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本日7月24日は、小山評定のあった日です。

小山評定といえば、関ヶ原直前、会津征伐に向かった家康が三成挙兵の報を受けて、急遽開いた評定

このとき、家康はよく知られるように、
おのおの方の妻子は、大坂に人質にとられておるゆえ、さぞ心配でござろう。されば、これより速やかにこの陣を去り、大坂に舞い戻って治部(三成)や備前中納言(宇喜多秀家)に味方しようとも、わしはいささかもおのおのの行動を恨みに思わぬ。我らが領内においては、行軍の心配もいらぬ。心置きなく上坂いたされよ。」
と述べ、諸将の去就をおのおのに委ねました。

これに対し、福島正則が「わしは内府にお味方する」と宣言し、他の諸将もそれに続き、家康はニンマリとしたわけです

しかし、あまり知られていないですが、家康の言に従ってここで軍をひきはらった武将が一人だけ存在します。この武将は、家康の軍を離脱して、西軍につきました


A.田丸忠昌(具安)


田丸忠昌は美濃岩村城主。蒲生氏郷の妹婿で、秀吉政権下では氏郷の与力となっていた武将です。氏郷没後、蒲生家は、下野宇都宮に減転封されたので、石田三成などが推挙して独立。岩村城4万石を領したそうです。

もうここまできたら、当然恩義ある三成についたとしか思えませんよね。
でも、このとき、本人は家康にこう言って軍を離脱したそうです。
三成ごときが内府どのに刃向かうなどと笑止千万ではございますが、三成は秀頼様を擁しておりますれば、ここは内府どのにお味方は出来申さず。

つまり、三成というより、豊臣家に恩義があるということのようです。とはいえ、家康を前にしての発言なので、ちょっと遠慮したところもあるかもしれないですが…。

しかも忠昌は、この発言を軍議の席上で堂々と言ったといいます。周りが、福島正則の言葉に同調して、「わしも」、「わしも」と言っているなか、「わしは西軍につく」と言うんですから、相当の覚悟ですね

ちなみに、家康はそれを聞いても、まったく気を悪くすることはありませんでした。まあ自分で「西軍についたって恨みには思わないよ」と言っているのだから、怒る方が筋違いですが、家康はむしろ忠昌のその忠義の姿勢を賞賛して、「はなむけじゃ」と言って刀を一振り与えたそうです。

忠昌は、関ヶ原の本戦に参戦していたもののあえなく敗走したそうです。
西軍についたのだから当然所領は没収。戦後の処分は越後に流罪でした。さすがに戦後は容赦なく処分されたわけですな。

忠昌は赦免されたあと、蒲生家に戻ってきて、蒲生秀行の客将として遇されたそうです。結局元の木阿弥…。


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