人物伝

March 22, 2018

 
ステパン・オーシポヴィチ・マカロフ
     (Степа́н О́сипович Мака́ров)
        1849年1月8日ー1904年4月13日

 ロシア帝国の海軍軍人、海洋学者でロシア帝国海軍中将
  
 1904年、日露戦争が勃発し第四次旅順攻撃で日本海軍の奇襲を許した
   オスカル・スタルク司令長官
がその責任を追及されて解任され、その後任として、マカロフは3月8日にロシア太平洋艦隊司令長官に就任した。
 ロシア海軍屈指の名将との評価も高いマカロフの着任は、日本の連合艦隊にとっては非常な脅威となることから太平洋艦隊の士気が高まった。

 旅順着任直後に日本海軍による
   第四次旅順攻撃
を受けるが、マカロフは自軍の
   水雷艇ステレグーシチイ
が猛攻を受けていると知り、自ら
   巡洋艦ノーウィック
に座乗して出撃したものの結局ステレグーシチイは救えなかった。
 
 マカロフが陣頭指揮を行う行動や飾らない人柄は部下将兵に好意的に受け入れられた。

 マカロフは士気が低下していた
   将兵の意識改善
   体制改革
に取り組み、部下の士官や下士官と会話を通して、ロシア太平洋艦隊の現状掌握に努めた。
 また、損害を受けない範囲で可能な限り自艦隊を港外に出して練度の向上を図った。
 
 第二回旅順口閉塞作戦に失敗した連合艦隊は、旅順口攻撃の一環として旅順の封鎖を機雷敷設により行った。

 1904年4月13日、機雷敷設中の連合艦隊の駆逐艦4隻が、偵察を行っていたロシア艦隊の駆逐艦1隻と遭遇し戦闘が始まった。
 
 ロシア艦隊の駆逐艦はたちまち撃沈された。
 その情報を知ったマカロフは旗艦である戦艦「ペトロパブロフスク」に座乗したうえ戦艦5隻・巡洋艦4隻を率いて生存者の救援と日本艦隊の攻撃に向かった。

 日本の主力艦隊を認めると旅順港に引き返すが、座乗していた旗艦
   ペトロパブロフスク
が日本軍の敷設した機雷に触雷し爆沈した。
 
 マカロフは避難しようとしたが間に合わず、将兵500人と共に戦死した。
 
 秋山真之が過去の出撃パターンから予測されるロシア艦隊の航路を割り出したうえ、予めそのエリアに機雷を散布していたと言われている。

 マカロフの戦死はロシア太平洋艦隊の将兵に衝撃を与えた。

 戦争中に米国に特使
   金子堅太郎
が派遣され広報外交を行っていたが金子は、演説の中でマカロフへの
   哀悼のコメント
を発し、米国世論からの支持を取り付けることに成功したといわれている。

    

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January 02, 2018

衛 満(えい まん、生没年不詳)
 
 紀元前2世紀に朝鮮半島北部に
   衛氏朝鮮
を建国し、朝鮮史において同時代の歴史書に明記される最初の君主とされる。
 司馬遷によって編纂された中国の歴史書「史記」朝鮮伝では名のみ「満」との記述がある。
 姓を「衛」と記すのは「三国志」裴松之の注で引かれた「魏略」以降のこと。

 「史記」によれば衛満は中国燕の出身で、燕王であった盧綰の部下であったという。
 盧綰は漢朝の高祖の幼馴染であったが、謀反の嫌疑により漢軍の討伐を受けた。
 前195年に盧綰は匈奴に亡命、衛満も東方へ逃れた。
 
 その際に衛満は千戸を率い浿水(現在の鴨緑江)を渡河した。
 さっそく衛満は、我ら亡命者が朝鮮を護ると箕子朝鮮王の準王にとりいり、朝鮮西部に亡命者の自治領を造った。
 
 秦・漢の混乱期以来には中国からの亡命者が逃げ込んでおり中国人は数万人にのぼっていた。
 さらに衛満は燕・斉・趙からの亡命者を誘い亡命者集団の指導者となった。
 
 朝鮮を乗っ取る機会を虎視眈々とうかがい、前漢が攻めてきたと詐称して、準王を護るという口実で、王都に乗りこんだ。
 その時、準王は衛満に応戦したが、抵抗できずに亡ぼされた。

 箕子朝鮮を滅ぼし
   衛氏朝鮮
を建国、王険城(現在の平壌市)を王都とした。
 
 衛満は、前漢皇帝の外臣となった。
 
 漢朝は前191年頃、衛満を遼東太守の外臣とし東方からの異民族の侵入に備えた。
 また、衛満の朝鮮方面における支配圏の拡大を支持した。
 
   

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December 14, 2017

藤原 仲麻呂(ふじわら の なかまろ)

 奈良時代の公卿で名は仲麿または仲丸とも記録されている。
 淳仁朝以降は改姓・改名して
   藤原恵美押勝(ふじわらえみ の おしかつ)
と名乗った。
 左大臣藤原武智麻呂の次男で官位は正一位太師あるいは恵美大臣とも呼ばれた。  
 

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manekinecco at 18:06  このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

September 05, 2017

 
鎮南王トガン(Toγan, ? - 1310)

 モンゴル帝国第五代皇帝クビライ・カーンの庶子
 モンゴル帝国の皇族

 クビライにとっては11番目の息子でバヤウト部のブラクジンの娘
   バヤウジン・ハトゥン
とクビライ・カーンとの間に生まれた子供。

 モンケ・カーンの側室にもバヤウジンという名の側室がいる。
 ただ、同一人物ではないかと推測されている。

 至元21年6月、トガンは父クビライから鎮南王に封ぜられ、翌7月にチャンパーを征服するよう命じられた。
 鎮南王位は大元ウルスの制度において6ランク中第2位に位置する高位の王号。
 
 第4〜5ランクの王号しか与えられなかった他の庶子(フゲチ、アウルクチ、ココチュら)に比べると破格の待遇であった。
 
 クビライがトガンの東南アジア進出に大きな期待を寄せていたためと推測されている。

 同年末にはトガンは安南(陳朝ヴェトナム)に至り、軍を分けてベトナムへの侵攻を開始したもののヴェトナム側の
   陳興道
の戦略でモンゴル軍は苦戦し、1288年の白藤江の戦いにおいてトガン率いるモンゴル軍は壊滅した。

 至元28年(1291年)、敗退したトガンは命令を受けてモンゴル軍500・漢兵1000人とともに揚州に出撃している。
 
 ただ、ヴェトナムでの敗戦に怒ったクビライは死ぬまでトガンが謁見するのを許さなかった。

 これ以後のトガンの活動については記述が少なくなり、僅かにクビライ没後のクリルタイに出席してテムルを推戴したこと、テムル即位直後に他の存命の兄弟とともに下賜を受けたことが記録されている。

 大徳2年(1298年)に6万錠の下賜を受けたのを最後にトガンに関する記述はない。
 トガンが大5年(1301年)に亡くなり、同年息子のラオジャンが鎮南王位を承襲したことが記録されている。
 
 
     

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April 19, 2017

 
オマール・エフライン・トリホス・エレーラ
         (Omar Efrain Torrijos Herrera)
      1929年2月13日−
               1981年7月31日

 パナマの軍人で政治家として軍事政権を率いた。
 反米ナショナリストとして民衆から広く慕われた。
 
 親米的な
   アントニオ・レモン
が枢軸国寄りのアルヌルフォ・アリアス大統領をクーデターで妥当して政権を奪取。
 対外的に親米政策を採る一方、国内では
   国家警備隊の暴力
を背景にした力の政治を推進した。
 
 オマールはサンティアゴ (Santiago de Veraguas) の教師の家庭に生まれて幼少期に母親が米兵に差別的に扱われたこを目撃した。
 
 エルサルバドル、アメリカ合衆国、ベネズエラの軍人学校で英才教育を受けた。
 
 1952年に国家防衛隊に入隊し、反体制派の弾圧に辣腕を振るうようになった。
 その後、1968年のクーデターに加わり、最高司令官となり全軍を掌握した。

 1972年には新憲法を制定して国の最高指導者としての全権を握った。
 ペルー革命を指導したペルーの
   ベラスコ
に影響を受け、民族的政策を打ち出して国民の支持を集めた。
 
 その一環としてアメリカ占領下にあった
   パナマ運河地帯の主権回復
を目指し、キューバのカストロに接近した。
 
 近隣諸国に協力を求めるなど米国の支配体制に揺さぶりをかけた。


 1977年、米国と運河返還を約束する条約の締結に成功した。
 
 それ以外にも様々な国内改革を行い国民生活の改善に務めた。
 
 1978年、国家主席の座を退いたが国家防衛隊最高司令官としてとどまり、新たに結成した民主革命党 (PDR) を通じて圧倒的影響力を発揮し続けた。
 
 1981年、謎の飛行機事故で死亡したが、この事故の原因は米国の情報機関による暗殺と言われている。
 
  
     

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April 17, 2016

キュロン Kylōn
   生没年不詳
 
 オリュンピア競技で2種目に優勝した。
 
 前575年頃、アテネの隣国メガラの僭主
   テアゲネス
は娘アガリステの婿選びに諸国の若者を自家に招待してその能力・人物を観察した。
 アテネの名門貴族の出身であるキュロンがその目に留まり、前6世紀末にアガリステの婿とした。
 
 
 当時、アテナイ国内に平民たちの不満が膨らんで醸成しつつあり、キュロンは貴族の集団支配を倒して非合法の独裁政権(僭主政)を樹立しようとした。
 
 
 前632年頃、キュロンは岳父テアゲネスや仲間に支援されて決起、アテナイのアクロポリスを占領して、僭主政治を樹立しようとした。
 こうした動きに指示すると考えていた民衆が従わなかったどころかアルコンのメガクレスなどに指揮されたうえでアクロポリスを包囲した。
 
 キュロンは危険を察知して包囲網を脱出したが、アクロポリスに取り残されたキュロンの仲間の一部が祭壇にすがりついてメガクレスに助命嘆願したにもかかわらず、引き離されて処刑され「キュロンの反乱」は鎮圧された。
 

 
 
   

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March 21, 2016


プブリウス・コルネリウス・スキピオ・アフリカヌス・マイヨル
  Publius Cornelius Scipio Africanus Major
                 (紀元前236年 - 紀元前183年頃)
 
 共和政ローマ期の軍人で政治家、元老院議員だった。
 
 スキピオ・アフリカヌスと称され、妻の甥で義理の孫に当たる
   スキピオ・アエミリアヌス(小スキピオ)
と区別して大スキピオとも呼ばれる。
 
 
 第二次ポエニ戦争後期に活躍し、カルタゴの将軍ハンニバルをザマの戦いで破り戦争を終結させた。
 共和政ローマ末期、政治家としてローマの改革に着手したグラックス兄弟の外祖父にあたる。
 
 
 執政官を輩出した名門パトリキである
   コルネリウス氏族
の属するスキピオ家に生まれた。
 
 父はプブリウス・コルネリウス・スキピオ、母ポンポニアは社会的に成功したプレープス出身であった。

 幼少の頃、神殿に赴いてはしばしば神々の夢や前兆を目にした敬虔な少年で、周囲には評判が良く早くから公職を経て元老院に入るようにと勧められており、後に兄ルキウス(後のスキピオ・アシアティクス)と共に24歳で公職を得ている。

 スキピオが17歳の時に第二次ポエニ戦争が勃発し、多くのローマ人がカルタゴとの戦いに駆り出された。
 
 スキピオもローマ軍に参加し、ティキヌス、トレビア、カンナエとローマ軍が敗北を重ねたいくつかの会戦を生き延びた。
 
 カルタゴの将軍ハンニバルの天才的な用兵を目の当たりにした。
 
 
 敗戦ではスキピオの周囲からも多くの戦死者が出ており、ティキヌスの戦いでスキピオは父プブリウスの窮地を救う事ができた。
 
 カンナエの戦いでは妻の父である
   ルキウス・アエミリウス・パウルス
が戦死した。
 この時、スキピオは残存の騎兵勢力を結集し、劣勢を挽回しようとしていたという。

 
 紀元前212年、前述の通り、周囲の勧めでアエディリス(按察官)の公職を得た。
 
 立候補の際、スキピオが法定年齢の30歳未満であった為、護民官が立候補に反対した。
 ただ、スキピオの人気に押されて異議の申し出を取り下げた。

 紀元前211年、父と伯父グナエウス・コルネリウス・スキピオ・カルウスがバエティス川の戦いで戦死した。
 
 翌年25歳になったスキピオは巧みな挙措と演説で元老院を説得し、特例としてプロコンスル(前執政官)待遇でインペリウムに就任し、新たに派遣される軍団の指揮官となった。
 
 アエディリスしか公職を経験していない若者にとって異例の抜擢であった。
 
 
 
 
   

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March 09, 2016

 
ルキウス・アエミリウス・パウッルス・マケドニクス
    Lucius Aemilius Paullus Macedonicus
               (紀元前229年 - 紀元前160年)
 
 共和政ローマの軍人で政治家。
 
 第二次ポエニ戦争後、主に東方マケドニア王国の戦いで活躍した。
 
 アエミリウス氏族パウルス家の出自で父は同名のルキウス・アエミリウス・パウッルスである。
 
 
 

    

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March 04, 2016

 
ティトゥス・タティウス(Titus Tatius)
 
 ローマの建国伝説に登場するサビニ人の王でローマに併合されたのちにはロムルスと共治する王政ローマの王となった。

 ロムルスによるサビニ女性の略奪ののちその名前が記録に出るようになった。
 
 被害を受けたローマ周辺部族勢力のうち最も大きな被害を受けた。
 また部族規模が大きく最も有力でもあったサビニ人は対ローマ戦の中心と考えられた。
 
 サビニ人の都市国家クレスの王であったタティウスはサビニ諸部族の中でも指導的地位にありこの戦争の指揮をとった。
 
 復讐を急ぐ他の勢力に対し慎重な準備を主張したため、単独でローマに戦争を仕掛けた勢力はいずれも敗北を喫した。

 十分な準備を整えた後にタティウスはローマに戦いを挑んだ。
 
 
 当時の都市国家ローマにはパラティウムのほかにカピトリウムの砦だけが防備となった。
 
 
 タティウスはカピトリウムの麓に布陣して砦を攻めた。
 砦の責任者スプリウス・タルペーイウスの娘でウェスタの巫女であった
   タルペーイア
が砦への裏道を教えたて難なく砦を奪うことに成功した。
 
 サビニ人はここに陣を移し、のちにフォルム・ロマヌムとなるパラティウムとカピトリウムの間でローマとサビニの戦闘が行なわれた。

 サビニ側の前線指揮官は
   メッティウス・クルティウス
で、当初はローマ側の前線指揮官ホスティウス・ホスティリウスを戦死させるなどサビニ側が優勢に戦いを進めた。
 
 この戦争最後の戦闘では、ロムルスのユピテル・スタトルへの祈願後ローマ側も勢いを盛り返している。

 
 戦争の原因となったローマ人に略奪された女性たちが両軍の間に飛び出し、父と夫との間での殺し合いを止めるように懇願したため両軍が休戦し、タティウスとロムルスはただ休戦するだけでなく両民族を統合して一つとする条約を締結した。
 
 この場所がのちにコミティウムとなったといわれる。

 サビニとローマの統合によってタティウスはロムルスと共にローマ人の王となった。
 
 サビニ人からは100人が選ばれパトリキに追加された。
 
 また新たに作られた騎士の3つのケントゥリアの1つとローマの3つの氏族(トリブス)の1つは、タティウスの名にちなんで「ティティエス(ティティエンセス)」と名付けられた。


 なお、タティウスの名は「ティティウス祭司団」の起源ともなった。
 

 ローマの王となったタティウスはサビニからいくつかの神の信仰をローマにもたらしたとされる。

 タティウスが王となって5年目、タティウスの周辺の人物が
   ラウレントゥム
からの使者に強盗を企てたすえ殺害するという事件が起こった。
 
 タティウスはこれを罰せず放免したため、ラウレントゥム人からの恨みを買った。

 タティウスがロムルスと共にラウィニウムへ祭礼のために赴いた際、この事件が原因でタティウスは殺害されてしまった。
 
 ローマにもどったタティウスの遺体はのちにアルミルストリウムと呼ばれたアウェンティヌスの月桂樹林に埋葬された。

 当初ロムルスはタティウスの殺害犯たちを処罰しなかったが、ラティウムで疫病などの災いが起こるとタティウスの殺害者とラウレントゥムの使者の殺害者を共に罰しラウレントゥムとローマを清めた。
 すると災いは消えたという。

 なお、この時代の出来事は伝承の域を出ないものでタティウスとロムルスの2人の王の伝説は共和政期の2人制の執政官の起源を王政時代に求め、正当性を与えるためのものであったと考えられている。
 
 
 

 
   

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October 07, 2014

スレイマン・シャー   (سليمان شاه Suleyman Şah  ? - 1227年)
 
 オスマン帝国の開祖オスマン1世の祖父にあたる。
 父はクタルムシュ、息子はエルトゥールル。
 
   
 

 ユーフラテス川で作戦中に溺死し、遺体はその近くに埋められた。
 
 現在その場所はジャベル・カレスィという城の中にあり、テュルク・メザル(Turk Mezarı, 「トルコの墓」)と呼ばれる。
 
 トルコ人の間で神聖視されている。
  


 この場所はフランスとトルコの間で1921年に交わされた
   アンカラ条約
によって、フランス委任統治領シリアの中のトルコの飛び地となった。
 

 現在もトルコで唯一の飛び地である。



 1973年、タブカ・ダムの建設によって貯水池に沈められ墓所だが政府間の交渉により
   スレイマン・シャーの墓石
は80キロ上流のアレッポ県 Karakozak村の近くの8,797m2の指定地に移された。
 
 今日でもトルコの国家憲兵(ジャンダルマ)がこの飛び地を警護している。

 
 
 
 
  
 
       

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