軍事戦略

December 01, 2017

新羅征討計画(しらぎせいとうけいかく)

 飛鳥時代に西暦562年、朝鮮半島にあった
   任那日本府
が新羅によって滅ばされた。
 
 この任那日本府は紀元前2世紀末から4世紀にかけて朝鮮南部にあった三韓の一つで12の諸小国に分立していた弁韓 (べんかん 弁辰とも言う) が統一されもの。
 これを回復するため朝鮮半島への軍事行動として「征討軍」が推古朝に3度、計画され、1度目は新羅へ侵攻し、激戦の末勝利し、新羅が降伏した。

 1度目は推古8年(西暦600年)2月で、任那を救援するために新羅へ出兵した蘇我氏の一族である
   境部摩理勢(境部臣)
が征新羅大将軍に任命され、副将軍は
   穂積祖足(穂積臣)
であった。
 
 新羅の前線にある五つの城が攻略され、新羅は降伏した。
 さらに、多多羅(たたら)、素奈羅(すなら)、弗知鬼(ほちくい)、委陀(わだ)、南迦羅(ありひしのから)、阿羅々(あらら)の6つの城を攻略したうえ
   難波吉士神(なにわのきしみわ)
を新羅に派遣した。
 なお、難波吉士木蓮日(なにわのきしいたび)を任那に派遣して倭国に朝貢を約させたが、倭国の軍が帰国したのち約束を違えて新羅はまた任那へ侵攻した。

 翌推古9年(601年)3月に
   大伴連囓于(おほとものむらじくひ)
を高麗(こま)に派遣したうえ、
  坂本臣糠手(さかもとのおみむらて)
を百済へ派遣して任那救援を命じた。

 推古9年(601年)9月8日、新羅の間諜である
   迦摩多(かまた)
が対馬に上陸したところを捕えたうえ上野国に送還された。
 新羅の不遜な対応が判明し11月5日、新羅への第二次征討計画が図られた。

 推古10年(602年)2月、聖徳太子の弟
   来目皇子
は征討将軍を命じられ、軍2万5千を授けられて4月に軍を率いて筑紫国に至った。
 島郡に屯営した6月3日、百済より大伴連囓于と坂本臣糠手が帰国した。
 
 しかし、渡航する予定の来目皇子が病となり新羅への進軍を延期した。
 なお、10月に百済の僧侶
   観勒
が渡来し天文、暦本、陰陽道を伝えた。

 来目皇子は、征討を果たせぬまま、翌推古11年(603年)2月4日、筑紫にて亡くなった。
 
 
 推古11年(603年)4月、来目皇子の異母兄
   当麻皇子(たいまのみこ)
が征討将軍に任命され、推古11年(603年)7月3日、難波より出航した。
 7月6日に播磨に到着したところ妻の舎人皇女が明石で薨去したため、当摩皇子は朝廷に帰還したため計画は中止となった。
 
   
  

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September 16, 2017

 
白藤江の戦い(はくとうこうのたたかい バクダンの戦い)

 1288年にベトナムで行われた陳朝ベトナム軍と元軍との戦いのこと。
 
 元朝皇帝のフビライ・ハーンは1258年の第1次元越戦争および1283年の第2次元越戦争の二度の遠征に失敗した。
 
 1287年に三度目の出兵し第3次元越戦争を開始した。
 今回の遠征では元はクビライの息子の一人
   鎮南王トガン(脱驩)
を総司令官として9万の大規模な兵力を投入した。
 
 加えて何百にもなる戦船と
   張文虎将軍
が率いる数十万石の糧食を運ぶ船団も備えていた。

 今回の出兵にあたりフビライは「小国だからと交趾を甘く見てはいけない」とトガンに入念に説いたうえで出撃させている。

 1287年12月末、トガン率いる元軍が国境を越えて諒山、北江に攻め入った。
 
 陳興道の別名で知られる
   陳国峻
は隘路や要害の地で戦いながら、萬劫(ハイズオン省チーリン)とドゥオン川流域の数ヶ所に軍を後退させた。

 1288年になるとトガンが直接指揮を取った部隊が萬劫を占領して
   長期戦を戦うための陣地
を構築し始めた。
 
 同じくしてウマル(烏馬兒)将軍が指揮する戦船船団が海より白藤江を遡り、トガン軍と合流した。
 
 ウマルは張文虎の
   糧船船団
の護衛をする任務を与えられていたが、陳朝軍では元軍の侵攻を阻止することができないと考え、命令を無視して萬劫へと向かった。
 
 
 1288年1月末、軍隊を3つに分けて進軍したトガン軍は昇龍を占領した。
 都城の住民は朝廷の
   「清野」策(焦土作戦)
を実行しており、城内はもぬけの殻で食料なども持ち去られていた。
 
 元軍はまともな戦闘が行われず陳朝の抗戦勢力を全滅させることが出来なかったため、次第に守勢に立たされることになる。
 
 トガンは、危機的な形勢に立たされたと判断し萬劫に兵を引き、そこから水路と陸路の二手に分かれて本国へ退却することを決めた。

 元軍を全滅させ、国を解放する機会ととらえた仁宗と陳国峻は反撃を決断した。
 陳国峻は白藤江の潮位の上下を日々調べさせ、川底に杭を打ち伏兵を配した。

 1288年4月初め、ウマルが指揮する船団は、騎兵の護衛を伴いつつ白藤江を遡上した。
 
 戦船が杭を打ち込んだ地点に差し掛かった好機を見計らい陳軍の軽舟が出撃し、小競り合いをしてすぐに負けを装って後退した。
 
 殲滅すべく懸命に追撃に転じた元軍が伏兵された地点にたどり着くと、両岸から何千もの陳軍の小舟がなだれ込んできた。
 
 ちょうど潮が引きはじめた時刻に合わせた合戦であり、元軍の船団は慌てて退却したものの干潮で水位が下がり顕わになった川底の杭に退路を阻まれたうえ、船底が杭で破壊された多くの船が沈没するに至った。

 さらに、陳軍は火をつけた筏を潮に乗せて流し、身動きが取れなくなった船団を炎上させたといわれている。
 
 生き残った兵士は川岸へと泳いで逃げたが、伏兵していた歩兵による奇襲攻撃を受け全滅し、ウマルは生け捕りにされた。

 トガンが指揮した部隊は萬劫より諒山の方向へ逃走し、陳朝軍の追撃を受けつつ広西に逃げ帰った。
 
  
 

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September 02, 2017

 
 陳朝ベトナム軍の陳慶餘は、元軍のウマルの戦船団が通過してしまえば糧船船団を攻撃できると考え、配属された部隊の一部を割いて待ち伏せした。
 
 ウマルは張文虎の糧船船団を護衛する任務を与えられていたが、攻撃がないため陳朝軍は阻止することができないと考え護衛を放棄し、戦域まで先に船団を航行させた。
 
 数日後糧食を満載しているために鈍重となっていた
   張文虎
の糧船船団を雲屯(クアンニン省ヴァンハイ)にて奇襲を仕掛け、糧船の多くを沈没または強奪することに成功している。
 
   
  

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May 01, 2017

  
FGM-148 ジャベリン(FGM-148 Javelin)

 米国製でドラゴン対戦車ミサイルの後継として開発された歩兵携行式多目的ミサイルのこと。
 
 主な目標は
   装甲戦闘車両
として開発されたミサイルであるが、建築物や野戦築城、さらには低空を飛行するヘリコプターへの攻撃能力も備えている。
 

   
 
 
 完全な「撃ちっ放し」(ファイア・アンド・フォーゲット)機能を保有している。
 また、発射前のロックオン・自律誘導能力、バックブラストを抑え室内などからでも発射できる能力などの特長がある。

 ミサイルの弾道は、装甲車両に対して装甲の薄い上部を狙うトップアタックモードと、建築物などに直撃させるためのダイレクトアタックモードの2つを選択できる。
 
 トップアタックモードでは高度150m、ダイレクトアタックモードでは高度50mを飛翔する。
 
 ミサイルは、画像赤外線シーカーと内蔵コンピュータによって事前に捕捉した目標に向かって
   自律誘導
される方式でサポートしており、メーカー発表によれば、講習直後のオペレーターでも94%の命中率を持つ。

 弾頭は、タンデム成形炸薬を備え、メイン弾頭の前に、より小さなサブ弾頭を配置し、サブ弾頭により爆発反応装甲などの増加装甲を無力化した後にメイン弾頭が主装甲を貫通するように設計されている。

 FGM-148は、CLU(Command Launch Unit)と呼ばれる発射指揮装置の部分と、弾薬の部分(LTA(Launch Tube Assembly)と呼ばれる発射筒体と、発射筒に収められたミサイル本体)で構成され、総重量は22キログラム。

 発射されたミサイルは圧縮ガスによって発射筒から押し出され、数m飛翔した後に安定翼が開く。
 同時にロケットモーターが点火される(コールドローンチ方式)。
 
 これにより、バックブラストによって射手の位置が露見する可能性を抑え、後方が塞がっている室内などからも安全に発射することができる。
 
 なお、ミサイルは完全自律誘導のため、射手は速やかに退避することができる。

 操作運用は1名でも可能でだが、通常は射手と弾薬手の2名で行うのが一般的だ。
 なお、弾薬手は、発射時の周囲警戒も担当することになる。
 
 
  

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April 30, 2017

 
 AGM-114 ヘルファイア (Hellfire, Helicopter launched fire-and-forget)
 
 米軍の空対地ミサイルのこと。
 
 主に対戦車ミサイルとして使用されるが、対艦用も存在する。
 ヘルファイアの名称は、の「ヘリコプター発射の撃ちっぱなし(ミサイル)」を略したもの。 
 別に「地獄の業火」という意味もある。
 
 
   
   (出典:https://www.youtube.com/embed/Qhh2xQYwJlk)
   

 主に対戦車戦闘において使用され、基本となる誘導方法はセミアクティブレーザー誘導。
 TOWのように誘導にワイヤーを用いないために飛翔速度が速い。
 そのため、着弾所要時間が短く、敵に回避、反撃する機会を与えることなく攻撃が可能。
 
 レーザー発信部とミサイル発射母機を別々に設置することもでき、改良型のB型およびC型では赤外線画像誘導も可能という。

 弾頭を対艦攻撃用に変更した物は、スウェーデン軍にRBS17の名称で採用されている。

 開発は1971年に開始され、1985年から実戦配備された。

 K型以降はヘルファイア IIとも呼ばれ、レーザー測距/誘導関係の機能が改良されている。
 また、L型のロングボウ・ヘルファイア・モジュラー・ミサイル(Longbow Hellfire Modular Missile)は、ロングボウ・ヘルファイアとも通称され、ミリ波レーダーによるアクティブレーダー誘導に対応している。

 初期バージョンのヘルファイアは、標的に対する
   レーザー照射
など継続的な誘導を必要とする。
 このため、ファイア・アンド・フォーゲット(Fire-and-Forget、撃ったあとは忘れる・撃ちっぱなし)性能は持っていない。
 
 AGM-114L ロングボウ・ヘルファイアは発射後の誘導を必要とせず、ランチャー(発射器)と標的間に射線が形成されていなくても撃つことができ、撃ちっ放し性能を追加している。

 ヘルファイア、マーベリック、空中発射TOW ミサイルは、2010年までに統合共通ミサイル
   JCM(Joint Common Missile)
に置き換えられる計画があった。
 なお、これは、2005年1月時点で中止された。

 1991年1月17日に始まった、イラクにおける湾岸戦争の「砂漠の嵐」作戦の序盤で
   AH-64 アパッチ8機
が、ヘルファイアとハイドラ70ロケット弾を使用し、二つのイラク軍早期警戒・地上管制レーダーサイトを破壊した。
 
 中米パナマにノリエガ政権打倒などを目的に軍事侵攻した
   ジャスト・コーズ作戦
でも使用され、7つの目標を破壊することに成功している。

 2002年の初期以降、MQ-1 プレデター無人偵察機からも発射され、アフガニスタンに潜伏していたウサーマ・ビン・ラーディンに対して発射されたほか(暗殺未遂)、ターリバーン幹部の乗った車両に対しても発射されている。

 ヘルファイアは、2003年からのイラク戦争においても実戦使用されている。

 2014年9月1日、ソマリアの
   アル・シャバブ
の拠点襲撃で、レーザー誘導爆弾とともに利用した。
 最高指導者であるアハマド・アブディ・ゴダネを暗殺している。
 

     

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January 29, 2017

 
 唐の末期の875年夏、黄河下流の山東省・河南省一帯で相次いで
   農民反乱
が起こった。
 
 イナゴが大発生し、その大群がとぶと日中も暗く、飛び去ったあとは青いものはすべて食べ尽くされ赤土だけが残ったという惨憺たる状況であった。
 
 そのような中で唐朝が草賊とよんだ群盗、塩の密売人である
   王仙芝
   黄巣
が、その秘密結社の組織力を生かして反乱を指導し、急激に膨張し反乱集団は大きな勢力となった。

 塩専売制のもとで密売によって利益を得ていた。
 しかし、唐政府が密売摘発を強化したことに反発して反乱を起こした。
 
 878年王仙芝が戦死するとその勢力を併せた黄巣は、江北の節度使との対決を避けて南下し、広州に入った。
 
 さらに北上を目指し、880年には長安を陥れ、黄巣は皇帝の位についた。
 国号を大斉と称した。
 
 唐の皇帝僖宗は、独眼竜と言われた勇猛なトルコ系(突厥系)沙陀族の
   李克用
の援軍を求めた。
 
 李克用は占領された長安を攻撃し、そのため長安は灰燼と帰してしまい唐文化の繁栄は失われた。
 反乱軍の部将
   朱全忠
が唐軍に投降した。
 その後、李克用とともに黄巣の軍を攻撃したため黄巣は長安から追い落とされ山東に逃げ延びたものの、884年に鎮圧された。

 鎮圧後、唐は20数年を経て、乱を鎮圧して頭角を現して節度使となった朱全忠が907年に唐に代わって後梁を建国した。
 こうして290年、20代に及んだ唐の滅亡をもたらし、五代十国の分裂期に入った。
 
   
   

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December 30, 2016

 
錦衣衛(きんいえい)

 明朝の秘密警察・軍事組織で、禁衛軍(近衛兵)の1つ。

 明朝の洪武15年(1382年)に、儀仗や禁宮の警備を任務としていた
   儀鸞司
を再編・改称したもので、侍衛上直軍の1つとして
   親軍指揮使司
に属し、勲戚の都督の下に南北両鎮撫司・十四所を統轄して儀仗と宮禁守護が主な職務と付けられたが、実際には
   特務機関
として皇帝の意思を受け、政治的な陰謀の摘発を中心に、失火や落雷、市井の物価の報告まで含まれるなど、情報収集は多岐に渡った。
 
 北鎮撫司の命を受けた招獄が別称という。
 
 なお、宦官を長とする東廠設置後は、その下部組織として兵刑両権を行使して恐怖政治を実現し、人々から恐れられた。
 
 
   

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December 10, 2016

 
伊二百一型潜水艦(いにひゃくいちがたせんすいかん)

 大日本帝国海軍の潜水艦の艦級で
   潜高型(せんたかがた
   潜高大型(せんたかだいがた)
とも呼ばれ、連合国の対潜水艦戦闘 (ASW) 能力向上にともなう日本潜水艦の被害拡大に対処するため
   水中速力
を重視した型である。
 
 なお、潜高とは水中高速潜水艦の略。

   
   (出典:https://www.youtube.com/embed/5KNqMxyBE0g)
 
 
 1938年に建造され1941年まで試験された
   水中高速実験潜水艦第71号艦
や甲標的などの開発経験から1943-44年の
   マル戦計画
により太平洋戦争末期に建造された潜水艦で潜航時の船体抵抗を抑えた設計、ドイツより技術導入した溶接に適した高張力鋼St52による全溶接船体構造である。
 
 建造期間短縮と大量建造に適する
   ブロック建造
を取り入れ毎月1隻の完成を目標としていた。
 
 23隻が計画され、8隻が終戦までに起工、1945年(昭和20年)3隻が就役した。
 ただ、実戦に投入されることなく終戦を迎えている。

 水中高速航走時の安定性や故障の多い主機関、多量に搭載された蓄電池の整備性・信頼性等が未解決のままであった。

 船体は甲標的や第71号艦の経験を生かし
   単殻構造
となり予備浮力は最低限の12%とされ、急速潜航時間は30秒であった。

 1943年10月当初、軍令部の要求により水中速力25ノットを予定していたが減速ギアの騒音問題が解決できず電動機直結としたことなど、最終的には計画水中速力19ノットに変更された。
 
 完成後の水中速力試験では速力19ノットを記録したが、実際の運用においては主機の故障、前述の水中高速航走での安定性の問題もあり、欠陥改善のために改造を行った後の速力は17ノット程度であった。

 ただ、実験艦を除いた戦後の通常動力型潜水艦においても、25ノットの水中速度に到達した例は無い。

 計画乗員31名であったが実際には運行させるためには50名程度の乗員が必要であったため、寝台スペースも不足していた。
 
 なお、終戦後は2隻がアメリカに運ばれ調査の対象となった。
 アメリカ海軍でも設計上の問題点を認識しており、「危険極まりない潜水艦である」という評価を下した。

  
 
    
    

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November 18, 2016

 
 イラク軍は、過激派組織IS=イスラミックステートが支配するイラク第2の都市モスルの奪還作戦を進めている。
 
 モスル近郊にあるを奪還し、イラク政府は今後ISが破壊した貴重な文化遺産の被害について調査を進める方針。

 イラク軍は13日、モスルから南におよそ30キロ離れた場所にあるメソポタミア文明の古代遺跡
   ニムルド遺跡
を過激派組織ISから新たに奪還したと発表した。

 ニムルド遺跡は、紀元前9世紀ごろ、アッシリアの首都が置かれた古代都市の跡。
 およそ3000年前の彫像や石碑、巨大な宮殿のほか、王のものと見られる墓などが発掘された。

 ISは、イスラム教の極端な解釈を基に、これまで各地で貴重な文化遺産の破壊を繰り返している。
 
 ニムルド遺跡についてもISは、古代の神殿などを破壊した際の映像をインターネット上に公開している。
 ただ、遺跡全体の被害状況は詳しくわかっていない。
 
 このためイラク政府は今後、遺跡の安全が確認されしだい、現地に専門家を派遣して、被害の状況を調べる方針。
 
 
 
    

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October 17, 2016

 
アドミラル・クズネツォフ( Адмира́л Кузнецо́в )
 
 正式名アドミラル・フロータ・サヴェーツコゴ・サユーザ・クズネツォフ

 ソ連邦海軍元帥クズネツォフから命名
 
 ソビエト連邦で建造された重航空巡洋艦で 設計番号は11435型。
 ロシア連邦海軍唯一の航空母艦として運用されている。


   
 

 
   

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