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いよいよ今夜の大河『真田丸』は、真田家の名シーン犬伏の別れが描かれますね!
そこで、ちょっと犬伏の別れとは何だったのか、紐解いてみました。

■会議のきっかけは


真田昌幸・信幸・信繁(幸村)父子といえば、関ヶ原時には居城の上田城で徳川秀忠の軍勢を翻弄したことで有名です。しかし、彼らはもともと徳川家康の会津征伐軍に加わるべく、下野国(栃木県)に向けて軍を進めていました。ところが、その途中にある犬伏宿(現・栃木県佐野市)にいた7月21日、石田三成の密書を受け取ります。

三成の密書にはこう書かれていました。

「徳川内府は太閤殿下の御遺命に背くこと幾度にわたり、今回の上杉征伐でもその叛意は明らかです。私たちは上方で挙兵することにしました。太閤様から受けた恩をお忘れでなくばお味方ください。」

さらに、そこには家康の横暴を13箇条にわたって書き連ねた「内府ちかい(違い)の条々」もついていました。

そこで、昌幸は、先行していた信幸を犬伏に呼び戻し、信繁(幸村)を含めた親子3人で、犬伏の薬師堂の中で、家族会議を開いたといわれています(近くの民家の離れだったともいう)。議題はもちろん、このまま家康につくか、それとも三成につくか――。

■会議のゆくえ


これは密談ですので、当然ながら詳細な記録など残っていません。結論は史実にある通り、昌幸・信繁(幸村)が石田方につき、信幸は徳川方につく結果になります。史実といえるのはこれのみ。
ですが、伝承としてこの会議の模様が伝わっているので、それを頼りに掘り起こしてみましょう。

信幸さんのご意見


まず、長男・信幸は徳川方につくことを主張しました。
「これまで、内府様(家康)から格別のご恩を蒙ったわけではございませんが、ここに至って今さら変心するは不義に値しましょう。」
しかし、信幸の妻は、家康の腹臣・本多忠勝の娘・小松姫です。だから、そのことも一因の一つ(あるいはそれが最も大きな理由)と言えると思います。また、忠勝から言い含められている点があったという意見もあります。

昌幸さんのご意見


ともかく、徳川方につくことを主張する信幸の意見に対し、昌幸はこう切り返しました。
「それはそうだが、それを言うなら、真田家は内府にも秀頼様にも特別なご恩は受けておらぬ。かような場合にこそ大望を遂げるが本懐。」

「大望」というのは勢力を拡大することです。豊臣秀吉が統一事業を成し遂げ、自身の領地はほぼ確定したと思っていたところへ、再び実力で領地を増やすことができるかもしれない機会到来です。昌幸はここを正念場と考えたのかもしれません。

信繁(幸村)さんのご意見


信繁(幸村)は西軍の大谷吉継の娘を娶っている関係もあってか、「石田方につく」ことをほのめかします。

この議論は「世の中真っ二つだが俺たちゃどうするか」ですから、選択肢は3つしかありません。
1.徳川につく、2.三成につく、3.どちらにも属さない
の3択。ですが、こともあろうにこの時点では3者3様。完全に意見が割れました。

■結論は親子真っ二つ


その後も昌幸たちは、議論を続けましたが、どうしてもまとまりません。

そこで、結論として、4.それぞれ思うようにするを選びます。
「さすればここで親子別れて、家名を残すことをこそ第一としよう。」
となるわけです。

この決定を受けて、昌幸・信繁(幸村)は会津征伐軍から離脱し、居城の上田城に帰ることにしました。信幸はそのまま徳川家康に従うことになります。

しかし、昌幸が上記の密談中のエピソードにも伝わるとおり、野心を持っていたとしたらそれはどうしたのでしょう。


■昌幸が西軍につく理由はない??


信繁(幸村)が石田方につくことを考えていた理由は、「妻が大谷吉継の娘だから」ということが大きな理由ということでいいと思います。兄・信幸も本多忠勝の娘を娶っていたことが徳川方についた一因になっているようですし…。

しかし、昌幸は自ら「真田家は豊臣家からも徳川家からも恩は蒙っていない。」と言っていました。昌幸にとっては、どちらかに味方する義理もないし、その必要もないわけです。

これまでにも「こちらの方が有利だ」と判断して何度か主替えをしてきた昌幸です。機を見るには敏だと思われますので、この時も情勢をまったく軽視して判断するとは考えがたいと思いませんか。
というか、他の多くの武将もそうであったように、昌幸にとっても、どちらが勝つか本当に判断のつかない状況だったものと思われます。

となると、何か石田方についたほうがお得なことがあったのかもしれません。

■領地拡大するぞ!昌幸の野望


調べていくと、昌幸が石田方についた理由として、「三成から信州深志、川中島、小諸と甲州の一部の領有を約束されたから」という説がありました。
と言っても、これは昌幸が石田方につくことを決めてからの約束だそうなので、これをもって昌幸が石田方についたとも言い切れないのですが、「石田方についた方が、領地を拡大するのに都合がよさそうだ」と考えた可能性はあります。

しかも、昌幸は石田方につくことを約束してから、石田方の中心メンバーから次から次へと書状を受け取っています。長束正家、増田長盛、前田玄以、毛利輝元、宇喜多秀家、石田三成、大谷吉継…。連名のものもあれば、単独の書状もあります。同じ人から2回以上受け取ったこともありました。

これだけ何度も石田方の主力が書状を書くのですから、昌幸には「石田方有利」という情報が多くもたらされたことでしょう。次第に昌幸自身も「策を弄して領地を広げるには、石田方についた方が都合がよい」という考えに確信を持つようになっていたと思われます。

また、真田の領地・上田城の周りは徳川に味方する大名ばかりなので攻める相手には不自由しません。しかも、もし中山道を上る徳川軍がいれば上田城におびき寄せてやろうくらいは考えていたかもしれません。おまけに徳川軍に対しては以前一回、散々打ち破っており、自信もありました。うまくすれば、恩賞も思うがままです。

実際、九州の黒田如水や奥州の伊達政宗も、ドサクサ紛れに領地を拡大しようとして動いていますので、昌幸も同じようなことを考える可能性は充分あると思われます。日本を二分するような情勢下で、2〜3ヶ月というわずかな期間で決着がつくとは、さすがの昌幸にも予想はつかないでしょうし…。

しかし、結局石田三成は関ヶ原の戦いに負けてしまいます。
昌幸が本当に領地拡大を狙っていたとしたら、昌幸にとっては、人生屈指の大誤算だったかもしれないですね…。

■おまけ


余談ですが、犬伏の別れの際、家臣の河原綱家という人物が、真田親子が密談中の部屋に密談をしていることを知らずに入ってしまい、昌幸に激怒されて下駄を投げつけられるというエピソードがあります。下駄は彼の顔面にあたり、彼は前歯を折ってしまってその後もずっと前歯が欠けたままだったとか。気の毒な…。

実際には彼は当時大坂にいたという記録もあるようですので、あくまで伝承にすぎないみたいですけどね。顔面に下駄って痛そうだわ。


あと、信幸と別れて上田に帰る途中、昌幸は信幸の沼田城に寄って孫の顔を見ていこうとしましたが、城にいた信幸の妻・稲姫に「敵を城内には入れられません」と出禁をくらいます。詳しく知りたい方は、ぜひ以下の記事をご覧くださいませ〜。
真田信幸の妻、舅・昌幸の入城を拒否する


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