February 2013

February 28, 2013

華興会
 清末民初の中国人革命家dえ孫文とともに民国革命の双璧と称された黄興が中心となり組織された革命組織の一つ。
 活動方針は
   「清朝の打倒」
   「民主および自由国家の建設」
であった。
 
 1899年に
   唐才常
が漢口に挙兵を計画したときに、これに呼応する同志を募ったが失敗し、湖南から逃亡、1901年に来日し東京で弘文学院に入った。
 1903年、黄興は運動員の身分で日本より清国に帰国し革命の準備に向けた活動に従事した。黄興は上海で『蘇報』編集長であった章士,覆匹凌掲豹融里斑里蟾腓辰拭
 同年宋教仁・陳天華・劉揆一と秘密結社・華興会を組織した。
 その総理となり、湖南にある哥老会(中国語版)の頭目
   馬福益
と連絡を取る一方、広西義軍と協力し革命計画実行に邁進した。
 
 長沙明徳学堂校長の胡元倓の招待を受け、武昌を経て長沙に戻っている。
 
 事前に両湖総督・張之洞に探知され、翌年には上海に逃亡した。
 そこで広西巡撫
   王之春暗殺事件
の嫌疑をかけられて逮捕されたが、数日で釈放され東京に亡命した。
 
 
 黄興は明徳学堂時代に「東文講習所」日本語学校教師に着任した。
 鄒容の『革命軍』、陳天華の『猛回頭』、『警世鍾』などの革命活動家の書籍を大量に翻訳した。
 
 
 
  

manekinecco at 10:59トラックバック(0)よもやまばなし  このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

February 27, 2013

 オットセイが片側の脳だけ眠らせることを可能にする
   脳内化学物質
を特定したとする研究論文が「神経科学ジャーナル(Journal of Neuroscience)」に掲載された。

 論文の主執筆者、米カリフォルニア大学ロサンゼルス校
   脳研究所(Brain Research Institute)
のジェローム・シーゲル(Jerome Siegel)氏は今回の発見について、人間が
   どのように眠り
   なぜ眠るのか
を解明する手がかりになると話している。
 研究を行った科学者らは、この
   「ユニークな生物学的現象」
は、不眠症などの睡眠障害に苦しむ多くの人々の助けとなる発見だと述べている。北米では、睡眠障害に悩む人は全体の40%に上ると推定されている。

 論文を共同執筆したカナダ・トロント大学(University of Toronto)の
   ジョン・ピーバー(John Peever)氏
によると、オットセイは右脳を覚醒させたまま、左脳を眠らせることができる。
 これを「生物学上の驚異」と説明している。
 
 オットセイは水中で眠るときにはこの方法で眠る。
 一方、地上では人間と同じように眠るという。

 研究チームは、オットセイの睡眠中と覚醒中の脳内化学物質の違いを調べるため、脳表面の電気活動の測定に加え、大脳皮質にチューブを挿入して脳内化学物質の測定を行った。

 結果、睡眠中の脳の
   アセチルコリン量
は少なかった一方、覚醒中の脳には多く確認されたため、このアセチルコリンが覚醒状態を誘発していることが示唆された。

 アセチルコリンと同じく重要な脳内化学物質とされるセロトニンの量は双方の脳で同じだった。
 
 ピーバー氏によると、セロトニンは長い間
   脳の覚醒を誘発する物質
と考えられてきたため、これは驚くべき発見だという。
 
 
 

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February 26, 2013

加納 久朗
 (明治19年(1886年)8月1日
     −昭和38年(1963年)2月21日)
 
 日本の銀行家、政治家。子爵
 千葉県出身
 
 子爵加納久宜の次男として生まれ、1911年7月:東京帝国大学法科大学政治科卒業
 
 横浜正金銀行入行後、ロンドンにて駐英大使吉田茂の親交を得ることとなった。
 
 ロンドン支店支配人となって
   国際決済銀行理事会副会長
に就任。取締役として同行北支最高責任者として経済情勢分析などにあたった。
 一方、木戸幸一に蒋介石政権の真意や国民党と共産軍の意図など、「重慶情報」として現地の政治情勢を報告すしている。
 北京で終戦を迎え、戦後の混乱の収拾に尽力した。

 戦後のドッジ・ライン実施に際し
   ジョゼフ・ドッジ
に意見表明と情報提供を行った。
 
 1958年、東京湾の埋め立て開発を提唱し、自民党や財界の推挙により、農政官僚出身で漁民保護の立場から開発に消極的であった柴田等前知事を破り、千葉県知事となっと在任110日で急逝した。
 
 
 

manekinecco at 08:31トラックバック(0)  このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

February 25, 2013

 京都大学や長崎大学のチームでは高齢での発症が多く遺伝とは関係のない
   「孤発性」のアルツハイマー病患者
の大脳の神経細胞内部に、病原となる
   毒性物質が蓄積
するケースがあることを、患者の細胞から作った人工多能性幹細胞(iPS細胞)を使って確かめた。
 

 チームによると、脳内の神経細胞の状況を、さまざまな細胞や組織になる能力があるiPS細胞を利用して体外で再現し、患者の多い孤発性で内部蓄積を実証したのは初めてとなる。

 チームの井上治久京大准教授は
   生存中に蓄積を確かめ
られ、早期診断できる可能性がある。
 予防や薬剤開発にも役立てたいとした。
 
 
 

manekinecco at 08:24トラックバック(0)サイエンス  このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

February 24, 2013

 東京医科歯科大の烏山一教授と金沢大の向田直史教授らのグループは21日、マウスの実験でアレルギーで起きた炎症が治まる際
   炎症の火付け役
の細胞が火消し役に変化する現象を発見したと米科学誌イミュニティに発表した。

 今回の発見は病気の理解や治療開発の糸口になると期待される。
 なお、アトピー性皮膚炎やぜんそくなどのアレルギー疾患ではこの仕組みに不具合が起きている可能性があるという。

 チームでは、マウスの耳に慢性アレルギー炎症を起こし、さまざまな種類の白血球の動きを調べた。
 
 
 


manekinecco at 09:40トラックバック(0)新発見  このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

February 23, 2013

 放射線医学総合研究所の平野好幸客員協力研究員と神奈川歯科大学の小野塚実・元教授らの共同研究によると
   噛むこと
によって注意力が増し判断するスピードも速まることが分かった。
 
 この研究は脳活動の変化を「fMRI(機能的磁気共鳴画像法)」で画像化して調べたもので、かむ動作が認知機能に影響を与える仕組みの解明につながるという。
 
 研究チームでは、20〜34歳の17人にガムを噛んでもらい、その後、数秒から十数秒の間隔でスクリーンに映る矢印の左右を当てる検査「注意ネットワーク賦活テスト」をした。

 その結果、噛む動作を伴う場合は、妨害の有無と合図の有無の全ての組み合わせで、応答時間の平均値が下がった(応答速度が速まった)。
 特に「合図あり・妨害なし」と「合図なし・妨害あり」の場合に、かむ動作による反応効果が有意に大きかった。
 
 また、fMRIの結果から、テスト中には大脳の前頭前葉の内側にある「前帯状回」や「左前頭前皮質」(左上前頭回と左中前頭回)などの、注意に関わる脳部位の活動を増強させることも分かった。

 
 この結果、かむ動作によって注意ネットワークが活性化されることで、判断速度が向上し、注意力が高まっていることが示された。
 かむ動作の与える影響をfMRIで画像化に成功したのは、世界で初めてのこと。
 
 
 

manekinecco at 08:16トラックバック(0)新発見  このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

February 22, 2013

 国立病院機構名古屋医療センター臨床研究センターの国島伸治分子診断研究室長(分子病態学)らの研究チームでは生まれながらに止血機能が悪く、出血しやすくなる
   「先天性血小板減少症」の原因遺伝子
を新たに発見したと米学会誌電子版2月21日号に発表した。

 先天性血小板減少症の原因遺伝子はいくつか判明している。
 
 それに当てはまらない半数の患者は原因が分からず、難病指定されている別の病気と誤診されることもあるという。
 
 
 

manekinecco at 09:40トラックバック(0)新発見  このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

February 21, 2013

 京都大iPS細胞研究所の井上治久准教授らのチームは認知症の中で最も多い
   アルツハイマー病患者
から作製したiPS細胞(人工多能性幹細胞)を使って、青魚などに多く含まれる「ドコサヘキサエン酸(DHA)」が同病の発症予防に役立つ可能性があることを確認したと発表した。

 イワシなどの青魚を食事でとることとの関係はこの研究では不明だが新薬の開発などにつながる成果となることが期待される。
 
 アルツハイマー病患者の脳内では
   Aβ(アミロイドベータ)
と呼ばれるたんぱく質の「ゴミ」が過剰に蓄積することで
   「細胞内ストレス」
という有害な現象が起きて神経細胞が死滅し、記憶障害などを引き起こすことが知られている。

 研究チームでは、50代〜70代の男女の患者計4人の皮膚からiPS細胞を作製。それを神経細胞に変化させ、Aβが細胞内外に過剰に蓄積した病態を再現した。

 細胞内にAβが蓄積した2人の細胞に低濃度のDHAを投与した場合と、投与しなかった場合とで、2週間後に死滅した細胞の割合をそれぞれ比較。
 その結果、DHA投与の場合、細胞死の割合は15%で、投与しなかった場合は2倍以上の32%だった。
 
 
 

manekinecco at 09:36トラックバック(0)新発見  このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

February 20, 2013

 米国ワシントン大学(University of Washington)の
   エミリー・キャリントン(Emily Carrington)教授(生物学)
のチームでは「ムール貝」として知られる
   ムラサキイガイ
が荒波に流されないのは
   強力な粘着物質
で岩に付着しているためだがこの粘着物質を人工的に作り出すことに成功した。
 外科手術やがん治療に応用できるという。

 チームが開発したのはムラサキイガイの接着タンパク質を人工的に模した粘着物質で、傷ついた胎膜を接合する際のシーラント材や抗菌ヒドロゲル、抗がん剤を患部に運ぶためのポリマー(高分子化合物)に応用できるという。

  
 ムラサキイガイが出す「接着剤」は足糸(そくし)という糸状の分泌物で、表面が乾いているか濡れているか、あるいは材質が有機化合物であるか無機化合物であるかかにかかわらず、ほぼあらゆるものに付着できる。

 また、この接着力を合成物質で再現することに取り組んできたノースウエスタン大学(Northwestern University)の
   フィリップ・メッサースミス教授(生体医用工学)
           (Phillip Messersmith)
らの研究チームでは、耐水性があり身体内部の傷を閉じるのに用いることができる合成接着剤を開発した。

 メッサースミス教授によれば、水分があるため修復しようとしても望ましい結果を得るのが難しかった胎膜などの人体組織にこの合成接着剤を使用できる可能性があるという。
 
 
  

manekinecco at 15:39トラックバック(0)  このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

February 19, 2013

吉田 茂
 (1878年(明治11年)9月22日
     1967年(昭和42年)10月20日)
 日本の外交官、政治家。位階は従一位
 勲等は大勲位
 
 高知県宿毛出身の板垣退助の自由党創立に参画し、自由民権運動の闘士して知られる
   竹内 綱
の5男として東京神田駿河台で生まれた。
 
 父親は征韓論で下野した後藤象二郎とともに蓬莱社を起こし、社長として高島炭鉱等の経営にあたっている。
 西南戦争時には、立志社の林有造らとともに、西郷隆盛らに呼応して政府転覆を企てたとして長崎で逮捕されてからまもないころであったという。
 
 実母の身元はいまでもはっきりしないが勤皇の志士の多くが幕末期に芸子桶屋等で討幕運動を行ったことから維新後に芸者等を妻や妾にする者が多く、母親も芸者だったらしい。
 
 竹内が投獄後に東京へ出て竹内の親友で旧福井藩士で横浜の貿易商(元ジャーディン・マセソン商会・横浜支店長)
   吉田健三(福井藩士)
の庇護のもとで茂を生んだとされる。

 1881年(明治14年)8月に吉田健三の養子となる。
 
 養父の健三が40歳の若さで死去し、11歳の茂は莫大な遺産を相続した。
 少年期は、大磯町西小磯にて義母 士子(ことこ 儒学者佐藤一斎の孫)に厳しく育てられ、戸太町立太田学校(後の横浜市立太田小学校)を卒業した。
 その後、1889年(明治22年)2月、耕余義塾に入学し、1894年(明治27年)4月に卒業すると、10年余りに渡って様々な学校を渡り歩いた。
 1895年(明治28年)9月、高等商業学校(一橋大学の前身)に籍をおくが商売人は性が合わないと悟り、同年11月に退校した。
 
 1896年(明治29年)3月、正則尋常中学校(正則高等学校の前身)を卒業し、同年中に慶応義塾 東京物理学校(東京理科大学の前身)に入学したもののいずれも中退している。
 
 1897年(明治30年)10月に学習院に入学、1901年(明治34年)8月に学習院高等学科を卒業した。
 同年9月、当時華族の子弟などを外交官に養成するために設けられていた学習院大学科に入学、このころにようやく外交官志望が固まった。
 
 大学科閉鎖に伴い1904年(明治37年)同年9月に東京帝国大学法科大学に移り、1906年(明治39年)7月、政治科を卒業、同年9月、外交官および領事官試験に合格している。
 なお、合格者11人中、首席で合格したのが広田弘毅だった。
 
 当時の外交官としての花形は欧米勤務だったが、吉田は入省後20年の多くを中国大陸で過ごしている。
 
 吉田は積極論者であり、満州における日本の権益を巡っては、しばしば軍部よりも強硬であったとされる。
 中華民国の奉天総領事時代には東方会議へ参加している。
 
 政友会の対中強硬論者である森恪と連携し、いわゆる
   「満蒙分離」論
を支持した。
 1928年、田中義一内閣の下で、森は外務政務次官、吉田は外務事務次官に就任した。

 なお、外交的には覇権国英米との関係を重視し、この頃第一次世界大戦の敗北から立ち直り、急速に軍事力を強化していたドイツとの接近には常に警戒していたという。
 
 枢軸派からは「親英米派」とみなされ「二・二六事件」後の広田内閣の組閣では外務大臣・内閣書記官長の候補に挙がったが陸軍の反対で叶わなかった。
 その後、駐英大使として日英親善を目指すが、極東情勢の悪化の前に無力だった。
 
 また、日独防共協定および日独伊三国同盟にも強硬に反対した。
 1939年待命大使となり外交の一線から退いている。

 太平洋戦争開戦前には、ジョセフ・グルー大使や東郷茂徳外相らと頻繁に面会して開戦阻止を目指すがルーズベルト大統領の排日政策す指針の意図があったため実現しなかった。
 
 開戦後は牧野伸顕、元首相近衛文麿ら重臣グループの連絡役として和平工作に従事し、ミッドウェー海戦大敗を和平の好機とみて近衛とともにスイスに赴いて和平へ導く計画を立てるが失敗した。
 
 1945年(昭和20年)2月の近衛上奏に協力したことが露見し憲兵隊に拘束され独房に入った。
 なお、親交のあった阿南惟幾陸相の配慮により差し入れ自由という待遇であったという。
 40日あまり後に不起訴・釈放となったが、この戦時中の投獄が逆に戦後は幸いし
   「反軍部」の勲章
としてGHQの信用を得ることになったといわれる。
 
 終戦後の1945年(昭和20年)9月、東久邇宮内閣の外務大臣に就任した。
 
 1946年(昭和21年)12月20日には、吉田の退陣を要求する在日朝鮮人によって首相官邸を襲撃されている。

 1947年(昭和22年)4月実父 竹内綱および実兄竹内明太郎の選挙区であった高知県全県区から立候補した。

 1951年(昭和26年)9月8日、サンフランシスコ平和条約を締結した。
 また同日、日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約を結んだ。
 
 造船疑獄では、犬養健(法務大臣)を通して、検事総長に佐藤栄作(幹事長)の逮捕を延期させた(結局、逮捕はされなかった)。
 これが戦後唯一の指揮権発動といわれる。
 当然ながら、新聞等に多大なる批判を浴びせられた。

 1962年(昭和37年)、皇學館大學総長就任、翌1963年(昭和38年)10月14日、次期総選挙への不出馬を表明し政界を引退した。
 しかし、引退後も大磯の自邸には政治家が出入りし、政界の実力者として影響を及ぼした。

   

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