July 2016
July 31, 2016
July 30, 2016
武漢作戦(ぶかんさくせん)
日中戦争の戦いで1938年(昭和13年)6月11日 - 10月27日の期間、武漢三鎮周辺で行われた軍事作戦。
中国側呼称は武漢会戦、武漢保衛戦。
中国国民革命軍と日本派遣軍との間における
徐州会戦
後も蒋介石政権は日本に対し徹底抗戦を続けたため、国民党軍による上海租界への無差別こ攻撃を短緒として勃発した上海事変への解決へは至らなかった。
この作戦では蒋介石政権の降伏を促すため、広東作戦とともに中国の要衝を攻略することを目的とした。
日中戦争中最大規模の日本軍35万に対し中国軍100万の兵力で行なわれた。
また、日本国内ではこの動員・巨額の出費のため、政府は1938年5月5日に
国家総動員法
を施行、同月近衛文麿内閣を改造した。
武漢作戦は前線と後方連絡や補給のための兵站線の確保との関係から、安慶、馬当鎮、湖口を含む九江の占領までの第一段、田家鎮要塞を落として江北の蘄春と江南の陽新の占領までの第二段、武漢三鎮の攻略戦の第三段に分けて考えられていた。
大本営は6月18日に武漢作戦の準備を命令した。
8月22日に目的は要地武漢三鎮の占領であるとし、通城と岳州を進出限界線として要地の占領とその間の敵の撃破を命令した。
新たに編成された第11軍と、北支那方面軍から転用された第2軍により進攻を開始。
9月下旬に揚子江下流北岸の田家鎮と南岸の馬頭鎮の両要衝が陥落した。
10月17日に蒋介石は漢口から撤退し10月25日には中国軍は漢口市内から姿を消している。
日本軍の第6師団が突入し10月26日までに占領した。
また、第27師団が11月9日に通城を、第9師団が11月11日に岳州を占領し、進出限界に達し作戦は終了した。
この作戦の被害は日本軍が死亡9,500人、負傷が26,000人であった。抵抗した中国軍は死亡195,500人、捕虜など11,900人で負傷者数は不明である。
ただ、中国軍の兵については強制徴用が行われ消耗品扱いされており、南京や上海と同様に戦線離脱の兵に対する督戦隊による銃撃が相当数含まれている。
更衣兵による略奪行為なども住民からの怨嗟となっている。
July 29, 2016
July 27, 2016
July 20, 2016
July 19, 2016
徐州会戦(じょしゅうかいせん)
徐州作戦とは、1938年(昭和13年)4月7日から6月7日までの期間、中国大陸の江蘇省・山東省・安徽省・河南省の一帯で行われた日本陸軍と中国の蒋介石が率いる国民革命軍による戦いのこと。
日本軍は南北から進攻し、5月19日に徐州を占領したものの国民党軍主力を包囲撃滅することはできなかった。
1937年12月に蒋介石軍が立て籠もり、南京市外20キロ四方の住居や田畑を焼き払い・破壊するなどの焦土化作戦を実行したため抵抗する中国住民は「漢奸」と見なされ公開処刑するなど悪逆非道を重ねたため、住民の多くは郊外に逃げ出していた。
日本派遣軍が南京攻略後に中国人避難民は郊外から南京市内に戻ったが、国民党軍の残存の更衣兵はテロ行為を繰り返し、正規兵も住民の財産を奪い・衣服を摂取するため強殺する行為が見られるなど秩序の悪化は深刻となっていた。
当然、親族等を国民党軍等に虐殺された住民らによる報復が行われ、日本軍に参加する親日派の中国人もいた。
日本政府は1938年1月16日に「国民政府を対手とせず」との声明を発表した。
連戦の影響で弾薬類の補給が確保が難しくなって兵站線が維持できなくなった参謀本部では1938年夏までは新作戦を行わないという方針を固め、2月16日の御前会議で天皇の承認を得た。
軍事作戦的には国民党軍も戦力低下が著しく、兵や食料などの強制徴発や住居等を焼き払うなどの蛮行により地域住民の怨嗟も多く聞かれており、黄河の線まで到達していた北支那方面軍と南京占領後停止していた中支那派遣軍は、国民党を一揆に壊滅するため津浦線(天津―浦口)を打通して南北の占領地域を繋げることを要望していたものの参謀本部が千載一遇のチャンスを手に入れる作戦を認めなかった。
統制派が支配していた参謀本部の方針としては、1938年内は作戦を休止して国力を蓄積し、1939年以降から大作戦を行うという長期持久構想だった。
ただ、皇道派の将校が多い現地軍はこの消極的な方針に不満を持っていた。
参謀本部の河辺虎四郎作戦課長が現地に赴いて説得に努めたが納得を得られなかった。
河辺は帰京直後の3月1日に更迭され、後任には
稲田正純中佐
が就いた。
稲田中佐は、現地軍をコントロールするためには積極的な作戦が必要だと考えていた。
山東省の第2軍が占領地正面の中国軍を撃滅したいと要請してきた。
参謀本部はこれを認可したものの第10師団と第5師団の一部部隊が山東省最南部の台児荘に進出したところで徐州付近に集結させていた中国軍第5戦区司令長官
李宗仁
が指揮する野戦軍約40万から50万人の大兵力に遭遇し包囲されて苦戦、撤退するという事態に至った。
徐州は津浦線と隴海線(蘭州―連雲港)の交差する地点で台児荘はその徐州防衛の第一線にあたるため、中央直系の第20軍団(湯恩伯)が投入されていた。
この台児荘の戦い後には、第5戦区軍の兵力は増援を受けて60万人にまで拡充されっ中国軍と互角に戦えるまで戦力を強めた。
日本の大本営は4月7日、「徐州付近の敵を撃破」することを北支那方面軍・中支那派遣軍に命じた。
大本営から参謀本部作戦部長橋本群少将らが派遣され両軍を作戦指導することになった。
ただ、作戦会議において「徐州の攻略」(方面軍・第2軍)と「敵の包囲撃滅」(派遣軍・第1軍)どちらを優先するかで意見が対立した。
大本営派遣班は徐州攻略に同調したものの意見統一が不明確なまま作戦が開始された。
徐州作戦は台児荘の北と北東にいる第10師団・第5師団が中国軍の大兵力を徐州付近に引きつけたうえで、第14師団と第16師団が微山湖西側から南下して徐州を目指し、南から中支那派遣軍(第9師団・第13師団)が北上して中国軍を包囲するという計画であった。
第5、第10師団が中国軍を引き付けておく作戦は、台児荘戦に引き続いて行われた。
第5師団の国崎支隊(国崎登少将)は、4月19日から沂州へ総攻撃を行って占領、その後沂河の東岸に沿って南下した。
4月26日馬頭鎮南の北労溝で中国軍6個師に包囲され20日間進軍できなくなった。
なお、西側を進軍していた第10師団の坂本支隊(坂本順少将)も包囲され交戦し、ドイツ製の武器等を装備しドイツ人軍事顧問団の戦略・戦術を教授された中国軍により前進を止められ損害が増加していった。
5月7日、第2軍司令官
東久邇宮稔彦王中将
は作戦発動を命令したが中国軍の対軍と対峙して交戦中の第5・第10師団は動くことができないため、第16師団のみが前進を開始、済寧を通って南下した。
なお、国崎支隊が攻勢に転じたのは第16師団の片桐支隊(片桐護郎大佐)が合流し戦力が増強で来た5月10日以降で、坂本支隊は5月15日から追撃を開始した。
中支那派遣軍司令官畑俊六大将は、5月5日に第9師団と第13師団に前進を命令し徐州作戦を発動した。
畑大将は、第2軍が中国軍の対軍と交戦し苦戦しているとの情報から南京警備の第3師団にも出撃を命令した。
中国軍の戦力を分散させるため、佐藤支隊が5月7日に江蘇省阜寧を攻略し、坂井支隊が安徽省盧州を5月14日から攻略した。
第5戦区司令長官・李宗仁は
中支那派遣軍
が日本の主攻部隊だと判断し、西方の隴海線を切断し兵站線を奪う日本軍に対し、中国軍の配置は台児荘・沂州方面に偏っていた。
李宗仁は部隊の配置転換を急がせた。
中支那派遣軍の畑大将は、この動きを「退却」と判断して第9、第13師団に急進を命令した。
最左翼を北上する第13師団は、戦車第1大隊を基幹に岩仲挺進隊(岩仲義治大佐)を編成し、中国軍の退路遮断(隴海線爆破)を命じた。
5月12日に岩仲挺進隊は永城を占領した。
その後は直協機に誘導されて北上し韓道口を攻撃した。
14日、中国軍が韓道口で牽制されている隙に、挺進隊が汪閣付近の隴海線鉄橋を爆破した。
翌日、第16師団から派遣された今井支隊(今井俊一大佐・戦車第2大隊基幹)も鉄橋付近の3箇所を爆破し兵站線の切断に成功した。
5月16日、李宗仁は徐州を放棄する決意を固め、第5戦区軍を5つの兵団(魯南・隴海・淮北・淮南・蘇北)に改編した。
この5兵団にそれぞれ転進地区を指定し退却を命令した。
第59軍(張自忠・5個師)は徐州周辺に配置して主力の撤退を援護させた。
中国軍主力は徐州から南東に向かって江蘇省北部の湖沼地帯に退却した。
その後、日本軍の包囲網を突破して西方に脱出した。
李宗仁が躊躇せず徐州を放棄したことや督戦隊による自軍への攻撃もなく損害は上海・南京戦のような全面的潰走に比べ遥かに少なく済んだ。
第13師団は他の師団以上の速度で強行軍を続け、5月17日、歩兵第65連隊は徐州西南西の覇王山(第59軍第21師守備)を急襲し山頂を奪取した。
18日、第3師団は徐州南方の宿県を攻撃し、第9師団は蕭県の第180師を敗走させた。
5月19日、歩兵第65連隊と岩仲戦車隊は無人となった市街に突入し、「徐州一番乗り」をはたした。
5月25日、北支那方面軍司令官・寺内寿一大将と中支那派遣軍司令官・畑俊六大将がそろって徐州入城式をおこなった。
め日本軍は、中国軍主力が逃げ出し蛻の殻であったため追撃態勢に入った。
第1軍司令官香月中将はこの作戦前に武漢作戦にそなえる意味で河南省の開封占領を主張していた。
ただ、北支那方面軍に反対されたため開封より東の蘭封(らんほう)に目標を変えた。
作戦開始後、第14師団の黄河渡河を援護する予定だった
酒井支隊(酒井隆少将・第14師団所属)
は、突如第2軍に配属され、第16師団の援護に転用されていた。
方面軍司令部によるこの措置に第1軍司令部は援護がないまま、第14師団は5月12日に黄河を渡り、蘭封を目指した。
北支那方面軍は、兵站線の維持が出来なくなることも懸念されたため再三にわたり第14師団を帰徳へ東進させるよう命令を出していた。
ただ、方面軍司令部の統率に不満があた第1軍司令部はこれを拒絶し続けた。
5月19日、徐州が攻略され中国軍主力は脱出したことがわかると日本軍は追撃を始めた。
そのため、第1軍の蘭封攻撃が認められた。
内黄の第14師団では補給線が攻撃にさらされて食料・弾薬が不足しており、歩兵第59連隊で蘭封を攻撃して中国軍を牽制し、師団主力は南から迂回して隴海線を遮断、黄河の渡河点である陳留口を確保して補給を受ける陽動作戦を計画した。
5月21日から師団主力は中国軍戦車を撃破しながら隴海線を遮断した。
蘭封を守備する中国軍の桂永清が指揮する第27軍の抵抗は激しく、第59連隊に対して
列車砲(仏製24cm)
を使った砲撃も行った。
5月24日、師団主力は渡河点を確保し第59連隊の救出に向かった。
ただ、蘭封の中国軍は損害が増加したため抵抗することなく撤退した。
第14師団は蘭封を占領したものの、その周囲は第1戦区予東兵団(12個師)により包囲されていた。
中国軍は総攻撃の準備を整え、第14師団は黄河を背にして円陣を敷いた。
5月26日、中国軍は第一次総攻撃を開始した。
第14師団はは防戦しつつ救援を要請、方面軍では、第14師団の救出を理由に
開封攻略
が承認され、第16師団が帰徳から蘭封の南にある杞県へ向かった。
蒋介石は第14師団の殲滅を厳命したものの中国軍は連日の猛攻撃でも攻めあぐねていた。
5月31日、第16師団が杞県へ進出したため、中国軍は第14師団の包囲を解いて転進した。
香月中将は更迭により、6月4日に第1軍司令官を離任した。
大本営は作戦の制限ラインを蘭封までと定めていた。
6月2日、北支那方面軍はそ追撃作戦を命令し、第14師団は開封・中牟、第16師団は尉氏へ向かって西進を開始した。
中国軍第1戦区の主力部隊は京漢線以西への撤退を急いでおり、追撃により補給の兵站線が伸びてきた。
京漢線の要地である鄭州の新鄭を日本軍が占領したのち南下すれば、漢口が脅威にさらされるため、国民党軍の第1戦区副司令
劉峙
は、司令長官程潜に対し
「黄河氾濫」
によって日本軍の動きを止めることを進言した。
蒋介石の承認を6月4日に得ると、中牟北方の三劉寨付近に部隊を送り堤防爆破の準備に取り掛かった。
第14師団は6月5日に開封を占領した。
一部の追撃隊は6月7日に中牟を占領している。
4日の夜、中国軍は黄河堤防を爆破したが氾濫が起きなかった。
このため、更に西方の京水鎮付近・花園口堤防を6月9日に爆破したものの効果が見られなかった。
6月11日、未明から大雨となったため黄河が増水し、夜には三劉寨の破壊口から濁流が溢れ出し大洪水となった(「黄河決壊事件」)
この洪水により中牟に進出していた第27旅団(歩兵第2連隊・歩兵第59連隊)と尉氏の第16師団が浸水により身動きが取れなくなった。
第2軍司令部は工兵隊を派遣し、部隊を鉄舟により救助した。
また、工兵部隊は黄河堤防の修理や住民の救助にあたり多くの中国人を救出した。
洪水による流水は南方の周家口まで達していたが、6月17日には冠水地域が減少し始めた。
本格的な雨季に入っておらず、11日の雨で一時的には氾濫したものの、その後は晴天が続いたため暑さで水が蒸発してしまった。
徐州まで浸水させ日本が津浦線を使えなくなることを期待していた中国国民党軍にとってその軍事的な効果は小さかった。
6月17日、第2軍司令部は第10師団、第14師団、第16師団に後方集結を命令した。
参謀本部の
堀場一雄少佐
は、大本営の統制が現地に及ばないまま作戦が拡大していくことを危惧していた。
今回の「黄河の氾濫」を理由として徐州作戦が打ち切られた。
徐州作戦の結果、津浦線の打通によって日本軍は南北の連絡が可能となった。
また、隴海線の開封以東も確保した。
隴海線の東端連雲港は陸海共同で攻略する計画であったが、5月20日に海軍が先に占領したため、陸軍部隊は途中で引き返している。
千載一遇のチャンスであった中国国民党軍を包囲し殲滅するという目標は達成できなかった。
そもそも、日本軍の兵力は中国側のおよそ3分の1であり、広大な戦場で包囲作戦を行うには兵力と物資が足りなかったという構造的な問題があった。
徐州作戦における日本軍の全体的な損害としては、2月から5月までの戦死者は2,130人、負傷8,586人だった。
また、6月29日に徐州で行われた合同慰霊祭では、第2軍の戦没者7,452柱が弔われた。
この作戦による中国軍兵力の損害は60万人のうちら6万人を撃滅した。
蒋介石は、黄河の決壊で日本軍の追撃が止まったため、武漢にある政府機関や大学などを奥地の重慶や昆明へ避難させるよう指示した。
July 10, 2016
米国のボイス・オブ・アメリカ(中国語電子版)によると米国務省は
投資環境に関する年次報告書
で、外国人投資家は中国の
不透明な反腐敗運動
と外国企業に対する
差別的な新法案
に懸念を示していると指摘したと伝えた。
この報告書では、中国への投資環境全般について、外国からの投資に対し、その貿易相手国よりも強い制限を設けており、中国の投資承認制度は、非効率的で独占的な中国企業を競争から保護していることなどを指摘した。
また、昨年7月に制定された
「国家安全法」
については、中国政府は国家の安全保障を理由に審査可能な経済範囲を拡大したとした上で、外国投資が文化、情報、産業、軍事、技術、領土などの安全に与える影響が全て審査範囲に含まれることになる。
在中国米国商工会議所(AmCham China)の2015年の調査によると、中国に進出する米国企業における最大の困難は法規の不明確さだという。
米国の企業の77%が中国で外国企業はますます歓迎されなくなってきていると感じると回答した。
July 08, 2016
TM-3-12 305mm列車砲
(305-мм железнодорожная установка ТМ-3-12)
ソ連の火砲、全部で3門製造され、1938年に導入された。
TM-3-12の305mm砲は、ロシア帝国時代の
インペラトリッツァ・マリーヤ級戦艦
(Russian battleship Imperatritsa Mariya マリア皇后)
が第一次世界大戦中の1916年にドイツ海軍によって撃沈され、その後本国まで曳航された。
マリーヤ級戦艦はロシア革命の中で放置され、1925年、正式に除籍となった。
翌年スクラップとなったが、305mm主砲4門が回収され、1936年にTM-3-12として完成、第二次世界大戦に参加した。
305mm主砲が全て本砲に換装されたとしても4門しか生産されていない。
なお、初期に多くの火砲を失うこととなる独ソ戦も生き残り、現在もモスクワの中央博物館、旧フィンランド領・カレリア地方クラースナヤのゴールカ砦、そしてサンクトペテルブルクに1門ずつと、3門が残っている。
July 07, 2016
July 06, 2016
老化による体の衰えは認知症のリスクを高めるとされる。
東京都健康長寿医療センター研究所の谷口優研究員らのグループの研究で
認知症の予防
には、筋肉の量よりも、体をよく動かせるかどうかが重要だとする研究結果を明らかにした。
研究グループでは2008年から12年まで、群馬県の65歳以上の649人を追跡調査した。
身体機能(歩行速度と握力で評価)と骨格筋量が、将来の認知機能の低下とどう関連するか調べた。
結果、身体機能も骨格筋量も正常な人に比べて、両方が低下している人は、認知機能の低下リスクが約1・6倍高く、身体機能だけが低下している人も2・1倍高かった。
一方、骨格筋量が少なくても身体機能が正常な人は、低下リスクにほとんど差がなかったとのこと。