
前回放送の大河ドラマ『真田丸』第10回は、引き続き誰につくかの戦国模様。今度は上杉に再び擦り寄りましたね〜。信繁は後に三十郎と共に上杉家に名目上は人質としてしばらく滞在することになるはずですが、それはまだ少し先のお話です。
さて、ところで今回は真田といえば触れないわけにはいかない、家紋についてです。
■六文銭の意味
真田家の家紋といえば「六文銭」(ほかに「六連銭」「六道銭」とも言う)が一番よく知られています。上の写真にもある通り「六文銭」は、当時の穴あき硬貨を上下3つずつ、計6枚並べたシンプルながら一風変わったデザインの家紋です。
この六文銭の意味としては、こんな説があります。
人が亡くなった時、死者があの世に向かう際に渡るとされる「三途の川」というのを聞いたことがあるかと思いますが、その「三途の川の渡し賃」が六文銭というわけです。つまり、「六文銭」の家紋は、「真田軍は死を覚悟で戦う」という決意を表しているものだというわけです。なかなか戦国時代ならではという感じのする意味ですね。
この六文銭の意味としては、こんな説があります。
人が亡くなった時、死者があの世に向かう際に渡るとされる「三途の川」というのを聞いたことがあるかと思いますが、その「三途の川の渡し賃」が六文銭というわけです。つまり、「六文銭」の家紋は、「真田軍は死を覚悟で戦う」という決意を表しているものだというわけです。なかなか戦国時代ならではという感じのする意味ですね。
ところで、「真田といえば六文銭」は定着していますが、実は真田家では「洲浜」「結び雁金」などの家紋も使用していました。「六文銭」使用の由来は上記のとおり、戦闘における覚悟を示すというようなものだったため、元々は旗印など武具に利用することが多く、平時には「洲浜」「結び雁金」といった家紋を用いていたそうです。
…と言っても、次第に「六文銭」使用率は高くなっていったようで、当時としてもだんだん真田=六文銭になっていったのかもしれないですね。
…と言っても、次第に「六文銭」使用率は高くなっていったようで、当時としてもだんだん真田=六文銭になっていったのかもしれないですね。
■六文銭は元々"真田氏"のものではなかった
非常にアグレッシブな意味を持つ「六文銭」の家紋。いったいいつから使っていたのでしょうか。それを知るために、真田氏のルーツを少し調べてみました。
真田氏は、実は出自が未だ不明確な一族でもあります。
真田氏は、実は出自が未だ不明確な一族でもあります。
江戸時代に書かれた系図では、真田家は「信州の名族海野氏の嫡流である」としてあるそうです。「真田」を名乗ったのは、昌幸の父・幸綱(幸隆)の代だといい、つまり、昌幸は「真田」と名乗ってからは二代目ということになります。なぜ「真田」かというのは、どうということもなく、住んだところが真田郷だったから、地名からとったということになっているようです。
しかし、先学によれば、真田氏という氏族はこれ以前にもこの地に存在していたとみられる史料もあるらしく、何らかの理由で幸綱以降の真田氏は、経歴を改竄していたのかもしれないのだとか。
少し脱線しましたが、家紋としての六文銭は、この海野氏が使い始めたものだったそうです。
戦国時代から遡ること300年前の源平の時代ごろに海野幸広という人物がいます。この人物は朝日将軍と呼ばれた木曽義仲に従った人物で、幸広が討死した後ごろから、この六文銭を使い始めたらしいという説があるのです。
戦国時代から遡ること300年前の源平の時代ごろに海野幸広という人物がいます。この人物は朝日将軍と呼ばれた木曽義仲に従った人物で、幸広が討死した後ごろから、この六文銭を使い始めたらしいという説があるのです。
ただし、旗印として使い始めたのは先の昌幸の父である幸綱であるとする記録もあるようです。いずれにしても六文銭=真田氏というイメージが定着してはいますが、ルーツは祖先(とされている)海野氏にあったということですね。
※余談ですが、海野氏はさらに古く遡ると滋野氏という一族の出身で、この頃にもすでに六文銭を用いていたとする説もあります。
■信繁は大坂の陣では「六文銭」を使っていない?


信繁一世一代の大戦となった大坂の陣。小説やドラマなどでは「六文銭の旗印を翻した信繁(幸村)が家康本陣を襲う」というシーンがよく描かれますよね。信繁を描くうえでの一番の見せ場とも言えそうです。
しかし、大坂の陣の際には信繁は六文銭は使っていなかったという説があります。真田の本家は信繁の兄・信之が継いでおり、関ヶ原の戦い以来、徳川家に従っていました。大坂の陣には信之の嫡男・信吉が徳川方として参戦しており、これに憚って信繁自身は家紋を用いず、軍装を赤で統一した赤備えにて目印としたというわけです。
しかし、大坂の陣の際には信繁は六文銭は使っていなかったという説があります。真田の本家は信繁の兄・信之が継いでおり、関ヶ原の戦い以来、徳川家に従っていました。大坂の陣には信之の嫡男・信吉が徳川方として参戦しており、これに憚って信繁自身は家紋を用いず、軍装を赤で統一した赤備えにて目印としたというわけです。
たしかに大坂冬の陣図屏風(東京国立博物館蔵)などの合戦図屏風を見ると、信繁が大坂城に築いたとされる出丸「真田丸」には、赤い幟に赤備えの兵士たちは描かれていますが、六文銭は描かれていません。
信繁が冬の陣ののち、信吉に会いに陣まで行って会話をしたというエピソード(『翁物語』より)があったり、姉の村松殿に宛てた手紙も残っていたりしてまして、敵味方に分かれても、信繁は一族への親近感を変わらず持っていたように思いますので、本当に一族に憚って紋は用いなかったのかもしれませんね。
信繁が冬の陣ののち、信吉に会いに陣まで行って会話をしたというエピソード(『翁物語』より)があったり、姉の村松殿に宛てた手紙も残っていたりしてまして、敵味方に分かれても、信繁は一族への親近感を変わらず持っていたように思いますので、本当に一族に憚って紋は用いなかったのかもしれませんね。
いやー、決死の覚悟が家紋・旗印にも現れているとはさすが真田氏です。家紋はともかく、旗印は他の武将もけっこうそれなりの意味があって用いていたりして興味深いですね。機会があれば、他の武将のものも紹介できればと思います。
【参考文献】
『真田三代―戦乱を“生き抜いた”不世出の一族 (新・歴史群像シリーズ 10)
』学習研究社 2007年刊
『真田信繁―「日本一の兵」幸村の意地と叛骨
』三池純正:著 宮帯出版社 2009年刊
『真田幸村と真田丸: 大坂の陣の虚像と実像 (河出ブックス)
』渡邊大門:著 河出書房新社 2015年刊
『決定版 図説・戦国合戦図屏風 (歴史群像シリーズ特別編集)
』学習研究社 2004年刊
『真田幸村と真田丸: 大坂の陣の虚像と実像 (河出ブックス)
『決定版 図説・戦国合戦図屏風 (歴史群像シリーズ特別編集)

