人物伝

April 26, 2014

川路利良
 天保5年5月11日(1834年6月17日)
     ー明治12年(1879年)10月13日)
 
 
 幕末の薩摩藩士で明治初期の警察官僚で階級は大警視
 陸軍軍人で陸軍少将

 
 初代大警視(警視総監)を務め、欧米の
   近代警察制度
を日本で初めて構築した「日本警察の父」と呼ばれる。
 
 
 西南戦争では陸軍少将を兼任し、警視隊で組織された別働第三旅団を指揮した。

 
 
 薩摩藩与力(準士分)である
   川路利愛
の長男として薩摩国鹿児島郡鹿児島近在比志島村(現在の鹿児島県鹿児島市皆与志町比志島地区)に生まれた。 
 
 薩摩藩の家臣は上士、郷士などに分かれ、川路家は身分の低い準士分であった。
 
 重野安繹に漢学を、坂口源七兵衛に真影流剣術を学んだ。
 
 
 元治元年(1864年)、禁門の変で長州藩遊撃隊総督の
   来島又兵衛
を狙撃して倒すという戦功を挙げ
   西郷隆盛
   大久保利通
から高く評価された。
 

 慶応3年(1867年)、藩の御兵具一番小隊長に任命され、西洋兵学を学んだ。

 
 慶応4年(1868年)、戊辰戦争の
   鳥羽伏見の戦い
に薩摩官軍大隊長として出征した。
 
 江戸上野戦争では彰義隊潰走の糸口をつくった。
 
 
 
 東北に転戦し、磐城浅川の戦いで敵弾により負傷したものの傷が癒えると会津戦争に参加している。
 戦功により明治2年(1869年)、藩の兵器奉行に昇進した。
 
 
 維新後の明治4年(1871年)、西郷の招きで東京府大属となった。
 
 法省の西欧視察団(8人)の一員として欧州各国の警察を視察した。
 帰国後警察制度の改革を建議し、ジョゼフ・フーシェに範をとったフランスの警察制度を参考に日本の警察制度を確立した。

 
 明治7年(1874年)、警視庁創設に伴い満40歳で
   初代大警視(後の警視総監)
に就任 した。
 
 執務終了後ほぼ毎日、自ら東京中の警察署、派出所を巡視して回り、一日の睡眠は4時間に満たなかったという。
 
 
 明治六年政変で西郷隆盛が下野すると、薩摩出身者の多くが従った。
 
 しかし、出世欲の強い川路は私情においてはまことに忍びないが、国家行政の活動は一日として休むことは許されない。大義の前には私情を捨ててあくまで警察に献身すると表明し、恩のある西郷と袂を分かった。

 
 内務卿の大久保利通の意に沿うように行動したことで厚い信任を受け
   不平士族
の不満が高まり喰違の変、佐賀の乱などを起こすと密偵を用いて動向を探った。
 
 
 また、薩摩出身の中原尚雄ら24名の警察官を「帰郷」の名目で鹿児島県に送り込み、不平士族の離間工作を図った。
 
 
 しかし、不審な行動があった中原らは西郷の私学校生徒に捕らえられた。
 
 苛烈な拷問が行われた結果、川路が西郷を暗殺するよう指示したという
   自白書
が作成され、川路は不平士族の間では大久保と共に憎悪の対象とされた。

 
 西南戦争勃発後、川路は陸軍少将を兼任した。
 
 
 警視隊で組織された
   別働第三旅団
の長として九州を転戦した。
 
 

 激戦となった3月の田原坂の戦いでは、警視隊から選抜された抜刀隊が活躍して西郷軍を退けている。
 
 
 5月には大口攻略戦に参加した後、6月には宮之城で激戦の末、西郷軍を退けて進軍した。
 
 その後旅、団長を免じられ山巌(後の第2代大警視)と交代し東京へ戻った。

 
 終戦後の明治11年(1878年)3月
   黒田清隆
の妻が急死した。
 かねてより酒乱で知られていた黒田が酒に酔って妻を斬り殺したとの噂が流れたため、川路が墓を開け、病死であることを確認したと発表した。
 
 ただ、これについては、川路も薩摩出身であることから黒田をかばってもみ消したという見方が当時からあった。
 
 
 同年5月に発生する、川路の庇護者であった
   大久保利通
の暗殺の遠因になったともいわれる。(紀尾井坂の変)
 

 
 明治12年(1879年)1月、再び欧州の警察を視察した。
 
 船中で病となり咳や痰、時に吐血の症状も見られ、鮫島尚信駐仏公使の斡旋で現地の医師の治療を受け、転地療養も行ったが病状は良くならなかった。
 
 同年10月8日帰国、東京に帰着すると病状は悪化、10月13日に死去した。
 
 
 
 
 

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April 03, 2014

白石 正一郎
  文化9年3月7日(1812年4月18日)
       −明治13年(1880年)8月31日)
 
 
 長門国赤間関竹崎に萬問屋(荷受問屋)
   小倉屋
を営んでいた
   白石卯兵衛
      艶子
の長男(8代目)として生まれた。
 
 
 米、たばこ、反物、酒、茶、塩、木材等を扱い、ほかに質屋を営み酒もつくったという。
 
 
 下関は西国交通の要衝であったため、長州藩など多くの藩から仕事を受けて、資金は豊富であった。
  
 
 
 国学を鈴木重胤から学び、重胤の門下生を通じ
   西郷隆盛
が正一郎を訪ね親しくなり、文久元年(1861年)には薩摩藩の御用達となった。
 
 
 また、月照上人、平野国臣、真木保臣らと親しかった経緯から
   尊皇攘夷の志
に強い影響を受けて、長州藩の高杉晋作、久坂玄瑞らを資金面で援助した。
 
 土佐藩を脱藩した坂本龍馬なども一時、白石邸に身を寄せていたという。
 
 
 文久3年(1863年)6月7日、高杉晋作が奇兵隊を結成するときにも資金面から援助した。
 正一郎自身も次弟の白石廉作とともに入隊している。
 
 
 正一郎は奇兵隊の会計方を務め、7月には士分に取り立てられたがあまりに援助しすぎたため、慶応元年(1865年)末頃から資金が苦しくなったと言われている。

 
 
 明治維新後は、赤間神宮の2代宮司となった。
 
 
 明治13年(1880年)、69歳で死去した。
  
 
 
 
  

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April 02, 2014

村田 清風
 1783年5月26日(天明3年4月26日)
    − 1855年7月9日(安政2年5月26日)
 
 
 長州藩士(家老) 家格大組(別名馬廻)

 
 
 長門国大津郡三隅村沢江に長州藩士
   村田光賢(91石)
の長男として生まれた。
 
 称は亀之助、四郎左衛門、織部
 名は順之、清風
 号は松斎、梅堂。

 
 藩校の明倫館では優秀な成績を修め
   学費免除
のうえ、明倫館書物方となった。
 
 
 1808年(文化5年)、藩主
   毛利斉房
の小姓として仕え、以後、斉房から5代の毛利敬親の代まで藩の要職を歴任した。
 
 
 江戸にて兵法や海防策を
   塙保己一
などから学び、また海保青陵の著述から経世論を学んだ。
 
 
 1819年(文政2年)には家督を相続し、祐筆添役や当職手元役、撫育方頭人となる。
 

 1838年(天保9年)、表番頭と江戸仕組掛を兼任して藩政の実権を掌握、藩主毛利敬親のもとで天保の改革に取り組んだ。
 
 
 敬親は政治的に暗愚で、何事も消極的で
   「そうせい侯」
とまで呼ばれたが、それが逆に幸いして清風は何一つ遠慮すること無く、藩政改革に手腕を振るうことができたとされる。


 長州藩は慢性的な借財に苦しんでいた。
 
 
 清風は1843年(天保14年)に
   三七ヵ年賦皆済仕法
を採用し、家臣と商人との癒着を防ぎ、身分の上下の区別を付けるものであった。
 
 

 特産物である蝋を専売制にしていたが、清風はこれを廃止して商人による自由な取引を許したうえで代わり、商人に対しては運上銀を課税した。
 
 
 下関海峡は西国諸大名にとっては商業・交通の要衝であった。
 清風はこれに目をつけ豪商の白石正一郎や中野半左衛門らを登用して、越荷方を設置した。
 

 越荷方とは藩が下関で運営する
   金融兼倉庫業
で下関を通る貿易船などを保護する貿易会社を作った。
 
 清風の財政改革により、長州藩の財政は再建されていった。
 
 
 清風は教育普及においても力を注ぎ、庶民層に対しても教育を薦めた。
 
 
 1849年(嘉永2年)には明倫館を拡大させ、学問所である三隅山荘尊聖堂を建設している。
 
 

 三七ヵ年賦皆済仕法では藩士が多額の借金をしていたことから商人らに反発を受けた。
 
 また越荷方を成功させたことで、大坂への商品流通が著しく減少したことで幕府からの横槍が入って退陣することになった。
 
 
 改革の途中で中風に倒れ、家老の
   坪井九右衛門
に藩政の実権を譲って隠退した。
 
 
 1855年(安政2年)、清風を尊敬する家老
   周布政之助
の要請で再び藩政に携わった。
 
 ただ、清風の改革に対して反対派である椋梨藤太の台頭により改革には失敗した。
 
 
 
 
 
  

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December 25, 2013

李氏朝鮮
 1392年から1910年まで続いた朝鮮半島の最後の王朝
 
 高麗(王建(太祖)918年−1392年)を滅ぼした王朝。

 女真族の武将としてモンゴル元皇帝から派遣された代官(ダルガチ)の地位を受けた武官
   李成桂
が高麗の恭譲王を廃して、自ら高麗王に即位したことで成立した。
 
 
 
 元の軍事力が崩壊した1368年には中国で明朝が成立し、元の軍事勢力をモンゴル高原に退けると、元が支配していた高麗領土の回復を第31代高麗王
   恭愍王
が画策して実行し、明に属することを表明した。
 
 しかし、親元派の宦官に恭愍王は殺され第32代王禑が王位に就いた。
 
 
 王禑の世では親元派が政権を奪取して握った。
 
 元討伐や倭寇討伐で活躍した李成桂が背後で糸を引いた傀儡の第34代
   恭譲王
は第32代王禑とその息子第33代王昌から地位を奪ったうえ処刑した。
 
 その後、李成桂は時機到来と判断して1392年に恭譲王を廃したうえ王族を皆殺しにした。
 自らは高麗王に即位した。
  
 
 女真族の力を背景として高麗政権を奪い取った太祖李成桂は即位するとすぐに明に使節を送り、翌1393年に中国の明から
   権知朝鮮国事
に封ぜられた。
 
 明から正式に朝鮮国王として冊封を受けたのは太宗の治世の1401年であった。
 
 洪武帝は王朝が交代したことで、国号を変更するよう命じた。

 
 
 中国の王朝が明から清に変わった17世紀以降も、引き続き李氏朝鮮は中国王朝の冊封体制下にあった。

 
 李氏朝鮮の社会の身分階級は高麗の時から伝わる社会的な伝統の上に土台を置いたもの
   両班・中人・常人・賎人
の4つに大別された。
 
 
 李氏朝鮮の新興貴族たちは高麗の貴族の代わりに支配階級に成長しながら両班階級を形成した。
 
 両班身分の世襲により数的膨脹から地位が確保できなくなると、互いに派閥を作るようになり、士禍と党争という血なまぐさい対立抗争を起こした。
 
 王が変わるごとに九族皆殺しと言われる反対派の大粛清を繰り返し行った。
 
 
 李氏朝鮮の末期になるにつれて、官吏たちはより一層ひどく収奪したため、これに対する反抗が頻発した。
 
 洪景来の乱、哲宗の時の民乱、甲午農民戦争などの主体は農民だった。
  
 
 また、商工業に従事する人も、ほとんど全部が奴婢で一種の財産と見なされて売買・相続などの対象になった。
 
 奴婢は公賎と私賎の2つに大別することができた。
 なお、征服王朝でもあったため、インドのカースト制度同様に彼らの中にも多くの階層があった。
 
 
 1894年の日清戦争後に日本と清国との間で結ばれた
   下関条約
は李氏朝鮮に清王朝を中心とした冊封体制からの離脱と近代国家としての独立を許した。
  
 
 日本が中国に下関条約を結ばせたことにより朝鮮における厳格な身分体制は、1894年の甲午改革以後に、身分階級の打破が制度化されることで漸次的に消滅して行った。
 
 
 
 李氏朝鮮は1897年に国号を大韓帝国とし君主の号を皇帝と改めたうえで日本の影響下に置かれた。
  
 
 1904年の第一次日韓協約で日本人顧問を政府中枢に置くことが義務付けられ、翌1905年第二次日韓協約によって保護国とされて外交権を日本に移行した。
 
 また、1907年の第三次日韓協約によって内政権を移管した。
 
 主権の制限過程を経て1910年8月の
   韓国併合ニ関スル条約調印
によって、最終的に日本に併合された。

  
 
 朝鮮に国号を改称した李成桂は崇儒廃仏(儒教を崇拝し、仏教を排斥する)政策をとり、儒教の新興と共に仏教の抑圧を開始した。
 
 仏教弾圧の理由としては、前王朝高麗の国教が仏教であったということが大きな理由の一つとして挙げられる。
 
 
 
 
 
      
 
 
 
 
 

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November 11, 2013

習仲勲
 1913年10月15日 - 2002年5月24日
 
 中華人民共和国の政治家
 八大元老(1980年代から1990年代にかけて強い権力をふるった中国共産党の長老で構成された集団のこと)の一人
 
 現中国共産党中央委員会総書記で中華人民共和国主席である習近平の父親
 
 1928年中国共産党入党
 
 
 日中戦争期間中は陝西省、甘粛省など西北地区の党、政、軍の工作の中心人物でで革命根拠地を作った。
 
 1949年11月30日、中共中央軍として委員会の決定により、第1野戦軍と西北軍区を統合
   第1野戦軍兼西北軍区
に改称された時、彭徳懐が司令員、習仲勲が政治委員となった。

 
 中華人民共和国成立後は、1952年に党中央宣伝部長、1953年に国務院秘書長、1959年には、国務院副総理兼秘書長と要職を歴任した。
 
 1945年の第7回党大会で候補中央委員、1956年の第8回党大会で中央委員となった。
 
 1962年9月の第8期十中全会で文化大革命の先駆けとなる
   反党小説劉志丹事件
が持ち上がり、康生を主任とする審査委員会により
   反党集団
として党内外の全職務を解任された。
 
 その後、文化大革命終了2年後の1978年まで、16年間拘束され残酷な迫害を受けた。

 
 1978年12月の第11期3中全会で名誉回復し、中央委員に選出される。
 その後、第一書記、省長(1979年)、1980年には全人代副委員長、法制委員会主任、広州軍区第一政務委員(1980年)と広東省の党、政、軍の中心人物となった。
 
 
 文化大革命以前に広東省書記だった趙紫陽同様、香港への密航者が後を絶たないことに衝撃を受け、広東省の経済発展を進め党中央工作会議で税制面で経済特区構想を提起した。
 
 深圳市は1980年5月に正式に経済特区として承認された。

  
  
    

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March 15, 2013

劉延東
 (りゅう えんとう リュウ イェンドン)
 中華民国江蘇省南通県出身の軍人・政治家
 第17・18期中国共産党中央政治局委員、中華人民共和国国務委員
 国務院副総理

 1964年7月に中国共産党入党、1970年に清華大学を卒業した。
 吉林大学政治学博士号取得している。
 
 1982年から1991年まで
   中国共産主義青年団
中央書記処書記、91年から中華全国青年聯合会主席を勤めており
   胡錦濤派
の1つである団派(青幇)の一員。
 1995年から中央統一戦線工作部副部長、2002年部長に昇格した。


 2005年10月の第16期五中全会において、江沢民派の上海市党委書記
   陳良宇
から地位を譲らせようと画策したが、江派の強力な牙城は崩せなかった。
 
 第17期党中央政治局常務委員の候補にも名前が挙がったが、派閥闘争の激化の影響で政治局入り止まりとなった。
 なお、2007年12月、統一戦線部長の任を解かれている。

  
  

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February 16, 2013

麻生 太賀吉
 (1911年9月29日 - 1980年12月2日)
 
 日本の実業家、政治家
 麻生セメント会長
 妻和子は吉田茂元首相の三女
 長男麻生太郎は第92代内閣総理大臣、第23代自由民主党総裁、麻生派会長。

 九州の炭鉱王
   麻生太吉
の三男 太郎を父に、子爵加納久朗の妹 夏子を母として福岡県飯塚市で生まれた。
 
 1929年(昭和4年)旧制福岡中学校を卒業、昭和4年から昭和7年まで九州帝国大学(現九州大学)法文学部聴講生となった。
 
 1931年(昭和6年)に祖父の経営する麻生商店に入社し、1934年(昭和9年)に社長となった。
 
 関連会社である麻生鉱業社長と麻生セメント社長を務め、納屋制度(タコ部屋労働)により、莫大な利益を得た。
 戦後の1951年(昭和26年)には、九州財界の重鎮である九州電力会長に就任している。

 ロンドン滞在中には白洲次郎の紹介で、当時駐英大使をしていた吉田茂の三女・和子と知り合い、帰国後結婚した。
 
 首相となった吉田茂を補佐するため、1949年(昭和24年)第24回衆議院議員総選挙に郷里の福岡県から立候補し、当選した。
 
 3期当選し吉田の側近として吉田の政治資金を捻出したほか、政界と財界の連絡役を務めた。
 
 田中角栄は麻生に接近し、田中、麻生、根本龍太郎の三人組で池田勇人大蔵大臣を誕生させる原動力となった。 
 
 
 

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February 11, 2013

松本 重治
 (1899年(明治32年)10月2日
     −1989年(平成元年)1月10日)
 日本のジャーナリスト
 財団法人「国際文化会館」(東京都港区六本木)の理事長
 アメリカ学会の会長

 母親は明治の元勲
   松方正義
の娘の光子。
 妻花子は松方正義の三男幸次郎の娘という関係。
 
 大阪市堂島で松本重太郎の養子
   松本枩蔵
    (井上銀行を率いる井上保次郎の弟 井上枩蔵)
と松方正義の四女光子の子として生まれる。
 
 松本重太郎の跡を継いだ父枩蔵は九州電気軌道会社の重役(のち社長)となり生活の大半を九州で過ごした。
 なお、重治は小学校、中学校時代を母親とともに神戸に過ごしている。
 1923年に東京帝国大学法学部から大学院に進学している。
 1924年にはイェール大学に留学、1925年にウィスコンシン大学、1926年ジュネーヴ大学に転入している。
 
 1932年に「東京政治経済研究所」を創設、「新聞聯合社」(のちの同盟通信社)に入社した。
 1947年には公職追放の処分を受け、アメリカ学会を創設した。
  
  
 

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January 26, 2013

麻生 太吉
 (安政4年7月7日(1857年8月26日)
       - 昭和8年(1933年)12月8日)
 
 日本の炭鉱業者、実業家、政治家
 第92代内閣総理大臣麻生太郎の曽祖父

 麻生商店社長、石炭鉱業連合会会長、九州水力電気社長
 衆議院議員、貴族院多額納税者議員等を歴任
 
筑前国嘉麻郡栢ノ森村(現在の福岡県飯塚市柏の森)の庄屋を務めていた
   父 賀郎
   母 マツ
の子として生まれ、幼名は鶴次郎。

 1868年1月、栢ノ森村に対する貸渡金595両余を免除したことで
   大庄屋格
を貰い麻生の苗字名乗りを許された。
 1872年 改名し太吉と名乗った。
 
 目尾御用山を共同で採掘し、初めて炭山開発事業に着手し麻生炭坑を創業。
 1873年10月ー1890年6月
 忠隅山王谷坑、有井山坑、有井開ヶ谷坑、有井泉ヶ谷坑、鯰田浦田坑、寺ヶ坂坑、綱分煽石坑、平恒煽石山坑、泉鳥羽坑、網分傍子ヶ浦煽石坑、鯰田大師坑、有井下鳥羽坑、鯰田炭坑、忠隅炭坑、嘉麻炭坑、笠松炭坑(通称:獅子場炭坑)などを開坑し採炭を行った。

 1889年 4月、鯰田炭坑を三菱に売却譲渡している。 
1891年4月、筑豊興業鉄道株式会社常議員就任。
 1897年4月、九州鉄道株式会社取締役就任。
1905年1月、九州コークス株式会社取締役。
1913年7月、九州水力電気株式会社取締役
1916年6月、大分紡績株式会社取締役
1917年11月、東洋製鉄株式会社取締役
1918年5月、麻生商店を株式会社化し、社長に就任した。
 1921年7月、渋沢栄一、中野正剛らと共に国士舘維持委員。
1929年12月、九州産業株式会社社長就任
1930年10月、九州電気軌道株式会社取締役。12月、昭和電燈株式会社社長。
1931年1月、九州電気工業株式会社社長。
 1933年3月、福岡県国防会参与。7月、嘉麻興業株式会社設立。11月、九州産業鉄道、九州産業
 
 
  

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January 03, 2013

今川 氏親
 (文明5年(1473年)ー大永6年(1526年)6月23日)

 
 戦国時代の武将 
 駿河国の守護大名、戦国大名
 駿河今川家7代当主で北条早雲の甥に当たる。
  

 
 今川義忠が京を戦場とした
   応仁の乱
で東軍に味方して上洛していた時に、伊勢新九郎盛時(北条早雲)の姉である北川殿(母)と結婚した。

 
 伊勢新九郎は幕府政所執事の名門伊勢氏の一族で、しかも足利幕府の申次衆であった。
 
 
 なお、北川殿の弟が盛時であったことが、氏親の生涯に大きな影響を与えた。


 
 
 遠江は元は今川氏が守護職を継承していたが、後に斯波氏に奪われていた。
 
 
 文明8年(1476年)に父義忠が奪還作戦を起こしたが遠江国の
   「塩買坂での戦い」
で横地氏・勝田氏ら地元国人衆の残党に襲われ戦死した。

 
 
 氏親(龍王丸)はまだ幼少だったため、家臣の三浦氏、朝比奈氏らが義忠の従兄弟の
   小鹿範満
を擁立したため家督争いが起こった。
 
 龍王丸派と範満派が分かれて数度の合戦に及ぶ事態になった。

 

 このため、範満の外祖父であった堀越公方執事の
   上杉政憲
と扇谷上杉家家宰の
   太田道灌
が兵を率いて駿河へ進駐して家督争いに介入した。
 
 

 室町幕府の幕臣であった叔父の
   伊勢盛時(伊勢新九郎)
が室町幕府の意向を受けて駿河へ下向し今川家の内紛を仲裁に入った。
 
 小鹿範満が龍王丸の後見人として家督を代行することで決着した。
 

 
 家督を代行した範満は今川館に入り、龍王丸は母・北川殿と小川の法永長者(長谷川政宣)の屋敷である小川城(焼津市)に身を寄せた。


 
 
 文明11年(1479年)には盛時は幕府に申請して前将軍
   足利義政
の名による龍王丸の家督継承の内書を得ている。

 ただ、龍王丸が15歳を過ぎて成人しても範満は家督を返さず
   家督奪取の動き
を見せて龍王丸を圧迫した。

 
 
 文明19年(1487年)北川殿と龍王丸は京で第9代将軍の
   足利義尚
に仕えていた盛時に助けを求め、盛時は再び駿河へ下向した。

 
 同年11月、盛時は石脇城(現在の静岡県焼津市)を拠点に兵を集めて駿河館を襲撃して範満を殺した。
 
 
 龍王丸は駿河館に入って元服して氏親と名乗り、今川家の当主となった。
 
 なお、盛時には富士下方12郷と興国寺城が与えられた。

 

 同年10月に龍王丸は大名で初めての印判状の文書を発給している。

 管領 細川政元が起こした
   明応の政変
に連動した動きから堀越公方に内紛が起きた。


 明応2年(1493年)11代将軍 足利義澄の命により、盛時は足利茶々丸を討伐して、伊豆国を手中にした。
  

 
 なお、この軍事作戦で氏親は早雲に兵を貸してこれを助けている。
 以後、氏親と早雲は密接な協力関係を持って支配領域の拡大を行うことになる。

 

 氏親は父親に倣い領地回復のため遠江への侵攻を計画した。
 
 早雲が兵を率い明応3年(1494年)頃から攻略戦が始まり、遠江中部まで勢力下に収めた。

 
 
 早雲は更に兵を進めて文亀年間(1501年-1504年)には三河国岩津城の松平氏を攻めている。
 
 このほか、甲斐国都留郡にも出兵して郡内領主の小山田氏や守護の武田氏と戦った。

 
 
 氏親は一方で、早雲の関東進出にも協力して両上杉合戦に介入し、扇谷上杉氏に味方して山内上杉家と戦った。
 
 永正元年(1504年)には
   武蔵立河原の戦い
に早雲とともに出陣して関東管領上杉顕定を破った。


 

 永正2年(1505年)頃に中御門宣胤の娘(後の寿桂尼)を正室に迎えた。
 
 永正3年-5年(1506年-1508年)に早雲率いる今川軍が三河国へ侵攻して、松平長親(長忠)と戦った。
 永正6年(1509年)以降、早雲は関東進出を本格化させ支配下に組み込む戦略を進めたため今川の戦歴で名前が出ることは無くなった。
  

 
 永正8年(1511年)に遠江・尾張守護の
   斯波義達
は今川方の刑部城(現在の静岡県浜松市)を攻め、氏親が出陣してこれを退けた。
 
 義達はなおも攻撃を続け、遠江国での斯波氏との戦いが激化していった。

 

 永正12年(1515年)には、甲斐国西郡の国人領主である
   大井信達
に味方して守護大名の武田信虎と争い、中道往還沿いの勝山城を一時占拠している。
 
 永正14年(1517年)、氏親は信虎と和議を結び撤兵し、信達は信虎に降伏している。 

 
 晩年は中風にかかって寝たきりになり、寿桂尼が政治を補佐した。
 
 
 
 死の2ヶ月前の大永6年(1526年)4月に戦国時代の代表的な
   分国法『今川仮名目録』
を制定した
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
     

manekinecco at 18:45トラックバック(0)  このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote
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