さて益田孝に続いて、大倉喜八郎の事業と中国との関わりを述べなければなりません。
大倉喜八郎は明治4年の岩倉具視を団長とする遣欧使節団の一行に紛れ込んで内相・大久保利通の面識を得たことで、単なる一銃砲店の主人から財閥「大倉組商会」社長へと飛躍する契機をつかんだのです。台湾出兵や江華島事件、樺戸や網走での刑務所建設、不平等条約の改正を目指した外交の舞台となった鹿鳴館の建築など、多種様々な政府要務を足場にしながら矢継ぎ早に事業を拡大し、明治30年頃には財閥としての体制を整えるまでに至ったのでした。
大倉組商会の基幹事業は大きく分類して3つになります。貿易に商業・サービス業の「大倉商事」、鉱山・鉄鋼業の「大倉鉱業」そして土木建設の「大倉土木」で、大倉組商会はそれらの3大事業を統括する現代の持ち株会社といった趣です。
大倉喜八郎が手掛けた主な企業を挙げれば、帝国ホテル、帝国劇場、東京電灯(後の東京電力)、札幌麦酒、山陽鉄鋼、東京製綱、日本製靴、日清製油、日本無線、東京毛織、大倉製糸、北海道炭鉱汽船、大倉火災海上保険(後の、千代田火災海上保険)…など、壮大な広がりをみせます。大倉土木は現在の大成建設の前身です。
戦前の財閥が進めた中国大陸への経済進出の中で、大倉組商会のやり方は三井や三菱、住友などと比べてかなり個性的な色彩が強かったと思います。昭和11年頃、経済雑誌で高橋亀吉が財閥の保有資産比較をしたのですが、大倉財閥の力は三井、三菱、住友、安田に次いで5番目とされていましたが、中国で被った損失額では大倉財閥がケタ違いに巨額で、およそ5000余万円と推計されています。それは当時の大倉財閥の全資産にほぼ匹敵する規模で、そのほとんどが大倉喜八郎の存命中に投入されたものです。ここに大倉らしい一面が隠されているように思えるのです。
つまり大倉財閥の中国進出は社長である大倉喜八郎がすべて差配し、自ら現地に乗り込んで、相手側のトップと直接に面談して、ほぼその場で決定し断を下しているのです。そこが他の財閥と大きく違うのです。勿論、三井では益田孝が断を下し、三菱では弥太郎の死後は後継の岩崎小弥太が断を下したのでしょうが、当人が中国の現地まで出向いて、例えば北洋軍閥の将軍などと直談判して投資計画にハンコを押すなどということは皆無でした。大倉喜八郎は記録に残るだけで9回も訪中しています。
大倉喜八郎が中国に乗り出した第一歩は、台湾出兵の武器・食糧の輸送隊を指揮して乗り込んだ明治7年なのでしょうが、経済事業としての嚆矢は、日露戦争の最中の1905年(明治38年)に鴨緑江の河口で始めた製材業のようです。日露戦争の攻防最激戦地だった旅順の二〇三高地にも大倉喜八郎は姿を現し、乃木希典や将兵たちを激励したというのです。この製材業は後
に合弁の鴨緑江採朴公司となるのです。
大倉喜八郎が中国で成功させた最大の事業が炭鉱と製鉄業です。日露戦争中に北洋軍閥の支配下にあった本渓湖炭鉱の開発について交渉を始め、日本の広島に作った山陽鉄鋼と提携できる本渓湖煤鉄公司を1911年(明治44年)に合弁で設立したのです。この製鉄所は1915年から生産を開始し、現在に至るも残っている数少ない大倉財閥の遺産です。この地方(南満州地域)を長く支配した軍閥の張作霖と大倉喜八郎の二人が協力して育てた製鉄所といえるのです。
日露戦争日本の満州経済支配の機関となる「南満州鉄道会社」が1906年(明治39年)に設立されるのですが、大倉喜八郎も設立委員の一人として名前を連ねます。委員長は日露戦争の最大の功労者といわれた総参謀長の児玉源太郎です。そして初代の満鉄総裁は後藤新平です。児玉・後藤のコンビは台湾総督・民政長官のときと同じで、イギリスやフランスの帝国主義国家に習った近代的な植民地経営を目指していたのがこの二人です。設立委員に名前を連ねた経済人には渋沢栄一、藤田伝三郎、安田善次郎、益田孝、浅野総一郎、荘田平五郎らがいます。いずれも大倉喜八郎とは顔見知りの競争相手ばかりです。
孫文が辛亥革命を成功させたのは1911年(明治44年)のことですが、満鉄設立に関係した経済人の中で、孫文らの革命運動にひそかに支援の手を差し伸べた者は少なからずいたのですが、それも日本政府の意向を伺いながらの恐る恐るといった様子でした。そうした経済人の中で、大倉喜八郎の孫文への接触はかなり際立っていたようです。革命派の蜂起を背景に孫文が臨時革命政府の軍事資金を日本の各方面に打診したとき、渋沢も益田も西園寺公望内閣の意向を探りながら煮え切らない態度に終始したのですが、一人、大倉だけが鰹節屋の丁稚時代からの気心の知れた友人である安田善次郎に頼みこんで300万円を借金して、それを革命軍に貸し付けたのでした。
もちろん、満州地域での権益を条件にしたのでしょうが、通常ならリスクの高い借款ですから政府保証など日銀からの了承を取り付けるのでしょうが、外相の内田康哉も日銀総裁の高橋是清も孫文の革命政府への政府借款には中々踏み切れずにいたのです。当時の山県有朋など軍首脳もまだ清朝政府やその実力者である袁世凱など清朝政府軍と孫文臨時政府を天秤にかけて、双方の力が一方に偏らない方が日本の満州権益拡大には有益と読んでいたのです。そんな、政治的な思惑が絡み合った雰囲気を知るか知らずや、大倉はさっさと孫文に資金提供してゆくのでした。
辛亥革命が中途で袁世凱によって簒奪されて、袁世凱が中華共和国の大総統の座に収まって、孫文ら革命派の排除に乗り出す一方、袁世凱政権の中も、安徽省軍閥の段祺瑞、河北省軍閥の馮国璋と奉天(現在の瀋陽)を拠点とした軍閥の張作霖らの勢力争いが絶えないのでした。
袁世凱が死去した後は副総統の黎元洪が後継となり、さらには徐世昌が跡を襲うという政争続きです。そうした中で、大倉喜八郎は段祺瑞も馮国璋も張作霖とも、また徐世昌が大総統になれば彼とも親密な関係を構築できた不思議な力を備えていたのです。
だから1928年(昭和3年)4月、大倉喜八郎の葬儀には張作霖も息子の張学良も段祺瑞、馮国璋も、さらには国民党政府の主席となった蒋介石までもが花輪を贈ったといわれています。そんな人物はいません。大倉喜八郎の魅力は「政商」とか、「中国侵略の先兵」だなどという言葉では説明できないものがあります。戦後長い間、大倉喜八郎をそうした一面的な評価で固定化させたことを、変えてゆく必要があると思っています。