかった。

     ◇

津波に襲われた岩手県陸前高田市の街中に、自宅はあった。

家は流され、小学6年生だった太河さんは、

2歳下の弟と親戚の家で避難暮らしを始めた。

市長である父は、指揮をとる災害対策本部に泊まり込み、

帰ってこない。

母の安否はわからないまま。

弟はずっと泣いていた。

自分は2階の部屋で、昼寝ばかりしていた。

「大丈夫。お母さん見つかるから」。

周りの人から声をかけられると、

また苦しくなり、布団にもぐって泣いた。

10日ほどして、親戚が父のところへ連れて行ってくれた。

久しぶりの父は無精ひげで作業服姿。

胸に飛び込み、抱きしめられると、涙が止まらなくなった。

父も泣いていた。そして笑顔で言った。

「泣いたってどうにもならないことがあるんだよ。

お兄ちゃんなんだから、頼む」

小さい頃から、いつも父や母にくっつき、甘えるのが大好きだった。

でも、泣いても母が帰ってくるわけじゃない。

いま父は一番大変な場所にいる。

弟はつらそうだ。

せめて自分はしっかりしよう。

そう決めた。

4月。

母が遺体で見つかり、父が対面したことを新聞の記事で知った。

     ◇

中学に進学しても親戚宅に身を寄せた。

父は多忙ながらも帰ってくるようになった。

けれど、母のことはだれも口にしない。

たまに家族で出かけると、車の助手席やレストランの座席が空いていた。

5月の連休明けから学校を休みがちになった。

「頭が痛い」。

うそをついた。

勉強や部活も面倒に思えた。

放課後、担任の野口貴弘先生(44)が家を訪ねてきた。

休む理由は聞かず、学校に来いとも言わない。

「メシ食ってっか?」と、

ときどき栄養補給のゼリーを持ってきてくれた。

夏休み明け。

車で送ってもらったときに父の話題になった。

「お父さん、がんばってるなあ」。

先生はそう言った後、亡くなった自分の父の話をした。

「俺は悩んだとき、

おやじならどうするかって心の中で会話するんだ。

目の前にはいないけれど、いつも支えられてる気がする」

このころ、父が震災の体験を記した本を出した。

親戚宅にも何冊か届いていた。

手にとった。

父は母の死を1カ月半伏せていたが、

本にはその理由が書かれていた。


《肌の色が黒く変わってしまっていた。

子どもたちは「お母さんに会いたい」と言うはず。

でも絶対に見せてはいけない。

きれいなままのお母さんのイメージだけを子

どもの一生の宝物にしてやりたい》


父の思いを初めて知った。

秋が始まるころ、

学校を休むこともなくなった。

2年生になるとバスケットボールの部活に熱中した。

3年生では生徒会の放送委員長になり、

運動会のリーダーになった。

高校に入り、バスケの大会の会場で母を思い出した。

小学生のころ、母が応援にきてくれた場所だった。

「しっかりしなさい!」。

声が聞こえるような気がした。

     ◇

いまは大船渡高校の2年生。

父は朝、弁当をつくり、

部活が終わる夜には迎えにきてくれる。

車の中でいろいろなことを話す。

成績のこと、進路のこと。

「震災前の元の街をつくるんじゃなくて、

新しい街をつくりたい」。

父は復興のことも熱っぽく語る。

テレビで仮設住宅の人が

「復興が遅い」と話すのを聞くと、

父が責められているような気持ちになる。

中傷もある。

自分は政治家になりたいとは思わない。

でも、この街の将来を支える人間になりたい。

大学で勉強して、起業するのが目標だ。



mametorakoomametorakoo  at 23:59コメント(0)トラックバック(0) この記事をクリップ! 

震災5年、避難なお17万人超 災害公営住宅、建設遅れ

東日本大震災の発生から2016年3月11日で5年を迎える。

避難生活を送る人はなお17万人以上に上り、

恒久的な住まいの一つ、災害公営住宅の完成は

被災3県でまだ半分にとどまる。

政府が決めた集中復興期間は3月末で終わるが、

被災地が日常を取り戻すのは遠い。

警察庁は10日、

震災の死者が全国で1万5894人、

行方不明者は2561人と発表した。

震災後の体調悪化や自殺による震災関連死は3407人

(復興庁まとめ、昨年9月末時点)。

岩手、宮城、福島3県のプレハブ仮設住宅に独り暮らしで、

誰にもみとられず亡くなった「孤独死」は202人

(警察庁まとめ、昨年末時点)に上った。

避難者は震災発生直後の47万人から減ったものの、

いまも17万4千人に上る。

岩手、宮城、福島の3県で7割を占める。

仮設住宅の入居戸数は3県で約5万4千戸。

災害公営住宅は3県で2万9573戸の計画に対し、

完成は1万4042戸と47・5%にとどまる。

人手不足などで建設が遅れている。

道路や河川堤防の復旧率が9割を超えるなどインフラ整備は進む。

津波で被災した農地の74%が復旧し、

主要漁港の水揚げ高は震災前の9割まで回復した。

だが、主産業の水産加工業で売り上げが

震災前に戻った業者は24%に過ぎない。

東京電力福島第一原発事故による

避難指示区域からの避難者は、約7万人に及ぶ。

田村市と川内村の一部、楢葉町で避難指示が解除されたが、

対象だった地区に帰還したのは

田村市で69%、川内村で20%、楢葉町で6%にとどまる。

被災地は人口流出も続く。

被害が大きかった3県の太平洋岸と避難指示区域の計42市町村では、

人口が震災前の2010年より

約10万6千人減った(国勢調査速報値)。

減少率は4・1%と、全国0・7%を大きく上回った



mametorakoomametorakoo  at 23:59コメント(0)トラックバック(0) この記事をクリップ!