2005年08月06日

広島、原爆投下から60年の日を迎えるにあたり

 6日は、広島に原爆が投下されてから60年の日です。
5日の夜、あるテレビ局で、「ひろしま」という特別番組が放送されました。さまざまな角度から「広島への原爆」を検証した番組でしたが、その最後に登場したアメリカ人科学者(原爆を作り、投下に携わった)と被爆者との対談では、高齢になった科学者の頑な態度が非常に印象的でした。彼には科学者としての強い信念があるに違いなく、あくまでそういう側面からしか原爆を見る事が出来ない、という事を頭では理解出来ますが、画面の中のその様子を見ながら、私の中の「日本人」の血が、どうしても彼の言葉をスムーズに聞く事が出来ませんでした。
 20数年前、私は何度か同じような経験をした事があります。
私が関わっていた団体では、毎年、夏休みを利用してやってくるアメリカからの短期留学生を迎えました。その数50余名。全員が16才から20才の若者でした。彼らは6週間の滞在中、日本人のホスト家庭で、広島、長崎の原爆記念日や、終戦記念日を迎えます。
 その団体では、毎年、貴重な経験として、という意味で、数名の同年代の日本人を同行させて、必ず広島への日帰りツアーを実施しました。私は3年間、その広島行きに同行しました。
 当時の私は、頻繁にアメリカを往復し、まさに良くも悪くも「かなりアメリカにかぶれた大学生」でした。生活もアメリカナイズされたものでしたし、その後私の就職先になった当時のアルバイト先でも、同僚はアメリカ人ばかりでした。
 しかし、広島行き当日、新幹線に乗っても大いに盛り上がり、キャーキャーと騒ぐ彼らを見ながら、私はいつもにない心のざわつきを感じました。そう、その科学者の話しを聞いていた時のような…その日ばかりは、アメリカかぶれの私も、妙に日本人日本人した感覚だった事を覚えています。そして広島に到着。まっ先に向う原爆ドーム。そこで彼らは、初めて、その日のツアーの重さを感じ始めるのでした。当時、私が何よりも驚いた事は、多くのアメリカ人青年達が、「アメリカが日本と戦争をしていた」という事実を、全く知らない事でした。もちろん、被爆国日本に関しても、「エノラゲイ」も「リトルボーイ」も、何も知らない… 確かに、日本でも「日本はアメリカと戦争をしていた。原爆を経験した。」は知っていても、「日本がアジアの様々な国を巻き込み、侵略と呼ばれる戦争をしていた」という事を知らない若者がいる、という事と似ているのかもしれませんが…
 そんな彼ら。とにかく、平和記念資料館に入って初めて、とてつもなく大きな衝撃を受ける事になります。人は、予期していた事でのショックには、何とか対処出来ても、予期せずやってくる大きな衝撃は、人はとても弱く、もろいものらしい。
 その後、バスで向う宮島も、宮島での昼食も、毎年、まるでお通夜のようになるのでした。そんな時、不思議に私は「ショックを受ければいい…今さら、今を生きる自分達の力では、どうする事も出来ない過去の事象を前にして、大きなショックを受ければいい…」などと、とても意地の悪い気持ちになったものでした。
 あれから25年。番組の中での、あのアメリカ人科学者の態度、言葉… 戦後60年にして、彼が初めて訪れた広島で、頑な態度で自分の研究の賜物である原子爆弾を肯定しながらも、どこかで、落ち着きなく動いていた手や視線を見ながら、あの時と同じ事を感じる私がいました。
 当時、一緒に広島を訪れた彼らも、私と同様、すっかり社会を担う年令になっています。現代のテロという大きな現実の前に、きっとアメリカでは比較的ささやかに報道されるであろう「6日の広島の日」を、彼らは思い出すでしょうか。


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