光をめざして

社会や身の回りにおこったこと、その他もろもろの出来事について折にふれて感じたことを投稿します。

2009年02月

議員定数削減と議員報酬の日当制について(土佐忠男氏への疑問)

土佐忠男氏を代表とする「銚子市の市会議員定数を半分にする市民の会」が市議会議員の定数を削減し、議員報酬の日当制を導入するように求める陳情書を銚子市の3月議会に提出するといいます。
この「市民の会」によれば、現在の議員定数26名を12名削減して14名の小数精鋭体制で議会を運営することが望ましいということであります。

「市民の会」がかかげる定数削減の理由はつきつめるところ、議会を少数精鋭にすれば必然的に当選ラインが上がり、一部の縁故者だけの票で当選して一握りの市民だけの利益を代表するような議員が淘汰されて議員の質が上がるだろう。そうなれば市民の総意と利益が議会に正しく反映するようになり、市民の議会への信頼も回復するだろうというところにあるようです。
だが、「市民の会」が議員定数削減の根拠とするこのような論旨を正論とすることについては、ちょっとばかり疑問をさしはさまざるをえません。

まず議員定数と議員の質については本来まったく別のものであり、両者の間に関連性はなんらありません。議員の数を削減すれば自動的に議員の質が高まるものではけっしてないのです。
むしろ、議会は全住民を代表して審議決定するものである以上は全住民を代表するにふさわしい議員数が必要であり、議員定数削減は地域代表的性格や多様な住民の意見の反映という本来議会が持つべき機能を低下させることとならざるをえません。

議員定数の問題は本来、住民の要求や意見が正しく反映される真の住民自治にふさわしい地方自治とその機関を、いかに作り出していくかという大所高所の観点から論じられるべきであり、市当局の提案になんでも賛成したり、議会で発言しないダンマリ議員が多いという議会の実態から論じられるべき性質のものではありません。

さて、市民の利益を損なうような提案が市当局からされているにもかかわらず、議員の多数派が賛成してしまうことは今回の病院の問題に限らず通例のようにおこなわれてきました。
それは、市長や執行部につながる“与党議員”でいることのメリットにしがみつきたいという議員が市議会の多数を占めてきたためであります。
このような議員が市当局への忠誠を示すために議会で何でも賛成をするのであり、議会のなかでダンマリを続けるのであります。そして今回は市民の意思をふみにじり市立病院の休止に賛成しました。

“与党議員”のメリットを具体的に指摘すれば、市の関連業者からのリベートや公共事業入札・請負での便宜、市のおこなう不動産売買や事業への参入、情報入手等の利便、はたまた市の諸施設や土木工事での自派優先受注などがあげられ、これは彼らの”選挙地盤”と直結しています。
このような“与党議員”でいることのメリットをなくしていくためには、清潔でガラス張りの無駄のない民主的な行財政構造に市政を改めていくことが必要であり、“与党議員”のメリットが無くなれば“なんでも賛成議員”や“ダンマリ議員”は自然消滅していくはずであります。

そのようにしてはじめて一部の縁故者の利益ではなく市民全体の利益を代表する議員が議会の多数派を形成していくこととなり、市議会と議員の質の向上につながっていくこととなります。
それゆえ、まずおこなうべきは市当局が一部の議員などに利権配分や利益誘導をおこなえるような行財政の仕組みにメスを入れることであり、それは同時に市政の無駄や浪費の見直しでもあります。

議員定数の削減が自動的に議員の質の向上につながるとの「市民の会」の考え方には物事の本質的な問題を見過ごしてしまう可能性があり、地方議会が真の意味で住民の代表機関となるには、全住民を代表するにふさわしい一定の議員数が必要であることを強調したいと思います。

また、福島県の矢祭町で採用されているものに議員報酬の日当制があります。
これを機械的にそのまま導入すべしというのが「市民の会」の主張でありますが、この問題ももっとつきつめて考え直すべきではないでしょうか。
議員報酬が日当制になった場合は、議会が開かれる日にかぎり2〜3万円の日当が議員にたいして支給されるだけとなります。

これでは議員はなかばボランティアのごときものとなり一部の事業家や資産家だけしかなりえないものとなってしまうでしょう
その結果として必然的にいわゆる“有産階級”のみが議会を占めることなり、圧倒的多数の“無産の市民”を代表する議員は市議会から自然消滅することとなってしまいます。
これは全住民の代表機関であり多様な市民の意見を反映すべき地方議会のあり方に反しており、少なくとも銚子市議会にはふさわしくないように思います。

民主党谷田川さま、郵政民営化は「四分社化」の誤りを中心に抜本的な見直しをお願いします。

拝啓、民主党谷田川さま、郵政民営化につき思うところを述べます。
昨今、郵政民営化をめぐって麻生首相の発言が迷走を続けておりましたが、ここにいたって小泉元首相による麻生首相への批判が自民党内の内輪ゲンカをひきおこしました。

この自民党内の争いのなかで、各派閥は夜な夜な都内の高給料亭において会合を開き、ポスト麻生をめぐって「料亭政治」を繰り広げております。
いま、小泉「構造改革」のもとで推進された規制緩和万能、弱肉強食の日米の大企業中心政治が招いた深刻な雇用危機や未曾有の経済危機のもとで、多くの国民が苦しんでおります。
にもかかわらずポスト麻生をめぐって「料亭政治」に狂奔する自民党には、深刻な雇用や経済の危機に真剣に取り組む姿勢がほとんど感じられません。

小泉氏が麻生首相を批判する際に、「笑っちゃうくらいただただあきれる」という表現を使いましたが、このフレーズはそのまま自民党の現状にたいする国民の批判を表現するのにふさわしいもののように思えます。いや、笑っている場合ではなく、腹の底から怒っているんだという方もたくさんおられることでありましょう。

さて、自民党内の内輪ゲンカをひきおこすきっかけとなった「郵政民営化には賛成でなかった」との麻生首相の発言です。
麻生首相は小泉政権下で自民党の政調会長や総務大臣を歴任し、郵政民営化の実現に深くかかわった中心人物であり、郵政民営化の最大の当事者の一人でありました。
その麻生首相が「実は反対だった」と発言せざるをえないほど、「百害あって一利なし」という郵政民営化をめぐる現状が明らかになっており、郵政民営化は破綻をきたしております。

郵政の民営化は一体のものとして展開していた郵便、郵貯、簡保の郵政3事業をバラバラにし、四つの事業会社に分割してしまいました。また、採算のとれない地方の過疎地の簡易郵便局をはじめ多くの郵便局が閉鎖され続けています。
過疎地では郵便局が唯一の金融機関の窓口という地域は少なくなく、あいつぐ郵便局の閉鎖の結果として、いっさいの金融サービスを利用できない「金融難民」が発生しております。

また、利用者の少ないATM(現金自動支払機)も撤去されており、大学や病院などの公共性の高い施設などからの撤去も容赦がありません。
さらには、四つの事業会社に分割(四分社化)されたことで、郵便局の内部でも会社が違うとの理由で間仕切りがつくられ、カードを利用しなければ行き来ができないという現状になってしまいました。
民営化によってかえってサービスが悪くなり、なおかつ事業の効率の低下さえもたらしていることは否定できない事実となっております。

そもそも郵政の民営化は誰が望んだことなのでしょうか。
郵便をはじめ幅広いサービスを提供する国営事業体としての郵便事業は「安心、安全、便利」を願う多くの国民の評価するところであったのであり、郵政の民営化を国民が願っていたという事実はありません。
また、郵便局の職員の給料は郵便事業にともなう収入の一部から支払われていたのであり、郵便局の職員への給与の支払には国民の税金は一円たりとも使われていませんでした。

このことは、郵政民営化なるものが税金から支払われる公務員の“人件費”を削減する「行政改革」になんらつながるものでもなかったことを意味しております。
このような事実は郵政民営化が国民の多くが望んでいたことではなかったということの裏づけともなるでしょう。

実のところ、郵政民営化を強く望んだ張本人たちは自分たちにとってもうけのじゃまとなる郵便貯金と簡易保険を解体してしまおうとした日米の巨大銀行であり巨大保険会社でありました。
その証拠に小泉政権は民営化法案を作るために、米国政府関係者や金融・保険業界の担当者たちを呼び、密室で会合を重ねて彼らの要求を法案に盛り込んだといいます。
大銀行や保険会社、そしてその意を受けた日米の当局者たちにとって、それまで郵便と郵貯と簡保の3事業一体として成り立ってきた郵便事業をバラバラに解体し、もうけのじゃまとなってきた郵貯と簡保を弱体化することが郵政の民営化に秘めた最大の目的でありました。

彼らは表向きは「民間でできることは民間で」と鳴り物入りで宣伝をし、「もっと便利になる」として民営化を推し進め、民営化をスタートした当初にも「利用者には迷惑をかけない」と言っていましたが、実際におこったことは過疎地の郵便局の閉鎖であり郵便局での窓口サービスの低下といった反対のことであります。
民営化がスタートして一年半近くにおよぶ現在では、民営化を推進した当時の口実がことごとく破綻していることは明白になっています。

ところで、民営化推進勢力がかけ声としたもののひとつに「貯蓄から投資」がありました。郵便貯金と簡易保険は庶民のなけなしの財産であり虎の子でもある個人資産を340兆円預かっていましたが、これを金融市場に引きずり出し自分たちが運用することでもうけようとの日米の財界や金融界の狙いが「貯蓄から投資」という民営化推進勢力のかけ声に秘められていました.

民営化に前後して郵便局は元本の保証のない投資信託の販売を始め、政府自身が目標を定め郵便局にはノルマを課して売りさばいています。
郵便局が取り扱う投資信託は米国からの外資や国内の証券大手が取り扱う金融商品であり、これらを通して集められた資金が証券市場を支える役割をはたすこととなりました。

ところが、郵便局が販売した投資信託の販売件数が440万件を上回り、販売金額も1兆3500億円をこえたところで、米国流のカジノ資本主義の崩壊を発端とした今回の金融危機が襲いました。
これにともなう急激な株安により郵便局の投資信託はすべて価格が大幅に下落し、資金が半分になる顧客が続出しています。
郵便局だからと信じて老後の蓄えで投資信託を買ったことで、虎の子の資産を大きく目減りさせてしまったお年よりが続出しているのです。

それにもかかわらず、郵便貯金と違って投資信託は元本保証がないこともあり、「貯蓄から投資」の大号令のもと,郵便局の信用と看板を利用し投資信託を売りまくり国民に大きな損失をもたらした政府はいっさい責任をとりません。
このように郵政民営化は多くの面で破綻しており「百害あって一利なし」という実態が明確になっております。

もはやサービスの低下や非効率化をもたらすことが明らかとなった「四分社化」をふくめて、民営化そのものの抜本的な見直しが避けられない現状にあると思います。

民主党はかって政府の郵政法案には反対しましたが、郵貯と簡保の段階的な縮小を主張し「構造改革」のスピードを郵政の面でも競い合うという立場に立っていました。
小泉政権が「構造改革」の本丸とした郵政民営化が、安心と安全および便利を願った国民に不利益をもたらしていることが明らかとなり、くわえて「構造改革」の進展が不安定雇用やワーキングプアの顕著な増大をもたらし、社会保障の相次ぐ制度改悪が相次いでいます。

谷田川さまにおかれましては、民主党の基本政策をもう一度見直していただき、規制緩和万能論や市場原理主義が日本社会を弱肉強食の非情な社会へと変質させつつある現状を踏まえ、民主党が小泉流「構造改革」路線から完全に決別して、国民に対して温かみのある真の「生活が第一」の政党となるように奮闘していただきたいと存じます。
敬具

谷田川はじめ様、小沢・ヒラリー会談につき感じたことを筆にしたためます。

謹啓、谷田川さま、またお手紙をさしあげます。
このたびのクリントン米国国務長官の訪日にさいして、民主党の小沢代表がクリントン氏のたっての会談要請に応じ小沢・ヒラリー会談が実現しました。
米国の国務長官が日本の野党党首との会談の場を持つことはきわめて異例であり、なぜこの時期に米国の当局者が小沢・ヒラリー会談をあえて実現させたのか、その真意と目的を私なりに考察してみました。

ヒラリークリントン来日の狙いとは

今回、ヒラリー氏が来日した最大の目的は在沖縄海兵隊のグアム「移転」にたいして日本が7000億円を提供することを再確認するためであり、普天間基地の代替施設として沖縄県の名護市沖に建設を予定している新基地建設などをふくむ「在日米軍再編」を主な内容とした日米協定を調印するためです。

「在日米軍再編」はブッシュ前政権下ですすめられたものであり、本質的には従来の安保条約の枠組みを大きく逸脱し、日米安保体制を「地峡規模の日米軍事同盟」に再編強化するものにほかなりません。
この計画はブッシュ政権の一国覇権主義のもとでの先制攻撃戦略にわが国を完全に取り組むものであり、「日本防衛」とは無縁の海外遠征部隊である在沖縄海兵隊や、横須賀を母港とした米国海軍の空母戦闘群などの殴りこみ部隊の司令部機能を強化し、わが国を米国の陸・海・空・海兵隊の四軍の出撃と補給の基地として恒久化しようとするものです。
また、この計画には米軍と自衛隊とのいっそうの一体化も組み込まれています。

これらの一連の計画にたいしては横須賀や沖縄の名護など全国各地で基地強化や新基地建設反対の粘り強い住民のたたかいがすすんでいますが、いかなる反対があろうとも「在日米軍再編」というブッシュ・小泉時代につくられた計画を、オバマ・麻生政権が日本国民にごり押しすることに今回のクリントン国務長官来日にこめられた本当の目的があります。

オバマ大統領はブッシュ前大統領の一国覇権主義を批判し、就任演説で「米国は平和と尊厳の未来を求めるすべての国々、すべての男女と子どもたちの友人である」と強調していますが、この言葉にオバマ氏が忠実であろうとするならば、米軍基地の強化と恒久化に反対する沖縄県民をはじめとした日本国民の声をオバマ氏は聞くべきであろうと思います。

しかし、クリントン氏は日本国民の米軍基地強化に反対する声を聞こうともしておりません。
それどころか、一国覇権主義のブッシュ政権下での在日米軍基地の強化と恒久化の計画である「在日米軍再編」をあまつさえそっくりそのまま踏襲し、そのうえで条約化をおしすすめることで強権的に日本国民に押し付けようとしています。

「米国は平和と尊厳の未来を求めるすべての国々、すべての男女と子どもたちの友人である。」
最近の米国当局の動向を思うにつけ、このオバマ大統領の就任演説の一節はいったいなんだったのか疑念を抱かざるを得ません
オバマ大統領発の「チェンジ」という流行語がはやっていますが、今回のクリントン氏の来日にこめられた米国の狙いが広く知られていくにつれて、オバマ政権に「変化」の期待をいだいていた日本中の人々に不信と憤りがひろがっていくことは避けられないでしょう。

また、日米の当局者は「在日米軍再編」計画全体にたいし、3兆円という膨大な日本国民の血税を提供することをすでに合意しています。
だが、「百年に一度の経済危機」といわれている現在の不況はまことに深刻なものがあり、大量リストラや社会保障の切捨てなどによって国民の命と暮らしそのものが脅かされております。

このようななかで、米国の覇権主義と先制攻撃戦略のためにすすめられる「在日米軍再編」に3兆円という日本国民の巨額な血税がさしだされることは、道義的にも許容できるものとは思えません。
これだけのお金があれば不況対策にふり向けるべきであると思いますし、社会保障費にふり向けるべきであると思います。

小沢ヒラリー会談のお本当の狙いとは

さて、このような日米関係の現状のなかで実現した小沢・ヒラリー会談には、小泉政権以降の歴代自公政権が米国に約束してきたことを政権交代後の民主党政権に引き継がせることに真の狙いがあるのではないでしょうか。

米国側の狙いは、さしあたり麻生政権で取り交わされた約束をきっちりと民主党政権に引き継がせ、在日米軍基地の強化にともなう財政負担や沖縄での海兵隊の新基地建設、はたまたアフガン戦争での協力について、民主党政権になっても間違いなく実行するように念を押すことです。

「日本防衛」とは無縁な海外遠征部隊であり、わが国を出撃拠点とする在日米軍に莫大な国民の税金をさしだすことや、米軍基地の半永久化につながる名護市辺野古沖での海兵隊の新基地建設、はたまた「対テロ戦争」を名目とした米国の対外侵略の戦争に協力することが、国民の利益(国益)にかなったことでありましょうか。私は断じて否であると考えます。

しかるに伝え聞くところによると、小沢・ヒラリー会談に臨んだ小沢氏は「私は日米同盟が大事であることはずっと以前から唱えてきた。私が最初からの提唱者である」と強調したうえで、「国務長官と継続して話ができるように選挙で勝つ」と語ったといいます

これは「麻生政権での約束の履行は民主党政権に任せなさい。そうすればそれらの約束は間違いなく実行してあげますよ。そのうえで日米同盟のパートナーとしての役目をきっちり果たしますよ」と小沢氏がヒラリーに誓約したことに他なりません。

半世紀にも及ぶ自民党を中心とした歴代政権のもとでの対米関係は対米従属を特徴としたものであり、最近なってこの弊害が歴然としてきたことは国民の多くが感じ始めていると思います。

また、対米従属の弊害は外交や安全保障の面にとどまりません。
米国政府が毎年わが国政府に「年次改革要望書」を突きつけ規制緩和と市場開放をせまり、実現した成果を国内の報告書で自慢するといった公然とした内政干渉がおこなわれはじめるようになって久しいといいます。

人材派遣の自由化や大店法の廃止・郵政民営化など現在の国民を苦しめている制度や仕組みが実現したのも、この「年次改革要望書」による米国の要求によるものであります。

対米従属の弊害はあらゆる面で広がっており、このままいけば日米同盟のいっそうの強化のために憲法9条も捨てるように米国がいっそうの圧力をかけてくることは必至であります。

このような対米関係が長期にわたって続いてきたなかで、国民の多くが異常な従属的関係にある対米関係を対等・平等で平和志向の関係に変えてほしいと望み始めています。

しかるに、小沢氏がクリントン国務長官との会談のなかで、国民のこのような声を代表して米国にモノをいう姿勢がまったくなかったことは残念です。
最低限として、主権者である国民の声をバックに国民外交をすすめていくという立場を強調していただきたかったと存じます。

谷田川さまにおかれましては国民の声に耳を傾けていただき、真の国益の立場に立って日米関係を対等・平等で平和志向の関係に変えていただきたいと存じます。
また、民主党を対等・平等な日米関係を目指す政党に「変革」してくださることを強くご要望いたします。
謹白


岡野市長はみずからを「悪人」であることを自覚すべきです。

「善人なほもって往生をとぐ、いわんや悪人をや」
このフレーズは有名な悪人正機の考え方を説いたものとして有名であり、浄土真宗の開祖親鸞上人の言葉であるといわれている。

このフレーズの意味は世間の常識とは180度逆説的である。
世間の常識では、このフレーズを善人が極楽浄土に往生であるのは当たり前であり、ふつうは極楽往生できない悪人を救ってくださるという仏の慈悲深さを表現したものと解釈しがちである。
しかし、このフレーズの真意は世間の常識とは異なり、仏の慈悲はむしろ悪人を救うところにあり、善人が救われることもあるかもしれないが、それはまず悪人を救ってからの話であり、善人が救われるのであれば当然に悪人がその前に救われているということを意味するという。

もともとこれは仏教の言葉であり、世間の常識という“物指し”でこのフレーズの意味を解釈してはいけないのである。

ところで、仏教の考え方にはそもそも善人などというものは存在していないのである。
この世間には「悪人」と、自分は善人だと思い込んでいる「偽善者」の2種類の人間が存在するのみと説いている。

それではそもそもからして善人とは何ぞや?

このように正面きって問われると定義が難しいが、仮に他人に迷惑をかけない人が善人だとして、他人に迷惑をかける人が悪人だとしたら、この世に他人に迷惑をかけていない人間は存在していないという現実を見つめるべきなのである。

人は人にとってお互いに迷惑な存在なのであり、迷惑をかけることで人は世間に存在しているといってよい。

会社や役所の中で自分が課長や部長になったことは、そのことで課長や部長になれなかった人たちを生み出しているのであり、その人たちに迷惑をかけているのである。
また、自分が大学の入試に合格したことは、そのときに一人が自分の代わりに間違いなく落ちているのであり、自分が学校の試験でクラスの一番になったことは、クラスの他の人は一番になれないのであり、そのことをとおして自分を除いたクラスの全員に迷惑をかけているのである。

このように考えるていくと世間に善人と呼べる人は存在しないこととなる。
自分は他人に迷惑をかけている悪人だと自覚できた人が「悪人」であり、自分が他人に迷惑をかけている悪人だと自覚できない人が善人ならぬ「偽善者」ということとなり、娑婆にはこの2種類の人間が存在するのみだ。
そして、不幸なことに偽善者は自分が善人だと思い込んでおり、世間の人も善人として認識している場合が多いことが偽善者をいっそう救いがたいものにしているのだ。

仏さまは自分が他人に迷惑をかけている悪人であることを自覚して、“申し訳ない”“すみません”といった気持ちを抱いている人を真っ先に救済しようとなされるのであり、そのことを自覚できない偽善者(善人)の救済は後回しにされるのである。

なにごとも自分が罪深い悪人であることを仏の前で自覚した謙遜な人が救われるのであり、自分の善行や功績を仏の前で主張する高慢な偽善者の救いは後回しとなる。
先にあげた”悪人正機”についてのフレーズの真意はこのことにあるといってよい。

さて、以上の論旨を踏まえたうえで、「銚子市の財政は風前のともし火であり、ここで市立病院を休止させないと銚子市が第二の夕張となってしまう。」と判断し、“不本意”にも市立病院の休止を決断された岡野市長の行いの是非を検討してみよう。

私自身はこの岡野氏の銚子市の財政事情にかんする判断が正しかったとは思っていないが、仮に市長ご自身や市議会の多数派の議員が考えているようにこの判断が正しかったことにしてみる。

それでも、私は銚子市のために一生懸命やっているのであり、私の判断で沈没しかかった銚子市を救ったのであると考えて、自分に正義があることと市長の座にこだわるかぎり、たとえその判断が財政的・政治的な見地から見て正しかったとしても、岡野市長には真の救いはないのである。

市立病院を閉鎖したことでたくさんの“医療難民”出ていることは否定のできない事実である。
岡野市長自身はこの事実を否定しているが、実際は市立病院というかけがいのない医療サービスの場を奪われた患者市民はたくさん存在している。
なかには転院がきっかけとなり病状を悪化させた方や、死期を早めた方も存在する。

そして、入院患者の中には転院先が見つからずに、家族が仕事をやめてまでも在宅で24時間の介護を強いられるケースも存在するのである。

これらの“医療難民”の存在は、転院先のお医者さんに患者さんや家族が気兼ねして表沙汰にしてこなかったという事情があって知られずにきたにすぎない。
岡野市長が自ら下した病院の休止という判断が、たくさんの“医療難民”を生み出して、その人たちの病状を悪化させたり死期を早めたりしているのである。

にもかかわらず岡野市長は医療難民の存在を公式には否定したうえで、自分は銚子市を救ったのだと自分の功績を主張し、自分の“正義”をこれらの人たちに押し付けようとしている。

これでは岡野市長には真の救済はない。

岡野市長は自身の病院休止の判断が財政的・政治的に正しかったとしても、あなたは多くの患者市民に迷惑をかけていることを自覚すべきなのである。

そして、患者の被った迷惑の中には命にかかわるようなケースも少なからずあったのであり、岡野市長はこのことを自覚して自分が「極悪人」であったことを認めるべきなのである。

このようにしてはじめて真の救いの道が開け、また病院閉鎖をめぐってひきおこされている市民との対立や軋轢が収拾に向かうきっかけがつくられはずである。

さて、岡野市長にはこのように「悪人」としての自覚を持っいただけるのなら、市長という公人としての立場ではどのように身を処すべきであろうか。

それは、市民にとってかげないのない医療サービスの提供の場であった市立病院を閉鎖したことの責任をとって、みずから職を速やかに辞すことである。

仮に昨年の病院休止の判断が正しくて、それが銚子市を沈没寸前の状態から救った“勇気ある行動”だとしても、病院休止によって被った患者市民の痛みや苦しみの責任はそれをもってしても贖うことはできないからだ。

そのうえで「病院再開」を新しい市長に託すべきである。
また、岡野市長の市を救った政治判断の正しさは将来において証明され、後の銚子市民から賞賛の誉れを受けるに違いない。

市民の会は“来るべき”市長選挙においてみずから「確認団体」となることを明確にしてほしい!

銚子市選挙管理委員会が「岡野市長の解職投票」を3月9日告示、3月29日投票とすることを決定したという。

これは「何とかしよう銚子市政」市民の会が、岡野市長の解職を求めて昨年の12月26日に提出したリコール署名2万6006人分の署名のうち、銚子市選管が有効署名数総数を2万3405人で確定し、それが市内有権者の3分の1をうわまったことにより決まったものである。
このことは、リコール運動が岡野市長の解職の実現と市立病院の再建の道筋を明確にするという二つの課題に取り組まねばならない局面へと進展してきたことを物語っている。

さて、肝心の岡野市長本人であるが、岡野氏は解職をめぐる住民投票がおこなわれることが確定したいまでも、自ら自発的に辞任する意志はさらさら持ち合わせていないようである。
そして、住民投票で自らの解職に賛成する票が過半数を上まわり市長の座から解職されても、病院再開をかかげて再び市長選挙に立候補するという意向をお持ちらしい。

岡野氏がこのようなスタンスに立っている以上は、住民投票で岡野氏の解職に賛成する市民の票が圧倒的多数を占めて岡野氏の政治生命を断ち切るしかない。
このことが実現してはじめて、新しい市長のもとでの市立病院の再建が現実的な課題にあがってくることとなるだろう。

さて、住民投票に向けて事態が動き始めた現在にあっては、リコール運動を進める側が“ポスト岡野”を展望したあたらしい市政のビジョンをはっきりと描き、それを市民に提示していくことが避けて通れない課題となっていることは明白である。
だが、ここにいたっても、市民の会のこの問題をめぐっての公式の見解は、いたって曖昧なスタンスに終始しているのに懸念を感じるのは私一人だけなのであろうか。

「市民の声を聞く新しい市長のもとで、私たちはどのような市政を作っていくのか、ハッキリと打ち出していく必要があります。」
市民の会の公式見解はこのように言っているが、ここには「私たちが選ぶ」という文言が無いのである
これではまるで岡野市長が解任されれば、市民の声をよく聞き、市立病院の再建にも献身的な努力をするあたらしい市長にふさわしい人物が、どこからか出現してくるかのようなニュアンスを感じとれてしかたがない。

40年前から放映され続け、今にいたるも高視聴率を記録しつづけるお化け長寿番組に「水戸黄門」がある。
この番組のストーリーの基調は、悪い為政者によって苦しめられている庶民のもとに、ある日ひょっこりとお忍びの天下の副将軍である徳川光圀(水戸黄門)が現われ、悪しき為政者にその権威を持って裁きをくだし、庶民を悪しき為政者のくびきから解放するというものであることはご存知であろう。
では、現在の銚子市において“悪しき為政者”である岡野市長にかわり、ひょっこりと庶民の待望する「銚子の水戸黄門」とでも言うべき人物が出現するかというと、そんなことは期待すべくもないというのがキビシイ現実の姿である。

だが、市民の会の公式の見解を突き詰めていくと、あたかも「水戸黄門」の出現を前提としているかのようなニュアンスを感じ取らざるをえない。
銚子における政治風土を歴史的な観点も含めて考えてみると、市民が主人公となる民主的な市政の実現をめぐっては、これっぽっちも楽観的な見通しを持つことができないのが現実ではなかろうか。

これまで、佐藤氏から大川氏、そして野平氏から岡野氏へと歴代の銚子市政は移り変わってきているが、これらの銚子の歴代“政権”は市民の福祉を二の次として、市政の周囲に連なりながら自己の利益のみを求める一部の人々や一部業界がその中心に陣取っていた。
そして、草の根保守システムとでも言うべき強力な自派支配体制を築き上げ、市政を長期にわたり独占し続けるメリットを利用し、自らの政治基盤を強固に営々と築き上げてきたのである。
この地域支配システムから送り出され続けたのが佐藤氏であり、大川氏であり、さらには野平氏や岡野氏であった。
そして、古くは嶋田氏がこの地域支配システムのもとで27年という長期政権を維持したのである。また、大内氏も二期目においてこのシステムに取り込まれていった。

銚子市の財政という問題ひとつとっても、この地域支配システムから生み出された歴代市長は巨大なツケを市民に“置き土産”として残してきた。
佐藤氏がポルトガルまで建設業者と一緒に「視察」に出向き、バブルがはじけたあとにもかかわらずにマリンリゾート建設に着手し、その見直しを公約したはずの大川氏が”名洗リゾート”を完成させて巨額な負債を残していったのである。

さらには、野平氏が年69億円の経済効果というデタラメを言って大学を誘致して、77億円にも及ぶという特大の負債を残し、駄目押しは現在の岡野市長が高校建設などの大規模事業の見直しという公約を投げ捨てたことが、現在の銚子市の財政困難の本当の原因なのである。
かって、野平氏は銚子市の職員の“給与が高い”ことが銚子市の財政困難の原因であるかのようにふれまわっていたがそうではないのである。

このような銚子市の政治風土のなかで、市民の声に真摯に耳を傾け、市立病院の再建のためにその身をなげうって努力をし、市民のいのちと暮らしを守るあたらしい民主的な市長を選出するためにはひとつしか方法がない。

それはリコール運動の中心となって幅広い市民のエネルギーを引き出し、市民派の市会議員8人が結集している「何とかしよう銚子市政」市民の会が、リコール成功後における市長選挙においても、いまの組織と構成のままで公職選挙法にいう「確認団体」(選挙母体)となり、自分たちの力で自前の新市長を選出することである

私が市民の会に望むことは岡野市長の解任までではなく、その後のあたらしい市長選出の段階でも引き続いて主体的に取り組んでいただき、“市民が主人公”といえるような市政の実現に尽力してもらいたいということである。
そのためにも、市民の会はきたるべき市長選挙において「確認団体」となって主体となって取り組んでほしい。

もっとも、その前に3月29日の住民投票で岡野市長を解任しなければ、話しは始まらない。
だが、市長選挙にも市民の会がひきつづいて責任を持って取り組み、第三者にはいかなる“漁夫の利”も許さないというスタンスを取ることが、岡野市長解職にむけての住民投票にあっても、リコール派に有利な情勢を切り開くことにつながると思うのだがいかがであろうか。

自らの悪政の口実に「ほとけの教え」を悪用しないでください!岡野銚子市長

2月3日の節分の日に立正佼成会銚子教会において恒例の「節分会」が開かれたという。
この行事に銚子市長岡野氏が来賓として招かれ挨拶のスピーチをしたらしい。
ところで、私は地元ローカル誌に掲載されたこのスピーチの中身を一読してあきれてしまった。

「私は仏の教えから病院休止という決断をした。」
「日蓮様の教えに“為政者は迫害に耐えよ”ということがある。」
「住民に対して“もっとも大切なのは自分や家族ではない、国である。”と言っている。
一番大切な民衆の道徳は国を守ること。私は市を守る選択をした。ほとけの力をお借りして本当に正しいことをお伝えして欲しい。」

このような岡野氏の発言の内容は、日蓮や“ほとけ”の教えをねじまげたものであり、自身のおかした市立病院の突然の休止という悪政を“ほとけ”の名を語って正当化しようとする試みに他ならない。
仏教徒ではない私の立場から見ても、“ほとけ”の教えを自らの悪政の合理化に使うことはほとけの教えにたいする冒涜だといっても言い過ぎではない。

ところで、日蓮は「為政者は迫害に耐えよ」などとは言ってはいない。
日蓮はシャカの入滅(死亡のこと)から2000年余が経過した末法の世、鎌倉時代に活動した。
末法は正しい仏の教えが隠れてすたり、果てしない争闘の時代が到来したことを意味する。
そして、このような時代における民衆の苦悩を助けるためには、仏の正しい教えである「法華経」を人々に説き広めることが、唯一の道であると日蓮は唱えたのであった。
しかし、同時に、仏の正しい教えである「法華経」を広め、末法の民の苦悩を助けようとする試みは、必ず謗りと迫害に会うとも述べた。

すなわち、末法の世にあっては偽善と名誉欲・私欲にふける世の輩があふれ、仏の正しき教えを広める仏の使いには、命にかかわるほどの大難が待ち受けており、それを耐え忍ぶ烈々とした覚悟がなければ仏の使いにはなりえないと断じた。
正しくは、日蓮は“為政者”ではなく、正しい教えを広める“仏の使い”(法華経の行者)が迫害されると述べたのである。

日蓮が活動した鎌倉時代初期には大地震などの天災が次々と起こり、民衆の間に飢餓や疫病などが蔓延していたにもかかわらず、時の権力者は民衆の困苦や悲嘆の解決は放置し、政治権力の保持に汲々としていた。
そして、既存の仏教各派は保身のために、このような権力者に追従していたという。(該当する宗派の方には失礼します)

このような背景のもと、日蓮は、愚かな心を改めて、「法華経」の信心にたち、民衆を安んずるために対策を速やかにたて、泰平の世を実現し、民衆の心を安らかにするべく、時の為政者にたいして「立正安国論」という諌めの書を“たたきつけた”のである。
しかし、このことがきっかけとなり、為政者たちの恨みをかった日蓮は、その後に様々な迫害や困難が降りかかることとなる。

このように、鎌倉の時代、末法の世にあって、この世の民衆の苦しみを解決するために、正しい仏の教えを説き広めようとした日蓮をはじめとした仏の使いが迫害されたのであり、迫害を加えたのは為政者たちであったというのが歴史の真実である。
そして、このことは高校の日本史の教科書に記載されるほどの幅広く知られた史実でもある。
岡野氏の日本史理解はお世辞にも正しいものとは言えず、学びなおす必要がある。

ふりかえるに末法の現代にあって、バブル経済がはじけて金融破たんを招き、不況の底知れぬ深まりはとどまるところがなく、為政者は民衆の苦しみを忘れ、数は力なりの論理によって民衆の福利を顧みることがなく、損得を尺度として功利主義のエゴイズムに走り、自己の利益ばかり追求している。
このようななかで、苦しむ民衆のいのちと健康をまもるために、損益だけで判断する金銭的な物指しやそろばん勘定におちいることなく、公的医療の灯を体を張って守りぬくことが、末法の世にあって民衆の苦悩を助け、その安穏を実現するのであり、これが仏の教えにもとづき為政者のなすべきことでないか。

岡野氏は“ほとけ”の教えをねじまげ、自らの悪政の正当化に使うことはただちにやめ、虚心坦懐に仏の真の教えを学ぶべきである。

また、岡野氏は“ほとけ”の名のもとに、民衆の一番大切な道徳は国を守ることであると発言している。
そして、もっとも大切なのは国であり、自分や家族ではないと語り、それゆえ銚子市を守るために病院をたたんだことは、たとえ医療難民が発生しようが正しいことであり、銚子市が残っていれば病院は再開できると語っている。
私は岡野氏のもとでは病院の再開はできないと思うが、そのことはさておき、この岡野氏の一連の発言には、国や市などの“公”の存続のためには、国民や市民はその生活や健康が犠牲になっても、経済的負担が増えても、耐え忍ぶべきであり、苦しみを受任するのは当然であるいう論理が見え隠れする。
“滅私奉公”という、嫌なかっての時代を思い起こさせるニュアンスを強く感ずる論理でもある。

では、この岡野氏の論理は“ほとけ”の心にかなっているのだろうか。だんじて否である。
日蓮は「国の安穏が民の安穏である」というニュアンスのことを言ってはいる。
しかし、これは当時の宗教が現実逃避主義におちいり、人生の苦悩や不安の原因を人間の内面にのみ求め、現実の民衆の苦しみに目をそむけ、ひたすら個々人の内面に沈潜している状況を日蓮が憂えたためである。
日蓮は為政者をはじめとしたこの世の人々が信心を改めて、「法華経」という正しい仏の教えに帰依すれば、あの世の極楽浄土をまたずとも、この世がそのまま「仏の国」となり、苦しむ民衆を一人残らず現世において救済し、安穏と平安の世を実現しえると説いたのである。

すなわち、日蓮は民衆のあまねく救済のためには、この世で、日本というこの国で、「仏の国」を建設しようと提唱したのであり、もっとも大切なのは国であり“公”であって、苦しむ民衆の一人一人ではないと言ったのではけっしてない。
あまねく民衆の救済のためには、正しい仏の教えが広まり、この世の“国”が「仏の国」に変わることが必要であるという救いのあり方にかかわることとして、「国の安穏が民の安穏である」という方便を述べたまでであった。

よく、戦前の国家主義者たちは日蓮を利用し持ち上げたものが多かった。
そして、そのために日蓮の誤ったイメージをつくりあげた。
特に有名なのが、日蓮が蒙古襲来の際に九州に赴いて、愛国の志士となって祈った結果、「神風」が吹いて蒙古の船団が沈没して日本が勝ったという逸話である。
しかし、この逸話は事実に反しており、日蓮は九州になど一度も行ったことがないのである。

そして、日蓮はウルトラナショナリストたちが期待するような考え方の持ち主ではなかった。
むしろ、蒙古の襲来により腐りきった鎌倉幕府は滅びても、それを契機として仏の正しい教えが広がり、この世にあらたな「仏の国」を樹立するきっかけになりえると受け止めたのである。
だが、日蓮は、侵略により犠牲になる人たちの悲しみは重く、蒙古の侵略は断固批判すべきではあることも忘れてはいない。

岡野氏は“ほとけ”の教えを悪用して、“滅私奉公”もどきの論理を展開し、自らの病院閉鎖という悪政を正当化することは謹んでいただくことをお願いしたい。


民主党千葉県第10区総支部長 谷田川はじめ様、お読みくだされば幸いです。その6(構造改革をめぐっての続き)

謹啓、民主党千葉県第10区総支部長 谷田川はじめ様、西岡三郎です。
構造改革についていろいろと述べましたが、この件に関してはさらに言及せずにはいられないような出来事が最近になっておこっております。

それは、小渕政権において政府の諮問機関である「経済戦略会議」の議長代理として、トヨタ社長の奥田碩氏や後の小泉内閣の閣僚の一員ともなった竹中平蔵慶応大学教授などとともに、「構造改革」の急先鋒として規制緩和や市場原理主義の旗をふり続けた中谷巌一橋大学名誉教授が自身の誤りを認め、「懺悔の書」を出版したことであります。

この「経済戦略会議」は小泉内閣において「経済財政諮問会議」と名前を変え、その組織と路線を踏襲しました。
そして、中谷氏の提言は小泉元首相の経済閣僚であった竹中平蔵氏に受け継がれ、小泉構造改革として実現したのであります。この意味では氏は、いわば間接的な形であっても小泉構造改革の片棒を担いだキーパーソンでありました。

しかし、驚くべきことに、この「構造改革」の急先鋒とでも言うべき氏が、昨年の12月に週刊誌上で自身のすすめた「構造改革」導入の誤りを自身で認めたうえで、深厚な反省の弁を述べました。

氏は若きころにハーバード大学に留学し、米国の豊かに圧倒され、規制をなくし市場が機能すれば豊かで裕福な社会が実現すると信じ込んだと言います。
しかし、構造改革、もっと正確に表現すれば“グローバル資本主義”は日本の社会にいまだかってない規模で貧困を増大させ、急激な労働法制の規制緩和で「使い捨て」労働が大量に生みだされワーキングプアを大量に出現させました。
いまや、全国の主要都市に「派遣切り」にあった人たちのための一時避難所が作られ、そこに大企業の「派遣切り」によって職と住居を失ったたくさんの人たちが押し寄せ、緊急の住居の確保と生活保護の相談が山のように寄せられています。終戦直後の混乱期を除いて、いまだかって見られない現象がおこりました。

氏はこのような現状を直視することで、グローバル資本主義や市場原理主義を信じすぎていたみずからの誤りを自覚し、「構造改革」とアメリカ型市場原理の導入で、ここまで日本の社会が問題を抱えるとは予想できなかったというみずからの洞察力のなさを率直に認め、自分自身の不勉強に忸怩たる思いを抱かざるをえないと言います。

また、氏は「資本主義はなぜ自壊したか」という「懺悔の書」を出版し、そのなかで「“改革なくして成長なし”というスローガンは・・・・・市場至上主義の行き過ぎから日本社会の劣化をもたらした」とか「改革は必要だがその改革は人間を幸せにできるものでなければ意味がない。かって筆者はその改革の一端を担った経歴を持つ」と書くことで懺悔の念のこもった率直な反省の弁を述べています。
そのうえで氏は実践的な面でも責任をとり、氏がそれまで属していたあらゆる政府系諮問機関や政策会議から辞退するという形でけじめをつけました。

それまでは政府を批判する立場から小泉・竹中構造改革の誤りを批判する論調はあまた発せられていましたが、政府側にたっていた人物からその誤りを批判する論調はありませんでした。
しかし、氏は政府側に立っていた人物、それも構造改革推進の司令塔の一角を占めていた人物であり、そのような氏から構造改革、市場原理主義批判の声が公然と発せられたのであります。
このことはいままでの常識を覆す驚くべき出来事であり、かつまた、氏の学者としての誠意と良心を感じさせるものでありました。

それにひきかえ、小泉内閣の閣僚の一員として、小泉・竹中構造改革を推進した中心人物である竹中平蔵慶応大学教授は、いまだに「構造改革」の破綻をけっして認めようとはしません。
竹中氏は「改革をおこなわなくなったために現下の不況がおこった」と言い張り、「マーケットメカニズムにまかせておけばいい社会になる」、「改革をとことんやれば落ち着くところに落ち着く」といまだに主張し続けています。
そして、悪びれずにいまでもメディアに登場して「日本経済がダメになったのは構造改革が不十分だったからだ」と繰り返している始末であります。

このような最近の竹中氏の言行を中谷氏のそれと比べれば、学者として中谷氏と竹中氏のどちらが誠実であるかは歴然としていると私などは考えます。
また、いまだに小泉氏や竹中氏を持ち上げ、彼らの「改革」を持ち上げているマスメディアの現状は退廃的であり、無責任きわまりません。

さて、ながながとこのようなお話をしましたのは、民主党と谷田川さまの「構造改革」にたいするスタンスを確認したいと思っているからであります。

かって小泉内閣が登場したとき、民主党の鳩山代表は「構造改革を小泉さんがやったら民主党は応援します。後ろから背中を押します。途中で倒れても骨を拾ってあげます。だから勇気を持って構造改革をやりなさい」と「構造改革」の熱烈な応援団になることを自ら申し入れておりました。
それいらい長期にわたり民主党は構造改革の急先鋒として、自民党と「構造改革」の推進を競い合ってきたというのがまぎれもない事実であろうかと思います。

貧困と格差のいまだかってない広がりや、「使い捨て」労働の激増による大量の失業者の発生やワーキングプアの増大といった市場原理主義の行き過ぎからくる日本社会の劣化をもたらしてきた弱肉強食の政治の片棒を担いできたのが民主党であります。
また、2009年の民主党大会において決定された運動方針においても、「構造改革」路線を転換するといった明確な記述が見られません。

谷田川さま、おそれながら「格差拡大を招いた小泉構造改革路線の転換をはかる」という谷田川さまの公約を誠実に果たそうとするならば、まず民主党が果たしてきた「構造改革」の応援団としての過去のあり方を真摯に反省し、自己総括をするように小沢執行部に強くせまる必要があると存じます。

中谷一橋大学名誉教授のおこなったように、「構造改革」の応援団となり、アメリカ型の市場原理の導入で日本社会がここまで問題を抱え込むことを予想しえなかった民主党自身の洞察力の欠如を自ら反省すべきだあろうかと存じます。
そして、中谷氏がすべての公職を辞して自己反省の書を出版し、理論の面でも実践の面でも“けじめ”をつけ、学者としての「誠意」を世に示したように、民主党におかれましても、政策の面や政治的な実践の面において、「構造改革」の応援団として果たしてきた自らのあり方を真摯に自己総括していただき、国民の前で自らの誤りを認める勇気を示していただきたいと思います。

そのうえで「構造改革」路線との決別を基本政策の面でも宣言して、国民生活の安定と向上、および国民福祉の増進に直接に責任を負う政党としての「誠意」を示していただきたいのです。

このようにすることではじめて、旧来は自民党の支持者であったり、支持政党なしの無党派であった幅広い有権者・国民が民主党を見直し、民主党中心の政権が実現することへの期待感を膨らますこととなりましょう。

谷田川さま、ぜひとも党内で「構造改革」との決別にむけた党内世論を起こす先頭にたってください。必死になって党内世論を変えてください。
このままでは、きたるべき民主党中心の政権が「亜流小泉政権」となってしまう危惧を抱くのは私一人だけではないと存じます。
「不都合な真実」であっても受け入れる勇気と度量をお示しください。

謹白

民主党千葉県第10区総支部長 谷田川はじめ様、お読みくだされば幸いです。その5(構造改革をめぐって)

謹啓、民主党千葉県第10区総支部長 谷田川はじめ様、西岡三郎です。
私が拝見させていただきました谷田川さまの後援会資料「雄志」には次のような一節がございます。

「小泉元総理は、単にブッシュさんと親しいだけでなく、経済政策もかなり影響を受けたようだ。米国経済を熟知している竹中平蔵氏を指南役にして、構造改革の名の下に次々と規制緩和や市場原理を重視する政策を打ちだしていった。
郵政民営化などはその象徴的な例であるが、果たして国民の生活は豊かになったであろうか。・・・・」

谷田川さまが後援会資料で言及しておられる以上のことは、事実を的確に指摘されたものであります。

小泉政権以降の歴代自公政権のもとで「改革」と称して規制緩和万能、市場原理主義、弱肉強食の経済路線がすすめられ、国民生活はあらゆる分野で破綻と矛盾があらわになり、90年代頃から顕著となった貧困と社会的格差のひろがりにいっそうの拍車がかかりました。
国民の7割以上が自分は中流に属するという“中流意識”が支配的であった、“一億総中流社会”が、1970年代の日本の社会に形成されました。
しかし、高度経済成長路線のもとで形づくられたかっての日本のこのような経済社会システムは、「改革」と称する規制緩和万能、市場原理主義の支配する新自由主義の経済路線によって崩れさってしまったのです。

小泉政権以降の歴代自公政権が「改革」と称して実行したことは第一に社会保障の切り捨てです。
お年寄りの医療費を上げ、サラリーマンの医療費の自己負担を上げ、年金制度は「百年安心」と称して、掛け金の引き上げと受け取る年金の切り下げを強行しました。
介護保険も保険料と利用料が引き上げられ、医療費削減の口実で全国の公立病院の統廃合が推進されました。

また、小泉政権以降の歴代自公政権が「改革」と称しておこなったことの第二は雇用の破壊です。
企業のリストラが政治の応援のもとですすみ、働く人のなかで正社員の比率がどんどん減っていき、パートや契約社員、派遣社員など不安定ですぐ首にすることのできる「使い捨て」労働が社会の隅々まで広がりました。
働く若者の二人に一人は非正規雇用のもとで働いています。今年の3月末には深刻な不況と「契約満了」とにより、40万人の非正規労働者が職を失い、路頭に放り出される事態まで予想されています。

そして、小泉政権以降の歴代自公政権が「改革」と称しておこなったことの第三は中小零細企業つぶしです。
自公政権は不良債権の処理という名目で中小零細企業つぶしを押しすすめました。
一生懸命に銀行に返済しているのに「お宅は赤字経営だから」との理由で中小零細企業のかたがたは不良債権扱いされ、強引な回収のために中小零細企業の債権は債権回収会社に取立てのために次々とまわされました。
このために、毎年4千人前後の中小零細企業の社長さんが自殺へと追い込まれて、中小零細企業の倒産が続発したのであります。

ここまででかなり細かい記述となりましたが、小泉政権以来の「改革」路線がもたらしたものはこのような痛みにつぐ痛みであり、弱肉強食の社会の到来でありました。
ゆえに谷田川さまが後援会資料でおっしゃっておられる次のことは基本的には正論であると思います。

「そこで、私ども民主党も米国の民主党を見習って「変革」を強く訴えていかなくてはならないと思う。・・・・・・・・・・・二つ目は、格差社会を招いた小泉構造改革路線からの転換をはかることだ。この二つの意味(二大政党制の実現と小泉構造改革路線の転換)での「変革」を肝に銘じて行動していきたい。」

この一節は二大政党制の実現を除いては圧倒的多数の世論が共鳴せざるをえない正論であります
ここまでの谷田川さまの主張と政策には正当性があり共感するところが少なくありません。よくおっしゃってくださいました。

しかし、しかしですよ!谷田川さま。ここからがポイントですよ!

2001年に小泉純一郎氏が首相に就任した際に民主党の鳩山代表はおっしゃっています。
「構造改革を小泉さんがやったら、民主党は応援します。後ろから背中を押します。途中で倒れても骨を拾ってあげます。だから勇気を持って構造改革をやりなさい」
この鳩山氏の小泉氏への応援メッセージはまぎれもなく「改革」(構造改革)の推進を小泉氏に求めるものに他ありません。
「改革」をどんどんやれ、途中で小泉政権が倒れたら骨を拾って民主党政権が「改革」を引き継ぎますといっておられるのであります。

そして、民主党が1998年に中期的な党の基本政策を発表しておられますが、そのなかには以下のような二つの項目があります。

「自己責任と自由意思を前提とした市場原理を貫徹することにより、経済構造改革をおこなう。これにより、3%程度の持続可能な経済成長をめざす。」
「規制改革を長期的経済発展の基本と位置づけ、経済的規制は原則廃止する。環境保全や消費者・勤労者保護などのための社会的規制は透明化や明確化をすすめる。」

これらの項目はまぎれもなく市場原理主義と規制緩和万能論を明確にしたものであり、民主党の基本政策がこれらの考え方のうえに作られていることに他なりません。
そして、民主党の執行部が構造改革線と明確に決別を宣言したという事実はいまだに聞いておりません。
2009年の民主党の党大会における運動方針にあっても構造改革路線を転換するかどうかといった根本路線についての記述は見られません

これらのことから推論すれば、小沢民主党のいう「生活が第一」は市場原理と規制緩和万能の考え方の枠のなかでのものにすぎませんし、「生活が第一」は市場原理主義や規制緩廃万能論とけっして両立するものではありません。

「勝ち組・負け組」を当然視し、社会的弱者にたいする攻撃に痛みを感じない。お年よりや子どもの虐待、家庭基盤の崩壊などが深刻化する。濡れ手で粟の錬金術で大もうけしている投資家たちがもてはやされる現象。「労働法制の規制緩和」による働くルールの破壊による過労死や過労自殺の増大と「使い捨て」労働の激増。高齢化や少子化を口実にした増税や社会保障のいっそうの切り捨て。

このようなものが市場原理主義や規制緩廃万能論がもたらす社会の実相であり、「生活が第一」といったやさしい響きとはおよそかけ離れています。
人間がともに支えあう社会のあり方を否定し、弱肉強食の寒々とした社会を作り出していくのが市場原理主義や規制緩廃万能論であり、小泉氏や鳩山氏がその推進を競い合った「改革」の実態であります。

谷田川さまには以上のような事実経過を踏まえ、民主党の執行部にたいして構造改革路線からの明確な決別を宣言するように進言していただきたいと存じます。
そして、党の基本政策や運動方針から市場原理主義や規制緩和万能論を排除したうえで、その再検討をおこなうことをぜひとも強く進言してください.

そのように行動してくださってはじめて谷田川氏の主張と公約が生きてくることになると思われます。
自民党政治に変わるべき根本テーゼは「修正」資本主義であり、公正な資本主義であろうかと思います。
いわば「ルールある経済社会」と言い換えることができるかと存じますし、資本主義がある意味で歴史的な限界にきているという認識がぜひとも必要です。

謹白
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