September 16, 2017

白藤江の戦い(はくとうこうのたたかい バクダンの戦い)

 
白藤江の戦い(はくとうこうのたたかい バクダンの戦い)

 1288年にベトナムで行われた陳朝ベトナム軍と元軍との戦いのこと。
 
 元朝皇帝のフビライ・ハーンは1258年の第1次元越戦争および1283年の第2次元越戦争の二度の遠征に失敗した。
 
 1287年に三度目の出兵し第3次元越戦争を開始した。
 今回の遠征では元はクビライの息子の一人
   鎮南王トガン(脱驩)
を総司令官として9万の大規模な兵力を投入した。
 
 加えて何百にもなる戦船と
   張文虎将軍
が率いる数十万石の糧食を運ぶ船団も備えていた。

 今回の出兵にあたりフビライは「小国だからと交趾を甘く見てはいけない」とトガンに入念に説いたうえで出撃させている。

 1287年12月末、トガン率いる元軍が国境を越えて諒山、北江に攻め入った。
 
 陳興道の別名で知られる
   陳国峻
は隘路や要害の地で戦いながら、萬劫(ハイズオン省チーリン)とドゥオン川流域の数ヶ所に軍を後退させた。

 1288年になるとトガンが直接指揮を取った部隊が萬劫を占領して
   長期戦を戦うための陣地
を構築し始めた。
 
 同じくしてウマル(烏馬兒)将軍が指揮する戦船船団が海より白藤江を遡り、トガン軍と合流した。
 
 ウマルは張文虎の
   糧船船団
の護衛をする任務を与えられていたが、陳朝軍では元軍の侵攻を阻止することができないと考え、命令を無視して萬劫へと向かった。
 
 
 1288年1月末、軍隊を3つに分けて進軍したトガン軍は昇龍を占領した。
 都城の住民は朝廷の
   「清野」策(焦土作戦)
を実行しており、城内はもぬけの殻で食料なども持ち去られていた。
 
 元軍はまともな戦闘が行われず陳朝の抗戦勢力を全滅させることが出来なかったため、次第に守勢に立たされることになる。
 
 トガンは、危機的な形勢に立たされたと判断し萬劫に兵を引き、そこから水路と陸路の二手に分かれて本国へ退却することを決めた。

 元軍を全滅させ、国を解放する機会ととらえた仁宗と陳国峻は反撃を決断した。
 陳国峻は白藤江の潮位の上下を日々調べさせ、川底に杭を打ち伏兵を配した。

 1288年4月初め、ウマルが指揮する船団は、騎兵の護衛を伴いつつ白藤江を遡上した。
 
 戦船が杭を打ち込んだ地点に差し掛かった好機を見計らい陳軍の軽舟が出撃し、小競り合いをしてすぐに負けを装って後退した。
 
 殲滅すべく懸命に追撃に転じた元軍が伏兵された地点にたどり着くと、両岸から何千もの陳軍の小舟がなだれ込んできた。
 
 ちょうど潮が引きはじめた時刻に合わせた合戦であり、元軍の船団は慌てて退却したものの干潮で水位が下がり顕わになった川底の杭に退路を阻まれたうえ、船底が杭で破壊された多くの船が沈没するに至った。

 さらに、陳軍は火をつけた筏を潮に乗せて流し、身動きが取れなくなった船団を炎上させたといわれている。
 
 生き残った兵士は川岸へと泳いで逃げたが、伏兵していた歩兵による奇襲攻撃を受け全滅し、ウマルは生け捕りにされた。

 トガンが指揮した部隊は萬劫より諒山の方向へ逃走し、陳朝軍の追撃を受けつつ広西に逃げ帰った。
 
  
 

manekinecco at 08:10軍事戦略   このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote
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