戦争を語るブログ

平和を愛し、いさかい好む

2018年05月

美女の肖像


【問題】
,海粒┐鯢舛い燭里話でしょう?
絵のモデルは誰でしょう?





【正解】
〆郤圓蓮△里舛縫泪蝓次Ε▲鵐肇錺優奪箸両啻など手がけ、ルブラン夫人として名をなすルイーズ・ヴィジェ。
▲皀妊襪話かというと……これがビックリ!
まだ16歳、初々しかった頃の作者自身、つまりルイーズ・ヴィジェ本人の自画像なんですね〜。


描かれたのが、1771年。
今現在、これより水準の劣る絵を描いてる絵師さんは、美術史250年の試行の成果を自分の作品にどれほど生かせているかとみずから問いかけるといいかもしれません。

さて。
実は今、自分の中ではこのルイーズ・ヴィジェがちょっとしたブーム。
一般には「マリー・アントワネットの肖像画家」として知られる人だけど、実のところ魅力的な自画像で名をなした絵師さんの先駆ではないでしょうか。
ヴィジェ=ルブラン以前に、自画像で人気をつかんだ女流画家なんていましたっけ?
(あ、いたね。アンゲリカ・カウフマンという人が。でもアンゲリカの絵ってどこか硬くて、才女を強調するあまり自然な好ましさに欠けてる感じ)

そう、「自然な好ましさ」。これこそがをルイーズをして欧州一の人気肖像画家に押し上げた要因なのでしょう。
誰もがルイーズの絵を好きになるのは、彼女がモデルを実物より美化して描くからでもなければ彼女自身が美貌だからでもない、描いたものに生き生きした親しみや温かさを感じるからなのです。




20代半ば頃の自画像から




ルイーズ・ヴィジェ=ルブランの魅力は、「どんな絵に仕立てるか」という画流が確立しており、「あの人にまかせれば、こう描いてもらえる」のがわかっていたところにあったのかもしれません。
ありのままの模写でなく、モデルの姿を自分の流儀にあてはめ、カンバス上に再構築する。そのデフォルメのやり方、彼女だけの味わいある絵柄、いわばルブラン印のキャラ造型が気に入られたという。
(現代の絵師にも要求される売りどころです。たとえば、今の日本でジブリ風のデザイン・キャラが幅広く受けているように)




■ルイーズ・ヴィジェ=ルブランの筆になる著名人の肖像■



マリー・アントワネット
いわずと知れたフランス王妃。
この方の引き立てなくしてルイーズに名声は得られなかったかもしれない。





エマ・ハミルトン
映画『美女ありき』でも知られるネルソン提督の愛人だった女性。
ギリシャ神話風の扮装をしている。
レディ・ハミルトンってほんとうに美貌だったのだなと見惚れてしまう絵だ。





エマのスケッチ画
1790年、サー・ハミルトンとはまだ愛人関係だった頃。
(翌年結婚し、レディ・ハミルトンとなる)
奔放で快活なエマの素顔をよく伝えてると思う。





エリザヴェータ・アレクセーエヴナ
フランス革命を逃れたルイーズのペテルブルグ時代の作品。
のちにロシア皇帝として即位するアレクサンドル大公のお后さま。エカテリーナ二世在位中で、まだ16歳か17歳の頃。
フランス王妃を別にすれば、ルイーズの絵のモデルでは最も高位にのぼりつめた人といえる。





ルイーゼ・アウグステ
プロイセン皇帝フリードリヒ三世のお妃。

対仏戦で連敗したプロイセンは、ナポレオンに領土の半分を奪われたうえ巨額の賠償を課されることに。
すわ祖国の一大事、彼女はナポレオンを相手どり、根回し、泣き落とし、色仕掛け、あらゆる手で要求を減じてもらおうと試みるのだが、さすがナポレオン、ぜんぜん効き目がなかったとか。

それでも、王妃のこの愛国的奔走は国民を一丸にまとめる効果をもたらし、プロイセンの崩壊を瀬戸際で食い止めたのだった。天晴れ、天晴れ。
(いや、こうでも言わなけりゃ頑張った甲斐がなかったことになるからね)

1810年、仇敵ナポレオンの没落を見ることなく、34歳の若さで没した。





バイロン卿
バイロンについて説明の要はないだろう。
しかし、これは詩人として名を成すずっと前、14、5歳の頃の肖像画というから驚きだ。
ルイーズの絵は、成人後のバイロンを描いた他のどんな画家よりもバイロンの狂的側面をよく捉えている気がしてならない。いや、白黒の画像なので迫力が増して見えるのかも。





ナポレオンの妹カロリーヌ
とその娘。
夫はやがてナポリ王になるミュラー元帥。

でも払われる報酬は破格の安値、おまけにカロリーヌが遅刻はするわ髪型や衣装を毎日変えてくるわで作画期間が長引き、ルイーズさんイライラのし通しだったそう。ついに切れて、「本物の王族ですら、わたしを待たせたりしなかったのに」と叫んだとか。
しかしルイーズの筆によるナポレオンその人の肖像がないとは残念。





スタール夫人
ポスト革命期のパリで、当代唯一の知性と活力を誇った女性。
しかしながらルイーズにはこの人物の魅力がつかみきれず、たいていの依頼主にサービスを惜しまず美貌として造型するにもかかわらず、スタール夫人の肖像については(以下略)。

そしてそのやり方、ルイーズ流の美の基準に収めなかった表現の仕方がまさに、皮肉でなく、スタール夫人の真価を伝える結果となっているとは何ともだ。







関連リンク

「ルイーズの娘ジュリーがまた可愛い」
(当ブログ)
http://blog.livedoor.jp/manfor/archives/52097795.html


「美魔女としてのルイーズ=ヴィジェ」
(当ブログ)
http://blog.livedoor.jp/manfor/archives/52097310.html






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『わたしは真悟』/神格化されているのはロボットではない、少年少女だ


いわずと知れた楳図かずおの代表的劇画のひとつ。
本年初頭、フランスのアングレーム漫画祭で「遺産として残すべき作品」に加えられ、事情通をわかせた。

『わたしは真悟』が漫画誌に連載されたのは1980年代前期。
高度成長期に海外の経済学者や未来学者から「世界一の大国になる」と持ち上げられながら、国としてなんら変革をおこなわず、大衆もブランド崇拝や「見栄講座」に流されるほか何もせず、日本が真に明るく豊かな未来をもたらす好機をみずから逃した時代の産物である。

それをなぜ、今頃?
フランス人といえば気まぐれで有名だが、30年以上も放っておかれたものを拾い上げたうえで「遺産漫画」とは。
ひょっとしたらその前年、フランス人がぼろ糞にあつかわれた映画『ダンケルク』が世界的評価を博したことへの反発がくすぶっており、『真悟』の作中でイギリス人が極悪に描かれるところ気に入られたのではと勘ぐりたくなる。

ともあれ、話の内容。
「不可解」「難解」との評価が多くて読むのを控えていた『わたしは真悟』だが、いざ頁を開いてみれば小学生同士の純愛という明快なかたちで始まる。
端的にいえば、エリート子女と労働階級の庶子とのかなえられない恋物語だ。想いよせあう少年少女を主軸に、『リトル・ロマンス』風の軽やかな展開で読む者をひきこんでしまう。

それはいいのだが。
主人公たちの子供らしさ。
実際に子供時代を体験し、現に大人である身としてはわからないことが多すぎ、戸惑う。
子供なのに、大人になることに子供らしい憧れを抱かない。逆に、「子供時代が終わってしまう」のをこの世の終わりのように恐れたりする。
小児期を特別なものとして神聖視するかのような、大人の作者の思い入れがあんまり強すぎ、ついていけないところがあるのだ。




こんなガキいねえよ! もう大人の思い込みが凄いの一語。
(スキャナー使えないので、ネットで拾った画像でご勘弁)


先行きになんの理想も見出せずにいた当時の社会思潮(それは今も同じか)を反映し、主人公たちも大人になるのをただ汚れること、大事なものを失うことだと決め付け、成長を頑なに拒絶する。
(否むしろ、大人になるのを受け入れねばならないと知っているからこそ、今のうちに子供時代だけに可能な「証」を刻み付けておきたいのだろうか?)
この時代性と作者の思いが重ならなければ、『わたしは真悟』は世に出なかったかもしれない。

さて。
この手の物語のお約束、親から一緒に遊ぶのを咎められ引き離されそうになった悟とまりんだが、ともに親元から逃げ出し、結婚を誓い合う。
そして産業用ロボットに内蔵されたコンピューターに向かい、「どうすれば二人の子供が作れるか?」と問うてみたところ、出た回答は。
「333ノ テッペンカラ トビウツレ」

333とは東京タワーの高さと読み解いた悟とまりん。
そいでまあ、二人の子供は何が起こるかと半信半疑ながらも登っていくわけ、タワーの天辺まで。えっちらおっちら、キャーキャー悲鳴をあげながら。
(愚直だよね)
まりんと悟が東京タワーを登りつめる一連の描写は、想像力豊かでしかも高所恐怖の人が読んだらビビること請け合いの出来栄え、全編でのピークと言ってもいい。これあればこそ本作が固定的な支持を得て、後半での迷走にもかかわらず長期連載が続いたのだろう。

けれども。
ようやく頂上をきわめても何もない。救助のヘリコプターがやって来て、「飛び移れ」と叫ぶだけ。
意を決した二人は手を握り合い、ヘリめがけてジャンプする。
果たして――。

場面は変わり、地上の工場。
悟とまりんが馴染んだ産業用ロボットに突如として、意識が生じる。
(のちの真悟である)
何故いかなるカラクリにより、子供たちが東京タワーから救助ヘリに飛びうつることで、遠く離れたなんの接続もない工作機械に意識など生じたのか。
結末でも解明されない最大の謎だが、まあ「奇蹟」がおきたわけだから野暮は言うなであろう。

ともあれ、真悟は自立性を得た。
ここまではホラー的な要素はまるでなく年少者の純愛物語として日常的な展開だったものが、描写が俄然スプラッタになっていく。
電源を切られているのに動きだし、幼女の頬肉をぶち切ったり(ギャーッ!)、吠えかかる番犬をねじり殺したりで自力により逃走。
楳図漫画の本領発揮という感じだ。

そうやって真悟は、地上で離れ離れになった悟とまりんの愛を架け渡す存在として、世界中のコンピューターと通じてこの世のあらゆる情報を吸収、ついには地球とつながる神の領域にまで進化を遂げていく。
気宇壮大なドラマの始まり。

しかし。
いや、しかし。
楳図かずおは、前半部でなしとげた素晴らしい盛り上がりを混沌たる脳内世界に放り込み、みずからぶち壊しにしてしまう。

後半からはもう、まるでメタメタである。
「毒のキカイ」だの「日本人の意識」だの陰謀やオカルトの連発、泥沼にはまってしまったようで何がなにやら。

両親とともにロンドンに転地したまりんの身におこる出来事は、「これじゃない」感が凄まじい。
英国での展開がもたつくのは話が込み入りすぎたからではない、あきらかに幼稚すぎるからだ。
それというのも、まりんに異常に執着するロビンという英国少年15歳(に見えねえよ)の造型があまりに薄っぺら、やることなすこと全部つまらなくて物語が盛り上がろうはずもないのだ。

初対面以来とり憑いたかのようにまりんの傍らにしつこく身をおくロビンは、まりんの悟への純な想いをもぎ取って強引に子供時代を終わらせる役割にひたすら邁進する。
しかしロビンは醜い大人たちの象徴というよりむしろ、大人になりきれない子供と言ったほうがいい。そのことはまりんを拉致し連行するやり方を見ても如実であろう。
どうしてロビンがこうなったか。これもまた幼少時の体験等に理由を求められると思うのだが、作中では一切明かされることがない。

クライマックスはなぜか、エルサレムの教会。
わずか10分の間にタンカーから上陸、砂漠を突っ切って駆けつけた真悟が身を挺し、ロビンの魔手からまりんを救う。
かなり強引で無茶苦茶な山場の作り方だが、「感動した」「泣いた」との評価は多い。しかし考えれば、ロビンがこの聖地でのまりんとの「挙式」にこだわったのは奇怪である。
まず、宗派が違うだろう。そんな場所まで行かずとも結婚なら他の教会でも挙げられるし、だいたい二人だけで誓い合っても婚姻は成立しない。
まりんが欲しいのなら力付くで奪えばいいのだし、まりんのほうから愛するよう仕向けたかったとしても、かたちばかりの祝言で愛が生じないのはわかりきったこと。ここら辺り、ロビンが「核戦争だ」と騙してまりんを地下室に閉じ込めたりあちこち連れまわす設定とあいまっていちじるしく説得力を欠いている。

まりんを誘拐してロンドンからリビアの砂漠、それからエルサレムへと信じられない遠出をするロビンだが、途中で誰からもなんの法的制止も受けないとは不可解きわまる。漫画の中とはいえ、ありそうもない。
そのうえに、真悟の思いで核戦争がはじまった、しかしそれはまりんに生じた想念だったなどと夢オチに等しい収拾の仕方なのだからいやはやだ。

ロビンとまりんにまつわる部分はロビンがまりんを騙す場面の連続だが、展開そのものがまったく読者を侮った子供だましなのである。
ロビンは秘密の反日結社で重要なポストにいるらしいが、作劇上それが有効に機能することなく別方向に話が進んでしまい、最後までまりんへの邪恋を遂げようとするだけの変態野郎のままだった。

ラストちかく佐渡島での「人間狩り」はわけをわからなくさせただけ、ないほうがよほどよかった。
事故死したはずの子供がパソコン画面の中で語った「キプロスと佐渡はつながってるから、キプロスで起きたことは佐渡でも起こる」というのも、ユング流の同時共振性のことなのだろうが正直、理解不能の域。だいたい、キプロスの場面など出てこないから意味がない。


何故こうなった?
『わたしは真悟』が連載形式での発表だったせいなのか。
連載ものにありがちなことで、作者は、読み手の興味をかきたて人気を維持しようとあれこれ奇抜な設定を盛り込んでいくうち収拾できる範囲を超えてしまい、しかも人気は落ち続けてとうとう連載を打ち切られ、筋が破綻の域に達したまま強引に完結させるしかなかったのでは?
そう邪推したくなる終わりようである。
総体的に、やらかした感の半端ない読後感となった。

一言で言えばこれは、子供時代の男女を偶像視するあまり、子供たちの自然な大人への憧れを無視し、次につながる思春期の訪れさえも祝福できないという内容なのだ。
(初潮がはじまった途端、真悟にはまりんが見えなくなってしまう)
そうした作者の思い入れを認められるか否かで、『わたしは真悟』への評価は違ってくるかもしれない。






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『百日紅』/日本で大コケするも海外では……やはり大コケ!


図書館のDVDコーナーに置いてあった。
粋な真似をする図書館だ。内容を確かめず、映画祭受賞の箔付けで選んだらしい。
事実、アヌシー国際映画祭、ファンタジア国際映画祭、ほか内外数多の賞を授けられるという表彰歴では輝かしさこのうえない。

しかしながらこの『百日咳』、じゃなかった『百日紅』(「さるすべり」と読む)。
封切ってみれば、どの国の観客からもそっぽ向かれるという商業的虐待にさらされた。
日本ではなんと、興行収入1700万円という大コケぶり。
(17億円じゃない、1700万円だぞ。信じれんだろ? 悪名高い『となりの山田くん』ですら15億稼動したのに)
ひるがえって北米での成績。日本アニメがアメリカ市場で冷遇されるのは常態だが、それでも興収22万ドル(約2600万円)、日本よりよほど受けたのだからこの映画が自国でこうむったネグレクトの凄さが推し測れよう。こういう状況はめずらしい。
日本の観客の反応はさながら、どこかアジアの国の名作がアートシアターにかかった場合の無関心ぶりをおもわせる。

なぜ、こうまでしくじった?





宣伝の仕方を間違えたとしか言いようがあるまい。
だいたい、「キャリアウーマン」だの「粋な女のいろは」だの、作中に入り込む余地のないものばかり売りにしやがって。
背景は江戸期、葛飾北斎の娘を主人公にした物語だぞ。
女子力派もフェミニスト派もひっくるめた女性客全体へのアピールを狙ったようだが、ザマ見たことか。
こんな中途半端な女性向けの売り文句でなく、オカマ色じゃなかった、オカルト色が強い話なのだからそっちの魅力で誘引したほうがうまくいったかもわからない(今さら後の祭りだが)。

さて。肝心の出来栄え。
けっしてジャパニメーションの最高峰というわけではない。
場面ごとに横溢する過剰な美意識、背景描写や考証に凝りはするが人物の表情や動きはまるでぎこちないという。ようはいつものアレ、「電気紙芝居にラジオドラマをかぶせた」基本仕様のまま。日本アニメに宿命的な、身体障害にも等しいハンディを乗り越えられなかった一本。

しかし一体、何を訴えたかったのか。
どの年代に見せたかったかも理解に苦しむが、色事、オカルト、家族愛、いろんな要素を盛り込んで幅広い層を取り込もうとの皮算用だったのは間違いないようだ。
そうした目論見がことごとく裏目に出てしまった。

気の強い主人公の造型など(なぜ、こんな濃い顔にした。原作どおりでよかったと思うが)、美少女趣味を廃したのが仇となり日本アニメを支える主要な客層から逃げられた。
しかも春画や遊郭などエロものが出るせいで、家族連れはやって来ない。時代劇好きな高齢者も、「なんだ、アニメか」で敬遠する。
かくたる次第でどっちつかず寄り付かずの集客になったとおぼしい。せめて子供でも見られる内容に徹すれば興行的には何とかなったやもしれぬのに。

ともあれ劇場公開は失敗でも作品は残る。そう悪い出来でもないし、暇なときPCやテレビで見るのに適した内容だ。
北斎はこんな奴だったのか、こんな家族がいたのか、うかがえるだけでも面白かろう。
クセのある作風にさえ慣れれば、思ったほど退屈せず時を過ごせるに違いない。






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テルマエ・ロマエ供 「こんな続編なら作るな」と言いたい、無駄な続編


前作は日本人の顔でローマ人に扮した人を現代にタイムワープさせ、「日本スゴイ」とうならせる描写を売りとする臆面のなさに面白みがあってそこそこ楽しめたが、今回は……途中で眠くなるほどつまらなかった。
どこがつまらないって指摘するのもむずかしい。平均的に、まんべんなくつまらないんだから。

まず新鮮味が失われている。
ルシウスが日本の風呂文化に刺激されローマ時代に応用するところはだいたい前作の繰り返し。上戸彩演じる日本娘との関係もまるで進展のないままだ。
しかもクライマックス。
主人公が、荒ぶる群衆を前に平和の尊さを訴える場面は近来まれにみる退屈さ。志があまりに高邁すぎて感動どころか欠伸しか出てこない。大多数の観客が望んだのはこんな話の片付け方じゃなかろうに。
(なんのために闘技場の大セットを組んだんだか。無駄遣いのきわみ)

だいたい入浴をひろめれば人々の心が穏やかになり平和がもたらせるとは馬鹿にするにも程がある。
それだったら、なぜ風呂好きの日本人があんな戦争を起こし国が滅ぶまで戦い続けた?というところに行き着いてしまうわけで説得力皆無、日本の映画でそういうこと言ってもやぶ蛇の効果しかないよう思えるが。





関連リンク

テルマエ・ロマエ/無理を通した映像世界
(当ブログ)
http://blog.livedoor.jp/manfor/archives/52023033.html






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MeTooの先行き



これらもMeToo運動の行き過ぎとしか思えない例。
コスビーへの法的措置は当然だが、40年も前の一件でポランスキーまで映画作りでの功労を無視して除名処分とは。
現状、とばっちりが怖くて誰もが同調した振りするほかないようだが、そんな沈黙を強要するやり方でどんな運動も長続きするものではない。
ともあれ、人気番組のよき想い出と映画の芸術的な価値は残り続けるだろう。

アメリカのメディアでMeToo運動に堂々と立ち向かう人をあまり見ないのは、ようするに関係者の多くが「すねに傷ある身」だからと思われる。やぶ蛇になるのを恐れているのだ。 MeToo派の刃がいつ自分に向かってくるかわからない、ヘタに言い立てて反感を買い、過去を掘り返されたらたまらない。
もしかしたら、身に覚えのある人ほど疑われぬようMeTooには積極的に賛同という構図が出来ているのかもしれない。

ワインスタインやケビン・スペイシーの失墜は、少数を見せしめとして罰し全体に言うこときかせるやり方だ。かくして、「MeToo神に逆らうと、おまえらもこうだぞ」という脅しの効き目をもたらしたと言っていい。
いまやアメリカは、マッカーシーの赤狩り以来の偏向的弾圧の只中にある。

もちろん、すべての芸能関係者を告発したら映画もテレビも存在できない。MeToo派の女優や歌手にもそこはわかっているから、自分らの生存領域をわざわざ潰す真似はせずに「A級戦犯」の処刑でとどめておく。 かくしてMeTooは、期間限定の一大ムーブメントとして男たちへの教訓、いや恐訓を残し落着するように思われる。




関連リンク

「MeToo運動はジャコバン主義に陥るか?」
(当ブログ)
http://blog.livedoor.jp/manfor/archives/52082517.html


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