fushimijo

大河ドラマ『真田丸』では第31回「終焉」にて、ついに豊臣秀吉が死亡しました。
慶長3年(1598)8月18日のことです。場所は木幡山伏見城。 
それぞれ秀吉亡き後の天下に思惑のある家康、三成双方から遺言状を書かされ、幻覚に怯えながら亡くなるというなんとも寂しい最期でした。…三成は「豊臣家のため」ですが…。

ドラマ中で欠かされていた遺言状は実在します(毛利家に伝わった「毛利家文書」に写しが所収されている)ので、ここに全文引用してみましょう。
実物は縦書きですが、改行は実物に添いました。

■豊臣秀吉の遺言


※※
返々、秀より事
たのミ申候 五人
の志ゆたのミ申候ゝ
いさい五人の物ニ申
わたし候 なごり
おしく候 以上
※※

秀より事
なりたち候やうに
此かきつけ候
志ゆと志て たのミ
申候 なに事も
此不かにはおもひ
のこす事なく候 
      かしく

八月五日 秀吉 御判

いへやす
ちくせん
てるもと
かけかつ
秀いえ
     万いる


■遺言状をひもとく


「※※」部分は「追而書き」と呼ばれるいわゆる"追伸"です。

現代では追伸は手紙の最後に描くことが多いと思いますが、昔の書状では冒頭に足しました。スペースがなくなると本文の行間にも小さい文字で続けて書いていたようです。ドラマでは「五人の志ゆ(衆)たのミ申候」まで秀吉が書いたところで本多正信に静止され、「いさい五人の物に〜」以降はあとから三成に欠かされていましたね。

内容としては、とにかくまだわずか6歳の秀頼の事を案じていることがわかります。世の中は自身が統一政権を作ったとはいえ、それが成ってまだ10年もたっていません。秀吉自身も信長亡き後、その子どもたちから実権を奪ってきましたし、同じことをされるのではないかという不安がつきまとっていたのであろうと言われます。
ドラマでは三成に「家康を殺せ」と命じていましたが、「もう頼むことしかできない」という気持ちと同時に「何とか不安を晴らしたい」という気持ちも見え隠れする人間臭い描かれ方だったように思いました。

遺言状内の「五人の志ゆ(衆)」はこの遺言状の宛先でもある現在「五大老」と呼ばれる面々を指します。そして追而書にある「五人の物」が三成たち「五奉行」です。見事にドラマで描かれたように「書かされていた」可能性もあるような順番になっています。

実際のところは「家康と三成が書かせた」という記録など残っているはずもないので、どのように書かれたかはわからないようですが、日付は秀吉が死去する13日前になっています。よって、秀吉の体調については、ドラマで描かれたような弱り果てた状態だったであろうことは想像されます。

なお、これに先立つ7月15日にドラマでも家康が署名していた起請文が作成されています。こちらは大老・奉行の面々で作成した草案に秀吉の承認をもらったものらしく、より具体的な政務周りの取り決めや約束事が書かれていました。


■秀吉の辞世


つゆとおち つゆときへにし わかみかな なにはのことも ゆめのまたゆめ

露と落ち 露と消えにし 我が身かな 難波の事も 夢の又夢


句ですので、解釈は様々あると思いますが、「朝露のようにあっという間に消えていく。夢のようにはかない人生だった。」というような意味と想像されます。この辞世からもこれで人生を終えることへのむなしさを感じているように思えます。

ドラマでも、秀吉寝所で家康が「諸行無常よの」と信繁に言うシーンがありましたが、まさに栄華を誇った秀吉だからこそ余計にその無常さが際立っていました。最期に流れた涙は無念の涙だったのでしょうか。



次回からはいよいよ関ヶ原に向けた家康VS三成の駆け引きが始まると思います。『真田丸』は真田家の物語なので、関ヶ原の戦い本戦よりも秀忠を相手にした信州上田城での第二次上田合戦がメインになりそうですね。

 
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