休憩中の会話で最近黒部ダムに行ったスタッフさんが、ガイドさんから「さらさら越え」の話を聞いたという話をしていました。

なるほど、佐々成政さらさら越えといえば、ちょうど黒部周辺の山々を踏破したと言われています。現地だけにガイドさんが解説しているのか…。

そんなことを考えてたらそのスタッフさんから一言。
「帰りも雪山越えて帰ったんですかね?

…え?

帰り???

それは…考えたことなかった!

というわけで家にある資料で調べてみました。


■さらさら越えとは!

ひとまず「さらさら越え」について確認しときましょう。

さらさら越えといえば、佐々成政が一度は其の軍門に降った秀吉に再度対抗すべく、徳川家康と協力しようとして、冬の北アルプス立山山系を踏破するという脅威の登山列伝です。なんでわざわざ雪の時期に行ったのかというと、その時期は北陸は何しろ雪深いので、「他国から攻められる心配が少なかった」というのがその理由です。なるほどですね。

さて、そんな苦労をして浜松にたどり着いた成政。何としてでも家康に味方してもらわねば困ります。しかし、家康はちょうど小牧長久手の戦いのあと、秀吉と和議を成立させたばかりでした。

成政「徳川殿、相手は天下を掠めとる秀吉めじゃ。いま一度再起を!」
家康「よくも峻険な冬の山を踏破して参られた。…だが断る」
成政「…えー。そりゃないよー(ガックリ)」

ってな具合に断られてしまいました。
成政は織田信雄や滝川一益といった有力者も説得に向かったみたいですが、結局彼らの答えもNO。失意のうちに帰路につくことになります。

…とまあ、これがさらさら越えのあらましです。


■とりあえず、行きのルート

それでは、さらさら越えの道程を見ていきます。先に行きのルート。行きのルートに関しては、諸説ありますが、そのうちの代表的なものを一つ取りあげてみることにします。

当時は当然ながら道も整備されていない北アルプス。成政がさらさら越えに挑むべく、両国の越中富山を出発したのは天正12年(1584)11月23日のことだそうです。富山県側から信濃(長野県)に抜けるアルプス越えルートが成政のさらさら越えルートとされています。

地名としては「(11月23日出発)富山→現在の立山黒部アルペンルート→弥陀ヶ原→松尾峠→旧立山温泉→ザラ峠→五色ヶ原→黒部川→鉢ノ木峠→信州仁科→信州上諏訪(12月1日着)」の順番。

現代でもちゃんと準備して挑戦しないと危険な冬の北アルプスの山々を、戦国時代に成政は踏破したことになります。これは登山史に刻まれる偉業である、と参考にした書籍では書いていました。いや、たしかにこれはすごい。

成政は、50〜100名ほどの部下と共にさらさら越えに挑んだようですが、結局幾人もの部下を失ったようです。一歩間違えば、全員遭難の危険性をはらんだギリギリの賭けだったというわけですね〜。


■帰りは…

で、問題の帰りです。

成政が浜松に到着したのは天正12年(1584)12月25日。富山を出てから1ヶ月かかったことになります。
成政は浜松で、徳川家康を説得しますが、先述の通り、家康は秀吉と戦う大義名分がないとして成政の説得を断ります。成政は、三河にきていた織田信雄も説得しましたが、やはり答えはNO。尾張にも行って、滝川一益なども説得したそうですがやはり断られてしまい、無念の帰国をすることになるのです。

帰国のため、成政が浜松を発ったとされるのが天正13年(1585)1月4日
さあここでお待ちかねの帰りのルート…なんですが…これまた詳しくはわからなかったのですが、どうやら来た道を戻ったようです。帰路にどのくらい時間を費やしたのか、往路での艱難辛苦は帰路でもあったのかはよくわかりませんでした。

結局帰路も同じ道。しかし、浜松から北アルプスまで、往路の様子だと1週間以上かかっていると思われるので、山入りしたのは1月中旬以降でしょうが、それでもまだ雪の残る季節です。その山越えは容易ではないと想像されます。

富山帰着がいつかは定かではないですが、2月下旬には隣国の前田家の攻撃を受けた、領内の城の救援に成政は出陣していますので、往路と同じく1ヶ月以内で到着しているでしょう。



というわけで、佐々成政の登山史に残る冬の北アルプス踏破「さらさら越え」は、およそ2ヶ月の間での「往復」でした。往路のことがクローズアップされることが多いですが、帰路も同じくらい大変だったようですね〜。うーむ。さすがだ。。。