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最近は微妙に忙しくバタバタしておりまして、ようやくさっき先週の大河の録画を見ました(今日(昨日)のも録画したけどまだ見てない)。
先週は、家康に秀吉の妹の旭が嫁ぐ話がメインでしたね。

大河中では、旭が家康の城に来た時、西田敏行=徳川家康はずいぶん優しそうに接してましたが、自分が前に読んだ何かの本では、家康自身も大河中で本多作左衛門が言っていたように、「43歳の年増を正室になどと…」と不満を持っていたとか書いてありました。
だから、「秀吉の妹だから雑には扱わないけど、真に正室としてなど扱わぬ」くらいの態度だったらしい。

しかし、そうなると可愛そうなのは旭姫

無理やり離縁させられて家康のところに嫁ぐのだけでも気の毒ですが、その家康からも「あんたとは形式だけですよ」という態度をとられていたんだとしたら気の毒すぎます。
唯一幸いだったのは、秀吉と旭の母である大政所も家康のところに来たこと。大河でも感動の再開をしていましたが、実際にも旭は「かあちゃん」が来て、ようやくひとりぼっちじゃなくなったという感じだったのかもしれません。

大河のように、家康もちゃんと旭姫を正室として「仲良くやっていこう」としていたにしろ、自分が読んだ本に書いてあったように、形式だけの扱いを受けていたにしろ…

その後、旭はどうなったんじゃろか??

そこで何冊か本棚から引っ張り出してきて調べました。


■その後の旭

わかったことを単刀直入に申し上げますと、旭は家康に嫁いだ1586年から2年後の1588年から別居して、そのまま1590年に病死してしまったようです。

背景としては、家康が旭を迷惑がったというよりは、旭が家康に馴染めなかった感じがします。

旭は、嫁いだ直後こそ、家康に従って駿府に入り、屋敷を与えられて「駿河御前」と呼ばれたといいますが、家康が秀吉に従った後の1586年、生母大政所が病気と聞いて上洛(大政所はすでに京都に戻っていた)。そのまま京都にとどまって家康とは別居生活ということになりました。そして、1590年に大政所よりも早く亡くなったというわけです。享年48歳。

家康にとっても望まない結婚だったかもしれませんが、「関白秀吉の妹」というのは、そうそう捨てたものじゃない肩書きですので、よくよく考えてみると、腹黒家康は、自分の立場をよくするために旭を利用しようとしていたとも考えられますので、家康にとっては悪い話ではなかったように思います。

となると、やっぱり旭が嫁いできたときの家康の態度は大河のような温厚なもので、その腹の中は真っ黒だったということかも…(笑)。

いずれにしても旭にとっては迷惑千万な話だったのは間違いないようですね。兄貴の政略の道具にされて…気の毒な一生でございました

ちなみに無理やり離縁させられた旭の前夫は京都洛外に閑居、あるいは自害したといいます。前夫の名前は、大河では副田甚兵衛でしたが、異説もあり、佐治日向守という名であるという説もあります。現在は、どちらかというと「佐治」の名前の方が多くの本に出てくるようですね。


●おまけ●

家康が旭を利用しようとしていたかもとは書きましたが、こんな話もあります。

旭の死後、秀吉は瑞龍寺という寺に供養塔を立てたようなのですが、後年、家康がこの瑞龍寺に寺領の朱印状を与えて、供養をも行い、旭の冥福を祈ったという話です。

秀吉に関するものをいっさいがっさい壊してしまおうとしていたっぽい家康だけにこの行動は意外。あるいは家康も「秀吉は無慈悲な男だ」と思って、旭を気の毒に思っていたのかもしれません


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