関ヶ原ブログ

関ヶ原の戦いを中心に、戦国時代の武将のエピソードや豆知識をご紹介

yoroi

いよいよ今夜の大河『真田丸』は、真田家の名シーン犬伏の別れが描かれますね!
そこで、ちょっと犬伏の別れとは何だったのか、紐解いてみました。

■会議のきっかけは


真田昌幸・信幸・信繁(幸村)父子といえば、関ヶ原時には居城の上田城で徳川秀忠の軍勢を翻弄したことで有名です。しかし、彼らはもともと徳川家康の会津征伐軍に加わるべく、下野国(栃木県)に向けて軍を進めていました。ところが、その途中にある犬伏宿(現・栃木県佐野市)にいた7月21日、石田三成の密書を受け取ります。

三成の密書にはこう書かれていました。

「徳川内府は太閤殿下の御遺命に背くこと幾度にわたり、今回の上杉征伐でもその叛意は明らかです。私たちは上方で挙兵することにしました。太閤様から受けた恩をお忘れでなくばお味方ください。」

さらに、そこには家康の横暴を13箇条にわたって書き連ねた「内府ちかい(違い)の条々」もついていました。

そこで、昌幸は、先行していた信幸を犬伏に呼び戻し、信繁(幸村)を含めた親子3人で、犬伏の薬師堂の中で、家族会議を開いたといわれています(近くの民家の離れだったともいう)。議題はもちろん、このまま家康につくか、それとも三成につくか――。

■会議のゆくえ


これは密談ですので、当然ながら詳細な記録など残っていません。結論は史実にある通り、昌幸・信繁(幸村)が石田方につき、信幸は徳川方につく結果になります。史実といえるのはこれのみ。
ですが、伝承としてこの会議の模様が伝わっているので、それを頼りに掘り起こしてみましょう。

信幸さんのご意見


まず、長男・信幸は徳川方につくことを主張しました。
「これまで、内府様(家康)から格別のご恩を蒙ったわけではございませんが、ここに至って今さら変心するは不義に値しましょう。」
しかし、信幸の妻は、家康の腹臣・本多忠勝の娘・小松姫です。だから、そのことも一因の一つ(あるいはそれが最も大きな理由)と言えると思います。また、忠勝から言い含められている点があったという意見もあります。

昌幸さんのご意見


ともかく、徳川方につくことを主張する信幸の意見に対し、昌幸はこう切り返しました。
「それはそうだが、それを言うなら、真田家は内府にも秀頼様にも特別なご恩は受けておらぬ。かような場合にこそ大望を遂げるが本懐。」

「大望」というのは勢力を拡大することです。豊臣秀吉が統一事業を成し遂げ、自身の領地はほぼ確定したと思っていたところへ、再び実力で領地を増やすことができるかもしれない機会到来です。昌幸はここを正念場と考えたのかもしれません。

信繁(幸村)さんのご意見


信繁(幸村)は西軍の大谷吉継の娘を娶っている関係もあってか、「石田方につく」ことをほのめかします。

この議論は「世の中真っ二つだが俺たちゃどうするか」ですから、選択肢は3つしかありません。
1.徳川につく、2.三成につく、3.どちらにも属さない
の3択。ですが、こともあろうにこの時点では3者3様。完全に意見が割れました。

■結論は親子真っ二つ


その後も昌幸たちは、議論を続けましたが、どうしてもまとまりません。

そこで、結論として、4.それぞれ思うようにするを選びます。
「さすればここで親子別れて、家名を残すことをこそ第一としよう。」
となるわけです。

この決定を受けて、昌幸・信繁(幸村)は会津征伐軍から離脱し、居城の上田城に帰ることにしました。信幸はそのまま徳川家康に従うことになります。

しかし、昌幸が上記の密談中のエピソードにも伝わるとおり、野心を持っていたとしたらそれはどうしたのでしょう。


■昌幸が西軍につく理由はない??


信繁(幸村)が石田方につくことを考えていた理由は、「妻が大谷吉継の娘だから」ということが大きな理由ということでいいと思います。兄・信幸も本多忠勝の娘を娶っていたことが徳川方についた一因になっているようですし…。

しかし、昌幸は自ら「真田家は豊臣家からも徳川家からも恩は蒙っていない。」と言っていました。昌幸にとっては、どちらかに味方する義理もないし、その必要もないわけです。

これまでにも「こちらの方が有利だ」と判断して何度か主替えをしてきた昌幸です。機を見るには敏だと思われますので、この時も情勢をまったく軽視して判断するとは考えがたいと思いませんか。
というか、他の多くの武将もそうであったように、昌幸にとっても、どちらが勝つか本当に判断のつかない状況だったものと思われます。

となると、何か石田方についたほうがお得なことがあったのかもしれません。

■領地拡大するぞ!昌幸の野望


調べていくと、昌幸が石田方についた理由として、「三成から信州深志、川中島、小諸と甲州の一部の領有を約束されたから」という説がありました。
と言っても、これは昌幸が石田方につくことを決めてからの約束だそうなので、これをもって昌幸が石田方についたとも言い切れないのですが、「石田方についた方が、領地を拡大するのに都合がよさそうだ」と考えた可能性はあります。

しかも、昌幸は石田方につくことを約束してから、石田方の中心メンバーから次から次へと書状を受け取っています。長束正家、増田長盛、前田玄以、毛利輝元、宇喜多秀家、石田三成、大谷吉継…。連名のものもあれば、単独の書状もあります。同じ人から2回以上受け取ったこともありました。

これだけ何度も石田方の主力が書状を書くのですから、昌幸には「石田方有利」という情報が多くもたらされたことでしょう。次第に昌幸自身も「策を弄して領地を広げるには、石田方についた方が都合がよい」という考えに確信を持つようになっていたと思われます。

また、真田の領地・上田城の周りは徳川に味方する大名ばかりなので攻める相手には不自由しません。しかも、もし中山道を上る徳川軍がいれば上田城におびき寄せてやろうくらいは考えていたかもしれません。おまけに徳川軍に対しては以前一回、散々打ち破っており、自信もありました。うまくすれば、恩賞も思うがままです。

実際、九州の黒田如水や奥州の伊達政宗も、ドサクサ紛れに領地を拡大しようとして動いていますので、昌幸も同じようなことを考える可能性は充分あると思われます。日本を二分するような情勢下で、2〜3ヶ月というわずかな期間で決着がつくとは、さすがの昌幸にも予想はつかないでしょうし…。

しかし、結局石田三成は関ヶ原の戦いに負けてしまいます。
昌幸が本当に領地拡大を狙っていたとしたら、昌幸にとっては、人生屈指の大誤算だったかもしれないですね…。

■おまけ


余談ですが、犬伏の別れの際、家臣の河原綱家という人物が、真田親子が密談中の部屋に密談をしていることを知らずに入ってしまい、昌幸に激怒されて下駄を投げつけられるというエピソードがあります。下駄は彼の顔面にあたり、彼は前歯を折ってしまってその後もずっと前歯が欠けたままだったとか。気の毒な…。

実際には彼は当時大坂にいたという記録もあるようですので、あくまで伝承にすぎないみたいですけどね。顔面に下駄って痛そうだわ。


あと、信幸と別れて上田に帰る途中、昌幸は信幸の沼田城に寄って孫の顔を見ていこうとしましたが、城にいた信幸の妻・稲姫に「敵を城内には入れられません」と出禁をくらいます。詳しく知りたい方は、ぜひ以下の記事をご覧くださいませ〜。
真田信幸の妻、舅・昌幸の入城を拒否する


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fushimijo

大河ドラマ『真田丸』では第31回「終焉」にて、ついに豊臣秀吉が死亡しました。
慶長3年(1598)8月18日のことです。場所は木幡山伏見城。 
それぞれ秀吉亡き後の天下に思惑のある家康、三成双方から遺言状を書かされ、幻覚に怯えながら亡くなるというなんとも寂しい最期でした。…三成は「豊臣家のため」ですが…。

ドラマ中で欠かされていた遺言状は実在します(毛利家に伝わった「毛利家文書」に写しが所収されている)ので、ここに全文引用してみましょう。
実物は縦書きですが、改行は実物に添いました。

■豊臣秀吉の遺言


※※
返々、秀より事
たのミ申候 五人
の志ゆたのミ申候ゝ
いさい五人の物ニ申
わたし候 なごり
おしく候 以上
※※

秀より事
なりたち候やうに
此かきつけ候
志ゆと志て たのミ
申候 なに事も
此不かにはおもひ
のこす事なく候 
      かしく

八月五日 秀吉 御判

いへやす
ちくせん
てるもと
かけかつ
秀いえ
     万いる


■遺言状をひもとく


「※※」部分は「追而書き」と呼ばれるいわゆる"追伸"です。

現代では追伸は手紙の最後に描くことが多いと思いますが、昔の書状では冒頭に足しました。スペースがなくなると本文の行間にも小さい文字で続けて書いていたようです。ドラマでは「五人の志ゆ(衆)たのミ申候」まで秀吉が書いたところで本多正信に静止され、「いさい五人の物に〜」以降はあとから三成に欠かされていましたね。

内容としては、とにかくまだわずか6歳の秀頼の事を案じていることがわかります。世の中は自身が統一政権を作ったとはいえ、それが成ってまだ10年もたっていません。秀吉自身も信長亡き後、その子どもたちから実権を奪ってきましたし、同じことをされるのではないかという不安がつきまとっていたのであろうと言われます。
ドラマでは三成に「家康を殺せ」と命じていましたが、「もう頼むことしかできない」という気持ちと同時に「何とか不安を晴らしたい」という気持ちも見え隠れする人間臭い描かれ方だったように思いました。

遺言状内の「五人の志ゆ(衆)」はこの遺言状の宛先でもある現在「五大老」と呼ばれる面々を指します。そして追而書にある「五人の物」が三成たち「五奉行」です。見事にドラマで描かれたように「書かされていた」可能性もあるような順番になっています。

実際のところは「家康と三成が書かせた」という記録など残っているはずもないので、どのように書かれたかはわからないようですが、日付は秀吉が死去する13日前になっています。よって、秀吉の体調については、ドラマで描かれたような弱り果てた状態だったであろうことは想像されます。

なお、これに先立つ7月15日にドラマでも家康が署名していた起請文が作成されています。こちらは大老・奉行の面々で作成した草案に秀吉の承認をもらったものらしく、より具体的な政務周りの取り決めや約束事が書かれていました。


■秀吉の辞世


つゆとおち つゆときへにし わかみかな なにはのことも ゆめのまたゆめ

露と落ち 露と消えにし 我が身かな 難波の事も 夢の又夢


句ですので、解釈は様々あると思いますが、「朝露のようにあっという間に消えていく。夢のようにはかない人生だった。」というような意味と想像されます。この辞世からもこれで人生を終えることへのむなしさを感じているように思えます。

ドラマでも、秀吉寝所で家康が「諸行無常よの」と信繁に言うシーンがありましたが、まさに栄華を誇った秀吉だからこそ余計にその無常さが際立っていました。最期に流れた涙は無念の涙だったのでしょうか。



次回からはいよいよ関ヶ原に向けた家康VS三成の駆け引きが始まると思います。『真田丸』は真田家の物語なので、関ヶ原の戦い本戦よりも秀忠を相手にした信州上田城での第二次上田合戦がメインになりそうですね。

 
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kassen

大河ドラマ『真田丸』ではついに朝鮮出兵が始まりました(真田家は渡海しなかったので仮装で悩んでるシーンばっかだったけど)。

現代では秀吉公ご乱心の所業とも言われるこの出兵。でも劇中でも秀吉自ら信繁に言ってましたよね。「わしの頭がおかしくなったと思っているだろう。そんなことはない。」「太平の世になったと言っても人には働く場が必要だ。それゆえの出兵なのだ。」

「だからって他国を攻めるというのはどうなのか」というのは今回の論点ではないので置いておきます。
重要なのは世の仕組みが変わったからといって「おつかれさーん。もういいよ。これからは政治が得意な人にがんばってもらうわ。」ってわけにはいかないということです。

およそ100年続いた戦国時代。豊臣秀吉が天下統一を成し遂げた時代は、「生まれた時から戦国時代だった」という人たちしかいないようなものです。世の仕組みが変わったとはいえ、いきなり「もう合戦しないから」と言われても、「合戦のない世の中」なんて、イメージすらわいていなかったのではないかと思います。

実際、この転換期に就職問題に直面した人たちも発生しています。
そこで、今回は戦国末期のお仕事事情を、できるだけ当時の人の感覚を想像して考えてみました。


■世の仕組みの革新によって武官と文官の扱いが変わる


まずは気になる「求められるスキルの変化」のお話。「世の中はどんな人を求めているか」です。

国をとりあう戦国の世と、誰もが安心して暮らせる太平の世。世の仕組みが変われば当然必要とされる人材も変わります。想像しやすいように少し極端に考えてみましょう。

戦国の世というのは文字通り戦いが頻発した時代ですから、戦争で力を発揮できるいわゆる"武官"がほしい時代です。武官と一口にいっても、戦争は一人ではできませんからいろんな人材が必要です。思いつきで挙げてみると、「戦略・戦術に優れている」「武術に優れている」「兵士の統率に優れている」…とかでしょうか。
ともかく「合戦で活躍できるスキル」が重用されたはずです。

ところが一方で、太平の世になると戦いはなくなり、領国の経営一本になるわけですから、特に勇猛果敢でなくてもよくなります。むしろ、政略や経理に長けたものが重用されるようになります。必要なスキルは、「政策を考えて実行することや、損得勘定が得意な人材が好まれるようになるのです。
戦場においては敵をバッサバッサと斬り倒して手柄をあげまくっていても、「武勇一辺倒」だった武将は、その活躍の場を失ってしまうわけです。


■豊臣家と徳川家の実例


この「必要とされるスキル変化」の実例として、豊臣家臣を見てみると、大河にも登場している加藤清正や福島正則といった武将は「賤ヶ岳七本槍」と呼ばれ、"武官"として重用されていました、しかし、天下統一の前後くらいには、石田三成のような庶務の処理能力に長けた"文官"タイプがより重く用いられるようになっていきました。『真田丸』の劇中でも秀吉の側に居るのは常に三成ですよね。

これは世の中の変化から見れば当然の流れでもありますが、武勇をもって時代を作った自負のある武官たちは文官たちを「計算しかできぬやつ」と嫌うわけです。 これは現代の会社組織でもありえると思います。

しかし、そこはさすが人心掌握がうまかったと言われる秀吉公です。
「世は変わった」と自覚していますので、三成のような文官を頼ります。しかしその一方で、武官たちにも領国経営に励ませるとともに、彼らが得意な「戦場という働き場」の用意も考えています(もちろん朝鮮出兵はそもそも秀吉の侵略構想通りという説もありますが)。

同じようなことは徳川家にもあります。大河では藤岡弘、さんがかなりいい味出してるあの本多忠勝も(見たまんまですが)武官。
家康公が江戸に幕府を開いてからは、ほとんどお声がかからなくなり、重要されるのは近藤正臣さんが演じている本多正信などの文官です。忠勝が同僚に「最近、殿はわしのことなどお忘れのようじゃ」などと愚痴っていたなんていうエピソードもあるようです。
徳川家でも武官と文官はあまり仲がよくなかったようですね……。

■関ヶ原で無職に…


さて、お仕事事情もう一点の観点は「主家の滅亡による離職」です。

上記の「世の仕組みの変化に伴う必要とされる人材の変化」に関係なく、関ヶ原の合戦に敗れて改易された大名の家臣たちは軒並み職を失ってしまいます。

関ヶ原の合戦で三成に味方した大名たち本人は、家康公に敵対した罰として死罪、流罪、謹慎などの処罰を受けました。結果、「お取り潰し」になった大名も数多くあります。
つまり、現代で言えば、所属していた会社がなくなってしまうのですから、そこに仕えていた人たち(兵士なども含む)は、職を失うことになります。「雇用保険」なんてない時代ですから、無職になってしまえばただちに食うにも困ってしまいます。

といっても、多くの場合は、加増された新領主がそのまま雇ったようです。ただし、処罰を恐れて逃げ回っていた重臣クラスのものや、旧主を慕うもののなかには仕官の道を選ばない者もいました。


■そして、大量の浪人が大坂城へ


しかし、関ヶ原の戦いから14年。必要とされなくなって職を辞した人や、関ヶ原で敗れて無職になった人たちに「大坂城で兵を集めている」という報せが届きます

豊臣家から見れば家康公に対抗するためもあって、この時の「浪人さん大募集」では、なかなかの大判振舞ぶりで、金銀が与えられたようです。

豊臣家には秀吉が蓄えた金銀がまだかなり残っていましたので、そのくらいのバラまきも可能でした。関ヶ原後の長い浪人暮らしで、人生を諦めかけていた浪人たちが「武士としてもう一花」と思いたち、多数集まったというわけです。


…という感じで、お仕事&就活事情を考えてみました。

こうしてみてみると、豊臣秀吉による天下統一は世の仕組みの大変革であり、徳川家康による江戸幕府の確立は世の武士の皆さんの就職事情にも大きく影響を与えていたんですなあ…。

武士以外の皆さんは…いい政治をやってくれりゃええわ。…って言ってたくらいかも知んないけど。

 
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ishigaki001


秀吉の軍師として有名な軍師官兵衛こと黒田如水。秀吉に警戒されるほどのかなりの策士ということで、何事も計算づくのようなイメージが(自分には)あるのですが、彼も人間。悩みはございます。

そんな彼のお悩み…それは!

「自分で決断したことに後悔することが多い。」
これです。そして、このお悩みを解決した名カウンセラーは、かの毛利両川・小早川隆景公であらせられます!


■黒田如水も悩む

如水が剃髪して号を如水円清としたちょうどその頃、如水が同僚の武将と酒を酌み交わす機会があった。ひとしきり雑談し、話に一段落ついたところで、如水がおもむろにため息をついた。
「はぁ…。」
「?黒田どのがそのようなため息を漏らすとはお珍しい。何か心配事でもござりまするか。」
同僚が軽い気持ちでそう聞くと、如水は再びため息を漏らして言った。

「いやなに、わしの性格…どうにかならぬものかと思うてな。」
「は?性格…でござるか?」
「そうよ。わしはな、思いついたことをぽんぽん口に出したり、思案半ばにして結論を出したりして後悔することが多い。」
そう言うと、如水は頭巾をはずした。そして、丸めた自らの頭をつるりとなでると、
「これもそうよ。朝鮮の役において、わしのやり方が治部(石田三成)めらによって殿下(豊臣秀吉)に讒訴されたこともこうなった一因。治部めは鼻持ちならぬヤツだが、わしに今ひとつ深慮があれば、讒訴されるようなこともなかったかもしれぬ…。」
と言った。

「な、なるほど…。黒田どのでも悩むことがあるのですな。」
「…当たり前じゃ…。」
如水は、この話をした後から急に愚痴ばかり言うようになり、一緒に飲んでいた同僚は、少々うんざりしながら如水の愚痴を聞いていた…。


■隆景流!お悩み解決講座

後日、如水と酒を酌み交わした同僚が、小早川隆景に会って話しをする機会があった。その時、隆景が「領内の普請のことで試行錯誤をしている」という話をした。そこで、この同僚が酒の席での如水の話を思い出し、隆景に話した。

「黒田どのは、思案半ばにして結論を出すがゆえに後悔してしまい悩んでいると申しておりました。小早川様は、そのようなことはございませぬか。」
すると、隆景はこう言った。
「ははは、黒田殿は才気溢れるお方だ。そうでなくては、のちに悔いることがあるにしろ、すばやく決断することなどできぬ。引き換え、わしは愚鈍な男ゆえ、思案に思案を重ねなければ然るべき答えが見えぬのよ。まあその代わりに我が決断に後悔したことはほとんどござらぬがな。」

これを聞いて、如水の同僚は、どうすれば後悔のない思案ができるかということを隆景に尋ねてみた。むろんあとで如水に教えようというつもりで聞いたのだが、個人的にも聞いておきたいと思ったのである。

隆景は、腕を組んで「ふむ…」と首をかしげたが、顔は微笑をつくりながら言った。
「ま…、何事もしばし思案いたすようになさればよろしいのではござらぬかな?…されどな、単純に損得だけで考えてはいかぬな。」
「損得…。」
「さよう。物事には必ずと言っていいほど、人が関わってくるものよ。結論というのは、そういう"人の心情"を踏まえて出さねばならぬものだ。そも黒田殿が結論に後悔するは、ひとえにその"人の心情"という点においてであろうと思うぞ。」
「な、なるほど…。」

如水の同僚は、わかったようなわからないような複雑な顔をしてうなずいた。隆景はその様子に気づいたが、あえて何も言わずこう続けた。
「どれ、黒田殿にお伝えあれかし。他人に対する仁愛を深慮して出した結論には後悔すること、少しもござらぬ。黒田殿も一考してみてはいかがですかな。」
隆景はそう言うと薄く笑った。

如水の同僚は、次に如水に会った時に、隆景の言を如水に伝えた。如水は、すぐに隆景の言葉の意味を理解して、ポンと手を叩くと、
「なるほど、さすがは小早川様じゃ。これからは何ごとにも仁愛を、と胸に刻もう。」
と、明るい顔で張り切って言った。

如水には、捕らえた罪人をも簡単には斬らず、むしろ充分反省すれば、一度は許してやるなどの裁き方をしたという逸話もある(⇒「深慮の如水裁き!」「黒田如水の罪人の裁き方」参照)。そういった逸話に見られる如水の情け深い面は、隆景の言葉が影響しているのであろうか。

※この記事は、『名将言行録』収録の話をいくらか改造して作り出したものですので、場面設定などはフィクションです。(だから「如水の同僚」は名無し…(汗)。)


■まとめ&おまけ

自分のことではなく、他人のことを第一に考えて決断を下すべきで、それには"人の心"を無視してはいけないということですね。ことに判断には「正論」であるかどうかを意識してしまうことがありますが、それは人が動く理由にはならないんですね。

しかし、あの恐るべき策士・黒田如水の悩みを解決するなんて…小早川隆景様ってステキ!
隆景は、秀吉にも大変気に入られていた武将です。文武両道にして、父・毛利元就譲りの智の才もあり、しかも約すれば誠実。
秀吉は、隆景を評して「平重盛(平安時代の武将。平清盛の長男)はわが国の聖人と言われるが、それをしても小早川には及ぶまいて」と言ったという話もあるそうです。最期までとことん「毛利本家のために」を貫き通したというのもイイ!

水も滴るいい紳士…。


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tiger001


黒田長政の家来に「黒田八虎」と呼ばれた勇猛な武将たちがいました。そのうちの一人であり、幼少期から黒田家に仕えた重臣が後藤又兵衛基次です。彼の働きぶりは、当初は長政も賞賛するところでしたが、長政が戒めていた他家との交流をやめようとせず、やがて主君ともめるようになり出奔してしまうことになります。

この記事では、そんな豪傑・後藤又兵衛がまだ黒田家の重臣だったころの逸話を紹介します。加藤清正と同じく「虎退治」の話です。

■陣中虎騒動!!

慶長の役の朝鮮出兵で渡海していたときの話しである。
黒田勢は、全羅道の全義館というところに在陣していた。そして、変事はある日の夜明け前ごろに起こった。突如陣中が騒がしくなったのである。

騒ぎの声を聞いた黒田長政は飛び起きて、人を呼んだ。
「どうした?敵襲か?」
長政は大慌てで聞いた。しかし、兵士はひどくおびえた様子でこう答えた。
「始めて見まするが、みな虎じゃ、虎じゃと騒いでおりまする。」
長政もびっくりした。虎とは。話しによれば、虎が陣中で暴れ、現在は厩に入り込んで馬をかみ殺しているという。
「先ほど管(和泉守)様が、退治するとおっしゃって厩の方に向かわれました。」
「うぬう、よし、わしも行くぞ。おい、甲冑の準備をさせろ。」
長政は、脛宛てなどは着けずに、迅速に甲冑を着込むと、厩に向かった。

■もう一人の猛者

長政が厩に到着すると、そこでは管和泉守政敏が虎と対峙していた。

政敏は、「えい、おう」と大声で気合を入れながら虎に向かい、何度か飛び掛ってきたのをかわしていた。そして、ついに虎の腰を斬ることに成功した。政敏は「やった」と思ったが、虎は斃れることもなく、逃げることもなく、ますます怒り狂ってガバッと二本足で立ち上がるような格好で政敏に飛び掛ってきた。
「うわあっ!」
政敏は、その迫力にさすがにその場を動けなかった。

しかし、その時、一人の男が入ってきて、いままさに政敏に覆いかぶさらんとしている虎を正面から蹴り飛ばし、虎がよろめいているうちに、虎の眉間を刀で斬り割った。虎は大きく悲鳴をあげ、その場に倒れこんだ。すぐに政敏も戦意を取り戻し、刀を虎に立てて止めを刺した。政敏は、とどめをさすと、その男の方を振り返った。
「かたじけない!又兵衛どの!」
乱入してきた男は後藤又兵衛であった。又兵衛はにやりと笑うと、
「なんの。かように肝の太き士の命、虎如きにくれてやるわけには参りませぬからな。」
と言った。又兵衛は政敏を助け起こした。近くで見ていた兵士たちからやんやの喝采があがった。

又兵衛は、兵士に
「虎と、喰われた馬の始末をしておけ」と命じると、何事もなかったかのように自分の寝所へ戻っていってしまった。

■長政、又兵衛らを叱る

又兵衛たちは気づいていなかったが、駆けつけた長政も、この一部始終を見ていた。長政の側にいたある家来が、又兵衛らを賞賛した。
「いやはや、これは驚きましたな。よもやかほどの豪勇とは。かの如き猛将がおれば、当家の武功は間違いございませぬな。」
ところが、長政は歯ぎしりをして、ブルブルと震えている。家来がその顔を見ると、怒りの形相であった。そして、
「一軍の大将を務める身で、猛獣などと立ち回りを演じるとは…その軽率さ、断じて許せぬ。」
家来は「えっ」と思った。彼らの働きで騒ぎも収まった。放っておけば、誰も立ち向かわず、被害は増える一方だったかもしれぬのに…と思った。しかし、長政は怒り心頭のまま
「和泉(政敏)と又兵衛を呼び出せい!!」
と怒気を含めて命じると、厩を出て行った。

又兵衛と政敏は、激しく叱責された。2人にとっても予想外の叱責であった。ことに又兵衛は、叱責している最中にも、長政に反論を述べたりしたので、大いに不興を買った。よかれと思って命を張ったのに、二人にとっても胸につかえの残る出来事となってしまった。



長政のいう「一軍の将が…」という考えもよくわかりますが、又兵衛としては、不満だったでしょうね。被害が広まる前に虎を退治したわけですから、誰でも手柄だと思いますよね。それが激しい叱責ですからねぇ。

こうしたすれ違いが数回あり、、冒頭に書いたとおり、やがて又兵衛は出奔してしまいます。さらに、他家に士官しようにも、長政が横槍を入れてくるため、うまくいかず、最終的には大坂の陣で豊臣軍に参加。夏の陣で戦死しました。


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odawarajyo

大河ドラマ『真田丸』。いよいよ次の放送では関東の名門・北条家が滅びます。

急に前回最後で登場した小山田茂誠の「なぜそこに?」も気になりますが、やっぱり次回のサブタイトルは「滅亡」ですから滅亡がメインなんでしょう。「再会」だったら茂誠のこれまでの話が聞けたかもしれませんがねえ。

それは置いといて…北条家滅亡については、板部岡江雪斎(演:山西 惇さん)や息子・氏直(演:細田善彦さん)が何を言ってもかたくなな姿勢を崩さなかった北条氏政(演:高嶋政伸さん)の頑固ぶりにも一因があるように思えます。
「かつては百姓上がりに何ができる」と秀吉を侮っていた氏政。その秀吉が、九州平定も成して西国を統一、徳川家康も従わざるをえなくなるまでになってもなお、「秀吉に頭など下げられぬ」と意地を張りとおしました。
いったい彼をなにがそうさせるのか!

…というわけで考えてみましょう。氏政さんの頭ン中!


■1.名門たる誇り


 
ひとつ目はこれです。 言い換えればプライド。戦国時代に関東に大勢力を築いた一族だからこその"誇り"です。
その"誇り"はいかにして作られたのか。そこで、北条家の略歴を追ってみました。

まず、北条家初代の早雲は、もともと相模の人ではありません。かつては出自不詳とされていましたが、現在では研究も進み、備前国(岡山県)出身という説が有力のようです。その早雲は当初は「伊勢新九郎」と名乗り、はじめ駿河(静岡県)の今川氏に仕えていましたが、やがて独力で大森氏が治めていた小田原城を、謀略を用いて奪い取ることに成功します。
この早雲公の下剋上こそが戦国北条氏の船出です。

その後、子の氏綱は相模周辺に進出し基礎を固めました。
さらに氏綱の子・氏康は、後世「河越夜戦」と呼ばれる戦いにおいて、寡兵で数万の大群を破る伝説的な戦ぶりを見せたほか、武田信玄や今川義元と結んで相甲駿三国同盟を結んで後顧の憂いをなくすことにも成功。関東にさらに勢力を伸ばします。
また、領国経営においても、税制改革や貫高制による統治基盤の確立など、政務にも長けていた氏康の政策で関東は繁栄していきました。
 
そして、この早雲・氏綱・氏康の3代の跡を継いだのが氏政です。

大河ドラマ中では、氏政が飯に何度も汁をかけて食べているシーンがあったのを覚えているでしょうか。あれは実は違う意味でのエピソードが下地になっていると思われます。すなわち、「氏政が何度も汁をかけるのを見た氏康が”どのくらいかければちょうどいいか一度でわからんようでは北条家もわしの代で終いか"と嘆いた」という比較的著名なエピソードのことです。

このエピソードだけを知ってしまうと、「氏政というのはダメな武将だったんだな」と思ってしまう人もいるかと思います。ですが、これについてドラマ中の氏政は、「わしは食べるぶんだけ汁をかける。わしの食べ方じゃ」と説明していました。
つまりですね、氏政はダメな武将なんじゃなくて、無駄がない武将(として描かれている)なのです。実際のところ、北条家の版図が最も大きくなったのは氏政の代といいます。

また、氏政はドラマでも描かれていたとおり、外交手腕や駆け引きもできる武将でした。しかも、そもそもご先祖様が築いた強力な勢力基盤もあります。
これだけの優位性を氏政も認識していたとすれば、関東最大勢力・北条家の誇りは、当時、氏政が誰よりも感じていたのではないでしょうか。
 

■2.堅固な小田原城


 
そして、もう一つ考えられるのはやはり北条家の居城たる小田原城の存在です。

小田原城は「総構」といって、一言でいうと城下町も含めて、東西50町(約5.5k)、南北70町(約7.6k)をぐるりと堀と土塁で囲い、驚異の堅固さを誇った大城郭です。現在の小田原城の城域は当時の主郭部の一部に過ぎず、実際に天守閣があるところから遠く離れたところに土塁や堀の跡が今も残されています。

戦上手で知られる武田信玄や上杉謙信もこの城を攻めたことがありますが、いずれも落とすことはできませんでした。

それまで誰も落としたことがないうえに、小田原城は年を追うごとに規模を拡大していきました。城下町もすっぽり包んでいるわけですから食料にもそうは困りません。つまり、持久戦にも十分耐えうる。氏政が大船に乗ったつもりで強気に出るのもうなずけますよね。
しかも大河であったように奥羽には周囲に名を轟かせていた伊達政宗がいますので、小田原城でがんばって、敵が疲れてきたところで政宗が攻撃すれば勝てるはず。
居城の無敗の歴史と、絶対的な自信が氏政を強気にさせたように思えます。


■3.引くに引けなくなる


 
最初は本当に勝てると思っていたんだと思います。むしろ小田原城で負けたことがないわけですから、当時の氏政の立場に立ってみれば、負けるなんてこと考えもしなかったのではないでしょうか。しかし、ここで秀吉が一つ、その力を見せつけた出来事があります。石垣山城の築城です。

秀吉は小田原から箱根に向かう街道沿いにある早雲寺に本陣を構えましたが、そこで指示を出して、小田原城を見下ろす笠懸山に城を築かせました。築城時は小田原城側の林を残した状態にし、工事をしているところを見えないようにしていたと言われています。

そして、3ヶ月ほどの短期間で城を完成させると、築上現場を隠していた林の木々を切り倒したのです。すると、小田原城からは昨日までなかったはずの城が忽然と現れたように見えるわけです(これが「石垣山一夜城」と言われる所以です)。

これを見た氏政は、「一夜にしてあのような城を築いてしまうとは…!」を驚愕するとともに、石垣山城の登場から2つの意味を汲み取ります。
一つ目は「それほどの力を秀吉は持っている」ということ。そしてもう一つは、「秀吉は何年でも包囲するつもりだ」ということです。ここにきて秀吉の強大な力をはっきり自覚できた氏政でしたが、もはや遅すぎました。家臣に対しても引くに引けない状態になり…。

結局最終的には籠城すること100日、氏直が剃髪して降伏。助命を乞いましたが、氏政は切腹させられ、氏直は高野山に追放となったため、戦国北条五代の繁栄はここに潰えることになりました。ちなみに板部岡はその後秀吉、家康に仕えています。
 
 

■まとめ



氏政は当初から秀吉に従うつもりだったものの、一戦も交えずに下っては諸将に面目が立たないから一戦だけ…と考えていたら引き際を誤ったという説もあるようですが、やはり「名門の誇り」、「小田原城の堅固さからくる見通しの甘さ」というのはあったように思います。

歴史にIFは禁物ですが、もし北条家が早くに秀吉に従って本領安堵をされていたら、徳川家康の江戸入りもなかったわけですから、歴史は大きく変わっていたかもしれません。
うーむ、なんとも感慨深い話だ。

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ekken

戦国大名の側近くに仕える職業の一つとして、「御伽衆」というのがあります。基本的には、戦場での士気を高めるために武辺話を語ったりする職業で、若い頃は戦場で活躍した男が、年老いて槍をふるえなくなってから、この職業に転職したとかいいます。

ところが、この職業、戦国後期になるとなぜか活躍の場が広がっていきます。それこそ、戦場で武辺話を語るなどという男臭い感じのするものばかりでなく、普段から大名の暇つぶしに呼ばれてはさまざまなことを語ったそうです。

だから、別に武士でなくても専門の知識を持った者なら誰でもなれるようになりました。僧侶でも、職人でも、茶人でも、医者でも誰でもOKです。「これぞ」という知識が一つあればいいんですから。

そして、ついにはこんな男も出ました。今で言えばお笑い芸人。知的好奇心を満たされる「面白い」ではなくて、純粋に笑える話を語る男がいたと言われています。今日記事にした男は、ちょっとしたいたずらを考えています。

その名も曾呂利新左衛門!


■いったい何事か?

「わ、わしは何かしたのであろうか…!殿下(秀吉)の笑いがかえって怖い!」
「あの曾呂利とか申す御伽衆に何か付け届けをした方がよいかもしれぬぞ。」
廊下でそんな話し声がするのを家康は聞いた。

この日、家康は秀吉に呼ばれて大坂城にやってきていた。呼ばれるまで待てと言われて、別室に通されたので、お供できていた鳥居元忠と語りながら待っていたのだが、そんな話し声が聞こえてきたので、家康は元忠と顔を見合わせた。

「いまのは…?」
「はて……何事でござりましょう。」
「御伽衆とか何とか言うておったな。」
「はあ…たしかに…御伽衆がどうかしたのでござろうか…。」
家康も元忠も何を慌てていたのかわからない。

「また殿下が「遊び」で何者かを飼われたのかもしれぬのう…。」
家康はやれやれといった表情で苦笑した。


■謎の御伽衆・曾呂利新左衛門

しばらくすると、小姓が呼びに来たので、家康は秀吉のいる間に行き、前に出た。形式的な挨拶を済ませると、秀吉が
「今日は徳川どのに、わしの新しい御伽衆を紹介したくてな。」
と言った。家康は秀吉のすぐ横に座っている小男をちらりと見た。小男は、微笑を浮かべて、家康を見ていた。家康は小男を見ながら言った。

「恐れながら、その御伽衆というのは、そちらの御仁で?」
「おお、そうそう。こやつじゃ。「そろり」新左衛門という。四国の平定軍を出していた時に堺で見つけて、面白いから連れてきた。いや、御伽衆ごときで呼ばれたとお気を悪くされぬでくれよ。こやつな、なかなか面白ぇーで、一時息抜きでも致さぬか?」

曾呂利が「上からのご無礼ご容赦…」などと言いながら、自己紹介をした。家康は、それを聞きながら、秀吉の言うように「たかが御伽衆を見せるために呼ぶな」と思ったが、そんなことはもちろん口には出さない。
「それでは面白い話というのをお聞かせいただきましょう。」
と作り笑いを精一杯自然に見せつつ言った。

その言葉を受けて、曾呂利が話し始めた。たしかに面白い。内容は、要するに今で言う落語なのだが、話し方が実に軽妙で、しかも話し慣れているのである。
その面白さに、家康は思わず噴き出してしまった。

「ああ、これはそれがしとしたことが…。殿下の御前で粗相を…。これも曾呂利どのの話が面白すぎるがゆえにて…お許しくだされ。」
家康はそんなことを言って懐紙で口を拭くと頭を下げた。
「ははは、いやいや。徳川どのにもそれほどお喜びいただけてよかった。お呼びした甲斐がありました。」
秀吉も上機嫌でそう言った。


■曾呂利の告げ口?

すると、次の瞬間、曾呂利が秀吉の耳元に何やら顔を近づけた。
時折、ちらりと家康の方を見る。そのしぐさが、いかにも曾呂利が家康についての何事かを秀吉に吹き込んでいるようであった。
(あの御伽衆…、いったい何を耳打ちしているのだ?)
さすがの家康も焦った。秀吉は何も言わずに、じっとしている。

そして、曾呂利が顔を離すと、秀吉は
「ああ、申し訳ござらぬ。いや、なかなか面白い男でござろう。今のわしのお気に入りじゃ。」
などと言ってニコニコしていたが、家康にとっては不気味でしょうがない。
(これか…。あの廊下の話し声は…。)

家康は待機中に廊下で聞いた声を思い出した。

「わ、わしは何かしたのであろうか…!殿下(秀吉)の笑いがかえって怖い!」
「あの曾呂利とか申す御伽衆に何か付け届けをした方がよいかもしれぬぞ。」

(何を殿下に申したかは知らぬが、わしのことを申したのは間違いあるまい…。これはわしもあの曾呂利とかいう御伽衆と懇ろになっておかねばならぬか…。しかしヤツめ…よもや本職は間者ではあるまいな…。…しかしそうなると殿下はわしをお疑いということに…。いや、そんなはずは…。)
家康は自分一人で考えてすっかり不安になってしまった。そして、秀吉から許可を得て早々に下がった。

家康は別室に戻ると、待っていた鳥居元忠に言った。
「曾呂利とかいう油断のならない男が殿下の御伽衆になったようじゃ。曾呂利に付け届けをせねばならぬ。」
「は…?御伽衆にでござりまするか?」

元忠にとっても、家康ほどの大名が御伽衆に進物とは意外である。
「曾呂利は何事か知っておる。さっきも殿下に何やら耳打ちしておった。今後何を言われるかわかったものではない。早めにわしの気持ちを示しておく。」

こうして、家康ほどの大名も後日曾呂利に進物を送り届けるという事態が発生した。

■告げ口の真相

しかし、実は曾呂利は秀吉に何か言っていたわけではなかったのである。

数日前に秀吉が機嫌がよかった時に、曾呂利が笑い話しをして、秀吉から「褒美をとらす。望みを申せ。」と言われたことがあった。そこで、曾呂利は、
「ならば、お大名のお歴々の伺候の際に、殿下のお耳のにおいをかがせていただければと存じます。」
と答えた。秀吉が理由を尋ねると、曾呂利はこう言った。
「私が殿下のお耳のにおいを嗅ぐ様子は、お大名から見れば、私が殿下に何事かを告げ口しているように見えるはず。されば、お大名のお歴々は不安に思って、告げ口をやめさせようとして私に賄賂を贈ってくるでしょう。」

秀吉は、
「なるほど…。お前はほんに妙なところに気がつくのう…。だが大名衆の反応を見るのも面白いな。大名たちが本当に賄賂を持ってきたら、お前が納めていいが、誰がどのくらい持ってきたかだけはわしにも教えよ。」
と言って、二人して大名衆を騙す「遊び」を始めてしまったのであった。

曾呂利はこうして、秀吉とグルになって、多くの大名を震え上がらせ、賄賂を受け取っていたという。話しももちろん上手だが、悪賢い遊びにもよく頭の回る男だったのである。



曾呂利新左衛門は実在の人物ではないとも言われますが、江戸時代の随筆などには、多く登場してくるそうです。秀吉を笑わせたエピソードもいろいろ。

事実だったら楽しげな話なのになあ…。大名たちはたまらんけどね。


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hideyoshi

大河ドラマ『真田丸』では、秀吉が公式の場で名乗る時、「関白太政大臣・豊臣の秀吉であーる」と言っていますよね。

さあここでいきなりのはてなポイント!「豊臣」と「秀吉」の間に「の」!この言い方は「平の清盛」「源の頼朝」「藤原の道長」などにもあります。でも「織田の信長」「伊達の政宗」とは言いませんよね。実はこれは「氏(うじ)」か「名字」かで違っているのです。

■氏と名字の違い

「え?氏と名字?何が違うの?」と思った方もいるでしょう。現代では書類などによっては名前を書く欄に「氏名」とある場合もあります。当然この場合には、「山田」「鈴木」「佐藤」などの名字を添えたフルネームを書くかと思いますので、「氏」=「名字」は現代の一般的感覚ですよね。

でも昔は「氏」と「名字」は別物でした。この場合の「氏」というのがすなわち「源」「平」「藤原」「橘」などで、実は「豊臣」も「名字」ではなく「氏」です。「氏」と「名字」の意味の違いについては、詳しく書くと非常に長くなるので、ごく簡単にまとめてみましょう。

「氏」というのは、その役職などによって、区別のために天皇家から与えられたもののことをいいます。古代日本ではその役目に応じて、天皇家が「氏」を与えていたんです。日本史で著名な「蘇我馬子」の「蘇我」や、「物部守屋」の「物部」なども、天皇家から与えられた「氏」です。

時代が下って行くと、皇族の血縁者が天皇の臣下となるために「氏」を与えられるケースが出てきます。さきほど出てきた「源」「平」などが有名かと思います。「清和源氏」「桓武平氏」などの呼称を聞いたことがないでしょうか?「清和」は平安時代の天皇の諡ですし、「桓武」は平安京遷都で知られる天皇の諡です。ですから、「清和源氏」と言ったら、「清和天皇につながる皇族の血統」であることを示しています。「私は元を正せば清和天皇の血筋であるから由緒正しき経歴のものだぞ」ということを示す事にもなるという感じですね。

ちなみに俗に「四姓」と呼ばれる「源平藤橘」とは「源氏」「平氏」「藤原氏」「橘氏」のことですが、「氏」は何もこれだけというわけではありません。他にも「菅原道真」「小野道風」「安倍晴明」「文屋康秀」などのようにいろいろ存在しました。


■名字とは何か

一方で、「名字」とは、上記のようにして各地に散らばった「源氏」や「平氏」の皆さんの子孫が、地名などをとって自分で名乗ったもののことを言います。

日本史で平安時代を習う時にあっちもこっちもみんな「藤原のなんちゃら」で「覚えきれるか!」となった方もいるかと思います。このような「区別しきれない」という事態が当時でも発生していたようです。なので、区別しやすいように各々が名乗り始めたのだとか。

地名由来のものには、貴族の名乗りが多かった「一条」「二条」「鷹司」など、京都の大路の名称を取ったものがありますが、地方では地名もよく使われていました。戦国武将で有名なところでは、中国の覇者・毛利家は本姓(氏)が「大江」です。

鎌倉幕府の政所別当として日本史の教科書にも登場する大江広元という人物を覚えていますでしょうか?彼の四男・経光が相模国毛利庄を領地としていたため、「毛利」を名乗るようになったのだそうです。ちなみにこの「地名いただきました」パターンは、山の麓に住んでいるから「山本」とか、山の中腹あたりに住んでいるから「山中」、川の上流に住んでいたから「川上」、などかなりテキトーなケースもありました。


■秀吉以外の武将にも「氏」はある

というわけで、「氏」は天皇から与えられるもの、「名字」は自分で名乗るものであり、本質的には別物だったというわけです。豊臣秀吉の場合は「豊臣」が「源」や「平」と同じく、天皇から与えられた新しい「氏」であるため、「名字」はずっと「羽柴」なのです。

なお、「氏」は、官位叙任などの公式文書に見られるそうですが、戦国武将の中には自分を由緒ある人物に見せるためなど、戦略的に都合のいいように、適当に名乗るケースもありました。

例えば、織田信長の織田氏は、信長の先祖の代から最初は藤原氏を名乗っていましたが、途中から平氏を名乗っています。しかし、これも信長の戦略上の理由とする説と考えられているのだとか。
その他の大名にも自称のケースがありますが、氏があったはずです。

また、秀吉は、配下となった大名たちに自分の名字「羽柴」を名乗ることを許したケースが書状などから明らかになっています。ちゃんと一覧とかにしたことはないですが、有力大名はやたらと「羽柴」を与えられていたように思います。ですから彼らは、位を授かるときの公式文書などでは「豊臣」氏で文書を与えられていました。


■名乗りの「の」について

最後に冒頭の疑問を解消しておきましょう。豊臣「の」秀吉という名乗りの「の」についてです。
これについては、氏+名前の形で名乗る場合は間に「の」を入れるのが普通ということなんだそうです。

ふうむ、ということは「の」がつく場合は「氏」ということか。
蘇我馬子、大伴家持、菅原道真、藤原道長、小野道風…、ほほうなるほど…。たしかに。

でも、豊臣秀吉は学校で習う時は「の」つかないですね…。
大河『真田丸』はこういう細かいところが、何かとちゃんとしているのです。

ちなみに、今回同じく天皇が与える「姓(かばね)」についてもいくつか調べたんですが、これまたなかなか奥深いので、今回はカットします。機会があったら記事にするかもしれません。

 
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sanadahata

大河ドラマ『真田丸』第17回では、劇中で片桐且元(演:小林隆さん)が徳川家康(演:内野聖陽さん)のもとに使者として趣き、その書状の内容を読み上げるシーンがありましたね。その時、「表裏比興(ひょうりひきょう)」という言葉が出てきました。いまや真田昌幸の代名詞として、真田関係の本には必ずと言っていいほど取り上げられている言葉ですので、見たこと聞いたことがあるという方も多いでしょう。

ところで、この「表裏比興」。どんな意味なのでしょう?
これにはいろいろ解釈はあるようですが、ネットで調べたところ、『デジタル大辞泉』には「比興」の意味として、「不都合なこと、いやしいこと、卑怯なこと」などが掲載されていますので、「裏表のある卑怯なやつ」くらいの意味だったのではないでしょうか。昌幸のことを悪し様に言っているというわけです。

……まあ言われてみれば、北条についたり、徳川についたり、上杉についたりと、昌幸としては生き残るために必死だったわけですが、傍から見れば強い大名については離れを繰り返して定まらんヤツ。なかなか信用できない、なんて卑怯なやつだというのもうなずけますね。。。

ちなみに、これは後世言われるようになったというわけではなく、実際に史料に登場しています。


■史料にみる「表裏比興」

ドラマでは冒頭に記した通り、片桐且元が家康に向けて書状を読み上げた際に出てきていましたが、史料としては、天正14年(1586)8月3日付けで上杉景勝に宛てた石田三成らの添書内にこの言葉が出てきます。この中で、三成らは「真田は表裏比興の者だから、成敗されるべきだ。家康が軍勢を向かわせると思うので、あなたがたは真田に味方したりしないように」と言っています。
この辺りの「手出し無用」のくだりはドラマでは秀吉が景勝に直接伝える形で描写されていましたね。

さて、昌幸を信用ならないやつ呼ばわりしている秀吉ですが、この時期、真田絡みで裏表をどんどん変えていたのは実はむしろ秀吉の方でした。この時期の秀吉の変心の履歴を少しご紹介しましょう。

天正13年11月の時点では、秀吉は昌幸に宛てた書状の中で、「家康は不届き者なので成敗してくれる!」と大きなことを言っていたんです。これには昌幸もほっと一安心だったことでしょう。
ところが、天正14年7月に家康が真田攻めの準備を進めると、秀吉はこれをいったん引き止めたものの、8月には「真田をやるのか、やるなら徹底的にやれ」と急に焚きつけるようなことを言いだしたのです。さらに上杉景勝には「手出し無用」という旨を記した、さっきの書状を送ったのです。

にも関わらず、今度は9月までの間に家康の真田攻めを中止させてさらに家康と和解してしまいます。短期間にずいぶんコロコロ態度が変わっていますね。この突然の態度の変化は、理由を明らかにしている史料がないので、なぜそうしたのかは定かではありません。

しかし秀吉は、10月には母である大政所を家康の元にやって、12月にはついに念願だった家康上洛を実現しました。うまいこと家康に臣下の礼をとらせることに成功したところをみると、この一連の手際良さ、もしかしたら真田征伐の一件も計画通りで、うまいこと利用したということなのかもしれませんね。


■大河ドラマ『真田丸』での描かれ方

ちなみに、この顛末はドラマでも描かれていました。秀吉がうまいこと家康を服従させるシナリオとして、この一件を利用した形になっていましたね。ドラマでの流れはこうです。

もともとは「真田は俺が守ってやる」と言っていた秀吉。
なのに、家康から「真田を攻めたいから許可してくれ」という書状が届くといったん信繁に意見を求めたものの、最終的には許可を出してしまいました。

これを聞いた信繁が大いに焦って、秀吉に考えなおすよう直言しまくりましたが、「うっさい!」と一括される始末。腑に落ちない信繁がふてくされているので、第17回の劇中では秀吉はついに真相を知らせ、この対応の狙いを次のように述べていました。

「家康はわしの顔を立てた。だからこちらからも一度は家康の顔を立てる。これであいこ。そのうえで戦の中止を命じた時、家康がどう出るか。これを見極めたい」

実際これで家康の腹を見極めた秀吉は、母を人質に出すことを決意。しかし、それによって、放送終了までの間に家康を上洛させて臣下の礼をとらせることに成功しました。結果的に秀吉の思惑通りに事は進んだというわけです。
この辺り、秀吉を演じている小日向さんは「底の見えなさ」を演じるのがうまいなあと思いました。ニコニコしていながら、腹では何を考えているかわからない異様な威圧感がありますね〜。これから晩年にかけての秀吉の描かれ方には注目です。


■おまけ

ところで、劇中では信繁が三成から「もっと物事の裏を読め。素直なだけでは生きてはいけぬ」と言われるシーンがありました。真っ直ぐというのは長所でもあると思いますが、目的によっては遠回りになることもある性格でもあります。ことに駆け引きなどには向かないでしょう。

正論を述べるだけではダメで、そこにどういった裏があり、誰がどのように考えているのか。
それを意識して行動することはたしかに重要な気がしますねえ。

 

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別所長治


「いまはただ 恨みもあらじ 諸人の
命に代わる わが身と思へば」



■名門別所家を継ぐも織田信長の侵攻を受ける

東播磨三木城主の別所長治。別所家は播磨守護赤松氏の一族で、長治の曾祖父則治のころは、東播磨三郡の守護代もつとめた名門の家柄です。しかし、天正期には中央で織田信長が台頭。中国地方もやがて織田信長の命を受けて、羽柴秀吉が派遣されてきました。

冒頭の句は、秀吉と戦い、最終的に切腹して果てた長治の辞世です。

長治は、織田信長の中国進攻の際、黒田如水の説得を受け、信長に従ってその先鋒となることを引き受けますが、実際に中国攻略の司令官として羽柴秀吉がやってくると、突然叛旗を翻し、三木城に籠城しました。
この長治の行動に怒った秀吉は、三木城を完全包囲。天正6年(1578)3月から天正8年1月までのおよそ2年間、後世に「三木の干殺し」と呼ばれることになる兵糧攻めで長治を降伏させました。

■長治の最期

このときの三木城内の有様はまさに惨憺たるものでした。草木、犬猫、虫、牛馬はもちろん、餓死した仲間の遺体をもむさぼる有様で、塀の下や狭間の陰に飢えた兵士が伏し倒れていたそうです。

辞世にも顕れている通り、長治は城兵の命と引き換えに切腹します。『天正記』には、長治が三歳になる子と夫人を刺し殺し、「われら三人の命で、兵士が助かるのだから、これが最期の喜びだ」と言って腹を斬った旨が書かれています。

ちなみに長治と共に、弟の友之、家老の三宅治定なども腹を斬りました。友之の辞世は「命をも 惜しまざりけり 梓弓 末の世までの 名を思ふ身は」でした。

長治は享年23(『寛政重修諸家譜』より。26歳説あり)。友之享年21。
二人とも、現代人の感覚ではまだ新社会人といったところでしょうか。ですが、父が早世してしまい幼くして家督を継いだ当時の長治は一城の主。戦国大名です。
経験の量は長く生きている者には叶いませんので、後見役として一族の者が側にいたようですが、最期に詠まれたこの辞世は、長治の覚悟と、リーダーとしての気概と覚悟を感じずにはいられません。

現在、三木城跡には長治の像とその辞世の碑が建てられています。長治は死後も末永く、地元の人々に慕われています。

■三木城跡の場所


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rokumonsen

前回放送の大河ドラマ『真田丸』第10回は、引き続き誰につくかの戦国模様。今度は上杉に再び擦り寄りましたね〜。信繁は後に三十郎と共に上杉家に名目上は人質としてしばらく滞在することになるはずですが、それはまだ少し先のお話です。

さて、ところで今回は真田といえば触れないわけにはいかない、家紋についてです。

六文銭の意味

真田家の家紋といえば「六文銭」(ほかに「六連銭」「六道銭」とも言う)が一番よく知られています。上の写真にもある通り「六文銭」は、当時の穴あき硬貨を上下3つずつ、計6枚並べたシンプルながら一風変わったデザインの家紋です。

この六文銭の意味としては、こんな説があります。

人が亡くなった時、死者があの世に向かう際に渡るとされる「三途の川」というのを聞いたことがあるかと思いますが、その「三途の川の渡し賃」が六文銭というわけです。つまり、「六文銭」の家紋は、「真田軍は死を覚悟で戦う」という決意を表しているものだというわけです。なかなか戦国時代ならではという感じのする意味ですね。

ところで、「真田といえば六文銭」は定着していますが、実は真田家では「洲浜」「結び雁金」などの家紋も使用していました。「六文銭」使用の由来は上記のとおり、戦闘における覚悟を示すというようなものだったため、元々は旗印など武具に利用することが多く、平時には「洲浜」「結び雁金」といった家紋を用いていたそうです。

…と言っても、次第に「六文銭」使用率は高くなっていったようで、当時としてもだんだん真田=六文銭になっていったのかもしれないですね。
 

■六文銭は元々"真田氏"のものではなかった

非常にアグレッシブな意味を持つ「六文銭」の家紋。いったいいつから使っていたのでしょうか。それを知るために、真田氏のルーツを少し調べてみました。

真田氏は、実は出自が未だ不明確な一族でもあります。

江戸時代に書かれた系図では、真田家は「信州の名族海野氏の嫡流である」としてあるそうです。「真田」を名乗ったのは、昌幸の父・幸綱(幸隆)の代だといい、つまり、昌幸は「真田」と名乗ってからは二代目ということになります。なぜ「真田」かというのは、どうということもなく、住んだところが真田郷だったから、地名からとったということになっているようです。
 
しかし、先学によれば、真田氏という氏族はこれ以前にもこの地に存在していたとみられる史料もあるらしく、何らかの理由で幸綱以降の真田氏は、経歴を改竄していたのかもしれないのだとか。

少し脱線しましたが、家紋としての六文銭は、この海野氏が使い始めたものだったそうです。
戦国時代から遡ること300年前の源平の時代ごろに海野幸広という人物がいます。この人物は朝日将軍と呼ばれた木曽義仲に従った人物で、幸広が討死した後ごろから、この六文銭を使い始めたらしいという説があるのです。

ただし、旗印として使い始めたのは先の昌幸の父である幸綱であるとする記録もあるようです。いずれにしても六文銭=真田氏というイメージが定着してはいますが、ルーツは祖先(とされている)海野氏にあったということですね。

※余談ですが、海野氏はさらに古く遡ると滋野氏という一族の出身で、この頃にもすでに六文銭を用いていたとする説もあります。


■信繁は大坂の陣では「六文銭」を使っていない?
oosakanojin

信繁一世一代の大戦となった大坂の陣。小説やドラマなどでは「六文銭の旗印を翻した信繁(幸村)が家康本陣を襲う」というシーンがよく描かれますよね。信繁を描くうえでの一番の見せ場とも言えそうです。

しかし、大坂の陣の際には信繁は六文銭は使っていなかったという説があります。真田の本家は信繁の兄・信之が継いでおり、関ヶ原の戦い以来、徳川家に従っていました。大坂の陣には信之の嫡男・信吉が徳川方として参戦しており、これに憚って信繁自身は家紋を用いず、軍装を赤で統一した赤備えにて目印としたというわけです。

たしかに大坂冬の陣図屏風(東京国立博物館蔵)などの合戦図屏風を見ると、信繁が大坂城に築いたとされる出丸「真田丸」には、赤い幟に赤備えの兵士たちは描かれていますが、六文銭は描かれていません。

信繁が冬の陣ののち、信吉に会いに陣まで行って会話をしたというエピソード(『翁物語』より)があったり、姉の村松殿に宛てた手紙も残っていたりしてまして、敵味方に分かれても、信繁は一族への親近感を変わらず持っていたように思いますので、本当に一族に憚って紋は用いなかったのかもしれませんね。



いやー、決死の覚悟が家紋・旗印にも現れているとはさすが真田氏です。家紋はともかく、旗印は他の武将もけっこうそれなりの意味があって用いていたりして興味深いですね。機会があれば、他の武将のものも紹介できればと思います。



【参考文献】
真田信繁―「日本一の兵」幸村の意地と叛骨 』三池純正:著 宮帯出版社 2009年刊
真田幸村と真田丸: 大坂の陣の虚像と実像 (河出ブックス) 』渡邊大門:著 河出書房新社 2015年刊 
決定版 図説・戦国合戦図屏風 (歴史群像シリーズ特別編集) 』学習研究社 2004年刊 
闘将真田幸村: 大坂の陣・真田丸の攻防 (河出文庫) 』清水昇:著 河出文庫 2015年刊
 

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PA140433

オッス!オラ信繁!徳川に味方して北条家と対峙することに決めたと思ったら、今度は急に徳川が北条と和睦!
父上の思惑が再び振り出しに…。またしても次なる策を練らなきゃいけねえ!次回「妙手」!絶対見てくれよな!

…軽すぎる始まり方でごめんなさい。まだまだ平穏無事とはいかない戦国まっただ中の信濃を描く『真田丸』です。

9話では、父・昌幸が上杉軍の海津城代・春日信達(演:前川泰之さん)を嵌めた策謀に納得いかない信繁の苦悩が描かれていました。今回はここに注目してみたいと思います。


■春日調略おさらい

元々、信繁は父・昌幸から「春日を調略して、真田が北条に寝返る時の手土産にする」と聞かされていました。このため、「春日を翻意させて共に北条につく」という考えで調略にあたっていたわけです。実際、熱心に春日信達の利を説いて、寝返らせようとするシーンがあったかと思います。

ところが、昌幸の狙いはもっと遥かに深いところにありました。
 
まずは「北条につくために春日調略を手土産にする」。これ自体は信繁に話していた通りです。しかし、実は徳川家康の動きも、上杉家中の動きも、両方とも密偵によって入手していたのです。すなわち、以下のようなことです。

1.徳川家康が甲府入り。つまり、信濃遠征中の北条としては、徳川軍が攻撃してきた場合、前に上杉、背後に徳川と、敵に挟まれることになる。
→【昌幸さんの思惑】というわけで、北条がまず撤兵するじゃろう。

2.越後領内では上杉配下だった新発田氏が叛乱を起こしたという。
→【昌幸さんの思惑】となれば、上杉も撤兵するに決まっておる。

元々、北条が信濃国を攻略をする動きを見せていたため、昌幸は先に義理に厚い家風の上杉家に近づいて「北条が攻めてきたら助けてやる」という約束をしてもらいます。そのうえで春日信達を調略してそれを手土産に北条に寝返ったわけです。これで北条家にとっては上杉攻略が楽になるため、北条に恩を売ることが可能になると考えていたのです。そして、これは(一応)そのようになりました。

さて、昌幸の策はまだ続きます。今度は、寝返らせた春日信達を弟の信尹に殺害させ、その死を、あたかも「事が露見して上杉景勝に殺害された」ように見せかけたのです。春日が死んでしまっては、北条有利に事をはこぶ策が崩れたことになります。この時点で北条も徳川家の甲府入りを察知していましたから、北条としては上杉との合戦に時間がかかるのは困るわけです。

そのうえ、ダメ押しとして昌幸は、佐助を使い北条氏直に「上杉軍が実は大軍を擁している」と吹き込んだり、春日が殺害されたことを確認してざわめく北条陣内で「攻めかかるべき」などと進言しつつ、北条氏直が「撤兵する」と言うように仕向けていきました。氏直が「相手の言うことと逆のことをしたがる男」と捉えていたためでしたが、これも大当たり。最終的に氏直は撤兵を決めました。

これによって、北条軍は撤退、上杉軍も越後の叛乱を抑えなくてはならないため、北条が撤兵するのなら信濃にいる意味はなくなりますので、撤兵していきます。

結果はアラ不思議というかお見事というか、昌幸は、策によってまんまと信濃から有力大名を追い出すことに成功したわけです。


■策謀は何のためにするのか?

しかし、「春日信達を味方につけるんだ」と純粋に考えていた信繁は、春日を騙して殺害したこの計略に携わったことを後悔していました。春日を騙したことはもちろん、手段を選ばない策を弄する父・昌幸にも反発心を持っていたのでしょう。おまけに9話劇中では、昌幸に「お前は策とは何かをまだ知らぬようだ」と言われてしまいます。

そんな信繁に出浦昌相、堀田作兵衛やその妹・うめたちがそれぞれ声をかけます。
 
出浦昌相「信達にも非があった。あやつは恩ある上杉を不服に思い、己の意志で裏切った。自業自得とは思わんか。お前は優しすぎる。もっと強くなれ…。」

経緯がどうあれ、最終的に真田を信じて、上杉を裏切ると決めたのは春日信達自身です。春日が自分の意志で真田を信じることに決めたこと自体は、真田の思惑通りかどうかは関係ありません。

ましてや戦国時代の生き残り合戦をしているわけですから、「共に生き残る」という選択肢を選べること自体も少ないでしょう。己の人生は己が決める。春日もそうして、結果倒れた。真田は逆に生き残った。
しかし、まだ戦場にも出ていない信繁はまだ考えも若く、なかなか納得出来ないという描かれ方だったのだと思います。

しかし、自身が考えてもいなかった「春日を殺害した」という後悔が晴れない信繁は、堀田作兵衛やその妹うめにも意見を聞きに行きます。作兵衛兄妹からの言葉はこちら。

作兵衛「戦はやっぱり嫌なもんですよ。」「わしはここで畑仕事している方が性に合ってる…」

うめ「春日様には申し訳ないことですが、私は、ホッとしています。」「もし戦に勝って、でもみんな死んでしまって自分一人になってしまったら?」「大事なのは人の命をできるかぎり損なわないこと。そんな気がいたします。」

今回の春日騙し討ちは、先述の通り、上杉、北条共に信濃から引き上げさせることが目的でした。そのために昌幸は春日一人を犠牲にした策を展開したのです。結果的に見ても、信濃での戦はなくなりました。何を守りたいのか。それを自分の頭で考えて、そのためにできるあらゆる行動をとる。今回の昌幸の策謀もそういうことでした。
信繁はうめの言葉で、父の考えを理解するとともに、自身の考えも一歩進めることができたのだと思います。

考えてみれば、天下統一もその延長線上にあると言えるかもしれません。例えば信長や秀吉、家康らがいつからどこまで考えていたか(考えてなかったかもですが。。)は別として、ただの権力掌握だけが目的だったわけではないでしょう。そこには"自分に従う者たちの命を守る"="万民の平和"という志があったのではないでしょうか。
…まあ…描いていた形は様々だったでしょうが…。。。 


…さてさて、今回ラストであっさり北条と和睦した家康。次回は再び戦国まっただ中の模様です。家康とどう対峙するのやら。

次回もお楽しみです。
 
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sanadanenpyou

第8話のワンシーン
作兵衛「北条のヤツら!蹴散らしてくれる!」
うめ 「兄様!違います!敵は上杉!」
作兵衛「…。もうわからなくなった。とにかく攻めてくるやつらが敵じゃ」

……。

まさしく「昨日の敵は今日の友、逆もまた然り!」…と、言わんばかりの世渡りを展開している真田家。
登場人物の堀田作兵衛さんも敵が誰だかわからなくなっているようでしたので、いったん現在までの真田家周辺を時系列で整理してみました。

ちなみに第2話で武田家は滅亡しましたが、現在、劇中時間ではあれからだいたい4ヶ月です。
真田家にとっては、生涯初の生き残り激動の時間を主家がなくなるってホントに大変だなあ。

■「真田丸」年表

注)★付の日付は実在の史料からわかるものを記載しました。話数は大河ドラマ『真田丸』における話数。

時は天正10年(1582)です。『真田丸』は放送開始から今(第8話)まで、ずっと天正10年です。

【武田時代】
3月上旬
・昌幸、岩櫃城に出発
・信幸・幸村、父に遅れて岩櫃城に出発(1話)

3月11日★
・武田勝頼が甲斐国田野で自刃。武田家が滅亡する。(2話)

3月12日★
・昌幸、北条氏邦から書状をもらう。

3月中旬 
・信幸、上杉景勝への密書を持っていくも途中で室賀正武に奪われる。
・が、昌幸の策略と知らされて落ち込む。(3話)

【織田時代】
3月18日★
・真田家は織田信長に臣従する。
・この時、昌幸・信繁、徳川家康と初対面。(4話)

4月 8日★
・昌幸が信長に馬を送り、真田家は正式に織田軍・滝川一益の所属となる

5月   
・信繁、織田家への人質となる姉・まつの付き添いで近江国安土城下に到着。(4話)

6月 2日★
・本能寺の変 ※徳川家康、伊賀越え開始。(5話)

【フラフラから上杉時代】
6月
・昌幸、弟の信尹を遣わして、上杉景勝に接触。(5話)
・信繁、姉・まつたちとともに安土を脱出し、信濃に向かうも姉とはぐれる。(6話)
・昌幸と信幸、滝川一益に会い、明智光秀を討つよう促す。(6話)
・昌幸、国衆会議で北条家につくことを了承。(6話)
・真田信尹、北条氏政に会い、滝川一益の上野国に侵攻しないことを約束させる。(6話)

6月13日★
・山崎の合戦で明智光秀敗死。
    
6月18日〜
・北条軍、上野国に侵攻開始。神流川の戦いで滝川一益と激突。
・昌幸、どさくさ紛れに沼田城と岩櫃城を奪回。すぐに一益にバレて人質を出させられる。(7話)
・昌幸、一益が信濃を退去した後、上杉景勝に接触(7話)

【北条時代】
7月12日★
・北条氏直、小県郡海野平に侵攻し、上杉景勝と対峙。昌幸は北条氏に臣従。

7月13日〜    
・信尹と信繁、春日信達を調略のうえで殺害(8話)
・北条、上杉双方ともに撤兵。北条は徳川軍の侵攻、上杉は家臣の叛乱による。(8話)
・昌幸、信濃は国衆で治める宣言(8話最後)


…というわけで、わずか4ヶ月で、真田家は主君が4人も変遷しています。
わかりやすくしたくて整理したけど、そもそもわかりやすくなる状態ではなかったようだ…。上杉時代とかはどちらかといえばどっちつかずのような気もします。

まあでも、超簡単にすると

武田
織田
上杉
北条
独立決意←いまここ

でしょうか。

しかし4ヶ月も生き残るか滅びるかの瀬戸際で策を練りまくっていたわけですね〜。恐るべし真田昌幸…。

一応、8話は昌幸の独立決意で終わりましたが、まだまだ徳川、北条、上杉は健在。それぞれが駆け引きをしているような状態ですので、まだしばらくゴタゴタします。しかも…7話でチラッと出てきた秀吉も出てくるし…。

作兵衛がますます困惑してしまうぞ。

と、とりあえず次回もお楽しみです。


【参考書籍】
真田昌幸 (人物叢書 新装版)』 柴辻俊六著 吉川弘文館 1996年
真田昌幸のすべて』 小林計一郎編 新人物往来社 1999年 


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syuriken

安土から引き上げる途中で明智軍に見つかり、姉・まつを救えなかった信繁。そのことで自分を責め、「自分は兄より才があると思っていたが、そんなことはなかった」と落ち込んでしまいます。

後世名将と讃えられることになろうとも、物語の時間では、信繁はまだ20歳にみたない若者。青臭さも描かれる今回の大河ドラマは、三谷さんが放送前からおっしゃっていたという「あくまで史実」といえる気がします。史料が残っているかどうかとか、そういう学術的なことでなく、ドラマとして。

さて、本日は戦国時代の"影"を担う忍者について調査してみました。
シブすぎる寺島進さん演じる、シブすぎる出浦昌相も忍者です。

■"忍者"といっても呼び方にもいろいろある 
ninjya

第6話では、信繁が安土から信濃に戻る途中で出浦昌相に会いましたよね。
当時、昌相は信長の家臣だった森長可に与していたんです。昌相は信繁に「これからどうされるのですか?」と聞かれ、「スッパは目先の損得では動かぬ。一度家臣と決めたからには、最後まで尽くすのが我らの流儀」と返しました。まったく、シブすぎますね。

ところで、ここで注目なのが"スッパ"です。スッパというのは要するに忍者のことです。漢字では"透波"とか"素っ破"とか書きます。戦国時代の忍者たちは、地域や属する大名によって様々な呼び名があるようです。

武田家の場合は"透波"。上杉家の場合は"軒猿(のきざる)"。忍者といえば"伊賀者"や"甲賀者"も有名ですよね。そういえば先日の放送で、家康の伊賀越えで"ひたすら押し通った"服部半蔵も伊賀者の忍び出身です。

その他にも東北の伊達家に所属していた"黒脛巾組(くろはばきぐみ)"という忍びの者たちもいます。彼らは黒皮の脚絆(きゃはん)を履いていたそうで、つまり、その外見が呼び名になっていたんですね。

相州乱破(らっぱ)の"風魔党"なども小説などによく登場して知られています。頭領の風魔小太郎は、身長7尺2寸(215センチ)、目が逆さに裂け、毛むくじゃらの顔をして口からは牙が4本生えていたという鬼のような面相だったとか。しかし、これは風魔を畏怖させるためのイメージ戦略だったと言われています。…ですよね〜…。

【参考】忍者の呼び方色々
忍者、忍び、忍びの者、くさ、芝見、目付、見分、忍目付、斥候、物見、かぎ物見、外聞、乱破、透破、忍物見、出抜(すっぱ)、奸(かまり)、大奸(だいかん)、小奸、姦、伊賀者、甲賀者、隠密、隠し目付、検見、遠候(かぎ)、軒猿、黒脛巾、座頭衆など、地域性と質的相違によって呼称が異なる。
『歴史群像シリーズ71 忍者と忍術』P.74より。(学習研究社刊。2003年10月)

…呼び方いろいろすぎるだろ…。

■出浦昌相の経歴

さて、それではドラマに登場している出浦昌相という人物についても調べてみましょう。

出浦昌相は、武田信玄と争った信濃の戦国大名・村上義清の一族と言われています。元々は真田家と同じく、武田信玄に仕えていて、当時から昌幸とは関わりが深かったようです。
武田家滅亡後は、所領の関係もあって、織田家の家臣で信濃に赴任してきた森長可に所属しました。
んで、先ほど出てきた、大河ドラマ6話の1シーン「森長可の軍勢を昌相が護衛する」というようなことも経て、以後は真田家で"透波"働きをして活躍。元和9年(1623)に亡くなる…というのがざっくりまとめた史実の昌相の経歴です。

なお、資料では「出浦対馬守盛清」という名前で記されていることが多かったので、より詳しく知りたい方はこちらの名前で調べるといいかもしれません。

余談ですが、森長可を護衛していった結果、彼は長可から刀を拝領したそうです。短期ながら忠節を尽くした褒美だったようで、ドラマでも昌相自信が言っていたとおり、乱世なればこそ「最後まで尽くす」という彼らの流儀に価値が出たわけですね。


■出浦昌相の部下管理法

この出浦昌相について、面白い話がありましたのでご紹介します。真田昌幸の伝記『長国寺殿御事績稿』という書物にこんな記述があるそうです。

「出浦対馬守、甲州信玄へ給仕せり。其の比スッパを預り、他国の城へスッパを入れけるに、其のスッパより先に城内へ忍び入り、城内の様躰具に知りて帰りける。スッパは行かずして偽りて、行きて見たる由云ひける時、対馬スッパの行かざる事を見届け、其の身行きたる印を顕はしけるにぞ、手柄の程顕れしと也」
『歴史群像シリーズ71 忍者と忍術』P.121より。(学習研究社刊。2003年10月)

簡単に言うと、部下に敵城に忍び込むように命じた後、自らその城に忍び込んで内情を探ってきて、部下の報告が正しいかどうか、部下がちゃんと働いているか確認していたというわけです。なんと恐ろしい上司なのか…。
昌相は、武田家・真田家において多くの忍びを育成したといいますから、これも育成の一貫だったのかもしれないですね。なんとなく寺島さんの昌相像から想像できる気がする…。


■真田の忍びといえば「真田十勇士」
jyuyuushi


ところで、真田家でしかも忍者といえば…「真田十勇士」を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか?

講談で、その常人離れした能力での活躍ぶりが描かれて人気を博した架空の人物たちです。猿飛佐助、霧隠才蔵、海野六郎、筧十蔵、根津甚八、三好清海入道、三好伊佐入道、望月六郎、由利鎌之助、穴山小助の10人。
全員忍者的役割を果たしたというわけではないですが、忍者の任務は「諜報」「防諜」「謀略」が中心。そういう意味では、いずれも特異な力で任務にあたったメンバーといえます。

彼らは、モデルとなる実在の人物があったとされている者もいるようですが、詳細はまた機会があったらご紹介したいと思います。

大河ドラマでは佐助(演:藤井隆さん)が登場しています。「佐助」という名前ですが、猿飛佐助というわけではないようです。名前のモチーフが猿飛佐助なのかもしれませんね。昌幸が「おーい、佐助」というだけで3秒で出てくる様子はさすが忍び(笑)。これから合戦シーンなどでどのような活躍するのかも期待です。



こうして調べてみるとなかなか興味深い忍者という職業。「情報」をいかに早くつかみ、いかに漏らさないか、そういったことも重要な生き残りの要素だった戦国時代において、これに従事した「忍者」という役割は平穏な時代よりもはるかに重宝されたでしょう。実際に、江戸時代以降、忍者の数は減少していくそうです。

さて、明日の放送では滝川一益に昌幸のウソがバレる!らしい!次回もお楽しみです。

【参考書籍】
忍者と忍術―闇に潜んだ異能者の虚と実 (歴史群像シリーズ (71)) 』 
概説 忍者・忍術 』 
真田三代―戦乱を“生き抜いた”不世出の一族 (新・歴史群像シリーズ 10) 』 


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nihontou

家康といい、昌幸といい、本能寺の変は想定外。いかに後世「たぬき親父」だの「表裏比興」だのと呼ばれようとも、急に信長が死んだとなればそりゃ決断しかねますよね。そんな様子が描かれた気がします。『真田丸』第5話。昌幸は最終的には「面白うなってきた」って言ってましたけどね^^;

伊賀越えのすごい道中もある意味リアルでよかったです。
家康「半蔵、ここはどうする?」
半蔵「押し通りましょう」
押し通ってばっかか!最後ドリフ状態だったのは三谷脚本ならではの演出かと(笑)。

さて、今回は真田家臣に注目してみました。
ドラマでは真田家の家臣はメインどころとしては4人出てきています。ご紹介しましょう。

まず1人目。いつも信繁の側にいる「三十郎」こと矢沢頼幸(演:迫田孝也さん)。たまーに登場している昌幸の叔父・矢沢頼綱のせがれです。もうこの「昌幸の叔父の息子」という出自からも真田家にとって重要な家柄の家臣なのがわかりますね。

2人目はご存知小山田茂誠(演:高木渉さん)です。信繁の姉・まつさんの旦那さんですね。いまはまだ真田家に正式には戻れていませんが、昌幸にナイショで下人に扮して安土に来ています。今は不遇の時ですが、真田一族の人を妻に迎えているので、少なくとも元々重臣だったはずです。

3人目は高梨内記(演:中原丈雄さん)。きり(演:長澤まさみさん)の父で、昌幸に長く仕えており、いまや真田家の重臣ですね。

そして4人目が堀田作兵衛(演:藤本隆宏さん)です。信繁に思いを寄せる梅(演:黒木華さん)の兄で、以前の放送回では、室賀の郷の者が畑を荒らすというので、真田郷を守るために戦いに行きました。

個性豊かに描かれているこの4人、真田家に仕える武士であることには変わりないのですが、劇中で内記のとっつぁんが堀田兄妹と仲良くしている娘・きりに「堀田家とうちでは家格が違うのだぞ」と苦言を呈する場面がありましたよね。
 
さて、それでは、この二人の「家格の違い」とはいったいどんなもんなのでしょうか。


■堀田家は地侍、高梨家は武家

というわけで、手持ちの真田に関する本をいろいろ見てみました。
…が…、「高梨内記」の名はよくみるのですが、作兵衛はほとんど紹介されていない…。唯一手持ちの本で作兵衛の紹介があったのは『新歴史群像シリーズ10 真田三代』の「真田三代人物事典」のページだけ…。作兵衛は信繁に従って、この先大坂の陣にも参加することになりますが、その辺のことくらいしか書いていませんでした。。。

そこで、手がかりとして注目したのが、これまた内記のセリフの中にある「地侍」という言葉。そう、堀田作兵衛は地侍であり、高梨家は武家なのです。だから家格が違うってわけ。

なるほど…わからん!
…あ、いや、わかったようでわかってないって感じです…。身分が違いそうな空気感はかもしだしていますが、地侍というのはいったいどういった人なのか。


■"地侍"の身分とは

劇中では、先述のとおり、作兵衛が真田郷の山を荒らしに来るのを成敗するエピソードが入っていましたね。この他、普段は農業などにも従事している風でしたし、どうやら、どちらかといえば農民に近いのが地侍のようです。ちょっと『角川日本史辞典』でも「地侍」をひいてみましょう。

地侍 じざむらい
 
中世後期の村落で、百姓身分ではあるが、侍衆として一般の百姓とは区別されていた階層。守護の被官となり、軍勢催促される場合もあった。南北朝以降台頭した有力農民層を主とし、戦国期には少領主として郷村を実質支配。戦国大名は彼らを編成することにより権力基盤の拡大をはかった。
 
『角川日本史辞典』(角川書店刊)より

ふうむ、なるほど。『真田丸』は言うまでもなく戦国時代の話ですから、地侍である作兵衛は、ある一つの村落の代表=すなわち小領主的立ち位置だったわけですね。
また、身分で言うと百姓身分。戦国時代は現代と違って身分の上下が色濃くあった時代ですから、百姓身分の堀田家は、武家身分の高梨家とは「家格」に違いがあるということです。内記が仕える真田家、さらに真田が仕えていた武田家も含めてまとめると

武田家(戦国大名)→真田家(国人領主)→高梨家(武家)→堀田家(百姓)

といったところだったみたいですね。



まあ家格が違うとかなんとかいっても、信繁は作兵衛の妹・梅を側室に迎えることになりますし、きりも側室になります。上の立場にある人間が気にしなければ、家格の違いはさほど問題ではないのかもしれませんね(信繁が珍しいケースなのかもですが)。

さて、すっかり記事を書くのが遅れてしまったので、次回放送はもうすぐ。次回は北条家との駆け引きも描かれるようです。次回もお楽しみです。

【参考書籍】
真田三代 (新・歴史群像シリーズ 10)
角川日本史辞典

 
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kawanakajima

今週の大河ドラマは昌幸と、貫禄充分な織田信長の対面と、のちに因縁の関係となる徳川家康(演:内野聖陽さん)との対面が印象的な回でした。

その徳川家康が対面の席で突然言い出した、"三方ヶ原で見たという強い侍大将―"。その名も「武藤喜兵衛」。
放送のなかでは、はっきりとは明言していなかったように思いますが、「武藤喜兵衛」は昌幸の前名。
本能寺の変が起こった第4回時点の年代では、数え37歳の昌幸はすでに「策士」風ですが、その若かりし頃はいったいどう"強い"のか!昌幸の過去を少し調べてみました。


■真田昌幸の幼少期

昌幸を演じる草刈正雄さんは今年63歳。30歳近く若い役をやりながらも、けっこうハマっている気がしてなりません。

その昌幸は、生年は天文16年(1547)とされています。幼名は源五郎。徳川家康より5歳年少。織田信長より13歳年少です。1547年の真田家は、父の幸綱がちょうど武田家に従うようになったころです。
昌幸は三男で、長兄には信綱、次兄に昌輝という2人の兄がいました。

やがて昌幸は人質として信玄の元に送られます。昌幸が7歳の頃です。
ちょうど「真田丸」でも第一話で、真田一家は人質として新府城内の屋敷に住んでいたという描写がありましたが、多くの戦国大名の例にもれず、武田信玄も自分に従う者の妻子などを人質として差し出させて、忠誠を誓わせていたわけです。もし父・幸綱が信玄に叛くようなことがあれば、たちまち殺されてしまうという厳しい役目でもあります。

とはいっても、昌幸の場合は、その才能に注目した信玄によって、その側近「奥近習衆」として取り立てられましたので、そんなに悲壮感のある"人質"ではありません。

「奥近習衆」というのは、いわゆる信玄の秘書のような役割を果たす若衆たちで、昌幸はその中でも最年少での抜擢だったそうです。さらに、通常は特定の重臣だけで行う軍議にも、数人の若衆たちとともに同席を許されるなど、元々人質だったにも関わらず、かなりの英才教育を受けていました。信玄公の期待ぶりがうかがわれますね。


■昌幸の初陣・川中島の戦いと「武藤喜兵衛」になった時期

昌幸の初陣は、永禄4年(1561)の第四次川中島の戦いでした。この時も信玄の側近くで主君を守護する役目についていたようです。

しかし、この第四次川中島の戦いといえば、"信玄公と上杉謙信公の一騎打ちがあった"とまで伝承されるほどの激戦だった戦い。武田家歴戦の勇将たちも、その多くが討ち死にしました。そんななかでの昌幸の様子はといえば。

信玄本陣も危機にさらされましたが、御中間衆、廿十人衆らは信玄の姿を隠すように警護し、昌幸や土屋昌続、長坂源五郎らは信玄の側を離れず、全く動じる様子もなかったといいます。しかし、上杉勢は信玄本陣にも突入したといわれ、信玄を守る先頭で、同僚の初鹿野源五郎は戦死。昌幸は信玄を守り抜き、この激戦を生き残ったのです。
(『大いなる謎 真田一族』p129 平山優著:PHP文庫:2015年9月刊)

…という感じ。初陣で、後に「軍神」とか言われる上杉謙信公の軍と戦って、本陣まで攻め寄せられて「全く動じる様子もなかった」というのですから、さすがにドラマの大胆不敵さは、若い頃から発揮していたのかもしれません。

このように初陣でその「強い侍大将」ぶりを見せた昌幸は、信玄からますます信頼され、信玄の母・大井氏と連なる武田の一族・武藤氏を相続することを命ぜられ、1567年ごろに武藤氏を継いで、武藤喜兵衛と名乗ったのです(名乗った時期は諸説あり)。

…余談ですがこの川中島信玄警護隊の皆さん…。長坂源五郎に、初鹿野源五郎…。昌幸も幼名は源五郎です。ゲンゴローが流行しているな。


■三方ヶ原よりも三増峠の戦いの活躍が知られる

ところで、冒頭に書いたtとおり、ドラマの中で家康がその活躍ぶりを口にしたのは「三方ヶ原の戦い」でしたよね。この戦いは武田信玄対徳川家康の戦いですが、それよりも昌幸の勇猛ぶりがうかがわれるのが、永禄12年(1569)の「三増峠の戦い」です。
この戦いは、信玄公が北条氏の小田原城を攻めたものの果たせずに、甲斐に戻る際、それを阻もうとする北条軍と激突した戦いです。結果的には武田軍が勝利しています。

昌幸はこの戦いでも、信玄公の近習として従軍していましたが、「御検使」(端的に言うと目付的な役割)として、前線の馬場信春隊に向かうよう命ぜられます(信玄は大将なので後方に陣取っています)。
そして、昌幸が馬場隊に着いたところ、ちょうど北条軍が攻撃してきたこともあって、結果的に一番槍として敵陣に斬りこむ活躍をすることになったのです。かなりの勇猛ぶりですね。

さて、ドラマで話題になった「三方ヶ原の戦い」での活躍についてです。
昌幸は、信玄の西上作戦には参加していたようですが、三方ヶ原の戦いでの具体的な働きぶりは史料がないのか、調べた限りではよくわかりませんでした。
でも、参戦していたのなら、若い頃からこれだけの活躍ぶりを見せている昌幸のことですから、役割は確実に果たしていたのでしょうね。


…というわけで、「策士」というイメージが強い昌幸ですが、ドラマ中で家康が言っていた「強い武将」時代がありました。いまは「武藤?存じませんなあ」とシラを切る策士になりましたが。まあ腕っぷしだけが「強い武将」というわけではないですかねえ?


…さて、ここからは余談の感想記↓

今週の"喜劇"(?)部分は、やっぱりこの人・小山田茂誠氏(演:高木渉さん)。
彼は、なんか武将っぽくないところが逆に味が出てますね。

茂誠を匿う作兵衛の家のシーン。信幸が「茂誠どのを匿っているであろう」と乗り込んできた時の、女性衆の茶番劇は、さすがに信幸も気づいていたみたいでしたが、やはり姉の旦那ですからね。信幸も本心としては処分したいわけではないのでしょう。

とはいえ、先日記したとおり、彼は「真面目」が性分。家長になる身としては、本人の意志がどうあれ、やはり主家・武田家を滅亡に導くことになった小山田信茂に与した茂誠氏を許しておくわけにもいかないというところなんでしょうね。家長はツライよ。

一方、不純(?)な理由で安土行きを熱望した松さん(と信繁)ですが、さすがの昌幸もその策謀まではわからなかったようですね(笑)。でも、ラストでは本能寺発生。せっかく織田家に従うことになって一安心と思ったら…。まさに「激動」の天正10年(1582)の戦国模様です。

次週は家康の伊賀越えも見どころですね。次回もお楽しみです。


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