odawarajyo

大河ドラマ『真田丸』。いよいよ次の放送では関東の名門・北条家が滅びます。

急に前回最後で登場した小山田茂誠の「なぜそこに?」も気になりますが、やっぱり次回のサブタイトルは「滅亡」ですから滅亡がメインなんでしょう。「再会」だったら茂誠のこれまでの話が聞けたかもしれませんがねえ。

それは置いといて…北条家滅亡については、板部岡江雪斎(演:山西 惇さん)や息子・氏直(演:細田善彦さん)が何を言ってもかたくなな姿勢を崩さなかった北条氏政(演:高嶋政伸さん)の頑固ぶりにも一因があるように思えます。
「かつては百姓上がりに何ができる」と秀吉を侮っていた氏政。その秀吉が、九州平定も成して西国を統一、徳川家康も従わざるをえなくなるまでになってもなお、「秀吉に頭など下げられぬ」と意地を張りとおしました。
いったい彼をなにがそうさせるのか!

…というわけで考えてみましょう。氏政さんの頭ン中!


■1.名門たる誇り


 
ひとつ目はこれです。 言い換えればプライド。戦国時代に関東に大勢力を築いた一族だからこその"誇り"です。
その"誇り"はいかにして作られたのか。そこで、北条家の略歴を追ってみました。

まず、北条家初代の早雲は、もともと相模の人ではありません。かつては出自不詳とされていましたが、現在では研究も進み、備前国(岡山県)出身という説が有力のようです。その早雲は当初は「伊勢新九郎」と名乗り、はじめ駿河(静岡県)の今川氏に仕えていましたが、やがて独力で大森氏が治めていた小田原城を、謀略を用いて奪い取ることに成功します。
この早雲公の下剋上こそが戦国北条氏の船出です。

その後、子の氏綱は相模周辺に進出し基礎を固めました。
さらに氏綱の子・氏康は、後世「河越夜戦」と呼ばれる戦いにおいて、寡兵で数万の大群を破る伝説的な戦ぶりを見せたほか、武田信玄や今川義元と結んで相甲駿三国同盟を結んで後顧の憂いをなくすことにも成功。関東にさらに勢力を伸ばします。
また、領国経営においても、税制改革や貫高制による統治基盤の確立など、政務にも長けていた氏康の政策で関東は繁栄していきました。
 
そして、この早雲・氏綱・氏康の3代の跡を継いだのが氏政です。

大河ドラマ中では、氏政が飯に何度も汁をかけて食べているシーンがあったのを覚えているでしょうか。あれは実は違う意味でのエピソードが下地になっていると思われます。すなわち、「氏政が何度も汁をかけるのを見た氏康が”どのくらいかければちょうどいいか一度でわからんようでは北条家もわしの代で終いか"と嘆いた」という比較的著名なエピソードのことです。

このエピソードだけを知ってしまうと、「氏政というのはダメな武将だったんだな」と思ってしまう人もいるかと思います。ですが、これについてドラマ中の氏政は、「わしは食べるぶんだけ汁をかける。わしの食べ方じゃ」と説明していました。
つまりですね、氏政はダメな武将なんじゃなくて、無駄がない武将(として描かれている)なのです。実際のところ、北条家の版図が最も大きくなったのは氏政の代といいます。

また、氏政はドラマでも描かれていたとおり、外交手腕や駆け引きもできる武将でした。しかも、そもそもご先祖様が築いた強力な勢力基盤もあります。
これだけの優位性を氏政も認識していたとすれば、関東最大勢力・北条家の誇りは、当時、氏政が誰よりも感じていたのではないでしょうか。
 

■2.堅固な小田原城


 
そして、もう一つ考えられるのはやはり北条家の居城たる小田原城の存在です。

小田原城は「総構」といって、一言でいうと城下町も含めて、東西50町(約5.5k)、南北70町(約7.6k)をぐるりと堀と土塁で囲い、驚異の堅固さを誇った大城郭です。現在の小田原城の城域は当時の主郭部の一部に過ぎず、実際に天守閣があるところから遠く離れたところに土塁や堀の跡が今も残されています。

戦上手で知られる武田信玄や上杉謙信もこの城を攻めたことがありますが、いずれも落とすことはできませんでした。

それまで誰も落としたことがないうえに、小田原城は年を追うごとに規模を拡大していきました。城下町もすっぽり包んでいるわけですから食料にもそうは困りません。つまり、持久戦にも十分耐えうる。氏政が大船に乗ったつもりで強気に出るのもうなずけますよね。
しかも大河であったように奥羽には周囲に名を轟かせていた伊達政宗がいますので、小田原城でがんばって、敵が疲れてきたところで政宗が攻撃すれば勝てるはず。
居城の無敗の歴史と、絶対的な自信が氏政を強気にさせたように思えます。


■3.引くに引けなくなる


 
最初は本当に勝てると思っていたんだと思います。むしろ小田原城で負けたことがないわけですから、当時の氏政の立場に立ってみれば、負けるなんてこと考えもしなかったのではないでしょうか。しかし、ここで秀吉が一つ、その力を見せつけた出来事があります。石垣山城の築城です。

秀吉は小田原から箱根に向かう街道沿いにある早雲寺に本陣を構えましたが、そこで指示を出して、小田原城を見下ろす笠懸山に城を築かせました。築城時は小田原城側の林を残した状態にし、工事をしているところを見えないようにしていたと言われています。

そして、3ヶ月ほどの短期間で城を完成させると、築上現場を隠していた林の木々を切り倒したのです。すると、小田原城からは昨日までなかったはずの城が忽然と現れたように見えるわけです(これが「石垣山一夜城」と言われる所以です)。

これを見た氏政は、「一夜にしてあのような城を築いてしまうとは…!」を驚愕するとともに、石垣山城の登場から2つの意味を汲み取ります。
一つ目は「それほどの力を秀吉は持っている」ということ。そしてもう一つは、「秀吉は何年でも包囲するつもりだ」ということです。ここにきて秀吉の強大な力をはっきり自覚できた氏政でしたが、もはや遅すぎました。家臣に対しても引くに引けない状態になり…。

結局最終的には籠城すること100日、氏直が剃髪して降伏。助命を乞いましたが、氏政は切腹させられ、氏直は高野山に追放となったため、戦国北条五代の繁栄はここに潰えることになりました。ちなみに板部岡はその後秀吉、家康に仕えています。
 
 

■まとめ



氏政は当初から秀吉に従うつもりだったものの、一戦も交えずに下っては諸将に面目が立たないから一戦だけ…と考えていたら引き際を誤ったという説もあるようですが、やはり「名門の誇り」、「小田原城の堅固さからくる見通しの甘さ」というのはあったように思います。

歴史にIFは禁物ですが、もし北条家が早くに秀吉に従って本領安堵をされていたら、徳川家康の江戸入りもなかったわけですから、歴史は大きく変わっていたかもしれません。
うーむ、なんとも感慨深い話だ。

↓よろしければブログランキングにご協力ください。(1クリックで1票。)
にほんブログ村 歴史ブログへ
人気ブログランキング