2012年12月23日

Watch Over From Stars

去る11月7日、わたしの祖母は天寿を全うしました。86歳の大往生でした。

ちょうど本日は四十九日のため、お昼に近所のお寺にある墓所にて納骨式が
行われたことを機会として、当座のことを少し書いておこうと思います。

11月7日は丁度 神戸出張から帰宅した翌日でした。お昼前に起床し、
さて祖母の見舞いに行こうと思った矢先に実家から電話があり、
いよいよ危篤との報せが病院からあったので、全員急行せよ、ということでした。

果たして15分程の後、病院へのバスを待っている間に再び鳴った携帯から
祖母の臨終が伝えられました。急なことだったので、誰も間に合いませんでした。

祖母が入院していた病院は、わたしが今年の夏まで住んでいた家からなら
歩いて1分ほどの超至近であったため、当座もまだそちらに住んでいれば、
間に合ったかもしれない。とも思いましたが、それは考えないことにしました。

テレビドラマなどで見る、病院のベッドの上で家族に看取られながら、
最後に何らかのスピーチを言い合う今生の別れというのは、奇跡的なものです。
逝去のタイミングに時刻表がない以上、最後の瞬間がいつ来るかはわかりません。

残される側の生活や仕事の都合がつき、病室に行けることすら簡単でないのに、
そうそう今際の際にまで同席できるわけがないように思います。

と言うと、随分不幸な言い方になってしまいますが、死に目が見られないのは、
確率的にはごく普通だと思ったのです。"親の死に目にも会えず"という言葉は、
そうした普通のことに対し、殊更ネガティブな印象を与えるように思いました。

死に目に会えるということは、物凄く幸運なことです。それは羨ましいです。
不幸中の幸いとして、祖母は老衰によって、眠るように亡くなったそうです。

10月の終わり頃からは、クウクウと寝ていることが多かったので、
病室で横になっている祖母は、特段変わらずに眠っているようでしたが、
寝ている時と同じように頭をなでると、ひんやりとした感覚が掌に伝わりました。

親類が静かな会釈と共に徐々に徐々に集まりだす頃には、
病室はさめざめとした空気で一杯になりました。

人が亡くなる時、わたしは亡くなった本人がもういないことと同じくらいに、
普段賑やかな人々が皆、沈痛な面持ちで涙する様子を見るのが嫌です。
何となく、各々の悲しみがくっ付き合って、増幅されるような感覚になります。

祖母を自宅に帰すための車を手配して、わたしは仕事のため一旦帰宅し、
日没を過ぎた頃に実家に戻りました。祖父母の家は実家から車で15分ほどです。

通夜、告別式は祖父母の自宅で、ごく小さく行うことになっていたので、
既に2人ほどの葬儀屋さんが家内で準備をしており、見慣れた筈の居間の壁は
白と灰色のストライプの布が張られた現実感のない光景を生んでいました。

祖母は普段から気に入っていた翡翠色のコートを着せてもらいながら、
居間の中央で立派な布団にくるまれていました。顔には白い布が被さり、
これではまるでお葬式じゃないか。と、思いました。

通夜のしきたりとして、葬儀屋さんの指示の下、りんごを並べたり、
白玉団子を作ったり、ご飯を炊いて山盛りにして枕飯を用意します。

祖父母の家の冷凍庫にはタッパーで保存されている白飯が相当あるのですが、
枕飯は炊きたてでなくてはならないため、新たに炊飯する必要がありました。

母は炊飯器のスイッチを入れつつ「絶対『あら、レンジでチンでいいのに』って言うよね」
と、祖母の声真似をしながら言いました。この瞬間、何だか涙が溢れてしまいました。

これ、祖母は絶対に言います。もしその場に祖母がフワフワ浮かんでいたとしたら、
絶対に言っていたと思うくらい、わたしの脳内では完璧に祖母の声で再生されました。

祖母は本当に、自分のことは一番最後にして身内の面倒を見るくせに、
自分のことで他人に面倒をかけることを物凄く嫌がる性格でした。

それ故、この日も危篤になってからすぐ、それこそ早歩きのようなスピードで、
"いいからいいから"とばかりに、サッと行ってしまったようにも感じたのです。

もう少し後を濁してもいいのに、とも思いましたが、その後のスケジュール的に、
1日空けての通夜、その翌日に告別式という日程は、丁度わたしのオフ日でした。

勿論いざとなればわたしの仕事の日程を変える気はまんまんでしたが、
果たして仕事の都合を一切変えないあたり、本当に祖母は最後までやりおるな、
と思いました。末期の水をたっぷり勧めて、頭をなでてから実家に帰りました。






manism at 23:40│clip!