別所長治


「いまはただ 恨みもあらじ 諸人の
命に代わる わが身と思へば」



■名門別所家を継ぐも織田信長の侵攻を受ける

東播磨三木城主の別所長治。別所家は播磨守護赤松氏の一族で、長治の曾祖父則治のころは、東播磨三郡の守護代もつとめた名門の家柄です。しかし、天正期には中央で織田信長が台頭。中国地方もやがて織田信長の命を受けて、羽柴秀吉が派遣されてきました。

冒頭の句は、秀吉と戦い、最終的に切腹して果てた長治の辞世です。

長治は、織田信長の中国進攻の際、黒田如水の説得を受け、信長に従ってその先鋒となることを引き受けますが、実際に中国攻略の司令官として羽柴秀吉がやってくると、突然叛旗を翻し、三木城に籠城しました。
この長治の行動に怒った秀吉は、三木城を完全包囲。天正6年(1578)3月から天正8年1月までのおよそ2年間、後世に「三木の干殺し」と呼ばれることになる兵糧攻めで長治を降伏させました。

■長治の最期

このときの三木城内の有様はまさに惨憺たるものでした。草木、犬猫、虫、牛馬はもちろん、餓死した仲間の遺体をもむさぼる有様で、塀の下や狭間の陰に飢えた兵士が伏し倒れていたそうです。

辞世にも顕れている通り、長治は城兵の命と引き換えに切腹します。『天正記』には、長治が三歳になる子と夫人を刺し殺し、「われら三人の命で、兵士が助かるのだから、これが最期の喜びだ」と言って腹を斬った旨が書かれています。

ちなみに長治と共に、弟の友之、家老の三宅治定なども腹を斬りました。友之の辞世は「命をも 惜しまざりけり 梓弓 末の世までの 名を思ふ身は」でした。

長治は享年23(『寛政重修諸家譜』より。26歳説あり)。友之享年21。
二人とも、現代人の感覚ではまだ新社会人といったところでしょうか。ですが、父が早世してしまい幼くして家督を継いだ当時の長治は一城の主。戦国大名です。
経験の量は長く生きている者には叶いませんので、後見役として一族の者が側にいたようですが、最期に詠まれたこの辞世は、長治の覚悟と、リーダーとしての気概と覚悟を感じずにはいられません。

現在、三木城跡には長治の像とその辞世の碑が建てられています。長治は死後も末永く、地元の人々に慕われています。

■三木城跡の場所


↓よろしければ人気ランキングにご協力ください。(クリックで1票)
人気ブログランキング

にほんブログ村 歴史ブログへ