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極悪人家康公も孫の前ではいいおじいちゃんでしたね。
合戦前は秀忠公の「千はどうなるのです」の言葉に「やむを得まいが」と言っていましたが、そうは言っても孫ですから。救えるものなら救いたいという気持ちではいたのでしょう。
■冬の陣の幸村の活躍
久々の活躍となった真田幸村は、大坂の陣では、大坂城南側に「真田丸」と呼ばれる出城を築いて戦いました。真田丸は三日月形の縄張りで、「偃月城」とも呼ばれたそうです。
この真田丸は、なかなかにして堅固な造りで、空堀、塀、さらに塀と空堀の間には3重の柵が張り巡らされ、随所には櫓、井楼も備えられていたと記す記録もあるようです。しかし、それもそのはず、幸村はもともと「打って出ていって先手を取り、敵の拠点を占領すればこちらに内応する大名が出てくる」という戦術を唱えており、籠城には反対でした。
ところが、大坂方に集まった幸村を含む一部の浪人衆は、なぜか豊臣家の中枢を担う大野治長や淀殿からあまりよく思われておらず、淀殿らが籠城を唱えたことにより、豊臣方としての戦術も籠城と決してしまったようです。ドラマではこういった様子は見られませんでしたが、幸村にとっては、心ならずも籠城…というのがホントのトコロのようです。
なので、幸村はならば出城で、と真田丸にて奮戦をします。
真田丸には前田利常隊が奇襲をしかけ、続いて松平、井伊といった大名の軍が突撃を敢行しますが、幸村はこれをことごとく退けます。
業を煮やした家康は、徳川軍に従っていた幸村の叔父・信尹を使者にたて、幸村に信州10万石を与えてやるから寝返るように、と薦めます。しかし、幸村はこれを一蹴。結局、家康はあれこれ策をめぐらして豊臣方との和睦に動きました。
■夏の陣の幸村
冬の陣の家康からの和睦の条件は二の丸、三の丸の堀を大坂方で埋め立てること。ところが、家康はこの内堀埋め立て作業にさっさと徳川軍の人足を投入して、全部の堀を埋め立てて裸城にしてしまいました。難攻不落を誇った堅城・大坂城もこうなってはカタナシです。
こういう状況下で、幸村は再戦を予期していて、再戦の折にはいよいよ野戦となろうと考えていました。だから、様々作戦を練っていましたが、軍議でまたしても大野治長らに握りつぶされたそうです。
この大野治長という人物は、戦には疎い人物で、到底幸村の作戦に代わる必勝の策があったとは思えないのですが、豊臣家の中枢は彼や淀殿など戦をほとんど知らない人物が握っていたため、こういうことになったようです。
そうとはいっても、さすがに籠城はできないという結論に至ったものか、幸村をはじめとする浪人衆は城を出て、天王寺方面に陣を構えます。大和(奈良県)の方から進軍してくる徳川軍を奇襲する作戦でしたが、これはうまくいかず、豊臣方はここで浪人衆の部将・後藤又兵衛を失いました。(道明寺合戦)
幸村は、その後友軍と共に伊達政宗などの徳川軍と交戦し、敵を怖気づかせる戦いぶりを見せますが、他の地での味方の戦況が思わしくなく、秀頼から撤退を命じられます。
幸村は殿軍を買って出ましたが、徳川軍は幸村に秘策があるのではと疑って、ちっとも攻撃してきませんでした。幸村は、「関東勢は百万人にも届くかと思うが、男は一人もいないようじゃな!」とののしって引き揚げたという話が残っています。
ここで、いったん豊臣軍は軍を立て直します。幸村は茶臼山に布陣しました。軍勢の士気を高めるべく、秀頼に出馬も促しますが、秀頼は出馬しませんでした。淀殿らがとめたとも言います。
■家康、覚悟!
この状況で、幸村は家康の本隊が天王寺口方面に進軍しているのを察知します。幸村の布陣地から目と鼻の先の所に家康が来るということで、幸村は「今が時」とばかり、家康目指して突撃を敢行しました。
家康陣の前には松平忠直隊がいました。忠直は家康の次男・結城秀康の子で、1万3千人余の手勢を率いていたと言われています。これに3千5百ほどの幸村勢は「目指すは家康の首」と叫びながら猛然と突っ込んでいったのです。
松平隊の必死の防戦に数を減らしながらも、ついに幸村隊は家康の本陣になだれ込みました。家康の傍にいた旗本衆は悲鳴を上げて、家康を置いて逃げ去り、家康の傍にいたのは武者一人だけだったとする記録もあります。これには、さすがの家康も死を覚悟したことでしょう。「勝利をあきらめ、切腹をしようとしていた」とも言われます。
しかし、全体としては15万人とも言われる徳川軍に対し、5万強といわれる豊臣軍です。兵力の差は歴然。次第に押され始めた豊臣軍は随所で頼みの浪人衆が討ち死に。幸村もやがて力尽き、安居神社付近で松平隊の武士に討たれたそうです。
今日の放送でも最後の「紀行」コーナーで紹介されていましたが、幸村戦没地には石碑が建っているそうですね。今度行ってみよっと。
さて、幸村の奮戦ぶりを一説に従って振り返ってまいりました。長くなったので今週はこんだけにしときます。千姫のこととか秀頼、淀殿のこととか書こうと思ったんですが、今日はやめときます。
次回はいよいよ最終回。戦のない世の中になって、今後の上杉家はどうなっていくのか?
最終回もお楽しみです。
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あれから5年…。景勝の子・玉丸は剣術の稽古をするほど大きくなり、兼続の子・竹松も「景明」と名を改め立派に成長しました。景勝も兼続もやや年を重ねた感じが致しましたが…お船様お若いな!
最期の家康公は極悪でしたね。国家安康の一件は遠山康光が考えたことになってましたが…もしかして、ドラマの遠山はこのために家康の参謀的地位な描かれ方をしていたのかしら…。
■仙桃院さま
今回の放送で亡くなった仙桃院は景勝の実母で、先代謙信公の姉です。実に波乱万丈な人生を送りました。
「天地人」でも前半に描かれていましたが、仙桃院は上田長尾家の政景に嫁しました。上田長尾家というのは、それより前に家督を継いだばかりの謙信に背いて叛乱を起こしたことがあり、和すると共に、仙桃院が政景に嫁いだのです。
仙桃院は政景との間に二男二女をもうけており、その次男が、謙信の養子となったのちの景勝です。景勝は幼い頃から謙信に実の子のようにかわいがられたといいますから、仙桃院もこの時は喜びに包まれていたでしょう。
ところが、そんな中で第一の不幸が仙桃院を襲いました。夫の政景が変死をとげたのです。謙信の謀殺説も囁かれる不審な死でしたが、その証拠はなく、家中は騒然としたものの事なきを得たのです。
やがて、仙桃院の二女(華姫)が謙信のもう一人の養子・景虎に嫁ぎ、仙桃院も春日山城に移り住みましたが、間もなく謙信が死去。ここで第二の不幸が訪れます。家督をめぐって景勝と景虎が争い始めたのです。「御館の乱」が勃発したわけですが、重要なのは対立する二者が共に仙桃院の子であるということです。
景勝も仙桃院の実子なら対する景虎の妻・華姫(史実での実名は不明)も実子。華姫自身も夫と兄の対立に心を痛めたでしょうが、仙桃院もそれは同じでしょう。華姫の立場も思うと母として辛かったことと思います。
やがて敗れた景虎にしたがって華姫は自害。その最期は仙桃院の心に深い悲しみをきざみました。
その後は、上杉家と共に越後⇒会津⇒米沢への転封。最期は米沢で迎え、史実では景勝は上洛中でその死に目に会うことができなかったそうです。享年は定かではないものの80歳を越えていたといいます。
■国家安康、君臣豊楽
戦国時代好きな方なら、この「戦国の終焉」とも言われる大坂の陣勃発の発端となったこの事件は、有名な事件としてご存知でしょう。
どーしても豊臣を何とかしたい徳川家康は、豊臣家を攻める口実を探していました。そこで目をつけたのが、当時秀吉が建立した方広寺の大仏殿の再建の一環として豊臣家が鋳造していた方広寺梵鐘の鐘銘だったのです。
この梵鐘にはドラマでも遠山康光がわっるい顔で解説していた通り、「国家安康」「君臣豊楽」という文字が刻まれています。「国家安康」は「家康」の名を「安」の字で引き裂き呪うもので、「君臣豊楽」は「「豊臣」を君主として永劫楽しむ」という意味がある、という点をもって「豊臣家に謀叛の意あり」と決定付けたのです。
この大仏殿再建および梵鐘鋳造にあたっては、豊臣家は逐一徳川家に進捗報告をしており、ほとんど徳川方の言いがかりであると見る説が一般的ですが、鐘銘文を選定した僧侶が「意識的にかくし名として「家康」と入れた(でも、当然呪う気なんてないっす)」と証言したという史料を元に、たとえその気がなくても諱を入れるなんてアリエナーイ。豊臣方の重大なミスであると見る説があるようです。
ちなみに、ドラマでは遠山康光が提案・解説していましたが、これは家康のブレーンだった金地院崇伝など五山の僧侶や儒学者・林羅山らが指摘したものだったようです。
何はともあれ、徳川方としては豊臣を攻める準備はいよいよ整った形になります。次週は真田幸村も登場して、大坂冬の陣、勃発!…か?
次回もお楽しみです。
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久方ぶりの鑑賞と相成り申した。大河ドラマ「天地人」43話、44話本日連続の鑑賞でござる。
何かと忙しなき日々ゆえに、びでおに撮りためており申したが、いよいよ見ずば撮りだめ3週になるゆえ、本日一挙の2本通しとなったわけでござる。
もう忘れてしまったかもしれませんが、43話は兼続の弟・実頼が、本多政重の直江家婿養子入りをよしとせず、ご挨拶でやらかして追放される話。44話はその政重とその妻となった兼続の娘・まつの話と+α…でした。
ちょっと暗い感じの話が続きましたが、実際にもこの頃の直江家は、暗い話題続きなので仕方ない…。
■兼続の子供たち
兼続には実子が3人います。いずれもドラマにも登場していました。
長女お松、次女名不明、長男竹松(のち景明)の3人です。いずれも正室お船の方との間の子供ですが、これに加え、ドラマでもまだ描かれていない人も含めると、養子が4人いたようです。
その養子のうち一人は、竹松誕生前に本庄家から養子にとっていた長房です。彼は竹松誕生後に本庄家に戻ったそうですから、兼続も家名存続の心配をしていたのかもしれないですね。
さて、長男・竹松は文禄3年(1594)生まれ。年を重ねてからの待望の嫡男、しかも竹松は生まれつき病弱だったともいい、兼続が種々気遣いをした書状が残されているそうです。ドラマでも病に倒れるシーンが数週前にありましたね。
そして、次の養子が、前回の放送で出ずっぱりだった本多正信の次男・政重です。
■本多政重+兼続の子供たちのその後
この政重という人物は、来歴がなかなか過激でして、元は徳川家中においていさかいを起こし、秀忠の乳母の息子を殺害したことから出奔。
その後、大谷吉継、宇喜多秀家といった歴々の大名の下を転々としており、関ヶ原の合戦時には、西軍宇喜多家の配下として参戦。徳川家に敵対しています。戦後は主家の取り潰しにあって福島正則に拾われるも、長続きせずに退転。次に加賀の前田家に仕えたそうです。
これだけ各地を転々とした後、上杉家にやってきて兼続の徳川家に対する政略もあって、直江家の婿養子となったというわけです。
ドラマでは馴染まない人物として描かれましたが、兼続が彼を買っていたと想像される記録も残されているらしく、また、政重は後に退転して再び前田家に仕えるようになりますが、兼続との親交は継続したそうですから、あるいは政重にも直江家に対する思いはあったのかもしれません。
ありゃ、政重の話が妙に長くなった…。
ちなみにあと二人の養子は女性が二人で、弟・実頼の娘お虎(お松死後に政重の後妻)と、おまん(出自不明確)です。
子供たちのその後ですが、長女お松は政重との婚姻後1年と立たぬ内に病で死去(21〜22歳)、次女もそれ以前に病で死去(20歳前後?)。ここまでは前回の放送で描かれていましたね。
竹松はのち元服して景明と名乗り、政重退去後の直江家を継ぎます。大坂冬の陣にも参戦しましたが、病を得て間もなく死去(22歳)。実子3人はいずれも親に先立つという不幸に見舞われたというわけです…。無常なり…。
ああ…ドラマ同様になんだか暗い感じになってしまいましたが、「天地人」もいよいよあと3回。最終回は22日(日)だそうです。
次週は大坂の陣に突入する模様。かの有名な京都方広寺の鐘銘に対する家康の驚愕の言いがかりが炸裂する!
次回もお楽しみです。
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いやー、先週は何か記事を書こうと思っていたら、アレヨアレヨと次の週になってしまいました。関ヶ原の合戦も終わって、ビミョーにネタに困る放送内容になっております。つーわけで41回の記事はございません。
そんななか今週はついにきました、家康公征夷大将軍就任!
これで天下の流れは徳川家に…。で、遠山のやつばらめは、本多正信に並ぶ徳川家の参謀扱いなのかしら??悪い顔が買われたのかな??
■征夷大将軍
「征夷大将軍」というのは、朝廷から任じてもらう役職で、戦国時代の当時だと広い意味で武家の棟梁の地位の象徴として扱われた役職です。元々は、奈良・平安時代に関東以東の豪族の鎮圧をする役職でしたが、源頼朝が鎌倉に幕府を開いて以降、やがて武家の棟梁をさすようになったようです。
その征夷大将軍に家康がなって江戸に幕府を開いたということは、これすなわちあからさまに豊臣家より上ということを示したということに。豊臣家は関ヶ原合戦後の論功行賞で、65万石に領地削減されてしまいましたので、この流れは当然予想できたものでしたがそう簡単に立ち向かえるものでもありません。
だって、あんなんですよ?家康公。「なんか文句あんの?」ってジロってされて終わりですよ…きっと…。
家康は関ヶ原で勝ったことにより、もう豊臣家を追い越してしまったんですなあ。
■菊姫逝く
景勝の正室・菊姫が逝去しました。結局豊臣秀吉の時代に上洛して以来、ついに領国に戻ることはなく、米沢の地を踏むことはありませんでしたね。
菊姫は上杉家にとっては、かつて宿命のライバルだった武田家の姫。実家の滅亡を見て、嫁ぎ先の会津への大転封を見て、さらに関ヶ原後の米沢への転封を見て…と波乱万丈の生涯でした。最期は病によるものと言われていますが、異説もあるようです。
それにしても、景勝が秀頼への言上中に嗚咽する姿には感じるものがありましたね〜。普段は超がつくほどクールな景勝ですが、正室・菊姫の死には感情を押し殺すことができなかったのでしょう。何とかあそこまで来たもののブワっと出てしまったという…。
実際の景勝もクールで感情をほとんど表に出さなかったという話もあるみたいですが、実際の景勝は菊姫の死をどう受け止めたんでしょうね。
菊姫は享年47。墓は米沢林泉寺にありますが、病没後葬られたという京都妙心寺塔頭隣華院にもあります。
さて、来週はちょっと最近の兼続が気に入らない実弟・大国実頼どのがメインのお話。ツイホーされてしまうのか!?
次回もお楽しみです。
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もう…今年はね、本当にもう…。
家康悪いっすね!
気づいてたけど(今日も)再確認。もう真っ黒ですね。これでは家康公の人気が…人気が…下がってしまう!
…でも、ここで特に弁護しませんけどね。
■小早川秀秋の最期
小早川秀秋というと、関ヶ原の合戦の裏切り者として知られる武将ですが、その最期はさびしいものでした。
ドラマでは上杉家の存続を願い、それを果たして死んでいった秀秋ですが、実際には世間に「裏切り金吾」とさげすまれ、傷心のうちに心を病み、幻覚に悩まされながらさびしく死を迎えたと言われます。ただ、秀秋の死因については、他にも天然痘によるとする説もあるらしく、はっきりしていないそうです。享年も21歳のほか、22歳〜28歳まで様々な説があります。
ところで、秀秋はなぜそこまで鬱に追い込まれたのでしょう??曲者大名揃いのあの時代を生きるには、いささか小心者だったようですが、それよりも、そもそも秀秋は関ヶ原の合戦では初めから徳川軍(東軍)につくつもりだったようです。
関ヶ原の合戦の2ヶ月前に石田三成ら西軍の面々が東軍の要の城であった、京都伏見城を攻めたときのことです。秀秋は伏見城に入城して徳川軍の城将鳥居元忠を援護しようとしましたが、元忠がこれを頑なに拒否。やむなく逆に城攻めに参加したため、西軍として加わったかっこうになってしまいました。
ところが、秀秋はその後、西軍の軍議などにほぼ顔を出しませんでした。三成の「味方につけば関白に…」という言葉に心が動いたのかもしれませんが、結局東軍についたわけですから、裏切り者ではないというわけです。
初めから東軍につく気でいたのに、裏切り者としてその名を知られてしまったんだとしたら、これは確かに気の毒ですねぇ…。
■本多政重
さて、上杉家に迫るおとりつぶしの危機。これを回避するため、兼続がとった行動は、家康の懐刀・本多正信の次男・政重を婿養子に迎えるというものでした。本多正信は家康の懐刀だけあって、対家康に影響力の高い人物です。そこで、この正信の次男を婿養子とすることで、良好な関係を作ろうとしたと考えられています。
でも、この政重という人物は、実は関ヶ原の合戦では西軍の宇喜多秀家に属していたそうです。それというのも若かりし頃、刃傷沙汰を起こして、家を出て、各地を放浪していたのです。正信にしても、この行く末不安な息子を直江家で婿養子としてくれるということで助かっちゃったわけで、まさに両得でした。
実際、正重を婿養子に迎えたことで、正信も何かと兼続の仕える上杉家を気にかけるようになり、のちに石高ごとに課せられた軍役を、上杉家に対しては十万石分は免除するように将軍にとりなしたこともあったようです。兼続の狙いは的中していたんわけですね。
政重の行く末は今後ドラマでもやるかもしれませんので、ここでは書かないでおきますね。
さて、次週はいよいよ米沢生活か?
次回もお楽しみです。
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2009年11月16日
大河ドラマ「天地人」第46話
極悪人家康公も孫の前ではいいおじいちゃんでしたね。
合戦前は秀忠公の「千はどうなるのです」の言葉に「やむを得まいが」と言っていましたが、そうは言っても孫ですから。救えるものなら救いたいという気持ちではいたのでしょう。
■冬の陣の幸村の活躍
久々の活躍となった真田幸村は、大坂の陣では、大坂城南側に「真田丸」と呼ばれる出城を築いて戦いました。真田丸は三日月形の縄張りで、「偃月城」とも呼ばれたそうです。
この真田丸は、なかなかにして堅固な造りで、空堀、塀、さらに塀と空堀の間には3重の柵が張り巡らされ、随所には櫓、井楼も備えられていたと記す記録もあるようです。しかし、それもそのはず、幸村はもともと「打って出ていって先手を取り、敵の拠点を占領すればこちらに内応する大名が出てくる」という戦術を唱えており、籠城には反対でした。
ところが、大坂方に集まった幸村を含む一部の浪人衆は、なぜか豊臣家の中枢を担う大野治長や淀殿からあまりよく思われておらず、淀殿らが籠城を唱えたことにより、豊臣方としての戦術も籠城と決してしまったようです。ドラマではこういった様子は見られませんでしたが、幸村にとっては、心ならずも籠城…というのがホントのトコロのようです。
なので、幸村はならば出城で、と真田丸にて奮戦をします。
真田丸には前田利常隊が奇襲をしかけ、続いて松平、井伊といった大名の軍が突撃を敢行しますが、幸村はこれをことごとく退けます。
業を煮やした家康は、徳川軍に従っていた幸村の叔父・信尹を使者にたて、幸村に信州10万石を与えてやるから寝返るように、と薦めます。しかし、幸村はこれを一蹴。結局、家康はあれこれ策をめぐらして豊臣方との和睦に動きました。
■夏の陣の幸村
冬の陣の家康からの和睦の条件は二の丸、三の丸の堀を大坂方で埋め立てること。ところが、家康はこの内堀埋め立て作業にさっさと徳川軍の人足を投入して、全部の堀を埋め立てて裸城にしてしまいました。難攻不落を誇った堅城・大坂城もこうなってはカタナシです。
こういう状況下で、幸村は再戦を予期していて、再戦の折にはいよいよ野戦となろうと考えていました。だから、様々作戦を練っていましたが、軍議でまたしても大野治長らに握りつぶされたそうです。
この大野治長という人物は、戦には疎い人物で、到底幸村の作戦に代わる必勝の策があったとは思えないのですが、豊臣家の中枢は彼や淀殿など戦をほとんど知らない人物が握っていたため、こういうことになったようです。
そうとはいっても、さすがに籠城はできないという結論に至ったものか、幸村をはじめとする浪人衆は城を出て、天王寺方面に陣を構えます。大和(奈良県)の方から進軍してくる徳川軍を奇襲する作戦でしたが、これはうまくいかず、豊臣方はここで浪人衆の部将・後藤又兵衛を失いました。(道明寺合戦)
幸村は、その後友軍と共に伊達政宗などの徳川軍と交戦し、敵を怖気づかせる戦いぶりを見せますが、他の地での味方の戦況が思わしくなく、秀頼から撤退を命じられます。
幸村は殿軍を買って出ましたが、徳川軍は幸村に秘策があるのではと疑って、ちっとも攻撃してきませんでした。幸村は、「関東勢は百万人にも届くかと思うが、男は一人もいないようじゃな!」とののしって引き揚げたという話が残っています。
ここで、いったん豊臣軍は軍を立て直します。幸村は茶臼山に布陣しました。軍勢の士気を高めるべく、秀頼に出馬も促しますが、秀頼は出馬しませんでした。淀殿らがとめたとも言います。
■家康、覚悟!
この状況で、幸村は家康の本隊が天王寺口方面に進軍しているのを察知します。幸村の布陣地から目と鼻の先の所に家康が来るということで、幸村は「今が時」とばかり、家康目指して突撃を敢行しました。
家康陣の前には松平忠直隊がいました。忠直は家康の次男・結城秀康の子で、1万3千人余の手勢を率いていたと言われています。これに3千5百ほどの幸村勢は「目指すは家康の首」と叫びながら猛然と突っ込んでいったのです。
松平隊の必死の防戦に数を減らしながらも、ついに幸村隊は家康の本陣になだれ込みました。家康の傍にいた旗本衆は悲鳴を上げて、家康を置いて逃げ去り、家康の傍にいたのは武者一人だけだったとする記録もあります。これには、さすがの家康も死を覚悟したことでしょう。「勝利をあきらめ、切腹をしようとしていた」とも言われます。
しかし、全体としては15万人とも言われる徳川軍に対し、5万強といわれる豊臣軍です。兵力の差は歴然。次第に押され始めた豊臣軍は随所で頼みの浪人衆が討ち死に。幸村もやがて力尽き、安居神社付近で松平隊の武士に討たれたそうです。
今日の放送でも最後の「紀行」コーナーで紹介されていましたが、幸村戦没地には石碑が建っているそうですね。今度行ってみよっと。
さて、幸村の奮戦ぶりを一説に従って振り返ってまいりました。長くなったので今週はこんだけにしときます。千姫のこととか秀頼、淀殿のこととか書こうと思ったんですが、今日はやめときます。
次回はいよいよ最終回。戦のない世の中になって、今後の上杉家はどうなっていくのか?
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2009年11月08日
大河ドラマ「天地人」第45話
あれから5年…。景勝の子・玉丸は剣術の稽古をするほど大きくなり、兼続の子・竹松も「景明」と名を改め立派に成長しました。景勝も兼続もやや年を重ねた感じが致しましたが…お船様お若いな!
最期の家康公は極悪でしたね。国家安康の一件は遠山康光が考えたことになってましたが…もしかして、ドラマの遠山はこのために家康の参謀的地位な描かれ方をしていたのかしら…。
■仙桃院さま
今回の放送で亡くなった仙桃院は景勝の実母で、先代謙信公の姉です。実に波乱万丈な人生を送りました。
「天地人」でも前半に描かれていましたが、仙桃院は上田長尾家の政景に嫁しました。上田長尾家というのは、それより前に家督を継いだばかりの謙信に背いて叛乱を起こしたことがあり、和すると共に、仙桃院が政景に嫁いだのです。
仙桃院は政景との間に二男二女をもうけており、その次男が、謙信の養子となったのちの景勝です。景勝は幼い頃から謙信に実の子のようにかわいがられたといいますから、仙桃院もこの時は喜びに包まれていたでしょう。
ところが、そんな中で第一の不幸が仙桃院を襲いました。夫の政景が変死をとげたのです。謙信の謀殺説も囁かれる不審な死でしたが、その証拠はなく、家中は騒然としたものの事なきを得たのです。
やがて、仙桃院の二女(華姫)が謙信のもう一人の養子・景虎に嫁ぎ、仙桃院も春日山城に移り住みましたが、間もなく謙信が死去。ここで第二の不幸が訪れます。家督をめぐって景勝と景虎が争い始めたのです。「御館の乱」が勃発したわけですが、重要なのは対立する二者が共に仙桃院の子であるということです。景勝も仙桃院の実子なら対する景虎の妻・華姫(史実での実名は不明)も実子。華姫自身も夫と兄の対立に心を痛めたでしょうが、仙桃院もそれは同じでしょう。華姫の立場も思うと母として辛かったことと思います。
やがて敗れた景虎にしたがって華姫は自害。その最期は仙桃院の心に深い悲しみをきざみました。
その後は、上杉家と共に越後⇒会津⇒米沢への転封。最期は米沢で迎え、史実では景勝は上洛中でその死に目に会うことができなかったそうです。享年は定かではないものの80歳を越えていたといいます。
■国家安康、君臣豊楽
戦国時代好きな方なら、この「戦国の終焉」とも言われる大坂の陣勃発の発端となったこの事件は、有名な事件としてご存知でしょう。
どーしても豊臣を何とかしたい徳川家康は、豊臣家を攻める口実を探していました。そこで目をつけたのが、当時秀吉が建立した方広寺の大仏殿の再建の一環として豊臣家が鋳造していた方広寺梵鐘の鐘銘だったのです。この梵鐘にはドラマでも遠山康光がわっるい顔で解説していた通り、「国家安康」「君臣豊楽」という文字が刻まれています。「国家安康」は「家康」の名を「安」の字で引き裂き呪うもので、「君臣豊楽」は「「豊臣」を君主として永劫楽しむ」という意味がある、という点をもって「豊臣家に謀叛の意あり」と決定付けたのです。
この大仏殿再建および梵鐘鋳造にあたっては、豊臣家は逐一徳川家に進捗報告をしており、ほとんど徳川方の言いがかりであると見る説が一般的ですが、鐘銘文を選定した僧侶が「意識的にかくし名として「家康」と入れた(でも、当然呪う気なんてないっす)」と証言したという史料を元に、たとえその気がなくても諱を入れるなんてアリエナーイ。豊臣方の重大なミスであると見る説があるようです。
ちなみに、ドラマでは遠山康光が提案・解説していましたが、これは家康のブレーンだった金地院崇伝など五山の僧侶や儒学者・林羅山らが指摘したものだったようです。
何はともあれ、徳川方としては豊臣を攻める準備はいよいよ整った形になります。次週は真田幸村も登場して、大坂冬の陣、勃発!…か?
次回もお楽しみです。
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2009年11月07日
大河ドラマ「天地人」第44話
久方ぶりの鑑賞と相成り申した。大河ドラマ「天地人」43話、44話本日連続の鑑賞でござる。
何かと忙しなき日々ゆえに、びでおに撮りためており申したが、いよいよ見ずば撮りだめ3週になるゆえ、本日一挙の2本通しとなったわけでござる。
もう忘れてしまったかもしれませんが、43話は兼続の弟・実頼が、本多政重の直江家婿養子入りをよしとせず、ご挨拶でやらかして追放される話。44話はその政重とその妻となった兼続の娘・まつの話と+α…でした。
ちょっと暗い感じの話が続きましたが、実際にもこの頃の直江家は、暗い話題続きなので仕方ない…。
■兼続の子供たち
兼続には実子が3人います。いずれもドラマにも登場していました。
長女お松、次女名不明、長男竹松(のち景明)の3人です。いずれも正室お船の方との間の子供ですが、これに加え、ドラマでもまだ描かれていない人も含めると、養子が4人いたようです。
その養子のうち一人は、竹松誕生前に本庄家から養子にとっていた長房です。彼は竹松誕生後に本庄家に戻ったそうですから、兼続も家名存続の心配をしていたのかもしれないですね。
さて、長男・竹松は文禄3年(1594)生まれ。年を重ねてからの待望の嫡男、しかも竹松は生まれつき病弱だったともいい、兼続が種々気遣いをした書状が残されているそうです。ドラマでも病に倒れるシーンが数週前にありましたね。
そして、次の養子が、前回の放送で出ずっぱりだった本多正信の次男・政重です。
■本多政重+兼続の子供たちのその後
この政重という人物は、来歴がなかなか過激でして、元は徳川家中においていさかいを起こし、秀忠の乳母の息子を殺害したことから出奔。
その後、大谷吉継、宇喜多秀家といった歴々の大名の下を転々としており、関ヶ原の合戦時には、西軍宇喜多家の配下として参戦。徳川家に敵対しています。戦後は主家の取り潰しにあって福島正則に拾われるも、長続きせずに退転。次に加賀の前田家に仕えたそうです。
これだけ各地を転々とした後、上杉家にやってきて兼続の徳川家に対する政略もあって、直江家の婿養子となったというわけです。
ドラマでは馴染まない人物として描かれましたが、兼続が彼を買っていたと想像される記録も残されているらしく、また、政重は後に退転して再び前田家に仕えるようになりますが、兼続との親交は継続したそうですから、あるいは政重にも直江家に対する思いはあったのかもしれません。
ありゃ、政重の話が妙に長くなった…。
ちなみにあと二人の養子は女性が二人で、弟・実頼の娘お虎(お松死後に政重の後妻)と、おまん(出自不明確)です。
子供たちのその後ですが、長女お松は政重との婚姻後1年と立たぬ内に病で死去(21〜22歳)、次女もそれ以前に病で死去(20歳前後?)。ここまでは前回の放送で描かれていましたね。
竹松はのち元服して景明と名乗り、政重退去後の直江家を継ぎます。大坂冬の陣にも参戦しましたが、病を得て間もなく死去(22歳)。実子3人はいずれも親に先立つという不幸に見舞われたというわけです…。無常なり…。
ああ…ドラマ同様になんだか暗い感じになってしまいましたが、「天地人」もいよいよあと3回。最終回は22日(日)だそうです。
次週は大坂の陣に突入する模様。かの有名な京都方広寺の鐘銘に対する家康の驚愕の言いがかりが炸裂する!
次回もお楽しみです。
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2009年10月18日
大河ドラマ「天地人」第42話
いやー、先週は何か記事を書こうと思っていたら、アレヨアレヨと次の週になってしまいました。関ヶ原の合戦も終わって、ビミョーにネタに困る放送内容になっております。つーわけで41回の記事はございません。
そんななか今週はついにきました、家康公征夷大将軍就任!
これで天下の流れは徳川家に…。で、遠山のやつばらめは、本多正信に並ぶ徳川家の参謀扱いなのかしら??悪い顔が買われたのかな??
■征夷大将軍
「征夷大将軍」というのは、朝廷から任じてもらう役職で、戦国時代の当時だと広い意味で武家の棟梁の地位の象徴として扱われた役職です。元々は、奈良・平安時代に関東以東の豪族の鎮圧をする役職でしたが、源頼朝が鎌倉に幕府を開いて以降、やがて武家の棟梁をさすようになったようです。
その征夷大将軍に家康がなって江戸に幕府を開いたということは、これすなわちあからさまに豊臣家より上ということを示したということに。豊臣家は関ヶ原合戦後の論功行賞で、65万石に領地削減されてしまいましたので、この流れは当然予想できたものでしたがそう簡単に立ち向かえるものでもありません。
だって、あんなんですよ?家康公。「なんか文句あんの?」ってジロってされて終わりですよ…きっと…。
家康は関ヶ原で勝ったことにより、もう豊臣家を追い越してしまったんですなあ。
■菊姫逝く
景勝の正室・菊姫が逝去しました。結局豊臣秀吉の時代に上洛して以来、ついに領国に戻ることはなく、米沢の地を踏むことはありませんでしたね。
菊姫は上杉家にとっては、かつて宿命のライバルだった武田家の姫。実家の滅亡を見て、嫁ぎ先の会津への大転封を見て、さらに関ヶ原後の米沢への転封を見て…と波乱万丈の生涯でした。最期は病によるものと言われていますが、異説もあるようです。
それにしても、景勝が秀頼への言上中に嗚咽する姿には感じるものがありましたね〜。普段は超がつくほどクールな景勝ですが、正室・菊姫の死には感情を押し殺すことができなかったのでしょう。何とかあそこまで来たもののブワっと出てしまったという…。
実際の景勝もクールで感情をほとんど表に出さなかったという話もあるみたいですが、実際の景勝は菊姫の死をどう受け止めたんでしょうね。
菊姫は享年47。墓は米沢林泉寺にありますが、病没後葬られたという京都妙心寺塔頭隣華院にもあります。
さて、来週はちょっと最近の兼続が気に入らない実弟・大国実頼どのがメインのお話。ツイホーされてしまうのか!?
次回もお楽しみです。
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2009年10月04日
大河ドラマ「天地人」第40話
もう…今年はね、本当にもう…。
家康悪いっすね!
気づいてたけど(今日も)再確認。もう真っ黒ですね。これでは家康公の人気が…人気が…下がってしまう!
…でも、ここで特に弁護しませんけどね。
■小早川秀秋の最期
小早川秀秋というと、関ヶ原の合戦の裏切り者として知られる武将ですが、その最期はさびしいものでした。
ドラマでは上杉家の存続を願い、それを果たして死んでいった秀秋ですが、実際には世間に「裏切り金吾」とさげすまれ、傷心のうちに心を病み、幻覚に悩まされながらさびしく死を迎えたと言われます。ただ、秀秋の死因については、他にも天然痘によるとする説もあるらしく、はっきりしていないそうです。享年も21歳のほか、22歳〜28歳まで様々な説があります。
ところで、秀秋はなぜそこまで鬱に追い込まれたのでしょう??曲者大名揃いのあの時代を生きるには、いささか小心者だったようですが、それよりも、そもそも秀秋は関ヶ原の合戦では初めから徳川軍(東軍)につくつもりだったようです。
関ヶ原の合戦の2ヶ月前に石田三成ら西軍の面々が東軍の要の城であった、京都伏見城を攻めたときのことです。秀秋は伏見城に入城して徳川軍の城将鳥居元忠を援護しようとしましたが、元忠がこれを頑なに拒否。やむなく逆に城攻めに参加したため、西軍として加わったかっこうになってしまいました。
ところが、秀秋はその後、西軍の軍議などにほぼ顔を出しませんでした。三成の「味方につけば関白に…」という言葉に心が動いたのかもしれませんが、結局東軍についたわけですから、裏切り者ではないというわけです。
初めから東軍につく気でいたのに、裏切り者としてその名を知られてしまったんだとしたら、これは確かに気の毒ですねぇ…。
■本多政重
さて、上杉家に迫るおとりつぶしの危機。これを回避するため、兼続がとった行動は、家康の懐刀・本多正信の次男・政重を婿養子に迎えるというものでした。本多正信は家康の懐刀だけあって、対家康に影響力の高い人物です。そこで、この正信の次男を婿養子とすることで、良好な関係を作ろうとしたと考えられています。
でも、この政重という人物は、実は関ヶ原の合戦では西軍の宇喜多秀家に属していたそうです。それというのも若かりし頃、刃傷沙汰を起こして、家を出て、各地を放浪していたのです。正信にしても、この行く末不安な息子を直江家で婿養子としてくれるということで助かっちゃったわけで、まさに両得でした。
実際、正重を婿養子に迎えたことで、正信も何かと兼続の仕える上杉家を気にかけるようになり、のちに石高ごとに課せられた軍役を、上杉家に対しては十万石分は免除するように将軍にとりなしたこともあったようです。兼続の狙いは的中していたんわけですね。
政重の行く末は今後ドラマでもやるかもしれませんので、ここでは書かないでおきますね。
さて、次週はいよいよ米沢生活か?
次回もお楽しみです。
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