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関ヶ原の戦いは、慶長5年(1600)9月15日、美濃国(今の岐阜県不破郡関ヶ原町)の関ヶ原で起こった戦いを指しますが、実際にはこの時、同時に全国各地でも戦いが起きていました。それらの戦いには関連性があり、その規模から「天下分け目の戦い」と称する場合もあります。

慶長3年(1598)8月、太閤・豊臣秀吉が薨去。秀吉が生前に作り上げた統一政権は、その死後、わずか2年足らずで崩れてしまいました。この豊臣政権崩壊の中心となっていたのが、江戸に本拠を構える実力者・徳川家康です。

家康は豊臣五大老の筆頭格で、その所領は関東一円に250万石。圧倒的な権力と実力をもって、さらにその威勢を増していきました。それに真っ向から異を唱えたのが秀吉の側近として重用された、奉行の石田三成です。三成は、豊臣五奉行の1人でしたが、家康との力の差は歴然としており(三成の石高は19万石ほど)、到底かなうはずはありませんでした。

しかし、それでも三成は豊臣家のために家康に対抗します。
そして、単独ではまったく歯が立たない状態であったはずが、次第に賛同者を増やし、ついに家康打倒を掲げて兵を挙げるに至るのです。

三成は「豊臣家を守るためだ」と諸大名に訴えかけ、ついに五大老のうちの3人(毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家)を味方につけます。すると、いよいよ天下の情勢はわからなくなり、各大名はそれぞれの思惑に従って、徳川家康の東軍か、石田三成の西軍に分かれて、全国各地で争うことになったのです。

その頂上決戦とも言うべき戦いが「関ヶ原の戦い」なのです。

関ヶ原付近の地図




流れがわかる関ヶ原の戦い


戦いの原因から当日までの動きなどをダイジェストでご紹介。

すぐわかる関ヶ原の戦いまでの出来事 〜豊臣秀吉死去〜徳川家康の動き、石田三成の動き〜

関ヶ原の戦い戦況の推移 〜両軍の布陣から小早川秀秋の寝返り、西軍敗走まで〜

■関ヶ原の戦いデータ集



・両軍主要データ
・関ヶ原の戦い布陣図
・両軍全部将兵数一覧
・論功行賞による所領加増大名一覧


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