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徳川家康が幼い頃に人質として今川家にいたことはよく知られています。武将として一人前になるまでのほとんどを今川家で過ごしており、今川義元が桶狭間で信長に討たれた後、まもなく三河岡崎城に入城して独立したわけです。

家康の人質生活は、精神的にはなかなか大変なものだったようで、幼い頃など今川家中の者たちからは「あれが三河の人質だ」と後ろ指を指されたというような話も聞かれます。生活的には人質とはいえ、三河の領主の息子として、きちんとした扱いを受けていたようですが、やはり幼い頃からの人質生活はつらいものがあります。

そんなだから今川家に対して人質時代の恨みもあったのだろうと思っていました。
1562年には今川義元を討った信長と同盟を結び、後年、今川義元の子の氏真を駿河から追放しています。これで「積年の恨み、思い知ったか」というところ…かと思いきや、そんな気持ちは全くなかったようです。


■墓前で手を合わせよ

それというのも、家康は江戸城に入城してから何度も東海道を通って京都に行っていますが、そのたびに義元が討たれた桶狭間にて輿を止めさせて、義元の墓前に手を合わせたというのです。また、部下にも
この付近を通る時は下馬して、義元公の墓前に手を合わせよ
と命じていたそうです。

また、先述の通り、義元の跡を継いだ氏真を追放している家康ですが、のちに彼を呼び寄せて江戸の品川に住まわせて、彼の子孫を高家の身分に取り立てて、品川姓を名乗らせています

家康としては、複雑な思いもあったでしょうが、結果的にはさまざまな武芸や学問をさせてもらえた今川家、特に義元に対しては恩義を感じていたのかもしれませんね。


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