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2016年04月

どうかフンバってください!! 

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熊本で大地震が起きました。(九州全域)    

僕は熊本生まれ ふるさとなんです。    

直接甚大な被害を受けた方々に、

深く、心よりお見舞い申し上げます。

家族や友達と直接連絡がとれるわけですが、

ホントにみんな恐くて、でも頑張ってます。

連絡したこっちを安心させる様な事をみんな言ってくれて、

たくましいっ!!   

だけど人間が気を張れる時間って限界があります。

その糸が切れる前に

何とか心が落ちつける状態になってほしいです。

大人は子供達を不安にさせない様に必死です。

子供達に、1番に笑ってほしい!

そしたら大人は頑張れるんだ!!  

今、まだ民間から手を出すのは難しいですが、

必ずや復興のお手伝いをさせて頂きます。

どうかフンバってください!!  

2016.4.17 尾田栄一郎

ワンピース



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「3人だから頑張れる」障害ある夫、娘と車中泊

熊本地震で2度にわたって

震度7の揺れに襲われた熊本県益城(ましき)町で、

野口哲子さん(74)は障害がある夫と娘を支えながら、

自宅で車中泊を続けている。

「何があっても、こうして一緒にいられることが大切なの」。

先が見えない生活だが、3人の表情に曇りはない。

最初の大きな地震があった14日夜、

哲子さんは自宅の寝室で

次女の圭子さん(45)を寝かせる支度をしていた。

圭子さんには知的障害があって会話ができず、

自力ではほとんど歩けない。

激しい揺れで棚から物が次々に落ちてきた。

散乱した部屋で、哲子さんはとっさに圭子さんの薬をつかみ、

圭子さんを背後から支えながら外に出た。

7年前の病気で下半身にまひがある

夫の寿信さん(83)も手すりとつえを使って自力で脱出し、無事だった。

平屋建ての自宅に大きな損傷はなかったが、

余震が続く中、すぐに動けない2人と一緒に戻るのは不安だった。

圭子さんは大勢の人がいるとパニックになるため、

避難所にも行けない。

選んだのは、昼は車庫で過ごし、

夜はセダンタイプの車で寝る生活だった。

寿信さんが病気になるまでは、

圭子さんにいろいろな景色を見せようと

3人でよくドライブに出掛けた。

圭子さんが青空を見上げたら哲子さんらが「行こうか」と声をかける。

圭子さんがうれしそうに手を挙げたら、

それは「行きたい」のサイン。

阿蘇山のふもとや海に囲まれた天草などを訪れると、

圭子さんは笑顔を見せた。

家族にとってこの車には大事な思い出がたくさん詰まっている。

夜、哲子さんは車の後部座席で圭子さんに添い寝する。

寿信さんは運転席で座った状態で眠る。

4時間程度で目が覚めてしまう。

夜が明けると、車庫に移る。

哲子さんが自転車で避難所になっている小学校に行き、

水や食料、日用品を調達する。

厳しく、忙しい日々だが、

3人でラジオに耳を傾ける穏やかな時間もある。

雨で気温が下がった24日、3人の姿が車庫にあった。

哲子さんは車椅子に座った

圭子さんの膝の毛布をかけ直し、こう言った。

「3人とも元々、年齢や病気でいつ何があるかわからない。

地震で大変だけれど、私たちは何があっても家族。

娘がいるから頑張っていられるのよ」

#熊本地震
#がんばろう熊本
#負けるな熊本
#負けんばい熊本



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秋津グリーンプラザ

前震の後に1人の男性が取った行動によって、

マンションに住む全員が助かったという例もある。

熊本市東区にある9階建ての

賃貸マンション「秋津グリーンプラザ」。

ここは本震の後、マンション全体が傾いて、

いつ倒壊してもおかしくない状態に陥ったが、重傷者や死者は出なかった。

「前震の後、すぐに停電になったんですが、

真っ暗な中、1階に住んでいる金髪のとび職の兄ちゃんが

1階から9階までの三十数戸全ての安否確認をして回った。

玄関のドアが潰れて開かなくなってしまった部屋も結構あったのですが、

金髪さんは窓の格子を力ずくで壊し、そこから外に引っ張り出してあげていましたよ」

と、マンションの住人の1人は言う。別の住人も、

「金髪のお兄さんには、まだ小さい子どもが3人もいて、

奥さんが“もう行かないで!”と泣いて叫んでいました。

でも彼は、“人の命が優先だけん”

と言ってマンションの中を走り回っていましたね」

 件(くだん)の金髪の兄ちゃん、平野寛祈さん(25)は

照れ笑いを浮かべながらこう話す。

「なんで他の住人を助けたか? 

最初の地震の後、自分も玄関のドアを無理やり蹴って開けて出た。

で、自分ちが開かんくらいやけん、

他にも開かんところがあるだろう、

出れんならヤバイなと思って。

最初の地震でもう潰れると思ったけんですね、自分は……」

#熊本地震
#がんばろう熊本
#負けるな熊本
#負けんばい熊本



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石巻・震災遺構を考える<見ると安心する>

門脇小卒業生のパート榊美紗子さん(27)は、

校舎前の自宅で家族ともども津波にのまれ、

母のひとみさん=当時(51)=と

祖母の美代子さん=同(79)=が犠牲になり、

父の健之(たけし)さん=同(53)=が

行方不明になった。

自宅は跡形もないが、月に何度か立ち寄る。

悲しみだけではなく、

家族を思い出し、

心を落ち着かせられる場所だ。

校舎も生活の一部。

被災した姿だとしても、見ると安心する。

「震災後、敷地内のプールが壊されただけでも悲しかった。

校舎がなくなると心に穴が空いてしまう気がする。

これ以上、何も失いたくない」

自宅からは学校の校庭で

子どもたちが鼓笛隊の練習をする様子や、

幼稚園や町内会の運動会など住民の楽しそうな姿が見えた。

津波で全てが失われたと思ったが、

震災後に高校生が校庭で体育の授業をしているのを見て、

思わず涙があふれた。

かつての様子と重なった。

「校舎を見るのがつらい人には申し訳ないし、

傷つけてしまったらどうしようかとも思う。

それでも、校舎に愛着がある。

解体されてみんなが門脇小を忘れ、

なかったことになるのは耐えられない」



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石巻・震災遺構を考える<店解体受け入れ>

もう二度と津波の犠牲者を出さない。

その願いを被災した校舎に託す。

東日本大震災で壊滅的な被害を受けた

宮城県石巻市門脇地区でラーメン店を営んでいた

尾形勝寿さん(70)は、門脇小の保存を求める。

激しい揺れに見舞われた際、

今も行方が分からない妻きみ子さん=当時(59)=と店にいた。

津波に気付いて逃げようと玄関を出た瞬間、濁流にのまれた。

勝寿さんは流れてきた屋根にしがみついて助かったが、

きみ子さんの姿はなかった。

「なぜ2人で早く逃げなかったのか」。

後悔の日々が続いた。

2012年7月、津波で鉄骨だけになった

店舗兼自宅で本格的に仕事を再開。

宮城県大郷町の借家から通い、

キッチンカーでご当地グルメ「石巻焼きそば」を販売し、

求められれば語り部も務めた。

震災から時間がたつにつれ、

市内各地で被災した建物が解体されていった。

隣接する南浜地区にあった市立病院も姿を消した。

「全部壊して何もなくなったら、後世にどう伝えるのか」。

危機感が募り、

鉄骨の店を民間の震災遺構として残そうと奔走した。

しかし、門脇では住宅地を整備する

土地区画整理事業が本格化。

「復興を遅らせられない」と、

15年春に店の解体を受け入れた。

地区に残った被災建築物の門脇小には、

国内外から震災学習のため人々が足を運ぶ。

「妻は同じことを繰り返してはならないと叫んでいる。

なんとか校舎を残してもらいたい」



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サーフィン文化消えるのは嫌だ

千葉県旭市の飯岡海岸。

九十九里浜の北東の端で

サーフショップ「ゴロデーサーフハウス」を営む

関口常男さん(62)は毎日午前10時ごろ、

波の高さや海面の状態を確認するため浜に行く。

5年前の朝、海は穏やかだった。

それが数時間後、

最大高さ7・6メートルの津波となって襲ってきた。

市内では14人が亡くなり、

2人が行方不明のままだ。

関口さんと妻邦子さん(56)が

30年近く営んできた店舗兼自宅は浸水した。

兄のように慕っていた叔父(当時67)は

外の様子を見に行ったきり、

数日後、木の上で遺体となって見つかった。

関口さんは地元で生まれ育ち、

16歳でサーフィンに夢中になった。

公務員として働いた後、27歳で開業。

「一時のはやりもので、商売は成り立たない」

と周囲に言われたが、ボードを手作りし、

愛好家たちのベースキャンプとなってきた。

津波で海は一変した。

消波ブロックは海底に散乱。

安全に波に乗れる環境ではなくなった。

不明者の捜索が続き、レジャーへのためらいもあった。

サーファーは減り、特に家族連れの姿はほとんど見なくなった。

「この土地からサーフィンという文化が消えるのは嫌だ」。

震災から2カ月後、お得意さんから商品を提供してもらい、

車庫を仮店舗に営業を再開した。

消波ブロックや流木の位置を書き込んだ海の安全マップを作った。

「空元気でもいいから、やれるよっていうのを見せたかった」

2013年9月、周辺10軒のショップに呼びかけ、

「九十九里観光サーフフェスタ」を実現。

サーフィン教室や全国大会に人が集まった。

それをきっかけに訪れるリピーターも多く、

フェスタは毎年続けている。

震災から5年を迎えた11日朝も、

いつも通りに海に行った。

「恐怖というより、自然に対する畏敬(いけい)の念がある」。

白波に乗るサーファーたちを見つめていた。



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石巻・震災遺構を考える <家族の間でも差>

アンケートは世帯主宛てに送付。

世帯主が世帯の意見を代表して答える仕組みだった。

ある地元の遺族は家族で話し合った結果、

「一部保存」との結論を出した。

世帯主の男性は

「いつまでも校舎を見ていたくない」

と解体を望んだが、

最後は家族の意向を尊重した。

世帯主の男性は、

大川小で子どもを亡くした他の遺族の話にも耳を傾けた。

「家族の間でも遺族の間でもそれぞれ考え方は違う。

誰の考えも否定はできない」

校舎が立つ釜谷地区は津波で大きな被害を受け、

住民の約4割に当たる193人が犠牲になった。

釜谷地区で長く暮らした男性が振り返る。

「あちこちに遺体があった。地獄だった」

震災前の釜谷地区の写真を、

移転先の仮設住宅で大事に保管している。

大川小のほか、民家やスーパー、郵便局、診療所、交番などが立ち並ぶ。

男性は暇さえあれば大川小の餅つきなどの行事を見学し、

孫らの成長を見守ってきた。

「大川小は地域のよりどころでもあった。

くたびれた姿はもう見たくない」

と解体を求め、こう静かに続けた。

「解体の思いは一個人の感情と捉えられがち。

声を上げにくい面があることを理解してほしい」



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鎮魂花6

日本中の桜に

鎮魂花6















日本中の想を

込めて



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石巻・震災遺構を考える <「時が止まった」>

中村次男さん(41)と妻まゆみさん(42)は

3年だった一人娘の香奈さん=当時(9)=を亡くした。

仕事中は悲しみや喪失感を頭の隅に置くよう努める。

家に帰ると気持ちが底まで沈む。

その繰り返し。

香奈さんの分もお菓子やデザートを買う。

中村さんは

「生活は香奈を中心に回っていた。

震災から時が止まったままだ」

と言う。

香奈さんは帰宅すると、

学校での出来事を生き生きと話してくれた。

「下の学年の子と遊んで疲れた」

「友達と一輪車に乗った。転んだけど楽しかったよ」

中村さん夫妻は校舎の全部保存を望む。

せめて全校集会があったホールなどは残してほしい、と願う。

「現物があれば、今後の子どもたちにも大川小であったことを伝えやすい」

住民団体「大川地区復興協議会」は

校舎全体の保存などを市に求めている。

浜畑幹夫事務局長(57)は石巻市職員時代に被災。

遺族や地元住民、全国から来た人たちの意見を聞いた。

「校舎を見るのがつらい。壊してほしい」という声は理解できる。

ただ、「未来の命を守るために校舎を残してほしい」との声により説得力を感じた。

13年10月に早期退職し、今は個人的にも保存を望む。

「市には50年後、100年後を見据えた判断をしてほしい」と訴える。



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石巻・震災遺構を考える <心痛める遺族も>

生きている人たちが心からの笑顔を取り戻す。

それが、天国の子どもたちをも笑顔にする。

宮城県石巻市大川小6年だった

長女小晴さん=当時(12)=を亡くした

平塚真一郎さん(49)はそう信じる。

東日本大震災の津波で変わり果てた校舎に毎日通い、手を合わせる。

「みんな幸せになっていますように。

まだ見つかっていない子を早く帰してあげて」

2011年8月。

校舎から数キロ離れた海で遺体の一部が見つかった。

DNA型鑑定の結果、小晴さんと確認された。

幼い弟と妹をあやして笑わせる面倒見のいい姉だった。

「本当によく帰ってきたね」。

一緒に捜してくれた不明児童の親らと涙を流して喜び合った。

大川小では今も児童4人の行方が分からない。

校舎を壊して隅々まで捜したい。

わが子の手掛かりを一つでも見つけたい。

そう願う家族がいる。

校舎を背景に写真を撮る来訪者の姿に、胸が締め付けられる遺族もいる。

「校舎を見て心を痛めている人たちに寄り添い、

少しでも悲しみを取り除きたい」。

校舎の遺構保存をめぐる2月の公聴会で、平塚さんは解体を強く訴えた。

保存を望む意見は、頭では理解できる。

でも、心がついていかない。

きれいに整備し、たくさんの花が咲き、集う人々の心が安らぐ場にしてほしい。

全てを忘れたいがためでは決してない。

市が昨年実施した校舎に関するアンケートで、地元住民の54.4%が「解体」と回答した。

ただし、表面には現れにくい「解体」の声もあるという。



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