July 17, 2015

ブラック・ホーク戦争

 
ブラック・ホーク戦争
      Black Hawk War


 アメリカ合衆国が1832年にアメリカ合衆国北西部の
   インディアン部族
から領土を奪い、植民地とするために起こした北米植民地戦争のこと。
 
 民族浄化を目的とした殲滅作戦が取られた。
 

 合衆国に領土を奪われたソーク族が、これに反旗を翻して作られた抵抗戦が同じ境遇にあったソーク族、フォックス族およびキカプー族の共感を呼び、各地で戦いを惹き起こした。
 
 
 ブラック・ホーク酋長が自身の部族の交渉の矢面として立ったため
   「ブラック・ホーク戦争」
と呼ばれている。

 

 インディアン反抗勢力の民族浄化作戦に関わったアメリカ軍は、イリノイ州およびミシガン準州(今日のウィスコンシン州)の民兵であった。
 
 ただ、戦争とは名前がついているが、2か月半の間の戦闘は多く小競り合いの繰り返しから、インディアンに対する民族浄化となった。
 

 
 独立戦争以前から、英仏両国はミシシッピ川の西側へ、原住民インディアンの多くを追いだした。
 ソーク族とフォックス族も、武力で領土を追われたインディアン部族だった。

 
 フォックス戦争の後、五大湖やデトロイト周辺から追い出されたソーク族およびフォックス族はさらに西方にやむなく移動した。
 
 北はウィスコンシン川から南はイリノイ川、またミズーリ川の北に集落を作りこれを領土とした。
 


 ソーク族の中心集落「ソークヌク」は18世紀半ばにはすでに造られていた。
 
 
 ブラック・ホーク酋長は1767年にそこで生まれ、人生の大半を過ごした。
 
 
 独立後、アメリカ合衆国は東部沿岸に沿った入植が主となり五大湖以西への入植は遅れていた。
 


 1804年、インディアナ準州の知事
   ウィリアム・ハリソン
は、その領土を増やすため、ソーク族、フォックス族の酋長達とセントルイスで条約交渉を行い、ミシシッピ川の東の土地を年2,234.50ドル相当の「贈り物」と、毎年1000ドル相当の「贈り物」をするという条件で譲り受けた。
 
 このセントルイス条約は、友好関係と平和を促進する条項も含まれており、交易や保護の保証も記載されたものであった。
 

 インディアンには土地の測量が終り、正式にアメリカ合衆国政府にここが売り渡されるまで、そこに留まってもよいこととしていた。

 

 もともと、インディアンには「土地を売り買いする」という文化は無かったので、白人側の思惑通りに、彼らがこれを理解していたかどうかは疑わしいといわれている。
 
 それから20年は平穏に過ぎたが1828年になって、合衆国はこの地の測量を行い始め、インディアン監理官トーマス・フォーサイスは、インディアンたちに
   「この地から永久に立ち退いて欲しい」
と一方的に要求したことで、「ブラック・ホーク戦争」と白人が呼ぶ紛争が起こった。
 
 
 インディアンは寝耳に水のこの要求に驚き、激怒したことが背景。
 
 
 紛争の究極の要因は土地に関する論争であり、1804年のセントルイス条約に起因していた。

 
 そもそもの紛争の原因は、白人がブラック・ホーク酋長を「指導者」だと誤解したことが要因で白人たちはブラック・ホークと条約を結べば、ソーク族もフォックス族も黙ってこれに従うだろうと考えた。
 
 しかし、インディアンの社会は民主的な合議制であり、その合議の調停者が酋長となっていた。
 酋長のブラック・ホークが白人との交渉役を引き受けただけであった。
  
 
 調停役が白人と交渉事を行ったとしても、部族全体はその方針に何ら拘束されない。
 
 インディアンにとって、それはあくまでブラック・ホークと白人の個人的な取り決めということであった。

 白人の要求は、ブラック・ホークや部族内で論争になった。
 
 
 白人はブラック・ホークを「大指導者」と勘違いしたまま条約を結んだことで全部族の了解を得たつもりでおり、部族の全体会議に何も相談がなかった。
 
 なお、部族を代表する者には土地を売り渡す権限がなかった。

 
 ブラック・ホークやソーク族、フォックス族がイギリス軍と同盟し、アメリカ軍と戦った。
 その後、ブラック・ホークは「1804年条約」を再確認した「1816年5月の条約」に署名したことを彼は後に「知らなかった」と抗議した。
 
 
 ブラック・ホークはあくまで調停者であり、「部族の全権を委任されたもの」でも「代表」でもないから、白人の求める責任は、全く理不尽なものだった。
 

 ブラック・ホークが米英戦争の前線を離れている間に、ソーク族のケオククが頭角を現し、この2人の関係は対立関係になっていた。

 
 イリノイの入植白人人口は米英戦争の後で一挙に膨れ上がり、1820年には5万人を越えた。
 その後、1830年には15万人に達していた。1825年、13名のソーク族と6名のフォックス族が1804年条約を再確認する新たな同意書に署名した。白人たちはこの「署名」で部族の公認を得たものと解釈し、1828年、アメリカ合衆国政府の連絡窓口であるトマス・フォーサイスは、インディアンたちにミシシッピ川以東の集落を明け渡すよう通告したのである[1]。

ここでも合衆国は大きな思い違いをしていた。13名のソーク族と6名のフォックス族が同意書に署名(X印を書くだけである)したとしても、インディアンにとっては、それは彼らの部族と何の関係もない個人間の同意にすぎないのである。

1830年7月15日、アメリカ合衆国インディアン担当理事ウィリアム・クラークは、ウィスコンシン州プレーリードゥシーンのクロウフォード砦で、ソーク&フォックス族と新たな条約調印を行った[3]。

この条約は「10万7千㎢のソーク族の土地をアメリカ合衆国政府に譲渡させる」というものだった。この条約では、ソーク族およびフォックス族と彼らの伝統的な敵であるスー族との間に「中立地帯」を設けて、今後敵対的な部族間の争いが起こらないようにしていた。

この条約にはケオククが署名(×印を書くだけである)し、1830年11月にはダコタ・スー族に承認された。[4] もちろん、ケオククの同意署名は、部族民すべての同意とは無関係である。「すべてを共有する」という文化を現在でも重んじるインディアンにとって、白人のこの退去命令はまったく理解できなかった。



manekinecco at 21:32トラックバック(0)  このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

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