HKT48の新曲『アインシュタインよりディアナ・アグロン』が、ネットで炎上している。
秋元康による歌詞がとにかく、反発をさそう内容なのだという。




非難の声をまとめれば、「女の子に頭からっぽでいろと言ってる」に集約されるだろう。
実際、くだらない歌だ。
およそ自己鍛練というものから逃げまくる、成長志向をもつ女性と反対の要素を並べたらこんな歌が出来上がりましたといった代物である。

秋元康も時代とともに歩んできたはずだが、フェミニズムがしだいに根をおろしつつある2016年の現状を読み取れないのだろうか。

「いや、秋元は80年代の『セーラー服を脱がさないで』からあんな感じだ。AKB48なんて結局、おにゃんこ倶楽部の次世代型だし」という卓見もあった。
つまり秋元康の女性観というか少女に対する見方は昔からまるで変わってないというわけだ。
そうかもしれない。
考えれば、大多数の男が十代娘に求めるものもさほど新しくなりはしなかった。

だが『セーラー服を脱がさないで』とは決定的に異なる点がある。
時代の流れだ。『セーラー服―』は80年代の風潮を直裁に反映したもので、男も女も能天気に歌い騒いでいればよかった。
しかし、この歌『アインシュタインよりディアナ・アグロン』が出てきた現代。

欧米での女権勢力が日本人には追いつけないほど躍進をみせたのと引き替え、日本はアジアの片隅に位置する国にふさわしく女性の人権事情において大きく取り残されている。旧来のジェンダー意識にしがみついたままでは先進国の集団から置き去りにされかねないのが実情だ。
日本人がなお憧れをいだく西洋世界から仲間扱いされたいなら、欧米流の女性観に不服ながら合わせなければとのジレンマを抱える。
やがては「かわいい系」、つまり男に媚を売って立場を得ようとする女子群像も、南部連邦の農場奴隷のように過去のものとなるだろう。

つまり日本の男たちは、これまで存分に享受できた愉楽がタブー視され、取り上げられるという危念にさらされている。

だからこそ時代と逆行するものが受ける余地がある、今の時流にまさにそむいた内容にすれば、一部からは待ってましたと歓呼され、また一部からは「なんじゃ、こりゃ」と激しい嫌悪を引き起こし、新旧どちらの側でも話題をさらうに違いない。
秋元をそれをわきまえ、こうしたものをぶつけてきたのだろう。わざわざ進歩派の反発を誘い、炎上を招くようなものを。非難が大きければ大きいほど曲の完成度の証明となる。
『アインシュタインに―』に『セーラー服―』と違うところがあるとすれば、そこなのだ。







それにしても、この歌の詞は姑息と言うしかない。
アインシュタインをゆるふわ系女子には及びもしなければ挑む気にもなれない知的なエヴェレストのように位置付けし、その対極にディアナ・アグロンを持ってくる。
こうしたトリックにより女性で成し遂げた存在、キュリー夫人やナイチンゲール、メルケル首相や小野洋子、そしてまだ十代のマララ・ユスフザイ、こうした人々を(おそらく意図的に)見えなくしているのだ。

騙されてはいけない。アインシュタインの対極はディアナ・アグロンではない。すでにTVドラマ『glee/グリー』のファンはさんざん指摘していることだが、ディアナ・アグロンが演じたクイン・ファブレイはこの歌で少女が憧れるのとは真逆の役柄だ。
むしろディアナ演じるクイン・ファブレイの対極こそ、歌詞に体現された少女像にほかならない。
「秋元康って、『glee/グリー』を見たことあるの?」との懐疑は妥当である。

まあ当の秋元から、「まさにそんな少女像、アインシュタインはおろかドラマ『glee/グリー』の真骨頂さえ理解できない、あくまで外面でしか物事が見られない未成熟な少女の心象を歌にしたものだ」と抗弁されたら、言葉もないが。







関連リンク

”差別的”HKT48新曲「アインシュタインよりディアナ・アグロン」でネット炎上 何が問題?
(NAVER まとめ)
http://matome.naver.jp/odai/2146033391996228201


ディアナ・アグロン
(Wikipedia)
https://ja.wikipedia.org/wiki/ディアナ・アグロン


秋元康の歌詞を「女性蔑視」と批判したら、AKB運営から「名誉毀損及び侮辱罪」「記事を削除せよ」の恫喝メールが
(本と雑誌のニュースサイト/リテラ)
http://lite-ra.com/2016/04/post-2181.html





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