November 22, 2007

森茉莉と荒木博臣

「白い眉の下の穏やかだが威厳のある眼、への字に結んだ脣と角い顎、男らしい風貌は立派だつた」 
「祖父は荒木博臣といつて、九州の佐賀に生れた。若い時東京に出て来て湯島の聖堂に学び後(のち)には大審院判事になつた。直情剛毅の人だつた」
──「明舟町の家」より

森茉莉の幼い頃の写真の一枚に祖父母らしき人たちと写っている写真がある。森茉莉三歳の頃のものである。
私はかねがねそこに写っているのは、母方の祖父母なのではないだろうか、と思っていた。というのは、祖父らしき人物が実に立派ないい顔をしていて、森茉莉の幼い日の物語の中に描かれた荒木博臣に雰囲気がよく似ているからだった。そして、その人物に寄りかかって手をつないでいる様子に通い合う愛情も感じ、ますますその感を深くしていたのだが、調べることなく月日が流れていた。
他にもいろいろと訊きたいことがあったので、先日、森茉莉を取材したことのある編集者に電話をして、写真の件を確認してみた。その取材時に、森茉莉から写真を借用し、写真の説明を直接受けたという経緯があり、そのうちの一枚が祖父母らしき人物と写っていたものだったからだ。
で、わかったことはその写真は祖父母と撮ったものだ(正確に言うと、らしい)ということだった。そして、これは写真を巡る経緯からの私の推測だが、森茉莉のお気に入りの写真だったようでもあるのだ。
その写真を見ながら、この人物が荒木博臣で、百日咳で生死をさまよった幼い日の森茉莉を「生」の側に引きとめた人物なのか……と感動さえ覚える私である。
その写真をここに掲載出来ないのが残念だが(許可を得ればいいのだろうが、個人のブログでそこまではいいだろうという判断もある)、三歳の森茉莉は実に愛らしく、口をへの字に曲げた荒木博臣は実にいい顔をしている。いい写真だな、と思う。





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November 13, 2007

森茉莉──何ものにもとらわれずに生きる、という奇跡をおこなっていた女性

夢のかけら帯









熊井明子さんの新刊『夢のかけら』(春秋社)が届いた。この本のことは熊井さんから聞いたので楽しみにしていた。何故楽しみにしていたかというと、この短編小説集は5人の実在の女性をモデルに描かれたもので、その一人が森茉莉だからだ。
帯にはこんな風に書かれている。
「何ものにも捕らわれない童女のような老作家」
そして、森茉莉をモデルにした短編小説のタイトルは「薔薇が香るとき」。
「今もあるかしら、団子坂に菊見煎餅の店。わたし、新婚のころ、谷中の清水町に住んでいたから、お客が来ると女中に買いにやらせたの。大正の初めごろのことよ」
物語はそんな樹里のお喋りで始まる。
小説なので、もちろん事実そのままだということではないが、この物語の大部分は樹里のお喋りで構成されていて、これまで熊井さんから聞いたことのある森茉莉が確かにそこにいる。物語の中で、樹里はもらった花束の薔薇をむしって食べたりもする。

この中で、息子との再会と別れについての樹里の印象深い言葉がある。
「わたしは、自分を押し通すために子どもを捨てた、親きょうだいも傷つけた。本音で生きるために。だから、これから先、何をするにしても自分を偽ることだけはすまい、とね。そういうものは、子どもと一緒に婚家に置いてきたのだから」
あるいはまた、こんな言葉。
「絶対に母性なんてもののためには生きられないエゴイスト。だったら、誤解されようが何だろうが、わたしにとって価値のある綺麗なもの、興味の持てるもの、好きなものについて書こう、と思ったの。わたしは善悪なんてどうでもいいし、道徳なんて知らないから、とても妹みたいに悟りすました顔はできない」

部屋を訪ねた熊井さんと思われる女性の目は、樹里の夢と現実の両方に向けられ、そのギャップに戸惑いながらも、やがてその視線は樹里の本質をとらえる。
この本の帯には、「薔薇よ、きよらかな矛盾よ」というコピーがついているのだが、それはこのまま森茉莉に捧げた言葉である。森茉莉こそ、あらゆる意味できよらかな矛盾の人であったからだ。

☆『夢のかけら』熊井明子著・春秋社 1500円(税別) 11月20日発売


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November 05, 2007

「「本当の贅沢」」と「自分のルール」。」  〜千野帽子

PR誌ちくま千野帽子さん
PR誌『ちくま』11月号の表紙と中面












PR誌『ちくま』11月号が届いた。この号に、千野帽子さんが「「本当の贅沢」」と「自分のルール」。」という『森茉莉かぶれ』の推薦文を書いて下さった。
私はこの文章を、『森茉莉かぶれ』から切り離したものとして、実は味わった。何故なら、それは実に上等な「手紙」だったからである。
しかもそれは、『薔薇くひ姫』の中の言葉を借りるなら、洋杯の底に掌を届かせて洗われていて、さっぱりとしただけではなく、それは新品の時よりも美しく洗い上がっていたのである。月夜に私が産み落とした小亀が、月の滴に洗われて、思ったよりも美しい亀になったのを見たような心境である。

ところで、この中で千野さんも触れているが、『ユリイカ』で森茉莉特集が組まれることになっている。2007年は森茉莉歿後20年である。森茉莉さんはもう二十年もこの世にいなかったのだ、そんな当たり前のようなことを今しみじみ思う。
今まで森茉莉さんの作品はおろか存在さえも知らなかった若い男子大学生から、森茉莉さんの本を買ってみたんだ、と教えてもらった。そんな男の子が一人ではなく複数いることに驚き、また嬉しく思う。私としては彼らがこの先、森茉莉作品とどんな風にかかわって行くのか、またいかないのか、実に興味津々である。




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October 26, 2007

熊井明子さんの「贅沢貧乏」、そして森鷗外と森茉莉

森茉莉という作家について、私は熊井明子さんの著作から、そして、熊井さん本人からたくさんのことを教わったと思う。
私が初めて原稿を依頼した作家は熊井明子さんである。もう何年も前の事になるが、その時届いたエッセイのタイトルは「わたしの贅沢貧乏」。戦後のものが乏しい時の暮らしについて書かれたもので、実に「私好み」のエッセイだった。同時にそれは、私が心の中で大切にしていた二人の作家、森茉莉さんと片山廣子さんの「贅沢」を思い出させるものでもあった。
そのエッセイはこんなすてきな文章で始まる。

私が育ったのは、戦後の物に乏しいときだった。ところが、当時の思い出を人に話すと、
「贅沢してたんですね」
と、よく言われる。私は、ハクライのセーターを着、画集を絵本代りに、ノートや鉛筆は丸善のものを使い、クラシックのレコードを聞きながら、ブラジルから送られてきたコーヒーを飲んでいたのである。
もう少しくわしく説明すると、セーターは父のお古、画集やノートや鉛筆も父のものを貰った。レコードは竹針の蓄音機で聞いたのだし、コーヒーはおいしかったが肝心の主食は豆混りの御飯という有様であった。贅沢といっても、亡き森茉莉さんが言われた「贅沢貧乏」の類である。

このエッセイの中に「美欲とでも言おうか」という一文があり、私はその「美欲」という言葉に強く反応してしまった。自分自身の美意識に裏打ちされた美しいものに対する欲求とでも説明すればいいだろうか。森茉莉さんにも、片山廣子さんにも、そして熊井明子さんにもそれが高くあり、私はそういうものを持った人に強く惹かれるのだと知った。
ところで、熊井明子さんの著作を読むと、そのいたるところに森茉莉さんの名前が出てくる。そのひとつひとつに私は反応し、迷惑を承知で電話をかけて、質問をしたり、思い出話を聞かせてもらったりもしている。
鴎外の作品をパラパラとだが読むようになったのも、実は熊井さんの影響である。
熊井さんは鴎外の作品について『続 続・私の部屋のポプリ』(生活の絵本社)の中でこんな風に書いている。

森鷗外──数多くの立派な翻訳や創作をのこしたこの明治の文豪を、私は長いこと敬遠していた。ところが、森茉莉さんの作品によって、やさしいロマンティストの鴎外を知った時から、何となく気になる存在に変わった。 
  一連の(鴎外の)歴史小説は退屈で死にそうである。
 と、森茉莉さんが『記憶の絵』に書かれているのを読んだ時、私はほっとしたのだった。そして茉莉さんが
  象牙で彫ったやうな、白くて香ひのいい花のやうな文章。
と評する鴎外の文章にふれてみたくなり、いくつかの作品を読み返した。

熊井さんが鴎外を長く敬遠していたことにほっとすると同時に、私も鴎外の文章に触れてみたくなった。いくつかの作品を読んでみると、行間からヨーロッパの香気が時にほとばしっていることに気づいた。そして、鴎外の作品が違う角度から私に迫って来た。熱心な読者とは決して言えないが、森茉莉→熊井明子さんという流れがなければ一生触れることはなかったかもしれない鴎外の作品が私の読書履歴に加わったことは確かである。
森鴎外と森茉莉。この父と娘のつながりの深さを思い知らされる経験だった。




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October 15, 2007

森茉莉 レースやリボン、ワンピースのことを書く作家

『森茉莉かぶれ』が出てから、見知らぬ読者の方々からメールをもらう機会が増えた。私としてはそれらを楽しく読んでいるのだが、森茉莉のどこが好きなのか、つまり、ここが好きなんだ、というそれぞれの熱い思いが伝わって来て楽しい。それを思うと、私なんかまだまだだなぁと思う。好きで好きで、本当に好きなのだけど、命日とかお誕生日とかはすっかり頭から抜けたりしているし、とてもじゃないけど及ばない。だから、森茉莉ファンを代表して……そんな前置きでインタビューなどをされそうになると、私としては逃げ出すしかなく、せっかくの好意を無駄にしてしまったりもしている。何とも情けないことである。多分、私などは森茉莉に関する仕事をしてやっと不足分が埋められるのだろう。

核心部分は横に置いておくとして、森茉莉という作家を好きだなあと思う理由のひとつ、それは彼女の世界にリボンやレース、ワンピースのことが書き込まれてるからである。幼い日々や少女時代にあった美しいもののデイテールを記憶にとどめ、書く作家だからである。余談だが、私が久坂葉子にひかれるのも同じ理由からである。
森茉莉は、単にワンピースと書かず、「細(ほそ)い、絡(から)み合つたレースで、布と布との間が繫(つな)がれてゐる。複雑な飾りの、ひどく美しい白いレースだつた」と書き、帽子は、「白いフランネルで、浪打つた広い鍔(つば)の縁(へり)にオリーヴ色の毛皮のついた、椿姫のやうな帽子」と書くのである。自分が着ていたものというのは、実はかなり饒舌である。その洋服を着ていた時の自分自身の心のありよう、その人の心の背後にあった風景──実にたくさんのことを語るのだ。
『森茉莉かぶれ』では、一般に年譜と呼ばれるものからは抜け落ちてしま類のことを拾い集めて、オリジナルの年譜を作成した。それは、そうしたことが時にその人の人生をより豊かに伝えるのではないかと思ったからだ。だから、森茉莉という作家を伝えるために、鴎外が森茉莉のために誂えた着物の詳細、ピジョン・ブランの指輪を買った、素敵なスーツとコートを誂えた、といったことも年譜には織り込んでみたのだ。


☆パブリシティ 他 10月15日現在
○『週刊文春』10月18日号 新刊推薦文のコーナー
○『京都に住まえば…』(通称キョースマ なごみ11月号別冊 2007年秋号)「キョースマ文庫」
○恵文社一乗寺店 オンラインショップ 乙女のための本
*恵文社一乗寺店、ガケ書房(どちらも京都市左京区)では、『森茉莉かぶれ』用の手作りのラミネート栞を用意しています。
○10月17日 朝日新聞朝刊 筑摩書房広告(予定)




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October 06, 2007

岩崎さんのお庭とジョサイア・コンドル

幼い日の森茉莉が綺麗にお化粧をしてもらい、軍服を着た鷗外や美しい母に連れられて方々へ出かけていたことはエッセイの中で繰り返し書かれているが、その行き先のひとつに「岩崎さんのお庭」があった。この岩崎邸は、不忍池に面した不忍通りの湯島4丁目と池之端1丁目にまたがる小高いところに建つ洋館。現在は、旧岩崎邸として重要文化財になっている。ちなみに、この岩崎邸横の「無縁坂」は、森鴎外の『雁』の舞台にもなった。
この岩崎邸が建てられたのは、明治29年。設計したのは、イギリス人、ジョサイア・コンドルだった。コンドルは東京国立博物館や鹿鳴館、古河邸などの設計をし、19世紀後半のヨーロッパ建築を日本に紹介し、日本の近代建築の発展に指導的役割を果たした。また、辰野金吾ら、創生期の日本人建築家を育成し、建築界の基礎を築いたと言われる。
ジョサイア・コンドルの建築については取材をしたことがあり、ジョサイア・コンドルの名前もインプットしていた。それがヒョンなことから氏の名前を再び思い出すことになった。というのは、英語の勉強仲間の一人が、今年、デンマーク勤務になった。その彼からメールが来て、「ジョサイア・コンドルって知ってる?」というので、もちろん知っており、氏が設計した建築を取材したこともあることを話した。その友人は、今、コンドルの曾孫にあたるファミリーの仕事をしているのだという。自宅を訪ねるといつも日本の話になるらしく、私のことも話してくれたらしい。コンドルの曾孫の女性はこの縁をとても喜んでくれて、いろいろなことを思い出そうとしてくれたり、コンドルの結婚写真、コンドル家の集合写真なども見せてくれたりしてくれたり。私にも写真の何枚かが送られて来た。人の縁というのは不思議なものである。

私は森茉莉の幼い日々を描いたエッセイを読むのが好きなのだが、それは私にとって、明治という美しい時代を感じるための玉手箱だからである。ページを開くと、美しい明治の絵巻物が、オリーヴ色に金で模様のある粉白粉の箱、真白なリボン、黒塗りの鏡台……などの単語と共に、今ここにあるもののように再現されるのである。
そんな絵巻物の中に、岩崎邸もある。私は見たことのあるこの庭の風景に、綺麗にお化粧をして後ろ髪を真ん中から分けて耳のあたりで結び、白いリボンをかけた幼い日の森茉莉を立たせ、深い深いため息をついてみるのである。




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October 02, 2007

写真の中の森茉莉

必要があって森茉莉写真資料を整理していた。ところが、雑誌に掲載されている森茉莉の写真資料については行方不明のものが多いことに頭をかかえてしまった。それはつまり、掲載されている雑誌がどこにあるか見当がつかないということなのだが。一度、きちんと整理しておかなければ。*こんな決心を一体何度したことか。
ところで、森茉莉の写真の中には、著名な写真家が撮影したものが何枚かある。読者がいちばん多く目にしたことがあるのは、大倉舜二氏撮影によるものではないかと思う。『ミセス』の仕事で取材に向う白っぽいニットを身につけた森茉莉である。他にも、アラーキーこと荒木経惟氏撮影のものや吉田ルイ子さん撮影のものがある。

☆荒木経惟氏撮影のものは、田辺聖子さんのパーティーだろうか、そこに写っているのは、頭にスカーフを巻いてはいるが、黒いスーツ姿でストッキングをはき、お洒落をした森茉莉である。田辺聖子さんと黒柳徹子さんにはさまれたゴージャスなショットもある。この写真が収録されている『わが愛と性 荒木経惟×田辺聖子』(創樹社)の発行が1982年2月なので、森茉莉78歳の頃の写真だろうか。

☆吉田ルイ子さん撮影のものは、私的には実にカッコいいと思う森茉莉写真である。一緒に写っているメンバーがまたゴージャスで、森茉莉は芸術家なんだなぁ、としみじみとした一枚。ゴージャスなメンバーというのは、瀧口修造、土方巽、唐十郎の三人なのだが、森茉莉がいちばん存在感を放っている。
私は、瀧口修造に並々ならぬ関心を持ち続けているのだが、この写真の中で、氏の表情が森茉莉の存在感を引き立たせている。瀧口修造自身の雰囲気も実にいいのだが、それさえも、森茉莉の引き立て役としての役目を担ってるのかと思うと、それもまた私には感慨深いのである。
撮影は1973年冬。森茉莉はこの年の11月に長年住みなれた倉運荘から代沢ハウスに引っ越しているので、倉運荘時代なのかどうかは微妙なところである。




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September 28, 2007

ホテル、ジャンヌ・ダルクのこと、千野帽子さんの推薦文のこと。

25日の発売とはいえ、今日あたり書店にならぶのかな、と思っていたら、もう読んで感想を知らせて下さった方々があったことに驚き、嬉しく思った一日だった。
その中に、巴里に行ったらホテル、ジャンヌ・ダルクだった建物を訪ねてみたい、というコメントがあったので、その返事のかわりに、ホテル、ジャンヌ・ダルクについて少し触れておこうと思う。
現在、52,rue de la clef 75005 にある建物は、実は当時の建物ではない(キャプションには「残念ながらホテル、ジャンヌ・ダルクの建物はすでに建てかえられている」と書き添えている)。この場所にあったのだな、と思って訪ねていただく分には十分だと思うが、出かけた後でガッカリされてもいけないと思うので。
最初はどうしてコの字型ではないのだろう、と、撮影して写真を送ってくださったOさんとも話していた。その後、40年位前にホテル、ジャンヌ・ダルクだった建物は建てかえられていたことが判明したのだった。ちなみに、本文153Pに掲載した写真は、2007年4月現在の52,rue de la clef 75005にある建物の写真である。

『森茉莉かぶれ』の刊行に際して、推薦文を千野帽子さんが書いて下さった。巴里からの推薦文である。
筑摩書房の編集者とこのことについて話していた時、「感性は共有しても群れない」という部分を千野さんがすくい上げて下さったことを知った。私としてはそこの部分こそ最も大切にしていることなので、それを聞いた時は本当に嬉しかった。何故なら、なかなかこんな風に「阿吽」の呼吸で読み取ってもらえることは、稀なことだからである。
その一部がPOPで使われることになっているらしい。

本文でも引用したのだが、批評家の手法について、森茉莉はこんな風に書いている。

☆読んで貰ひたいと思つてゐるところが読まれてゐない。批評家を洋杯を洗ふ人間だとすると、洋杯の底に掌先を届かせずに洗つてゐて、洋杯の方は一向にさつぱりしないやり方である。

核心を見ず、どうでもいい部分をみて、ああでもない、こうでもないと言う手法である。極論を言えば、枝葉のあれこれなんてどうでもいいのだ。
えっと、私は何を言おうとしていたのだろう。……そうそう、千野帽子さんの推薦文のことだった。こんなわけで、私としては「洋杯の底に掌先を届かせ」、「さっぱり」として下さったことに心から感謝したいと思う。




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September 25, 2007

『オリーブ』のお嬢様特集 金曜日のお嬢様

オリーブ
お嬢様になる一週間の金曜日は、「お嬢様は、大胆不適。」









オリーブ
金曜日のお嬢様リストには森茉莉も。










連休三日のうち、二日を掃除に費やしてしまった。デスク周辺だけに絞って掃除をしたのに、まる二日かけても片付かないのは何故? それはいいとして、この掃除の最中に出てきた『オリーブ』をしばし読み耽ってしまった。
「お嬢様になる一週間」の特集の金曜日、「お嬢様は大胆不敵。」のページに森茉莉が登場する。(昔、この『オリーブ』のことは書いたかもしれないな)。
これが金曜日の導入コピー。

☆お嬢様という言葉には、イコール、しとやかで慎ましいイメージがあるけれど……。ところがどっこい、お嬢様は愛されてスクスク育ったため、大らかで疑うことを知らない。怖いもの知らずだから、やることなすこと、すべて大胆だったりもする! この精神の自由さは、まねしたいね。

金曜日のお嬢様リストには、森茉莉の他に、ドロシー・ブレッド、ステファニー王女、ヨーコ・オノ、マーガレット王女、アン王女の名前が。そして、森茉莉につけられたタイトルは、「最上級の想像力と美意識をもつ、誇り高い、ほんとうの「貴族」。」って、ちょっとびっくりのもの。でも、さすがは『オリーブ』、他の雑誌のステレオタイプの紹介の仕方とは違って、森茉莉の本質を見ている。若干? もあるけれど、こんな森茉莉らしいエピソードも紹介されている。

☆「少女時代、庭に散った花びらを踏む感触が好きだったから」と、散った花びらを床に積もらせ……

そして、金曜日のお嬢様、森茉莉の項目はこんな風に締めくくられている。

☆自分の好きなことを誰の目にも気にせず好きなようにやる、これほどの贅沢ができる人間がどれだけいるのでしょう。

掲載された写真には、「60歳を超えていた頃の森茉莉さん。写真嫌いでした」というキャプションがついている。ちょっぴりしかめっ面をして上を見ている、不機嫌なお嬢様風の一枚で、毎日新聞紙上でも見たことがあるものだった。




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September 21, 2007

森茉莉を訪問したことのある編集者

かつて一緒に仕事をしていたことのある編集者と何年かぶりに電話で話していた。お久しぶり、から始まり、いろいろなことを話していくうちに、今は何をしていらっしゃるの? ということになり、自然に森茉莉さんの話になった。すると、その編集者の女性は、「私、森茉莉さんのアパルトマンを訪ねたことがあるのよ」と言うではないか。えっ、マジ? と心の中では思い、言葉では「えっ、本当ですか?」と私。
仕事で訪問した時の森茉莉の部屋の様子はとにかくすごかったらしく、彼女から聞くそれは私の期待を裏切らない天晴れなものだった。
「でもね、そういう部屋の様子を見ても、だからって、がっかりするとかそういうことはなかったわよ。そんなことには左右されないものが森茉莉さんにはあったから」
と彼女は教えてくれた。
彼女の話しぶりから、目撃談によくあるような森茉莉の現実の表面ではなく、その内面にあるものに編集者としての目を向けていただろうことが分かり、これは一度、ゆっくり話を聞かせてもらわなければと思っている。

森茉莉のエッセイに(いや、手紙だったかもしれない)、雑誌名と編集担当者の個人名が記されていたものがあり、それを読んで驚いたことがある。それは、私がその雑誌の仕事をしていた時、一緒に仕事をしたことのある編集者だったからだ。
その編集者にも話を聞いてみたいと思っているのだが、思っているまま、何年も過ぎてしまっている。おかしな喩えだが、いつでも行けるからと思うからだろう、京都に住んでいる人間が清水寺や金閣寺に行かないように、「そのうち」と思いながら日々を過ごしているのだ。だが、気がつけばその葉書は行方不明、あのあたり、というメボシがついているので、探せば見つかるのだろうが、探すこともまた「そのうち」のまま。まるで向田邦子の「隣の神様」ね、という自分への言い訳まで用意しているのだから、我ながらあきれてしまう。





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September 20, 2007

『森茉莉かぶれ』の見本が届いた。

森茉莉かぶれ











『森茉莉かぶれ』の見本が届いた。カバーデザインは澤地真由美さん。このところ、私がかかわった本は全て澤地さんのデザイン。私はこのデザイナーは、色のセンスがいいな、とずっと思っていて、今回、再びデザインしてもらえてよかったと思っている。
私は、トレペやグラシン紙、タフタ色のレースなどがどうしようもなく好きなのだが、彼女のデザインには、そうしたものとどこか共通する色合いを感じるのだ。
それはともかく、何とか形になってホッとした。

収録した写真をチェックしていたら、上田るりこの手紙に、「日本髪の美しい茉莉子様がジャク(手紙では漢字)さんを抱いて立っていらっしゃる」とあったことなどを思い出した。




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September 16, 2007

森茉莉とピアノ ─その

森茉莉とピアノ

兼常清佐のことを書きながら、そうだ、と思い出したので、森茉莉とピアノ△砲弔い峠颪い討く。
「森茉莉とピアノ 廚如⊃合莉がピアノを習うことになったのは、七歳の時のことだったと書いた。以下がそのことに触れた部分。

「森茉莉によると、パッパ・鷗外は五歳からピアノを習わせたかったようだが、あっという間に森茉莉は七歳になっていた。始めるのが遅れたとはいえ、習わせようと考えてピアノの購入を決意、ある日、観潮楼にすごいピアノが運ばれて来た。類のエッセイによると、それは鷗外が茉莉のために大奮発で買ったものだったようだ。このピアノが届いた日、鷗外は茉莉を抱いて、「これは茉莉のピアノだよ。これはおまえのピアノだよ」と言って部屋中を回って歩いたという」。

鷗外がいかに茉莉が可愛かったのかということ、その茉莉のためのピアノが届いたことの喜びにあふれた鴎外の様子を想像して微笑ましくなると同時に、鷗外の、ピアノを習う娘、あるいはピアノを弾く娘、への思い入れがどれほどのものだったのかということも伝わってくる。
『ドッキリチャンネル』に、ピアノを始めることになった七歳の時の思い出が書かれた箇所がある。

☆私には一つの恐ろしい思い出がある。久能久子という有名なピアニストがあった。私の父はその女に私を習わせたいと思った。母が七歳の私を伴れてその女を訪れ、ピアノを教えて遣って戴きたいと申し入れた。久能久子は天才であって、人柄もひどく変っていた。束髪の前髪からはお化けのように髪の毛が下っている。恐ろしい手付きで私を椅子につかせ、弾いてごらんなさいと命じたが私は恐ろしくて、碌に弾くことも出来ない。母は恐る恐る、ご挨拶をし、私を伴れ帰り、父に報告した。私に大甘の父は無論、そこへ遣ろうとはしなかったがその後、久能久子は伊太利に行き、そこで向うのピアニストの弾奏を聴き、自身のピアノに絶望した。そうして、ホテルの窗から飛び下りて死んだ。烈しい芸術家の死である。私はその時の彼女の気持を思い、胸を博たれたことを、思い出す度に、切なくなる。

ここに書かれている久能久子とは、ピアニストの久野久のことだと思われる。彼女については、兼常清佐が「久野女史をいたむ」という随筆を書いている。
ここで森茉莉と久野久、兼常清佐と久野久の接点について少し整理してみたい。
森茉莉七歳と言えば、1910年。この時、久野久は24歳、ちょうど東京音楽学校の助教授に任命されたばかりの頃である。鴎外もその名声を耳にしていたのだろう、茉莉のピアノ教師として白羽の矢が立てられたのが久野久だった。だが、『ドッキリチャンネル』にあるように、久野久は子どものピアノの先生向きではなかったようだ。
久野は、ピアニストとして、国内では圧倒的な人気と名声を得、べートーヴェンを得意としていた。ピアニストとして、その気性は激しかったようである。
1923年、久野久は渡欧する。森茉莉が渡欧した翌年のことである。渡欧後、ベルリンで生活を始めるが、この時、下宿の世話をしたのが兼常清佐だった。そして、兼常清佐がベルリンを去るまでの半年余り、二人の間には音楽を通じての交流があったようである。久野久は日本では高く評価されたピアニストではあったが、兼常の言葉を借りるならそれは、「本当にピアノを理解しなかった過去」の「過渡期の無知な二ホン」における評価であり、ヨーロッパにおける久野久は、日本での一切の夢から醒めなければなかった。
兼常清佐が久野の自殺を知ったのは、ドイツから帰国して間もなくの1925年の事だった。兼常清佐自身だけではなく、氏の奥さんはわずかの期間とはいえ久野の弟子であったことから、久野久のウィーンでの自殺を受けて雑誌や新聞が兼常のもとへ取材に来たようだ。つまり、久野の自殺のニュースは日本で大きく取り上げられたのだろう。森茉莉もこの報道によって久野の死を知り、胸を賭たれ、切ない気持ちになったのかもしれない。
話が逸れて行ってしまったが、鷗外が森茉莉のピアノの先生と見込んだのが久野久であり、それは一度きりのはかない繫がりではあったが、後に二人はわずかな期間とはいえ同じ時期にヨーロッパに滞在し、共通の知人を持ち──。森茉莉とピアノのことから兼常清佐へ、兼常清佐から久野久へ、そして、久野久から森茉莉へ、こうした符号を見つけるにつけ、この世のウェブサイトのように繫がった人間関係を見せつけられたような気になり、ふ〜っ、と溜息をついてしまった。





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September 15, 2007

珠樹待て〜ッと言ったらどうですか、の兼常清佐のこと。

森茉莉の本を読んで興味をそそられ、著作を読むようになった著者の一人が兼常清佐(かねつねきよすけ)である。私の中には、「珠樹待て〜ッと言ったらどうですか」と森茉莉に進言した人としてインプットされている。。
久々に氏の本を読み返していたら、一度目に読んだ時に結構赤線をひいていることに気づいた。コメントなんかも書き加えているくせに、すっかり忘れていた。
赤ラインを引き、『記憶の絵』をチェック、というコメントを書き込んでいるもののひとつがこんなフレーズである。
「私がドイツで下宿していた家に、フリーダという女中がいました」
何故、この一文が気になったかというと、それは「フリーダ」という名前を読んで、あれっ、どこかで聞いたことがある……そうだ! 『記憶の絵』だ! と読みながら思ったからだ。
森茉莉の『記憶の絵』には、矢田部達郎がらみで、フリィダという名前の女性が登場する。エッセイの中で、フリィダが登場するのは以下の場面。
☆箕作新六の子供の光子のナースだったフリィダ、ジャンヌ・ダルクの女中のエルネスチィヌ、すべて矢田部達郎崇拝者で、憧憬の眼差しはいつも彼を囲んでいた。

☆(フリィダが矢田部が好きなのね?)。矢田部達郎は眼を眩しそうに細め、私を肩越しに見下ろして、言った。(フリィダはね、言ってますよ。ムッシュ屋まだやムッシュ箕作はマダァムがあるけれど、ムッシュ矢田部はマダァムがないからなんでも相談出来るって)。

兼常清佐が渡欧したのは、1922年2月のことで、神戸港からドイツに向かい、1924年、巴里経由で帰国の途につき、神戸港に着いたのは、同年4月1日のこと。一方、森茉莉が渡欧したのは1922年3月、帰国したのは1923年8月のことである。森茉莉がドイツに滞在していた時、矢田部達郎もドイツにいたし、兼常清佐もまたドイツにいたわけである。フリィダが矢田部が好きなのね? と森茉莉が矢田部達郎をからかったのは、前後の流れから考えて、ドイツでのことのようである。とすれば、兼常清佐が下宿していた家にいたフリーダと、『記憶の絵』に書かれているフリィダが同じ女性という可能性も否定出来ないのではないだろうか。兼常清佐が分野は違うとはいえ、音楽心理学を研究していたことなどを考えあわせても、同じ時に共にドイツにいた日本人として、面識があり、交流があったと考えても何の不思議もない。
兼常清佐は、フリーダとハウプトマンの話などもしているので、下宿人と女中とは言っても、文学的な会話を交したりもしていたようである。だから、知り合いの日本人を紹介することもあったかもしれないし、会う機会もあったのかもしれないと思う。
これは、私の「もしそうだったら面白いな」という単なる名前の一致への反応である。

兼常清佐はなかなか面白い人物のようで、気骨を持って京都女子専門学校の講師を辞めた後、小遣い銭かせぎのために、人を食ったような芸名をつけて、浅草で活動写真の弁士、活弁をしていたこともあったらしい。
『音楽と生活 兼常清佐随筆集』(杉本秀太郎編 岩波文庫)の解説にある兼常清佐がまた実によかった。

「世間はこういう人を奇人変人扱いするのがつねである。そのことも承知の上で、奇人変人というお面をありがたく頂いて世を送り、国粋派、西洋崇拝派の双方から、本気なのか冗談なのか、はっきりせよと迫られても、ほんとうは本気で思っていることを冗談まじりに、ぬけぬけと、しかも軽い調子で、この人は随筆に仕立てつづけた」
そして、兼常清佐自身の言葉(『残雪』の「はしがき」より)。

“「十年一日の如く」という言葉があります。「あい変りませず」という挨拶があります。まことにおめでたい事であります。しかし、また極めて退屈なことででもあります。
私の考えはしきりに変ります。十年一日どころか、一日が一日です。まことにおめでたくない事かもしれません。しかし私はそのおかげで、かつて退屈を感じたことがありません。その退屈の正反対です。私の周囲にはしたい事が山と積まれています。私の頭の中には何かしようとする欲望が雲の如くむらがっています。”

こんな人物だからこそ森茉莉は、離婚後の日々、夫の珠樹周辺の人たちを避けていたにもかかわらず、実家を訪ねてきた兼常清佐に会い、その後、氏の家を訪ねたりもしたのかもしれないと思ったりもする。



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September 13, 2007

『甘い蜜の部屋』扉イラストと新潮社の新刊案内

甘い蜜の部屋
『甘い蜜の部屋』扉イラストと新潮社の新刊案内











実を言うと、私は『森茉莉 ロマンとエッセー』(全6巻 新潮社版)を全て持ってはいなかった。京都のアスタルテ書房の棚でこの全集を見つけるたびに購入し、全6巻のうち5巻までを買い揃えた。多分、10年位前のことだと思う。欠けていた一巻というのは、『森茉莉・ロマン掘ヾ鼎ぬの部屋』だった。『甘い蜜の部屋』は文庫で読めるし、筑摩書房版の全集も持っているので、特別探していたわけではなかったのだが、最近、図書館でのUSED を見つけたので購入した。
ページを開いてみたら、扉のページに「森茉莉の印象──素描・秦敬子」というキャプションがついた素描が掲載されていた。玉葱のようなアウトラインにパッチリとした目が描かれている面白いものだ。一見、黒柳徹子さん?? と思ってしまうのはそのアウトラインのせいだろうが、「私は目がパラリと大きくて」と森茉莉自身が書いているように、秦敬子さんにとって印象的だったのは、イラストにあるような森茉莉の輪郭と目だったのだろう。
ところで、今、森茉莉の部屋のイラストが掲載された雑誌が見当たらないのだが、確か、そのイラストを描いていたのも秦敬子さんではなかっただろうか。

私が持っている新潮社版の全集の中に、1982年2月の「新潮社 新刊案内」の栞がはさまれていた。それを見ると、『森茉莉 ロマンとエッセー 全6巻』の案内、読書人の雑誌『波』の2月号の内容が印刷されているので、ピックアップしてみよう。

☆言葉の贅を尽して、絢爛華麗、奔放なる批評精神に満ち溢れる── 森茉莉 ロマンとエッセー 全6巻 新潮社版
 造本=四六判 / 小口折表紙 / 箱入 / 本文・新8ポ 2段組 / 各巻平均320頁 定価各1600円

☆第一回 2月20日発売 エッセー機”磴遼校
 エッセイストクラブ賞受賞の第一随筆集『父の帽子』他、『靴の音』『濃灰色の魚』と昭和初期演劇時評。
                      ──以上全集案内

☆読書人の雑誌 波 1982年2月号
 暈(ぼんや)りさんの書いた本…………森 茉莉

好きな作家だと、こんな活字を読むことさえ嬉しいのである。






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September 11, 2007

森茉莉と萩原葉子 

京都のユリヤ商会でいつものように外国の使用済み切手を購入した。そして、いつものように「お好きな本を一冊を一冊どうぞ」と言われ、古本が入った箱の中を見たら、萩原葉子さんの文庫があったので、それをもらって帰った。
持ち帰った本は、『花笑み・天上の花』(新潮文庫)である。
これまで、萩原葉子のエッセイは数冊読んだことがあったものの小説は読んだことがなかった。読んでいたら、森茉莉らしき女性が登場することに気がついた。
例えば、「貸室」。親友の森田和子という女性が何となく森茉莉を彷彿とさせる。

☆或る日、親友の森田和子が緊張した様子で尋ねて来た。和子は私の先輩だったが、女一人で暮しているので何かあるとすぐ私に相談するのである。彼女は部屋に入るなり、今いるアパートを急に引越すことになったので、どこか捜さなければならず、私に一緒に捜してほしいというのだった。

☆和子はまるで子供のようなたちで、世間のことは一切分らず、よく一人で生きていられると不思議になるほどの人である。

和子は仕事の都合上、中央線沿線でなくては困るというので、「私」は和子と中央線のA駅まで出かけ、不動産屋巡りをする。だが、四畳半、4500円どまり、駅から三分以内という和子の求める条件に合う物件は見つからない。二人は足を棒にして次々回り、条件をS駅に変えてもみるが、条件にあう物件はやはり見つからない。
そのうちに二人は腹を立てはじめ、
「だから私のところへ来ればよいのに」
「あたしは中央沿線が好きなのよ」
「どうせ小田急線は嫌いでしょうよ。私だって忙しいのに二日もつぶしてお供しているのに、いい加減に決めてくれなくては困るわよ」
「決めろと言ったってどこに決めたらいいの? 駅から三十分も歩けというの?」
「そのくらいがまんするものよ、第一あなたは我儘よ」
そんなやりとりの後、気まずく別れた二人だったが、翌日、和子から再び電話がある。和子は「昨日は自分が悪かった」と誤り、もう一度だけ部屋捜しに付き合って欲しいと言われ、「私」はあきれながらも出かけて行き、今度はY駅の不動産屋を回り、またしても言い合いになり──そんなやりとりが書かれている。
この森田和子が登場するのは、この部分のみで、その他の「私」の日常には和子に関する記述はないのが残念だが、モデルは森茉莉だろうと思われる。

それから、「手術前後」。この中で、子宮筋腫の手術で入院していた「私」を訪ねて来る二人の友人のうちの一人、M子のモデルもまた森茉莉だろう。
その友人は、「私の子宮を見たことを話した」。そして、「瑞々しいネクタリンに似て、オレンジ色をして」いて、「思わず見とれる美しさだ」ったと言うのだが、私は、森茉莉が「「壜の中の子宮」を読んで」と題したエッセイで、萩原葉子の子宮について書いていたことを思い出した。

☆私はどぎもを抜かれた。あんまり綺麗なために瞬間、薔薇色に輝いてみえた位だ。

そして、一方、萩原葉子は、この小説の中で、M子のことをこんな風に「私」に言わせている。

☆M子は六十歳を過ぎているとも思えない、気の若さの持主だったが、当然子宮も健在である。

萩原葉子の他の小説にも、森茉莉らしき人が登場するのだろうか。機会があれば、もっと読んでみたい。





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September 10, 2007

山田珠樹の料理自慢の細君

奥付山田珠樹







『中世仏蘭西文學』 山田珠樹著 私はこの本の奥付に発行部数が明記されていることに驚いた。限定制作のものならともかく、昔の本には、こんな風に明記されているものが多いのだろうか。調べてみなくては。






古書市で名前買いしたのが、『中世仏蘭西文學』(山田珠樹 六興出版部 昭和十八年刊 初版4000部の一冊)。この本の中にブリア・サヴァランについて書かれた章がある。
この章を読んでいて注目したのが、山田珠樹の食に関する個人的な見解である。山田珠樹はこんな風に書いている。

☆日本では、食べることや料理を大きな快楽としたら、芸術視したりすることが昔あつたものどうか、詳しく知らない。 (中略) 筆者の如きも父の膝下にゐた青少年の頃は常に食餌の美味不美味を口にすべからざるものとして教育された。だから料理自慢の細君にとつては、誠に張合ひのない主人で、従つて料理のことを云々する資格はないが、どうも私のやうな人間が日本人の間にかなり多いところから見て、日本では味覚は粗略な扱ひをうけてゐるものと思はれる。

このエッセイが書かれたのは、昭和15年、森茉莉と離婚したのは昭和2年のことだから、当然のことながら「料理自慢の細君」というのは再婚した細君のことだろうと思うが、私はついつい、森茉莉が書いていたことを思い出してしまった。森茉莉は「記憶の書物」について、それは二人の生活の暗いところを強調して、濃い絵具を塗って仕上げたものだと書き、そこには「私があらゆる美味な料理や菓子を拵へて二人で楽しまうとしたことも、書かれてゐない」と書いている。つまり、森茉莉は、あらゆる美味な料理や菓子を拵えて二人で楽しもうとしていたのである。
別のエッセイにはこんな風に書かれている。

☆その内に私はお芳さんのするのを見覚えた、鯛の皮をその中で揉み洗ひするやうにした酢で三杯酢を造り、それで鯛と小蕪菁を和へた酢の物を造らへたり、父の母から母が受け継いだ独逸風の野菜サラダ、巴里の下宿で習つた仏蘭西風の貝料理、ボルドオ風のシャンピニオン料理、又は自分が発明した料理なぞを造らへて楽しんだ。山田が余りたべものに興味がなくて、あつと言ふ間に食べ終わるのを歎じながらも、自分だけはよくたべた」(「二人の悪妻」)

山田珠樹の著書の中に「料理自慢の細君」という言葉があったので、反応したという話である。




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September 05, 2007

森茉莉と萩原葉子 

森茉莉と萩原葉子 

ありとあらゆるものが行方不明であり続けるのが私の机まわりでの日常なので、それが何に掲載されていたのか、思い出すことも確認することもできない。だが、『出発に年齢はない』(萩原葉子 岩波書店)に掲載されている「追悼・森茉莉」は、森茉莉の単行本か文庫本の解説ページにも掲載されていて、それを読んだ記憶がある。
森茉莉オリジナル年譜を作るとき、萩原葉子との出会いを入れたいと思いつつ、その出会いについて書かれた森茉莉本が行方不明で確認が取れず省いたのだが、このエッセイを読んで、そうそう、そうだったと今になって思っている。
萩原葉子のエッセイによると、二人が初めで出会ったのは、室生朝子の『あやめ随筆』の出版記念会の時だった。エッセイには、この二年前に『父の帽子』を初めて出版し……とあり、森茉莉が『父の帽子』を出版したのが1957年のこと、二人が出会ったのは1959年のことだったようである。
その頃、萩原葉子は、同人誌に萩原朔太郎の思い出を連載中だったが、それを読んだ室生犀星から「良く書けている」という激励の葉書をもらっていた。その葉書をキッカケに犀星を訪ねた折り、森茉莉も出版記念会に来るから出席するように、と言われたのだった。それ以前に、母親ほどの年齢である女性が初めての本を出版したというのは、人生に行き暮れていたその頃の萩原葉子にとっての「明るい太陽」のようなニュースだった。だから、森茉莉という名前は心に刻んでいた。萩原葉子自身、その出会いを楽しみにしていたのではないだろうか。
初めて出会った時の森茉莉は、

○紫色っぽい和服を着て、髪もきちんと結い、白い半衿を細くのぞかせ、私の方へ来てくれた。

○その瞬間、二人はまるで千年も昔からの友人のように話が合い、止らないのである。
 話の内容は、ほとんど室生犀星先生のことであった。私は、話が面白くて聞き入り、気がつくと会場には誰もいなかったので、一緒に下北沢の風月堂まで行き、そこでまた犀星先生の話の続きを始めた。それからの二人が室生家を尋ねる(ママ)たびに、犀星氏は、尊敬する鷗外先生の娘と親友の朔太郎の娘のために、夕飯を食べてゆくよう、勧めてくれるのであった。

○私たちは下北沢の喫茶店「風月堂」や「クレヨン」で待ち合わせるのが習慣になった。コーヒー一杯で何時間もお喋りに熱中したが、何よりうれしいことは室生家に一緒に行けることであった。

後には「葉子」と呼ぶ萩原葉子のことも、出会って後の数年は、「葉子さん」と手紙に書いていることが興味深く、また、「あさつてか、ひあさつて、室生先生のお宅に伺ひます うなぎのことが一寸心配です」(1961年11月26日付の手紙)と、冷めたウナギのことだろうか、その心配について手紙に書いているのがおかしかった。
『出発に年齢はない』に書かれている他のことは、倉運荘の部屋のこと、吉行淳之介のことなど、『森茉莉全集』の月報でもお馴染みの内容。私としては、二人がいつ出会ったのか、そして、その時、森茉莉がどんなファッションだったのかが分かって、大いに満足である。




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September 01, 2007

森茉莉と萩原葉子 

『出発に年齢はない』(萩原葉子著 岩波書店)。これも下鴨神社の「納涼古本市」で見つけて買った本なのだが、この本の中には森茉莉さんのことが書かれた箇所がいくつかある。

○家を新築する時に、甘い柿の木が二本あったのを、仮住まいの間に引き抜かれてしまった。他の植木はぬすまれないのに、柿だけ取られたとは、残念だった。柿の葉を食べる森茉莉さんのために、小さな苗から植え、やっと甘い柿が実った頃、古くなった家をこわして建て替えたため、植木はさんざんな目にあった。

ここの記述は、萩原葉子さんが「茉莉さんのために柿の木を植えたわよ」と言って森茉莉を狂喜させたというエッセイと照らし合わせて読むと興味深いところだが、このことについては次の機会にゆずりたい。

○二十数年も昔のことだった。追分の堀多恵子さんの別荘へ、森茉莉さんと二人で行ったことがあった。今日思うと、旅行嫌いで出不精の二人が、夏の暑い日によく軽井沢まで行ったと感心する。    (「軽井沢の思い出」)

このエッセイで注目したのは、森茉莉が「サンクロンと言う笹の葉のエキスを白いセーターに全部吸わせてしまった始末で、食事もそこそこに寝る時間となり、茉莉さんは朝のチョコレートを楽しみに、私は福永武彦さんに会えるのを楽しみに、各自の部屋で眠った」という記述の中の、「サンクロン」である。調べてみると、サンクロンというのは熊笹原形質液とある。森茉莉のエッセイに登場する熊笹エキスのことだろうか。
サンクロンの効能書きには、食欲不振、疲労回復、口臭・体臭除去、歯槽膿漏、口内炎とあるが、まさか、翌朝のチョコレートを楽しみにしている森茉莉が食欲不振だったとも思えないので(実際、この旅行のことを書いたエッセイを読むと実に食欲旺盛な森茉莉である)、多分、書き添えられている「緑黄色野菜を短期間に、しかも急速におぎなうことができる」というメッセージに反応して、健康維持のために飲んでいたのかもしれないし、昭和11年以来、29年ぶりの汽車旅行でいろいろと不安もあり、用心のために飲んでいたのかもしれない。
それはともかく、翌朝になってもセーターが乾かなかった森茉莉は、福永武彦の家には行かず、留守番ということになったという。夏なのに翌朝まで乾かないほどの量をこぼしたのだろうか?  ひょっとしてセーターってサマーセーターじゃなく?  こんな風にあれこれ思ってしまう私だが、? と思うもう一つのことは、この記述が森茉莉のエッセイに書かれていることと少し違う点である。森茉莉のエッセイを読むと、福永武彦の家に行ったんじゃないのかなと思うのだ。

○翌日、茉莉さんはセーターが乾かないので留守番となり、私は堀さんと二人で福永家に向うことになった。  萩原葉子 「軽井沢の思い出」

○学者で詩人の山羊(スコットランド産)の家永海彦は、細かな葉の点々とする樹々の家にゐて、眼鏡をかけていないのに、かけたやうに見える眼で、楓、魔利、梗子、たちを、見た。 森茉莉 「二十九年目の汽車旅行」

もてなしにも、高原の新鮮な野菜がたっぷりの食卓にも満足したのだろう、二人は二泊の予定を三泊に延長して滞在したようである。もしかすると、福永武彦の家を訪ねる機会は翌朝だけではなかったのかもしれない。

森茉莉のエッセイに戻ると、おかしいのは、軽井沢への車中で、隣に座っていたアメリカ人から、宗教の勧誘らしきものを二人が受けたことだ。たてつづけに喋る森茉莉と、彼女を「背負(しよ)つて旅行する重荷で眼を眼鏡と一しよに四角にしてゐる」萩原葉子を横目で見ていたアメリカ人のお爺さんが「神の家にお出でなさい」と書いたパンフレットを渡したらしいのである。
こんなエピソードさえ、その状況を想像すると妙におかしく、また映像もクリアに浮んでくる。
そうえいば、森茉莉と萩原葉子のツーショット写真がどこかにあるはずなんだけどな。私の記憶が正しければ、森茉莉はノースリーブのセーターを着ていた。もしかするとその写真は軽井沢で撮られたものかもしれない。だが、今の私には、探す気力も時間もない。





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August 31, 2007

境界の天使

下鴨神社の納涼古本市で購入した雑誌をパラパラ読んでいたら、その中の一冊の中に、思いがけず森茉莉のエッセイを発見した。この古本市で私は何冊もの雑誌を購入したのだが、それらはジャケ買いしたもの、森茉莉のエッセイ、あるいは関連した記事が掲載されているという理由で購入したものがあるのだが、発見したエッセイが掲載されている『三彩』という美術雑誌は、ただ何となく買ったもの。わずか二週間前のことなのだが、どういう理由でこの雑誌を買ったのかな、ちゃんと思い出せない。まさか、森茉莉さんに呼ばれたわけでもあるまい。
それはともかく、このエッセイ、全集未収録のもので、私としても初めて読んだ。「再会した裸の女たち」というタイトルで、モジリアニ展のことを書いたものである。エッセイそのものも非常に面白かったが、私はこれを読んで、長年の胸のつかえがおりた。
人には、どうして好きなのか、あるいは、どうして好きじゃないのか、をうまく説明できないものがあり、時があると思う。あるいは、説明はできても、相手にその実感が伝わらないこともある。それは、個人の生理的なもの、本能に関係する事柄だったりするからだろう。
例えば、私は食べ物としての魚は好きだが、生魚を連想させるような生臭さ感のあるものが苦手だ。だが、それは私の主観なので、うまく説明が出来ず、たとえ説明できたところで怪訝な表情をされてしまうことも多い。
「あの女優さんの魚みたいな生臭ささが好きじゃないのよ」
「?????・・・・・!!! 」
てな感じである。「この感じわかる?」そう尋ねて、「うん、わかる、わかる、つまり、こういう感じってことでしょ?」、こんな風に、あうんの呼吸で理解してもらえることは稀である。
胸のつかえがおりたというのは、このエッセイが、何故モジリアニの絵が好きになれないのか、その理由をうまく言葉に出来ないでいた私に、クリアーな答えを与えてくれたからである。
森茉莉はこう書いている。
「モジリアニの生々しさはあまりにも生(なま)である。山葵のない鯛のお刺身、辛子のない初鰹のお刺身、葱や辛子のない鰹や鯵のたたきのようだ」
これはモジリアニの、ことに裸の絵に関しての一文なので、モジリアニの描く女性の顔そのものに生(なま)を感じる(カラーの絵や素描はそうでもないのだが)私とは少し視線が違うのだが、そうか、こういう理由で私はモジリアニの描く女性の顔が好きになれなかったのだと、納得した。しかも、このたとえが実にいい。山葵のない鯛のお刺身、辛子のない初鰹のお刺身とは!  うん、そうそう、そうなの、そんな感じ、と膝を打った。他人から、自分自身で説明がつかない思いのその理由を教わるというのも妙な話だが、これは私の実感である。

モジリアニ名作展に出かけ、「ああ、やっぱり嫌いだ」と思った森茉莉だったが、会場でひとつの幸福に出会う。それは、モジリアニによるギョーム・アポリネエルの素描が展示されていたことだった。アポリネエルは森茉莉が憧れていた人物だった。
この素描をみた森茉莉は、「他人に親切をすればいい報いがあるというのは本当だ」と思ったようだ。親切というのは、『甘い蜜の部屋』の執筆に苦しむ日々であり、しかも書かなければならないエッセイがあれこれあったにもかかわらず、『三彩』編集部からの執筆依頼を受け、展覧会の会場まで足を運んだことをさすのだろうと思われる。
「頼まれて、書きますと答えることが親切をしたことになるような作家ではないのであるが、小説が一年三ヶ月も書けず、そこへ、私らしくなく随筆がたてこんでいて、電話があった時苦悩の最中だったので、親切をしたような気持ちでいたのである」
そしてまた、このエッセイには、モジリアニ展の会場に集まっている人々についてのこんなお馴染みの毒舌もあり、胸がスカッとした。
「大体においていつも通りの人々が集まっていた。モンタンが来たり、ヴィナスが来たり、ミロ展があったりする時来るのと同じ人が来た、ということである。《 私たちは西武へ来てお茶碗やスリッパを買って帰るだけではなくて、モジリアニ展を見に来る人種ですよ》という顔をしている人々なのだ」
ああ、やっぱり好きだな。森茉莉の書くもの、森茉莉の表現方法。
そう言えば、どうして森茉莉の世界が好きなのか、その理由の一つを笙野頼子さんの言葉で知ったことがある。それは、「境界の天使」という言葉である。
森茉莉には紙一重の世界を見事に渡りきる才能があった。だから、微妙な匙加減で別の側に落ちてしまう可能性のある塀を彼女はいつも見事に渡り切っている、そのすごさ、見事さ。森茉莉の視線は決してずれないのだ。実に気持ちがいい。





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August 29, 2007

手紙で伝える森茉莉─『森茉莉かぶれ』

私の中でなかなか醗酵がすすまず、遅れに遅れていた森茉莉本『森茉莉かぶれ』がやっと手を離れ、9月25日の発売が決まった。4月に脱稿したものの、写真使用に関して、資料整理、校正等に思いのほか時間がかかってしまった。四六版、272ページ、定価は1800円である。
森茉莉という作家を伝えるためにどのような方法がいいだろうかと考えた末、手紙形式で伝えようということになった。これが決まったのは、もう3年、いや4年くらい前だと思う。ところがそこからの道のりが長かった。幾度も挫折してしまうという根性なしの私だった。
内容としては、春・夏・秋・冬、京都から、カフェから、巴里から、東京から、森茉莉さんに宛てた48通の手紙で構成した。
本当は『サプライズ』の森茉莉特集号も付録として掲載したかったのだが、サプライズの記事はそのままで一冊になってしまいそうなボリュームだったので、基本的に掲載を見送った。その代わりに、オリジナルの年譜を作り、収録した。はっきりとは覚えていないのだが、年譜だけでも20ページ近くになったのではないだろうか。
写真資料も出来る限り掲載したかったので、数十点掲載した。森茉莉ファンにはお馴染みの写真も多いが、初掲載の写真もある。風月堂で撮られたものらしく、同じ日に撮られたと思われるお馴染みの写真とは微妙に違う写真である。こうした写真類は、次男の故・山田亨さんからいただいたものである。
また、『芸術新潮』に掲載された「伊太利貴族の部屋の気分」の写真も収録した。若き日の矢田部達郎の写真を掲載したかったのだが、こちらはあきらめ、京都大学退官の日のものを収録した。私としては、矢田部達郎を素通り出来なかったのだ。

いちばん頭を悩ませたのは、どのあたりにものさしを置いて書くかということだった。森茉莉を知らない人に読んでもらえるように、でも、森茉莉ファンにとっても何かしら興味をそそるものであるように、そして、かなりディープな森茉莉ファンにとっても・・・そう考えると、実際の森茉莉ファン、潜在的な森茉莉ファンというのは実に間口が広く、またその奥行きもある。結局、この点についてはある種開き直り、私にとっての森茉莉を書くということに集中したつもりである。
『森茉莉かぶれ』については、『サプライズ』の時代からの雑誌の購読者の方々に真っ先にお伝えしたいと思い、8月初旬に発行した『すみれノオト』のあとがきで告知させていただいた。


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