ヒストリー

October 19, 2015

 
百済(くだら / ひゃくさい)
 
 古代の朝鮮半島南西部にあった
   徐族(ツングース系扶余)
による国家(346年- 660年)のこと。
 
 朝鮮半島における歴史の枠組みでは、半島北部から満州地方にかけての高句麗、半島南東部の新羅、半島南部の伽耶諸国とあわせて百済の存在した時代を朝鮮半島における、三国時代と呼んだ。


 唐からの軍事支援を受けて侵攻した新羅との戦闘で滅ぼされた。
 
 「晋書」「慕容載記」などの歴史書により百済は4世紀中頃に国際舞台に登場したがそれ以前の歴史は同時代資料では明らかとはなっていない。

 
 建国時期が書かれている『三国史記』(1143年執筆)では紀元前18年建国になっている。
 
 歴史的な建国時期に関しては、神話的な要素が含まれており、三国史記の記述自体に対する疑いもある。
 
 
 通説では『三国志』に見える馬韓諸国のなかの伯済国が前身であったと推定されている。。


 民族性としては、百済王や高句麗王(夫余)等に代表されるツングース系夫余=徐族の国家であったとの仮説が主流である。

 またツングース系夫余族の支配層(王族・臣・一部土民)と被支配層(土民中心)の韓族であったという説もある。

 

 百済の支配層は扶余族=徐族であったと見られている。
 
 百済の建国神話は系譜の上で扶余=徐とつながりがあり、26代聖王が538年に遷都した後に国号を「南扶余」と自称していた。
 
 
 中国の史料で百済という国号が明らかになるのは4世紀の近肖古王からである。
 
 日本の『古事記』では、応神天皇の治世に照古王の名が記されているがその頃の百済の都は現在のソウルの漢江南岸にあり、漢城と呼ばれた。
 
 紀元前1世紀から紀元後3世紀の間に作られたとされるソウルの風納土城、夢村土城がその遺跡と考えられている。
  

 漢城時代の百済は拡大を続ける朝鮮半島北方の軍事大国である高句麗との死闘を繰り返した。
 
 369年には、軍事支援を受けるため倭国へ七支刀を献上している。
 
 
 近肖古王は371年に楽浪郡の故地である平壌を攻めて高句麗の故国原王を戦死させた。

 その後は高句麗の好太王や長寿王のために押され気味となり、高句麗に対抗するために倭国と結ぶようになった。
 
 この間の事情は好太王碑文に記されている。

 
 高句麗の長寿王は平壌に遷都し、華北の北魏との関係が安定し背後の憂いがなくなると百済に対する圧力を強化していった。


 これに対して百済は、この頃に高句麗の支配から逃れた新羅と同盟(羅済同盟)を結び、北魏にも高句麗攻撃を要請した。
 
 しかし、新羅は意に反して475年には百済の首都・漢城が落とされ、蓋鹵王が戦死した。
 
 

 王都漢城を失った475年当時、新羅に滞在していて難を逃れた
   文周王
は都を熊津(現 忠清南道公州市)に遷したものの、百済は漢城失陥の衝撃からなかなか回復できなかった。
 

 東城王の時代になって中国の南朝や倭国との外交関係を強化させた。
 また、国内では王権の伸張を図り南方へ領土を拡大して
   武寧王
の時代にかけて一応の回復を見せたが、6世紀に入り、新羅が大きく国力を伸張させ、高句麗南部へ領土を拡大させた。
 
 
 百済の聖王は全羅道方面に領土が拡大したため538年都を熊津から南遷し、国号は南扶余に変更した。
 ただ、その国号が国際的に定着することはなかった。
 
 百済の都であった漢江流域も南下する新羅の支配下に入り、緩衝地帯が生まれたため、高句麗からの脅威はなくなった。
 しかし、これまで同盟関係にあった新羅との対立関係が生じた。
   

 聖王は倭国との同盟を強固にすべく諸博士や仏像・経典などを送り出した。
 倭国への先進文物の伝来には貢献したが、554年には新羅との戦いで戦死した。


 朝鮮半島の歴史は高句麗と百済の対立から百済と新羅の対立へ大きく変化した。
 百済は次第に高句麗との同盟に傾き、共同して新羅を攻撃するようになった。

 新羅の女王はしきりに唐へ使節を送って救援を求めた。

 
 高句麗と争っていた唐は日本からの遣唐使を黄海に面した領土を獲得した新羅経由で帰国させるようになった。
 
 新羅の要請に応えた動きを強め、朝鮮半島は遠交近攻による「百済と高句麗」(麗済同盟)と「新羅と唐」(羅唐同盟)の対立が明確になり、どちらのブロックに与するかが倭国の古代東アジア外交の焦点となった。
  

 660年、唐の
   蘇定方将軍
の軍が山東半島から海を渡って百済に上陸し、百済王都を占領した。
 
 義慈王は熊津に逃れたが間もなく降伏した。
 百済人は新羅及び渤海や靺鞨へ逃げ、百済は滅亡した。
  

 唐は百済の領域に都督府を設置して直接支配を図った。
 
 抵抗勢力掃討して一応の占領が終了したため経費がかかる唐軍の主力を帰国させると鬼室福信や黒歯常之、僧道琛(どうちん)などの百済遺臣の反乱を抑え切れなくなった。


 百済滅亡を知った倭国では、百済復興を全面的に支援することを決定した。
 
 倭国に人質として滞在していた百済王子である
   扶余豊璋
を急遽帰国させるとともに阿倍比羅夫らからなる救援軍を派遣した。
 斉明天皇は前線でもある筑紫国朝倉宮に遷った。


 百済の旧領へと帰国した豊璋は百済王に推戴された。
 
 しかし、実権を握る鬼室福信と対立し、遂にこれを殺害するなどの内紛が起きた。


 唐本国からは
   劉仁軌
が率いる唐の増援軍が到着し、663年倭国の水軍と白村江で決戦に及んだ。

 これに大敗した倭国は、各地を転戦しながら軍を集結させ、亡命を希望した百済貴族を伴って帰国させた。
 
 ただ、豊璋は密かに高句麗に逃れたが、高句麗もまた668年に唐の軍門に降ることになった。
  

 唐は高句麗の都があった平壌に安東都護府を設置して朝鮮半島支配を目指した。
 
 百済の故地には熊津都督府をはじめとする5つの都督府を設置して熊津都督に全体の統轄を命じた。
 
 664年の劉仁軌の上表を受けて義慈王の太子であった扶余隆を熊津都督に任じた。

 
 665年8月には就利山において扶余隆と新羅の文武王が劉仁起の立会の元に熊津都督府支配地域(旧百済)と新羅の国境画定の会盟を行わせた。

 扶余隆は百済の歴代国王が唐から与えられていた
   「帯方郡王」
に任じられた。

 唐の支配に反発した新羅は百済・高句麗を名目的に復興させて
   羅唐戦争
を引き起こし、兵員を両地域から動員し、倭国とも友好関係を結んだ。

 西方で国力をつけていた
   吐蕃
が唐の国境を越えて侵入してきたため都長安さえ危険な状態になった。
 
 唐は、地理的にも遠方であり紛争続きで経営の困難な朝鮮半島の権益を放棄し軍を首都防衛のために引き上げさせた。
 
 こうした状況を背景にして百済の故地は新羅の支配下に入った。

 
 なお、新羅は百済故地に残留した百済の支配層を新羅の貴族階層として吸収して新羅支配の実効性を確保していった。


 ただ、扶余隆の子孫への帯方郡王任命は継続されており、唐は表向きは百済への支配権を主張する体裁を採っていた。

 
 百済の中期には、高句麗の軍事的圧力に対抗するために倭国との外交関係が継続されていたと記録されている、『日本書紀』の中には、領土を奪われた百済に任那の一部を割譲した記録や援軍を供出した記録、さらには倭朝廷に朝貢したり、王族を人質として差し出した記録などが多数記載されている。

 

 中国の『隋書』には、新羅・百濟は、みな倭を以て大国にして珍物多しとなし、並びにこれを敬い仰ぎて、恒に使いを通わせ往来すという記述があり「倭への朝貢」という関係があったことをうかがわせる。

 
 広開土王碑でも倭について、「百殘■■新羅を破り以って臣民と為す」という碑文について、「百殘」を百済と見なし、辛卯年(391年)に倭に服属していたとする見解もある。

 
 建国前より一定数の倭人が居住(多民族国家)し、その後も日本列島や任那から倭人が百済に渡来・帰化している。
  
 後期に至るほど支配階級にも多くの倭人が登場することから、百済滅亡により、百済王と王族・貴族を含む一部の百済人が倭国に亡命し、一部が朝廷に仕えた。

 なお、豊璋=徐豊璋の弟・善光=徐善光(または禅広)の子孫は朝廷から百済王(くだらのこにきし)の姓を賜った

 『日本書紀』には、『百済記』『百済新撰』などの遺失した百済の歴史書からの引用が見られる。


 百済からの文化財には、軍事的援助の礼として、中国より伝来したとされる石上神宮に伝わる七支刀がある。
 
 また倭国から伝わった勾玉や刀剣等の装飾品が再度倭国に返還されている。

 奈良県北葛城郡広陵町には百済の地名が集落名として現存し、百済寺三重塔が残っている。

 兵庫県神戸市には扶余系=徐系(中国系現在の満州人に最も近い)の墓にちなんで唐柩の地名もある。
 

 
 
 
   

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