ヨガのリズム。

愛知県瀬戸市・尾張旭市周辺でヨガサークルを主催しています。子連れOKのクラスもあります。 ひとりの人として、母として、地域にまあるい輪が広がることを願い、そんな毎日を綴っています。 日々繰り返される命のリズムを、心地よく刻んでゆきたい。

新規一転。




2014年元旦に北海道最北端の温泉地、
豊富温泉に越して、
あっという間に半月が過ぎた。


ホントは、
こっちへ来てすぐにやろうと思っていたのだけれど、
新規一転、
ブログも引っ越ししよう。


やっと出来ました。


新たな気持ちで、
日々を楽しんでゆこう。


日々に感謝、
ありがとうございます。


http://blog.livedoor.jp/manaminmanamin/

親子のじかん。





あおいとふたりで北海道に来て、
2週間ほど。
分かっていたけれど、大変。

楽しいけど、やっぱり大変だ。


子育ては楽しい。

それはホントにその通りだけど、
時に忍耐だし、
自分はいつも後回しだし、
イライラにもなる。



私は子どもが好きだ。

親となる前から、
子どもと遊ぶ機会は多かった。

ヨガの活動の中でも、
子連れのクラスをずっと続けてきた中で、
いつもママと一緒に来てくれる子どもたちは、
自分の子のように成長を楽しみにし、
触れ合える機会が、とても嬉しかった。


そして自分も母となり、
なんてありがたいかと思う。

妊娠出産を経験出来たコト、
子育てという経験を自分も出来るコトになり、
ホントに幸せだと思う。


のだけど、
日々の暮らしは、
やっぱり、大変なのだ。

自分ではない、
他の命とひたすら向き合う。

時に笑い、時に怒り、
落ち込んだり、考え込んだり、
あっという間に1日が過ぎてゆく。


ひとりでのんびり過ごしていた頃とは、
天と地ほどに違う暮らし。


どちらも楽しい。
それは変わらないけれど、
体調が万全でない時などは特に、
子どものスイッチを切れないものかと、
本気で思う。


そういう意味で、
自分の子とヒトの子は違う。
いつもいつもなのだ。
毎日毎日、なのだ。



しばらく北海道で暮らすと決めて、
あおいを連れて行くかどうかと、
散々迷った。

家族は両家、全員一致で大反対。

私も、
慣れない雪国での暮らし、
生活のために稼ぐ仕事をし、
そんな中で、
母ひとり子ひとりで暮らすのは、
勇気もなければ、
楽しめるとも思えない。

今まで子育てと仕事を楽しんでこれたのは、
大きな大きなまわりのサポートのおかげ。

まずは自分の養生をするコト、
生活に慣れるコト、
せっかくいただいた仕事も、
出来る限りベストを尽くしたいと思い、
ひとりで来ると決めた。


有り余るほどに子育ての手がある今の環境、
馴染んだ保育園を手放し、
それ以上に豊かな環境を
彼女に与えれるとは、
到底思えない。



家族みんなが居る環境が
いいに決まっているだろうと思う。

あおいは、
パパとママと3人がいいといつも言う。

私も、
何とかその状況を
維持出来ないものかと考えた。

でも、しんどい。

目やノドの痛み、
カラダの違和感がひどく、
ダルくて仕方ない。
寝ても寝てもそのダルさはとれない。

ご飯を作り、
洗濯をするという日常でさえしんどくなるほどの時もあり、
進むのも、止まるもしんどいのだ。


家族で和やかに過ごす場でさえ、
保てなくなる。
ギスギスするばかり、
そして、空回りの連続。



健康は、ありがたい。

笑って話せる、
楽しく動ける、
美味しくご飯を食べれる、
その何気ない日常は、
ホントにホントに、ありがたい。




あおいとふたりで北海道へ来たのは、
今回で2回目だ。

前回同様、
たくさんの方に助けていただいた。

こっちで出会えた友達も、
たくさんあおいと遊んでくれた。

いつもお世話になっている旅館の男の子と
とても仲良くなり、
一時保育で保育園にも通わせてもらった。


日が過ぎる中、
あおいはホームシックになり、
帰りたい、パパに会いたいと泣いた。


こっちへ来てから甘えてばかりで、
挨拶をしない、返事もしない。


思わず、
大きな声で怒った。


逃げ場のないあおいは、
ただ大泣きするばかり。


こんな時、
いろんな大人が居たらと思うのだ。

私が叱ればパパが居て、
パパが叱れば、私のトコロに来る。

そして、
優しい優しいばあばに甘えて、
安心な場所がいくつもある。

子どもは、
愛を食べて育ってゆく。


淋しいスイッチが入り、
私に対しても素直になれないあおいは、
ただただ大泣き、おさまらない。


私も、イヤになる。

でもそんな時、
一緒に見守ってくれるヒトが居た。

あおいを抱っこして、
じっくり受け止めてくれるヒトが居た。


私はこの北海道の地で、
まだまだ知らないコトばかりだけど、
こうして、
新たな暮らし、
仲間に恵まれているのだと嬉しくなった。
そして、勇気にもなった。


あおいも、
私も、
仲間が必要だ。

共に生きる仲間、
分かち合える日々の出来事の中で、
あおいだけでない、
私も、育ってゆきたい。



出会いは人生の宝だ。

やはりこれは、
どこに行っても何をしていても、
揺るがない。


この地で楽しく過ごしてゆこう。
よき出会いに恵まれますように。
誰かの、何かのお役にたてますように。

日々の私の暮らしの中で、
手に届くものを大切にしよう。
出来るコトを見つけては、
ベストを尽くそう。

それが、
巡り巡って、
遠く離れるあおいに、
家族に、
届きますように。



人生は面白い。

何が起こるか、
つくづく分からない。

こんな最北端の地で暮らすなどと、
想像すらしていなかった。



せっかくなので、
楽しもうと思う。

楽しみ尽くそう。



今日、愛知に帰る。


春頃こっちに来た時は、
私もホームシックになったりしていたけれど、
今は、
どちらも落ち着く場所になってきた。


どこも、住めば都なのか。


生まれて初めて、
生まれ育った瀬戸の街を出る。


私が私として育った、
たくさんたくさんのものが、
瀬戸の街にはある。


この私の土台は、
いつまでもいつまでも変わらない。


そして、
その土台に、
新たなものを積んでゆき、
崩れないよう、
少しずつでも着実に、
私を積み重ねてゆこう。



与えていただいたすべてに感謝。

足りないものなどない。
必要なものは常にここに在る。
それに、気付けるかどうかだ。


命に学び、
命に育てていただく。


そんな毎日は、宝だ。

かえがえのない、
人生の日々。


生きているというコトは、
スバラシイ。


この地球に居るすべての生き物は、
偉大なる大自然に生かされている。



ありがとうございます。






















雪!雪!





5歳の娘あおいと、北海道に来ている。

来年から、
私は、ここで暮らすコトを決めた。
と言っても、
家族とではなく、ひとりで。

あおいにしばらく会えないから、
今のうちにたくさん遊んでやりたいと、
2週間ほど、ふたり旅。


春にも一度来たから、
あおいとふたりの北海道は、2回目。



真っ白な景色に、
あおいは大ハシャギ。

手袋をとって雪を触り、
雪は冷たいんやねえ、と言った。
そうか、
彼女は、雪が冷たいという理解がなく、
白いもの、だった。

ママが行くトコロには、
たくさん白いものがある、と。


ふたりで北海道に行こうと決めてから、
テレビやポスターで雪を観るたび、
これを観に行くと、
嬉しそうに言っていた。



今まで出掛けたトコロなんかも、
いつまでもいつまでもココロに残っているようで、
その景色を観るたびに、
ここに行ったねえ、と言う。

誰と行ったね、何を食べたよね、
と、昨日のコトのように話し出す。


私は大人だから、
すぐ、
いろんなコトの中のひとつになっていくのか。


子どもの世界は、
大人とは違う。

とても色鮮やかで、
ワクワクが溢れている。

なんでそんなコトが楽しいのかと思うほど、
様々なものに興味を持ち、
楽しみ尽くす。

意味もない、損得もない。
ただ、そうしたいから。

私のように、
あ、これはこんなものだ、と、
まず頭の知識で理解しないからだろうか。



心新たに行こう!
とよく思う。
初心を忘れずに、と。

今日という日は、
人生で初めての日。

何が起こるか分からない。

知っているコトもあるけど、
未だかつて知らなかったモノに出会えるかもしれない。

そうかもしれんけど、
そうじゃないのかもしれない。

そんな、
新鮮な気持ちで過ごしていたい。


とよく思うのだけれど、
子どもの溢れる想像力、
思いもよらぬ発想に触れると、
凝り固まった自分が、よく分かる。


新鮮なものは、水々しい。
子どもは、水分が多い。

歳を重ねると水分が減る分、
硬くなり、凝りやすくなり、
その分、
新鮮味がなくなっていくのか。


私は、
なるべくカラダを動かすようにしている。

たまに面倒になりダラダラばかりしていると、
カラダがなまってくる。
そうすると、
気持ち良く動けなくなってくる。

濁った池のようにカラダが淀むと、
ココロはそこに沈んでゆくようだ。

お腹が空いたらご飯を食べるのに、
眠くなったら寝るのに、
カラダが凝ったり硬くなっても何もしないのは、
アンバランスな感じ。

適度な運動は、
毎日歯を磨き、
ご飯を食べる習慣と同じだ。

そして、
今出来ることを、
なるべく長くやり続けられるよう、
水分はどんどん減るだろうけれど、
カラダは動きにくくなるだろうけど、
動くという習慣を、
長く持ち続けていたい。



昨日。

北海道の友達に、
上勇知というトコロに連れてってもらった。
薪割りをするというので、
ぜひ子どもにも見せてやりたいと。

しかし、
風は強く、寒い!

でもせっかくだからと、
少し雪遊びしようとなったら、
雪だるま作りたいーっ!と。


雪だるま式。

コロコロ転がすとどんどん大きくなる玉、
そうか、
ホントに雪だるま式って、
ホントにこれなんだ。


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風は強く、寒い!
思いのほか、軽装で来てしまった大人。
手袋も、防水でなかったり。

冷たくて冷たくて、
指先の感覚がなくなってくる。

でも、
スイッチ入った子どもたちには関係ない。
飛び回る、
転んでもまた起き上がる、
まだまだ行けると、大ハシャギ。


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よし、なんとか雪だるまに。
目をつけて、口も。

目が飛び出しているという、
なんて奇想天外なコトに。


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そして、記念撮影。

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でも、
案の定、終わらない。

髪の毛だと、
少し離れたトコロに生えているススキの枝を折っては持ってきて、
雪だるまに、刺す、刺す、刺す。

髪の毛だそうで、
女の子だそうで。


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大人はもう寒い、
あったかい部屋に帰りたい。

子どもは、
寒さなどすっかり忘れ、
雪だるまに夢中。


でも、
子どもを見ているのは面白い。


すぐケンカになったふたりが協力し、
うまくススキを抜こうとする。

せーの、と声をかけ、
だんだん、
引っ張る角度が上手くなり、
折り方も上手くなってきた。


子どもには、子どもの世界がある。
子ども同士で育つ中で学ぶコトが、
生涯に渡り、大事だろう。

人付き合いは、
ヒトとの関係の中で学ぶもの、
強い子がいて、弱い子がいて、
いろんな個性がある中で、
ぶつかる、揉める、
でも好きだから、
また遊びたいから、
考えて、
仲良く出来る方法を探って。

大人があれこれ介入しなくても、
ケンカになれば、
なるべく子どもの中で解決出来たらいいのではないか。
それが正しいかは分からないけど、
私はなるべくそうしたい。

だから、
大人にも、
私にも、
そんな仲間がいる。

子どもをじっくり見守り、
分かち合える仲間。


何をするにも、仲間がいる。

寄りかかってもたれかかるようでなく、
みんなそれぞれで立っていて、
いろんな考えがある中、
話し合い、折り合いつけて、
時には同じ目的に向かって進んだりする仲間。


ひとりであり、みんなである暮らし。



そして、こんなコトに。


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芸術は爆発だ。


子どもと遊ぶ毎日は楽しく大変だ。
カラダがヘトヘトに疲れる。
でも、ココロはゲンキだ。




ありがとうございます。





遺体。






観に行きたいと思っていて行きそびれた映画、
『遺体』がレンタルになっていたので、観てみた。


http://www.reunion-movie.jp/story.html



3・11 、東日本大震災。

絶対に風化させてはいけないだろうあの日、
この国に住む私たちに、
どれだけ大きな衝撃を、
どれだけの悲しみ、不甲斐なさをもたらしたか、
その傷は、未だ、癒えるコトはないだろう。


でも、私たちは今を生きている。
今は、刻々と流れ変化してゆく。

その流れの波にまかれ、
見えなくなってしまうもの、
色褪せてゆくものが、多々ある。

そうしなくては、
そうならなくては次へは行けない。

だから、私たちの脳は、
毎晩眠る度に整理され、
不必要とされたものは、
忘れてゆく。

どんなに想っていても、
必ず、
時の流れと共に変化し、
忘れてゆく方向へと進んでゆく。


だから、
悲しみ苦しみは、乗り越えられるのだ。
そのように、出来ている。

それは、
新鮮味が失われるからでもあるだろう、
それを、劣化とも言えるし、
馴染む、とも言える。
麻痺する、ということでもあるだろうか。

何てコトだ!と衝撃を受けた出来事、
その瞬間からはじまる、
受け入れようとする作業。

事実として受け入れる、受け止める。
でも、なぜ?

ヒトは、
賢いがゆえに、
そこに理由を求める、
意味を知りたがる。

ただすべては必然であるとされても、
納得がいかない。

どうしてこんなコトが起こるのか、
神様はいないのか、
どうしてあんな良い人が苦しまなくてはならないのだと、
自問自答がはじまる。



未だ、なかなか前進しないという復興事業、
メディア情報などでは聴くけれど、
私は、
一度も現場をこの目で見、耳で聴き、
肌で感じたコトがないから、
散々考えるのだけれど、
そこに、
なかなかリアリティが生まれない。


なんだろう、
まずこの映画は、
不思議に思うほどのリアリティ感、
空気感を持っていると思った。

と言うか、
実際現場に居た作家さんが記したルポが元で、
それを出来るだけ忠実に再現したそうだから、
ノンフィクションであるコトはそうなのだけれど、
映像から伝わるその体育館の空気感が、
まるで、
自分もそこに居て、
共に苦しみ、泣いたと錯覚させるほど、
凍りついたような痛々しいその空気が、
イヤというほどに伝わってくる作品だった。


ヒトは忘れてゆく。
だからこそ、
思い出す、振り返るという作業が、とても大事だ。

この映画は、
ひとつ、
生きるというコト、
そして、
これほどにあっけなく死んでゆくという事実、
その生死を分けた境目って一体なんなんだと問いかけたくなる。
考えさせられる。

そしてそこに、
なかなか答えを見出せない現実が、
よく、よく分かる。

この映画は、
思い出すのに、
とても観る価値のあるものだと思う。

身が引き締まり、
記憶が蘇ってくる。


時が経ち、
いろいろと考えられるようになった時。

そこでまた改めて、
じっくり考えてみる。

これは、
とても大切なコトだと思う。


まず、
考えているならば、
考えるだけの余裕が出来たのだ。
まずひとつ、乗り越えた時。


非常事態というのは、
考える余裕がない時、
まさに、そこに居るしかない時。

でも、その事実が重すぎて、
ただ逃げるしかないというコトもあるだろう。


まず出来るヒトが、
出来ることをやる。

ひとつ出来たら、また次を、と、
まるで真っ暗闇を、
手探りで歩み進むようなもの。

つまずいても、
痛いと認識する余裕もないんだろう。


市の火葬場は、
1日に、4,5体の遺体しか焼けない。
そんな街で、
数え切れないほどの死体が、
次々に運ばれてくる現実。


観ていて、
なかなか想像出来なかったのが、臭いだった。

まだ寒かった時期とは言え、
海水、ヘドロ、下水などが入り混じり、
相当な悪臭だっただろう。

映像から想像できる範囲もあるけれど、
それが、
一番に、そこに居ないという実感だった。


暮らしには、匂い、臭いがある。
好きなものもあれば、そうでないものも、
生き物にもそう、
様々な匂い、臭いを持っている。


嗅覚は、とても命に近い場所にあり、
どんな匂いを嗅いで暮らすかは、
とても大事なコトだ。


誰でも、
好きな場所、好きなヒトの匂い、
懐かしい匂い、
嗅いだだけで逃げたくなる臭いがあるだろう。


とてもとても昔に嗅いだ匂い、臭いの記憶が、
一瞬で蘇るコトは、よくある。

生き物にとって、
嗅覚は、命を守るためにも
欠かせない器官。


ついさっきまで生きていたヒトが、
あっけなく死んでしまう。

心臓が停止し、
血流が停止し、
細胞分裂が停止し、
時の流れと共に、
冷たくなる、
硬くなる、
そして、腐ってゆく。


かけがえのないヒトが、
腐ってゆく。

毎日一緒に寝起きをし、
息づかいを確かめ、
共に笑い、
時に言い合いをし、
同じ時を、共に生きたヒト。


そのヒトの命の活動が止まった時、
共に生きた記憶だけが重くのしかかり、
もう手を握ってもらえない、
呼んでも返事もしてもらえない、
その事実を、
現実としてどう受け止めてゆくか。


仕方ないなどと、
どうして思えるものか。


ヒトは誰でも、
生まれたからには死んでゆく。

知らなかったのではない、
なのだけれど、
あたたかみが消えてゆくという事実を、
肌で感じ、
命がとまったという、
その空気感に、打ちのめされるだろう。



輪廻転生ならば、
またいつか、生まれてくる。
何度生まれ変わっても、
アナタに会い、
共に過ごしたいと願う。


今、じっくり考えるならば、
何より、
そんなかけがえのない存在がいるというコトが、
何より幸せなコトだ。

そんな存在がなければ、
そんなに打ちのめされるほどの
苦しみを味わうコトもないだろうけれど、
でも、やっぱり、
そんな存在が居てくれるから、
昨日も、今日も、
こうして生きてゆけるのだと思う。

そして、
どれだけ豊かな人生になっただろう、と。


愛される喜びもある、
愛する喜びもある。

家族、恋人、友達、
いろんな愛の形はあるけれど、
今、私は、愛に満たされているから、
悲しいのだ。


失うことが、
どれだけ痛く苦しいかと、
容易に想像できるから。


だから、思う。

生きている今に、
精一杯、
なるべく後悔せんよう、
自分を、ヒトを、たくさん愛し、
労り合い、共に『今』を分かち合いたいと。


でも、
死んだら終わり、ではない。

生きるコト、死ぬコト、
倫理的な考えには、答えがない。

ヒトそれぞれの想いがあり、
考え方があり、
時にはそれを話し合い、
自分の考えの幅を広げるのもよいだろう。



たとえ死んでも、
そのヒトは、
いつまでも、いつまでも、
私の中で生きている。

そして、私が死んでも、
私が大切に思ったこのココロは、
消えないだろう。


そうやって、
人類は命を育み合って、
今日まで続いている。


私の命は、
果てしなくたくさんの先人の恩恵を受けて、
ここに存在している。


もしかしたら、
前世があるのかもしれない。
来世だって、そうなのかも。


でも、確かめようのないものは、
分からないという答えが、
一番明確だろう。

あるかもしれんし、ないかもしれん。

だから、ワクワクと、探求してゆける。
未知なる領域。


お釈迦様は言ったのだと聴いた。

死んだらどうなりますか?という弟子の問いに、

死んだコトがないから分からない、と。


人生には、
分かるコト、
分からないコトがあるけれど、
分からないコトのほうが、
よっぽど多いと思う。


分かったのに、また分からなくなる。
学ぶにおいても、
これも繰り返し。


1+1=2のように、
定義づけし、
明確に答えを出すものもあるが、
生きるコトが土台であれば、
分からないもののほうが、多い。


だから、
良心に基づき、生きるしかない。
大切だと思うものを大切にし、
意味があるものの、意味を大切にし。

命から日々湧き上がってくるものこそ、
生きている、そのものだろうと思う。



好きというエネルギーは、果てしなく強い。
好きこそ全てと言うが、
好きでないものを大事にせよと言われても、
そんな難しいコトはない。


でも、
まだ三十数年ほど生きた中で、
大きく気付いたコトがある。

好きなモノを、好きなヒトを大切にするためには、
果てしない大きなチカラがいるコト。


家族を大切にするためには、
暮らしている街を大切にしないと、
そこに安定した暮らしは生まれない。

特に子どもはそうだ。

家庭の中だけでは、
いくら習い事をさせたって、
到底、豊かには育たない。


街で、
たくさんの大人のチカラを借りないと、
子ども自身の仲間がいないと、
生きるコトが学べない、
安心してのびのび育ってゆけるだろう環境があってこそ、
大事な子どもを大事にできる。


好きなモノを、
好きなヒトを大事にするには、
たくさんのチカラがいる。

だから、
好きなモノ、ヒトを取り巻く環境をも、
大切にするコト。


自分だけで守れるものなど、
育てられるものなど、
ほんのほんの些細なものだろう。


ヒトにご迷惑をかけずに生きるコトも大事だけど、
かけた迷惑を、
いかにお返しするかとしたほうが、
楽しいのではないか。


転んで、ひとりで起き上がれなかったら、
差し出してもらった手を、
素直に借りたらいいのではないか。


誰だ彼だと言わず、
気軽に手を差し出し合える暮らし。

そんな地域の中であれば、
私の好きなモノ、ヒトを、
安心して好きでいられるのではないか。


結局、
無関係なものなどないというコト。

興味の有りなしはあるけれど、
全部を受け止める必要もないけれど、
少なくとも、
歩む中で目に入った景色、
そこに居るヒト、モノの中に、
不必要なものはない。

必要だから、そこに在るのだから。
必要だから、目に入ったのだから。



みんな、つながっている。
様々なヒトやモノを介して、
みーんな、つながっている。


という事実を、学んだ。
それが、分かった。


だから、
つながっているから、
見知らぬ誰かの悲しみにをも、
寄り添う。

そのヒトがどんなヒトか分からなくとも、
痛い想いを想像し、寄り添うコトは、出来る。



あの日を境に、
『祈り』と言うコトバが、
すんなり社会に溶け込んだように思う。


ヨガを始め、
それを自然に在り方として持っているものもあるけれど、
あの時、
生きている命という共通点だけで、
亡くなった命へと、
生き残ったものの、
消えそうなほど傷ついた命へと、
祈りが捧げられたと思う。


その祈りの流れが、
途切れるコトがないよう、
事ある度、思い出したい。



生きているありがたみ。
生きているあたたかさ。


命が、動いている喜び。





ありがとうございます。

















決意。





今年は、絶不調。


病は気からと言うけれど、
気の持ちようだけではやってけない。

まだまだ頑張るぞーという、
意欲が枯れてしまった。

何だか、疲れてしまった。


明るく楽しく元気よく、
人生を面白おかしく楽しみ尽くしたい。

と、日々思うのだけれど、
そのためのチカラが湧いてこなくなってしまった。


さあどうしよう。

いろいろ考え、考え、
そして決めた。


しばらく、北海道で暮らします。


散々考え、迷って、泣いて、
気が済んだというか、
今は、開き直った気持ちです。

良い意味で、成るように成るし、
成るようにしか成らない。


これも、
何があるか分からない人生の楽しみとして、
とにかく、楽しくやってみよう、と。



今年、何度か北海道へ療養へ行った。
皮膚疾患にとてもよく効くという、豊富温泉。

それだけではないだろう、
空気も、水も、広い空も大地も、
北海道は、まるで外国のようだ。


転地療養は、とてもカラダによい刺激にもなる。

朝早く気持ち良く目覚める心地よさや、
身軽なカラダ、ココロ、
生きているありがたさを、
つくづくと感じる喜び。


健康とは、
なんて、なんて、ありがたいものだろう。
そして、
なくしてみて、
つくづく分かるもの。



でも、目指すはそこではない。

どんな環境でも生き抜けるほどの、
力強い命のチカラを養うコト。


なのだけれど、
ひとまず、
充電したいと思います。


快適な環境にてただ過ごすのではなく、
命とじっくり向き合い、
自分のヨガを学び直そう。

分かっているつもりでやっているコトを、
またイチから、
カラダを使い、意識を張り巡らせて、
新たな心持ちで、学び深めたいと思う。


そして、
新たに住民となる豊富町で、
自分の居場所探し、
居場所作りをしてゆきたいです。



ここ2週間ほど、
クラスに行かせていただいてはそれを報告し、
メンバーの皆さんには、
快く理解してくださいました。

ホントにホントにありがとうございます。


クラスは、共に学ぶ仲間です。
先生も生徒もない。

毎週欠かさず通ってくださる方、
忙しい中を、
やりくりしながら通ってくださる方、
どの方もみんな、
共に生きる、私の大切な仲間です。


そして私は、
どれだけ恵まれ、
大切にしていただき、
日々過ごしていたかと、
痛いほど、これでもかというほど、
つくづく、思い知りました。


私が勝手にヨガを伝えたいと始めたサークルに、
どれだけの方がお越しくださり、
時間を共にしてくださったか。


いつも思っています。

インストラクターになった時、
師に、
向こう10年はお越しくださる方はお前の犠牲者だと、
ありがたく犠牲になっていただき、
感謝で学ばせていただくように。

そう、
たまたまなのか、
意味があってなのか、
今年でちょうど、10年。

そこで、
立ち止まってみる機会をいただいたのかもしれない。


なんて言っても、
未だ、
教えますと言えるような自信もなく、
ある程度は場慣れしただろうけども、
日々、
あれこれと思い悩みながらの繰り返し。


まだまだ、まだまだだなあと、
よくよく思う。

でも、だから、
日々探求し、
学び深めてゆきたい気持ちに変わりはなく、
どこへ行っても何をしていても、
その生活全てが学びであり、
命の糧なのだというコトを、大切にしたい。




今回、
クラスで直接お会い出来なかった方もいらっしゃるし、
メンバーさんに限らず、
会いたいと思いながらのヒトがたくさんいます。


ひとまず、
体調良くなるよう養生しますので、
ぜひまた帰って来た時には、
会いに行かせてください。



出会いは、人生最大の宝。

カラダに距離はあれど、
ココロにはない。


私のココロには、
たくさんのヒトが、
かけがえのない思い出が、住んでいる。

それらは、
今日も私を豊かに生かしてくれ、
今を満たし、
未来への意欲となっている。


ひとりで生きた日など、
たったの一日もない。


どれだけの大きな大きなサポートをいただき、
私は生かされているか。


少しずつでも、
出来ることを、
毎日の中で、
お返ししてゆきたい。


一人で歩いて探し見つけたものなど、
ひとつもないだろう。


私も、
出来ることを精一杯、やってゆこう。
自分のために、そして、他がために。


自他共に生かし合うって?

これが、
生涯に渡ってのテーマ。

アナタも私も幸せになれる方法。
手段はその時それぞれで変わるだろう。

でも、根底にある想いは変わらない。

仕事であろうと遊びであろうと、だ。


どちらかだけが生き残る仕組み、
損得がある状況は、
どうやったって、長続きしない。

それが、自然法則だ。


自然体にて生かされる、
その時々の手法を、
偉大なる大自然から、
そして、私という命から学んでゆこう。



37年、いや、
誕生日が来たので38年。

この瀬戸の街で暮らしてきた。

たくさんたくさん、
大切なヒトが、場所が、モノが、ある。

ここまで私を生かしてくださった全てに、
ココロからの感謝を届けたい。

ありがとうございます。


これから、
もっと頻繁に更新したいと思うので、
お時間あれば、覗いてください。


北海道での暮らし、
活動報告なんかもしてゆきます。


そして、
尾張旭、瀬戸市にて開講しているどのクラスも、
変わらず継続してゆきます。

名古屋のスタジオ、
湘南シャイズにてのクラスは、
ずっと代行を引き受けてくれていたかおり先生に
引き継いでもらえました。


どのクラスも、
親愛なる仲間たちに託せたので安心です。



今日がひと区切り、
藤池公民館最後のクラスでした。
ヨガ&こんにゃく湿布をしました。

画像1



寒い冬にもってこい、
家庭で気軽に出来るお手当法。

カラダをあたため、
こんにゃくのアルカリが酸性血を中和し、
流してくれます。



忙しい中を受けに来てくれた
ヨガを共に伝える仲間たち、
みんな、ありがとう。


日比野ちゃん、いつもやわらかく、
のんびり接してくれ、
私の抜けたトコロを埋めてもらい、ありがとう。

貴子さん。
アナタの実践力、
学ぶ意欲はスゴイ。
これからも共に学んでゆこう。

依田ちゃん。
いつもありがとう。
足りないものなどなにもない。
ひたむきで、実直で、
私は、気付かされるコトがたくさん。

清美さん。
子連れクラスで出会い、
今もこうしてつながるご縁が嬉しい。
ハキハキした丁寧な受け答えが、
いつもキレイだなあと思ってます。

ゆみちゃん。
私も、出会った頃をふと思い出していたよ。
しなやかな強さを得て、
どっしりとしたね。



クラスの後、
みんなで話して笑った、何気ない時間、
とてもあたたかく、幸せだなあと、しみじみ。



ヨガを学ぶ人生。
それは、流派や、技術や、柔軟性ではなく、
生き方でありたい。


やわらかく、あたたかく、
しなやかに、たおやかに。



どこへ行った時も、
どこから帰るにも、
バイバイは言わない。

またね、と言うコトにしている。


みんな、またね。
またゲンキで会えるのを楽しみに。

与えられたすべてに、感謝します。





『アナタの生きる人生を愛せ。
アナタの愛する人生を生きろ。』

先週だったか、
健太郎さんがブレスレットをくれた。

誕生日と、結婚記念と、クリスマスを合わせたプレゼントだと。

そのブレスに刻んであるコトバ。



私は、私を愛していたい。
私が生きる人生を、愛してゆけるものと出来るよう、
愛に満ちた日々でありたい。

それは、
外側に求めるのでなく、
自分の内側から湧き出てくるもの。

その場所を邪魔しないよう、
流れをとめないよう、
なるべく素直に、
ありのまんまで在りたい。


親愛なるヒト、ありがとう。






ありがとうございます。









mamy
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