December 2014

December 31, 2014

 東北大学の福永大樹博士前期課程学生・宮坂等教授らによる研究グループは
   鎖状と層状の二種類の低次元磁気格子
からなる分子磁性体(分子磁石)を構造的に組み合わせることにより、それぞれの構成格子の構造と磁気的な特徴を併せ持つ新しい三次元格子からなる分子磁石を設計することに成功した。

 通常の磁石は、個々の構成スピンが磁気秩序をもって三次元的に揃うことにより磁石としての性質を持っている。
 

 分子で同様に磁石の性質を創ることも活発に研究されている。
 
 しかし、二次元層状格子になりやすく、層内と層間の磁気秩序に大きな異方性を持つことや、層間の環境に大きく依存した磁気秩序を示すといった課題があった。

 
 研究では、電子供与分子として振る舞うカルボン酸架橋水車型ルテニウム二核金属錯体と電子受容分子として振る舞うTCNQ誘導体からなるD2A層状化合物と、パイスタックによるカラム状格子をもつ電荷移動磁性体[FeCp]+TCNQ–を組み合わせた。
 
 これにより、両物質系の特徴をそのまま付加した分子磁石を構築することに成功した。

 
 高相転移分子磁性体を探索すると共に、電荷秩序の制御による遍歴電子、構造対称性、局在スピンの協奏現象を示す多重機能磁性材料の開発を進めていく予定。
 
 
 
 
   

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December 30, 2014

 岡山大学の王英正教授らによる研究グループは
   左心低形成症候群
に対する心臓内幹細胞自家移植療法の第1相臨床研究を実施した。
 
 冠動脈注入法による幹細胞移植法の安全性と心不全治療における有効性を確認した。
 
 
 左心低形成症候群は、左心室が異常に小さい単心室症の一つ。
 
 重度の場合は「心臓移植」しか治療法がなくなる場合も少なくない。
 
 ただ、日本では小児の脳死ドナー(臓器提供者)の数が少ないという課題がある。

 
 研究では、2011年1月〜2012年1月まで合計14症例の左心低形成症候群に対して、標準外科手術+細胞治療群(7人)と標準外科手術単独群(7人)に分けて第1相臨床研究を行った。
 

 細胞治療法では、心臓組織約100ミリグラムを採取し、幹細胞を抽出して10日間培養した。
 その後に、冠動脈へカテーテルで注入した。

 結果、細胞移植を行った7症例では、外科治療単独群に比べて、心臓の機能が8%以上有意に改善していることが分かった。
 
 なお、安全性に関しては、細胞移植時における急性虚血や致死的不整脈の惹起作用、そして移植した細胞によるアレルギー反応や造腫瘍作用は起きなかった。

 
 本治療法の標準医療化に向けて2015年以降に企業主導臨床治験を実施する予定となっている。
 
 先天性心疾患患者の心機能を向上させ、心不全を繰り返すことなく過ごすことができる治療法の確立が期待される。
 
 
 
 
  

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December 29, 2014

南京攻略戦
 日中戦争における戦闘の1つで日本軍(兵力25万人)による中華民国の首都である南京市の陥落を目的とした作戦のこと。

 
 当時の上海はフランス租界、日英米の共同租界、上海特別市の三行政区域に分かれており、自国民を守るため、米軍2800人、英国軍2600人、日本海軍陸戦隊2500人、仏軍2050人、伊軍770人が駐屯していた。

 1937年(昭和12年)7月7日の盧溝橋事件をきっかけとして同月28日に至り日中両軍は華北において衝突状態に入った。
 
 
 1935年11月9日には中国共産党系の19路軍の支援を受けた秘密結社は日本の勢力を利用して
   蒋介石政権
を打倒を図ろうと活動し、中山水兵射殺事件が引き起こされている。

 1936年9月23日には上海日本人水兵狙撃事件が引き起こされていた。
 
 1937年7月24日夜、宮崎貞夫一等水兵が中国人に拉致されたと在留邦人から報告があり、上海特別陸戦隊は警備配置につき、調査を開始した。

 
 日本側はこの事件に即応したが、宮崎の逃亡の可能性を疑い、7月25日の午前4時には警戒配備を終了した。
 中国側も防備を撤収している。
 その後、宮崎は買春行為として軍紀違反の発覚を恐れて逃亡しただけであったという真相が明らかになった。
 
 ただ、中国保安隊は日本側に対抗するように要所ごとに土のうを積上げ、鉄条網を張り巡らすなど臨戦態勢を強化した。
 
 第一次上海事変後、停戦協定により中国軍は上海中心地への駐留が禁止され、保安隊(3200人)だけが認められていた。
  
 
 中国軍は、先制攻撃が勝利への唯一の道と考え7月下旬から、保安隊や憲兵隊に変装した兵隊を閘北に入りこませ、一帯には土嚢を積み、戦闘準備を着々と進めた。
 
 こうした動きを懸念した上海市長である
   兪鴻鈞
が直ちに岡本季正上海総領事に連絡を取った。
 
 
 このため8月に入ると、自国の保安隊の動きに不安を煽られた上海市民は第一次上海事変を想起し、共同租界地やフランス租界地へ一日に5万人近くが避難したとも言われている。
 

 早期の時局収拾を目指した日本は船津辰一郎元上海総領事を上海へ派遣した。
 
 1937年8月9日夕刻、上海海軍特別陸戦隊西部派遣中隊長の大山勇夫海軍中尉と斎藤與蔵一等水兵が支那兵に射殺せれる事件が起こり情勢が緊迫していった。

 
 8月10日、上海のノルウェー総領事アールは、在上海各国領事に対し領事団会議を開催することを求めた。
 この会議で日本代表が事件の詳細を発表し、中国保安隊は国際租界とフランス特権区域に接する地域から一次的に撤退すべきであると提案した。
 
 なお、英米仏伊代表は上海付近に戦禍を波及しないよう日中両国に希望することで決議をなし、上海市長へも伝達するとした。

 
 8月11日、上海市長が日本領事に電話をかけ、保安隊の不穏な動きに対し
   「自分は無力で何もできない」
と通報した。
 
 危機を感じた日本は同日夜、陸戦隊1支隊を予防のために上陸させた。

 
 8月12日未明、中国正規軍本隊が上海まで前進してきた。
 
 中国軍の屈指の精鋭部隊である第87師、第88師などの約3万人が国際共同租界の日本人区域を包囲した。
 
 日本軍の上陸に備えて揚子江の呉淞鎮と宝山にも約1,000名を配置した。
 
 対する日本軍は、上海陸戦隊2200人、漢口から引き揚げてきた特別陸戦隊300人、呉と佐世保から送られ特別陸戦隊1200人、出雲の陸戦隊200人、他320人の計4,000人と中国軍の1割程度であった。
 
 日本領事は国際委員会を再び招集し、中国軍の撤退を要求したが上海市長は中国は既に侵略をうけているとの声明を発表した。
 
 最後に喩市長は、中国軍は攻撃されない限りは攻撃しないと、中国政府として認められるのはせいぜいそれぐらいだと中国軍の行動に関与できず責任を回避した。



 首都防衛のため、上海市周辺にはドイツ製の鉄帽、ドイツ製のモーゼルM98歩兵銃を装着し、当時世界一といわれたチェコ製の軽機関銃などを装備している国民党精鋭部隊が、ドイツ軍事顧問団の訓練を受け編成されており、第36師、第87師、第88師、教導総隊など火力では日本軍をはるかに上回る戦闘能力を備えた60万人の敵軍が集結してきていた。
  

 8月13日午前10時半頃、商務印書館付近の国民党軍は日本軍陣地に対し、機関銃による射撃を突然開始したうえ、市内の要衝である橋等を複数爆破している。
 
 午後9時頃から国民党軍が上海市の
   帝国海軍上海特別陸戦隊
への総攻撃を開始したため、日本軍との間で戦闘に突入した。
 
  
 国民党軍は戦闘開始までに無錫、蘇州などですでに20万人以上が集結して、攻撃準備を整えて待機していた。
 
 8月14日には日本艦艇をねらったとされる国民党軍機による空襲が開始された。
 
 この爆撃によって周辺のフランス租界・国際共同租界に投下された爆弾はパレス・ホテルとキャセイ・ホテル前の路上に着弾し、729人が即死し、861人が負傷した
 
 
 精鋭部隊の中国軍を掃討することにより国民党政府の戦意を喪失させ戦争を早期に終結させるといった目的から同年8月15日に上海派遣軍を編成して派遣した。
  
 
 1937年10月20日までの間に日本派遣軍は25万人の兵力を投入し、激戦ののち国民党軍(兵力60万人)を壊走させた。(日本軍被害7万人、中国軍被害25万人)
 
 上海派遣軍は、編成された第10軍(柳川平助中将)とともにすかさず追撃に入った。
 
 平行追撃と同時に敗軍の追討のために南京を攻略する構えを見せた。
 

 参謀本部は和平交渉を行う為の国民党政府を失う恐れがあったことから、南京進撃を中止するよう下令したが、中国側国民党軍は
   堅壁清野
と呼ばれる焦土作戦を用い、退却する際には掠奪と破壊が徹底的に実行され、中国政府は「徴発」に反抗する者を漢奸として処刑の対象とする蛮行等が行われ地域の治安悪化が拡大しており、現地中国人から治安回復の要請もあり、のちに現地軍の方針を採用し南京攻略の独走を追認した。
 

 ドイツ軍の派遣参謀ファルケンハウゼンは、上海の要塞線が日本の攻撃で突破された時点で南京からの撤退を主張した。
 
 国民党軍の蒋介石が南京で進行する日本軍の防衛戦にこだわり、上海や南京両市内では親日派の市民・学生・官吏約4,000人近くを漢奸として処刑している。
 進撃する日本軍に対し、南京周辺では国民党軍の多くの兵力や国民党支持派の市民が日本軍に包囲された。
 
 
 11月7日に日本軍は上級司令部中支那方面軍を編成した。
 上海西部の蘇州から嘉興を結ぶ線までを作戦制限区域とした。

 
 11月16日、国民党政府は重慶への遷都を宣言した。
 中支那方面軍は独断で作戦制限区域を越え、さらに南京攻略の必要性を上申した。

  11月24日、大本営は中支那方面軍の作戦制限区域を解除し、12月1日には南京攻略を命令した。
 

 南京城を包囲した日本軍(松井最高指揮官)は12月9日の正午、飛行機で南京城内に
   ビラ(和平開城勧告文)
を撒き、中国軍(唐生智南京防衛司令官)に対し降伏勧告(期限12月10日午後1時)を行なった。

 

  和平開城勧告文に対する中国軍からの反応なく、日本軍は総攻撃を開始した。
 夕方には、速くも光華門を激戦ののち確保した。
 
 唐生智南京防衛司令官は12月12日午後8時、南京にいた国民党全軍に各隊各個に包囲を突破して、目的地に集結せよと指令し、無秩序な状況で南京城を我先に脱出し始めた。
 
 ただ、一部の兵は逃げられないようにトーチカの床に鎖で足を縛りつけたうえ、長江への逃げ道になる南京城の邑江門には友軍が逃げ出さないよう逃亡兵を狙撃するための督戦隊を置いていった。
 
 明確な撤退命令を出さなかったため、その後も敗残兵や更衣兵、督戦隊により散発的に戦闘が続いた。

 

南京城が12月13日に陥落し、日本軍は南京城内へ入城した。
 
南京城内の敗残兵に対する掃蕩を12月14日から16日にかけて開始した。

 国民党軍に財産を略奪され、「徴発」に反抗する者を漢奸として処刑された家族等を含めた南京の避難民は12月21日頃から日本軍により治安回復が図られつつある市内に「日本軍万歳」と叫びながら戻ったという。

日本の陸海軍による入城式が挙行され、中支那方面軍司令部は南京に移動した。

日本の陸海軍合同慰霊祭が12月18日故宮飛行場で挙行され敵味方の区別なく霊を弔った。
 
第16師団歩兵第30旅団が12月22日から南京市の警備を担当した。

 
 
陶錫山委員長の下、南京自治委員会が12月23日に設立され、治安はかなり回復した。
 
第16師団憲兵隊と南京安全区国際委員会が合同し12月24日より南京難民区の
   兵民分離査問工作
が開始され1月5日に終了した。


 1938年(昭和13年)1月1日南京市内で日本軍司令官によって戦闘の目的は
   軍閥の掃討
にあって一般の中国人ではないと布告された。

 南京のソビエト大使館が全焼した。
 その後、この事件は1月5日に逮捕した中国人の取調べにより国民党軍の敗残兵による行為と判明した。

 
 南京攻略戦の後、日本軍は徐州と武漢を含むいくつかの都市を占領した。
 
 一方、中国側は1938年の黄河決壊事件によって三つの省を覆う洪水を引き起こし、日本軍の侵攻を止めようと画策した。
 
 この洪水の水没範囲は11都市と4000村に及び、3省の農地が農作物ごと破壊された。
 
 
 洪水による水死者は100万人、被害者は600万人と言われており、日本軍は筏船百数十艘を出して住民とともに救助活動を行った。
 
 同時に氾濫した水を中牟付近から別の地域に誘導するために堤防と河道を築いた。
 
 
 洪水を起こした国民党軍は防水作業のため堤防の作業現場に近づく日本軍に銃撃を加えたり砲撃を加えた。
 
 このほか、日本軍が住民と共同で行っていた防水作業を妨害した。
 
 日本軍の地上部隊は住民とともに土嚢による防水作業を行い、日本軍の航空機も氾濫した地区において麻袋をパラシュートにより投下してこれを支援した。
 
 堤防の決壊地点の対岸にいた中国軍遊撃隊が麻袋の投下開始直後からその航空機と地上で防水作業中の住民に激しい射撃を加えたりしている。

 なお、毛沢東は延安で、日本軍が南京を陥落、国民党軍を壊走させたニュースを聞いて大喜びした。
 また、祝杯をあげ大酒を飲んだとも言われている。
 
 
 
 
 
  

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December 28, 2014

 東京大学の鈴木庸平准教授らによる研究グループは、地底の微生物の
   硫酸呼吸
により生じる硫酸の変化を検出し、極貧栄養状態の地底深部において微生物が生息することを明らかにした。

 地底は地球上最大の微生物生態系が存在すると考えられている。 
 
 これまで掘削によって地上の微生物が混入するために、地下深部の微生物の実態を明らかにするのは困難であった。

 今回の研究では、岐阜県瑞浪超深地層研究所で、深度200〜400メートルの地下水を地下坑道から採取することで、20種類を越える化学成分の分析を6年間継続した。

 
 その結果、花崗岩中で微生物は
   硫酸を用いて呼吸
することで生息していることや、深度と共に硫酸濃度は減少していることが分かった。
 
 さらに、微生物活動により
   放射性核種
の移動を抑制する地下水水質が形成されていることも明らかになった。

 今後は、深度500メートルまでの地下施設を用いて、花崗岩深部に生息する微生物種を特定し、極貧栄養状態に適応して進化した微生物の全ゲノムを解読して明らかにする予定とのこと。
  
 
 
 
    

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December 27, 2014

 
 東京大学の小泉宏之准教授らは、100キログラム以下の小型衛星に使える
   イオンエンジン
を開発し、宇宙で動作させる実験に成功した。

 イオンエンジンはキセノンという物質に電子レンジに使うマイクロ波を当ててプラスの電気を帯びさせ、これを電気の力で加速して噴射することで進む。


 新しいエンジンは噴出口を精密に加工したり、部品の小型化や数を減らしたりすることで、50キログラム程度の衛星でも使えるようにした。

 
 これまでイオンエンジンは小惑星探査機「はやぶさ」などに搭載されたが、装置が大型で電力を多く消費するため、数トン規模の衛星にしか使われていなかった。
 
 小型衛星の軌道を自由に変えられるようになり、用途が広がるとみている。

 
 今年6月に打ち上げた小型衛星「ほどよし4号」に搭載し、宇宙空間で正常に動いたことを確認した。

 これまでは、小型衛星はいったん打ち上げた軌道に投入すると変更ができなかった。
 
 
 
 
   

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December 26, 2014

 現在流行中のA香港型インフルエンザについて、15歳以下の小児でワクチンの効果が予想以上に高いことが、慶応大の研究グループの調べで分かった。

 接種を受けた小児の約60%に発病を抑える効果が見られるもの。

 グループでは、11月中旬〜12月中旬、関東を中心とした14医療機関の生後6カ月〜15歳の受診者を分析した。
 
 迅速診断でA型のインフルエンザ陽性だった109人のうち、67%に当たる73人がワクチン接種を受けていなかった。

 陰性の人の接種の有無の割合なども考慮し、統計学的にA型に対するワクチンの効果を60%と算出した。

 

 グループ代表でけいゆう病院小児科の菅谷憲夫医師は「予想外の結果だ。未接種の人は早めにワクチン接種を受けてほしい」と呼び掛けている。
 
 菅谷医師によると、ワクチン接種により、ウイルスを攻撃するヒトの抗体が、標的となるウイルスに対して幅広く効果を示すようになる。

 今季の流行の主流はワクチンの効果が低いとされる
   A香港型(H3N2)
だが、ワクチンによって得られる抗体の効果が今回のウイルスに有効だと考えられるとのこと。
 
 
 
      

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December 25, 2014

 名古屋大学の芦苅(あしかり)基行教授(植物分子遺伝学)らはイネの種子を大きくする遺伝子を発見した。
 
 この遺伝子を取り入れると、種子が15%大きくなり、コメの増産につながる可能性がある。2
  

 コメ粒が短いジャポニカ米「日本晴」と、細長いインディカ米「カサラス」の遺伝子を比べた。
 
 12本の染色体のうち、第6染色体にコメの大きさを制御する遺伝子「GW6a」を発見した。
 
 その上で、GW6aの働きが、カサラスが日本晴より強いことを突き止めた。
 

 カサラスのGW6aを日本晴に取り入れると、コメ粒の幅や長さが大きくなり、1千粒あたりの重量が従来より15%増えた。
 
 こうした遺伝子組み換えとは別に、交配による品種改良でも同様の結果が得られた。
 
 
 
 
 
   

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December 24, 2014

 東京大学の森裕司教授らによる研究グループは
   ラットが危険を伝える匂い
に含まれる4メチルペンタナーとヘキサナールの2種の混合物が、それを嗅いだラットの不安を増大させるフェロモンであることを明らかにした。
  

 人間を含め、様々な動物が危険を感じると匂いを発することが知られている。
  
 これは動物種によっては警報フェロモンと呼ばれている。
  

 今回の研究では、ラットを用いた実験によって、4メチルペンタナーとヘキサナールの2種類を混合物として嗅いだ場合に不安が増大することを明らかにした。

 さらに、4メチルペンタナールは鋤鼻器という人間にはない特殊な器官で嗅がれていることや、ヘキサナールは人間と同様に鼻粘膜で嗅がれていることも分かった。

 今後は、害獣であるネズミの制御法としてフェロモンを適用することなどに役立つと期待されている。
 
 
 
    

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December 23, 2014

 厚生労働省研究班(研究代表者=藤井知行東大産婦人科教授)は胎児が感染すると難聴や脳障害などの原因となる
   サイトメガロウイルス
について、、妊婦や新生児への対応マニュアルを初めてまとめ、日本産科婦人科学会を通じて全国の産科医に配布した。

 すべての妊婦に対し予防法を早期に指導することを勧めたほか、感染が疑われる妊婦のカウンセリングを行ったり、産科医からの相談に応じたりする専門病院を示した。

 
 サイトメガロウイルスは、ありふれたウイルスなため、健康な人が感染しても、軽い風邪程度で済む。

 ただ、妊婦が感染すると、胎児に障害を起こす恐れがある。これまでの研究では、妊婦の約3割が、ウイルスを排除する抗体を持っていないことがわかっている。
 
 
 現在、妊婦健診で抗体の有無を調べる検査は、ほとんど行われていない。

 妊娠中の感染がわかっても、胎児の障害を防ぐ方法がないため、妊娠中に感染が疑われるのは、妊婦の希望や、胎児の発育不良で検査をしたケースなどに限られる。
 
 
 近年の大規模調査で国内では、新生児の1000人に1人が胎内で感染し、なんらかの症状が出ていることが判明している。
 
 これまで先天的な病気の中でも頻度が高かった。

 妊娠中の感染は主に、子どもの唾液や尿に触れることで起きる。

 
 予防のためのワクチンはない。
 
  
 
 
 
     

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December 22, 2014

 マフディー戦争
    (Mahdist War)
 19世紀末にスーダンのマフディー教徒とエジプト、後に英国軍が戦った植民地戦争のこと。
 
 アングロ・スーダン戦争またはマフディーの反乱とも呼ばれる。
 なお、英国では自国が戦った局面を指してスーダン戦役とも呼ばれる。
  
 
 1819年のムハンマド・アリーの侵略以降、スーダンはエジプトによって支配されていた。
 この植民地体制はエジプトによる重税と奴隷交易の禁止のためにスーダンの人々の恨みを買っていた。
 
 
 1870年代、モスリムのシャイフ(師匠)の
   ムハンマド・アフマド
は信仰の革新と国土の解放を伝道して、多くの信者を従え、やがて彼らはエジプトに対して反乱を起こした。

 1881年6月19日、ムハマンド・アフマドは自らを
   マフディー(イスラム世界での「約束された救世主」)
であると宣言した。
 
 スーダン総督
   ムハンマド・ラウーフ・パシャ
は二個部隊を機関銃1丁とともに派遣し彼を逮捕しようとた。
 
 蒸気船に乗ってナイル川を遡上してアバ島に到着したのち、おのおの異なる方向からマフディーの村へ向かった。
 
 8月17日夜、二つの部隊は同時に到着したが、闇夜の中で誤って同士討ちを始めた。
 
 貧弱な武装のマフディーの信者たちが攻撃をかけて各個撃破していった。
 

 マフディーは首都があるハルツームから遠く離れた
    コルドファン
への戦略的後退を始めた。
 
 マフディーが唱える「トルコの圧政者」に対するジハード(聖戦)への多くのアラブ部族からの支持をかき立てた。
  
 
 反乱の拡大を憂慮したエジプトのスーダン行政府は
    ユセフ・パシャ
の指揮下に4000人の兵士を集めマフディー軍の集結地に向かった。
 
 
 ただ、マフディー軍はみすぼらしい服装で、半ば飢え、棒と石しか持っていなかった。

 
 1882年6月7日、マフディー軍は攻撃をかけ、エジプト軍を殲滅させたうえ、反乱軍は大量の武器と弾薬、軍服その他の補給品を鹵獲した。
 
   
 
 
 
    

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