軍事戦略

May 08, 2018

   
 朝鮮戦争で中国義勇兵で連合国軍に捕虜になった約2万1400人の捕虜のうち、約1万4000人が中華民国(台湾)へ亡命した。
 
 残りの7110人は本国へ送還されている。
  
 
 蒋介石の国民革命軍が毛沢東の共産党軍から台湾に逃げる際、大陸に取り残された兵士の多くが人民志願軍への志願を強要されていたためだともいわれている。
 
 
 なお、北朝鮮の最高人民会議常任委員会委員長となる
   金永南
のように北朝鮮に留まった兵士もいたという。

 西側諸国では中国人民志願軍の損害を死傷や病死、凍死なども含め
   約100万人
とする見方もある。
 
 なお、ソ連の公式文書では中国人民志願軍の戦死者は100万人としている。
 
 小平は非公式の席で日本共産党党首に対し戦死者は40万人と言及している。
  
 
 文化大革命の重要人物の一人
   康生
もアルバニア労働党第一書記としてアルバニア人民共和国首相を1944年から1954年まで務めた
   エンヴェル・ホッジャ
に対して小平と同様の被害であったと発言している。
 
 なお、中華人民共和国側の発表によれば志願軍の損害は戦死者は約17万人であった。
 この中には毛沢東の長男
   毛岸英(北朝鮮で戦死)
も含まれている。
 
 なお、省別では国民革命軍の兵士が多いのか、四川省出身の戦死者が3万人で最高となっている。

 
 中国人民志願軍が最初に戦闘を行った10月25日は抗美援朝義勇軍記念日とされている。
 
 
   

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May 07, 2018

 
 朝鮮戦争で米韓朝三ヶ国の戦争行為また戦争犯罪の証言があるものの中国人民志願軍の朝鮮戦争での戦争行為は詳細には不明である。
 
 中国人民志願軍はその後、戦線は北緯38度線を挟んで膠着状態となった。
 
 1953年7月27日に国連軍総司令官
   マーク・W・クラーク大将
と中国人民志願軍司令員
   彭徳懐
朝鮮人民軍最高司令官の
   金日成
によって休戦協定が調印された。
 
 この休戦協定の調印の会場となった
   板門店
の名は、会場を開城から現在の板門店の場所に移動させる際に近くにあった
   「ノル門里」
と現地で呼ばれてる居酒屋の「ノル」が「板」だという意味と知った中国人民志願軍の兵士が漢字で「板門店」と書き表したことから定着したとされている。

 
 休戦時における中国人民志願軍の兵力は約120万人に達していた。
 
 この休戦協定は外国軍撤退問題を、その後の政治協議に委ねていた。
 
 中国人民志願軍は先ず、休戦直後から歩兵6個軍、砲兵・高射砲兵、鉄道兵20個師団を秘密裏に撤退させた。
 併せて1954年4月に始まる
   ジュネーヴ会談
において米国と撤退問題を協議した。
 

 ただ、ジュネーヴで合意に至らぬまま、同年9月6日に中国は人民志願軍の撤退を発表した。
 
 撤退は1954年から1955年の第一期と、1958年の第二期に分けて段階的に実行された。
 
 なお、1958年10月26日には駐留していた全軍の撤退を完了させている。
 
 捕虜になった約2万1400人の捕虜のうち、約1万4000人が中華民国(台湾)へ亡命した。
 残りの7110人は本国へ送還されている。
  
 
   

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May 06, 2018

 
 中国義勇軍の参加で周囲の丘陵地帯を
   完全に包囲
され奇襲攻撃を受けた米韓軍は甚大な被害が生じた。
 
 目前に突然出現した大規模な兵員による攻撃に驚いて総退却を開始した。
 なお、中国人民志願軍は平壌を奪回したばかりでなく、韓国の首都ソウルも占領し支配していった。

 
 中国人民志願軍は、朝鮮半島北部特有の山地を遮蔽として利用しながら兵士を殺到させ攻撃を加えていく
   人海戦術
を行なった。
 
 大挙して迫る中国人民志願軍に対して、国連軍は本来対空自走砲である
   M16対空自走砲
を歩兵に対して使用した。 
 
 さらに、前線ではチャルメラや銅鑼を打ち鳴らして米兵や韓国兵を威嚇した。
 
 米軍の捕虜には中国語で「洗脑/洗腦」(洗脳の語源)と呼ばれる思想改造を行っった。
  
 
 米国社会に異様な恐怖を与える戦術が用いられた。
 
 また、ソ連から供与された最新の戦闘機であるMiG-15を投入した。
 この戦闘機の投入により、それまでジェット機を保有しない北朝鮮軍を圧倒していた国連軍の制空権を奪い始めた。

 中国人民志願軍が米韓軍と戦闘した地域は大部分が北朝鮮国内であった。
 
 韓国国内では4ヶ月の戦闘という。
 

   

manekinecco at 22:14  このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

May 05, 2018

 
 中国人民志願軍は1950年10月19日に山岳部を隠密理に南下することによって米韓軍がいる谷間を迂回した。
 
 10月25日に山上の陣を取り、高所から下方の米韓軍を狙って攻撃を始めた。
 朝鮮北部の戦線に大規模な戦闘員が突如出現したことになる。
 
 同日、第13兵団と彭徳懐の指揮所が合併し、中朝連合司令部が設置された。
 
 
 朝鮮人民軍は北朝鮮における中国共産党の指導下にあった朝鮮独立同盟や朝鮮義勇軍を母体としているグループ「延安派」の中心人物のひとり
   朴一禹
の指揮下に置かれた。
 
 朴一禹はソ連の指導を受けていた金日成を凌ぐ人望や勢力を持っていたが、金日成の弾圧で延安派が反宗派闘争などで粛清され、死亡時期も不明なまま歴史から消えている。
 
 
   

manekinecco at 22:13  このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

May 04, 2018

 
 1950年7月7日、周恩来が招集した
   国防軍事会議
において、東北辺防軍の創設が決定された。
 
 義勇兵の部隊は人民解放軍の正規部隊である第13兵団(第38、第39、第40)、および第42軍、等を抽出して編成した。
 
 同年10月8日、毛沢東中央軍事委員会主席による
   「中国人民志願軍の設立に関する命令」
が発布された。

 東北辺防軍は中国人民志願軍に改編され、彭徳懐が司令員兼政治委員に任命された。

 当初前線に投入された部隊だけで
   20万人
がおり、後方待機部隊を含めると100万人に達した。
 
 この中には旧間島(現・吉林省延辺朝鮮族自治州)の朝鮮人部隊も多数含まれていた。
 
   

manekinecco at 02:12  このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

May 03, 2018

 
当然、戦闘単位当たりの火力にも差が大きくあり、韓国軍師団と北朝鮮軍師団が1分間に投射できる弾量比については、1:10であった。
 
 北朝鮮軍師団の圧倒的優位であったうえ双方の
   主力砲の射程
に関しても、北朝鮮砲兵の11,710メートル(ソ連製122mm榴弾砲M1938)に対して韓国軍砲兵は6,525メートル(アメリカ製105mm榴弾砲M3)と大きく劣っていた。

 
 戦力的に圧倒的な差がある状況から1950年6月25日に始まった
   朝鮮戦争
では当初、不意打ちで侵攻した金日成ら朝鮮人民軍が優勢であった。 
 
 
 マッカーサーは米軍を主力とした連合軍をソウル近郊の
   仁川に奇襲上陸
することで北朝鮮軍の
   補給路
を断ち、これに連携して釜山を守っている第8軍を進撃させ南北より北朝鮮軍部隊を挟撃する
   クロマイト作戦
を立案し、作戦軍を主体とした国連軍の仁川上陸作戦により形勢は逆転した。
 
 国連軍は平壌を占領、一部部隊は鴨緑江の線に達した。
 
 1949年に成立したばかりの毛沢東の中華人民共和国は当初介入に否定的だった。
 
 国連軍の接近のため毛沢東は北朝鮮の金日成を支援するために参戦を決意した。
 
 ただ、中国や中ソ友好同盟相互援助条約を結んでいたソ連は
   米国との全面戦争
によって朝鮮半島を超えてソ連や中国の領土まで
   戦線拡大
が引き起こされ、巻き込まれることを回避するため
   参戦部隊
は中国人民解放軍ではなくて表向きは義勇兵という名目にした。

 
   

manekinecco at 22:11  このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

May 02, 2018

 
朝鮮戦争の開戦直前の南北朝鮮の軍事バランスは、北が有利であった。
 
 韓国軍は歩兵師団8個を基幹として
   総兵力10万6000人
を有していた。
 
 ただ、部内に多数潜入していたスパイの粛清する必要があった。
  
 独立以来頻発していた北朝鮮による
   ゲリラ攻撃
の討伐に労力を割かれ、訓練は不足気味であった。
 

 米韓軍事協定によって重装備が全くなく、戦車の保有もなし、砲91門、迫撃砲960門、航空機22機(それも練習機)のみであった。

 
 朝鮮人民軍は完全編成の歩兵師団8個、未充足の歩兵師団2個、戦車旅団1個および独立戦車連隊1個の正規部隊と警備旅団5個を含み
   総兵力19万8000
であった。
 
 さらにソ連製新鋭戦車T34/85戦車240輌や砲552門、迫撃砲1728門などを保有していた。
 航空機としてイリューシンIl-10やアントノフAn-2など211機を有していた。

 ソ連や中国との協定に基づき、1949年夏より独ソ戦で
   スターリングラードの戦い
などに参加した
   高麗人ソ連軍兵士五千名
が帰国していた。
 また中国からは、朝鮮族で構成された
   国共内戦
の経験を持つ東北人民解放軍の3個師団と2個連隊が朝鮮人民軍に部隊ごと移籍され
   3万を超える実戦を経験した兵士
が増強されていた。

 
    

manekinecco at 22:10  このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

May 01, 2018

  
 中国人民志願軍
 
 朝鮮戦争に参戦した中華人民共和国の部隊の名称で初代司令員は政治委員を兼任した
   彭徳懐
が担当した。
 
 なお、朝鮮戦争後、彭徳懐は中央軍事委員会副主席を務めたが毛沢東が5000万人もの飢餓を発生させた
   大躍進政策
を批判したため失脚した。
 
 文化大革命の時代に、最後は癌に侵されながらも
   紅衛兵
らに治療を拒否されるなど劉少奇などと同様に虐待の中で息を引き取った。
  
 
 人民義勇軍、抗美援朝義勇軍とも呼ばれ、表面上は中国政府の関わりはないとのスタンスとなっている。
 
 
 欧米などでも政府機関が関わりを表面上は持っていないスタンスをとるために
   民間企業
を装い、非合法な活動を担わせたりすることもある。
 
 日本の政治家が愚かな思考で政府機関を単純に民営化するのとは根本的に異なる民間企業が多数存在しており、民間軍事企業などを見れば明らかだろう。
   
    

manekinecco at 22:08  このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

March 24, 2018

 
黄海海戦(こうかいかいせん)

 1904年(明治37年)8月10日に
   大日本帝国海軍連合艦隊
とロシア帝国海軍第一太平洋艦隊(以下 旅順艦隊)との間で戦われた海戦のこと。
 
 この海戦でロシア太平洋艦隊の艦船は激しく損傷し壊滅、以後大規模な海戦を行うことが出来なくなった。
 
 ロシアの旅順艦隊の司令長官
   ステパン・マカロフ中将
は、日本海軍連合艦隊(以下 連合艦隊)との一連の戦闘により戦死。
 
 その後任として司令長官職を代行した
   ヴィリゲリム・ヴィトゲフト少将
は、防備の堅い旅順港に出来るだけ閉じこもり、連合艦隊との直接的な衝突を避け艦隊を温存するという消極的な行動を見せた。
 
 
 極東総督
   エヴゲーニイ・アレクセーエフ
は旅順艦隊に対しウラジオストクへの回航を強く命令。
 
 これを受け旅順艦隊は1904年6月23日に一旦出航したが、連合艦隊に遭遇し港内へ逃げ帰った。
 
 
 日本陸軍第三軍による陸上からの
   旅順要塞攻撃
が開始され、8月に入り第三軍と行動を共にしていた
   日本海軍陸戦重砲隊
が大孤山に設けた観測所を使って照準を行い、旅順港の艦船を砲撃した。
 
 8月9日、命中弾により戦艦「レトヴィザン」が水線部に、戦艦「ツェサレーヴィチ」は艦橋に損傷を受けた。
 
 この攻撃によりヴィトゲフト自身も負傷するなどの損害を受けている。
 
 ヴィトゲフトは旅順港に艦隊を置いても陸からの攻撃を受けるため、艦隊が危険に晒されると判断し、艦隊の大部分を旅順港からウラジオストクへ回航することを決定した。
 
 なお、足手まといともなる小さな砲艦や直前に触雷して修理中の装甲巡洋艦「バヤーン」は旅順残留とした。
 
 
 一方、連合艦隊側は、バルチック艦隊が到着する前に旅順艦隊を壊滅させるため、艦隊数による日本側の不利な状態を極力改善しておきたかった。
 
 当面、日本海における
   制海権
を確保しておく必要性があることから、旅順艦隊が港から出てくるのを待ち望んでいた。
  

 連合艦隊は12時30分に、旅順の西南23カイリ付近で南下してきた旅順艦隊を確認したため攻撃を図った。
 
 しかし、旅順艦隊は反撃することもなく、終始ウラジオストク方面に逃げの姿勢に徹した。
 
 日本艦隊は意図的に旅順艦隊の逃げ足を止めるため、距離7000メートルで丁字戦法を実行すべく艦隊行動を行ったため、旅順艦隊に後方から逃げられて引き離されてしまった。
 
 
 15時20分から追撃を始めたが追いつき砲撃を再開できたのは17時30分になってからとなった。 
 
 18時40分、旅順艦隊旗艦「ツェサレーヴィチ」の艦橋に2発の砲弾が直撃した。
 司令長官代行のヴィトゲフトと操舵手が戦死した。
 またイワノフ艦長などが昏倒し指揮官が居なくなった。
 
 また、操舵手が舵輪を左に巻き込んで倒れた上、舵機に故障を起こした。
 
 このため、「ツェサレーヴィチ」が左に急旋回して自艦隊の列に突っ込んだ結果、全艦船は四散して動きが乱れた。

 連合艦隊は四散しながら南下する旅順艦隊を攻撃した。
 ただ、夜間には水雷攻撃を行ったが失敗した。
 
 旅順艦隊の戦艦(「ツェサレーヴィチ」を除く)および多くの艦艇は、戦艦「ペレスヴェート」座乗の次席指揮官
   パーヴェル・ウフトムスキー少将
の指揮下で沈没艦を出さずになんとか旅順に帰還した。

 
 戦艦「ツェサレーヴィチ」と駆逐艦3隻がドイツ領の膠州湾租借地、防護巡洋艦「アスコリド」と駆逐艦1隻が上海、防護巡洋艦「ディアーナ」がフランス領インドシナのサイゴンで抑留された。
 
 また、防護巡洋艦「ノヴィーク」は日本列島を迂回して太平洋を北上して樺太のコルサコフにまで到達した。
 しかし、追撃してきた防護巡洋艦「千歳」と「対馬」によって撃破(コルサコフ海戦)された。
 
 また、駆逐艦一隻が座礁して自沈した。
 
 
 この他、駆逐艦「レシテリヌイ」が芝罘に入港したが日本軍に接収され、「暁」として編入した。
 
 なお、旅順では各艦の損害を修復することが出来ず旅順艦隊はこれ以後大がかりな作戦が出来なくなった。

 出撃の報告は芝罘にいたロシア領事の手によってウラジオストクにも伝達された。
 
 
 ウラジオストク巡洋艦隊が旅順艦隊を援護すべく出撃した。
 出撃30分後には「レシテリヌイ」からの報告により出撃中止命令が出された。
 
 ただ、この報告が艦隊には届かず、ウラジオストク巡洋艦隊は
   上村彦之丞中将
が率いる第二艦隊に蔚山沖で捕捉され撃破された(蔚山沖海戦)。
 

 この海戦後、旅順艦隊の主力艦中では戦艦
   セヴァストーポリ
が対地攻撃のため数度出撃したのみで、それも触雷し船体が損傷して以降は出動していない。

 旅順艦隊は艦載砲を外して陸上要塞に回した。
 また、乗組員は陸戦部隊として変性・配備し、艦隊としての戦闘機能は壊滅した。
 
 ただ、当時の日本側はこの事実を知らず、旅順艦隊の作戦能力がいまだ健在であると思っていた。
 
 このため、陸軍に対して旅順要塞の攻略を早期に行うべきと要請したため、陸軍が猛攻し甚大な被害を出した。
 
 また、丁字作戦が事実上失敗(敵艦との距離が離れすぎていた)したことや、敵艦を沈めることが出来なかったことが大きな課題として残った。
 
 なお、この海戦での教訓は後の日本海海戦での大勝利を引きだしたともいわれている。

 この後に毛沢東は日露戦争の歌「黄海の戦い」の歌詞を紹介し、日本の誇りを賞賛した。
 
 
    

manekinecco at 18:21  このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

December 01, 2017

新羅征討計画(しらぎせいとうけいかく)

 飛鳥時代に西暦562年、朝鮮半島にあった
   任那日本府
が新羅によって滅ばされた。
 
 この任那日本府は紀元前2世紀末から4世紀にかけて朝鮮南部にあった三韓の一つで12の諸小国に分立していた弁韓 (べんかん 弁辰とも言う) が統一されもの。
 これを回復するため朝鮮半島への軍事行動として「征討軍」が推古朝に3度、計画され、1度目は新羅へ侵攻し、激戦の末勝利し、新羅が降伏した。

 1度目は推古8年(西暦600年)2月で、任那を救援するために新羅へ出兵した蘇我氏の一族である
   境部摩理勢(境部臣)
が征新羅大将軍に任命され、副将軍は
   穂積祖足(穂積臣)
であった。
 
 新羅の前線にある五つの城が攻略され、新羅は降伏した。
 さらに、多多羅(たたら)、素奈羅(すなら)、弗知鬼(ほちくい)、委陀(わだ)、南迦羅(ありひしのから)、阿羅々(あらら)の6つの城を攻略したうえ
   難波吉士神(なにわのきしみわ)
を新羅に派遣した。
 なお、難波吉士木蓮日(なにわのきしいたび)を任那に派遣して倭国に朝貢を約させたが、倭国の軍が帰国したのち約束を違えて新羅はまた任那へ侵攻した。

 翌推古9年(601年)3月に
   大伴連囓于(おほとものむらじくひ)
を高麗(こま)に派遣したうえ、
  坂本臣糠手(さかもとのおみむらて)
を百済へ派遣して任那救援を命じた。

 推古9年(601年)9月8日、新羅の間諜である
   迦摩多(かまた)
が対馬に上陸したところを捕えたうえ上野国に送還された。
 新羅の不遜な対応が判明し11月5日、新羅への第二次征討計画が図られた。

 推古10年(602年)2月、聖徳太子の弟
   来目皇子
は征討将軍を命じられ、軍2万5千を授けられて4月に軍を率いて筑紫国に至った。
 島郡に屯営した6月3日、百済より大伴連囓于と坂本臣糠手が帰国した。
 
 しかし、渡航する予定の来目皇子が病となり新羅への進軍を延期した。
 なお、10月に百済の僧侶
   観勒
が渡来し天文、暦本、陰陽道を伝えた。

 来目皇子は、征討を果たせぬまま、翌推古11年(603年)2月4日、筑紫にて亡くなった。
 
 
 推古11年(603年)4月、来目皇子の異母兄
   当麻皇子(たいまのみこ)
が征討将軍に任命され、推古11年(603年)7月3日、難波より出航した。
 7月6日に播磨に到着したところ妻の舎人皇女が明石で薨去したため、当摩皇子は朝廷に帰還したため計画は中止となった。
 
   
  

manekinecco at 18:47  このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote
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