August 2011

August 31, 2011

マリア・テレジア・フォン・エスターライヒ
    Maria Theresia von Osterreich
   (1717年5月13日 - 1780年11月29日)
 神聖ローマ皇帝フランツ1世シュテファンの皇后にして共同統治者
 オーストリア大公(在位:1740年 - 1780年)、ハンガリー女王(在位:同じ)、ベーメン女王(在位:1743年 - 1780年)として統治した。
 
 オーストリア系ハプスブルク家男系の最後の君主となる。
 彼女の子供たちの代からは正式には、夫の家名ロートリンゲン(ロレーヌ)との複合姓(二重姓)でハプスブルク=ロートリンゲン家となる。

 「女帝」と呼ばれたが、実際には皇帝に即位したことはない。
 ハプスブルク家の領国と家督を相続したのはマリア・テレジアであるため、彼女の肖像画には神聖ローマ皇帝の帝冠が添えられている場合が多く、当時も少なくとも領国内では「女帝」視されていた。
 
 なお、夫である皇帝がフランス国境沿いの小国ロレーヌ公国(現フランス領)出身の養子的存在であり、ハプスブルク家領国内において実際の政治的権力をほとんど持たなかった。
 
 ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝カール6世と皇后エリーザベト・クリスティーネの長女として誕生した。 

 ハプスブルク家は
   サリカ法典に基づく男系相続
を定めていたが、彼女の兄が夭折して以後、カール6世に男子がいなかったことから、やがて次期後継者と目されるようになった。
 カール6世は国事勅書を出し、オーストリア・ボヘミア(ベーメン)・モラヴィア(メーレン)・ハンガリーなど、ハプスブルク家世襲領の相続を認めさせた。
 また、女子が皇帝になることはできなかったため、帝位には娘婿のロレーヌ公フランツ・シュテファンが就くこととした。
 
 カール6世の死後すぐ周辺諸国が反旗しは娘の相続を認めず、領土を分割しようと
   オーストリア継承戦争(1740年 - 1748年)
を引き起こした。
 

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August 30, 2011

 15世紀にヴァロワ家のブルゴーニュ公とフランス王の間で戦われた一連の戦争のこと。
 後にスイス盟約者団(Alte Eidgenossenschaft)も巻き込まれた。
 スイスは傭兵を出しており、この戦争で決定的な役割を演じることになった。
 
 1474年に開戦し、ブルゴーニュ公シャルル突進公はナンシーの戦いで戦死した。
 ブルゴーニュ公の本領とその他の公領はフランスに併合された。
 ただし、ネーデルラントとフランシュ=コンテ(ブルゴーニュ自由伯領)はシャルルの娘マリーが相続し、最終的にはハプスブルク家の所領になった。
 
  

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August 29, 2011

ナンシーの戦い
 (Bataille de Nancy)
 1477年1月5日、フランスの都市ナンシー郊外で
  ブルゴーニュ公シャルルとロレーヌ公ルネ2世
との間で起こったブルゴーニュ戦争最後の戦い。

 ブルゴーニュ公シャルルはロレーヌ公ルネの軍によりロレーヌ公国の首都ナンシーを1476年に奪還されたため包囲作戦で占領しようとしてた。
 厳冬期であり、包囲側のシャルルは天候が回復すればルネが救援の軍を率いて来るため、包囲網を完了させるつもりだった。

 12月下旬、ルネはロレーヌとライン低地同盟から1万人程、スイスから傭兵1万人を集結させ、1477年1月上旬ナンシーに向けて進軍を開始し1月5日早朝にはナンシーに到着した。
 
 シャルルはルネ連合軍に対しナンシーの南にある強固な防衛拠点へ軍の主力を投入し整列させた。
 背後に渓流が流れる谷間のもっとも狭まった場所で、急斜面には木が生い茂っていた。
 
 シャルルは6ヶ月前の
   ムルテンの戦い
の損失で偵察隊の不足に苦しんでおり

 シャルルは自ら戦略に厳密に従った対陣を組み歩兵中隊と憲兵に30門の野砲を丘の頂上の正面に、騎乗した騎士と砲兵を両翼に配置した。
 しかし、近衛兵すら定員割れしており、兵力のほとんどは従卒で、理論的には多く見積もっても実力の50%しか発揮できなかったと考えられている。

 連合軍の偵察隊はブルゴーニュの陣地に対して正面攻撃を仕掛けると自軍に大きな損害をもたらすことを確認し、スイス軍は歩兵7,000人の歩兵部隊と2,000人の騎兵部隊から成る前衛部隊(フォーアフート、Vorhut)が右翼からの攻撃を、8,000人の歩兵部隊と1,300人の騎兵部隊から成る主力部隊(ゲヴァルトフート、Gewalthut)はブルゴーニュ軍の左の横腹を攻撃すべく困難な道を迂回して行軍した。

 主力部隊はブルゴーニュ陣営のすぐ後方の斜面の茂みからくさび形陣形を組んで現れた。
 スイス軍はブルゴーニュ陣営に向けて坂を下って突撃した。
 ブルゴーニュ陣営の大砲は対主力部隊向けに再訓練を受けていたが実戦で十分な威力を発揮出来ず敗走。
 なお、ブルゴーニュ軍右翼の騎兵はスイス歩兵の集団をある程度は撃退したものの、スイス歩兵との多勢に無勢の一方的な戦いで、ブルゴーニュ歩兵の方陣は変形し退却、崩れ去った。
 また、前衛部隊はブルゴーニュ軍左翼を撃退し、砲兵を敗走させた。
 決戦となったこの戦いではルネの軍勢が勝利したが、混戦の中逃げ遅れて切り刻まれたシャルルの遺体が確認されたのは3日後だったという。
 
 

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August 28, 2011

 大阪大微生物病研究所の堀井俊宏教授らが開発した
   マラリアワクチン
をアフリカ・ウガンダで子ども(6〜10歳)に接種したところ、血液中で病原体のマラリア原虫を攻撃する免疫物質(抗体)を大量に増やすことが臨床試験で確認された。

 マラリアで死亡する患者の9割は子どもで占められる。
 
 堀井教授らは安全性や効果を確認する試験を行った上で
   子どもの発症を防ぐワクチン
の世界初の実用化を目指す。

 試験は、最大規模のマラリア流行地のウガンダで昨年5月から実施した。
 
 ワクチンの安全性を確認するために、6〜40歳の140人に接種、抗体も測ったところ、11歳以上ではほとんど増えなかった。
 しかし、6〜10歳では、11人中8人で接種前の2・5〜60倍に増えていた。

 来年には乳幼児(0〜5歳)で安全性と効果を確認する臨床試験をウガンダで始める予定という。

 11歳以上で抗体が増えないのは、幼少期からの感染の繰り返しで、免疫が反応しなくなったとみられる。

   

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August 27, 2011

 東北大の片桐秀樹教授(代謝学)らのグループでは
   肥満になると血圧が上がる傾向
があるが、その仕組みのカギを握るたんぱく質
   PPARγ(ガンマ)
を見つけ、9日付の欧州循環器学会誌(電子版)に発表した。
 肥満を治す薬の開発も期待できる成果という。
 
 一般的に肥満になると血圧が上昇するのは、基礎代謝を上げて太りすぎを防ぐ反応と考えられているがそれを上回るペースで栄養を取ると、高血圧が続いて動脈硬化につながる。
 
 グループでは、いわゆる内臓肥満で脂肪がたまった人の肝臓に見られるPPARγ(ガンマ)というたんぱく質に着目した。
 マウスの肝臓にこのたんぱく質を作る遺伝子を入れてスイッチを入れてみたところ
   やせたマウス
でも、肝臓から肥満しているという情報が脳に伝わり、脳からの指令で血圧が上昇して体内の脂肪の分解が進んでいた。
  
 

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August 26, 2011

イドリース1世
 (dris I, 1889年3月12日 - 1983年5月25日)
 リビア王国の国王(在位:1951年12月24日 - 1969年9月1日)
 ムハンマド・イドリースとも呼ばれ、初代にして最後の国王
 
 オスマン帝国領のキレナイカ(リビア東部)で長年
   サヌーシー教団
を率いてきたサヌーシー家に生まれサヌーシー国家の将来の国王となるべく育てられた。
 
 1911年の伊土戦争でリビアはイタリア王国により植民地化されサヌーシー教団はイタリア支配に抵抗し、第二次世界大戦では、枢軸国の一員として参戦したイタリアに対して連合国側について戦った。
 1943年にイタリアが敗戦した後のリビアがイギリスとフランスの共同統治領となった。

 この後、国際連合の決議によりキレナイカとトリポリタニア、フェッザーンの3州による連合王国(リビア王国)がイギリスより独立を果たした1951年12月24日、リビア国王に即位し、その後石油収入で潤うことになる同国の国王として君臨した。
 
 冷戦下において、旧宗主国のイギリスやアメリカの援助を受け両国のオクシデンタル・ペトロリウムロイヤル・ダッチ・シェルなどの石油関連企業が同国内で石油の掘削を行う際の後見人的立場を維持した。
 
  
 
 

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August 25, 2011

ムアンマル・アル=カッザーフィー
   (1942年6月7日  - )
 リビアの軍人、革命家、政治家
 称 号 リビア最高指導者および革命指導者
 ただ、自身は「民間人」を名乗り、一般には「敬愛なる指導者」と称されている。

 日本では一般にカダフィ大佐と呼称され、海外では実に多様な綴りで表される。
 中東で最も反欧米の強硬派だったことや、数々の極端で奇怪な言動から「砂漠の狂犬」「アラブの暴れん坊」とも呼ばれていた。

 1969年のクーデターでイドリース前体制から政権を奪取して以来、リビアの実質的な国家元首を務めている。
 2009年2月から2010年1月まで、アフリカ連合の議長(任期1年)を務めた。
 
 リビアの砂漠地帯に住むベドウィン(遊牧アラブ)
   ガッダーファ部族
の子に生まれた。 
 1963年にベンガジの陸軍士官学校に進み
   サヌーシー朝王家打倒を計画
し自由将校団の組織した。
 1965年に卒業するとイギリス留学に派遣され、一年後に帰国して通信隊の将校となった。
 
 1969年9月1日、カッザーフィーの同志の将校たちと共に首都トリポリでクーデターを敢行した。
 病気療養でトルコに滞在中の国王イドリース1世を退位させ、国家の中枢機関を制圧して無血革命に成功した。
 
 

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August 24, 2011

セクリタテア
  (Securitate)
 ルーマニア社会主義共和国の秘密警察
 組織上は内務省の傘下にあり、正式名称は
    国家保安部
     (Departamentul Securităţii Statului)
であった。
 
 メンバーは主に国営の孤児院出身者から構成され、一般住民との接触は強く制限されていた。
 優秀な子供として選ばれた孤児に対し、洗脳と特殊訓練を受けてセクリタテアへと育てられた。
 この組織の下で徹底的な監視社会となった。

 セクリタテアの主要任務としては、防諜、反体制派対策、ニコラエ・チャウシェスク大統領と側近の個人警護を担当していた。
 
 ルーマニアには対外諜報機関である
   参謀本部情報局
   対外情報部(Departamentul de Informatii Externe、略称DIE)
が存在したが、セクリタテアは国外でも活動し秘密作戦(反体制派の除去など)のために、セクリタテアには「コンドル」グループが存在したという。
 
 民主政体下(1990年以後)では、元セクリタテアのメンバーに対して公職禁止が布かれたため元セクリタテアのメンバーは、イスラエルの特務機関員や極右民族主義政党「大ルーマニア党」に匿われたり、または裏の犯罪組織に入ったと見られる。
 
 

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August 23, 2011

ニコラエ・チャウシェスク
 Nicolae Ceauşescu
   1918年1月26日 - 1989年12月25日
 共産党時代のルーマニアの政治家でルーマニア社会主義共和国初代大統領(1974年〜1989年)、国家評議会議長(1967年〜1989年)、ルーマニア共産党書記長(1965年〜1989年)を歴任した独裁者
 
 1958年にソビエト連邦の軍隊をルーマニアから撤退させた
   ゲオルゲ・ゲオルギュ=デジ
の後任として政権を確立した。

 北朝鮮の政治体制と主体思想(チュチェ思想)に影響され、政権後期には秘密警察
    セクリタテア
による国民生活の徹底的な監視・盗聴など恐怖政治を実行した。
 チャウシェスク自身への常軌を逸した個人崇拝、国家主義などや縁故主義による独裁政治を敷いた。
 
 1989年12月に起きたルーマニア革命で、革命軍に粛清された。
   
 

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 宮内庁書陵部の調査によると、ボストン美術館が所蔵する、世界最大級の墳墓・
   大山古墳
    (通称 仁徳天皇陵、5世紀中ごろ、堺市)
の出土品と伝わる
   獣帯鏡(じゅうたいきょう)
   環頭大刀(かんとうたち) など
5点の考古遺物が、6世紀第1四半期のものとみられることが分かった。

 古墳の築造時期とずれがあり、大山古墳の出土品である可能性は低くなった。

 この調査成果は同庁の「書陵部紀要」に発表された。
 
 また、これらの遺物は、同美術館に勤務していた美術家・岡倉天心が1906年6月に、京都で購入した可能性が高いことも分かった。
 
  
 
 

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