関ヶ原ブログ

関ヶ原の戦いを中心に、戦国時代の武将のエピソードや豆知識をご紹介

別所長治


「いまはただ 恨みもあらじ 諸人の
命に代わる わが身と思へば」



■名門別所家を継ぐも織田信長の侵攻を受ける

東播磨三木城主の別所長治。別所家は播磨守護赤松氏の一族で、長治の曾祖父則治のころは、東播磨三郡の守護代もつとめた名門の家柄です。しかし、天正期には中央で織田信長が台頭。中国地方もやがて織田信長の命を受けて、羽柴秀吉が派遣されてきました。

冒頭の句は、秀吉と戦い、最終的に切腹して果てた長治の辞世です。

長治は、織田信長の中国進攻の際、黒田如水の説得を受け、信長に従ってその先鋒となることを引き受けますが、実際に中国攻略の司令官として羽柴秀吉がやってくると、突然叛旗を翻し、三木城に籠城しました。
この長治の行動に怒った秀吉は、三木城を完全包囲。天正6年(1578)3月から天正8年1月までのおよそ2年間、後世に「三木の干殺し」と呼ばれることになる兵糧攻めで長治を降伏させました。

■長治の最期

このときの三木城内の有様はまさに惨憺たるものでした。草木、犬猫、虫、牛馬はもちろん、餓死した仲間の遺体をもむさぼる有様で、塀の下や狭間の陰に飢えた兵士が伏し倒れていたそうです。

辞世にも顕れている通り、長治は城兵の命と引き換えに切腹します。『天正記』には、長治が三歳になる子と夫人を刺し殺し、「われら三人の命で、兵士が助かるのだから、これが最期の喜びだ」と言って腹を斬った旨が書かれています。

ちなみに長治と共に、弟の友之、家老の三宅治定なども腹を斬りました。友之の辞世は「命をも 惜しまざりけり 梓弓 末の世までの 名を思ふ身は」でした。

長治は享年23(『寛政重修諸家譜』より。26歳説あり)。友之享年21。
二人とも、現代人の感覚ではまだ新社会人といったところでしょうか。ですが、父が早世してしまい幼くして家督を継いだ当時の長治は一城の主。戦国大名です。
経験の量は長く生きている者には叶いませんので、後見役として一族の者が側にいたようですが、最期に詠まれたこの辞世は、長治の覚悟と、リーダーとしての気概と覚悟を感じずにはいられません。

現在、三木城跡には長治の像とその辞世の碑が建てられています。長治は死後も末永く、地元の人々に慕われています。

■三木城跡の場所


↓よろしければ人気ランキングにご協力ください。(クリックで1票)
人気ブログランキング

にほんブログ村 歴史ブログへ

rokumonsen

前回放送の大河ドラマ『真田丸』第10回は、引き続き誰につくかの戦国模様。今度は上杉に再び擦り寄りましたね〜。信繁は後に三十郎と共に上杉家に名目上は人質としてしばらく滞在することになるはずですが、それはまだ少し先のお話です。

さて、ところで今回は真田といえば触れないわけにはいかない、家紋についてです。

六文銭の意味

真田家の家紋といえば「六文銭」(ほかに「六連銭」「六道銭」とも言う)が一番よく知られています。上の写真にもある通り「六文銭」は、当時の穴あき硬貨を上下3つずつ、計6枚並べたシンプルながら一風変わったデザインの家紋です。

この六文銭の意味としては、こんな説があります。

人が亡くなった時、死者があの世に向かう際に渡るとされる「三途の川」というのを聞いたことがあるかと思いますが、その「三途の川の渡し賃」が六文銭というわけです。つまり、「六文銭」の家紋は、「真田軍は死を覚悟で戦う」という決意を表しているものだというわけです。なかなか戦国時代ならではという感じのする意味ですね。

ところで、「真田といえば六文銭」は定着していますが、実は真田家では「洲浜」「結び雁金」などの家紋も使用していました。「六文銭」使用の由来は上記のとおり、戦闘における覚悟を示すというようなものだったため、元々は旗印など武具に利用することが多く、平時には「洲浜」「結び雁金」といった家紋を用いていたそうです。

…と言っても、次第に「六文銭」使用率は高くなっていったようで、当時としてもだんだん真田=六文銭になっていったのかもしれないですね。
 

■六文銭は元々"真田氏"のものではなかった

非常にアグレッシブな意味を持つ「六文銭」の家紋。いったいいつから使っていたのでしょうか。それを知るために、真田氏のルーツを少し調べてみました。

真田氏は、実は出自が未だ不明確な一族でもあります。

江戸時代に書かれた系図では、真田家は「信州の名族海野氏の嫡流である」としてあるそうです。「真田」を名乗ったのは、昌幸の父・幸綱(幸隆)の代だといい、つまり、昌幸は「真田」と名乗ってからは二代目ということになります。なぜ「真田」かというのは、どうということもなく、住んだところが真田郷だったから、地名からとったということになっているようです。
 
しかし、先学によれば、真田氏という氏族はこれ以前にもこの地に存在していたとみられる史料もあるらしく、何らかの理由で幸綱以降の真田氏は、経歴を改竄していたのかもしれないのだとか。

少し脱線しましたが、家紋としての六文銭は、この海野氏が使い始めたものだったそうです。
戦国時代から遡ること300年前の源平の時代ごろに海野幸広という人物がいます。この人物は朝日将軍と呼ばれた木曽義仲に従った人物で、幸広が討死した後ごろから、この六文銭を使い始めたらしいという説があるのです。

ただし、旗印として使い始めたのは先の昌幸の父である幸綱であるとする記録もあるようです。いずれにしても六文銭=真田氏というイメージが定着してはいますが、ルーツは祖先(とされている)海野氏にあったということですね。

※余談ですが、海野氏はさらに古く遡ると滋野氏という一族の出身で、この頃にもすでに六文銭を用いていたとする説もあります。


■信繁は大坂の陣では「六文銭」を使っていない?
oosakanojin

信繁一世一代の大戦となった大坂の陣。小説やドラマなどでは「六文銭の旗印を翻した信繁(幸村)が家康本陣を襲う」というシーンがよく描かれますよね。信繁を描くうえでの一番の見せ場とも言えそうです。

しかし、大坂の陣の際には信繁は六文銭は使っていなかったという説があります。真田の本家は信繁の兄・信之が継いでおり、関ヶ原の戦い以来、徳川家に従っていました。大坂の陣には信之の嫡男・信吉が徳川方として参戦しており、これに憚って信繁自身は家紋を用いず、軍装を赤で統一した赤備えにて目印としたというわけです。

たしかに大坂冬の陣図屏風(東京国立博物館蔵)などの合戦図屏風を見ると、信繁が大坂城に築いたとされる出丸「真田丸」には、赤い幟に赤備えの兵士たちは描かれていますが、六文銭は描かれていません。

信繁が冬の陣ののち、信吉に会いに陣まで行って会話をしたというエピソード(『翁物語』より)があったり、姉の村松殿に宛てた手紙も残っていたりしてまして、敵味方に分かれても、信繁は一族への親近感を変わらず持っていたように思いますので、本当に一族に憚って紋は用いなかったのかもしれませんね。



いやー、決死の覚悟が家紋・旗印にも現れているとはさすが真田氏です。家紋はともかく、旗印は他の武将もけっこうそれなりの意味があって用いていたりして興味深いですね。機会があれば、他の武将のものも紹介できればと思います。



【参考文献】
真田信繁―「日本一の兵」幸村の意地と叛骨 』三池純正:著 宮帯出版社 2009年刊
真田幸村と真田丸: 大坂の陣の虚像と実像 (河出ブックス) 』渡邊大門:著 河出書房新社 2015年刊 
決定版 図説・戦国合戦図屏風 (歴史群像シリーズ特別編集) 』学習研究社 2004年刊 
闘将真田幸村: 大坂の陣・真田丸の攻防 (河出文庫) 』清水昇:著 河出文庫 2015年刊
 

↓ブログランキングに参加しています。よろしければご協力お願いします。(クリックで1票) 人気ブログランキング
にほんブログ村 歴史ブログへ

PA140433

オッス!オラ信繁!徳川に味方して北条家と対峙することに決めたと思ったら、今度は急に徳川が北条と和睦!
父上の思惑が再び振り出しに…。またしても次なる策を練らなきゃいけねえ!次回「妙手」!絶対見てくれよな!

…軽すぎる始まり方でごめんなさい。まだまだ平穏無事とはいかない戦国まっただ中の信濃を描く『真田丸』です。

9話では、父・昌幸が上杉軍の海津城代・春日信達(演:前川泰之さん)を嵌めた策謀に納得いかない信繁の苦悩が描かれていました。今回はここに注目してみたいと思います。


■春日調略おさらい

元々、信繁は父・昌幸から「春日を調略して、真田が北条に寝返る時の手土産にする」と聞かされていました。このため、「春日を翻意させて共に北条につく」という考えで調略にあたっていたわけです。実際、熱心に春日信達の利を説いて、寝返らせようとするシーンがあったかと思います。

ところが、昌幸の狙いはもっと遥かに深いところにありました。
 
まずは「北条につくために春日調略を手土産にする」。これ自体は信繁に話していた通りです。しかし、実は徳川家康の動きも、上杉家中の動きも、両方とも密偵によって入手していたのです。すなわち、以下のようなことです。

1.徳川家康が甲府入り。つまり、信濃遠征中の北条としては、徳川軍が攻撃してきた場合、前に上杉、背後に徳川と、敵に挟まれることになる。
→【昌幸さんの思惑】というわけで、北条がまず撤兵するじゃろう。

2.越後領内では上杉配下だった新発田氏が叛乱を起こしたという。
→【昌幸さんの思惑】となれば、上杉も撤兵するに決まっておる。

元々、北条が信濃国を攻略をする動きを見せていたため、昌幸は先に義理に厚い家風の上杉家に近づいて「北条が攻めてきたら助けてやる」という約束をしてもらいます。そのうえで春日信達を調略してそれを手土産に北条に寝返ったわけです。これで北条家にとっては上杉攻略が楽になるため、北条に恩を売ることが可能になると考えていたのです。そして、これは(一応)そのようになりました。

さて、昌幸の策はまだ続きます。今度は、寝返らせた春日信達を弟の信尹に殺害させ、その死を、あたかも「事が露見して上杉景勝に殺害された」ように見せかけたのです。春日が死んでしまっては、北条有利に事をはこぶ策が崩れたことになります。この時点で北条も徳川家の甲府入りを察知していましたから、北条としては上杉との合戦に時間がかかるのは困るわけです。

そのうえ、ダメ押しとして昌幸は、佐助を使い北条氏直に「上杉軍が実は大軍を擁している」と吹き込んだり、春日が殺害されたことを確認してざわめく北条陣内で「攻めかかるべき」などと進言しつつ、北条氏直が「撤兵する」と言うように仕向けていきました。氏直が「相手の言うことと逆のことをしたがる男」と捉えていたためでしたが、これも大当たり。最終的に氏直は撤兵を決めました。

これによって、北条軍は撤退、上杉軍も越後の叛乱を抑えなくてはならないため、北条が撤兵するのなら信濃にいる意味はなくなりますので、撤兵していきます。

結果はアラ不思議というかお見事というか、昌幸は、策によってまんまと信濃から有力大名を追い出すことに成功したわけです。


■策謀は何のためにするのか?

しかし、「春日信達を味方につけるんだ」と純粋に考えていた信繁は、春日を騙して殺害したこの計略に携わったことを後悔していました。春日を騙したことはもちろん、手段を選ばない策を弄する父・昌幸にも反発心を持っていたのでしょう。おまけに9話劇中では、昌幸に「お前は策とは何かをまだ知らぬようだ」と言われてしまいます。

そんな信繁に出浦昌相、堀田作兵衛やその妹・うめたちがそれぞれ声をかけます。
 
出浦昌相「信達にも非があった。あやつは恩ある上杉を不服に思い、己の意志で裏切った。自業自得とは思わんか。お前は優しすぎる。もっと強くなれ…。」

経緯がどうあれ、最終的に真田を信じて、上杉を裏切ると決めたのは春日信達自身です。春日が自分の意志で真田を信じることに決めたこと自体は、真田の思惑通りかどうかは関係ありません。

ましてや戦国時代の生き残り合戦をしているわけですから、「共に生き残る」という選択肢を選べること自体も少ないでしょう。己の人生は己が決める。春日もそうして、結果倒れた。真田は逆に生き残った。
しかし、まだ戦場にも出ていない信繁はまだ考えも若く、なかなか納得出来ないという描かれ方だったのだと思います。

しかし、自身が考えてもいなかった「春日を殺害した」という後悔が晴れない信繁は、堀田作兵衛やその妹うめにも意見を聞きに行きます。作兵衛兄妹からの言葉はこちら。

作兵衛「戦はやっぱり嫌なもんですよ。」「わしはここで畑仕事している方が性に合ってる…」

うめ「春日様には申し訳ないことですが、私は、ホッとしています。」「もし戦に勝って、でもみんな死んでしまって自分一人になってしまったら?」「大事なのは人の命をできるかぎり損なわないこと。そんな気がいたします。」

今回の春日騙し討ちは、先述の通り、上杉、北条共に信濃から引き上げさせることが目的でした。そのために昌幸は春日一人を犠牲にした策を展開したのです。結果的に見ても、信濃での戦はなくなりました。何を守りたいのか。それを自分の頭で考えて、そのためにできるあらゆる行動をとる。今回の昌幸の策謀もそういうことでした。
信繁はうめの言葉で、父の考えを理解するとともに、自身の考えも一歩進めることができたのだと思います。

考えてみれば、天下統一もその延長線上にあると言えるかもしれません。例えば信長や秀吉、家康らがいつからどこまで考えていたか(考えてなかったかもですが。。)は別として、ただの権力掌握だけが目的だったわけではないでしょう。そこには"自分に従う者たちの命を守る"="万民の平和"という志があったのではないでしょうか。
…まあ…描いていた形は様々だったでしょうが…。。。 


…さてさて、今回ラストであっさり北条と和睦した家康。次回は再び戦国まっただ中の模様です。家康とどう対峙するのやら。

次回もお楽しみです。
 
↓ブログランキングに参加しています。よろしければご協力お願いします。(クリックで1票) 人気ブログランキング
にほんブログ村 歴史ブログへ

sanadanenpyou

第8話のワンシーン
作兵衛「北条のヤツら!蹴散らしてくれる!」
うめ 「兄様!違います!敵は上杉!」
作兵衛「…。もうわからなくなった。とにかく攻めてくるやつらが敵じゃ」

……。

まさしく「昨日の敵は今日の友、逆もまた然り!」…と、言わんばかりの世渡りを展開している真田家。
登場人物の堀田作兵衛さんも敵が誰だかわからなくなっているようでしたので、いったん現在までの真田家周辺を時系列で整理してみました。

ちなみに第2話で武田家は滅亡しましたが、現在、劇中時間ではあれからだいたい4ヶ月です。
真田家にとっては、生涯初の生き残り激動の時間を主家がなくなるってホントに大変だなあ。

■「真田丸」年表

注)★付の日付は実在の史料からわかるものを記載しました。話数は大河ドラマ『真田丸』における話数。

時は天正10年(1582)です。『真田丸』は放送開始から今(第8話)まで、ずっと天正10年です。

【武田時代】
3月上旬
・昌幸、岩櫃城に出発
・信幸・幸村、父に遅れて岩櫃城に出発(1話)

3月11日★
・武田勝頼が甲斐国田野で自刃。武田家が滅亡する。(2話)

3月12日★
・昌幸、北条氏邦から書状をもらう。

3月中旬 
・信幸、上杉景勝への密書を持っていくも途中で室賀正武に奪われる。
・が、昌幸の策略と知らされて落ち込む。(3話)

【織田時代】
3月18日★
・真田家は織田信長に臣従する。
・この時、昌幸・信繁、徳川家康と初対面。(4話)

4月 8日★
・昌幸が信長に馬を送り、真田家は正式に織田軍・滝川一益の所属となる

5月   
・信繁、織田家への人質となる姉・まつの付き添いで近江国安土城下に到着。(4話)

6月 2日★
・本能寺の変 ※徳川家康、伊賀越え開始。(5話)

【フラフラから上杉時代】
6月
・昌幸、弟の信尹を遣わして、上杉景勝に接触。(5話)
・信繁、姉・まつたちとともに安土を脱出し、信濃に向かうも姉とはぐれる。(6話)
・昌幸と信幸、滝川一益に会い、明智光秀を討つよう促す。(6話)
・昌幸、国衆会議で北条家につくことを了承。(6話)
・真田信尹、北条氏政に会い、滝川一益の上野国に侵攻しないことを約束させる。(6話)

6月13日★
・山崎の合戦で明智光秀敗死。
    
6月18日〜
・北条軍、上野国に侵攻開始。神流川の戦いで滝川一益と激突。
・昌幸、どさくさ紛れに沼田城と岩櫃城を奪回。すぐに一益にバレて人質を出させられる。(7話)
・昌幸、一益が信濃を退去した後、上杉景勝に接触(7話)

【北条時代】
7月12日★
・北条氏直、小県郡海野平に侵攻し、上杉景勝と対峙。昌幸は北条氏に臣従。

7月13日〜    
・信尹と信繁、春日信達を調略のうえで殺害(8話)
・北条、上杉双方ともに撤兵。北条は徳川軍の侵攻、上杉は家臣の叛乱による。(8話)
・昌幸、信濃は国衆で治める宣言(8話最後)


…というわけで、わずか4ヶ月で、真田家は主君が4人も変遷しています。
わかりやすくしたくて整理したけど、そもそもわかりやすくなる状態ではなかったようだ…。上杉時代とかはどちらかといえばどっちつかずのような気もします。

まあでも、超簡単にすると

武田
織田
上杉
北条
独立決意←いまここ

でしょうか。

しかし4ヶ月も生き残るか滅びるかの瀬戸際で策を練りまくっていたわけですね〜。恐るべし真田昌幸…。

一応、8話は昌幸の独立決意で終わりましたが、まだまだ徳川、北条、上杉は健在。それぞれが駆け引きをしているような状態ですので、まだしばらくゴタゴタします。しかも…7話でチラッと出てきた秀吉も出てくるし…。

作兵衛がますます困惑してしまうぞ。

と、とりあえず次回もお楽しみです。


【参考書籍】
真田昌幸 (人物叢書 新装版)』 柴辻俊六著 吉川弘文館 1996年
真田昌幸のすべて』 小林計一郎編 新人物往来社 1999年 


↓ブログランキングに参加しています。よろしければご協力お願いします。(クリックで1票) 人気ブログランキング
にほんブログ村 歴史ブログへ

syuriken

安土から引き上げる途中で明智軍に見つかり、姉・まつを救えなかった信繁。そのことで自分を責め、「自分は兄より才があると思っていたが、そんなことはなかった」と落ち込んでしまいます。

後世名将と讃えられることになろうとも、物語の時間では、信繁はまだ20歳にみたない若者。青臭さも描かれる今回の大河ドラマは、三谷さんが放送前からおっしゃっていたという「あくまで史実」といえる気がします。史料が残っているかどうかとか、そういう学術的なことでなく、ドラマとして。

さて、本日は戦国時代の"影"を担う忍者について調査してみました。
シブすぎる寺島進さん演じる、シブすぎる出浦昌相も忍者です。

■"忍者"といっても呼び方にもいろいろある 
ninjya

第6話では、信繁が安土から信濃に戻る途中で出浦昌相に会いましたよね。
当時、昌相は信長の家臣だった森長可に与していたんです。昌相は信繁に「これからどうされるのですか?」と聞かれ、「スッパは目先の損得では動かぬ。一度家臣と決めたからには、最後まで尽くすのが我らの流儀」と返しました。まったく、シブすぎますね。

ところで、ここで注目なのが"スッパ"です。スッパというのは要するに忍者のことです。漢字では"透波"とか"素っ破"とか書きます。戦国時代の忍者たちは、地域や属する大名によって様々な呼び名があるようです。

武田家の場合は"透波"。上杉家の場合は"軒猿(のきざる)"。忍者といえば"伊賀者"や"甲賀者"も有名ですよね。そういえば先日の放送で、家康の伊賀越えで"ひたすら押し通った"服部半蔵も伊賀者の忍び出身です。

その他にも東北の伊達家に所属していた"黒脛巾組(くろはばきぐみ)"という忍びの者たちもいます。彼らは黒皮の脚絆(きゃはん)を履いていたそうで、つまり、その外見が呼び名になっていたんですね。

相州乱破(らっぱ)の"風魔党"なども小説などによく登場して知られています。頭領の風魔小太郎は、身長7尺2寸(215センチ)、目が逆さに裂け、毛むくじゃらの顔をして口からは牙が4本生えていたという鬼のような面相だったとか。しかし、これは風魔を畏怖させるためのイメージ戦略だったと言われています。…ですよね〜…。

【参考】忍者の呼び方色々
忍者、忍び、忍びの者、くさ、芝見、目付、見分、忍目付、斥候、物見、かぎ物見、外聞、乱破、透破、忍物見、出抜(すっぱ)、奸(かまり)、大奸(だいかん)、小奸、姦、伊賀者、甲賀者、隠密、隠し目付、検見、遠候(かぎ)、軒猿、黒脛巾、座頭衆など、地域性と質的相違によって呼称が異なる。
『歴史群像シリーズ71 忍者と忍術』P.74より。(学習研究社刊。2003年10月)

…呼び方いろいろすぎるだろ…。

■出浦昌相の経歴

さて、それではドラマに登場している出浦昌相という人物についても調べてみましょう。

出浦昌相は、武田信玄と争った信濃の戦国大名・村上義清の一族と言われています。元々は真田家と同じく、武田信玄に仕えていて、当時から昌幸とは関わりが深かったようです。
武田家滅亡後は、所領の関係もあって、織田家の家臣で信濃に赴任してきた森長可に所属しました。
んで、先ほど出てきた、大河ドラマ6話の1シーン「森長可の軍勢を昌相が護衛する」というようなことも経て、以後は真田家で"透波"働きをして活躍。元和9年(1623)に亡くなる…というのがざっくりまとめた史実の昌相の経歴です。

なお、資料では「出浦対馬守盛清」という名前で記されていることが多かったので、より詳しく知りたい方はこちらの名前で調べるといいかもしれません。

余談ですが、森長可を護衛していった結果、彼は長可から刀を拝領したそうです。短期ながら忠節を尽くした褒美だったようで、ドラマでも昌相自信が言っていたとおり、乱世なればこそ「最後まで尽くす」という彼らの流儀に価値が出たわけですね。


■出浦昌相の部下管理法

この出浦昌相について、面白い話がありましたのでご紹介します。真田昌幸の伝記『長国寺殿御事績稿』という書物にこんな記述があるそうです。

「出浦対馬守、甲州信玄へ給仕せり。其の比スッパを預り、他国の城へスッパを入れけるに、其のスッパより先に城内へ忍び入り、城内の様躰具に知りて帰りける。スッパは行かずして偽りて、行きて見たる由云ひける時、対馬スッパの行かざる事を見届け、其の身行きたる印を顕はしけるにぞ、手柄の程顕れしと也」
『歴史群像シリーズ71 忍者と忍術』P.121より。(学習研究社刊。2003年10月)

簡単に言うと、部下に敵城に忍び込むように命じた後、自らその城に忍び込んで内情を探ってきて、部下の報告が正しいかどうか、部下がちゃんと働いているか確認していたというわけです。なんと恐ろしい上司なのか…。
昌相は、武田家・真田家において多くの忍びを育成したといいますから、これも育成の一貫だったのかもしれないですね。なんとなく寺島さんの昌相像から想像できる気がする…。


■真田の忍びといえば「真田十勇士」
jyuyuushi


ところで、真田家でしかも忍者といえば…「真田十勇士」を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか?

講談で、その常人離れした能力での活躍ぶりが描かれて人気を博した架空の人物たちです。猿飛佐助、霧隠才蔵、海野六郎、筧十蔵、根津甚八、三好清海入道、三好伊佐入道、望月六郎、由利鎌之助、穴山小助の10人。
全員忍者的役割を果たしたというわけではないですが、忍者の任務は「諜報」「防諜」「謀略」が中心。そういう意味では、いずれも特異な力で任務にあたったメンバーといえます。

彼らは、モデルとなる実在の人物があったとされている者もいるようですが、詳細はまた機会があったらご紹介したいと思います。

大河ドラマでは佐助(演:藤井隆さん)が登場しています。「佐助」という名前ですが、猿飛佐助というわけではないようです。名前のモチーフが猿飛佐助なのかもしれませんね。昌幸が「おーい、佐助」というだけで3秒で出てくる様子はさすが忍び(笑)。これから合戦シーンなどでどのような活躍するのかも期待です。



こうして調べてみるとなかなか興味深い忍者という職業。「情報」をいかに早くつかみ、いかに漏らさないか、そういったことも重要な生き残りの要素だった戦国時代において、これに従事した「忍者」という役割は平穏な時代よりもはるかに重宝されたでしょう。実際に、江戸時代以降、忍者の数は減少していくそうです。

さて、明日の放送では滝川一益に昌幸のウソがバレる!らしい!次回もお楽しみです。

【参考書籍】
忍者と忍術―闇に潜んだ異能者の虚と実 (歴史群像シリーズ (71)) 』 
概説 忍者・忍術 』 
真田三代―戦乱を“生き抜いた”不世出の一族 (新・歴史群像シリーズ 10) 』 


↓ブログランキングに参加しています。よろしければご協力お願いします。(クリックで1票) 人気ブログランキング
にほんブログ村 歴史ブログへ


nihontou

家康といい、昌幸といい、本能寺の変は想定外。いかに後世「たぬき親父」だの「表裏比興」だのと呼ばれようとも、急に信長が死んだとなればそりゃ決断しかねますよね。そんな様子が描かれた気がします。『真田丸』第5話。昌幸は最終的には「面白うなってきた」って言ってましたけどね^^;

伊賀越えのすごい道中もある意味リアルでよかったです。
家康「半蔵、ここはどうする?」
半蔵「押し通りましょう」
押し通ってばっかか!最後ドリフ状態だったのは三谷脚本ならではの演出かと(笑)。

さて、今回は真田家臣に注目してみました。
ドラマでは真田家の家臣はメインどころとしては4人出てきています。ご紹介しましょう。

まず1人目。いつも信繁の側にいる「三十郎」こと矢沢頼幸(演:迫田孝也さん)。たまーに登場している昌幸の叔父・矢沢頼綱のせがれです。もうこの「昌幸の叔父の息子」という出自からも真田家にとって重要な家柄の家臣なのがわかりますね。

2人目はご存知小山田茂誠(演:高木渉さん)です。信繁の姉・まつさんの旦那さんですね。いまはまだ真田家に正式には戻れていませんが、昌幸にナイショで下人に扮して安土に来ています。今は不遇の時ですが、真田一族の人を妻に迎えているので、少なくとも元々重臣だったはずです。

3人目は高梨内記(演:中原丈雄さん)。きり(演:長澤まさみさん)の父で、昌幸に長く仕えており、いまや真田家の重臣ですね。

そして4人目が堀田作兵衛(演:藤本隆宏さん)です。信繁に思いを寄せる梅(演:黒木華さん)の兄で、以前の放送回では、室賀の郷の者が畑を荒らすというので、真田郷を守るために戦いに行きました。

個性豊かに描かれているこの4人、真田家に仕える武士であることには変わりないのですが、劇中で内記のとっつぁんが堀田兄妹と仲良くしている娘・きりに「堀田家とうちでは家格が違うのだぞ」と苦言を呈する場面がありましたよね。
 
さて、それでは、この二人の「家格の違い」とはいったいどんなもんなのでしょうか。


■堀田家は地侍、高梨家は武家

というわけで、手持ちの真田に関する本をいろいろ見てみました。
…が…、「高梨内記」の名はよくみるのですが、作兵衛はほとんど紹介されていない…。唯一手持ちの本で作兵衛の紹介があったのは『新歴史群像シリーズ10 真田三代』の「真田三代人物事典」のページだけ…。作兵衛は信繁に従って、この先大坂の陣にも参加することになりますが、その辺のことくらいしか書いていませんでした。。。

そこで、手がかりとして注目したのが、これまた内記のセリフの中にある「地侍」という言葉。そう、堀田作兵衛は地侍であり、高梨家は武家なのです。だから家格が違うってわけ。

なるほど…わからん!
…あ、いや、わかったようでわかってないって感じです…。身分が違いそうな空気感はかもしだしていますが、地侍というのはいったいどういった人なのか。


■"地侍"の身分とは

劇中では、先述のとおり、作兵衛が真田郷の山を荒らしに来るのを成敗するエピソードが入っていましたね。この他、普段は農業などにも従事している風でしたし、どうやら、どちらかといえば農民に近いのが地侍のようです。ちょっと『角川日本史辞典』でも「地侍」をひいてみましょう。

地侍 じざむらい
 
中世後期の村落で、百姓身分ではあるが、侍衆として一般の百姓とは区別されていた階層。守護の被官となり、軍勢催促される場合もあった。南北朝以降台頭した有力農民層を主とし、戦国期には少領主として郷村を実質支配。戦国大名は彼らを編成することにより権力基盤の拡大をはかった。
 
『角川日本史辞典』(角川書店刊)より

ふうむ、なるほど。『真田丸』は言うまでもなく戦国時代の話ですから、地侍である作兵衛は、ある一つの村落の代表=すなわち小領主的立ち位置だったわけですね。
また、身分で言うと百姓身分。戦国時代は現代と違って身分の上下が色濃くあった時代ですから、百姓身分の堀田家は、武家身分の高梨家とは「家格」に違いがあるということです。内記が仕える真田家、さらに真田が仕えていた武田家も含めてまとめると

武田家(戦国大名)→真田家(国人領主)→高梨家(武家)→堀田家(百姓)

といったところだったみたいですね。



まあ家格が違うとかなんとかいっても、信繁は作兵衛の妹・梅を側室に迎えることになりますし、きりも側室になります。上の立場にある人間が気にしなければ、家格の違いはさほど問題ではないのかもしれませんね(信繁が珍しいケースなのかもですが)。

さて、すっかり記事を書くのが遅れてしまったので、次回放送はもうすぐ。次回は北条家との駆け引きも描かれるようです。次回もお楽しみです。

【参考書籍】
真田三代 (新・歴史群像シリーズ 10)
角川日本史辞典

 
↓ブログランキングに参加しています。よろしければご協力お願いします。(クリックで1票) 人気ブログランキング
にほんブログ村 歴史ブログへ

kawanakajima

今週の大河ドラマは昌幸と、貫禄充分な織田信長の対面と、のちに因縁の関係となる徳川家康(演:内野聖陽さん)との対面が印象的な回でした。

その徳川家康が対面の席で突然言い出した、"三方ヶ原で見たという強い侍大将―"。その名も「武藤喜兵衛」。
放送のなかでは、はっきりとは明言していなかったように思いますが、「武藤喜兵衛」は昌幸の前名。
本能寺の変が起こった第4回時点の年代では、数え37歳の昌幸はすでに「策士」風ですが、その若かりし頃はいったいどう"強い"のか!昌幸の過去を少し調べてみました。


■真田昌幸の幼少期

昌幸を演じる草刈正雄さんは今年63歳。30歳近く若い役をやりながらも、けっこうハマっている気がしてなりません。

その昌幸は、生年は天文16年(1547)とされています。幼名は源五郎。徳川家康より5歳年少。織田信長より13歳年少です。1547年の真田家は、父の幸綱がちょうど武田家に従うようになったころです。
昌幸は三男で、長兄には信綱、次兄に昌輝という2人の兄がいました。

やがて昌幸は人質として信玄の元に送られます。昌幸が7歳の頃です。
ちょうど「真田丸」でも第一話で、真田一家は人質として新府城内の屋敷に住んでいたという描写がありましたが、多くの戦国大名の例にもれず、武田信玄も自分に従う者の妻子などを人質として差し出させて、忠誠を誓わせていたわけです。もし父・幸綱が信玄に叛くようなことがあれば、たちまち殺されてしまうという厳しい役目でもあります。

とはいっても、昌幸の場合は、その才能に注目した信玄によって、その側近「奥近習衆」として取り立てられましたので、そんなに悲壮感のある"人質"ではありません。

「奥近習衆」というのは、いわゆる信玄の秘書のような役割を果たす若衆たちで、昌幸はその中でも最年少での抜擢だったそうです。さらに、通常は特定の重臣だけで行う軍議にも、数人の若衆たちとともに同席を許されるなど、元々人質だったにも関わらず、かなりの英才教育を受けていました。信玄公の期待ぶりがうかがわれますね。


■昌幸の初陣・川中島の戦いと「武藤喜兵衛」になった時期

昌幸の初陣は、永禄4年(1561)の第四次川中島の戦いでした。この時も信玄の側近くで主君を守護する役目についていたようです。

しかし、この第四次川中島の戦いといえば、"信玄公と上杉謙信公の一騎打ちがあった"とまで伝承されるほどの激戦だった戦い。武田家歴戦の勇将たちも、その多くが討ち死にしました。そんななかでの昌幸の様子はといえば。

信玄本陣も危機にさらされましたが、御中間衆、廿十人衆らは信玄の姿を隠すように警護し、昌幸や土屋昌続、長坂源五郎らは信玄の側を離れず、全く動じる様子もなかったといいます。しかし、上杉勢は信玄本陣にも突入したといわれ、信玄を守る先頭で、同僚の初鹿野源五郎は戦死。昌幸は信玄を守り抜き、この激戦を生き残ったのです。
(『大いなる謎 真田一族』p129 平山優著:PHP文庫:2015年9月刊)

…という感じ。初陣で、後に「軍神」とか言われる上杉謙信公の軍と戦って、本陣まで攻め寄せられて「全く動じる様子もなかった」というのですから、さすがにドラマの大胆不敵さは、若い頃から発揮していたのかもしれません。

このように初陣でその「強い侍大将」ぶりを見せた昌幸は、信玄からますます信頼され、信玄の母・大井氏と連なる武田の一族・武藤氏を相続することを命ぜられ、1567年ごろに武藤氏を継いで、武藤喜兵衛と名乗ったのです(名乗った時期は諸説あり)。

…余談ですがこの川中島信玄警護隊の皆さん…。長坂源五郎に、初鹿野源五郎…。昌幸も幼名は源五郎です。ゲンゴローが流行しているな。


■三方ヶ原よりも三増峠の戦いの活躍が知られる

ところで、冒頭に書いたtとおり、ドラマの中で家康がその活躍ぶりを口にしたのは「三方ヶ原の戦い」でしたよね。この戦いは武田信玄対徳川家康の戦いですが、それよりも昌幸の勇猛ぶりがうかがわれるのが、永禄12年(1569)の「三増峠の戦い」です。
この戦いは、信玄公が北条氏の小田原城を攻めたものの果たせずに、甲斐に戻る際、それを阻もうとする北条軍と激突した戦いです。結果的には武田軍が勝利しています。

昌幸はこの戦いでも、信玄公の近習として従軍していましたが、「御検使」(端的に言うと目付的な役割)として、前線の馬場信春隊に向かうよう命ぜられます(信玄は大将なので後方に陣取っています)。
そして、昌幸が馬場隊に着いたところ、ちょうど北条軍が攻撃してきたこともあって、結果的に一番槍として敵陣に斬りこむ活躍をすることになったのです。かなりの勇猛ぶりですね。

さて、ドラマで話題になった「三方ヶ原の戦い」での活躍についてです。
昌幸は、信玄の西上作戦には参加していたようですが、三方ヶ原の戦いでの具体的な働きぶりは史料がないのか、調べた限りではよくわかりませんでした。
でも、参戦していたのなら、若い頃からこれだけの活躍ぶりを見せている昌幸のことですから、役割は確実に果たしていたのでしょうね。


…というわけで、「策士」というイメージが強い昌幸ですが、ドラマ中で家康が言っていた「強い武将」時代がありました。いまは「武藤?存じませんなあ」とシラを切る策士になりましたが。まあ腕っぷしだけが「強い武将」というわけではないですかねえ?


…さて、ここからは余談の感想記↓

今週の"喜劇"(?)部分は、やっぱりこの人・小山田茂誠氏(演:高木渉さん)。
彼は、なんか武将っぽくないところが逆に味が出てますね。

茂誠を匿う作兵衛の家のシーン。信幸が「茂誠どのを匿っているであろう」と乗り込んできた時の、女性衆の茶番劇は、さすがに信幸も気づいていたみたいでしたが、やはり姉の旦那ですからね。信幸も本心としては処分したいわけではないのでしょう。

とはいえ、先日記したとおり、彼は「真面目」が性分。家長になる身としては、本人の意志がどうあれ、やはり主家・武田家を滅亡に導くことになった小山田信茂に与した茂誠氏を許しておくわけにもいかないというところなんでしょうね。家長はツライよ。

一方、不純(?)な理由で安土行きを熱望した松さん(と信繁)ですが、さすがの昌幸もその策謀まではわからなかったようですね(笑)。でも、ラストでは本能寺発生。せっかく織田家に従うことになって一安心と思ったら…。まさに「激動」の天正10年(1582)の戦国模様です。

次週は家康の伊賀越えも見どころですね。次回もお楽しみです。


↓ブログランキングに参加しています。よろしければご協力お願いします。(クリックで1票) 人気ブログランキング
にほんブログ村 歴史ブログへ

sanadamaru03

日曜日はでかけていたので録画して、昨日見ました。大河ドラマ『真田丸』第3回。
今回は真田家の領地がある信濃小県郡の国衆が初登場していましたね。
 
室賀正武(演:西村雅彦さん)、出浦昌相(演:寺島進さん)のほか、7〜8人の国衆が登場し、「織田家につく」という昌幸と議論していました。

国衆というのは大名とは違いますから、主従関係があるわけではありません。端的にいえば相互の関係性は"同盟関係"です。ですから、ドラマ中でも、たしか出浦が「真田どのが我らの代表のようにふるまってるのは納得できぬ。」と言ってましたよね。

とまあ、そんなわけでこういう一大事においてはなかなか意見は合いません。結局、室賀・出浦らが反発。国衆の方向性はまとまりませんでした。しかもその後、室賀と出浦は、上杉景勝への密使として信幸が向かわせられると、これを襲って書状を奪い、昌幸を出し抜こうとします。

ところが…、これは昌幸の策略でした。実は出浦が昌幸に同心して動いていたのです(でも、信幸は策略のことを知らされていなかった)。
室賀はまんまと策にはまり、昌幸の思惑通りに行動することになってしまうのです。


■信幸もはめられる

…と、まさに真田昌幸の智謀が冴え渡る!という回だったのですが、私の印象に残ったのはむしろ信幸さんの心情でございます。

それが策略とはつゆ知らず、「大事な役目」と意気込んで上杉領に向かうも、途中で密書は奪われた挙句、同行した佐助(演:藤井隆)も斬られてしまった信幸。信幸からすれば「大事な役目」を全うできなかったわけで、これはさぞかしショックだったものと思います。

自分を責めているところへ、さらに追い打ちをかけるように、昌幸からは「実は策略じゃ」と真相を明かされました。そりゃ呆然としますよね。

信幸は策略のことを知り、「それなら私にも教えておいてくださいよ」と不満を口にしますが、昌幸は「お前は芝居ができんからな。敵を欺くにはまず味方からよ」とどこ吹く風です。しかも佐助もしれっと無傷で再登場。策略のことも知っていた風。

真面目な信幸ですから、疎外感を感じたのではないでしょうか。
父は策謀の男なのは信幸も知っているところ。その父が「お前は策には使えん。」と言っているようなものです。父に見捨てられて悲しいと同時に、策だとまったく気づけない自分自身にも腹が立つやら情けないやら。「本当に私なんかで真田の跡継ぎが務まるのか」というように思ったかもしれません。

なんとも言えぬ感情が、その後のシーンでの信幸の「一人にしておいてくれ」というセリフに現れていた気がします。

ともあれ、今週のラストシーンでは、父から「真田の跡取りはお前だ」という言葉をかけられ、立ち直っていました。先日も書きましたが、信幸のいいところはこの「真面目さ」。
信幸はのちに江戸幕府下で信州松代の領主となって、真田の家を守り続けましたが、江戸という平和な時代には策謀は不要。領国の経営が第一となる時代においては、信幸の実直さ、真面目さはむしろ生き残りの条件となったのではないでしょうか。


■一族における立ち位置が同じ昌幸の弟・信尹と信幸の弟・信繁

一方で、弟の信繁。彼はどうでしょうか。

この頃の信繁については、史料があまり残っていないようなので、その頃の信繁をどう描くのかなーと思っていたのですが、全体のストーリーとしては"主役だけど戦国の世においては「兄を支える。自身は脇役」という考えを持っている人"という描き方のようですね。今回初登場した昌幸の弟・信尹も同じ境遇で同じ考えのようでした。

戦国時代は「長男が家督を継ぐ」というような考え方はまだ確立されていなかったものの、この時期の真田家においては信幸が家督を継ぐ人であり、信繁はあくまで次男坊。これまでのドラマのなかでも、信幸からは「俺には家を守る責務がある」という発言もありましたが、信繁は、どこかまだ脳天気な感じのキャラクターのようでした。でも、彼は彼なりに自分の”真田家での役割"を考えていたのかもしれません。





今回は登場人物の内面が見られた気がしたので、普通に感想を書いてみました。

次回はいよいよ織田信長公とご対面のようです。しばらくアレだな。昌幸から目が離せねえな。
次回もお楽しみです。


↓ブログランキングに参加しています。よろしければご協力お願いします。(クリックで1票) 人気ブログランキング
にほんブログ村 歴史ブログへ

yuuhi

大河ドラマ『真田丸』第2回は、武田家滅亡が描かれる回でした。いきなり重要イベントきましたね。

武田勝頼(演:平岳大さん)は、元々真田昌幸(演:草刈正雄さん)の進言を入れて、上野岩櫃城に向かう予定でしたが、重臣たちによる反対を受け、信玄公の娘婿でもある小山田信茂(演:温水洋一さん)の岩殿山城に向かっていました。岩殿山城は岩櫃城に比べれば、新府城からはるかに近く、岩櫃城と同じく、天然の要害を備える城でした。
ところが、岩殿山城への途上で信茂が変心し、勝頼はわずかな供回りと共に甲州田野村に落ち、そこで最期を迎えるのです。ドラマでは跡部勝資と名の紹介のないお供が数人いただけでしたが、実際には嫡子の信勝ほか家臣、妻・侍女ら50〜60余名(記録により差異ある模様)が、勝頼と共に自害したといいます。

真田信幸・信繁兄弟はひたすら岩櫃を目指す家族行脚で、途中野盗やら小山田の策謀やらに会いつつ、無事に岩櫃に到着。武田家滅亡という局面に達して、真田の取る道は…「織田につく!」というところで"つづく"…でした。

ところで、ドラマでは、武田家滅亡に一役買ったと言える人物が二人いましたよね。穴山梅雪(演:榎木孝明さん)と、先述の小山田信茂です。彼らはどういう人達だったのでしょうか。

※ドラマでは織田家に与した人物として、「木曾義昌」も名前だけ出ていましたが、名前だけだったので省略します…。


■穴山梅雪という男

穴山梅雪は、本名は信君と言います。梅雪は号。

ドラマでも1話目に登場した軍議のシーンで、勝頼のすぐそばに控え、発言力も持っているように描かれていました。それはなぜかというと、彼が武田一族の人だからです。
そもそも元をたどれば武田の血族であり、梅雪自身も、母親が信玄公の父・信虎の娘、妻は信玄公の姉でした。

そんな武田家でも重臣格だった梅雪は、川中島の戦いでは信玄本隊の守備につき、駿河侵攻においては必要な交渉などを中心として、数々の外交交渉で活躍していました。まさしく、家柄、実績ともに申し分ない梅雪だったのですが、勝頼の代になると徐々にその政治的権力を失っていきます。

前述のとおり、主に外交交渉に活躍してきた梅雪でしたが、その外交交渉に使われた人脈は、情勢の変化とともに重きをなさなくなっていったのです。そこで、梅雪は、自身の息子と勝頼の娘の婚姻を企図し、婚約までさせたものの、やはり政治的対立があって破談となってしまいました。以降は勝頼との関係に亀裂が入ったとされているようです(『甲陽軍鑑』の記述による)。

ちなみに、この時破談になってしまった相手である勝頼の娘は、信玄公の弟の子である信豊の嫡子・次郎と婚約しましたが、この武田信豊こそはドラマにも登場した勝頼の側近・跡部勝資(演:稲荷卓央さん)と共に、勝頼政権で重要された人物です。
※もう文字だけだと、相関関係が何がなんだかわかんないので、下の系図みてください。

武田家中で高い地位にいたにも関わらず、徳川家の調略に応じて、武田家を滅亡に導いた梅雪は、勝頼体制下での扱いに不満を持っていたみたいですね。この後、梅雪は「武田家は自身が再興する」といったことを語ったこともあったそうです。

takeda-keizu


■小山田信茂という男

さて、もう一人。
梅雪とは異なり、最後の最後で変心したのが小山田信茂です。

彼はドラマ中にもあったとおり、最終的に織田家について勝頼を見捨てたものの、甲府善光寺で織田信忠に罵られて殺害されてしまいました。謁見の場からひきずられていってしまった信茂ですが、いったい何者なのでしょうか。

そもそも小山田氏は甲斐の国人領主で、武田氏が信虎の代に、武田との関係を親密なものとし、以降は武田氏に従っていたようです。信茂本人についても関係性は密で、祖母が信玄公の父・信虎の妹なのです。したがって、信茂は、信玄公の従甥にあたることになります。

信茂は、川中島の戦いや、駿河侵攻、北条氏との戦いなど主要な戦いにも参戦しており、その後、信玄公の西上作戦においては、徳川家康と激突した三方ヶ原の戦いにて先陣をつとめるなど、信玄公の信頼厚い武将でした。

信玄死後も勝頼の元で、上杉景勝との同盟締結に尽力するなどしており、梅雪のように関係性におかしなところもありませんでしたが、最終的には勝頼を見捨てました。その理由は諸説ありますが、一説として、「彼はあくまで国人領主だから」というものがあります。

どういうことかと言いますと、武田家滅亡の要因となった人物として悪名が先行する信茂ですが、先述の通り小山田氏は"国人領主"なのです。現代風にいうと、"武田グループの中の一社"ですかね。「武田本社の正社員というわけではない」と考えると、この時の信茂の心情を想像しやすいかもしれません。
つまりは、本社が風前の灯となった武田グループを見限って、伸長著しい織田グループに入ることで、自社の社員を守ろうとした…と言えるかもしれません。
ちなみにそういう見方をすると、木曾義昌、穴山梅雪共にその視点が当てはまる部分はあります。

ともあれ、信茂は織田グループ入りを認められず、そればかりか不忠者と罵られて、母、妻子ともども処刑されてしまいます。
勝頼はドラマ中でも悲壮感にあふれた最期が描かれましたが、上記のように考えるとひきずられていくシーンが最期となった信茂にも戦国の無情を感じますね。



さて、ドラマでは真田家の松(演:木村佳乃さん)と結婚している小山田茂誠(演:高木渉さん)は、信茂が連行される場に一緒にいました。果たして一緒に処刑されてしまうのか、はたまた"安心してください、生きてますよ"と、とにかく明るく再登場するのか。…と、ググればわかっちゃうことを引っ張ってみる。

次回は織田家との交渉が描かれる模様です。次週もお楽しみです。

【参考書籍】
新編 武田信玄のすべて
武田勝頼のすべて
風林火山―信玄の戦いと武田二十四将 (歴史群像シリーズ 6)

 
↓ブログランキングに参加しています。よろしければご協力お願いします。(クリックで1票) 人気ブログランキング
にほんブログ村 歴史ブログへ

uedajyou02
大河ドラマ『真田丸』。いよいよ始まりましたね〜。ご覧になられたでしょうか?

今日の放送は、真田家が仕えていた武田家の落日がメインの回。武田勝頼の晩年が悲しく描かれていました。
主役である真田家ももちろん武田家の命運の影響を受けるわけなのですが、今日はドラマの第1回。真田家にとっては、一つの運命の転機でもあり、まさしくサブタイトル通りの「船出」の回でした。

さて、第1回ということで、まんべんなく真田家の面々が登場していましたが、それぞれ特徴が出ていた気がします。そこで、史実の人物評や行動からわかる性格と照らしあわせてみました。


■策士昌幸、真面目信幸、温和な信繁

・真田昌幸(演:草刈正雄さん)
 
昌幸の史実の人物評として、武田信玄には「我が両目の如し」、豊臣秀吉には「表裏比興の者」と称されたと残っています。
特に「表裏比興」の評については、ドラマ中でも、
家族の前:「わしとがいる限り、武田は滅びぬー!」「新府城にいれば安心じゃー!」
と言っていながら、
息子たちにだけ:「武田は滅びる」「わしはこの城を捨てるぞ」
と言うなど、合理的かついい意味で非情というか、策士の雰囲気をかもしだしていました。

個人的には、思ったよりワイルドな印象を持ちましたが、「機転が回る一族の長」という感じも出ていてよかったです。これから上田合戦なども描かれていくでしょうから、その時の深謀ぶりも描かれるといいですねえ。


・真田信幸(演:大泉洋さん)
 
のちの関ヶ原の戦い直前には、真田の家を守るため、徳川家に加勢した信幸。戦後、豊臣方についた父弟の死罪の危機においては、必死の助命嘆願を展開し、「父を斬るならまず私をお斬りください」とまで言って助けました。
また、関ヶ原後は父・昌幸の名の一字である「幸」の字を「之」に改めたり、父が亡くなった際も、父を嫌う徳川家に憚って許可を得てから葬儀を執り行うなど、ざっくり言うと"真面目"かつ"慎重"な性格でした。

今日のドラマでは、信繁と将棋崩しをするシーンで、「定石を踏む質」とセリフが出ていましたし、行動でも表現されていましたね。


・真田信繁(演:堺雅人さん)

信繁はドラマ中ではけっこう愉快な人柄に描かれていた気がします。史実では、大坂の陣での活躍ぶりが有名なので、猛将・無骨なイメージもあるのですが、実は兄・信幸が語った信繁の意外な人柄が伝わっているんです。それによると、
「物ごと柔和忍辱にして強からず、言動少々にして怒り、腹立つことなかりし」
―『真武内伝』
つまり、柔和な人柄で、言葉少なく、あまり怒ることもなかったというわけで、また、
「性質屈僻ならず、常に人に交はるに笑語多く和せり」
―『おきな草』
というような評もあり、けっこう冗談などもいう人だったみたいです。

ドラマでも、今日の放送ではまだ若いころのシーンということもあるのかもしれませんが、そういった普段の温和さが出ていたのではないでしょうか。これから合戦シーンなどが描かれると、軍略家としての顔が見られるかもしれませんね


その他の人々

その他の面々も、信繁のお母さん・薫(演:高畑淳子さん)は公家出身っぽく、着物やら扇子やら道具を気にしたり、武家の慣習が飲み込めてない風だったりと特徴が出ていました。

また、信繁の姉の松(演:木村佳乃さん)も、信繁との会話シーンで軽口を交わす描写がありましたが、史実でも信繁と親しかったようで、大坂夏の陣直前にも、信繁から姉宛ての手紙が送られているなど、後々になっても親交深い姉弟だったようです。


…とまあ、今回は第1話だったので、やっぱり登場人物の人物像が印象に残りました(ストーリーとして、武田勝頼の悲壮感はもちろん印象的でしたけど)。次週はさらに真田一族が戦国の荒波に突入していくようです。

次週もお楽しみです。


…余談ですが、信繁の姉・松の旦那である小山田茂誠は、信繁と同い年みたいですね。信繁の生年に2通りの説があるにはありますが、そのうちの一つである永禄10年(1567)生まれのようです。

あと、もう一つ余談。
ドラマの最初のほうで、やはり小山田茂誠が「なんでおぬしら兄弟は、兄が"源三郎"で、弟が"源次郎"なのだ?」という疑問を投げかけていました。セリフで入ってくるとは意外でしたが、「大した意味はない」的なまとめでした(笑)。現代人の感覚だと、この逆転現象は紛らわしい(普通"次郎"が兄、"三郎"が弟!?)ので、ドラマの中で直接フォローしたんですかね。
↓ブログランキングに参加しています。よろしければご協力お願いします。(クリックで1票) 人気ブログランキング
にほんブログ村 歴史ブログへ

【参考書籍】
真田幸村のすべて
真田三代―戦乱を“生き抜いた”不世出の一族 (新・歴史群像シリーズ 10)

【大河ドラマムック本】
真田丸 前編 (NHK大河ドラマ・ストーリー)

senjyousyoku001
戦国時代といえば、まさに戦いの多かった時代。兵士たちは戦場で何を喰っていたのか?
今日はここに注目してみたいと思います。

■戦場食の主役は餅!

「腹が減っては戦はできぬ」という言葉がありますね。その場しのぎにも使える実に便利な言葉ですが、戦国時代に、実際の戦場で「は、腹が減って力(りき)が出ねぇ…」(by悟空)なんてことになったら困ります。
そこで、当たり前といえば当たり前ですが、総大将は部隊の食糧にも気をつける必要があるわけです。

しかし、そこは戦場のこと。大量に持っていけば安心ですが、あんまり荷物を多くするわけにもいきません。重いし、量が多ければ、移動に時間がかかってしまいます。。しかも、たとえ食べれても、ちょっと動いたらまた腹が減ってしまうような消化のよすぎるものもなるべく避けたいところ。

というわけで、戦場食には、
1.コンパクトに持ち運べる
2.腹持ちがよい
という2つの条件が課せられます。
これを満たし、戦国の武士に愛用されていたのが、何を隠そう、お正月の主役・お餅だそうです。


■餅の持つメリットとは?

お餅はまずほとんど調理せずに食べられる、というメリットがあります。また、基本的には固形なので、持ち運びも簡単。細かく切れば、そのままでも食べられますし、割と保存場所にも気を使わない食品です。

また、「餅腹三日」とか、「餅腹七日」とかいう言葉がありますが、これは要するに腹保ちがいいことを表しています。言葉になっちゃうくらいなわけですが、餅は実際に腹持ちがいい食品です。お出かけ前にお餅!なんていう慎重派な武士もいたかもしれません。

ちなみに、お餅にはさらに付加価値がありまして、便が遠くなるのだそうです。これについては、特に意識していなかったので、実感はしていないのですが、どうやら本当だそうですよ。

まあなにしろ時は戦国時代。合戦が始まってしまえば、いくら「ちょちょちょ!ションベン、ションベン。タンマ、タンマ。」と言っても相手は待ってくれません。催しているうちにバッサリやられたりブスリとやられたりして、人生終了なんてことになっては死にきれませんよね。
※…それに、戦国時代には、「合戦の話しをしている最中は便所に行くな」というお殿様(⇒こちら参照)もいましたので、大小便が遠くなるのはいいことだ…!


というわけで、日常食としても、携帯用の戦場食としても戦国武士たちに、かなり支持された餅は、実に便利な食物なのでした。

ちなみにお餅はドラえもんが20世紀に来てはじめて食べた食糧です。彼は、皿まで舐めるほど餅が気に入ったご様子でした(笑)。……まあ…関係ないけどね。

さて、戦場には、まだまだ兵士たちが持っていける携帯食糧があります。


■メジャーなアウトドアフード。

戦場食として、餅とならんでおなじみなのがおにぎりです。
現代でもピクニックだ、ハイキングだ、というアウトドアレジャーにはおにぎりがピッタリ。合戦もある意味アウトドアですので、おにぎりは重宝しました。

おにぎりの場合は米を炊いてあるので、餅ほど長く持ちませんでしたから、携帯する場合、長期戦には不向きでしたが、兵士たちはよくおにぎりを持ってでかけたようです。
当時のおにぎりは、単純に炊いたごはんを丸めたものに塩をかけたくらいのものだったようですが、餅と違って、固定できるようにしておかないと、だんだん形が崩れてしまい、実に食べづらくなってしまいます。

打違袋そこで編み出されたのが「打違袋」というヤツ。これは腰に巻く形(ウエストポーチみたいな感じ)の袋で、おにぎりを入れて、ねじって、また入れて…というものでした(画像参照)。こうすれば型崩れもせず、しかも腰に巻いておけばいいので、崩れることもないというわけです。

※画像は腰に巻いたところ。側面の丸いところにおにぎりが入ってます。背中の方にもこの丸いのがあるわけです。

■もっと手軽に戦場食!

おにぎりの他にも、もっと手軽な「干飯(ほしいい)」(糒とも)というのもあります。
これは炊いたごはんを水で洗って粘り気をとり、それを干したものです。携帯するときは干して乾いた状態で持ち運び、食べる時には水につけてやると、アラ不思議。なんと普通のごはんに戻るというスグレモノでございます。しかも、水につけずにこのままでも食べられるという最強の簡易食なのです(風味は劣ると思われる)。

水にもどせばごはんになるし、そのままポリポリともいける…。せっかく炊いたごはんを水洗いして干さなければならないので、準備がちょっと面倒ですが、これほど戦場向きな食べ方もないような気がしますねえ。

ちなみに、米は生で食べると腹をこわしやすいようです。関ヶ原の戦いでは家康も「米は水に浸して時間をおいてから食え」とお触れをだしていました。(⇒戦場で米を喰うには?参照)


■その他の戦場食

また、戦場食は、栄養価にも注目する必要がありますので、味噌やカツオ節も使われたようです。用意があれば、陣笠をひっくり返して鍋代わりにして、味噌汁なども作っていたようですよ。

しかし、それでも戦が長引けば、食糧不足に陥る可能性はあります。『雑兵物語』には、兵一人当たりの一日の食料割り当てが書かれています。それによると、一人当たり、米6合と、10人当たり塩1合と味噌2合が支給されたそうです。となると、思いがけない長期戦になれば、兵糧は当然足りなくなっていきます。

そこで、敵領地にこっそり忍び込み、稲を無断で刈り取ってきて即脱穀。…という「刈田」という戦法も用いられたようです。
また、味噌などは、大豆と麹を発酵させてつくるので、これらを混ぜ合わせたものを行軍中の兵士たちに配っておき、行軍中に味噌が出来上がっているなんていうやり方もありました。


ドラマなどではあまり描かれませんが、食糧の確保は合戦のキモでもあります。各大将、様々な工夫をしていたようですね。


↓ブログランキングに参加しています。よろしければご協力お願いします。(クリックで1票)
人気ブログランキング
にほんブログ村 歴史ブログへ

shikanosuke

戦国尼子家といえば、守護代家でありながら謀略で下剋上を果たした「謀聖」こと経久が知られています。

が、経久没後、跡を継いだ晴久、義久父子は、毛利元就との戦いを経てついに滅ぼされてしまいます。
しかし、そんな没落した尼子家にも忠臣がいました。主家再興に命を懸けた山中鹿之介幸盛です。

この人、武勇に優れ、軍略にも通じていたようで、人からは「楠木正成公に勝る」とまで称されたとか。楠木正成といえば、南北朝期に後醍醐天皇に味方して、数十万の敵を1000人くらいの兵士で散々翻弄する(『太平記』による。誇張ありとされる)など、ことに戦術面では右に出るもののいないお方。

鹿之介はそんな男にも勝ると称されていたわけですね。こりゃすごい。

■天にお祈り系男子

ところで、そんな鹿之介には有名な伝説があります。なんと天にお祈りしていたというのです。鹿之介は、天に祈る時、いつも「我に七難八苦を与えたまえ」と願っていたと言われています。この言葉自体はけっこう有名なので、知っている人も多いと思います。

鹿之介はなぜこんな願いをかけたのでしょう。尼子家を再興するというのはただでさえ大変な道。別にあえて苦労を背負わなくてもいいじゃないの。一見「単なるドM」で片付けられてしまいそうですが、一応、ちゃんと理由があったようです。


■単なるドMではない。なぜ七難八苦を願うのか

後世の逸話集『名将言行録』には、鹿之介が祈る理由として、このように書いてあります。
「自分のことではあるが、何か事が起きなければ自分の器量というものが、どれほどのものかわからない。だから、何か事が起きることを望み、自分の心を試したいのだ。」

つまり…、「何か事件があった時ほど自分がどれほどの人間なのかがわかる。そうでない時には自分でも本当の自分の器がどの程度なのかわからない」ということですな。

確かにいざっていう時ほどその人の本質が見える気はします。普段は仲間思いなことを言っていながら、いざ困難に遭遇した時には、仲間を置いても逃げる人あれば、普段はぶっきらぼうなくせに、突如リーダーシップを発揮してうろたえる人々をまとめたりする人がいたり。こういうのはいざって時にだけわかりますよね。

『名将言行録』は後世の読み物ですので、歴史事実ではないのかもしれませんが、この話は、なかなかいい教訓にもなっていると思います。現代でも心構えを持っておくと、常に冷静に物事を判断し、人のために何かを為すことができるようになるんじゃないでしょうか。


■願いを立てた鹿之介はどうなったか

ちなみに願いを立てた鹿之介はどうなったかというと、主家再興を目指して挙兵し、尼子一族の勝久という人物を擁立しました。目標を実行に移せたわけですね。

そして、織田家家臣時代の羽柴秀吉の援助を受けて、播磨の上月城に入城しますが、ほどなく毛利家の大軍(吉川元春&小早川隆景)に攻められ、秀吉の援軍も受けられずに落城。勝久は切腹しましたが、鹿之介は生け捕りとなり、護送中に斬殺されました。

鹿之介が、なぜ主君とともに切腹せずに生け捕られたのか。諸説ありますが、「敵と刺し違えるつもりだった」とか、「あくまで主家再興の志を遂げるため、隙を見て脱走するつもりだった」などと言われています。
「鹿之介の器」がどんなものであったかは、この真意によっても違った形で想像されそうですが、ホントのところはわからないままです。

余談ですが、一緒に挙兵した人で、鹿之介の叔父にあたる立原久綱という人物がいるんですが、この人も毛利家に捕らわれたものの脱走に成功しています。のち出家していますが、慶長18年(1613)年、84歳で亡くなりました。

それにしても…事態が困難なほど燃える男であったであろう鹿之介…。やっぱりどちらかというとMだったんじゃないかなー。

(参考書籍)
名将言行録 上 (原本現代訳 16)
山中鹿介のすべて』(米原正義編 新人物往来社刊)


歴史ブログランキングに参加しています。よろしければご協力ください(クリックで1票)
にほんブログ村 歴史ブログへ
人気ブログランキング

fushimijyo
関ヶ原の戦いの直前、会津の上杉景勝に謀反の疑いをかけた徳川家康は、その征討に向かうため、政治の中心である近畿を留守にすることになりました。

当時、石田三成など家康に敵対的な豊臣官僚は複数いたため、実力者である家康が留守にすれば、彼らが旗揚げする可能性があります。それこそ家康の狙いでもあったと言われているわけですが、何はともあれ、留守にする以上、家康が詰めていた伏見城には代わりの責任者をおかなくてはなりません。

そこで、家康が伏見城に残したのは、家康幼少期からの重臣・鳥居元忠でした。この元忠、この後、文字通り旗揚げした三成ら西軍一同に攻められて城を枕に、壮絶な戦死を遂げるのですが、この捨石同然ともいえる役割を古くからの重心に伝えるのは、さすがの家康も思うところがあったようです。

今回はその時のエピソードをご紹介します。


■家康、元忠に伏見城留守居役を命じる

慶長5年(1600)―。蒸し暑さを感じる夜のことである。家康は居室に鳥居彦右衛門元忠という男を呼んだ。

鳥居元忠は当時62歳。古くから家康に仕え、類まれな忠義を見せて武功を上げてきた猛者である。
元忠を呼んだのは他でもない。伏見城の留守居の任を命ずるためだ。
今度の会津征伐に伴い、家康にとっての西国の要・伏見城に人数を割かねばならない。そこで、元忠を指揮官として残すことに決めたのである。

「殿、元忠参りました。」
「おお、彦右衛門(元忠)。入れ。」
元忠は部屋に入ると、家康の前に少し離れて座って一礼した。どうやら部屋に居るのは家康一人である。家康は眉をハの字にして、暗い顔をしているのが元忠にもわかった。

「かような時分にお呼び出しとは、いかなるご用向きにござろう。」
元忠も、家康が伏見城に兵を残すことを考えていることは知っていたので、召しだされた理由に大方の察しがついていたが、まずはそう尋ねた。

家康は重々しく口を開いた。
「彦右衛門よ…。こたびはそこもとに伏見の留守を守ってもらうことにした。」
元忠は予想通りだ、と思っただけで別に驚かない。
「おお、そのことでござったか。承知つかまつった。ありがたき幸せ。」
元忠はそう返事をした。すると家康が手招きして言った。

「彦右衛門、近う寄れ、近う。」
家康は元忠を側近くまで召し寄せ、元忠の肩に手を置いた。
「彦右衛門よ、そちはこれまで本当によくこの家康に尽くしてくれた…。心から礼を申すぞ。」
「ぷっ!ははは。殿、突然何を改まっておられる。家臣が主君に尽くすは当然のことでござる。」
突然家康がそんなことを言うので、これには元忠も少し驚いた。


■詫びる家康、覚悟の元忠

家康はさらに続けた。
「いや、彦右衛門よ。わしはそなたに詫びねばならぬことがあるのだ…。率直に申そう。こたびの伏見守備の任、それほど人数は割けぬ。よもや治部(石田三成)が変事を起こすやもしれぬ渦中に、充分な人数が割けぬこと、許してくれい…」
家康は、伏見城に残せる兵士は少数であることを伝え、それを元忠に詫びた。

家康が会津に下向すれば、石田三成らが挙兵する可能性が高い時期である。大坂から近い伏見城が大軍に狙われることは必至である。むしろ三成らが反抗してくるのを望む家康からすれば、それを狙っての会津出陣でもあった。いわば伏見城は囮でもある。ゆえに戦略的にも大軍はおけない。

となれば、その伏見城の留守居を任せる元忠とは、これが今生の別れになるやもしれない。だからこそ、家康は元忠に詫びているのであった。

しかし、元忠は笑みさえ浮かべつつ、
「なあに、殿、石田どのが何事か起こさば、伏見の周辺には後詰め(援軍のこと)もござらぬゆえ、籠城して日が立てば、やがては討ち死にということになりましょう。死の覚悟はとうにできております。どうということもござらん。」
と言った。

勝てぬ戦ならば、城を枕に討ち死にの覚悟ゆえに人数は必要ない、と元忠は言う。
この元忠の忠心に家康も感じ入った。
「すまぬ…彦右衛門。…さればもはや何も言うまい。伏見城の留守居役、立派に果たせ。」
「お任せあれ。それがし、伏見にて天下の軍勢を一手に引き受け、たとえ無勢にあろうとも最期まで防ぎ戦い、目覚ましく討死せんと心得まする。」
元忠はそう言って豪快に笑った。

「…今宵は今生酒になろうかな…」
家康は元忠に酌をした。その夜は数刻、二人酒となった。

鳥居元忠は、西軍の伏見城包囲に断固屈せず、その言葉どおり兵士たちと共に討ち死にして果てた。その壮絶さをあらわす伏見城の血染めとなった床板は、現在、京都東山区の養源院の天井板として移築されている。




ちなみに、元忠のほかにも、松平家忠、内藤家長なども伏見城の留守居将を命じられています。

血天井は他にも京都市内の宝泉院・正伝寺・源光庵などに見られます。源光庵なんかは「悟りの窓」「迷いの窓」で有名ですね。私も一度だけ行ったことがあります。

ブログランキングに参加しています。よろしければご協力をお願い致します(クリックで1票)
人気ブログランキング
にほんブログ村 歴史ブログへ

gifujyou
四国の名将・長宗我部元親は、念願の四国統一達成のため、本州の大名の介入を極力抑えるべく、織田信長や、中国地方の毛利輝元、宇喜多秀家などに贈り物をして、良好な関係を築こうとしていました(信長から圧力をかけていた部分もあります)。特に信長には、嫡男・信親の烏帽子親となってもらうよう希望したりもしています。

当時、織田家は近畿の制圧をかなり進めていたため、元親としても信長の四国への進出を懸念していたのでしょうが、実は、信長としてはまだそれどころではありませんでした。東の武田攻めを進めなくてはならないほか、石山本願寺の一向一揆が頑強に抵抗していたからです。

…というように、まだ四国制圧にはさほど興味のない信長に、元親の使者が訪れた時のエピソードがあります。

■長宗我部の使者・「中島可之助(なかじまべくのすけ)」とは何者か

長良川河畔の金華山に織田信長の居城・岐阜城があった。山麓に御殿、山頂に天主を備えた信長自慢の城である。いま、その山麓御殿の一室に、しかめ面をした鼻息の荒い男が一人で座っている。

男の名前は中島可之助(なかじまべくのすけ)。四国土佐の大名・長宗我部元親の家臣である。
身分は高くないが、周囲には常々、「今に出世してみせるわい」と豪語し、和歌を多少嗜み、武道の鍛錬にも余念がない男だったという。

その可之助に大きな出世のチャンスがめぐってきた。織田家への使者の役目である。内容は「弥三郎(元親の嫡男。のち信親。)の烏帽子親を、織田信長に依頼すること」そして、「四国阿波への侵攻の承諾」の2点だ。

長宗我部元親としては、破竹の勢いの織田信長に烏帽子親となってもらうことで、信長のご機嫌をとり、自家との関係を良好に保ちつつ、信長が四国掌握に動く前に、自家の所領を少しでも広げておこうと考えたのである。

その元親の狙いを託されたのが、いまここで鼻息を荒くしている中島可之助だ。可之助としては、長宗我部家の先もそうだが、何よりも自身の出世がかかっているから、余計に気合が入る。鼻息を荒くしているのはそのためだろう。ともかく、しくじるわけにはいかない。

(長宗我部元親が家臣、中島可之助にござる…。こたびはご尊顔を拝し奉り…。)
可之助は、頭の中で何度も口上を繰り返し練習していた。

そこにズタッズタッと足早に廊下を踏む音が聞こえてきた。障子がスパンと開いて、入ってきたのは、やや長身、痩躯だが、とんでもなく威圧感のある男…。言うまでもないが、織田信長であった。


■対面!織田信長!

信長が入ってきたのを見て、可之助は、慌てて手をついて頭を下げた。すると、信長と一緒に入ってきた小姓が大きな声で信長に言った。
「土佐国、長宗我部どのよりの御使者にござりまする。」
この言葉に促されるように、可之助は頭をさげたまま、練習していた言葉を言った。
「長宗我部元親が家臣、中島可之助にござりまする。こたびはご尊顔を拝し奉り、まこと…」
「待て。」
可之助の口上の途中で、信長がそれを遮った。可之助は口を開けたまま停止してしまった。

「堅苦しい。挨拶無用。面をあげい。」
信長は短くそう言うと、脇息にひじをついた。意識的にやや声を低くしているようだった。威圧感がある。
可之助が恐る恐る顔をあげると、信長は眉間にしわを寄せて、可之助を見ていた。その形相に思わずひるみそうになったが、なんとか視線を少しずらすだけにとどめた。

少しの間沈黙した後、信長が口を開いた。
「どうした。主よりの口上、申せ。」
「は、ははっ!」
可之助はまたしても慌ててしまった。今の沈黙は、話すことの許されない沈黙なのかと思ったが、どうやら話しが始まるのを待っている沈黙だったらしい。可之助は、すばやく何度も練習した口上を思考から引き出した。

「さ、されば」
声が裏返った。わざとではない。誰も笑わない。可之助は続けた。
「失礼ながら、簡潔に申し上げまする。我が主は、嫡子・弥三郎の烏帽子親をぜひとも上様にお願い申し上げたいと…何卒、寛大なるご返答をお願いいたしまする。」

あえて、「上様」と言った。その方が心象がよいであろうという可之助の判断である。
しかし、可之助は、書物も読みはするが、あまり学はなかった。そのうえ、緊張もあって、うまくイメージ練習どおりに言葉が出てこず、意味は通じたであろうが、単に要求を述べただけであり、まがりなりにも交渉の使者という意味では言葉足らずな感じになった。

しかし、信長はそんなことは気にする様子もなく、
「で…、あるか。」
と短く言った。そして、何かを考えるように姿勢を少しだけ崩してほおずえをつくと、ふと口だけニヤリとして、こんなことを言った。
「四国…土佐…、長宗我部と申せばムチョウトウのヘンプクである。」
「…??」

可之助には、信長の言っている意味がわからず、思わず押し黙ってしまった。そして、少し目線を下に向けた。すでに手のひらは汗びっしょりであった。可之助の考えていることは、
(な、なんだ??ムチョー…??ヘンプクってなんだ???)
であった。
信長は、可之助の顔を見て可之助の焦りを察したのか、くっくと含み笑いをもらした。


■中島可之助、会心の切り返し(偶然だけど)

信長の言った「ムチョウトウのヘンプク」とは、何のことはなく、「無鳥島の蝙蝠」というのを漢音読みしただけである。四国を「鳥も通わぬ島」などといって蔑み、暗に元親を田舎者とバカにしているのだ。それなのに、漢音で言うと大仰に聞こえるから不思議である。可之助も例外でなく、まさか蔑まれているとは思わなかった。だから、次に出た言葉こうだった。

「は、ははーっ!ありがたき幸せにござりまする!」
深々とお辞儀した。可之助は信長に元親が褒められているのだろうと思ったのである。
信長はこれを聞いて、いよいよおかしくなってついに甲高い声を出して高らかに笑い出した。そして可之助に合わせるようにして、言葉を返した。
「わっはっは、なに、誠を申したまでよ。はっはっは…。」

可之助は信長に合わせて「ははは…。」と笑っていたが、頭の中では(こちらも何か申し上げねばー!信長様を褒めねばー…!)とずっと考えていた。そこでふと思いついてこう言った。
「いやはや、上様もホウライキュウのカンテンと見上げ奉りまする。この可之助、元より不肖の身なれど、上様には殊更に感服仕り申した。」

しかし、これを聞いた信長の笑いが急にピタリと止まった。
「…あ?」
信長は思案顔になった。信長の様子の変化に可之助は内心(ぬぐぐ…!?何かまずいことを言ったか?)と思った。

実は、先に可之助が「ムチョウトウのヘンプク」の意味を分からなかったように、今度は信長が「ホウライキュウのカンテン」の意味がわからなかったのである。
(ホーライキューのカン…テン…??)

信長はいくつか考えを巡らしてみたが、どうにも聞いたことのない言葉である。しかし、使者や部下の小姓の手前、ずっと黙っているわけにもいかない。仕方ないので、当たり障り無く答えた。
「で…、あるか。」

可之助は(まずった)と思っていたから、その言葉にホッと一安心した。
「ははっ、まっこと。」
「ホウライキュウ」すなわち「蓬莱宮」とは神仙思想の蓬莱山にある宮殿のことで、「カンテン」とは「寛典」、寛大な処置とか恩典とかいう意味の言葉である。可之助としては、褒め言葉として使ったのであった。

意味を解したわけではなかったが、しばし思案顔だった信長は可之助の方を向くと、ふとニヤリと笑った。そして、
「その方、なかなか機転が利くな。」
とだけ言った。つまりは、自らの「ムチョウトウのヘンプク」という発言に対しては、まったく意味を理解していない風だったのに、それなりの返答をした可之助を褒めたのである。

その後、二人は二つ、三つ、烏帽子親のことについて言葉を交わした。また、信長は長宗我部家による阿波侵攻も許可した。そして最後に「大儀。」とだけ言って、彼らしく足早に立ち去った。
部屋には、役目を果たして、どっと気の抜けた可之助が一人座っていた―。




このエピソードには、いろいろな説やバージョンがあるようですが、この記事は「信長がからかったことに対して、可之助がとっさに返答する」というバージョンで構成してみました。参考にさせていただいた本(日文新書『戦国武将勝ち残りの戦術』風巻紘一著)がそうなっていたからそうしたんですが…^^;

実は、エピソードそのものの出典が何なのかわからなかったんですが、「可之助が信長の言葉を理解していて、即座に言い返した」とか「信長の発言は使者の器量を試すためのもので、蔑んだわけではない」とか「可之助の蓬莱宮云々の発言が、元親を褒めた発言になっている」など、本や掲載サイトによって微妙な違いがありました。けっこう解釈の違いによって、可之助の評価が変わると思うのですが…。果たして真相はどうなんでしょうね??


↓ブログランキングに参加しています。よろしければご協力お願い致します。(クリックで1票)
にほんブログ村 歴史ブログへ
人気ブログランキング