よもやまばなし

May 08, 2018

 
 国立感染症研究所が24日発表した全国の今年の患者数(18日まで)は67人という。
 このうち46人が沖縄県での発生。
 ただ、もともとは台湾からの旅行客を介してウイルスが入ってきたと考えられている。
 
 同県によると、23日現在で患者は70人に増えている。

 愛知県内では沖縄旅行から帰ってきた10代男性が11日にはしかと診断された。
 24日までに男性が受診した2医療機関での院内感染とみられる計4人の感染が報告された。
 うち1人は病院の職員、1人は1歳女児だった。

 空気感染するはしかは、くしゃみなどの
   飛沫(ひまつ)
でうつるインフルエンザなどと比べ、感染力が非常に強い。
 
 空港や駅、イベント会場、医療機関など人の集まる場所で感染が一気に広がる恐れがある。
 2016年には関西国際空港で多数の従業員や利用者が感染して各地で患者が見つかった。

     

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February 03, 2018

 
 豪華な装飾が施された、古代エジプトの
   巫女の墓
が考古学者らによって発見された。
  
 4000年以上も昔の、高い地位にあった女性の生活を垣間見させてくれる貴重な遺跡。
  
 この墓は、豊穣と音楽、踊りの女神ハトホルに仕えた巫女ヘトペトのものである。
 古代エジプトにおいて女性が神官になることは少なかった。
 
 ハトホルに仕える神官には複数の巫女がいた。
  
 ハレド・エル=イナニ考古相は2月3日、ギザで行った記者会見で、これはエジプトにおける今年初めての考古学的発見であると発表した。

 墓の内部で見つかった清めのたらいにヘトペトの名前と役職が刻まれていた。
 また、墓には、狩りや漁の場にいるヘトペトの姿のほか、踊る人、金属を溶かす人、革製品を作る人などを描いた壁画があり、保存状態も極めて良いという。

 壁画の中には、当時ペットとして飼われていたサルを描いた珍しい場面もある。
 
 そこにはサルがカゴを持って果物を採っている様子や、楽団の前で踊っている様子が描かれている。
 
   
   

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January 06, 2018

 
 中東のヨルダン川西岸、現代のエルサレムから北東へ約20キロ離れた場所にある
   テル・エッ・スルタン遺跡
は、古代エリコの町があった場所として知られる。
 
 旧約聖書に登場するエリコは、外敵の攻撃を受けて城壁が崩れ去るはるか以前から、豊かな地域で交易の盛んな都市だった。

 この遺跡でイタリアとパレスチナの共同チームは1997年から発掘調査を行っている。
 今回、チームは5000年前の住居跡から驚くべき発見をした。
 
 ナイル川でなければとれない真珠貝の殻が、5枚重なった状態で出土し、そのうち2枚の貝殻に残されていた黒い粉末を分析した結果、酸化マンガンであることがわかった。
 
 これはコールと呼ばれる化粧品の主成分で、古代の人々はアイライナーとして使っていた。

 この粉末がシナイ半島から運ばれと推測される。
 そこでは、かつて古代エジプト人が採掘していたマンガン鉱山の遺跡が見つかっている。
 
   

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December 31, 2017

 
 世界最古の癌の症例が、エジプトのアスワンにあるエル・ハワの遺跡から発掘された9才の男児と成人女性の2体のミイラから発見された。

 グラナダ大学率いる国際調査チームはCTスキャンの調査を行い、女性には乳癌が、男児には多発性骨髄腫が認められたという。
 
 
   

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March 10, 2017

 
 文化庁で10日に開催された文化審議会で、平城京の跡地から出土した
   木簡
や東京・調布市の深大寺にある飛鳥時代の仏像など、合わせて7件が松野文部科学大臣に答申され、新たに国宝に指定されることになった。

 奈良市の奈良文化財研究所が保管する「平城宮跡出土木簡」は、奈良時代の都、平城京の跡地から出土した3000本余りの木簡。
 この中には、現在の奈良県から滋賀県に農作業に行くために発行されたと見られる
   通行許可証
もあり、当時の日常生活などを知るうえで、貴重な史料とされている。

 
 東京・調布市の深大寺が所有する「銅造釈迦如来倚像」は、7世紀後半に造られた仏像で、流麗なえもんが現れた着衣など、当時のインドの技法を反映させた飛鳥時代後期の名作とされている。

 このほか、京都市の醍醐寺が所有する南宋時代の経典など、合わせて7件が新たな国宝に指定されることになった。

 奈良国立博物館が保管する一休禅師の肖像画など、合わせて37件は国の重要文化財に指定されることになった。
 
  
     

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March 09, 2017

 
 日本政府の地震調査委員会は9日、マグニチュード(M)9の東日本大震災の余震が起きている場所とその周辺では「今後も長期間、規模の大きな地震が発生する可能性がある」との評価をまとめた。
 
 2004年のインドネシア・スマトラ島沖地震(M9・1)では、震源域の周辺では約7年半後にM8・6、約11年後にM7・8の地震が起きた。平田直委員長(東京大教授)は「今後も油断しないでほしい」と話した。
 
 
ひとこと
 
 大陸の移動の歪や火山の噴火など、大地震や津波などは歴史を見れば起きるのが必然であり、避けては通れないものだ。
 こうした自然現象に対し対策を講じるにしても、起きる時期が一定ではなく、過去の発生パタンの推測でしかない。
 建物や構築物の耐用年数を考えれば無駄も多いのだが...
 
   
   

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January 02, 2017

 
古墳(こふん)

 古代の墳墓の1種で土を高く盛り上げた墳丘を持つ墓を指す。
 特に東アジアにおいて位の高い者や権力者の墓として盛んに築造された。

 一般に日本では3世紀半ばから7世紀代にかけて日本で築造された墓を指す。
 なお、弥生時代の墓は「墳丘墓」、奈良時代の墓は「墳墓」と呼び区別されている。
 
 
   

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October 03, 2016

 
倭寇(わこう)

 海賊、私貿易、密貿易を行う貿易商人の事。
 
 13世紀から16世紀にかけて朝鮮半島や中国大陸の沿岸部や一部内陸、及び東アジア諸地域において活動した。
 
 和寇あるいは海乱鬼(かいらぎ)とも呼ばれる。

 倭寇の構成員は、前期倭寇では主に日本人で一部が高麗人であった。
 また、後期倭寇は中国人が多数派で一部に日本人をはじめ諸民族を含んでいた。
 
 前期倭寇は元軍が2度対馬や壱岐に襲来し、島民を皆殺しにして九州にも来襲し莫大な被害が生じた。
 
 1350年に元朝の衰えが顕著となると、高麗の恭愍王は親元勢力を排除し、元の外戚として権勢を振るっていた奇氏を討伐した。
 
 対馬・壱岐・肥前国が根拠地の松浦党の海賊は元軍の勢力が駆逐された朝鮮半島において侵略者の先導を務めた高麗王朝に対する報復攻撃を活発化させた。
 
 そのため、多く海賊行為というより、軍事的な行動が多く元寇に対する報復の意味があった。
 
 こうした前期の倭寇の活動を中国の明王朝の太宗朱元璋が日本におくった書簡で「倭兵は蛮族である元のおとろえに乗じただけだ」と記述している。

 1350年から高麗末まで倭寇の侵入は500回あり、特に1375年からは、倭寇の影響から高麗の沿岸に人が住まなくなる程だったという。
 
 高麗王朝を亡ぼした女真族の打ち立てた李氏朝鮮は朴葳を司令官として、1389年2月、戦艦100艘で対馬侵攻を計画、金宗衍、崔七夕、朴子安が従った。、

 対馬では日本船300艘と沿岸の建物を焼き尽くし、捕らえられていた者100余人を救出したと高麗の記録はあるが、日本側の記録がないため実際の成果との確認ができていない。
 
 ただ、帰国後は昌王名義で賞賛されているが、当時高麗の人々の中には、「朴葳は建物と船を焼いただけで、捕虜にした倭寇はいなかった。」と批判の声も出ていたという。

 将軍となった足利義持は、応永18年(1411年)に明との国交を断絶、対馬においても宗貞茂は応永25年(1418年)4月に病没し、宗貞盛が跡を継いでいる。
 
 ただ、対馬で実権を握った早田左衛門大郎は倭寇の首領であった。
 
 
 日本では1523年に勘合を巡って細川氏と大内氏がそれぞれ派遣した
   朝貢使節
が浙江省寧波で争う
   寧波の乱(寧波争貢事件)
が起り、勘合貿易が途絶した。
 
 その後は、倭寇を通じた密貿易が盛んとなり、再び倭寇の活動が活発化した。

 ただ、後期倭寇の構成員の多くは私貿易を行う中国人であったが戦国時代であった日本人は実戦経験豊富なものが多く、戦闘の先頭に立ったり指揮を執ることで倭寇の武力向上に資していた。
 
 また、大太刀を振りかざす倭寇の戦闘力は高く、戦闘となっても明軍は潰走を繰り返した。
 
 明王朝は海禁政策により私貿易を制限したため、反対する中国商人たちは日本人の格好を真似て(偽倭)、浙江省の双嶼や福建省南部の月港を拠点とし活動した。

 後期倭寇は沿岸部の有力郷紳と結託しており、大航海時代の始まりとともにアジア地域に進出してきたポルトガルやイスパニアなどのヨーロッパ人や日本の博多商人とも密貿易を行っていた。
 
 この後期倭寇の頭目には、中国人の王直や徐海、李光頭、許棟などがいた。
 
 なお、王直は日本の五島列島などを拠点に種子島への鉄砲伝来にも関係している人物。
 
 
  

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September 28, 2016

 
 防水材などに硬化剤として使われる化学物質
   MOCA(モカ)
を取り扱う化学工場の労働者5人にぼうこうがんが発症したことが分かった。
 
 厚生労働省は21日、日本化学工業協会など業界4団体に健康被害の防止対策徹底を求めた。
 
 厚労省はMOCAを扱う事業所でぼうこうがん発症が確認されたのは初めてのことであり調査に乗り出した。


    

manekinecco at 17:15トラックバック(0)  このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

September 27, 2016

 
 国立がん研究センターは26日、を公表した。
 
 前立腺がんや子宮頸(けい)がんは早期の患者が多かった。
 しかし、早期発見の難しい膵臓(すいぞう)がんは約4割が既に他の臓器などに転移していた。
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 がん治療の拠点となる全国421施設から67万人分の診療情報の提供を受け、分析した。
 
 集計は毎年行っており、今回が8回目となる。
 
 これまでは患者数の多い胃・大腸・肝臓などを対象としていたが、新たに食道や膵臓なども加え、「0〜4期」で示す進行度や治療内容を調べた。

 患者数が最も多かった
   大腸がん
は、早期に当たる0、1期が計35%を占めた。
  
 食道がんや前立腺がんはいずれも0、1期が半数程度。子宮頸がんは0、1期で計75%を占めた。
 
 子宮頸がんはがんのできる部位が比較的発見しやすく、市区町村が検診を実施していることなどもあり、早期発見が多いとみられる。

 肺がんは1期(40%)が最も多かった。
 また、他の臓器へ転移した4期も32%だった。
 なお、4期の患者は抗がん剤などの薬物治療のみが多かった。
 
 
 膵臓がんで発見時に4期の人が多いのは、特徴的な自覚症状が乏しく、検診での発見が難しいのが原因とされる。
 がんが進むと手術が難しいため、抗がん剤治療だけを受ける人が多かった。
 
 
 集計結果は同センターのホームページ(「がん情報サービス」http://ganjoho.jp)で公開されている。
 施設ごとの情報も公表しており、同センターは「病院選びの参考にしてほしい」としている。
 
 
 
  

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