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豊臣秀吉が築いた難攻不落の大坂城は、徳川家康が陥落させたことはよく知られています

家康がとった戦術は「まず適当に攻めて一旦和睦⇒和睦の条件として堀を埋め立てる⇒また難癖つけて攻め寄せる⇒堀がないのであえなく落城」という流れです。家康はこれを計画的に行ったようなんですが、実はこの戦術、生前の豊臣秀吉が「自分が大坂城を攻めるなら」といって戯れに語ったものだったというエピソードがあります。


■大坂城ご案内

4人の男たちが大坂城の廊下を歩いてくる。
「いやはや恐れ入り申しました。」
前田利家が苦笑しながら言った。それに続いて蒲生氏郷も言う。
「かような一大城郭、殿下でなければ築けませぬな。」
氏郷の目線の先にいる付け髭の小男はもちろん関白殿下・豊臣秀吉である。秀吉は、彼ら二人の発言に気をよくして大笑した。
「わはは、天下に号令を出すからには、それなりの格好は整えんといかぬからな。」
「……。」
秀吉の右後方にいた白髪交じりの貫禄ある男だけは何も言わない。彼だけは何も感想を述べず、ただ微笑をたたえて話を聞いていた。徳川家康である。
彼らはやや広い床の間のある一室に入った。そして、秀吉が上座に座ると、他の3人はその正面に3人並んで座った。


――たった今、秀吉自ら、利家、氏郷、家康の3人に大坂城内の案内をしてきたところである。秀吉は、大名が大坂にやってくるたびに、こうして自ら大坂城内を案内し、その豪華絢爛ぶりを自慢していた。派手好みの秀吉だけに、城内には数多の贅が尽くされ、見た者は決まって度肝を抜かれた。秀吉は、その驚いた顔を見るのが楽しみなのである。

ところが、案内をしている最中から、ほとんど感想を述べない男がいる。誰あろう徳川家康である。家康は時々「おお〜」「ほお〜」とか漏らすくらいで、特別な感想は何も言わなかった。せっかく反応を楽しみたいのに、それがやはり秀吉としては少し面白くなかった。


■大坂城攻略法はあるか?

部屋に戻ってきた4人はそのまま談笑を始めた。主に大坂城の話。秀吉も自慢げである。
大坂城はの、いかな大軍をもってしても落としゃーせんでよ。摂津一国の兵が城におれば守れる。のう、そうじゃろ?又左(前田利家)?」
「いやはや、ごもっとも。どう攻めたがよいものか…。それがし程度のおつむではおよびもつきませぬな。」
利家はわざと極端にへりくだって言った。利家は秀吉とは長い付き合いだから、秀吉の性格をよく知っている。こういう言い方をすると秀吉は喜ぶのである。

案の定、秀吉は機嫌よさげにからからと快活に笑った。そして、こんなことを言い出した。
「わはは、そうじゃろ。そうじゃろ。されどな、落とす方法はある。聞きたいかー?んー?いかがかな?徳川殿。」
秀吉はニヤニヤしながら一同を嘗め回すように見渡した。家康はここまでほとんど言葉を発さず、微笑をたたえてその場に座っていたが、この秀吉の問いかけには即座に答えた。

「さすがは殿下。かようなまでの堅固な城でも落とす軍略がござりまするか。
元はといえば、やむなく秀吉に降った家康としては参考までに聞いておきたい話だだが、「聞きたい」とは言わない
むやみに「聞きたい」などと言えば、老獪な秀吉のこと、「城を落とす方法を聞きたいとは謀叛でも起こす気か」と、あらぬ疑いの目を向けられかねない。この状況で、秀吉が忠誠心を試しているとも思えないが、念には念を入れたい。家康は過剰なまでに慎重派であった。

そういう慎重な心胆をもっていた家康であったが、秀吉にはまったくそういう気はなかった。秀吉は、またしても声をあげて笑うと、
「わっはっは、ある、ある。徳川殿ほどの百戦錬磨でも想像がつかぬか。よかろう。特別にここにいる3人には話してつかわすわ。」
と、ご機嫌に任せて城を落とす方法を話し始めた。しかし、それを真剣に記憶にとどめようとしたのは家康だけであった。


■これぞ城攻め必勝法

大坂城を落とすには、まず大軍で長期間包囲することじゃ。まあ包囲するだけでも並大抵のことではないが、力攻めをしてもまず落ちはせぬ。包囲して城中の兵糧が尽きるを待つ。
兵糧攻めは、まだ織田信長の家臣だったころから秀吉がよく用いていた手段である。
城内に疲弊の色が見えたら、一旦和睦じゃ。ただし、条件をつける。

一旦話をきると、秀吉は得意げな顔で自分の前に座る3人の顔を見回した。みな固唾を呑んで聞いているという風である。この表情が秀吉にとっては心地よかった。
条件は…堀を埋めることじゃ。そして、実際に堀を埋める時には城壁も壊してしまう。これで城は丸裸。この後、再び攻めれば今度は難なく落ちる。
秀吉は言い終わると、ニッと歯を見せて笑った。
「どうじゃ?」

利家と氏郷は、その戦術に感心した。たしかにそれなら城を難なく落とせるであろう。口々に「さすがでござる」という内容のことを言って、秀吉をおだてた。その中で、相変わらず家康だけは「なるほど」といった顔でうんうんうなずいているだけであったが、秀吉がそれを気に留めることはなかった。


秀吉の死後、家康は、秀吉の語った戦術をもって大坂城を攻めた。言わずもがな、大坂の陣である。しかも、家康は息子の秀忠から、再三にわたって総攻撃の許可を求められたのを留めていたという。秀吉の語った戦術をそのまま行った徳川軍が難なくこの巨城を落としたことは言うまでもない。




秀吉にとっては、自分の知略を披露してやろうと思っただけなのでしょうが、家康はそれもしっかり吸収して実践していたということですね。
家康のことは、秀吉自身、もっとも警戒していた人物でもあったそうですが、大坂城が完成してちょっと気が緩んだんですかねえ。


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