光をめざして

社会や身の回りにおこったこと、その他もろもろの出来事について折にふれて感じたことを投稿します。

2008年10月

東電火力銚子進出計画の経緯をふりかえって!

1970年(昭和45年)の1月の銚子市議会で、当時の島田市長から「東電火力立地調査の件」という提案がなされた。
この提案を通して東京電力の巨大発電所を名洗の埋立地に立地しようという火力誘致計画が突然市民の前に公表された。
当時の市民にとっては降ってわいたような話であり、驚きは隠せなかった。
そして議会はといえば、共産党の根本市議以外はすべてこの立地計画に賛意を示しており、銚子市議会はさしずめ火力翼賛市議会と化していた。

銚子市民の間では、まず共産党市委員会が反対の声を上げたのをかわきりに、地元の名洗や外川の漁民がシラウオ漁はガタ落ちし、沿岸漁業は大打撃を被るとして反対の動きに立ち上がりはじめる。
また、銚子漁協も「火力は百害あって一利なし」と反対を決議した。
このような自然発生的な市民各層の動きの中で、聖公会神父松本文氏らの呼びかけに応じた33人の市民有志が、公害から市民の命と郷土の自然を守るために東電火力誘致には反対するという一点で結集し、「公害から市民を守る会」を立ち上げたのである。
また、この「守る会」には元代議士の仲内憲治氏や元県会議長の佐藤信平氏などといった“保守系”の人士がふくまれていた。
こうして市民の間で急速に東電火力進出反対運動は本格化し、この年の夏にわずか半年間で計画を白紙撤回させるにいたったのであるが、その詳細についてはここでは省くこととする。

さて、それではなぜ、この時期に銚子の名洗の埋立地に東電火力進出の計画が持ち上がったのか、その経緯を振り返ってみたい。
まず東電側の事情であるが、一口に言えば、すさまじい高度成長により電力需給の見通しが狂ってしまったことにあり、儲けを増やし高度成長しようとする大企業の電力需要に東電側が追いついていけないというせっぱ詰まった事情が存在した。
これが当時、巷間に流布していた「電力危機」の実態であり、当時の首相みずから「電気は欲しいが発電所はいやだというのは地域エゴだ」とぶちあげて国益的電力危機論をふりかざし、NHKなどの報道機関も動員して一大キャンペーンをおこなっていた。
だが、この「危機」は大資本にとっての危機に他ならず、国民の立場から見れば大資本中心の高度成長政策を改めて大企業の電力使用を制限し、一般家庭と比較して格安な料金格差を是正すれば解決が可能なことであった。

また銚子市の側にも、地域開発の流れに乗り遅れまいとして、食品コンビナートができるだろうという安易な見通しで手がけた名洗の10万坪埋め立て事業の破綻という事情があった。
1965年(昭和40年)に始まったこの事業であったが、70年の時点でも名洗の埋立地に進出してくる企業は依然として現われず、10億円の負債を抱え込んだままピンチに追い込まれた島田市政は、東電火力の誘致話にすがるようにして飛びつくしかなかったのである。

ところで、この東電火力誘致計画の概要であるが、その規模たるや出力520万キロワットが計画されていた。
これは当時における日本国内の使用電力量の4分の1に相当し、当時にあって世界最大といわれた横須賀火力発電所の出力263万キロワットの約2倍の規模にも匹敵するものであった。

また、発電に使用する燃料は重油であり、1日の消費量が約2万トンと想定されていた。
当時の日本最大の公害地帯であった尼ケ崎でも1日に使う重油は全工場合計で5千トンにすぎず、「四日市喘息」で有名な四日市の場合でも全工場合計で1万トンであり、横浜・川崎・鶴見地区では1万7千トンであった。
このことは火力発電所の一本の煙突から、これらの公害地帯を上回る有毒ガスが吹き出ることを意味していた。
さらに、発電機器を冷やす冷却水として1日あたり約2千万トンの海水が使用されることになっていた。
だが、いったん冷却水としてくみ上げられた海水はもとの水温より6〜7度高い高温水となって海に放出されるのであり、夏にはお風呂のお湯のような高温になって放出されるのである。
この高温の冷却排水の量は利根川の一日分の流水量にさえ匹敵し、これが温水塊となり銚子の沿岸の生態系と漁場に壊滅的な打撃を与えることが想定された。

当時、市長はじめ市の幹部や地区労の議長などの火力推進派が連れ立って長崎に出向いたが、これは模型を使った風洞実験なるものに立ち会うためであり、推進派は帰銚後に「火力に公害なし」という大宣伝を開始したのである。
しかし、この風洞実験を主催し、さらに銚子にも出向いて火力無公害の講演をおこなった筌口(うえくち)なる「学者先生」は、週刊誌などで「電力会社のツケで夜の銀座でひと月に250万円の豪遊をする“ツワモノ”」としてすっぱ抜かれた人物でもあった。
また、市のカネでバスを出し、主だった市内の団体の代表を東電のショーウインドといわれた姉ヶ崎の火力発電所に連れて行って東電側の宣伝を聞かせ、さらに熱海旅行にまでご招待したのもこの時期の出来事である。

東電当局と市当局が総力を挙げておこなったこれらの「火力無公害キャンペーン」は、到底科学的な検証に耐えるシロモノではなかったのである。

岡野市長リコールは機が熟したこと!

去る10月23日(木)に「岡野市長リコール決起集会」が市民センターで開催された。
岡野市長のリコールを求める「何とかしよう銚子市政」市民の会の呼びかけで開かれたもので、当日の会場は超満員で市民センターホールに入りきれなかった市民が隣のロビーにまであふれ出すほどの盛況ぶりだったという。
また、市民の会では選挙管理委員会に登録して署名を集める「受任者」の募集をすすめているが、この決起集会で受任者が800人を超えたことが報告されていた。会場に結集した市民の数やその熱気から考えて、この集会は銚子における近年の政治集会には見られないような成功を収めたと思う。

義理や地縁・血縁で駆りだしたり、労働組合や宗教団体などが組織的動員をかけたりしない、市民の自発的参加による政治集会の成立は、シラケムードの蔓延する最近の銚子市ではきわめて困難であった。
しかし、短期間でさしたる組織的準備もなしに、この決起集会が成功したこと自体が、現市長による公約違反の市立病院の閉鎖にたいする市民の怒りがいかに深刻なものであるかを物語っていると思う。
また、受任者の募集を開始したのが10月の15日であったという。
そこから起算してわずか8日間で800人の受任者が募集に応じたということは、市民のこの市立病院の閉鎖にかかわる問題に関する怒りの深さを示しているものといえよう。

私も個人的に10人あまりの方々に受任者になっていただくようにお願いしたが、ただ1人を除いて受任者になることへの拒絶反応は思いのほか大きかった。

「息子が市役所の職員をしている。人質をとられているのと同じだ。市長リコールには大賛成だが受任者は勘弁してほしい」といって丁重に断ってきた方がおられた。・・・・・

「商売をやっているものにとっては政治と宗教の話はタブーだ。市長解任には個人的には賛成だが受任者はできない」、「親戚に賛成派の市会議員がおり無理だ」、「市役所から仕事をもらっている。市長解任の署名簿には自分の名前は書けないが市長解任自体は大賛成だ」、「自分は障害者で市の福祉課のお世話になっている。市長リコールの署名は自分の立場を考えるとできないが趣旨には賛成だ」、「町内会長が市長と親戚だから署名は遠慮せざるを得ない」。・・・・・・

このように行政と市民生活の様々な局面とが関係しあい、行政とのかかわりや行政からの支援なしには日々の生活の営みができない市民層が増大しているもとでの市長リコール署名は最初から困難がつきまとう。
また、地域の支配のネットワークの末端に位置する「有力者」による、昔からの地縁や血縁をとおした近隣住民への支配と監視は抜きがたいものが存在していることも事実である。
そして、署名簿の縦覧がおこなわれる以上、市長に近い人物が署名簿をチェックし、名前を書きとめ、本人に署名をする意思が本当にあったかどうか「確認」をおこなうことも考えなくてはならない。

このような地域社会をめぐる状況が存在するもとでは、リコールに必要な銚子市内の有権者の三分の一(約2万5千名分)の署名を集めることは困難さがともなうものであることは否定できない。
これがリアルに考えた場合の妥当な結論であろう。

しかし、結果がリコール成立に必要な目標数字を達成できるか否かはやってみなければわからないし、また不幸にも目標数字に到達できなくてもそれが無意味になるものと考えるべきではない。
住民運動は結果にたいしてオール・オア・ナッシングでは断じてない。

リコール署名となって現われた市民の「見える意思」の背後には、地域社会の複雑に入り組んだ支配のネットワークにからめとられて声を上げることのできない「サイレント・マジョリティ」(声無き多数派)が抜きがたく実在している。
たとえ、法的にリコールが成立せずとも、政治的には大きなインパクトを岡野市長を頂点とした地域の支配のネットワークにあたえることは避けられないし、このネットワークに大きな綻びを作り出すことは間違いない。
再来年には再び市長選挙もある。

いまが、リコール署名に踏み出す時であり。機は熟したといえよう。

「名洗重要港湾化」構想について(その2)

名洗「重要港湾化」構想に関し、1972年(昭和47年)の3月の銚子市議会で当時の島田市長は施政方針にて以下のようにコメントをしている。

「名洗港につきましては、東太平洋時代における重大な拠点として・・・・・・千葉県太平洋岸唯一の地方港湾、地域開発の拠点となる大流通港として発展させなければならないもので・・・・・・・本市産業経済力に新しい要素を加える・・・・・・・十分検討して、拙速主義はとらない所存であります。」

このように当時の島田市長と名洗開発推進派は名洗の埋め立て地を大流通港にして、開発の一大戦略拠点にしようという構想をいだいていたようである。
さて、仮にこの名洗港重要港湾化構想が島田隆氏や開発推進派の人々の言うように地域経済に大きなメリットをもたらし、地域経済の活性化に大きく貢献するものであったとしても、どうして流通港は名洗でなければならないのか、開発推進派の側には合理的な根拠がないのである。

ここで思い起こしていただきたいことは、銚子漁港がその当時にあっても第五次漁港整備計画が進行中であり、その巨大さは全国的にも指折りのレベルに達していたことである。
現在、銚子漁港を一望できる場所に立って拡張工事中の漁港を一望したらその巨大さに驚くであろう。

重要港湾と流通港が本当に銚子にとって必要であるという開発推進派の人たちの主張が正しいと仮定しても、その港の場所が名洗である必然性はまったくなかった。
漁業界の同意が得られるならば、拡張工事中の銚子漁港を水産加工団地や原材料を積んだ外国船の入港に耐えられる重要港湾に指定できたはずである。

本来、港湾は漁港および商港の二つの機能を兼ね備えることになる場合が多い。
その利用形態からして、漁港と商港のいずれかに分類することが不適切な場合は漁港法と港湾法の両方を適用し、所轄する行政庁間の調整を図っているケースが全国にはいくつも存在している。
代表的な例として八戸港や釜石港、石巻港、舞鶴港、長崎港などがあり、当時の時点でも全国の11の大漁港が同時に重要港湾として「二重指定」されていた。

当時、県などは銚子漁港の海底が硬いことからその浚渫には多大なコストを見込んでいたというが、わざわざ名洗港建設に数百億円をかけ、おまけに銚子市がそのために最低でも五十億円以上の地元負担をする必要性などさらさらなく、銚子漁港を一万トン級の船舶が入港できるように整備しなおしたほうがはるかに安く、銚子市の負担も少なくてすんだはずである。

銚子漁港を「二重指定方式」によって重要港湾にできれば、なによりも国民の血税を使った道理のない二重投資というムダ遣いを避ける賢明な選択肢となりえたであろう。
だが、ここで小生は、当時の島田隆氏や開発推進派のように重要港湾に賛成すべきであったとか、「二重指定方式」で銚子漁港の重要港湾化をすべきであったと主張しているのではない。

重要港湾が当時の銚子にとって必要だったと今でも考える人々にたいして、その名洗港建設にあくまでも固執した考え方の道理のなさを指摘し、国や県や市の財政負担が少なく、資源のムダ遣いをもはぶけるこのような合理的なやり方があったのだということを指摘したいのである。
そして、この「二重指定方式」によりさえすれば、川口から屏風ヶ浦にわたる銚子の海岸線全体の半分近くを埋め立てし、銚子の海岸の貴重な景観を破壊しなくても流通港を整備することができたことを指摘したいのだ。

また、当時にあって「重要港湾化」構想は名洗港建設以外の選択肢もありえたのであり、どうして市民に対して十分な情報公開をおこない市民合意をえようとせずに、性急に名洗港開発を推し進めようとしたのかを改めて問い返ししたいのである。
(まさか、その理由が名洗開発をめぐる利権であったわけではなかろう)

ましてや、1971年(昭和46年)の暮れに銚子市が「市民意識調査」を実施しており、その結果74%の市民が「開発」には“反対”ないし“慎重”にという世論調査の結果がでていたのである。
これはいたずらに公害をもたらし、環境を破壊するだけの企業と一部の関係者のもうけのための「開発」はやめるべきだという時代の流れを反映したものであった。

「名洗重要港湾化」構想について

名洗重要港湾化構想は1973年(昭和48年)にはじめて県と市により発表され、74年(昭和49年)の市長選においては7選をめざす島田隆氏がその公約の目玉とした。

その中身は名洗港に一万トンフェリーが接岸可能となる水深10メートルの岸壁・埠頭・航路等を整備し、掘削した捨て場のない浚渫土砂およそ355万立方メートルによって約27万坪の埋め立てをおこなうというものであった。
また、その埋め立て費用は埋立地を観光会社に売却することで賄うこととし、観光会社の側はヨットハーバーなど都会人のためのレジャー施設をつくる計画であったという。

そして、この構想自体は「日本列島改造計画」の一環として運輸省が海陸一貫輸送体制づくりのための「流通港湾」の候補地を物色していたなかで、銚子に白羽の矢が立ったところから持ち上がったといわれている。

だが、「日本列島改造計画」そのものが74年の石油危機による高度成長の終焉と世界不況にともない破綻したこともあり、名洗重要港湾化構想は石油ショック後の総需要抑制政策(公共事業抑制)という流れの中で見送りという結果になってしまった。
また、「名洗重要港湾化」計画がもたらす公害による漁業被害を懸念した地元銚子の4漁協あげての国や県への反対陳情というインパクトもこの背景として作用している。
だが、見送りという結果そのものは当時の日本の経済・財政状況を考えれば、時代の流れのおもむくところであっただろう。

当時、市の広報などでこの「重要港湾化」構想が、あたかも「バラ色」の未来をもたらすもののように描かれたが、「詳しくはわからんがなんとなくよさそう」というレベルの議論であり、市が責任を持ってこの巨大開発にともなうメリットとデメリットを厳密に試算し、そのプラス面もマイナス面もふくめて広く情報の公開をしたうえで、市民の合意を得ておこなうという民主的プロセスが欠けていた。

また、大規模な海底の掘削は陸上でと同様に大きな自然破壊であり、海の生態系を破壊し、稚魚の成育場である名洗の海を破壊することが予想された。
さらに名洗から旧有料道路の料金上付近までの埋め立て・港湾施設・後背地造成などにより、屏風ヶ浦のすばらしい景観はうしなわれ、川口から名洗にいたる銚子の海岸は巨大な銚子漁港外港計画などをふくめると、そのほぼ半分がコンクリートで固められてしまうことも想定された。

また、1965年(昭和40年)から食品コンビナート建設をうたい文句にはじまった名洗の10万坪埋め立て事業が、進出する企業があらわれずに、結局は東電火力誘致でそのツケを穴埋めせざるを得なくなったと同様に、「名洗重要港湾化」計画も巨大公害源東電火力の再誘致へと道を開きかねないものであった。

くわえて、この計画にともなう銚子市の負担は50億円という巨額が見込まれたが、当時、銚子市内の高校進学率が70%のレベルにあり、全国平均の90%を大きく下回るという受験地獄の解消が急がれたことなど、市民福祉の向上のためには優先すべき課題が山済みの状態にあった。

さて、2000年代という視座にたち、この「名洗重要港湾化」計画という問題を再考してみたい。
現在の国・地方の財政状態はパンク寸前の借金財政であるが、この借金財政の巨大な元凶の一つがゼネコン型の公共工事のムダ遣いであり、一時期は国と地方合わせて年間50兆円にのぼる驚くべきムダ遣いがおこなわれていた。
そして、そのムダ遣いの最たるものが「港湾整備事業」であった。

重要港湾「福井港」は水深10メートルの埠頭整備などをはじめ、およそ470億円が投じられたにもかかわらず、1994年の時点で一万トン級の大型船の入港は年間でわずか8隻にすぎなかったことから、同港には「百億円の釣り堀」という通称がついた。
船が停泊しておらず、防波堤に囲まれた穏やかな港内はアジやカマス、ヒラメなどの絶好の釣りポイントになっていることからこの通称がついたという。
このように重要港湾「福井港」はムダな巨大公共工事の典型であった。

また、重要港湾「鳥取港」もアジやウルメイワシが釣れる“名所”となっており早朝からつりキチが絶えないが、累積事業費は400億円を超え、1995年の年間貨物取扱量はわずか16万トンであり、計画取扱量の1割にも達していない。
(*福井港や鳥取港のデータは少し古いが今でも基本的には「釣り堀状態」であろう)

また、ひたちなか市と東海村にまたがる海岸を埋め立てて北・中央・南の三つの巨大埠頭を建設するのが重要港湾「ひたちなか港」だが、総事業費は7300億円のところ、すでに3500億円が投入されている。
しかし、1999年に完成した北埠頭は入港する船が一日2隻程度であり、取扱貨物量も計画量の35%にとどまっている状態だ。
それさえも入港する船の少なさを見かねた隣の日立港から定期便を回してもらってのものだという。
だが、それにもかかわらずに「コンテナ船の需要が見込まれる」として3000億円以上を投入する中央埠頭工事が開始されることとなっている。
ムダなゼネコン型公共工事はムダがムダを呼び、ボタンのかけ違いが際限なく続く構造になっているようである。

「名洗重要港湾化」というゼネコン型公共工事は当初の計画では150億円と積算されたが、ゼネコン型公共工事は事業が始まると予算は水増しされるのが通例であり、「設計変更」を繰り返し当初予算の2倍、3倍に膨れ上がった可能性を否定できない。
その結果、銚子市においても「百億円の釣り堀」が現出した可能性は限りなく大きなものとなったであろうし、巨大な地元負担というツケが際限なくついてまわっていたであろう。

銚子市のヤミ給与のその後(ヤミ給与裁判について)

ヤミ給与問題が表面化した翌月の1979年の7月に市民有志が前市長と市議会議長および市役所幹部ら13名を告発し、同時に市の監査委員あてにヤミ給与の監査請求を提出した。
だが、示された監査結果は曖昧なものであり、マスコミなどではその「甘さ」への批判があいついだ。

そこで、市民有志は千葉地裁に嶋田前市長を相手取り、時効にならない分のヤミ給与支給額相当分の5億4千万円の損害賠償を求める民事訴訟をおこしたのである。
また、市議会では共産党の議員団がヤミ給与を違法として前市長の責任を追求した以外は、議会各派のこの問題にたいする反応はきわめて鈍く、翌年3月の市議会では「ヤミ給与をふくむ年度決算」を追認してしまった。
この市議会の振舞いは行政の誤りを正すべき議会の責任の放棄でもあった。

また、前市長にたいする5億4千万円の損害賠償を求めた訴訟は45回の公判を重ねながら7年半の歳月を費やすこととなった。
この間に、前市長をはじめとした被告側は賠償額の5億4千万の積算根拠を示すことを原告の市民有志に要求し続けたが、積算根拠の“立証”は市民の手に余るものであり、裁判は難航を重ねた。
また、前市長サイドはダンマリ作戦を決め込み、裁判長が証拠書類の提出を求めてもいっさい拒否の態度を貫いたが、この被告側のダンマリ作戦に業を煮やした裁判長が「元市長さんが知らぬ存ぜぬでは問題ではないか」とたしなめる一幕もあったという。

そして、この裁判は1987年になってようやく下記の裁判長和解調停案が示される。
「1、被告は本件条例外支給(ヤミ給与のこと)は違法と認め、遺憾の意を表する。
2、被告は原告に和解金100万円を支払う」


この時点ではすでに市長も大内氏から佐藤氏に代わり、市職員の「昇給延伸」(昇給の据え置き)によってヤミ給与“返還”の問題は決着していた。
それゆえ、嶋田隆氏もポケットマネーから100万円を捻出し「これでケリがつくなら、面倒が消えるのでまあいいじゃないのと思って支払いに応じた」という。
だが、嶋田隆氏本人の口から銚子市民への侘びの言葉はついに一言も発せられなかった。

そして、“被告”の肩書きの取れた嶋田隆氏は、それを待ち受けていたかのように「自治功労叙勲」をうけ盛大にそれを祝ったという。

銚子市の「ヤミ給与」事件とは何だったのか!

1978年の市長選挙で嶋田隆氏は8選をめざし、8選をめざす現職市長を地区労・社会党・市職労がいちはやく支持推薦を決めた。
27年7期の嶋田市政の後半は市議会の圧倒的多数派との馴れ合い・癒着が公然化していた。
もともと嶋田隆氏は自民党の支持推薦を受ける保守の立場の人であったが、市議会の自民党や保守系の議員にととまらず、民社・公明から社会党・地区労等のいわゆる「革新」と目された人々までがオール与党化し島田氏の支配体制を支えた。

政党議員は自らの議席をいかに維持するかに関心が集中する。
そして、そのためには選挙資金の確保が必要であり、支持基盤である団体や地域での票確保が必要となるが、議員の立場を考えるとこれらのことは一概に否定はできない。

しかし、問題は「革新」と目された議員たちまでが、嶋田氏からの利権提供に自らすすんでのめり込んでいったことだ。
彼らは団体・地域に補助金や土木工事等の利益を誘導し集票のテコにするために嶋田氏の代弁者となり、当局と癒着を深めるほうが得策と考え、次第にそのような行動をとりはじめる。

その象徴的出来事が地区労選出の当時の市議会議長の行動であった。
市長のご意見番を自認し、議会から推薦された市の監査委員として、本来はヤミ給与を監視するべき立場にありながら、むしろこれを奨励した。
そして、ヤミ給与発覚時には「おれは知っていたが、やむおえない措置として違法は承知ですすめた」と公言したという。

このようにオール与党化した市議会に支えられ、かつ市内600団体の支持を取り付けた嶋田氏だったが、78年の市長選挙では新人の大内恭平氏が700票という僅差ながら嶋田氏をやぶり、市政私物化の開発優先・反住民的な8選体制は市民の審判の前に崩れさった。

さて、長期の嶋田支配体制の残した最大の“ウミ”ともいうべきヤミ給与問題は1979年(昭和54年)の6月に発覚する。
市職員組合や地区労推薦の市議会議長などが前市長時代の慣行として継続支給を大内新市長に迫り、驚いた大内氏が県や自治省に相談して拒否回答をしたところからこの問題が表面化する。

これを朝日新聞が全国版トップでスクープした。
「8億円越すヤミ給与。銚子市、親にも話すなと前市長時代、市長選前後に急増、時間外名目で一律。千葉県が調査開始」という記事だ。


まず、前嶋田市長が「違法とは思わぬ。職員の生活を守る便法だ」と開き直った。
また、市職労幹部やこれと一体の地区労・同盟や地区社会党、および市職労を支援する自治労や社会党の国会議員などが「これは正当な労使交渉で勝ち取った生活給であり非は条例化しなかった理事者側にあり」と主張した。

だが、銚子市のヤミ給与は「正当な労使交渉の結果」などと呼べるものではなく、ヤミ給与が市長選前後に管理職を中心に集中豪雨的にばらまかれたことからも、実態は市職労が組織ぐるみ集票マシーンとして身売りしたことにたいする代償措置であり、市民の税金による選挙買収であった。

また、自治労や社会党などの言うように銚子市のヤミ給与が「正当な労使交渉の結果」であるとすれば、首長の選挙に協力してその見返りに住民の血税を取り引きすることが正当な労働運動であるということになる。
この問題は当時の「革新」と呼ばれる人たちのモラルを厳しく問うものであった。

そして、ヤミ給与問題を利用して住民の反感を煽り、住民と自治体労働者の連帯を破壊することで自治体労働者の生活と権利を押さえ込み、地方自治体の自治権までも押さえこむために反動勢力はこの銚子市のヤミ給与問題をフルに利用した。
だが、当時の自治労などがヤミ給与を「労使交渉の成果」として合理化したことは住民や国民の信頼を失いこの攻撃を勢いづける。

このあとに続く労働運動の衰退・社会党の長期低落傾向や社会党そのものの消滅もこの時点で必然化したといえよう。

それゆえ、この時点で自治労は自治体の財政の実態に基づき、道理ある要求を道理ある方法で、住民の理解と支援の元で正々堂々と獲得するという自治体労働運動の王道を想起して初心に立ち返るべきであった。

この銚子市のヤミ給与事件での地方公務員の労働運動に対する住民の信頼の喪失という代償は大きくそれが今日にも尾を引いている。

嶋田元銚子市長の市政私物化体制と「ヤミ給与」

銚子市長の座に27年7期の長きにわたって“君臨”した嶋田隆氏
島田隆氏は1951年(昭和26年)の市長選挙で初当選したのであるが、それまでの加瀬道之助市長が戦時中の衆議院選挙(翼賛選挙)時の選挙広報に「英米撃滅、八紘一宇の使命遂行」という主張を載せるほどの政見の持ち主であった。

いわば、加瀬氏は戦時中の守旧派保守勢力を代表する人物であり、また収入役をおかずに息子を起用した人事の私物化や「ヤミ石鹸販売問題」などで市民の批判が絶えない市長でもあった。
ゆえに、この時点において加瀬氏は広範な市民各層や地元経済界、ならびに市議会の多数派などから見放される必然性をもっていたと言えよう。

そこへ登場したのが医師の嶋田隆氏であり、守旧派の加瀬前市政とくらべてより広範な市民的基盤に支えられてスタートした初期の嶋田市政は新しさを持ち、“文化人的”で“進歩的”なポーズは文化行政や福祉の面で一定の業績をあげた。
しかし、4期目(昭和40年頃)から次第に、時の高度経済成長に便乗した開発志向を示すようになり、ずさんな30ヘクタールの名洗港埋め立て事業の着工を開始したのもこの頃であった。
(この名洗港埋め立て事業の失敗のツケが東電火力の強引な誘致という形であらわれたのであったが・・・)

嶋田市政化で急速に進んだ市政私物化の実態!
また、この頃に市政私物化体制も急速にすすんだ。
市長の許認可権、補助金給付、道路などの公共事業からはじまって、役所の事務用品の発注、接待用の茶菓などの発注、市職員採用や人事などあらゆるものが“利権”の対象とされ、市議会の多数派の議員、特定業者、有力者、市役所幹部などが市長を頂点とする「ぐるみ癒着体制」のなかに組み込まれた。

そして、こうして構築された市政私物化体制のなかでも市役所・市職員労組はその重要な構成要素であった。
とくに市役所の人事政策は露骨であり情実・縁故採用が幅を利かせる。
また「私は定年にいたるまで・・・・・で忠実に働きます」との誓約書を取って市の外部施設に入れ、数年後にこっそりと本庁に配置換えをするという外部施設トンネル方式もとられた。

このために、ヤミ給与発覚(1979年)の時点での800人前後の本庁職員のうち、「嶋田さんに入れてもらったから」と“嶋田党”を自認するものが200人を超え、親子の職員30組、兄弟の職員70組、夫婦の職員80組など全職員の3分の1が血縁関係という“嶋田ファミリー”が市役所内に存在したという。
ちなみに嶋田市政末期の市職員組合のH委員長は元の水道事業管理者の婿であり、その次のK委員長は元の助役の弟である。

嶋田市長の選挙集票マシーン化していた当時の市職労!
このような体制の下で銚子市役所の職員組合は組合とは名ばかりの「御用組合」となった。
組合役員は「管理職推薦」が条件であり正規の役員選挙はおこなわれず、「自治労には入らない。理事者の批判はしない」という条件で大過なく“勤めた”役員は、市当局のおぼえめでたく管理職に登用されるという“出世コース”まで存在した。

特に嶋田市政の7期目および8期目の頃に組合は率先して嶋田隆氏を支持決定し、嶋田隆後援会協力者カードを組合員に割り当てて一人ひとりを集票に走らせたという。
嶋田陣営ではそのためもあって市内の有権者6万8千人のところ、協力者カードを8万5千人分集めたという笑い話まで生まれたらしい。

いってみれば市役所は組合ぐるみで嶋田隆氏の集票マシーンとして強力に機能したのである。

市役所ぐるみの選挙買収の対価としての”ヤミ給与”!
注目すべきことは嶋田市政末期の市長選挙の前後に“ヤミ給与”は集中的にばらまかれていることである。

1974年の市長選挙の際には選挙を前後してなんと15回、金額にして5億円ほどがヤミ支給されたという。
また、このヤミ支給の名目は実働のないカラ残業手当や勤勉手当等であった。
そのうえ、このヤミ給与は市長ら市三役のお手盛り勤勉手当をはじめ、管理職に厚く下級職製の職員には薄くばらまかれており、管理職分のヤミ給与だけで全体の7割を占めた。

このようにヤミ給与の実態は嶋田隆氏の選挙に市役所の職員組合が組織ぐるみ身売りしていたことにたいする恩賞的給付であり、市民の税金を使った市職員丸ごとの選挙買収行為であった。
これが“ヤミ給与”の本質である。


イエスとシャカの違い(仏教とキリスト教) 4

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シャカと主イエスの違いのひとつとして、シャカは死に、主イエスは今も生きておられるということにあります

あの偉大なシャカにも死ぬ日がやってきました。
シャカはその日に激しい下痢を起こし、食中毒によって死んでしまいました。彼の弟子たちは葬儀をおこない、シャカの遺体を火葬にして、その骨を分け合おうとしました。
ところが、そのとき八つの部族がシャカの骨を要求し、骨の奪い合いがおこりました。この争いは武力抗争にまで発展しましたが、その後、ドローナという人が調停にはいり「争ったりしないで、仲良く分け合おう」といって、シャカの骨は八つの部族に分けられることになりました。
その結果、八箇所に仏舎利塔が建てられ、そこに安置されるようになったのであります。
舎利とは骨のことであり、仏舎利とはシャカの骨という意味であります。仏舎利塔は日本各地にもたくさんありますが、仏教では死者を拝んでいるのであります。

けれども、イエスの場合はそうではありません。弟子たちはイエスの骨を奪い合う必要などなかったのであります。
イエスは復活されたからであります。そして、復活後も40日にわたって弟子たちと共にいて、指導してくださり、そして天に昇っていかれました。イエスは今も生きてはたらいておられます。
初代教会たちのクリスチャンたちがローマ帝国の激しい迫害に対して、いかに勇敢であったかは有名です。
彼らが殉教も恐れずに伝道をすすめることができたのは、イエスが共におられたからであります。あなたもイエスが今も生きておられる事を知ることができるでしょう。

十九世紀末にインド人でサンダー・シングという人がおりました。
彼は小さい頃から霊的に敏感で真の神を求め、七歳のころまでにヒンドゥー教の聖典を全部暗唱するほどであり、十五歳の頃にはイスラム教の聖典コーラン、インドの聖典ウパニシャッド。ヴェーダ、シャーストラ、仏典などをすべて読破していました。彼は死とはなんなのか、来世とは何なのか、永遠の幸福とは何なのか切実に追い求めました。
そして、ヨーガを極め、サマーディ(瞑想三昧)にはいる術も会得し、彼の神にたいする追及は本格的なものになっていきました。
やがてミッション・スクールに入学した彼はキリスト教に触れる機会を得ましたが、シーク教徒だった彼は宣教師に石を投げ、聖書を人々の前で焼き捨てるという暴挙にでました。
ところが、聖書を焼き捨てたことは彼の心を平和にするどころか、不安にさせたのでありました。
そして、その三日後、彼はとうとう朝まで祈り続けても神からの道がしめされなければ、日の出前に鉄道自殺をしようと、死をかけた決断をしたのです。

1904年12月18日の朝の三時から救いの道を示したまえと神に祈りはじめました。
「おお神よ、もしあなたが本当におられるなら、私に正しい道を示してください。私はあなたに対し献身者になりましょう。さもなくば自殺します。」
そして、心の中で「何も啓示がなければ死ねばよい。あの世で神を見いだせるだろう。」とつぶやいたそうです。
しばらく経ち、突如として室内が明るい光に照らされました。光は強まり、光のなかからやがて神々しい人が現われてきました。
シャカかヒンズーの神かと思った彼はその方を礼拝しようとしました。すると次の言葉が稲妻のように彼の心の中に響きわたったのです。

「お前はなぜ私を迫害するのか。私はあなたのために十字架の上で命を捨てたことを思え。」
彼の前に現われたお方は予想していたインドの神仏ではなく、彼が三日前に焼き払ったあの聖書の語る救い主、神の御子イエスキリストであったのです。
その体には二千年前にうけた傷跡がくっきりと残っていたといいます。そして、その御顔には慈愛が満ちていました。
こうして、サンダー・シングは真の神と出会い、真の心の平安と歓喜を見いだしたのです。
そして、この日を機会に彼は主イエスへの献身者となり宣教を始めました。迫害を受けること度々でしたが、彼の宣教で多くの人がキリストを受け入れました。
彼が祈ると癒される病人も続出しました。
主イエスは彼が鉄道自殺を思っていたあの日以来、常に彼と共におりました。
彼は常に主イエスを目の前に見ていたのであります。


レムナント 久保有政氏「キリスト教と仏教」参考

主イエスとシャカの違い(仏教とキリスト教) 3

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仏教とキリスト教において最も際立った違いは子供の死に関することです。じつは、仏教では子供の死は非常に罪深いとされています。仏教には「因果応報」や「自業自得」とも呼ばれる考え方があります。
子供が早く死んでしまうのは自分の前世の「業」があるためだとされます。
「業」というのは人間の行いのことで、未来に善悪の報いを招く原因となるものを言います。仏教では子供が早死にするのは自分の前世の悪行が原因であって、子ども自身の自業自得とされてしまいます。
また、さらには早死にした子は親を悲しみにくれさせたとして新たに悪い業をつむものとなります。

そのようなわけで、仏教では早く死んだ子供ほど罪が深い存在と考えられています。早死にした子供は「三途の川」のほとりにある賽の河原で鬼どもにいじめられているのだそうです。
そして、幼くして死んだ子供ほど鬼どもにいじめられて泣き叫んでいるそうです。
そこで、そういう子供たちを救ってくれるということで登場するのが「お地蔵さん」です。
また最近では「水子地蔵」というものもたくさんあり、胎児や赤ちゃんのときに死んだ子供を持った親たちは「地蔵菩薩」が死んだ子供たちを極楽へ運んでくださると思い、大金をかけて水子供養をしています。
けれども、キリスト教においては地蔵などというものはまったく必要ありませんし、水子供養などももちろんいりません。
キリスト教では仏教とは正反対に、幼くして死んだ子供ほど罪が無く、そのまま天国に入れと考えます。
主イエスはあるとき小さい子供を呼び寄せ、人々の真ん中に立たせて言われました。

「まことに、あなたがたに告げます。あなた方も悔い改めて、子供のようにならない限り、けっして天の御国に入れません。」

     (マタイによる福音書18章3節)

これは言いかえれば、純真無垢な幼い子供ほど天国に近いものであって、そのまま天国に入れるものであるということです。

主イエスはさらにこうも言われました。
「あなた方は、この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。まことに、あなたがたに告げます。彼らの天の御使いたちは、天におられる私の父の御顔をいつも見ているからです。」

(マタイによる福音書18章10節)


幼子担当の天使たちは、その顔をいつも神にむけているというのです!これはその天使たちが幼子の魂を神に結び付けようとしているということにように思えます。
“意識”というものがまだはっきりと形成されていない幼子であっても、“無意識”のうえでは心は神に結びついているのです。
生後九ヶ月で臨死体験をしたある男の子は、自分が臨死状態に入った後に暗いトンネルを抜けてから、明るい光を見たといいます。
そして、その明るい場所に出ると自分は「神様と共に遊んでいた」と語りました。(メルヴィン・モース著「臨死からの帰還」徳間書店)

幼子ほど、自分は神に属するものであるという感覚を持っているようです。
ですから、特に生まれることもなく流産してしまった胎児(水子)などは、死のあとに光の天使に迎えられ、そのまま天国に入ると信じてよいでしょう。
その子たちは賽の河原で鬼どもにいじめられてはいませんし、「地蔵」も必要ありません。

もちろん、子供とのしばしの別れという悲しみがありますが、子供がそのままで天国に入り、神のふところで休んでいるという平安のほうが長い目で見ると大きいでしょう。

さらには、やがて親である自分もこの世の生を終えた後、天国で子供に会えるという大きな希望があります。
(ただし、そのためには両親もイエス様を信ずる必要がありますが!)


*レムナント 久保有政氏の著作を参考

主イエスとシャカの違い(仏教とキリスト教) 2

f21e6e5d.gif主イエスとシャカの大きな違いのひとつは女性に対する考え方にあります。

シャカは当初の頃は、女性の弟子をひとりもつくりませんでした。
しかし、主イエスの場合、主な弟子は男性でありましたが、その周りにはたくさんの女性の弟子たちがいました。
それでは、シャカはなぜ女性の弟子を持たなかったのでしょうか。彼は女性というものをたいへん嫌っていました。そして女性はけっして仏(厳しい修行のすえ真理に目覚めた人)にはなれないと断言しています。
さらに、シャカはまた女性が仏になるためには、一度男性に生まれ変わらなければならないと説きました。男に生まれ変わってはじめて仏になれるとしました。
すなわち、シャカの教えでは女性が女性のままではけっして仏にはなれないのです。このことを仏教では「変成男子」といいます。

すなわち、一度男に生まれ変わる必要があるのです。今では、仏教関係者は女性も仏になれると説くようになりましたが、女性のままで仏になれるとは言いません。
また、シャカの教えには女性が女性としてこの世に生まれた意味や価値および目的というものは見出せません。
たとえ、あなたがいろいろな仏教の経典を読んでも、女性が女性に生まれた意味や価値に関して書かれた言葉をひとつも見出すことはできないでしょう。

だが、今は“瀬戸内寂聴さん”のような女性の修行者もいるではないかといわれる方もおられるでしょうが、しかし、仏教の教理に立つかぎり、たとえ瀬戸内さんでも、その後の輪廻転生で男に生まれ変わらなければ仏になる可能性はありません。
仏教の経典のなかに、ある立派な女性の修行者がいた話がありますが、その経典のなかでも、彼女が仏法を説いている時、シャカや皆の見ている前で男性の生殖器が生じたという話になっています。
つまり仏教の経典では、あくまで女性は男性にならなければ仏にはなれないのです。

いっぽう主イエスのほうは、はじめから女性に対して積極的に伝道されました。しかし、それは当時としては驚くべきことでありました。というのは、当時のユダヤ人の宗教指導者たちは、女性に対してはけっして挨拶はせず、ましてや、女性と話をしているところを誰かに見られでもしたら、彼らの名声の破滅とされていたからであります。

だが、主イエスはそのような当時の宗教指導者たちをしり目に男女のへだてなく伝道をされました。  
それはキリスト教においては、女性も女性のままで、信仰をとおし、神の子(信仰により罪ゆるされ、天国すなわち、神の国を受け継ぐものとされた人)になれるからです。神の子になるのに男も女もありません。
そして、神の御前では男も女も同じ価値を持っており、それぞれに尊い目的と価値を持ってこの世に生まれてきたとされます。
女性には女性に生まれた意味があり、男性には男性に生まれた意味があります。ですから、女性は男性に生まれ変わる必要などありません。

また、仏教の経典には「女は、大便と小便の詰まった汚い容器である。」というようなことが書かれています。
しかし、女がそうなら男もそうだと思うのですが、仏教の経典のなかには男に対してのそのような言葉は決してありません。
女性に対してだけ言われていて、大変失礼な話ではありますが、仏教の経典にはそのような言葉が散りばめられています。

しかし、聖書によれば、男も女も神の御前に同じように醜い罪びとです。
どちらも罪深い存在ではありますが、両者とも信仰によって救われるのであります。

「あなたがたはみな、キリストイエスにある信仰によって、神の子なのである。・・・・もはやユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない」


(新約聖書:ガラテア人への手紙3章26節〜28節)
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