『善光寺縁起』に皇極天皇が地獄に堕ちていたのを善光が現世に呼び戻したという話があります。善光とは善光寺を創建した人です。

蘇我氏と物部氏が仏教導入で争い、難波の堀江に捨てられた仏像を信濃に持ち帰ったのが本田善光です。ところが、善光の長男の善佐が突然亡くなります。悲嘆にくれる本田夫妻を、阿弥陀如来(難波の堀江から連れ帰った仏像)が不憫に思い、地獄の閻魔に命令して、善佐を蘇らせることになりました。

善佐は「この世」へ戻る道すがら、“鬼に引き立てられて地獄へ堕ちていく高貴な女性”とすれ違います。尋ねると、なんとそれは皇極天皇でした。生き返った善佐から話を聞いた善光は、阿弥陀如来に女帝の助命を願います。そしてめでたく女帝は蘇生されました。皇極天皇は善光・善佐の手柄を褒め称え、善光の家の場所に、立派な如来堂を建立する詔を発せられました。これが「善光寺」の始まりです。

何故、皇極天皇は地獄に堕ちたのでしょうか。考えられることは、親仏教派の蘇我入鹿が殺された事件。入鹿を見殺しにしたのが皇極女帝です。

しかし、その他にも重大な地獄へ堕ちる理由があったのかもしれません。これからの研究課題です。

また、天武・持統天皇の時代、竜田・広瀬両大社への勅祭が頻繁に行われます。両天皇は何と34回も行っているのです。その中で注目されるのは、持統5(691)823日に、竜田大社と共に、風鎮めとして、「信濃の須波、水内の神に祈らしむ」として奉幣使を遣わしていることです。

水内大社は延喜式内社で善光寺の地主神。建御名方富命彦神別(建御名方の子)神社として選抜されています。

竜田・広瀬がセットのように、諏訪・水内(善光寺)もセットとなっているのです。

諏訪大社上社に参拝すると、本殿がなく、拝殿で神体山の守屋山(1650)を拝むことになります。本殿がなく直接ご神体の山を拝む形式は古い神社の形式です。何と、守屋山はその名前の通り、あの物部守屋を頂上に祀っているのです。何時の時点で頂上に守屋を祀る神社が創建されたのであろうか。上社の神長官は守矢氏です。洩矢の神を祀るという。家紋は薩摩の島津家と同じく丸に十の字である。洩矢はモレアでユダヤ教ではないかとの説を吹聴する人も多勢いる。

諏訪湖を取り囲む標高800mのところに神社が集中しています。かつては800mの処が汀線であった。数十万年前、諏訪湖の水は山梨県へ流れ、富士川から太平洋に注いでいた。ある日、天竜川側釜口水門の自然堤防が決壊し、天竜川へ流れるように変わり、水面標高が一気に、900mから800mになった。そして、土砂流入と干拓が進み、現在の汀線(759m)になった。

上社本宮の一之鳥居は、波除け鳥居と呼ばれ、鳥居に波がひたひたと押し寄せていた。安芸の宮島・厳島神社と同じく両部鳥居で仏教導入後の神仏習合の鳥居です。

奈良の山の辺の道がかつての奈良湖の汀線上であつたように、諏訪湖の標高800mの線上にも古道が存在している。

また、諏訪大社の直轄信仰圏には、内縣(諏訪郡)、外縣(上伊那郡)、大縣(佐久郡)、小縣(小県郡)、と縣の名が付けられている。

これは秦が中国を統一して、郡県制を施行した県の漢字名を取り入れたのではないかと考えられる。慶応大学名誉教授西岡秀雄氏は、『日本書紀』などに記載される「(あがた)(ぬし)」とは、アイヌ語で「わが古潭(こたん)の主」、つまり「郷土の酋長」のことだという。アイヌ語の「An Kotan nushipa」の鼻音が取れ「A Kotanushi」となり、更にKがGに替わり「A Gata nushi」となったという。

まだまだ長野県=科野国=信濃国には謎が一杯である。