September 2013

September 23, 2013

 長崎市立市民病院の中島寛・循環器内科部長は21日、心筋梗塞が朝方に起きやすいのは
   睡眠中
に呼吸がたびたび止まる
   睡眠時無呼吸症候群
が関係している疑いがあるとの研究結果を、熊本市で開かれている日本心臓病学会で発表した。
 
 
 2006〜11年に同病院で治療した心筋梗塞の患者に対し、発病から2週間後、睡眠時の呼吸や脳波などを測定した。
 
 空気の通り道である気道が狭くなることで起きる閉塞性睡眠時無呼吸症候群と診断された216人と、診断されなかった72人について、6時間ごとの時間帯に心筋梗塞の発症率を調べた。

 その結果、無呼吸症候群の人は、午前6時〜正午の発症率が38%と他の時間帯に比べて高く、「無呼吸」の程度が重い人の43%がこの時間帯に集中していた。
 
 なお、無呼吸症候群でない人は、どの時間帯も25%前後と差がみられなかった。
 
 
 
 

manekinecco at 11:01トラックバック(0)サイエンス  このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

September 22, 2013

 慶応大学外科の
   北川雄光教授
らが胃がんの手術時に
   センチネルリンパ節生検
という検査を行い、がんのリンパ節転移の有無をほぼ確実に判断できることを確認したと発表した。

 転移を正確に見極めることで
   切除範囲を減らし
後遺症の軽減につながる成果と期待される。
 

 センチネルリンパ節は、がんが転移する際に、がん細胞がリンパ管を通じて最初に流れ着くリンパ節のこと。
 なお、センチネルは「見張り」を意味する。

 検査は、ごく微量の放射線を出す物質をがん病変部に注入した。
 
 
 手術時に、この物質が到達したセンチネルリンパ節を
   探知機
で特定し、病理検査でがんの有無を調べる。
 
 がんがなければ転移がないと判断し、切除範囲を最小限にとどめることが可能だ。
 
 
 
 

manekinecco at 23:30トラックバック(0)新発見  このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

September 20, 2013

 放射線医学総合研究所(千葉市)のチームは
   アルツハイマー病
など認知症の原因物質の一つとみられる
   たんぱく質「タウ」
が、患者の脳内に蓄積した様子を可視化することに成功したと発表した。
 
 
 発症の早期発見や症状進行度の評価への応用が期待できる成果という。
 
 米国の科学誌ニューロン電子版に19日、掲載される。
 
 

 樋口真人(まこと)チームリーダー(神経科学)らのチームは、タウと結び付いて弱い放射線を出す、特殊な化学物質を開発した。
 
 これを注射して、放射線を体外から測定すると、タウの蓄積した場所が浮かび上がった。
 
 
 この技術で検査したところ、アルツハイマー病の患者は、記憶をつかさどる
   「海馬」
という領域にタウが蓄積していた。
 
 
 症状が進行した患者ほど、脳内の広い領域でタウが増加していた。
 また、アルツハイマー病とは別の認知症の患者も、タウが脳内に蓄積していた。
 
 
 
 

manekinecco at 11:09トラックバック(0)経済の動き  このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

September 19, 2013

レコンキスタ
  Reconquista
 イベリア半島のキリスト教徒がイスラーム教徒に対して行った
   国土回復運動(失地回復運動)
のこと。
 
 711年のイスラム軍の侵攻後始まり756年に
   ムサラの戦い
に勝利してイベリア半島を征服した。
 
 
 イスラムに追われてアストゥリアスの山岳地帯に逃げてきたる西ゴートの貴族
   ドン・ペラヨ
が率いる軍団が718年に蜂起し、722年に始めて勝利した
   コバドンガの戦い
から1492年のグラナダ占領までのおよそ800年間にわたって続けられた。

 
第1期(718年〜1031年)
 711年にイベリア半島へ侵入したイスラム教徒は,718年に北西のアストゥリアス地方のコバドンガで抵抗するキリスト教徒に敗れた。
 
 この敗北は歴戦の勇士であるイスラム教徒にとっては大した事件ではないもののキリスト教徒にとってはこれがレコンキスタの出発点となる歴史であった。
 
 同地方には「アストゥリアス王国」というキリスト教王国が作られ宗教的国民主義のもとにレオン=カスティーリャ(北部中央)方面へ進出を開始した。
 
 またナバラ=アラゴン(北東)方面からも同様の運動が起こり,ナバラ王
   サンチョ大王
が反乱軍を統一してイベリア半島北部一帯を武力支配した。
 
 一方、イベリア半島中南部でイスラム勢力の
   後ウマイヤ朝
が最盛期を迎えていた。


第2期(1031年〜1212年)
 イスラム勢力の有力武将
   アル・マンスール・ビッ・ラーヒ
が1002年に死ぬと、首都コルドバは無政府状態に陥り、息子たちの
   宰相位争い
とアラブ系の豪族とベルベル系の豪族による
   カリフ位
の擁立合戦、継承争いで29年の間に10人のカリフが即位するという内憂によって衰退した。
 
 1031年に大臣たちによる「評議会」によって
   ヒシャム3世
が追放、廃位されウマイヤ朝が滅亡した。
 
 これにより有力武将タイファが割拠する部族国家に分裂した。
  
 
 カスティーリャとアラゴンの2大強国を中心とする
   キリスト教勢力
が優勢となり攻略を開始し、イスラム教からキリスト教に改宗する者が続出していった。
 
 1085年にはかつてのウマイヤ朝の首都トレドを奪還してレコンキスタは終了する直前となった。
 
 しかし、新たにアフリカから別のイスラム部族が侵入して勢力を盛り返しました。でも1143年にポルトガルが独立を達成し,1212年7月16日ナバーラ王サンチョ7世とアラゴン王ペドロ2世のキリスト教側連合軍5万は
   ムハンマド・イブン・ユースフ・イブン・ナスル
率いるムワッヒド朝軍約12万と激突した
   ラス・ナバス・デ・トロサの戦い
で決定的勝利を収め
   アンダルシア平原
まで進出した。


第3期(1212年〜1492年)
 1224年、ユースフ2世が死去すると、後継者争いが勃発、3人のカリフが擁立され、内乱状態に突入した。
 1230年頃、ムハンマド・ナスルが
   アルホーナで蜂起
し、ナスル朝を建国した。
 
 ナスル朝は1235年にグラナダを攻略し、1238年に遷都した。
 
 群雄割拠していた貴族が中央集権化が進んだ国王によって成敗され、更に中央集権化が達成された。
 1340年にはグラナダ周辺を除いてレコンキスタは事実上終了した。
 
 1246年からのセビーリャ攻囲に、ナスル朝は
   カスティーリャ
の指揮下で参加した。
 
 1264年、カスティーリャの圧力が強まると、北アフリカの
   マリーン朝
を引き込んでこれに対抗させた。
 
 巧みな外交で立ち回り地理的優勢によって、ナスル朝はイベリアにおける最後のムスリム勢力として1492年まで存続した。

 また、グラナダには、キリスト教徒に追われた多くのムスリムやユダヤ人が移り住み、彼らの貢献によって経済的にも文化的にも繁栄した。
 
 1350年に即位した
   ペドロ1世
が、王権の強化を狙って継承権を持つ親族の排除を開始したため、カスティーリャは内乱に陥っている。
 
 1369年、エンリケはペドロ1世を排除し、エンリケ2世として即位した。
 これによって、カスティーリャ王国の王統はトラスタマラ家に交代した。
 
 1482年、グラナダで内乱が発生した。
 
 この好機を逃さずにカスティーリャはグラナダへの侵攻を開始し1486年までにグラナダの西半分を制圧、1489年までには残りの東半分も制圧した。
 
 そしてさらに1492年にグラナダが陥落して、イスラム教徒から改宗者が相次ぎ、イベリア半島全域からイスラムの支配権が消滅、レコンキスタが完成した。
 
 
 
 
 

manekinecco at 15:00トラックバック(0)  このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

September 18, 2013

 京都大学の
   椛島(かばしま)健治准教授
らのグループでは外部から体を保護する
   皮膚のバリア機能
を高めることにより、アトピー性皮膚炎の症状を改善する化合物を発見したと発表した。

 
 アトピー性皮膚炎は、国内に約40万人の患者がいる。
 
 一般的な治療では、免疫反応を抑えるステロイド剤などが使われるが
   感染症
にかかりやすくなるなど副作用の問題がある。
 

 グループでは、アトピー性皮膚炎の患者の皮膚で、水分や強度を保つ
   たんぱく質「フィラグリン」
が減っていることに着目した。
  
 
 約1000種類の化合物を調べフィラグリンを数倍に増やす効果がある
   「JTC801」
という化合物を見つけた。

 この化合物を水に溶かしてアトピー性皮膚炎のマウスに毎日飲ませたところ、4〜6週間で量がほぼ回復し、症状も改善した。
 また、目立った副作用はなかったという。
 
 
 
 

manekinecco at 11:15トラックバック(0)  このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

September 17, 2013

ウィーン体制
  (Vienna system, Vienna Settlement)
 
 ナポレオンのフランス軍が欧州全域に戦禍が拡大したのちに
   ウィーン会議(1814-1815年)
を開催、以後のヨーロッパの国際秩序のこと。
 
 1848年革命を経てクリミア戦争(1853-1856年)によって完全に崩壊するまで続いた国際的体制であった。

 ウィーン会議でフランス首相
   タレーラン
の主張した正統主義を基に、フランス革命以前の状態を復活させたうえ大国の勢力均衡を図った。
 
 
 神聖同盟、四国同盟らの列強を中心に
   自由主義・国民主義運動
を抑圧したことからテロが拡大した。
 
 基本理念はヨーロッパの協調にあり
   国家間の諸問題の解決
に戦争ではなく、外交努力を惜しまなかったことから歴史的にみても比較的長期の安定をヨーロッパにもたらした。

 産業革命による市民生活の発展や大国間の利害関係の複雑化、あるいは1830年前後の
   ギリシア独立戦争
   フランス7月革命
などの動揺などから次第に枠組みが揺らぎ始めた。
 
 1848年革命の波及で大国の被支配地域を中心に
   ナショナリズム
が先鋭化すると自由主義・国民主義を抑圧する機能が維持できなくなった。
 
 ウィーン体制を支えていた同盟国同士が自国の利益のみを追求するようになると列強間の平和維持の役割も果たせなくなったため
   英露対立
などを背景とするクリミア戦争を回避することができず、体制は最終的に崩壊した。
 
 
 
  

manekinecco at 15:08トラックバック(0)  このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

September 16, 2013

長浜の戦い
 永禄3年(1560年)5月28日に戦国時代の土佐国に割拠していた長宗我部氏と本山氏の間で行われた合戦のこと。
 長浜表の戦いとも呼ばれる。
 
 戦いの本戦である戸ノ本での戦いは
   長宗我部元親
が初陣を飾った戦いとして有名。
 
 
 長宗我部国親は本山領への本格的な侵攻を企図したが、本山方の前線にあった長浜城(高知市)の守りは堅く、力押しによる攻略は容易ではなかった。
 
 城門は経年により腐朽し始めており、本山茂辰は長浜城下から土佐の名工と呼ばれた福富右馬丞を雇い入れて門の建て替えを命じた。 
 
 この報を入手した国親は密かに福富に使者を送り、破格の条件で召抱えることを報酬に、大人数で押せば簡単に門が開くように作ることを依頼した。
  

 永徳三年(1560年)5月27日、国親は種崎城から長浜城に夜襲をかける。果たして長宗我部方が容易に城門を突破。
 
 城兵はほぼ無抵抗で城を明け渡し、本山氏の本拠地である本山城に集結した。
 
 
 翌28日朝、長宗我部軍は長浜城から南の雪渓寺に出陣した。
 
 一方、本山軍はその西の日出野に陣を構えた。
 
 
 午前十時頃から両軍は激突する(戸ノ本の戦い)。
 
 当初は数で勝る本山軍が優位に戦いを進めるが、一刻にわたる乱戦の末に長宗我部軍が本山軍を押し返し、茂辰は浦戸城へ退く。追撃する長宗我部軍は南北の海岸線に舟を配置して浦戸城を封鎖、陸にも柵を築いて包囲をかけたが、国親が急病を発したため数日後に兵を引いた。

 
 長宗我部国親の嫡男・元親はこの戸ノ本での戦いが22歳での遅い初陣となった。
 
 周囲からは「姫若子(ひめわこ)」とからかわれるほど虚弱で、出陣前に家臣である秦泉寺豊後から槍の使い方の指導を受けるという有様であった。
 
 
 戦闘が開始されると、元親は五十騎を率いて七十余の首を上げ、自らも騎馬武者を二人討ち取るという勇猛果敢な戦いぶりを見せた。
 
 
 元親は勝戦の余勢を駆り、国親らの制止を振り切って本山方の支城・潮江城を無人と踏んで突入、その通り全くのもぬけの殻となっていた城を難なく奪取した。
 
 
 別人のような活躍に、元親は以後「鬼若子」「出来人」と畏怖されるようになった。
 なお、元親の弟の親貞もこの戦いで初陣を飾っている。
 
 
 
  

manekinecco at 09:35トラックバック(0)  このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote
土佐七雄(とさしちゆう)
 室町時代末期から戦国時代にかけて土佐国に存在した7つの豪族の総称
 
 土佐国は北を四国山脈に塞がれ、南は太平洋に面しているため
   陸の孤島
として古来より罪人などが流される地であった。
 
 
 南北朝時代に細川頼益が守護代として入国し安定を見せた。
 応仁の乱により細川氏が衰退すると、在地の豪族達が勢力を伸ばし始め、土佐七雄となった。
 
 
 
 
・本山氏 - 長岡郡5000貫を支配 本山茂宗など
・吉良氏 - 吾川郡5000貫を支配 吉良親貞・吉良親実など
・安芸氏 - 安芸郡5000貫を支配 安芸国虎など
・津野氏 - 高岡郡5000貫を支配 津野親忠など
・香宗我部氏 - 香美郡4000貫を支配 香宗我部親泰など
・大平氏 - 高岡郡4000貫を支 大平元国など
・長宗我部氏 - 長岡郡3000貫を支配 長宗我部国親・長宗我部元親など
  
 
 

manekinecco at 09:18トラックバック(0)  このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

September 15, 2013

海援隊
 江戸時代後期の幕末に、土佐藩脱藩の浪士である
   坂本龍馬
が中心となり結成した組織である。
 
 
 1865年閏5月、幕府機関である
   神戸海軍操練所
の解散に伴い、長崎の亀山において1865年から1868年まで3年余りに亘り薩摩藩や商人(長崎商人小曽根家など)の援助を得て
   私設海軍・貿易
など、近代的な株式会社に類似した組織
 いわゆる商社の活動としても評価されている。
 
 
  英国商社で阿片戦争の首謀者でもあるジャーディン・マセソン商会の代理人でもある
   グラバー商会
などと取引し、武器や軍艦などの兵器を
   薩摩藩名義
で購入、長州へ渡すなどの斡旋を行い、険悪であった薩摩と長州の関係修復を仲介している。
 
 
 運輸、開拓、本藩の応援、射利、投機、 教育等など隊の自活運営、政治・商事活動を行った。
 
 出版も手掛け和英通韻伊呂波便覧、閑愁録、藩論などがある。 
 
 
 なお、盟友の中岡慎太郎が隊長となった陸援隊と併せて翔天隊と呼ばれる。
 
 
 
 
 

manekinecco at 18:50トラックバック(0)  このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

September 14, 2013

 高石 左馬助
   (生没年未詳)
 安土桃山時代から江戸時代前期の土佐の地侍
 滝山一揆(本山一揆)の首謀者だが実名不詳。
 

 初めは本山 親茂に仕え、後に長宗我部氏の一領具足として家臣に加わり土佐国長岡郡に居住し、約80石の知行を得て本山郷約500石を実質的に治めていた。
 
 
 長宗我部氏が改易された後、慶長8年(1603年)に
   山内一豊
が土佐に入封。
 城を新築するための賦役や年貢を要求したが懈怠した。
 
 
 永原一照(山内刑部)が、左馬助を呼び出してこれを詰問したものの
   「凶作」を理由
にして納入出来ないと言い逃れた。
 
 弟の吉之助や農民約30人を扇動して滝山(本山)に立て籠もり、滝山一揆を起こした。
 
 
 一揆は5日間の激戦の末に永原一照らに鎮圧された。
 
 敗戦の色が濃厚となるや、一揆を扇動した首謀者であるにもかかわらず、左馬助は農民を見捨てて雲隠れし伊予国瓜生野を経て讃岐国に逃亡してしまった。
 その後の動向は不明なままである。
 
 
  
   

manekinecco at 09:10トラックバック(0)  このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote
はじめに
当ホームページ内の情報はあくまでも参考情報です。投資にあたっての判断は投資する人の自己責任でお願いします。
当ホームページでは、一切の責任を負いませんでご了承下さい。
記事検索
Publicidad
パーツ提供:ALL外為比較
analisis
  • ライブドアブログ