ゴホン! と咳払いし、警備員が扉を開けた。
 予定の15秒が過ぎ、しばし躊躇してからの開門である。

 二人は衆目の注視を浴びながら、多機能トイレから出た。
 マヤは屈託ない純情な少女として振る舞い、谷も節度をわきまえた保護者としての態度を取りつくろう。
 密室の中、一瞬であれ不徳な行為がおこなわれた形跡はうかがえない。

 審査員仲間が好奇と嫉妬の入り混じる熱気をもって訊いてくる。
「いったい、なにを出して見せたんです、彼女?」
 谷は熱に浮かされた顔で独り言のようにつぶやいた。
「尻尾さ」
 喝采でも浴びせるように盛り上がる一同。
「あっはっは!! こりゃあ、いい!!」

 ステージに戻っても、108番の候補者への審査はさらに続けられた。
 みんな、彼女に魅せられてしまったのだ。
 谷はマヤに、一曲歌わせてみることにした。
「好きな曲を、赤ペラでいいから聞かせてほしい」
 候補を十人ほどにしぼった三次選考ならともかく、二次選考の時点で歌唱力をためすのは異例だ。
 とにかく、入れ揚げさせずにおかない存在だった。

 マヤは谷のリクエストを受け、こころみに、賛美歌『まもなく彼方の(Shall We Gather at the River?)』の出だしをメゾソプラノで聴かせてみせた。
 もちろん英語だ。神妙に歌いだした曲の旋律が聞き馴染んだものとわかると会場各所から笑いが起こったが、マヤの歌い方を馬鹿にしたのでないことはあきらかだ。
 実際、素晴らしい美声だった。日本のアイドル歌手にはあまり必要とされないが、あればあったで有利なものだ。
 谷の隣りの席の審査員(声楽の大家だった)が感に堪えた口調で耳打ちする。
「あの子、本物だよ。アイドルなんかじゃなく、みっちり仕込んで本格派の歌い手に育てたほうがよくないか?」
 谷は同意を拒むように、首を横に振った。
「残念だが。今さら、声楽を学ばせても遅いよ。あれはもう、アイドルとして生まれてしまった存在だから」




マヤが歌った賛美歌『まもなく彼方の(Shall We Gather at the River?』はこんな曲。たぶん知らぬ人いないと思われ。ああ、アレか! と嬉しくなること必至。


 結局その日は、十何人かが選ばれ、後日おこなわれる三次選考まで進むことになった。
 その中に堀井マヤはいない。
 彼女は別枠での抜擢であり、三次審査の必要なしとみなされたのだ。

 谷は帰りの車に、マヤを同乗させた。
「きみについて、訊きたいことがヤマほどある」
「わたしも、お話したいことが同じほど」
 見栄も気取りもなしに隣りの席に行儀よくすわるマヤは、育ちの良い上位中産階級の子女といった風だ。
 とうていタヌキが身を変えているとは思えない。

 谷の運転する車は、夜の東京を行く先も決めずにひた走る。
「きみの名は?」
「堀井マヤ」
「本名のほうさ」
「化けると忘れます」
「ご両親は?」
「どちらもタヌキです」
「生まれたのは?」
「タヌキの群れ」

 なるほど、話はしたいが個人情報まで明かしたくはないのか。
 無邪気に見えて、ガードは固い。
 谷は、訊き方を変えた。
「化けられる?」
「いまでも化けてますけど」
「それ以外の姿にだよ」
「わたしはまだ未熟なので、こうなりたいと思うものにしか。習熟すると、蛇でも熊でもイヤなものにも化けられるんですが」
「熊や蛇だって? あー、きみが熟達者でなくてよかった」
 マヤはふふっ、と笑いだした。
 車の中一対一での緊張がほぐれ、距離感が狭まった。

 谷はさらに、突っ込んだ問いを仕掛ける。
「人の世界に出てきたのはどうして?」
「山奥では就職難なので」
「本当のことを言え」
「いい人に出会えるかもしれないから」
「いい人は見つかった?」
「さあ……どうでしょう」

 車がレインボーブリッジを渡る頃には、マヤは谷に身を寄せ、肩に頭をあずけるようになっていた。
「なぜ正体を明かしたの?」
「先生ですから。テレビや本でうかがっています。超常界にとても詳しいんでしょ? だからご理解いだけるのではと……わたしのことを」

 たしかに谷はオカルト・マスター、すなわちオカルト知識を極めた男として通っている。関連する著作も多い。だが実際に、超常現象と出くわしたことはなかった。
 マヤの谷への評価はまったくの買いかぶりである。
 谷がオカルトの権威というのは、彼が音楽を書いたホラー映画『オカルト・マスター』の公開時、宣伝のためやったことに由来する。即席で仕入れた知識をもとにテレビやラジオであることないこと語りまくったところ、そっちのほうが映画以上に評判を呼んで谷自身がオカルトマスターの称号を賜ることとなったのだ。
 その肩書きは谷につきまとい、本は書かせられるし、ホラー番組では招かれるゲストの常連。比類なきオカルト通と思い込まれている。
 皮肉にも、マヤとの関わりが谷に、真に超常的な世界への扉を開かせるのだが。


(続く)






関連リンク

「顔にタヌキと書いてある」
(文芸新世紀)
http://www.geocities.jp/ondorion/bungoo/tanuki.html






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