負けた方のその後ってあまり知られていなかったりするものですが、TVでやってた「あの人はいま」に倣って、シリーズ「あの人のその後」。

今回は屈指の転落人生を歩むことになってしまった九州日向の戦国大名伊東義祐の「その後」です。

前回の記事で義祐の「いい時期」をご紹介しました。今回は義祐の「転落期」です。
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■大友家の客人に

この敗戦の後、今度は島津義弘の軍勢が伊東領に攻めてきます。迎え撃とうと家臣に出撃命令を出した義祐でしたが、まったく軍勢が集まりませんでした。家臣の心もすでに義祐から離れており、誰も戦いに出向こうとはしなかったのです。

結局、伊東氏は島津軍によって日向を追われ、豊後の大友宗麟を頼って落ちて行きました。義祐はこの時66歳。一族数名、山中をわずかな従者と共に歩きどおしで豊後にたどり着いたといいます。

宗麟は義祐を迎え入れましたが、後年、宗麟も島津軍と戦うことになります。そして、耳川の合戦で大敗。以降、大友家も衰退していくのですが、この大敗をもって義祐ら伊東一族は疫病神扱いされてしまいます


■庶民に身を落とす

ついには身の危険さえ感じるようになったため、義祐らはまたしてもわずかな人数で脱出。船を使って四国に渡り、しばらく庶民同然に商売をして生活をしていたようですが、もはや年老いていた義祐は、そんな家中に身の置き所もなく、数年後に一人さすらいの旅に出ます。

老境の身で中国地方を流浪の後、所持金も底をついて衰弱しきった義祐は、河内国堺で病没。息子夫婦が羽柴秀吉に出仕が叶って堺にいたため、同地を目指したものの、すでに衰弱し病に罹っていた義祐は、堺に向かう船中から堺近くの浜辺に放り出されていたのだそうです。享年は73歳。

この堺にいたという息子夫婦は三男の祐兵夫婦で、後に秀吉の九州征伐の道案内を勤め、その功で日向飫肥5万7千石余の領主となりました。義祐の墓所も飫肥にあります。


66歳で領国を追われ、わずか7年後に庶民よりひどいくらいの扱いでこの世を去った義祐。重税による農民の不満と、贔屓による家臣の不満が招いた没落と言えます。

義祐としては「重税とは思わない」し、「贔屓だとは思わない」だったんでしょうね。あるいは「俺は殿様だぞ」という傲慢な考え方(いや普通なのかな)があったのでしょう。でも、農民や家臣は不満を蓄積させていっていました。

そして、不満をためた彼らは、いざ頼られた場面で「いまさら頼るな」と協力を断るわけです。部下の立場で考えれば気持ちはわかりますね。

というわけで。

職場や学校などでリーダーをはる方は部下の「不満」にご用心…。特に控えめな人ほど不満を募らせているかもですよ…。コミュニケーションをとるってのは重要ですね〜。


今回の記事は『戦国武将「まさか」の凄い戦略icon(ブックオフオンライン)』(楠戸義昭著:知的生きかた文庫)を主に参考にいたしました。