戦争を語るブログ

平和を愛し、いさかい好む

2018年09月

ライトノベル「アレが見えるの」五の2


 御影の家はさびれきった商店街のような通りにあった。
 ほとんどの店がシャッターを下ろし、昼間なのに行き交う人も少ない。
 どでかいショッピングモールが駅前に出来、客を吸い取られてしまったのだという。
 通りの入り口では「楽園通り商店街」と銘打ってるけど、いまでは誰が呼んだか「霊園通り昇天街」。言い得て妙だ。
 場所は御影の友だちに教えてもらった。「行ってもいい?」なんて本人に訊いたら(訊くのさえ容易じゃない)、「来ないで」と言われるに決まってる。
 だから体験礼拝の名目で、じかに教団支部のほうを訪ねることにしたんだ。
 所在地はもろちん、御影の家と一緒。

 家の前には大きめの看板で、「聖ダラネーナ協会 大野小町一丁目楽園通り支局」。
 いや、立派な建物じゃない。
 木造平屋でありきたりの一軒家。店舗だったのを改装したらしい。

 ここで逡巡してしまった。
 なんだか気恥ずかしく、空恐ろしい。
 まるで恋した少女の家を初めて訪ねるような気分だ。
 あるいは神経科の病棟のような、普通なら行かない場所に足を踏み入れる気持ち。
 まだ遅くない。やめようか。
 でもここで引き返したら、自分につきまとう問題は解消できない。
 この先、幽霊にも風説にも祟られながら過ごすなんて。
 何とかしなければ!
 端緒となることを言い始めた御影に近づけば、糸口が見出せるかもしれないんだ。
 来たのは誰のためでもない、自分のためじゃないか。

 なに、ひとりで行くんじゃない。
 幽霊たちも一緒だ。
 気を取り直して、呼び鈴を押した。
 チン、コーン。
「どなた?」
 か細くかすれた、中年女性の声が応じた。
「守屋護といいます。御影さんの同級生ですが」
 あれ、なんで御影のことを言ってしまったんだ。
 初っ端でとちったぞ。
 御影なんか関係なしで、通りしなに看板を見て興味を惹かれ寄ってみたような振りする気だったのに。

 すーーっと玄関の戸が開き、なんと幽霊が現れた。
 髪はほつれ、青白い相貌の女の幽霊が。痩せた身を白い長衣に包んでいる。
 うわ、ついに僕にまで見えるようになったか。
 御影が言うのは本当だったんだ。
 でもこんなのがとり憑いてるなんて、やだな〜、と思った矢先。
 目の前の幽霊はもの問うような顔で、生体反応を示した。
「御影のお友だち?」
 幽霊じゃなかった、御影のおかあさんだ。
(ふん。ありがちなギャグだ)

「いいえ。幽霊のお友だちです、御影さんに言わせれば」
 そう返そうとしたが、やめておいた。
 まあ広義の意味でお友だちなんだろう、「クラスメート」だからな。
 僕は、これも同級生で御影さんの友だちから聞きました。ダラネーナ教のことを。それでボジャイ様の教えに興味をもって詳しく知りたいと思ったんですと用件を述べるかたちで、相手に通用する嘘をついた。

 話変わるけど。
 ぼくの大叔父さんは、「三十歳より若い者の言うことは信用できねえ」が口癖だった。
 なぜかといえば、「若い奴らは相手が大人と見ると本音を言わず、嘘つくからな」 。
 みずからのおこないに照らせば、これは至言だ。大叔父さんにも若い時があったのだろう。大叔父さんが他の大人と違うのは若かった頃を忘れてないことだ。

 さて。
 とりあえず受け容れてもらえた。
 僕が真面目な好男子に見えるせいもあるが(みんながそう言っている)、教団としては入信者が増えるのは大歓迎のはずだ。
 奥のほうに通された。

 僕は居間兼応接間のような空間で待たされ、やがて支部長たる御影のお父さんと引き合わされた。
 あんな娘がいるとは思えない人物だ。
 表向きは円満で愛想が良く、口先上手。そのうえ損得勘定が巧みで抜け目がない。
 話からすれば、そうとう狂信的なのではと覚悟してたのに。宗教人というより商店主のようだった。
 事実、ダラネーナ教に染まる以前は、文具屋を堅実に経営していた。建物が表玄関を入るといきなり礼拝所でその奥が住居というのは、店舗だった頃の名残りだ。
 要望したとおり、ボジャイ様の教えについていろいろと説明を受けた。
 いろいろと。
 それはもう、得意になって淀みなくしゃべるのを聞かされた。
 普通と異なる場にいるという緊張感はあったが、内容については御影の友だちが言ってたとおり、それもボジャイ様をあくまで褒め上げる立場から聞かされる。
 正直あくびをこらえるのに苦労しながらの一時間だ。
 でも説教が一段落ついた頃には、律儀に耳を傾けながら時おり質問をはさんだりでちゃんと聞いて理解した振りをし続けた僕は、相手からかなり信用を獲得していた。
 とりあえず自分の影響力の圏内に入ったと思ってくれたらしい。

 そのあと、お茶菓子を食べながら入信の準備や自分の身の上についての雑談をするうちに、聞きたくてたまらなかった疑問を差し向けてみた。
「変なこと聞くようですが。この信仰を続けてて、怪異な現象を体験するってありますか? 他人にとり憑いた悪霊が見えるようになるとか」
 はっはっは、と支部長は笑って受けた。
「あり得ない。ここは当教団の聖殿だよ。怪異なものなんか入れるわけがない。悪魔も幽霊も、入り口に立っただけで退散していくさ。はっはっは。恐れることなんか何もないんだよ」
 いや、そういうのが聞きたいんじゃなくて……。あなたがご家族をどの程度わかってるかということなんです。ほんとにご存じないんですか、幽霊の見える娘さんがいることを。娘さんが学校でどんなこと言ってるかも。
 ああ、直裁に訊けないもどかしさ。
 なぜ御影がああなったのか、その答えを得ようと来たようなものなのに。

 そのとき。
 ガラリと玄関の戸が開き、一呼吸おいて、ピシャッとしまる音がした。
 誰かが帰ってきた様子だ。
 たんたんたん……と廊下に軽快な足音を響かせながら、近づいてくる。
「あら、『ただいま』は?」
 御影のお母さんが出迎える声がする。
「ただいま〜。お母さ〜ん、走ってきてのど渇いちゃった〜。冷たいものな〜い?」
 御影の妹だろうか。
 子供っぽい、あまえた声で、おやつをねだっている。
 いや待て、御影に妹はいなかったぞ。
 ついで、母親がこれこれと叱る調子で娘をたしなめる声。
「お行儀よくなさい。学校のお友だち来てますよ」
「ふんふん♪ アッコが?」
「守屋くんという男の子」
 母親がそう言うのと、快活な少女が居間兼応接間に姿を見せるのとはほぼ同時である。
 あれま。
 黒石御影その人だった。
 その瞬間の彼女だが、何事が起きたのか理解できない様子でいた。
 やがて……御影は視界の中の事実、自分の家にあの守屋護がいる、あるはずのないところにあるはずのない存在を認めたのがわかると、待ち伏せでもくらったみたいに、激しく悲鳴を上げた。
 学校ではとんと、こんな反応は示したことない。
 鼓膜をつんざくという形容がぴったりのけたたましさだった。
 ぎゃーーーーっ!

 家中の人が集まってきた。


(続く)






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ライトノベル「アレが見えるの」五の1


 もともとは、黒石御影も普通の子だった。
 御影の家も普通の家だった。
 両親も他の家族もごく普通の人ばかりだった。
 「だった」と過去形を繰り返したのは、今はそうじゃないからだ。

 ある時を境に、御影の世界はどんどん普通から離れていった。
 御影の祖母があの教団に入信したせいで。いや、仏教やキリスト教のほうじゃない。
 聖ダラネーナ教団。
 まだまだ規模は小さい。信者は数百人程度(稲葉高校の一学年分の人数より少ない)、狭い地域に集中してる。御影の家がある周辺だ。たぶん大きな成長は見込めないし、正直ずっと小さいままでいてほしい。知れば知るほどそう思う。
 古代インドが起源とうそぶくが実は最近できたばかり、ボジャイと名乗る聖人だか山師だかを教祖として崇める新興教団、その教えが長年の伴侶を失くし空虚な思いでいた御影の祖母をとらえたのだ。
 ボジャイ様につき従えば、やがて来る艱難から免れる。失くしたものは取り戻し、宿願だったこともかなえてくれる。

 ボジャイ様とは何者か?
 まず経歴からして怪しい。一応は日本人である。小さい頃に宗教者としての素質を見込まれインドの名家に引き取られたという。そうして霊的な英才教育により修行を積み重ねた末ついに悟りの境地に達し、教祖の称号ボジャイを名乗るようになった。
 とにかく並みの日本人とは違う。容姿も、人格も、振る舞いも。
「あの人はインド人に育てられたから、インド人みたいになっちゃったのよ」
 巷のおばさんに言わせればそうなるが、ただしこの言い草は無知もはなはだしい。日本人に育てられて忍者みたいになっちゃったのと同じくらい変なんだ。インドについての理解が、江戸川乱歩の水準で止まってる。
 インド共和国の名誉のため言いたいが、かの国とダラネーナ教団とで文化的な関わりはまったくない。「インドの名家に引き取られた」も作り話に決まってるし、だいたいボジャイ様がインド人に見えるもんじゃない。
 あくまで日本の中だけで通用する変人だ。

 ともあれ、ボジャイ様なる人物の経歴ほど疑わしいものはない。みずから「私は詐欺師でござい」と言ってるに等しい。
 並みの人なら、これはヤバイ、ご利益なんかあるはずないと思うだろう。御影の祖母がまさにそうだったのは最初のうちだけで、いつしかボジャイの教えにはまり込んでしまった。
 どんな存在でも、ちょっと目立つこと、変わったことをすれば感化されていき、神と崇める人まで出るという見本かもしれない。

 しかも怪しいのは経歴だけじゃない、最たるものはその教義だ。
 すべての人を幸福にする方途はない。世の中の不幸の総量は一定であり、人類がこの決められた量の災いから免れる術はない。どうしてもそれだけの不幸や不運を集団として受け容れなければ世界はやっていけなくなる。
 つまり、おみくじで「凶」を引く人が凶札の数だけいるように、誰かしら不幸になる定めなのだ。
 しかしボジャイ様には厄を避ける力があり、その信徒になれば回ってくるはずの不運からは逃れ得る。はずれ籤を引かずに済むのだ。すべての人は救えないが、資財を投げ打って忠誠を尽くす者をボジャイ様は守ってくださる。だから信徒らは不幸が、自分たちでなく教団外の者に見舞うようひたすら祈るのだという。

 他人がどうなろうと知るかというんじゃない、是非とも他人に不幸を肩代わりしてもらおうという。
 なんたる教え。なんたる祈り。こんな宗教の信者になるほど不幸なことはない。

 たとえばキリスト教。
 救世主イエスは人類の原罪をすべて引き受け、我が身を犠牲にして贖(あがな)ったとされる。いや、それはいい。本当かわからんし。
 でも入信するには、人が生まれながらに罪を引き継いだ存在なのを認めなければならない。そう受け容れるのが出発点となるわけで結構むずかしいことだ。
 かたやボジャイ様は、世界を救うなど端からあきらめ、自分を教祖として崇める人々だけを守る。信徒たちも、ボジャイ様のもとに集いそのはからいで降りそそぐ災いを逃れようというわけで志に大変な差があるのだ。

 とにかくダラネーナ教と比べれば、他の宗教がよほどまともに見えてくる。街中で勧誘を受けても、いとも容易に振り払えるだろう。しかし……。

 狂気というのは憑依するものだという。そして伝染病のように拡がっていくらしい。
 御影の祖母ばかりじゃなかった。家の他の人々も、あきらかに異常な戒めで信徒を律する新興宗にあらがうどころか、しだいに教えに帰依するようになった。
 ほんとうに普通の家なら起こるはずのないことが、御影の一家には起きた。
 カルト信仰とは人々をそれほど変えてしまうものなのか。あるいはもとから黒石御影の家族には、集団狂気の発現する素地があったということか。

 いや、黒石家の中にもボジャイ様の教えを頑として受け付けない者がいた。
 ほかならぬ御影自身である。しかし彼女には、家族が狂信にはまっていくのを止めることができなかった。できるはずもない。ダラネーナ教が家に持ち込まれたとき、御影はまだ9歳だ。

 自分の家族が一人また一人と狂信に染まっていくさまを眺めるって、どんな気持ちだろう。それを幼い御影は、一人で味わったんだ。
 御影が中学に入るとき、家はダラネーナ教にすっかり乗っ取られていた。我が家がその地区の教団支部と化した。外面はまあまあ普通の一家に見えたが家の中では教えに背いた言動が許されず、体罰やネグレクトでの仕置きを受ける。

 たとえばお祈りするときに、失態は許されなかった。
 ダラネーナ教では祈祷のとき、鐘だの太鼓だのをけたたましく鳴らしながら聖句を朗誦する。

カーン、カーン、カーン!
七難ボジャイ、八苦ダラネーナ。
チーン! ポコッ!
何とぞ我らから七難八苦を退け、九死に一生をあたえ給え。
カーン、カーン、カーン!
七難ボジャイ、八苦ダラネーナ。
チーン! ポコッ!
艱難がどうぞ他所に向かい、我らには至福が訪れますよう。
カーン、カーン、カーン!
七難ボジャイ、八苦ダラネーナ……。

 ここがいけなかった。変な風に聞こえるのだ。
 「七難ボジャイ」が「なんぼじゃい」、「八苦ダラネーナ」が「ハッ、くだらねーな」に。まだ幼く、空気の恐ろしさが読めない御影は、朗誦がその部分にくるとどうしても吹いてしまう。
 すると祈祷の場を取り仕切る御影の父は、こいつ神様を笑ったと鬼のように怒るのだ(すでにボジャイ様から教団の支部長を仰せつかっていた。人格能力による采配とちがい、その地域で最初に入信した家が支部、家長が支部長になる定めだ)。

 厳粛であるべき時と場合に重大な粗相をしでかしたということで、彼女は制裁を受けた。
 ご飯を食べさせてもらえない。
 他にも、信仰のことでちょっとでも本音をもらそうものなら、たちまちお仕置きが見舞った。
 布団で寝かせてもらえない。遊びに行かせてもらえない。テレビを見せてもらえない。漫画も読ませてもらえない。お洒落も許してもらえない。遠足にも行かせてもらえず終日、教団本部の掃除を命じられるという……。

 これじゃ家のみんなに合わせるしかない。
 屈辱的な姿勢で祈り、教団への奉仕に専心した。祈りの場でも声を張り上げ、朗誦を真剣におこなった。
 とにかく表向きはボジャイ様の信徒として落ち度のないよう振舞い続けたのだ。そうしなかったら、高校にも行かせてもらえなかっただろう。

 誰もが同情はしても自分がそうなりたくはない境遇。
 御影はそこに身をおき、日々を送ってる。

 なんで、こんなに詳しいのかって?
 友だちから聞いたんだよ、御影の友だちに。どうして御影に幽霊が見えるようになったか、あるいは幽霊が見えると言うようになったか、過去に秘密があるんじゃないかと思って。
 でも何だか、幽霊どころじゃない恐ろしさをもった魑魅魍魎の世界にはまり込んだみたいだ。

 実際、この世でいちばん行きたくないのが黒石御影の家。痛切に思う。
 しかし今、僕はその玄関に立っている。


(続く)






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ライトホラーノベル「豆腐男」5





 どれほどの時がたっただろうか。
 カスミは、列なって傾いた商品棚のうち一番傾きが少ないものの上、かろうじて身をおけるスペースでへばりつくように、まるまった格好で横になっていた。
 まるで自分が水浸しで売り物にならない品物のひとつに成り果て、見切り品として陳列されたみたいだ。
 ずぶ濡れの身が冷えきって、ガタガタ震えが止まらない。
 それでいて、全身が麻痺したように動くのが億劫だった。

 気が付けば、建物の外では、あれほど狂おしかった豪雨と暴風もしだいに鎮まりつつある。
 出水は引く気配こそないものの、水かさがこれより増す恐れもないようだ。
 心なしか、空も白みかけている。
 豆腐男の姿は、どこにも見当たらない。
 あいつは溢水の最初の直撃に呑まれ、そのまま外に運んでいかれたらしい。
 ともあれ最大の脅威は駆逐されたのだ。
 カスミは、こんな目に遭った自分はいったい災難に見舞われたのか幸運に恵まれたのかどっちだろうと、なかば朦朧となった頭で考えた。
 なお救助が必要な状況なのは間違いない。
 スマホがあれば助けが呼べるし全国的な注視の的にもなれるのに、あいにく蛆虫豆腐の騒ぎで失くしてしまったし。あったとしても、こんな惨めな姿を自撮りして日本中に配信するなど思いもよらない。

 だいたい、今夜起きたことを説明しても信じてもらえるだろうか。
 自分ですら身に起きたとは認めがたいことなのに。

 それにしても、あいつ!
 カスミの脳裏には怒りの感情とともに、店長の顔が浮かんだ。
 命に関わるとは思えぬ母親の看病をカスミの身を気遣うことより優先、「大丈夫だよ、豆腐男なんか」とへらへら笑うように出て行き、果たして彼女を死ぬほどの危難に追いやった大馬鹿野郎!
 張り倒してやりたくてたまらなかった。
 前に跪かせ、頭をつかんでこの泥水に押し付け、涙声で詫びさせなければおさまらない。

 カスミはふいにクシャミの発作をもよおし、ブルッと震えた。
 まあ、いいけど。
 今はただ、暖かくて安全な場所、家に帰ってぐっすり眠りたい。

 そのとき。
 気のせいだろうか。何かが泳ぎ着くように、バリケードのようになった陳列棚の連なりにドスンとぶつかる鈍い衝撃を感じた。
 何なの?
 闇の中、目を凝らしてくまなく見たが、誰もいない。
 カスミが安堵の吐息をついたとき、どろどろに濁った水面からいきなり男の手が伸び、カスミの足を握りしめた。
「ぐえーーっ!」

 ついで男が水面から頭を出し、馴染んだ顔と声とがカスミの目と耳をとらえた。
「げはあ、げはあ……俺だよ、俺」
「店長!」
「おまえを放っておけなくて……増水で通行止めになった橋を無理に渡ろうとしたけど、車が流されちまってよ……必死で泳ぎきってな、もう命からがらだったぜ」




 台風は通り過ぎ、氾濫した川も穏やかさを取り戻した。
 水浸しとなった店内は、陳列棚も商品もメチャメチャな有様で、こんな狭かったかと驚くほどのスペースにずぶ濡れの廃品を雑然と放り込み積み上げたようで、多くの人が買い物や用足しで馴染んだ場所とは思えなかった。
 豆腐男が暴れまわった痕跡などすべて洗い流されている。
 男がどうなったかはわからず、身元もついに謎めいたままとなった。

 やがて。
 保険は下り、店は修復された。
 カスミも職場に復帰した。
 初夏には、店長と式を挙げる予定だ。

「やだ、また売れ残ってる……」
 カド印の『美味い絹豆腐』と『美味い木綿豆腐』。
 あいかわらず客に不評のまま、見切り品売場で不動の地位を占めていた。
 もう買っていってくれる客もおらず、売れ残れば廃棄されるだけなのだ。
「店長。このメーカーの品物、もうやめようよ」
「おまえもそう思うか?」
 豆腐男の事件からわかった大切なものがあるとすれば、愛の美しさや女性の自立などではなく、売れないとわかった品はもう売らないという思い切りだったかもしれない。


†             †             †



 しかし。
 豆腐男の件が落着ししばらくすると、今度は納豆女が……。

 それは奇怪な光景だった。
 三十がらみの女が早朝の決まった時刻に来店し、その日期限切れとなる納豆ばかりを買っていく――。




( 完 )






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ライトホラーノベル「豆腐男」4


 かくして。壁際に追い詰められたカスミには、まったく逃げ場がなくなった。
 絶体絶命だ。
「はあ、はあ、はあ……」
「これで、買った豆腐は全部、返品してやった」
 もはやカスミは泣きじゃくるようだった。へなへなとへたり込むしかない。
「あ、あの……お代金は全額、お返ししますから……どうか……どうか、お引取りを……」
「金? いらんよ」
 あれだけ動きまわったのに、豆腐男の呼吸はたいして荒れていなかった。態度はあくまで平静だ。
「代わりに、肉を持って帰るぞ」
 肉?
 カスミは恐怖に顔面を引きつらせながらも、きょとんとなるほかなかった。
「俺はカバンにいっぱい豆腐を持ってきた。今度は、カバンいっぱい肉をもらって帰る」
 そんなこと言われても……。この店では肉製品といえば、ウインナやジャーキーくらいしかおいていない。
「あの……うちでは、お肉は……」
「いいから、肉をよこせ」
 まったく感情を外にあらわさない顔で、豆腐男が迫る。
「ここにあるじゃないか。大きな、生きてる肉が」
 生きてる肉って……。
「おまえだよ。来るんだ!」
 ついに豆腐男は本性をあらわにし、カスミにつかみかかってきた。
「ぎゃーーーーっ!」
 カスミにできたのはジタバタ暴れ、相手が目的を遂げるのを遅らせることだけである。
「おまえを、この中に詰めて帰る!」
 力ずくで思うがままにされた状態のカスミはとうとう、スーツケースに! あのスーツケースの中に! 頭から突っ込まれた!
「ぐえっ! ぐえーーっ!」
 かくなるうえは、嘔吐とも悲鳴ともつかない、しぼり出すような絶叫として恐慌ぶりを表現するばかり。


 そのとき。
 異変がコンビニ24を襲った。
 豆腐男ですら予想できなかったこと。
 増水した川からあふれ出した水が濁流となって、洪水のように店めがけて押し寄せてきたのだ。
 建物を呑み尽くすほど大量の水が、ガラスの壁面をぶち破り、ドワーーーッとなだれ込んだ。
 一瞬のち、停電となり照明がすべて消えた。
 浸入した水の流れは反対側のガラス壁をも押し割るほどの威力を示し、店内を急流のようになって通り抜けていく。

 暴力的な水圧に、重くて頑丈な陳列棚がまるでドミノのようにはじかれ、押し流され、食品や雑貨類を大量に撒き散らしながら激しくぶつかり合った。
 豆腐男がこの期におよんで、どんな反応を示したかはわからない。
 声すら発した気配がなかった。
 カスミはといえば。ほぼ全身をあのケースに収納されるという恐怖の絶頂にあったのだから、何が起きたかどころではなかった。
 とはいえ。豆腐男の身をひとたまりもなく吹っ飛ばして押し流したに違いない溢水の打撃を、同じ場にいながらカスミのほうは被ることから免れていた。
 幸か不幸か、体を逆さまに詰め込まれた堅固な造りのスーツケースが防具となって、水流による強烈な破壊力を緩衝する役目を果たしたのだ。
 ケースはびくともせずに、カスミの体をくわえた格好でどんぶらこと浮かび上がった。
 しかしそのままでは、濁流に流され、反対側の出口から持っていかれてしまう。
 僥倖にもスーツケースは、水流で押しやられた陳列棚が寄り合ってバリケード状態になった上にポートが座礁するように乗り上げ、横倒しになった。
「グエ! グエッ!」
 足場の感触を得るや無我夢中で蛆虫地獄から這い出た彼女は、見るもおぞましいスーツケーツを蹴り飛ばすと、自分のおかれた状況をもはや驚きとも感じず――豆腐男に誘拐される以上の驚きがあろうか――水流の激しさに必死で抗いながら、半端な将棋倒しのように列をなして傾き、積み重なった商品棚の骨組みに華奢な両手と両足で懸命にしがみつく。
 髪も着衣も濡れそぼり、あのカスミがと思うほどの凄い形相で踏ん張り続けた。
 台風が荒れ狂う中、それも真暗闇の破壊された店内で、ただひとり。


( 続 )






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ライトホラーノベル「豆腐男」3


 これほどの狂おしさを呈しながら、男の顔からも声からも感情の動きはまったくうかがえない。いや、顔や声に感情を表わさないだけなのだ。
 その挙動には思うことが率直にあらわれていた。
 男はスーツケースから見るもおぞましい、かつて食品だったものをつかみ出すと、カスミの前に差し出した。
 パックの中の豆腐はいまや、かたちをとどめぬほど腐敗し湧きさわぐ無数の蛆の巣窟と化している。
「受け取れないのか?」
 彼女はまったく、固まってしまっていた。
 気絶をせずにいるのが不思議なほどだった。
「返事をしたらどうだ」
 豆腐男はあくまで、自分の要求がまったく正当であるのを疑わない態度だ。
「この店の豆腐だぞ。この店で引き取るのが筋だろ」

 かくなるうえはカスミといえども、生き残るための知恵が回りはじめる。
 そうだ。自分ひとりでなく店長もいるよう芝居して、店長を呼びに事務所に引っ込んだ振りをしよう。すぐに事務所のドアを施錠してしまうんだ。それから警察に電話すればいい。
「少々お待ちください。いま、責任者を呼んできますから」
 カスミはこわばった表情のうちにできるかぎりの愛想笑いをし、平常な対応をよそおった。
「店長。店長〜。いないのかな? あ、店長! いま、お客さまが……」
 彼女は架空の店長に呼びかけつつ、豆腐男と向き合ったカウンターの立ち居地から十歩ほど先の事務所の入口へと歩きはじめた。
 だが。
「おい、行くな」
 男はたちどころに彼女の意図を見透かしたらしく、妨害の挙に出てくる。
 ずっと店を監視していたに違いない。店長が出かけたのは承知の上なのだろう。

 しかも、豆腐男がカスミを行かせまいとするやり方はまことに効果的だった。
「ほら、返してやる」
 そう言って、カスミの前途に豆腐のパックを放り投げたのだ。
 それは事務所の入り口付近にぶつけられ、破砕した。
 中からはゲロにまみれたような特大の蛆虫がうごめきながら飛び散り、床をごぢょごぢょ這いずりまわる。
 カスミは悲鳴をあげ、飛びのいた。
 男はさらに、何個も続けてパックを投げつける。
 事務所に通じる床面は吐瀉物のような豆腐の破片、うにょうにょ身をくねらせる蛆虫で足の踏み場もなくなった。

 もう、いられない!
 事務所への行き場を閉ざされたカスミは脱兎のごとく瞬発し、今度は外へ逃げようとするが。
 豆腐男は行く手をふさぐように回り込み、カスミに逃げ道をゆずらなかった。
 そして、両手に持った豆腐を突きつけるのだ。
 カド印の『美味い絹豆腐』と『美味い木綿豆腐』。
「引き取れよ。返品だぞ」
 カスミははじかれたように後ずさりした。
 豆腐男はにじり寄ってくる。
「苦労して持ってきたんだぞ。拒むなよ」

 カスミは背を向けて、店内のほうへ逃げた。
「なんだ、その態度は?」
 男はすかさず背後から、豆腐を投げつける。
 飛んできた豆腐のパックがカスミの肩ごしに前方の床に落下して砕け、恐るべき中身が四散した。

「受け取らなくても、置いてくからな」
 男は投げた。
 また投げた。
 スーツケースの中から無尽蔵に腐った豆腐を取り出しては投げているかのようだ。
 あたりかまわず、無計画に投げまくるのではない。カスミのいるところを狙うようにしてだ。

「豆腐を返すぞ!」
 べちゃっ! べちゃっ! どろどろどろ……。
「きゃーーっ!」
 豆腐の容器が前途で破砕するたびに、カスミは飛び上がった。
 見るのも嫌だし、飛沫がかかるだけでも怖気をふるう。
 踏まないよう、逃げ道を変える。

「豆腐を返してやる。受け取れ」
「きゃーーっ! きゃーーっ!」

 豆腐男はスーツケースを引きずりながら、追ってくる。
「豆腐だ、豆腐。豆腐を……」
「やめてーーっ!」
「なぜ逃げるんだ。引き取れよ。店の仕事だろ」

 店も仕事もなかった。
 かくなるうえは、逃げる以外にない。
 豆腐男はさらにあとから追いすがる。

「ほら。豆腐だよ」
 平静な顔、きびきびした足取りでどこまでも追いかけてまわる男。
 なかば錯乱しつつ逃げ惑うカスミに、腐乱しきった豆腐を投げつけながら。

 豆腐を避ける。
 びしゃっ! びしゃっ! うじょうじょうじょ……。
 踏まないよう逃げる。

 男は店内のつくりをよく知っていた。
 「豆腐弾」でカスミの退路を阻み、出入り口はもちろん事務所にもトイレにも逃げ込ませはしなかった。
 男はこれほどの怪腕があったのかと驚かされる力みようで重量のあるスーツケースを引きながら陳列棚の間を縫うように追ってきて、恐慌のうちに通路でうろつき怯えるカスミに向かってなおも豆腐を投げつける。
 げろげろに腐敗し、肥えた蛆が湧きさわいでいる豆腐を。
 カスミは逃げも隠れもできぬまま、店の中をしだいに隅のほうへと追い込まれていく。

 だが、外に逃げたとしてどうだろう。
 コンビニの背後は山地で、勾配のきつい山道を追われながら走っても無人のお寺しかなかったし、正面の住宅地に通じる橋はおりからの台風で川が増水し水没状態、そこからは行き止まりだ。
 店長も帰ってこられない。
 警察を呼べたとしてもすぐには駆けつけられまい。
 ヘコムの警備システムもまるで役に立たない。
 今の彼女はまったく孤立無援の状態にあったのだ。


( 続く )






関連リンク

「豆腐男」
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「豆腐男」
(文芸新世紀)
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ライトホラーノベル「豆腐男」2





 カスミの見間違いだったのか? そんなはずはない。現に、あの男にしか吐くことのできない代物がここにある。
 店長はいやそうな顔でそれを処理しながらも、とくに切迫した脅威は感じていない様子だ。店長にはもっと危機意識を持ってもらいたかったのに。
 カスミは、豆腐男の異常性を訴えずにいられなかった。

「あの人、変よ。ぜったい、変。もう、妖怪かエーリアンだから」
「ただの客だよ。おとなしく買い物していくだけの」
「でも、それ……」
「おとなしくゲロしていっただけだろ。きっと胃の調子が悪かったんだ。こんなところでやっちまい、決まり悪くて逃げたのさ」
「お店の前なのよ。そんな盛大に吐いちゃって、だまって逃げたら困るじゃないの」
「今度、言っとくよ」
「もう、お店に入れないで」
「もう、よせよ」
 店長がこうも常識寄りな見方をするのは、きっと自分が狙われてる実感がないからなのだろう。いい気なものだとカスミは思う。

「なんだか怖いのよ。あの人、わたしを変な目で見るの」
「どんな風に見るんだ?」
「わたしに話しかけたいけど言いだせない、もっとそばにいたいけど理由が見つからない、いつも残念そうに店を出ていくの」
「男の客はみんな、おまえの前じゃそうだぜ」
「あの人だけ、変なところがあり過ぎる」
「おまえの気の回しすぎだよ。ちょっとばかり内気なだけさ」
「でも……あれは、わたしを自分のものにしたがってる目なのよ、自分だけのものに。ピンとくるの」
「あの客がか? そんな目でおまえを見るなんて想像もつかねえや。もっとも男ならみんな、おまえを自分のものにしたいとは思うだろうけどな」
 店長の言葉に、カスミはハッとした。
「店長も、そうなの?」
「ピンとこなかったか?」


 それから、しばらく。
 カスミの日常は、店長とのことを除けば、前と変わらず過ぎていった。
 豆腐男の異常な日課にも異状はみられず、いつも通りに来て、いつも通りの品を買っていくことの繰り返しだ。
 ただ、男がカスミを見る目が尋常なものでなくなってきたように感じられる。ますます。
 なんだろう。カスミの体のサイズを目測しているのではと思えて仕方がない。それもいやらしい目ではなく、さめた実務的な目で。







 台風がくる。
 かなり強力なやつで、この地域には川の氾濫や土砂崩れに備えるよう警報が出ていた。
 「ドラッグ24」も昼間は、食糧や防災品を買っていく人の出入りが多かったが、夕方を過ぎ、カスミの夜勤がはじまる頃には客足はパッタリ途絶えた。
 日が沈み、風雨がいっそう強まったとき、店長の携帯に着信が入る。
 緊急で重大な用件なのはやり取りの様子からわかった。
 店長はカスミに恐ろしいことを言い出した。

「俺は出かけてくるぞ。店番たのむ」
「待って。ひとりにしないで」
「オフクロが癲癇(てんかん)でな、泡吹いてぶっ倒れちまって、看病しなけりゃなんないんだ。朝には帰るからよ」
「いや。いやよ、行かないで」
「俺がいなくたって、ヘコムの警備システムがしっかり守ってくれるだろ?」
「でも、でも……やな予感がする。ひとりでいるとき、豆腐男がきたら……」
「大丈夫だよ、豆腐男なんか。毎日おなじ時間におなじ格好で来て、ただ豆腐を買っていくだけじゃねえか」
 それが不気味だというのに。

 店長は車で行ってしまった。
 カスミは嵐の中、ひとりきりで店番をすることになった。
 外では、暴風と豪雨とが容赦なく荒れ狂う。
 店の中は静かだった。
 お客はまったく、いない。
 時が過ぎていく。

 そして。
 ついに、男はやって来た。
 いつもの時刻。いつもの風体。いつもの態度。
 ただ、今夜だけは違うものがひとつ。とびきり大きくて頑丈そうなスーツケースを携行している。
 旅行に出かけるのだろうか? そんなはずはない。では、台風から避難を? そうかもしれない。すでに、山沿いの地域には警報が出された。
 非常用の食糧でも買いだめする気なのか。

 いつもと違うのがもうひとつ。店の中での振る舞いだ。
 日配品の売場には向かわず、いきなりカウンターに直行してくる。
 まっすぐ、こちらに。
 男は、キャスター付きのスーツケースを重そうに押して進みながら、レジの前まで来た。
 しばし無言、なんの感情の動きも読みとれない顔でカスミを見つめる。

「あ、あの……」
 カスミが辛抱できなくなりもの問うのを待ち受けていたかのように、男はおもむろに口を開いた。
「豆腐を返しにきた」
 いつもと口調が違う。「ですます」調を廃している。
「は?」
「返品すると言ってるんだ、豆腐を」
 男は、スーツケースのファスナーに手をかけた。
「これを見ろ」

 うぐっ!
 ケースを少し開けただけで、吐き気をもよおすような、ほとんど物理的打撃と変わらない強烈な臭気が鼻腔を突き刺した。
 中には視覚的にも強烈なものが詰め込まれている。
 カド印の『美味い絹豆腐』と『美味い木綿豆腐』。
 何十、もしかしたら何百というパックの数だ。すべて、げろげろに腐乱し変色するという変わり果てた姿。容器も多くが破損し、充満する有毒なほどの悪臭が湯気となって立ちのぼるようだった。
 じゅくじゅくじゅく……泡立つような、小さくかき回すような音がひっきりなしにするのは何だろう?
 あまりのものを見せられ、両手で鼻と口とを覆いながらカスミは目を疑った。

 男は、これまで買い込んだ豆腐をすべて腐らせ、スーツケースに詰めて店に持ってきたのである。
「数はそっちで確認しろ。何百個もある」
 彼女は言葉を発することができなかった。
 なんという!
 豆腐男の心の状態をはっきりとさらけ出す出来事が今、店の中で起こっていた。
 しかもカスミは、たったひとりで向き合わねばならない。


( 続く )








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ライトホラーノベル「豆腐男」について


深夜のコンビニ。同じ時刻に、売れ残りの豆腐ばかり買いに来る男の怪異。
ギャグ仕立てのホラーと言いますか。もしくは、ホラー仕立てのギャグと言いましょうか。

ずっと以前、木下ぺーすけという別名でリレー小説として書き出したものをまとめ、手を加えました。
筋立ては当時から結末まで考えていたのですが、小説のかたちで完結させられたのは実に15年ぶりのこと。
そうです。構想から完成まで15年がかりの大労作!(爆)
これを、たった30分で読めたあなたは超幸運!






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ライトホラーノベル「豆腐男」1





 それは奇怪な光景だった。
 四十の男が深夜の決まった時刻に来店し、その日売れ残った豆腐ばかりを買っていく。ちなみに、四十というのは年恰好のことだ。男の人数ではない。

 どんな男なのか?
 容貌魁偉たるわけではなく、怪しげな風体もしていない。
 丁寧に刈り揃えられた頭。清潔できっちりした会社員風の身なり。
 だが、どこかぎくしゃくした歩き方。レジで応対されるときの物言いもしゃちこばった「ですます調」で通し、打ち解ける隙のないものだった。

 終日営業のコンビニ「ドラッグ24」に勤める朝霞カスミ(あさか・かすみ)はある日、まだ二十代の若さの店長を前に、当然の疑問を口にしてみた。
「あの人、毎日あんなに豆腐ばっかり買い込んでどうすんのかしら?」
「決まってんだろ。食べるのさ」
「食べるって……やだ、こわ〜い」
「おまえだって豆腐は食べるだろ」
「食べるけど、前の日の売れ残りじゃ、いや」
 しかも、この店の。とまでは言葉に出して言えない。

 カスミも以前、男が買うのとおなじ銘柄の豆腐を、残業のご褒美に店長から分けてもらったことがある。
 カド印の『美味い絹豆腐』と『美味い木綿豆腐』。
 いかにも見栄えがよく、味もよさそうだ。
 すっかり騙されたカスミだが、口一杯に頬張った途端、味覚機能が急停止、噴き出しそうになった。
 まずかったのだ……たとえようもないくらい。
 一丁十円でも金輪際求めようという気になれるものではない。
 それがあの男は、まるでそれだけが目当てのようにやって来ては、見切り品コーナーに並べられた数だけ、多い時で五丁から七丁もの賞味期限ぎりぎりになった『美味い豆腐』を買い込んでいく。

 そういえばこの男、豆腐にかぎらず、売れ残りの商品しか買わない。
 賞味期限が過ぎ、半額になったパンや弁当、めん類、菓子や果物、乳製品に卵……間違っても、普通の値札が付いた品物を選びなどしないのである。
 男の買い物はこんな具合で、いつもカゴいっぱいの品物をカウンターに持ってくるくせに、払われる代価は驚くほど低額なのだ。
 カスミにはこんな仕方の買い物は無理だった。ある意味、男には一目置かねばならない。

 店内での男の態度には緊張感があった。切迫感と言い換えてもいい。
 パチプロが店中の台の釘をチェックする性急さで、安値札の付いた品はないかと目を光らせながら陳列棚の間を歩きまわり、店内一周してしまうのである。
 普通の客なら、コンビニごときに並べられた商品をこうまで真剣な眼差しで追ったりはしない。
 なんというか、買い物を楽しむという余裕がまるで見られないのだ。

「万引きやってんじゃねえのか?」
 ついに不審に思った店長が、防犯ビデオで男の店内での行跡をチェックしてみても、法的に逸脱した振る舞いを確かめることはできなかった。
 してみるとあの男は、店にそれなりの利益をもたらす客、それも常連の客ということになるだろう。
 ただ、毎夜日課のように同じ時刻に訪れては、豆腐をはじめ見切り価格の品物ばかりを漁っていくところが常人と隔たっているのだった。







 カスミは、繊細な眉根の皺ひとつまで計算された愛らしいつくり笑いと、本音を出したときの子供っぽい、庇護欲をそそる無邪気さとで男どもに受けのよい娘だった。
 二十歳に達していたが、体つきも声もしゃべり方も、なお十代の少女のように見えた。
 甘えが抜けきらず、なにもかもを、立場が上の者の指示にまかせなければ安らげないところがある。
 当然、恋を語る相手も、自分より人生の場数をこなした先達として導いてくれる存在でなければならなかった。

 応募のとき、こんなカスミと対照的に、受けた教育も立派なら職歴も豊か、受け答えがはきはきしており、しかも体力にも勝る、要するにしっかりした感じのする娘も面接に来ていた。
 普通の人選の尺度なら放ってはおかれないはずだが、そちらのほうは採用にはならなかった。
 小さいながら我が城の主でありたい店長氏にとって、かような従業員では優秀すぎて頭が上がらぬことになり、具合が悪かったのである。

 こういう男には根本的な経営感覚が欠落している。
 だから、店の売り上げはあまりよろしくなかった。周辺に一軒だけのコンビニエンスということで客足は確保されるものの、将来性は閉ざされていた。
 店の切り盛りは店長のほか、アルバイトのカスミ一人きりで間に合わせられたのだ。

 ところでカスミは、近頃めずらしい、うれしいときには慎ましやかだが、怖い場面では思いきり大げさに叫び立てる娘だ。
 そんな彼女がある朝、店の前のゴミ箱を掃除しようと外に出たところ、おぞましいものを発見してしまったのである。
「きゃーーっ!」
 カスミは、すくみ上がるという反応を示したばかりか、甲高い悲鳴までを上げ、驚きの感情を店内に伝えた。ひとりではこの衝撃に耐えられなかったのだ。
 店長がすっ飛んできた。
「なんだ、なんだ?」
「入口、入口のところ……」

 おお! 店からすぐ出たところに、なんと嘔吐物が、それも人間の嘔吐物がぶちまけられている。目を覆いたくなるほど大量にだ。
「あれあれ、きたねえなあ。どっかの酔っ払いがやりやがったんだな」
「ちがう。オヤジ……あのオヤジよ。毎日、豆腐ばっかり買っていく」
「あのオヤジのゲロだって、どうしてわかる?」
 一目でわかる。
 おぞましき吐瀉物はすべて、人の口を通過し、いったん胃袋に滞留したとおぼしき豆腐のカケラばかりによって成り立っているからだ。

 だけど、あの男はなぜ? なぜわざわざ、店の前まできて嘔吐していったのだろう?
 疑問がカスミの頭をよぎったとき、今度は、ゲロよりもっと恐ろしいもの、ゲロをぶちまけた男そのものが視界の中にあることを認めねばならなくなった。
 向こうの薄暗がりに潜み、こちらをうかがう気配がする。
 ふたたび盛大に悲鳴をとどろかせた。
「きゃーーっ!」
 彼女はわれ知らず、店長にしがみついた。
「どうした?」
「あそこに……豆腐男が」
「いないじゃないか」
 店長の胸に伏せていた顔をカスミが恐るおそる上げ、目を凝らしてみると……。
 たしかに豆腐男は消えていた。


( 続く )








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ライトノベル「アレが見えるの」四の4


 自分の家に戻ってくるのは簡単だった。
 帰るのを決意した頃から電車もバスも支障なく運行するようになり、僕を所要時間の見積もり通りに出発点へと送り返した。
 事故も起こらず、巻き添えになる人もいない。
 そういう予感はあったが、その通りになった。
 どこかに行くとか誰かに会うとか、外部と接触しようとすると邪魔されるってことだ。

「あら、護。どうしたの?」
 母には、起こったことをそのまま説明した。長くなるのでずいぶん端折ったけど。
「学校行けなかった。うんこ踏んじゃってさ。それから線路に落っこちて、電車が急停止、不良にからまれ、走るバスから落ちそうになり、鞭打ちされてゲロ吐いて、あげくの果てトラックが横転して豚の群れの暴走でタクシーが立ち往生。火事で道が封鎖されちゃった。日本中から名指しで馬鹿にされ、食中毒で入院までするし。あきらめて帰ってきた」
「大変だったねえ」
 母は何を言われたのかわからぬままに、とにかく自分の息子は嘘をつくような子じゃないとの揺るがぬ確信に裏打ちされた言葉を返した。
「大丈夫?」
「ああ。疲れたよ」
「お昼は?」
「母さん。今日はもう、僕をそっとしといて」
 僕は二階の部屋にこもると、終日そこから出なかった。

 僕に人間らしい心が残っていたとすれば、病院のベッドで憔悴してるはずのおねえさんを気遣うのを忘れなかったことだけだ。しかしいくら連絡を試みても、それは徒労だった。学校に行こうとするのと同じで、どうしても通じなかった。

 ベッドに仰向けになり、天井を眺めながら考えた。

 いよいよ事態は抜き差しならないところまで来たようだ。
 なぜ、こんなに妨害する? ぼくを周囲から孤立させる?
 僕にとり憑いた何か、あの早乙女呪怨いうところの「古代の悪霊」は、僕を現代社会からはじき出そうとしてるんじゃあるまいか。
 古代の悪霊……。
 それすらも早乙女呪怨が言ったというだけで、実際のところは皆目わからない。

 ほんとうに、これは何だろう?
 御影は例によってはっきり口にしたわけじゃない。
 御影の友だち園田喜代美からの又聞きだと、僕の背後に何かとんでもないものを見てしまい、かつてないほど怖がっているんだと。それも本物の怖がりようで、それが何かを友だちにも語らないのだという(くそっ、これじゃ何にもわからない)。
 どうしよう……。
 どうしたらいい?
 何時間もひとりで思いあぐねた末に行き着いた結論は、宗教的なものでもオカルト的なものでもなかった。
 結局、敵が何者かわからないかぎり手の打ちようがない。まずは、「汝の敵を知れ」というクラウゼヴィッツ以来の戦術原則を実践することだ。

 いったい、僕にとり憑いたものは何か?
 そいつが見えるのは黒石御影だけ。
 ってことはだ……。


(続く)






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ライトノベル「アレが見えるの」四の3


 そんなわけで僕はまだ、学校に着いてない。
 着けそうな気がしない。
 高校生が学校に行くのは当たり前だけど、当たり前のことがこんな不可能事に思えるなんて。
 それも自分だけで終わる災難じゃない。なんだか僕が稲葉高校に近づこうとするたびに、周囲を巻き込み、世の中に災いが振りまかれるような気がしてくる。
 疲れた……。
 どこかの通りにあるマックの二階。隅っこの席で百円コーヒーを前に、スマホをいじりながら途方に暮れるばかりだ。

 何なんだ、自分の状況は?
 僕はインターネットに救いを求めるように、Twitterのアカウントを開いた。
 そして……最初のページを開いたときの僕の驚愕といったら。

 自分の名前でハッシュタグが出来てる!
「#守屋護は学校にくるな」

 それも、トレンドの上位を占めてた。
 そのタグで検索したら、これは酷い。

 真っ先に目に飛び込んできたのは、デロ河童こと仲村よし子(つまり伊東)のプロフィール・アイコンだ。
 誰のこととは明言しない口ぶりで、しかし「#守屋護は学校にくるな」のハッシュタグをしっかり付けた連発ツイートにより、あきらかに僕のことを責め立て、貶しまくっている。
 しかもTwitterでは一番人気、どのつぶやきも何千ものリツィートがされてる。
 どうやらおおかたのユーザーは、稲葉高校でのオカルト現象の真実性について疑いもせずに受け容れてしまっているらしい。
 付けられたコメントのほとんどがデロ河童に賛同し、「その人」の身勝手さを非難する内容だった。







 僕はあまりのことに、怒る気力すら失せてしまった。
 この場でスマホで応戦しようかとも思ったが、やめた。
 多勢に無勢の結果となるに決まってる。ネットで叩かれてるときは味方が現れないものなんだ。
 うかうかすれば、全国に敵を作ることになりかねない。生け贄に飢えた奴らが日本中にいる。鬱憤のはけ口を求め、在日コリアンなど出自にいわくのある人、生活保護者や障害者など自分が迫害者として向き合える弱い立場の者はいないかと狂的な執念で日夜ネットを徘徊してるんだ。
 今日まで、自分がそんな連中の餌食になるなんて思いもしなかった。

 昨日、先生らが相次いで受難したときには、自身は無事なままで他人の被災をネタにして悦ぶ外野席の一名でしかなかった。
 ここに及んで、怨霊はこの僕を目の敵とするように、唯一の標的として狙い定めてきたようだ。
 移動の途を封じられ、ネットでも居場所がない。
 ようするに、味方を作るのが困難な状況だった。

 味方。味方……。味方!
 三田のおねえさんの顔が浮かんだのと僕の指がスマホのダイヤルナンバーを押し始めたのは同時だ。
 今朝のことをおねえさんに話したい。信じてくれないかもしれないが、それでもいい。何か力付ける助言をもらいたい。お叱りでもかまわない。いや、声が聞けるだけで。
 しかし。
 通じない。

 なんとしてもおねえさんとコンタクトだ。
 思いめぐらし、おねえさんのアパートの管理人のほうに連絡。迷惑がられても、仕方がない。
 よかった。通じた。

「和美ちゃん? 昨夜から入院してますよ」
 返事を受け、愕然となった。
「……どういうことです?」
 昨日の夕方は元気溌剌だったのに。
「夜更けに、お腹の調子がものすごく悪いって、救急車で搬送されたの。新世紀大学病院。なんだか昨日、変なもの食べて当たったみたい」
 どうやらクラブハウス・サンドが祟ったらしい。だって、カプチーノとポテトしか飲み食いしなかった自分は何ともないから(あとでわかったが、やはりそうだった。三面記事では食中毒事件として報じられ、おなじ店にいたお客が他にも何人か同様の症状を呈してるという。具材に使われたターキーに問題があったようだ)。

 登校をあきらめ、新世紀病院に向かうことにした。
 管理人との問答では病室までわからなかったが、とにかく行けば何とかなる。
 あの病院には送迎バスがあり、決まった区間を運行してる。最寄りの停留所を調べ、歩いた。
 これは時間通りに来てくれ、並んでいた何人かの人たちと乗り込んだ。小さい子を連れた母親、松葉杖の女子学生、お年寄りの夫婦、大きなお腹を抱えた妊婦……みんな、病院の受診者なんだろう。僕のような健常者のほうが特異だ。

 ここでまた、厄難が起きた。
 乗り込もうとする老齢夫婦の片割れ、お爺さんのほうが足を踏み外して倒れ、顔面を踏み台にぶつけて血だらけになったのだ。みんなで助け起こしたけど、まあ軽症だし行き先は病院だからそのまま乗っていくことになった。

 僕は、ハタと思い当たった。
 待てよ。
 電車、バス、タクシー……今朝から、僕の乗った乗り物はかならず事故で足止めを食う。もしかしたら今乗り込んだバスもこれから、もっと酷い災難にあい、同乗する人たちまで巻き込んで、今度は救急車で新世紀病院に運ばれることになるかも。しかもその救急車もまた……。
 ! ! !
 バスが発車する間際、運転手に呼びかけ、あわてて降り立つ。

 路上に一人たたずむ僕にもはや、選択の余地は残らなかった。
 今日はもう、何もせず、どこにも行かないほうがいい。おねえさんのことは心配だが、僕が見舞いに行ったらさらなる不幸を持ち込む恐れさえある。
 退却だ。


(続く)






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ライトノベル「アレが見えるの」四の2


 運よく、空車が一台つかまった。
 運転手を見ると、あれれ。最前、走りながら僕に呼びかけたのと同じ人じゃないか。向こうも驚きながら、悦んでる。
 僕は運転手に特別にはやく飛ばしてくれるよう依願した。
「学校に遅れちゃうんです。なんとかなりませんか?」
「あははは。ようし、ぶっ飛ばすからな」

 運転手さんはどうやら、自分の楽しみになる場合だけ他人に奉仕するタイプのようだった。裏道を知りぬいてるらしく、とにかく路地から路地へと細道を巧みに縫うように走り抜けてくれる。しかもかなりの速度で、ほんとうにぶっ飛ばしながら。

 しかし長続きしなかった。
 車がちょうど小道から大きめの交差点に出たとき、思わぬものが待ち受けていた。
 豚だ。豚。豚の大群。
 豚を運んでいたトラックがいかなる事情からかカーブを曲がりそこねて横転。荷台の豚どもが一挙に遁走し、あふれた豚の群れで、車道も歩道も大混乱に陥った状況だった。

 警官が出動し、交通整理に大わらわだ。
 僕の乗ったタクシーも足止めを食った。
「学校に遅れちゃうんです。なんとかなりませんか?」
「あははは。どうにもならねえ」

 くそっ、歩くぞ。
 車から降りた僕は、なぜかまとわりついてくる豚どもをかき分け、交差点を横切った。ボールを抱いたフットポール選手が全速力で敵陣を突っ切る気分だった。
 スマホの地図だと、この地点から稲葉高校まで歩けば35分。35分!  なに、早足でいけばもっと縮められる。いや、それより走ろう。始業時間にもう遅れてるけど、仕方ない。行くことが肝心なんだから。
 僕は走った。
 制服を着ているのも忘れ、ひたすら走った。自己記録を更新するほどの速さだ。
 そうして全力ダッシュで住宅地の角を曲がった瞬間、慄然とした。
 もうこれほど驚くことがあるかというほどの驚きだった。

 燃えていた!
 通りが。真赤な炎と黒煙に包まれて。
 いつも何気なく通り抜ける商店街は修羅場と化し、消防車、救急車、パトカー、テレビ局の中継車まで総出動という感じで路上をふさぎ、それぞれ忙しく仕事をこなす人たちでごった返している。
 むろん交通止めで、一般は入れない。
 これじゃ、学校まで通り抜けられない。
 いや、直通の道がふさがっただけで、路地裏の小道をたどれば抜けられる。
 少々やばそうだけど、燃えてる通りをぐるりと遠回りするように行けば大丈夫だ。

 あまかった。
 この火事は並みの火事とちがう。まるで炎自体が意思を持ち、ぼくを何としても通すまいとするようだった。
 僕が右方向へ迂回して学校へ行こうとすると、火勢はにわかに、そっちへ迫ってきて煙で巻こうとする。こりゃいかん、それではと今度は左方向から回り込もうとすると、今度はそっちのほう、僕の行く手をふさぐように火勢が拡がってくるのだ。
 なんだ、こりゃ!?

 僕は火加減を見ながら、まさしく右往左往を繰り返した。台所じゃない、大火に包まれた商業地区をだ。
 そしてついに、何度目かにすれ違った消防署員から注意を受けた。
「兄ちゃん、あちこち動き回らないでくれる? あんたウロチョロしてると、いつまでも火が消えねえようだから」
 なんて言い草だ。あきらかに、この火災と僕との関連性を敏感に察知した口ぶり。まさか、放火犯だと疑ってるわけじゃないだろうな。まさか。
「僕は、学校に行きたいだけですよ」
「やめたがいいね。火があんたの後からついてって、学校まで燃えちまっていいんかい?」
「なんですか、そんなのあるわけないじゃないですか」
「いや。なんか、そんな気がする」
 僕もなんだか、そんな気になってきた。
 なるほど、火事が僕を追いかけるとは思いもしなかった。この消防官、鋭いぞ(それより早く消火しろ)。
 ああ……。もう、精も根も尽きた。


(続く)






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ライトノベル「アレが見えるの」四の1


 翌日十時頃。
 僕は都内の某所で一人、どうにもならないという諦観にとり憑かれ、進みも退きもできない思いを味わっていた。

 家を出て三時間たつけど、まだ学校にたどり着けない。
 電車でもバスでもタクシーでも、そして歩いても。
 かならず妨害に遭うのだ。

 何かの力が働いて、僕を学校に行かせまいとするようだった。
 昨日おねえさんは、オカルトなんか信じるなと言ったけど。これでは自分を標的にした悪意の存在を認めたくなるってもんだ。

 あ。
 順を追って話そう。
 家を出たのが七時過ぎ。この出発時刻なら、いつも余裕で間に合う。始業前のひと時をクラスのみんなとダベっていられる。

 しかし。
 まず、出がけでしくじった。
 黒猫が前を横切っていった。あれま、不吉な。いや、それはいい。まったく関係ない。しかし、猫に気を取られたその直後。
 ブチャッ!
 ………………。
 靴が。僕の靴が。毎日手入れを欠かしたことのない自慢の靴が。
 何者かの排泄物の上にある。踏み潰してしまったのだ。わりと大きいぞ。
 これ……もしかして……人間の?
 うぎゃーーっ!
 漫画だったら太字の台詞で悲鳴をあげる場面だろうけど、声に出して叫ぶのはかろうじて堪えた。そしてこういう災難に遭った者に特有の、片足を地面に何度も擦りつけ拭いとる動作をおこなったのち、見られなかったか気にしながら駅へと走った。
 朝からなんたることか。

 列車に乗った。
 いつもの時刻に発着する便に。なんということはない、普段通りの人々で普段通りに混雑した通勤快速の車内だ。
 澄みきった空のもと、燦々たる朝の光を浴び、晴れやかな佇まいの沿線の風物。窓外を通り過ぎる住宅地や林、川や野原の美しいこと、墓地でさえ新鮮な景色として目に映じる。
 なるほど、おねえさんの言ったとおりだ。この輝きの下で、どこにオカルトが存在できるだろう。

 そのとき。
 少なからぬ乗客を将棋倒しになぎ倒し、列車が急停止をおこなった。
 車内がどよめき、悲鳴や悪態が交錯する。
 ついで乗客の頭上から車掌のアナウンス。
「次に停車予定の羊ヶ丘駅ホームで車輌の隙間から線路内に転落した人を救助するため現在、運行を停止しています。復旧まで今しばらく――」
 そこかしこで、チッと舌打ちする音。くそっ、とうめく声。そしてみんな、スマホやケータイを取り出した。勤め先や学校に、見知らぬ誰かの不手際のせいで到着が遅れるという連絡を。あるいは我が身に見舞った不運を、TwitterやLINEで実況するために。
 いかなる事情でか線路になど落ちたりする間抜けの身を案じる人は誰もいない。「馬鹿野郎、そんな奴は轢き殺していっちまえ」が気の立った男どもの本音だろう。

 列車は乗客をすし詰め状態にしたまま長いこと、線路の上で停止。
 これがどれだけ苦痛なことか。
 何十分待たされたかわからない。列車はようやく動き出し、運行停止で大混雑状態の羊ヶ丘駅のホームに、へとへとになった乗客の群れを吐き出した。
 僕もどこかで一服したかったけど、それどころじゃない。

 ここからの便は当面は運休になるようで、振替輸送でのバスを利用して登校するしかない。
 そのバスが出る駅前のターミナルまで走った。
 いや、すんなり乗り込めるもんじゃない。すでに長蛇の列が出来上がり、停留所の境界を越え、階段から陸橋の上まで延々と続いている。しかも僕の後からも人がどんどん並んできて、列は長くなるばかりだ。

 バス一台には五十人しか乗せられない。これに乗せるだけ乗せて七、八十人。それだけ詰め込んだら発車させ、次の便が来るとさらにまた、ぎゅうぎゅう詰めにして……。こうして何便待たされただろうか、いよいよ僕の前に並ぶのが数十人ほどになり、次の便には乗り込めそうな見通しだった。
 さあ、バスが来た。

 前に並ぶ人たちがどんどん乗車していく流れに乗るように、僕は歩く。
 だが。乗車口で乗り込む人数を数えていた車掌は、いよいよ僕が乗ろうとする直前、片手を伸ばし、行く手を遮る仕草をしてみせたのだ。
「はいっ、ここまで」
 え?
「ちょうど定員です。すぐに次のバスが来ますから」
 おい……ちょっと……。
 なんなんだ。いままでのバスは詰めるだけ詰め込んだのにこのバスにかぎって、これで定員?
 あとでわかったが、前のバスがぎゅうぎゅう詰めのあまり気持ち悪くなって吐いた人がいて車内が一大パニックを呈したので、今回の便から大人数は乗せないことにしたらしい。

 しかし僕はそれを知らず、車掌のやり方は嫌がらせみたいだと憤慨した。
 次の便なんて待ってられるか。
 これに乗れれば、ちょうどうまい具合に授業に間に合う。次の便だとちょっと遅れる、つまり遅刻の記録を残すことになる。入学以来無遅刻無欠席でいる模範的学生のこの僕が。

 頭にきていた僕は、普通ならやらない真似をした。
 進発するバスを追いかけ、大きな車体の背面にがしっと組み付いたのだ。プレート上の出っ張りで足を支え、取っ手みたいな金具に腕が抜けても離さないという思いでしがみつく。カバンはランドセルのように背負った格好だ。
「あっ、あっ! 見て、見て! 凄い、馬鹿みたい!」
 おとなしく順番待ちする人々の間から、口々に感嘆の声が上がった。
 なんとでも言え。




参考画像
こんな感じで、走行するバスにしがみつく主人公。
写真はあくまでイメージであり、作中の人物や舞台とはまるで関係ありません。




 僕のしがみついた場所は車内から死角になってるので当然だが、乗ってる人には誰にも気付かれなかった。
 バスはそのまま走り続けた。
 しばらくすると、背後から呼びかける声がする。
 バスの後ろを走るタクシーの運転手が、おもしろがって車中から身を乗り出してる。
「よう、兄ちゃん。無賃乗車かい? 朝から粋だねえ。あははは」
 乗車してないぞ。見ればわかるだろ。
 でも無愛想にするのもなんだから、この状態で当たり障りなく返事をしてみた。
「学校に遅れちゃうんです。こうでもしないと」
「あははは。そうまでして学校行きたいの? まいったな、あははは」
 やがてタクシーは給油のためだろう、ガソリンスタンドのほうに曲がっていった。

 そのあと、別口がからんできた。今度は、オートバイに二人乗りした僕と同じ年代の奴らで、ちょっとタチが悪い感じだった。バスと併走しながら、僕の様子を面白がってる。
 どこの学校だろう。ツッパリなのかはわからない。オートバイに乗ってると、不良だか普通だか見分けがつかなかったりする。
「変なのがぶら下がってるぞ」
 走るバスにしがみついた僕を眺め、二人してケタケタと笑う。なんだか、ラリってる感じだ。

「ひゃー。こいつ、イナバの制服だぜ!」
 後ろに乗ってるほうが、すごい発見をしたように叫ぶ。
「お〜い、イナバ。普段はエリートぶってんのに、こんなとこで無賃乗車かよ〜。やっぱりイナバ、ただ乗りやっても大丈夫! ずるいんだ〜♪」
 エリートぶった覚えなんかないぞ。まわりがそう言ってるだけじゃないか。
 こいつら、勝手にからんできて、勝手にひがんでる感じだ。そして、勝手に敵意を抱いてる。
 悪い胸騒ぎがしたこともあり、僕は返事をしなかった。無言でやり過ごそうとした。
 しかし、放っといてくれない様子だ。今の僕は逃げられず、まったく抵抗できない状態にある。二人はそれを知っていた。

 運転するほうがうわずった声で笑った。
「先輩。こいつ、お仕置きが必要です。お仕置き♪」
「おう、そうしよう。天に代わって成敗じゃ」
 後ろに乗ってる奴が、何を思ったか、腰からベルトを抜き取った。そしてベルトを鞭のようにふるい、僕の身を打ちはじめたのだ。走行するバスにしがみつくこの僕の身を。
 むろん本気じゃない、面白がってだ。

「正義の鞭を受けてみよ! ピシーーッ♪ ピシーーッ♪」
 うわっ! おい、やめれ。洒落じゃすまない。すぐ、やめろ。
 命にかかわるぞ、この僕の。

「貴様、大丈夫か? これでも大丈夫か! ピシーーッ♪ ピシーーッ♪」
 ふざけて打っても本気で痛かった。笑ってるのに手加減しなかった。
 痛てっ! あっ、あっ。うわっ!
 痛みと打撃で幾度かバランスを崩し、車体からずり落ちそうになる。
 こいつら。本気でふざけて、僕を殺す気なのか?
「ひっひっひ! ピシーーッ♪ ピシーーッ♪」
 なんの悪気もなく殺人すれすれの行為に興じるその笑顔に、心底から恐怖を抱いた。

 このとき、天の助けがあった。
 バスの最後部の席に面した窓がいきなり開くと、乗っていた人が顔を出したのだ。老婦人というかお婆さんというか、そういう年齢の人だ。その人は、窓外の光景を見て、思いきり顔をしかめた。そして――。
 ごんげーーーっ!

 窓の外に嘔吐したのだ。
 オートバイの二人組が走る側に向かって。
 いや、狙って吐きかけるつもりじゃなく、気持ち悪くて外の新鮮な空気を吸おうと顔を出したとたん我慢できなくなったようで、バイクを運転するほうの奴が顔からまともに浴びてしまった。
 突然の致命的災厄にハンドル操作を誤ったのだろう、ツッパリ二人を乗せたオートバイは、みごとに横転した。
 ただしこれらの場面は、僕自身は位置的に死角だったので目にできなかった。あとで目撃した人から教えてもらったんだ。
 奴らがそのあとどうなったか確かめようがない。こっちは大げさでなく満身創痍の身で、振り落とされないようしがみつくのに必死だった。

 バスが信号待ちで止まったとき、僕はなんの迷いもなくバスの背面と訣別し、地面に降り立った。
 これ以上はいけない。もう、こりごりだ。
 バイク二人組のせいで一生引きずるほどの身体的ダメージを受けた気がする。
 くれぐれも、良い子は僕のしたことを真似ちゃいけない。

 さて。
 この鞭打たれた我が身をさらに鞭打って、なんとしても学校までたどり着かねばなるまい。
 最後の手段はタクシーだった。
 金はかかるがこの際、やむを得ない。僕はもう、なんとしても学校に行かなければと意地になっていた。怨霊のことでみんなに言われたのを苦にして来なかったとだけは思われたくない。


(続く)






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